2007年04月30日(月)

「必ず、わたしの望む事を成し遂げ、私の言い送った事を成功させる。まことに、あなたは喜びをもって出て行き」イザヤ55:11



パウロは、小アジアに宣教しに行こ
うとした際、聖霊によって阻止され、
それでムシヤからビテニヤに北上し
ようとすると、それも止められた。
妨げがあり進めないので、トロアス
に下った時に、幻を見た。それで導
きを確信して、マケドニヤへ向かっ
た。これが思いを遙かに超えて、ヨ
ーロッパ宣教へと拡大して行った。
そもそもこの伝道旅行の当初の目的
は、以前御言葉を伝えた町々を訪ね、
兄弟達がどうしているか見てくる事
だった。それが変更を重ね、膨らん
で行って、まさに異邦人宣教への器
と選ばれたパウロが、ヨーロッパ宣
教の働きへと用いられて行ったのだ。
あなたも今、立てた計画が頓挫して
いるか。妨げがあり先に進めないか。
どの門も閉じられ、にっちもさっち
も行かない状態か。神は別の更に大
きな計画を持っておられる。あなた
の思いと計画、あなた自身の砕きの
時かも知れない。あなた自身とあな
たの計画を、今一度神に明け渡そう。
その時、神からの新たな志とプラン
が臨んで来る。神はあなたと、あな
たの生涯に計画を持たれ、自分を委
ねる者をご自身のために大きく用い
て下さる。「あなたの計画が成りま
すように」と、主に自分を献げよう。
神の望む事が成し遂げられ、あなた
は「喜びを持って」出て行ける。
---------------------
私たちは前進しなければならない。
しかし、どこへ行くのか。思いを
完全に明け渡し、導きを確認しよ
う。途中で立ち止まり、今一度神
様のご計画を見つめ平穏のなかを
喜びをもって歩み出そう。


2007年04月29日(日)

「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています」詩篇119:97

どれだけ御言葉を聞いても、実行する
事がなければ、無意味だ。実行する事
が一番大切であり、そのために御言葉
がある。行いの無い信仰は死んでいる。
ただ聞くだけなら、それは自分を欺いて
いる。しっかり受け止め、実際に実行
しよう。何百の御言葉を聞くより、一つ
の御言葉を実行する事が大切だ。実
行する事によって祝福される。実行
して初めて、自分が変えられて行く。
それは周囲にも栄光を現して行く。
幸いな人は「主のおしえを喜びとし、昼
も夜もその教えを口ずさむ」とあるが、
昼も夜も御言葉を思うこと、反すうする
事、これは「意識して」行う事が必要だ。
意識して実行する事だ。それも繰り返
し繰り返しだ。この意識して御言葉を思う
事が、訓練であり、これを実行し続け
る時、それが身について習慣となる。
逆に言えば、習慣とするためには、意識
して御言葉を思うことが大切だ。最初は
失敗するだろう。思いがすぐにさまよい、
脇道にそれ、御言葉を思い続ける事
ができない。しかし、意識してそれを続
ける時、その訓練により必ず身について
来る。御心に従う者を御霊が助けて下
さる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御言葉が価値観となり、御言葉で思考し、
日々の物事を判断して行けたらどんなに
よいだろう。古い価値観が御言葉に置き
替えられるよう、一心に御言葉を見つめ
て離れないでいよう。


2007年04月28日(土)

「人はそれぞれ、自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」ヤコブ1:14

試みには二種類ある。一つは神から来
るものだ。ご自分の聖さにあずからせ
ようとして与えられる試練だ。これは
痛くて辛いが、必ず実を結ぶ。私達の
頑固で、強情な心が砕かれ、柔和にさ
れて行く。間に合う器に変えられて行
く。信仰の成長のためだ。だから喜べ
と言われる。もう一つは悪魔から来る
試みであり、これは誘惑だ。罪に誘う
ものであり、私達の欲望に餌を投げ、
おびき寄せ、食らいつかせる。最も弱
い箇所に来る。弱い所なので、餌が
来ると、すぐに飛びついてしまう。誘惑
にならない所へは来ない。あなたに来
る誘惑はいつも同じ部分だろう。そこ
があなたの急所だ。よく見張ろう。断
固抵抗し、拒否しなくてはならない。
これは神からのものではない。神は決
して悪に誘惑されない。神からの試
練は受け入れ、忍耐し、悪魔からの
誘惑は拒否する。これを逆にしては
ならない。自らの弱い部分をよく知り、
認め、警戒して祈る事だ。平素から
祈って備えている時、誘惑に気づける。
即、神に助けを求める事ができる。
神は助けて下さる。祈りで備えてい
よう。祈りが力だ。
・・・・・・・・・
誘惑が来た時、即「神様!」と呼ぼう。
自分が出て行くと、必ずやられてしまう。
しょっ中くる誘惑を、自分の弱点を
祈りで見張っていよう。弱さを認め
光のもとに出そう。                         
 


2007年04月27日(金)

「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった」Tサムエル13:13




サウルが王になり、ペリシテと
の戦争になり、サウルの兵士は
3千人、一方ペリシテは戦車3
万、騎兵6千と海辺の砂のよう
に多い民であった。大変な戦力
の差で、民は圧迫され、至る所
に隠れた。民は恐怖で震えてい
た。どう見ても勝ち目など無い。
神頼み状態のところ、祭司も来
ない。ペリシテがいつ攻めてく
るかも知れない中、7日待って
も来ない。敗北は目に見えてい
る。不安と動揺で、民はサウル
を見限って逃げようとしていた。
サウル自身も焦りや不安や恐れ
で一杯だった事だろう。それで
祭司しか献げられない全焼のい
けにえを、自分で献げてしまっ
たのだ。こんな戦いの最中に、
切羽詰まった状況で、1週間も
待ったのだ、遅れる方が悪いで
はないか、別に誰でも良いでは
ないか、サウルは自分で判断し
た。しかし、これは小さな事で
はなかった。王位から退けられ
るほどの失態であった。罪であ
った。私達はどうだろう。この
状況に立てばどうするだろう。
状況が悪化する中で、尚も神を
待ち、神の時を待つのは難しい
事だ。祈っても祈っても状況は
変わらない、答えがない、これ
以上待っても無駄では?しかし、
どんなに悪いように見えても、
神の御心があり、必ず神が事を
され、栄光が現される。自分の
判断で動かず、神の時を待とう。
---------------------
窮地の時に追い詰められたなら
、神様に信頼しつつも自分で策
を労するだろう。御心の内を歩
み、絶対の信頼に立っているた
めには、普段からの神様との密
な交わりの中にいる事が大切だ。


