2007年05月31日(木)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」ヤコブ1:14



試練と誘惑の違いは何だろう。信
仰の試練は金よりも尊くて、主の
現れの時に、称賛と光栄と栄誉に
至る。又、忍耐が生じ、忍耐を働
かせる事により成長を遂げるから、
試練を喜べと言われる。キリスト
のかたちへと変えられるために、
霊的成長のために、神が送られる
ものだ。試練が無ければ成長はな
い。誘惑はサタンが私達を神から
離そうと向けて来るものだ。しか
し、私達の内側にサタンに負けて
しまう要因がある。心にある欲望
がサタンの餌に引っかかってしま
うのだ。内に原因があるため、や
やこしい。特に強い欲望があると、
餌に食らいついて行ってしまう。
餌を取り込んで罪を犯してしまう。
あなたの一番欲しいものが、目の
前にぶら下がって来たらどうだろ
う。要注意、それがサタンの誘惑
だ。それもその人ピッタリに来る
から始末が悪い。プライドの高い
人はプライドに忍び寄る。虚栄心
の強い人は虚栄心に、貪欲、名誉
心、嫉妬心に・・餌が来る。自分の
欲望に誘惑され罪を犯すのだから、
自分の責任だ。それゆえ自らの急
所を知る事は大切だ。弱さを認め
る事だ。神の助けが必要であり、
拠り頼まなければ罪を犯してしま
う事を自覚する事だ。急所を見張
る事ができ、祈りで防備できる。
誘惑自体は罪ではない。罪を犯す
事から守られる。
------------------
自分の弱い所をはっきり認めよう。
何に心ひかれて行くのか。知らな
い振りして、肉のおもむくままに
してはいないか。警戒していなけ
れば同じ所にいつも誘惑は来る。
主に明け渡し、助けを求めよう。


2007年05月30日(水)

「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです」ヤコブ3:16   

               
ある人が、親友が周囲から賞められ
たり、良い結果を出したりすると、
心にザラッとしたものを感じる事に
気づいていた。しかし、普段は全く
気にとめないものだった。ある日、
特にその思いが強くあり、平安が無
く、帰宅後すぐ、デボーションの時
を持った。主に心をありのまま打ち
明け、御前に静まった。主に心をく
まなく探ってもらうと、心の奥に、
友人に対する妬みがある事を示され
た。それはずっと以前からあったの
だ。薄々は感じていたが、決して認
めたくなくて、ふたをして、考える
事も触れる事もせず、心に押し込め
たものだった。しかし、はっきりと
した妬みであった。心から主の御前
にその罪を悔い改めた時、赦された。
心がすっきりし平安になり、喜びが
来て癒しを経験した。何か心にざら
つきを感じる時、見えない心の奥底
に隠されたものがある。心の底には
厳然とあるので、見え隠れして、事
あるごとに出て来る。あなたにも気
づく感情があるだろうか。争いや問
題が引き起こされて、それが表面化
してしまう事もある。心の奥にある
嫉妬や敵対心、憎しみは、必ず態度
や反応、行動に表れる。認めたくな
くて、薄々気づいているものがあれ
ば、はっきり御霊に照らし出される
よう祈ろう。そして認めて、悔い改
める時に、赦しと平安、安堵を経験
する。
・・・・・・・・・・・
普段は出ないが、何かある時に決ま
って出て来る反応、その感情や態度
に向き合おう。薄々感じているから、
根にあるという事だ。きちんと認め
て行く時、自由にして下さる。


2007年05月29日(火)

『イエスは・・「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた・・そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった』ルカ5:4



夜中働き続けて、朝を迎えた。一
匹の獲物もなく、徒労に終わった
ペテロは心身共に疲れ果てて、ヘ
トヘトだっただろう。網を洗い、
片づけに入っていたペテロが、も
う一度漁をせよと言われた時、ど
う思ったのだろう。夜の間中働い
たのだ。もう面倒臭く、しんどい
作業だったに違いない。早く家に
帰り、眠りたかったろう。この道
のプロのベテラン漁師である自分
がしてダメだったのに、素人のあ
なたに何がわかると思っただろう
か。「でもお言葉通り」網を下ろ
した。様々な思いがあったろうが、
主の言葉ゆえ従った。ここに一つ
の大きな違いがある。外側、全く
同じ事=漁をするが、今度は主の
言葉が動機だ。自分の思いゆえの
行動でなく、主の言葉ゆえだ。自
分から出た事でなく主から出た事
だ。あなたにも同じ事をもう一度
せよと、言っておられるだろうか。
以前失敗した、何度やってもダメ
だった、今度もダメだろう・・しか
し、その同じ事を、今度は主に従
うゆえに、もう一度試みよと。今
度は、主と共に、主に導かれてそ
の同じ事態に当たるのだ。やって
いる事は同じだが、動機が違う。
主の働きを、わざを見る。祝福が
備えられている。あなたにも御声
をかけられているだろうか。  
----------------------
同じ事をしているようでも、祈り
導かれてやっているなら、主が先
立って下さっていること覚え、ゆ
るがず立っておれる。御霊に導か
れるよう、まず祈ろう。