2007年04月26日(木)

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」マタイ21:26


ゼベタイの子達、ヤコブとヨハネの
母が、彼らと共に主にひれ伏して願
った。主が王になった時には、自分
の子達を右大臣と左大臣にして欲し
いと。そしてこの事を聞いた他の10
人は、この二人の兄弟の事で腹を立
てた。結局、同じ思いであり、先を
越された事に怒ったのだ。弟子達の
間では、比較と競争が常にあり、関
心の的は誰が一番かという事だった。
そして全員が思っていた。自分が一
番だと。この自己中心こそが、主を
見えなくさせ、御心を見えなくして
しまう。自分の価値観、自己中心の
フィルターでしか、物事が見えない
ため、神の心がわからない。主がこ
れから十字架にかかると告げられた、
まさに「その時」の出来事なのだ。
何と的はずれな事だろう。しかし、
私達も祈りが答えられない時、自分
の願ったものと違う時、反抗と不満
で一杯だろうか。結局、神すら利用
して、自分の思い通りに生きたいと
いう自分。人より上でありたい、支
配したい、という欲とプライド。こ
れが神の心を見えなくする。主の答
えはどうか。仕える者になりなさい
だ。仕える人は自分を捨てている人
だ。自己中心に死なない限り、人に
仕える事は出来ない。自分を主に明
け渡して、御霊の導きに従おう。神
のお心がわかり、従う者に変えられ
て行く。
-------------------------
一人で主に向かっている時は良くて
も、周囲を見ると優劣の比較のなか
に置かれてしまう。ストレスの原因
はいつもここだ。自分が一番から仕
える者に、との態度なら優劣とは無
縁だ。そのような者に神様が変えて
くださる。


2007年04月25日(水)

「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」Tテモテ1:19



バテシバを見て、姦淫の誘惑が来たダビ
デは「姦淫してはならない」の戒めが来
た事だろう。しかし、「自分はトップだ。
誰も何も言わない。それに誰も見ていな
い」と、もう一つの声も来た。肉に働く
サタンの声だ。その声が勝って、意志を
そちらに向けてしまった。そして、バテ
シバの妊娠を聞き、隠ぺいのための策略
を練り、結局、夫のウリヤも殺してしま
った。自らの良心を押し殺した。私達も
同様だ。良心の声、御霊の声を無視し、
肉とサタンの声に従って行く時、最初は
良心の痛みがあるが、段々痛みが無くな
る。悪くも思えなくなる。恐ろしい状態
に陥って行く。やがて、自分自身を正当
化し始める。外見は成功するかも知れな
い。この世的には地位も名声も得るかも
知れない。しかし、心に平安、安息は全
く無い。神から離れている。真の幸いは、
自分の欲望と願望の実現によるのではな
い。断じてない。神の願いは何か、神は
私に何を望んでおられるのか、その神の
御心を知り、それを行って行くこと、神
と一つになって生きる事にある。そこに
喜びと平安と真の幸せがある。ダビデは
悔い改めた。神に立ち返れた。良心を麻
痺させてしまうなら、信仰の破船に会う。
御霊の声に聞き従おう。御霊の示しが今
あるなら、即、従おう。
・・・・・・・・・・・
信仰に良心は大切で命綱だ。麻痺するなら
御霊の語りかけがもう聞けない。信仰の破
船だ。麻痺する前に、必ず御霊は何度も語
られる。それを故意に無視し続けた結果だ。
悲しい事だ。御霊の愛の語りかけに従おう。


2007年04月24日(火)

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から、来るのであって、光を造られた父から下るのです」ヤコブ1:17

 

             
「だまされないようにしなさい」
悪魔はだます。対象物を、麗し
い、良いものに見せて誘惑する。
エバがエデンの園で、誘惑が来
て、悪魔の言葉を受け入れて行
った時、その禁じられた木は、
食べるに良く、目に麗しく、好
ましく見えた。素晴らしいもの
にしか見えなくなった。惑わし
だ。そうなれば、取って食べる
のは時間の問題だ。悪魔の目的
は私達を神から引き離す事だ。
神から離そうとありとあらゆる
手段を用いてくる。誘惑自体は
罪ではない。主イエスも誘惑を
受けられたが、全く罪は犯され
なかった。それに敗北したなら
罪になる。私達の欲望に働きか
けて来る。欲に引かれ、おびき
寄せられて、誘惑を受ける。あ
なたの一番欲望の強い箇所に要
注意だ。それは悪い事だけでは
ない。酔酒、ギャンブル、妬み、
嘘などはすぐにわかる。しかし、
仕事、趣味、娯楽、愛する人、
自己実現、生きがい・・それらは
一見悪くない。むしろ良い事だ。
しかし、悪魔は巧く誘惑して、
それを偶像にしてしまう。その
時、罪になる。信仰者ならスト
レートな罪は避ける。しかし、
紛らわしい誘惑が来る。あたに
も良いもので誘惑が来ていない
か。それをすると霊的食欲が減
退するか、増進するかが決め手
だ。減退しているなら誘惑が忍
び寄っている。要注意だ。
-----------------
自分の弱い所をよく知っておく
ことだ。誘惑に強いと思っては
いけない。弱い弱い者だ。自分
の恐れている誘惑が来たならす
ぐに「神様!」と叫ぼう。


2007年04月23日(月)

「その人は主の教えを喜びとし、昼も夜も口ずさむ・・水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない」詩篇1:2

見渡す限りの砂漠の中に、川が出て
来る。すると、その川のそばには緑
豊かな木々が生えている、そんな光
景を見る。日照りの中で、厳しい砂
漠の中で、水路のそばの木々は青々
と葉を茂らせている。「水路のそば
に植わった木」だ。どのような厳し
い試練の嵐の中でも、その木は決し
て枯れない。なぜなら水路のそばに
植わっているからだ。水路から絶え
ず水分が回り、葉を瑞々しく茂らせ
て行く。「その葉は枯れない」。木
の問題でなく、どこに植わっている
かの問題だ。私達も水路のそばに植
えられた木だ。常に豊かないのちが
水路から溢れ流れて来る。御言葉に
根ざして、御言葉を喜びとし、絶え
ず口ずさむ。そこから力と喜びが来
て、それによって生かされて行く。
「何をしても栄える」のは、商売繁
盛、無病息災、家内安全といった御
利益ではない。何でも自分の思い通
りになるのではなく、御言葉を喜び
とする人の願いは、神によってきよ
められて行き、神のお心にかなった
願いを願う。それゆえ叶えられる。
人生に神の御心を求めて行くから、
祝福されて行く。結局、人生の土台
を何にするかだ。主のおしえか、自
分のはかりごとか。主に頼るのか、
自分の力に頼るのかだ。   
-------------------
自分の思いが土台となるなら事ある
ごとに渇きが来るだろう。次々に新
しい情報に飲み込まれ右往左往だ。
御言葉に根ざし御霊様の声に耳を傾
けよう。枯れない豊かな歩みができ
る。


2007年04月22日(日)

「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける」イザヤ41:14

ヤコブは極めて狡猾な人間であり、
能力のある人であった。父親イサク
をだまし、兄エサウの長子の権利を
巧みに盗んだ。追われるように家を
出、叔父ラバンの家に寄宿する事に
なる。そこで父親をだました刈り取
りが来て、ラバンにだまされる。し
かしうわ手であり、狡猾な方法で家
畜をどんどん増やし、ラバンの多く
の財産を自分のものにして行く。ど
こまでも悪賢いヤコブだ。こんなヤ
コブであったが、神は大いなる祝福
にあずからせるために、徹底的にヤ
コブを砕かれた。時が来て、神から
先祖の家に帰るよう言われ、ラバン
のもとを去る。エサウが400人と共に
向かっていると聞き、恐怖におのの
いた。ヤボクの渡しで、一人残った
時、御使いが来て格闘し、ヤコブ
のもものつがいがはずされた。今や
ヤコブは何もどうも出来ず、もしエサ
ウの攻撃に会うなら殺されるしかない。
ヤコブは全面的に砕かれて、神に拠
りすがり祝福を受けた。エサウはヤコ
ブのその姿を見て、彼を抱き口づけ
して迎えた。神の前に虫けらとされ、
ヤコブは砕かれたが、しかしその時、
自分で方策を練る必要なく、神が
全責任を取って下さった。
・・・・・・・・・・
一番強靱なもののつがいを神が打って
下さる。今砕かれているなら、神の愛
であり祝福の道だ。一番後ろであれほ
ど怯えていたヤコブが、先頭に立ち会
いに行く。180度変えられた。


2007年04月21日(土)

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか』」ヨハネ5:6


余りに長く悪い状態が続くと、しば
しば諦めてしまうものだ。何度やっ
てもダメだった。もうこれからもダ
メだろう。ダメに違いない。段々と
確信に近いものになって来る。そん
な状態の人に、主は「よくなりたい
か」と聞かれた。「出来るか」では
なく、「そうしたいか」だ。自分自
身がよくなりたいと願わない限り、
問題の解決は無いという事だ。彼は
答えた。自分には、介助者がいない。
いつも他の人が池に入って行って、
癒される。それは介助者がいるから
だ。彼は38年間この思いでいたの
だろう。自分には助けてくれる人が
いない。だからだめなのだ、だから
不幸なのだ。人のせい、環境のせい、
心に思いを溜め込んだ人生だったろ
う。人依存、責任転嫁でしかなかっ
た人生を、主は自分の足で立って歩
む人生に導かれた。私達はどうだろ
う。諦めてしまい、甘んじてしまっ
ている現状があるか。まず願いすら、
主に向ける事に萎えてしまっている。
何度やってもダメだった。気力が失
せて、求めさえも失せてしまってい
る私達に、そんな状態から「よくな
りたいか」と御声をかけておられる。
介助者の問題でなく、あなた自身の
問題だ。あなたはどう応答するだろう。
・・・・・・・・・・

何かに依存し、逃げていたくて、自分
に向き合うのが嫌で、よくなりたくない
のかも知れない。主の愛に触れ、主
に向き合う時、よくなりたいとの願いが
起こされる。


2007年04月20日(金)

「私たちは、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて・・競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」ヘブル12:1

                                         
競走をするのに、邪魔になるも
のは、重荷とまとわりつく罪だ。
ずっしり重い荷があれば走れな
いし、足もとにまとわりつく罪
があれば、前に進む事が出来な
い。信仰人生に様々な重荷があ
る事だろう。ある人々には常に
信仰に反対し、迫害して来る家
族、又、職場で学校であざ笑い、
嫌がらせをしてくる人々かも知
れない。そんな場合は、重荷と
しては捨て去り、それを自分に
与えられたくびきとして、しっ
かり受け取るのだ。その時、そ
の訓練の中で、鍛えられ練られ
必ず成長が与えられる。又、罪
は必ず捨てなければならない。
それは執拗にからみついて来る。
富んだ若い役人は、主のもとに
来ながら、からみつく偶像を捨
てられないで、主のもとを去っ
てしまった。何と悲しい事だろ
う。ダビデは常に異性の誘惑が
まとわりついていた。あなたに
まとわりつく罪は何だろう。常
にからみついて、足を前に踏み
出そうとすると、まとわりつい
て来るものだ。思いあたるもの
があるなら、それをきっぱり捨
て去ろう。まずそれを捨てない
限り、信仰人生、走る事が出来
ない。転んでしまう。罪は、軽
く甘く見ては、命取りとなる。
そのからみつく罪を、捨てられ
るよう、主に助けを求めよう。
--------------------
からみつく罪に悩まされている
だろう。まっすぐに主の御心の
うちを歩めたらどんなに平安で
あるかと。一人で戦ってはいけ
ない。必ず負ける。主に助けを
求めよう。主が側にいてくださ
る。


2007年04月19日(木)

『ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した」』Uサムエル12:13



ダビデは大きな罪を犯してし
まった。姦淫の罪に加え、そ
れを隠ぺいしようと殺人の罪
を犯し、罪に罪を重ねた。更
にその相手は、ダビデに忠誠
を尽くしていた誠実な部下だ
った。もし、そこでダビデが
罪を悔い改めなかったなら、
サウルと同じ末路になってい
ただろう。悔い改めの促しに
も関わらず、それを拒むなら、
神ですらどうにも出来ない。
しかし、ダビデは違った。神
はダビデを立ち返らせるため
に、預言者ナタンを遣わされ
た。ダビデがその気になれば、
王であったのだから、ナタン
だって殺害できたはずだ。ウ
リヤと同じように。もしそう
であれば、その後のダビデは
無かっただろう。ダビデはナ
タンの言葉を受け入れた。ダ
ビデは大罪を犯したが、へり
くだった心があった。その言
葉に聞き、自らの罪を告白し
悔い改めた。その時、罪は全
面的に赦された。私達が間違
っている時、神は警告や助言
のために、人を遣わされる。
あなたにも今、警告や助言が
臨んでいるか。それは人では
なく神からだ。高慢とプライ
ドは警告を受け付けない。し
かし向かう先は滅びだ。ダビ
デのようにへりくだって、耳
に痛い助言を受け入れるなら、
正しい道に戻される。忠告を
受け止めよう。
------------------
神様は、あえて触れて欲しく
ない隠しておきたい所に触れ
られる。耳をふさいでそのま
まにしておくだろうか。心開
いて、警告を受け入れよう。
ダビデのように、サマリヤの
女のように。


2007年04月18日(水)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩篇119:71



苦しみは辛いけれど、それは、あなた
を確実に神に近づけてくれる。振り返
って見て、あなたが一番神に近かった
時はいつか。試練の時、最も苦しかっ
た時ではないか。心の底から、神を求
めた時であった。もし、その苦しみが
無ければ、どこへ向かっていただろう。
高慢が砕かれ、方向違いを示され、心
奪われていた偶像が示され、様々な
間違いが矯正された。自分の内側が照
らし出され、自分の本音を知り、本当
の姿を知った。神に頼らなければや
って行けない事を学ばされた。苦しみ
を通して、間に合う器に、主が造
り変えて下さる。信仰人生、「どうして
こんな事が」という事態が必ず起こる。
しかし、それは神が意図と目的をもって
導かれた所だ。思いの範囲を越えて、
自らには対応不可能な事態こそが訓練と
なり、だからこそ練られる。神が何を教
え、学ばせて下さるのかを祈ろう。必ず
新たに神を知る。苦しみの中には、宝が隠
されている。今、試みの中にいるだろ
うか。真っ暗なトンネルの中で、終わり
が無いように見える。しかし、必ず抜け
る。通って良かったと言える日が来る。
・・・・・・・・・・・・
トンネルの中は真っ暗だ。でも、耐えられ
ない試練は無いし、逃れの道も用意されて
いる。不運でなく偶然でなく、まず試練を
試練として受け入れる事で、神に焦点が合う。


2007年04月17日(火)

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです」詩篇119:9




悩み、問題にある人が、よく「私、
私、私」の状態にあるのが、はた
で見ているとよくわかる。とにか
く自分に強烈に固執していて、そ
の自己中心がトラブルの元である
事が、第三者にはよくわかる。
しかし、自分がその渦中にいると
なかなかわからない。皆は幸せで、
自分は可哀想の自己憐憫、自分に
注意を引くための自己主張、自己
顕示、自分を認めて欲しい、自分
が評価されたい、とにかくすべて
の関心が、内に向いていて、結局
は自分なのだ。「どうせ私の事な
どわかってくれない」これは甚だ
しい自己中心だ。自分に執着して
いる限り、変わりようがない。神
でも、人でもなく、徹頭徹尾自分
の事だけだ。これは肉の性質だ。
自分の願望、自分の欲望、自分を
喜ばせる事、生涯それだけだ。主
はその中から贖い出して下さった。
自己中心にしか生きる事のできな
い者に、新しい性質が与えられた。
神に従おうとする心だ。自分の思
いを置いて、御言葉に従ってみよ
う。御言葉を、御霊の導きの方を
選択するのだ。これにより変えら
れて行く。ここに救いがある。新
しい性質が成長して行く。瞬間に、
選択、選択だ。御言葉で判断し、
御言葉を行って行く時、自己中心
な者が変えられて行く。これは奇
跡だ。 
-------------------
自分の事だけしか考えられなけれ
ば、不満だらけの毎日だろう。自
分の感情に翻弄されているなら、
それは悲劇だ。古い思考パターン
を御言葉に置き換えてみよう。変
えられて行く。


2007年04月16日(月)

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおもほめたたえる。私の救い、私の神を」詩篇42:11

   


私達は、この世の価値観が根深く
あるので、ハピーな事は善で、不
幸は悪との思いがある。だから、
何か良くない事が起こると、なぜ
?なぜ?とパニックになり怪しむ。
悪だからだ。この世の御利益宗教
のように、信仰すれば、人生良い
ことづくめのはずだとの思いがな
いか。しかし、聖書はそんな事は
全く言っていない。信仰人生、試
練があると繰り返し告げている。
おとぎ話のように、信仰するなら、
めでたし、めでたしで終わり、天
国なのではない。様々な試練が次
々に臨む。頑固な私達が造り変え
られるためだ。試練の意味は「今
はわからないが、後でわかる」事
は多々あるが、しかし、天国へ行
くまでわからない事もある。それ
も踏まえていよう。1+1=2で
機械的にすべて割り切れる世界で
はない。ヨブのように、時として
理由のわからない不幸が臨む事が
ある。理由のわからない中で、尚
も神の愛、真実、ご計画の最善を
信じて、神を待ち望む事、これを
信頼というのではないだろうか。
忍耐が養われ、このような中で初
めて、神との深い関係が培われて
行く。詩篇記者のように、わから
ない中とにかく神の前を離れず、
神に向き続けよう。そうする事が
御心に適った事だ。
-----------------
試練があっても、私達は恵みを数
える事が出来る。あの時も、この
時も神様は最善を成して下さり、
感謝で賛美で終わったではないか
と。私たちにわからなくても神様
の御意志が成されている。