2007年05月28日(月)

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」イザヤ53:5

 

私達の心には数々の傷がある。人か
ら傷つけられた、忘れられない大き
な痛みがあり、その相手への恨みや
憎しみがある。赦せないのだ。それ
は怨念となり、感情的なしこりとな
り、引きずってしまう。救われては
いるが、人を赦せない事に対して、
恨みつらみに対して、それでまた自
分を責めるので、苦しみが二重にな
ってしまう。又、自分には全然傷な
ど無いと言う人もいるが、ふたをし
ているだけで、見ようと、感じよう
としないだけで、実は様々な傷が心
にはある。その傷に触れる状況に遭
遇すると、自分でも心が平静でおれ
なる。突然、反応してしまうものだ。
心がざらついたり、イラついたり、
ムッとしたり、怒りが出て来たり、
不安になったり、だ。主はその傷を
癒すために来て下さり、十字架の打
ち傷によってその傷を癒して下さっ
た。そのために、自分と向き合い、
正直になる事だ。それを認めるなら、
余りにも惨めでプライドが傷つくの
で、傷ついていない振りをする。大
丈夫な振りをし、ふたをしてしまう。
いつまでもその傷はそのままで、事
あるごとにうずく。傷を認識し、自
分が傷ついている事を認める事だ。
そして、それをすべて主にもって行
くのだ。傷は十字架で癒されていて、
すでに新しくされている事実を実感
する。真の平安を味わう。
--------------------
自分は何も悪いことはしていないの
にと、悶々とくすぶる、うずきがな
いだろうか。確かに傷ついているの
だ。主に持って行こう。誰一人理解
してくれなくても、主は知っていて
下さる。主がすでに耐えて忍んで下
さった打ち傷で、癒される。


2007年05月27日(日)

『ですから聖霊が言われるとおりです「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない」』ヘブル3:7

               
聖霊なる神は語られる。あなたに御声をか
けて下さる。あなたはその声を知っている
だろう。心に確かに聞こえて来る。その御
声に従うことはいのちだ。ある人が、日曜
に礼拝に行かなければと思いつつ、毎週ぐ
ずぐずして行けないでいた。どっちつかず
なまま、心が定まらず、その時が過ぎて、
毎週タイミングを逃してしまうのだ。ある
日、はっきりと自分の思いではない、聖霊
なる神の御声を聞いた。御霊に、礼拝に行
くよう促された。拒まず、その御声に従っ
た。すると、その日から1日も礼拝を休む
事がなかった。御霊の御声に従う事は厳粛
だ。ある人は御霊からバプテスマの決心を
促されているのがわかった。自分もそうし
たいと思った。しかし、ぐずぐずして促し
に応じなかった。すると、御声が消えてし
まい、その強い思いも無くなってしまった。
再び御声を聞いたのは1年後だった。その
時にはきっぱりと従った。聖霊に従うのは、
大変厳粛な事だ。どちらでもよい事ではな
い。聖霊の御声が聞こえているのに拒んで
いないか。ないがしろにしていないか。ぐ
ずぐずしていないか。あなたへの大きな祝
福のためだ、今、聞こえていたならすぐに
従おう。時を逸する前に。
・・・・・・・・・・・
御霊は導かれる。思いを授け、御言葉を示し、
環境を通して語られる。ぐずぐずしていると、
その声は消えてしまう。日常で体験するとこ
ろだ。御声を聞いたならすぐに従おう。自分
にも周囲にも神のわざが現れる。            


2007年05月26日(土)