2007年04月15日(日)

「主よ。いつまででしょうか。あなたはいつまでも身をお隠しになるのでしょうか」詩篇89:46     

                
詩篇にしばしば出て来る。「帰って来て
下さい。主よ。いつまでこのようなので
すか」神が感じられない体験だ。祈りが
聞かれているように感じない。神が遙か
遠い。神の不在感だ。信仰生活の中で経
験する。これには二つの場合がある。一
つは罪を犯した時で、罪は神との間を遮
断する。罪は神との親しい交わりを奪う。
これは必ず悔い改める必要がある。その
時に平安が戻る。しかし、私達の側に問
題が無いのに、不在感を経験する時があ
る。それは罪とは関係なく、一段階成長
のための神の取り扱いだ。しばしば動揺し、
混乱する。しかし、成長のためのテストだ。
何一つ感じられなくても、神に信頼し、神
を愛し、神に従う事の訓練だ。神が喜ば
れるのは信仰だ。感じる事でなく信じる事
だ。今、罪の覚えが無いのに神が遠く感じ
られるだろうか。その中で神を信じる事を
求めておられる。あなたが感じようが感じま
いが、神は共におられる。決して離れる事
なく、あなたの人生に深く関与しておられる。
この訓練の結果、感情に関係なく、どんな
時も神を信頼して歩むようになる。そして、
その信頼が、何か事が起こった時に「なぜ?
なぜ?」でなく「これにより神は何を教え
ておられるのか」に。視点と態度が変えら
れて行く。  
・・・・・・・・・・・・
暖かい喜びや、幸福感、潤いをいつも
「感じて」いたいものだ。しかし、信仰とは
何も見えず感じない中で信じて行く事だ。
見えたなら信仰でない。時に「感じ」を
取り去られ、全く何も見えない中で信じる
ようにされる。


2007年04月14日(土)

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」ローマ8:4

「肉の思いは神に対して反抗するもの」と
はっきり御言葉に言われているように、
それは律法に服従しないし、できない。
神の言葉を聞くと敵対し、反発する心が
私達の内にあるのだ。だから、神の言葉
を受け入れない、受け入れたくない心が働く。
肉とはそういうものだ。救われた私達には
御霊の内住がある。それゆえ御霊と肉、二
つの生き方が内にある。これが葛藤する。
どちらかに従い、それは必ず結実する。あ
る時は朝から気分良く聖書を読み祈りで始
める。親切で良い人だ。しかし、何か事が
起きると、怒り、敵対感情むき出しになる。
別人に思うほどに異なる。肉によって歩む
私達はハチャメチャだ。例えば人と問題が
生じた時、御霊は「赦せ」と言われる。し
かし、肉は言う「言い返せ。スッとするぞ。
図に乗らせるな。ピシッ!と言った方が今
後のためだ」そして肉に従うと、相手にも
周囲にも害毒を流し、証しはぶち壊しにな
り、平安も失せ、何の良い事もない。経験
あるだろう。常に二つの性質が葛藤してい
る。自分に信仰生活は出来ない事を認めて、
自らを明け渡し、御霊に従って歩むことだ。
すると、御霊の助けにより、肉には出来な
かった事が、不思議にできるようにされる。
御霊の力だ。「御霊に従って歩む中に律法の
要求が全うされる」からだ。
・・・・・・・・・・・・・
自分の力では何一つ出来ない。仮に外側出来て
も内実が何も無い。しかし自分の無力をとことん
知り、自分に失望し絶望した時に、神のみわざ
と愛を経験する。何一つ要求しておられない。
「出来ません。助けて」だけを求めておられる。


2007年04月13日(金)

「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」詩篇106:15




私達は、求めることにおいて、
注意しなければならない。イ
スラエルの人々は激しい欲望
にかられて、わがままに神に
求めた。すると、神はその願
うものを与えられたのだ。あ
なたが、どうでもこうでも欲
しいと言い張るなら、時とし
て神は与えられる。しかし、
魂はやせ衰える。激しい欲望
にかられて求めて、手には入
れたが、心は決して満たされ
る事がないのだ。返って心虚
しくなる。それほど欲しいも
のを得たのに、心は平安無く、
空虚なのだ。時に、神は私た
ちに学びを得させ、教訓を与
えるために、私達によくない
ものであっても、どうしても
言い張るなら与えられること
がある。わがままにでなく、
神の御心にかなったものを求
めるのが一番だ。自分の欲望
ではなく、神の心にかなった
ものが、私達にとっても最善
だから。幾ら手に入れても決
して心は満たされず、更に、
心がやせ衰えるのは辛いこと
だ。私達の求めを、神のお心
に照らして、神の喜ばれるも
のか、神の栄光が現れるもの
か、よく吟味してみよう。自
分の肉のわがままな欲望では
ないか、自分の栄光のための
ものではないか。
-----------------
しかし、みこころがなります
ように・・との態度を忘れぬ
ように。みこころが最善。思
いは正直に御前に打ち広げて、
でも、みこころがなりますよ
うにと祈るなかで、私達は
砕かれて行く。


2007年04月12日(木)

『悪魔は・・言った「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい・・と書いてありますから」』マタイ4:4



最初の誘惑で、主は自分の思いと
力ではなく、神の言葉によって生
きるという事で立ち向かわれた。
すると、次はサタンもそれに乗っ
取って攻めて来た。「では、神殿
の頂から下に身を投げても、神が
御使いを遣わし支えて下さると書
いてあるではないか」と。御言葉
を自分に都合良く勝手に解釈する
誘惑だ。これに対しても、主は、
同じく御言葉を用い「神を試みて
はならない」と退けられた。詩篇
91:11,12と比較すると「
すべての道で」が抜けている。神
の御旨に従い、御心の中にいるな
ら守られるとの意味だ。わがまま
な自分勝手な事をして守られる保
障はない。サタンは聖書を読む時
に、私達を誘惑して、都合の良い
解釈をさせようとする。つまり、
御言葉を使って、自分の思いを正
当化させようとするのだ。それが
御言葉なので気づかない。実は神
の御心でなく自分の思いだ。サタ
ンの罠だ。よく気をつけなければ、
自分の思いが強いと、自分の思い
がフィルターとなり、御言葉を読
み込んでしまう。神の御声と勘違
いする。サタンの惑わしだ。ここ
にも悪魔が働いている事をわきま
え、自分の思いを神に明け渡す事
だ。右でも左でも、白でも黒でも、
御心に従いますの態度に立つ時、
正しく導かれる。サタンに足場を
与えない。
----------------
自分の思いが強すぎて、目の前の
現実に不満があるなら、いつしか
サタンと会話して行っている。
御言葉に立つ時、心はしっかり守
られる。私たちは弱い。それを今
日も覚えて歩もう。


2007年04月11日(水)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」マタイ5:3




「幸い」に二つあって、一つは独
立した、周囲に全く左右されない
ということだ。すべては上から、
神から供給されるので、回りに関
係無く、しっかり独立した自立し
た歩みができることだ。心の状態
で表すと、泉から湧き上がるよう
に、内なる喜びがあり、それは外
部に影響されない喜びだ。もう一
つの幸せは、外部からの刺激が必
要で、何かの要因がなければ幸せ
が感じられない。回りの状況によ
り常に左右され、アップダウンす
る。自分にとってラッキーな、ハ
ピーな出来事があれば幸せを感じ
るが、そうでなければ喜びは無い。
それは人からの評価や、人からの
称賛、人が自分をどう思っている
か、常に人の目が気になる。しか
し、神にある幸せは、人がどう思
おうと、人の評価がどうであろう
と、自分自身は十分幸せなので、
人は関係がない。神にあって、自
立して生きて行ける。あなたはど
ちらの幸せを生きているのだろう。
環境に、人に依存した幸せか、そ
れとも神から来る幸せか。有形無
形、神以外のものに依存して生き
ている時、それは偶像となり、神
との間を妨げる。あなたは何に依
存しているのだろう。何から幸せ
を得ているだろう。御前に静まっ
て、御霊に心を探って頂こう。 
---------------------
人は依存しているものの奴隷とな
る。何に支配されているだろうか。
周りに左右される事なく、みこと
ばの約束に立っていよう。幸いは
自分でも人からでもない神様から
来る。


2007年04月10日(火)

「競争は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく・・すべての人が時と機会に出会うからだ」伝道9:11




成功のためには、どうしても必
要なものがある。それは「時と
機会」だ。どんなに頑張っても
必ず成功するとは限らない。時
と機会が必要だ。競走は足が早
ければ必ず勝つというわけでは
ない。更に早い人がいるかも知
れない、転ぶかも知れない。努
力したからといって必ず出世す
るわけでもない。横からコネが
入るかも知れない。戦いも必ず
強い人が勝つわけではない。ス
ポーツも能力があるから、必ず
優勝するわけではない。能力と
共に様々な要因がからまり合う。
そこには「時と機会」が不可欠
だ。そして、これを握っておら
れるのが神だ。すべての事が寸
分違わず神の計画のもとにある。
ゆえに主に従って歩む歩みが祝
福の基であり秘訣だ。ルツは神
に従い、ナオミと人生を共にす
る決心をした。モアブからナオ
ミと共にベツレヘムに戻ったの
が、丁度大麦の刈り入れの時だ
った。糧のために落ち穂拾いを
始めた場所が、丁度ボアズの畑
だった。又、丁度その時、ボア
ズがやって来た。ルツは神に従
おうと決心した時に、すべて神
の計画の中で、神の支配の中に
ある「時と機会」に遭遇、ボア
ズと巡り会った。神に委ねて歩
む時に、神は私達にもピッタリ
の「時と機会」を備えていて下
さる。
----------------
神様が与えて下さる「時と機会」
は、何と美しいのだろう。人の思
いをはるかに超えた神の備えが確
かにある。一つ一つの神様の取り
扱いに感謝して、私たちはただ、
ひれ伏すばかりだ。


2007年04月09日(月)

『ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った』ユハネ2:3

  

当時の結婚式に、ぶどう酒は必
需品であり、欠く事の出来ない
ものであった。盛大に振る舞わ
れ、人々はこの時には、ぶどう
酒を大いに楽しみ喜びを分かち
合った。そのぶどう酒が無くな
るとは、あってはならぬ事であ
り、結婚式が、ぶち壊しになっ
てしまう事態であった。新郎新
婦の面目まるつぶれだ。まさに
絵に描いたような幸せの絶頂の
時に、突然の不幸が襲う。私達
の人生も同様だ。幸せのさなか
に、思いがけない苦しみが起こ
り、悲しみが襲う。病気や別離、
失業、倒産、家庭の崩壊、喜び
と楽しみの源であったものを突
然失ってしまう。喜びと楽しみ
をもたらす、ぶどう酒が無くな
ってしまうのだ。大切な、かけ
がえのないものを失い、喜びか
ら悲しみのどん底に突き落とさ
れる。とても生きて行けないと
思う。しかし、主はそのところ
で、奇跡をされ、水をぶどう酒
に変えられた。それも更に上質
のぶどう酒にだ。私達が失った
ものに、更にまさる良きものを
与えて下さるということだ。あ
なたも今、ぶどう酒が無くなっ
ただろうか。主に向かって言お
う「ぶどう酒がありません」。
主は、あなたに喜びと希望を与
える、更に上質のぶどう酒を下
さる。そして、私達の人生を味
気ない水から、潤い豊かな喜び
に満ちたぶどう酒に造り変えて
下さる。
------------
落胆の時、主に叫ぶことが出来
るのは、なんと幸いなことだろ
う。それなのにまず落ち込み、
自力で動き、人に向かって叫ん
ではないだろうか。辛い気持ち
のままで主と語ろう。 


2007年04月08日(日)