『主はモーセに仰せられた「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え』出エジプト14:15

すべてに「神の時」がある。祈る時と行動
すべき時がある。イスラエルがモーセに導
かれて、出エジプトを果たした直後、エジ
プトの大軍勢が追跡して来た。追い詰めら
れて、前は紅海の断崖絶壁で、後ろはパロ
の軍勢となり、前進も後退もできない絶体
絶命だ。イスラエルの民は非常な恐怖に怯
えた。その時、主がはっきりと、モーセに
「前進せよ」と告げられた。主の言葉の通
りに、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、
目の前で水が二つに分かれ、左と右に壁と
なり、真ん中に乾いた道が現れた。主が奇
跡を行われたのだ。私達も、まず祈るべき
だ。すべてにおいて祈りが大切だ。しかし、
祈りの結果、御心がはっきりと示され、主
がせよと言っておられる事が確信できたな
ら「前進」すべきだ。ぐずぐずせず、臆する
事もせず、行動に移るべきだ。神が私達
にせよと言っておられる事に対して、神が
して下さるよう待ち続ける事は、無意味だ。
私達の側ですべき事を、神が代わってされ
る事はない。今、あなたも、「前進せよ」と
言われているか。祈りから立ち上がって、
行動に移る時だ。紅海をも分かたれ、神の
大きなみわざを見る。
・・・・・・・・
祈りの結果、確信が与えられたなら、行動
に移るべきだ。行動すべき時に、いつまでも
座して祈り続けるのは間違いだ。神が私達に
代わって行動される事はない。祈って確信が
あるなら、今、前進しよう。
 


2007年05月25日(金)

「また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます」コロサイ4:12



祈らないで、事を行ってしまって、
失敗した経験は無いだろうか。誰し
もあるはずだ。祈らないで高価な物
を衝動買いし、無駄遣いに後悔した
り、祈らないで活動を始めてしまい、
途中で対人関係がギクシャクし、ス
トップしてしまう。良い事でも、祈
らないで、肉の思いで始めてしまう
と、中途で頓挫してしまう。ある人
は祈らないで、目の前に来た好条件
のバイトに飛びつき、余りの多忙に
デボーションの時間も無くなり、神
が二の次になり、本末転倒の生活を
示され、途中で辞めた。ある人は祈
らないまま、高額報酬の仕事を選ん
でしまった結果、全く教会へ行けな
くなってしまった。ヨシュアがギブ
オンの住民達に騙されて、盟約を結
んだ箇所がある。ギブオン人達が計
略を巡らし、変装し、遠くから来た
と思わせ欺いた。実は自分達の中に
住む近隣の者達であった。この時、
対応するのに「主の指示を仰がなか
った」のだ。私達も心しよう。日常
生活、一つ一つの事をよく祈り、主
の指示を仰ぎつつ歩もう。あの決定、
この判断、主を仰ごう。でなければ、
結局、肉で始めた計画は頓挫し、刈
り取る事になる。主に祈り、頼み、
平安与えられ、確信持って前進しよ
う。それは「主と一つ」になって進
める幸いな歩みだ。
----------------------
ささいな事も祈りとともに始めよう。
自分の思いは想像以上に強いから、
すぐに肉に呼応してしまう。委ねて
行く事が二の次にならないよう、
瞬間、瞬間を祈りとともに。


2007年05月24日(木)

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」マタイ11:30



「重荷」と「荷」は違う。「重荷」
とは、私達を憔悴させ、損ない、
疲れ果てさせてしまうものだ。「荷」
は、私達一人一人に与えられた義務、
使命、仕事等だ。障害や病もそうだ。
確かに荷も重い場合もある。仕事や
病気や身体障害は重い。しかし、そ
れはむしろ主に在り、生きがい、や
りがい、喜びとされる。身体は疲れ
ても、心は疲れない。だから快い疲
れとなる。それは本人にも充足感、
達成感が来て、神からも報いがある。
主がわたしのところへ来なさいと、
言われている「重荷」は、思い煩い
や苦しみ、不安、焦り、苦悩でずっ
しりと重くなり負い切れなくなった
状態だ。心が疲れて一歩も前に進め
なくなる。主は「私達各々に与えら
れた義務、使命」を負うために来ら
れたのでなく、疲れ果てて進めない、
重すぎる荷を負いに来て下さった。
つまり、あなたを疲れさせる重荷を
取り去って、あなたが、自分に与え
られた荷をしっかり負えるようにし
て下さるのだ。あなたの使命、仕事、
義務を果たして行く時にこそ、あな
たは平安と喜びに満ち、生きている
実感を得る。私達の罪の重荷とその
結果をも、主は十字架で、すでに解
決して下さった。使命、仕事、義務・
・しっかり負って主に従おう。それは
誇りであり、そして、そこに安らぎ
と喜びを味わう。
-------------------
主から与えられた負いやすく心地よ
い荷と、負わなくても良い重荷があ
ることを覚えよう。負い切れないと
弱りはてる重荷なら、すぐに主の所
に行こう。活路は主が切り開いて下
さること信じて今日も喜んで歩んで
行こう。


2007年05月23日(水)

「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます」マタイ13:19

神がわからない、御言葉がわからないと
言う人々があるが、土地の問題の場合が
ある。良質の種と肥沃な土地が一つに
なった時に芽が出て実がなる。つまり、
「土地=心」であるから、素直な聞く耳
のある心が大切だ。その心に御言葉の種
が落ちると、必ず芽が出て結実する。
「種と土地=御言葉と心」が一つになる
時に実を結ぶ。ゆえに神の言葉を聞きな
がら成長しないなら、聞く側の土地を顧
みる事が必要だ。種が落ちるが、根を張
れない、石ころだらけの土地だろうか。
喜んで聞き、すぐ芽が出るが、信仰のた
めの困難が来ると、すぐにつまずく。根
が張るのを妨害する石を取り除く必要が
ある。でなければ、決して実がならない。
農夫である御父が石を取り除けようと
されるのに執着して放さないだろうか。
それは世の快楽や、世の賞賛や、富、
名声、地位、愛する人や好きな事、
習慣・・あなたの石は何だろう。又、農
夫がすきで、石を掘り起こし、土を柔ら
かく耕す。種が育つ土壌にするための
「試練、訓練」をしっかり受け止める事
が必要だ。その時、よく耕された、砕か
れた素直な土地とされる。あなたの心
(土地)はどうだろう?問題、妨げは無
いか?神は豊かに実をならせようと絶えず
世話をして下さっている。
・・・・・・・・・・・・
種が無い限り結実は100%あり得ない。
聞き方に注意せよ悟れと言われた。道ば
たの種はサタンに取られた。傍観者、他人
事として聞くので、自分の事だと気づかな
い事だ。自分の事として聞く事が重要だ。

 


2007年05月22日(火)

「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」Tペテロ2:19



ヨセフの物語がある。これでもか、
これでもかと不当な苦難が襲い、
思い通りにならない環境の連続だ
った。兄達の妬みを買い、エジプ
トへ奴隷に売られた。突然の苦難
が臨んだ。しかし、王室でヨセフ
はよく仕えたが、更に次なる苦難
が臨み、全くの無実の罪で牢獄へ。
しかし、そこでもヨセフは忍耐に
忍耐を重ね、牢獄でよく仕えた。
濡れ衣、理不尽、不当な苦しみ、
しかし、ヨセフはこれらすべての
背後に神を見、神を信じ、神の計
画を見ていた。ついに最終的には、
王に次ぐ総理大臣となり、ヨセフ
の采配により国民は飢饉の際も飢
えを免れたのだ。そのヨセフのお
陰で、ヤコブの家族も飢饉のさ中
で命拾いをした。神がヨセフを予
め遣わされて、すべての手はずを
整えられたのだ。ヨセフは人の悪
意にさえも、神は働き、それを良
きに変えて下さることを知った。
与えられた苦しい理不尽な状況の
中で、権威に服し、従う事の模範
だ。理不尽な相手に仕えているか。
その中で、神はあなたを圧迫し、
鍛錬し、きよめ、品格を造り上げ
られる。今、あなたが不当な苦し
みの中にいたら、ヨセフの神を覚
えよう。そして、主の十字架がい
かに不当で、理不尽であったかを、
十字架をしっかり両眼を開いて見
続けよう。十字架の下には泉があ
り、愚痴も不満も無くなる。
----------------------
主がいかに罪人達の反抗を忍ばれ
たか考えるようにと御言葉は言っ
ている。それは、私達の心が元気
を失い、疲れ果ててしまわないた
めだと。ヨセフの神、主の十字架
を思い今ひとたびの忍耐を祈って
みよう。


2007年05月21日(月)