「いのちを救おうと思う者はそれを失い、私と福音のためにいのちを失う者はそれを救うのです」マルコ8:35



アダムとエバは、神に頼りきって、喜びの
交わりの中で全き平安だった。罪を犯し
た時、霊が死んだ。神との交わりが断たれ、
自己意識に目覚め、裸である事を知っ
た。しかし、恥のため、互いに自分を隠し、
神からも隠れる事になった。心に闇を持
つようになる。そして何の不安もなく、神
に頼っていたのが、自分で生きて行かね
ばならなくなった。自分が神となり、自分
の判断、知恵、力を駆使して生きる事
となった。罪を選んだゆえ、すべてが自分
の肩にかかって来たのだ。自分が王であ
り、自分の思い通りに生きて行く。動
機はどこまでも自分の栄光のためだ。こ
れが罪の結果であり、私達の姿だ。主は
ここから救い出し、解放するために死んで
下さった。「自分を捨て、自分の十字架
を負い、ついて来なさい」自分の思い、
方法、自分の栄光を捨てて行く時に、
自由にされ、キリストのいのちを見い出
して行く。どうあがいても、自分のために
しか生きられない者が、神のために生き
る者と変えられる。奇跡だ。この時に、
心の奥底から生ける水の川が流れ出る
事を経験する。聖霊の喜びを知る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自我はどこまでも死にたくない。自分の
徹底した破れ果てた惨めさなど認めたく
ない。認められない。だから愛がわから
ない。十字架の愛が真にわかるのは自分
に絶望した時だ。だから恵みだ。
 


2007年04月07日(土)

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30

自分がないがしろにされたり、無視
された時、自分の思い通りにならな
い時、心に何が湧き上がるだろう。
自分の場所を、地位を、人に明け渡
さなければならない時、心はどうだ
ろう。ある青年はクラブのリーダー
の立場が、別の人に移った時に、自
分の罪の姿がはっきり示された。そ
の人へ皆の関心が移って行った時、
醜い妬みで心が一杯になったと。自
分が崇められたいのか、主が崇めら
れる事を喜ぶのか、私達は様々な出
来事で試される。王の王、主の主で
あられたキリストは、すべての権威、
栄光を持っておられた。しかし「自
分を卑しくし、死にまで従い、実に
十字架の死にまでも従われ」、ご自
分を捨てられた。主の似姿に変えら
れるために、自我は砕かれ、高慢や
プライドは削られる。肉には耐え難
い事だ。しかし、主が大きくなられ
るには、自我は衰えて行かねばなら
ない。それが成長だ。プライドが傷
つく時、自分が盛んになり、自己顕
示、自己主張、自己実現、自己保存、
自分、自分・・になっている。身辺
の一つ一つの出来事はあなたを衰え
させるためだ。「感謝します」と受
け取って行く時、私達の内で、あの
方は盛んになられて行く。
・・・・・・・・・・  
目の前に、痛い事態があるなら、私
が衰えるためだ。視点をそこに。自
我は拒み、痛くて血が流れるが、あ
の方は私の内で盛んになられる。ま
すます自由にされ喜びが増して行く。


2007年04月06日(金)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」イザヤ30:15



          
「彼らははかりごとをめぐ
らすが、わたしによらず、
同盟を結ぶが、わたしの霊
によらず」アッシリヤと対
抗するために、ヒゼキヤは
エジプトと同盟を結んだ。
神に頼らないで、エジプト
を頼った。その軍事力を頼
みとした。私達もどうだろ
う。困難な状況に陥ると、
不安で不安でたまらず、い
ても立ってもいられず、恐
怖に襲われ飲み込まれてし
まう。経験あるだろうか。
心を落ち着けようとしても、
心が立ち騒いでしまい、心
はちぢに乱れ、壊れそうに
なる。そして、目に見えな
い神になど頼れず、目に見
える人に助けを求めて頼っ
てしまう。なぜ神に頼れな
いのか。心が立ち騒いでし
まっていて、祈っても、尚
かつ不安なのだ。又、サタ
ンの惑わしの声の方に聞い
てしまい、心を奪われてし
まっている。サタンは、不
安と恐れをどんどん煽り立
てる。その声を受け入れて
行ってしまうので、神の御
声が聞こえなくなる。今、
あなたはこの状態だろうか。
目の前に不安な状況が横た
わっているか。神に焦点を
当て、神の御言葉にとどま
ろう。「静かに・落ち着い
て・信頼」エジプトではな
く、軍事力ではなく、静か
に神に信頼しよう。そうす
れば「救われ・力を得る」。
----------------------
目に見えるものに感情は揺
れ動くが落ち着いて信頼す
れば力を下さる方を知って
いるとは、何という幸いか。
うろたえず、必ず益に導い
て下さる方に祈ろう。


2007年04月04日(水)

「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」ヨハネ10:4



「羊はその声を聞き分け」とあるよう
に、羊は良い羊飼いの声を聞き分けて
ついて行くのであるが、しばしば惑わ
す違う声も聞こえて来る。羊飼いの声
を妨害する様々な声だ。サタンの声や、
人の声や、自分の内の欲望から湧き上
がる声だ。それらは紛らわしくて、時
々混乱し、間違えそうになる。が、よ
く耳を澄ませるとわかる。サタンや欲
望の声は暗く、狡猾で、心が重苦しく
なり、沈み落ち込んで行く。羊飼いの
声は平安で、明るく、希望があり心が
満ちて来る。しかしながら、内側から
湧き出る自我からの声は強烈であり、
羊飼いの声をさえぎってしまう。その
自我を光の中にはっきりと出す事だ。
それが勝利の秘訣だ。自己中心、自分
の賞賛、高慢、妬み、虚栄、貪欲、名
誉欲、プライド、様々な肉欲だ。暗闇
の中の自我を聖霊の光の中へ、明るみ
に出す時、暗闇は光となる。自分では
っきり一つ一つを「認める」事だ。そ
の時、変えられて行く。今日も様々な
声が混線する。どの声に聞いて行って
るのだろう。その中に一つ良き羊飼い
の御声がある。愛の御声だ。心の底に
平安を与える御声だ。その声について
行こう。
・・・・・・・・・・
罪の指摘も主ははっきりと一点を指し
示される。だがサタンは漠然とした罪
意識で暗く重く沈ませる。不安、暗さ、
恐れ、重苦しく沈み込むむ思いは、神
からのものではない。





2007年04月03日(火)