「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」ヤコブ3:8



舌の被害は、甚大だ。舌は小さ
な器官だが、小さい火が森を燃
やす。舌は火であり、不義の世
界だと。その邪悪さは地獄のよ
うだ。舌は誰も制御する事がで
きないと言われる。舌を制する
事はそれほど難しい。敵対心や
批判、憎しみの言葉は世界を駆
け巡り、誰も阻止する事ができ
ない。言葉の失敗は取り返しが
つかない。心してわきまえるべ
きだ。失敗すれば、謝ればよい
のだからと、軽率な、無思慮な
感情的な言葉を口にすべきでは
ない。「ごめんなさい」と謝れ
ば赦されるだろうが、相手につ
けた心の傷は深く残る。長年か
けて培って来た信頼関係が、一
瞬にして崩壊する事もあり得る。
失敗してからでは遅い。心しよ
う。日ごとに唇の守りを祈ろう。
噂話、陰口の火が、あなたの所
へ来たなら、あなたが消火すれ
ばよい。逆に、はっきりと直言
しなければならない時がある。
愛をもって真理を「語る」べき
時に、語らない事も罪だ。あな
たはそちらの弱さだろうか。面
と向かっての忠告、警告は難し
い。愛ゆえに語ったとしても、
相手には痛く、辛い事なので嫌
われるかも知れない。しかし、
導かれたなら、へりくだって、
柔和に忠言すべきだ。舌は慰め
や励まし、人を引き上げ、生か
す言葉も語る事ができる。舌を
御霊に支配して頂こう。   
---------------------
言葉を簡単に口から出している
が本当にそれは必要な言葉だろ
うか。人を建て上げ、人を慰め
るための言葉だろうか。またや
たらと、人に気を使うだけの、
毒にも薬にもならない言葉だろ
うか。よく吟味してみよう。


2007年05月20日(日)

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め」詩篇42:5

この記者は、失望落胆し、苦悶の中に
いる。夜も昼も、涙が食べ物というほどの
悲嘆、意気消沈のどん底だ。食事もでき
ないほどの苦しみだった。絶望し、心はちぢ
に乱れ、混乱状態だ。私達もこのような
状態に陥る。あのバアルと戦って大勝利した
エリヤも鬱状態に陥った。バアルとの戦い
の後、自らの死を願った。私達も弱り、
意気消沈し、落ち込む。ここで学べる事は
「わがたましいよ」と記者が自らに語りかけ
ている点だ。「お前は絶望しているのか。
神を待ち望め」と自分に語っている。落ち
込み、悲嘆にくれている自己に対して語
りかけ、「神を待ち望め」と自らに命じている。
これは大きな益だ。流されるがままにしてい
ると、果てしなく落ち込んで行く。経験ある
だろう。悲観的になり、悪い方にしか物事
が見えず、否定的になり、まるで深い渕に
落ちるかのようだ。それを放っておいては
ならない。もう一人の自分がきっぱりと、
自分に命じるのだ。「そうではなく、神を待ち
望め!」と。自分が自分にメッセージし、
顔を上にあげ、神に期待して行く。その時、
私達は方向変換できる。視点が変わる。
あなたも「わがたましいよ」が、今必要だろうか。
・・・・・・・・・・・
落ち込んだままになるのでなく、「わがたましいよ」
と自分に語りかけ、一歩行動を起こそう。神は愛、
万事益、ご計画がある、最善と、自分が自分に
メッセージしよう。自分しか見ていない目が神に向く。


2007年05月19日(土)

「贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく」イザヤ51:11

バビロン捕囚のイスラエルの民達に、故国
への帰還許可が出た。バビロニアがペルシ
ャに滅ぼされ、ペルシャ王の命令によって
だ。異国の地から、自分達の国へ帰れるの
だ。喜びであったに違いないが、現実には
複雑な状況が横たわっていた。エルサレム
は廃墟であり、町は復興されてはいない。
もう捕囚になって50年近く、その地に馴染み、
そこでの生活がそれなりに確立し、むしろ
豊かな生活をしていた者もいた。異国の地
での暮らしが成り立っており、神の民とい
う意識も、神を礼拝する心も薄れてしまっ
ていたかも知れない。それは諦めであった
かも知れない。そんな民に、神は「さめよ、
さめよ。力をまとえ。シオン。もとの座に
着け」と励まされる。「エルサレムの廃墟
よ。大声をあげて喜び歌え」と。真に神を
知るようになると。無力な民達はバビロン
に、ペルシャにと、まるでほんろうされている
ように見える。しかし、そうではない。見える
ところは大国の力関係だが、実は真の主権
者は神であり、神のイスラエルへのご計画と
御心が確実に成し遂げられているのだ。私
達も日常生活、起こる出来事、見える
ところでなく、背後にある、神の主権と御心
を見、受け取ろう。「わたしの計りごと」は
成就し「わたしの望む事」をすべて成し遂げ
られる。
・・・・・・・・・・・・・・・
主のご計画は必ず実現する。見える状況でなく、
背後の神を見て行けるように。私達には刺繍
の裏しか見えないので、時にグチャグチャで
わけがわからないが、表は見事な綺麗な模様
となっていて、完璧に計画通りに進められている。