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」Tペテロ5:5




何か物事がぎくしゃくする時、
平安が無い時、イライラして、
心が荒れている時、それは神
の力強い御手の下から出て、
自分の力と自分の思いで歩ん
でいる。高慢になってしまっ
ている。自分の思い通りに進
もうとし、そうならないので、
あちこちにぶつかる。気づか
されて神の御前にへりくだる
時、心に平安が戻る。日常生
活でよく経験することだろう。
水が低い方、低い方へ流れる
ように、神の恵みはへりくだ
る人に溢れるばかりに流れて
行く。高ぶった途端に恵みが
ストップする。決して水は高
い方へは流れない。高ぶりに
気づく度に、悔い改めへりく
だる事だ。山歩きに原則があ
る。それは山で道に迷ったな
ら、迷った地点にまで引き返
す事だ。なかなかそれが出来
ない。何とかなると思い、又、
引き返すのは面倒と、進んで
行き遭難し、死に至ってしま
う。霊的生活も同じだ。その
まま行かないで必ずひき返し
て、へりくだる事だ。へりく
だりは、肉が一番嫌う事、し
たく無い事だ。それは又、神
と人への謝罪であり、「ごめ
んなさい」だ。プライドはそ
の一点だけは何としても避け
たい。それが免除されるなら
どんな事でもする。しかし、
神が求められるのがその一点
だ。今、へりくだる事を示さ
れているだろうか。神と人の
前にへりくだろう。溢れる恵
みがあなたをおおう。
----------------------
恵みを妨げるものが高慢なら
恵みへの唯一の道が謙遜だ。
自分の思いで歩む時、すぐに
自分を誇りたい。気付いた時
は素直に悔い改め、はじめの
思いに返ろう。


2007年04月02日(月)

「彼はハンナを愛していたが、主が彼女の胎を閉じておられたからである」Tサムエル1:5



ハンナは非常な苦しみの中にいた。
子供が与えられない苦しみ。当時
は迷信があり、不妊は神の祝福が
無い事と思われていた。人々から
そういう目で見られた。それに加え、
ペニンナの陰湿で執拗ないじめがあ
り、極度の圧迫状態の真っ暗闇な苦
悩の中で「なぜこの事態が?」「な
ぜ自分に?」と必死に神に問うて行
く中で、状況から目が離れ、神に焦
点が向いて行った。そして「今の時
に、この場に、この状況に」自分を
置かれている神を見い出した。神の
ご計画と目的を認識した。胎を閉じ
られたのは神であり、ペニンナから
のいじめも御心の内であった。苦悩
の中で神にまっすぐに向き合い、神
の心を悟った。神は祈りの器として
ハンナを選び、用いられたのだ。当
時、人々は放縦に歩んでいた。社会
は腐敗し、正義はなく、神から離れ、
堕落し、祭司はおらず、神殿で不品
行が行われていた。神は、民を神に
立ち返らせる、霊的指導者を起こそ
うとされた。そのサムエルを、祈り
によって生み出す事を計画された。
ハンナはそのために器として用いら
れたのだ。あなたも、今、何もかも
が閉じられているか。今の状況の中
で、あなたへの神の計画がある。神
に焦点を合わせ、神の心を悟れるよ
うに祈ろう。
--------------------
なぜだろうと思う事ばかりで思い通
りにならない時、やっと神様に尋ね、
信仰を働かせるのではないだろうか。
神様は愛して下さっている。御言葉
を聞き、神様の視点から今を見て歩
めるなら平安に守られる。


2007年04月01日(日)

『神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか」』創世記3:9    

                           
アダムとエバが、善悪の知識の木の
実を食べた時、罪が入った。彼らが
主の声を聞いた時に、以前あれほ
ど慕わしい麗しい御声だったのに、
恐れて避け隠れた。主は、その時
に「あなたは、どこにいるのか」と問
われた。人は心にとがめがある時、
神を避けて隠れる。善悪の知識が
入ったので、罪を犯したゆえ、神に
顔向け出来ない事を知った。私達も
経験する。余りにも自分はダメで
失敗だらけで、罪ばかり犯し、神に
近づけなくなる。距離があるのだ。
どうにもできず近づけない私達に、
なぜ隠れているのか、なぜ失敗が
いけないのかと問うて下さっている。
神は「あわれみで胸が熱くなってい
る」お方だ。十字架に神の痛いば
かりの愛と完全な赦しがはっきりと
現されている。この私のために死ん
で下さったお方がいる、ここに立つ時、
自分が良い時も悪い時も、どんな
中でも立てる。「あなたはどこに
いるのか」自分を見て落ち込んで
いるか。十字架の愛と赦しに立ち
返ろう。全面的に受け入れられ、
愛され赦されている。
・・・・・・・・・・
ダメなままでよい。おるべき場所は
今日も十字架のもとだ。愛と赦しが
溢れ流れて出ている。「全き愛は恐れ
を締め出す」恐れを取り除くのは愛だ。
身に浴して受け取ろう。
 


2007年04月05日(木)

「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀」詩篇12:6




「人は互いにうそを話し、へ
つらいのくちびると、二心で
話します」言葉は人を生かし
も、殺しもする。両刃の剣だ。
人を励まし、力づけ、建て上
げて行く。が、反面、人を深
く傷つけ、信頼を壊し、人間
関係を破壊して行く。人の言
葉には、虚栄、悪意、欲望、
傲慢、嫉妬、自己中心が混じ
り合っている。それゆえ互い
に傷つけ合う。平然と嘘を言
い、その場を取り繕い、相手
を持ち上げ、へつらい、心地
良くさせる。しかし、本心で
は見下していて、口先だけの
調子の良い偽りの言葉を平気
で発する。まっすぐに生きよ
うとする人は、それらに深く
傷つく。人の言葉は何と邪悪
なものに彩られている事だろ
う。しかし、主のみことばに
は混じりけがない。不純物が
いっさい無い。純化された銀
だ。神の言葉は純粋であり、
真実であり、正義であり、誠
実であり、愛だ。どこまでも
信頼できる言葉だ。悪者は「
われらはこの舌で勝つことが
できる」と言うが、主の御言
葉は両刃の剣だ。主の口から
出る真理のみの言葉は、うそ
とへつらいの唇を打ち砕く。
混じりけのない言葉を持つ私
達は、常に主の前に心砕かれ、
内側が聖霊の支配を受け、御
言葉にふさわしく、真実を語
る者とされたい。
-------------------
口先でへりくだっていても心
にあるものは必ずあらわにな
る。みことばに心照らされ、
自分の心の内にあるものを識
別し、語るべき言葉だけを口
から出そう。