2007年05月18日(金)

「イスラエルは打ち負かされ、おのおの自分の天幕に逃げた・・エリの二人の息子・・死んだ」Tサムエル4:10



偶像礼拝とは、神を自分の願
望のために利用しようとする
事だ。自らを砕いて、御前に
ひれ伏すのではなく、自分の
幸福や、願望のために、どこ
までも自分のために、神を持
ってこようとする態度だ。だ
から、自分は何一つ変えられ
る事はなく、矯正される事も
なく、ただ自分の欲望を遂げ
るための手段となる。神を自
分の都合のために、引きずり
回し、利用する。ペリシテと
の戦いで敗北した時、民は主
の契約の箱をかつぎ出して来
た。箱をかつぎ出してさえく
れば、勝てると思った。しか
し、箱を持って来れば、神を
かつぎ出せるのではない。そ
もそも、自分達の都合のため
に、神をかつぎ出そうなどと
いう不遜な考えが根本的間違
いであった。イスラエルは打
ち負かされ、箱まで奪い去ら
れた。神は箱を奪われるがま
まにされた。守られなかった
のでなく、神が敗北させられ
たのだ。裁きであった。主の
箱の中を見た、ベテ・シェメ
シュの人々を激しく打たれた。
神を畏れ、敬い、崇め、御前
にひれ伏すのでなく、好奇と
興味でのぞいたのだ。自分の
欲望充足のために、神をかつ
ぎ出し、自分に仕えさせる、
恐ろしい態度だ。そうでなく
、神を神として伏して崇め、
自らが仕え 行く、これが方
向変換であり、悔い改めだ。
神の喜ばれる態度だ。祝福し
て下さる。
-----------------------
神を神として崇め従って行く
のではなく、信じたいものを
信じて行っていないか。都合
が悪ければ神様に代わるもの
はいくらでも持っていないか。
私達は神様に変えられている
だろうか。


2007年05月17日(木)

「いのちのことばをしっかり握って・・自分の努力したことがむだではなく」ピリピ2:16

     

自分に与えられた賜物を発見して、
賜物で仕えて行く事は神の御心だ。
それが自分の喜びでもある。特に
関心ある事、好きな事は何だろう。
もし、それをする事が苦痛であり、
葛藤が生じるなら賜物ではない。
必ず喜びと楽しみが心に生じて来
る。そして、それを使えば技量が
増し、ますます上手になる。その
賜物は自分の欲望満足や賞賛、自
己実現のためではなく、「みなの
益のため」だ。ここは肝心だ。
神のためと思いながら、実は自己
顕示や自己実現のために使ってい
る事があるからだ。自分の欲と栄
光だ。しばしば気づかない。賜物
は、神と人に仕えるためのものだ。
賜物を使うと、周囲の人が必ず益
を受ける。人々が祝福され、徳を
高められ、引き上げられる。あな
たの賜物によって、周囲が恵まれ
るので、人もあなたに賜物がある
とわかる。一番の賜物の確認方法
は、人がそれを認める事だ。だい
たい人から頼まれる事が、あなた
の賜物だ。人に認められないなら、
それはあなたの賜物ではない。自
分より周囲の方がよくわかる。そ
れによって神と人とに仕えよう。
ますます技量増し加えられ、神の
栄光が現れる。神があなたに働い
て、事を行わせて下さる。神の栄
光のために用いて頂こう。あなた
は喜び溢れる。
---------------------
賜物を示されたなら感謝して用い
られるよう祈ろう。神様が与えて
下さったものだ。すばらしく開花
させて下さる。よく管理し、神
様の御栄光が現れるために喜んで
仕えていこう。


2007年05月16日(水)

「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8



誘惑に際して、自分の弱さをよく
知る事は大切だ。常に誘惑が来て
いるところだ。皆、弱点がある。
高いプライド、強い虚栄心、嫉妬
心、思い煩い・・あなたはどの部分
だろう。そこが弱点なのだから、
サタンをよく警戒していよう。必
ずそこに誘惑が来る。気をつける
事は、まず、誘惑を受けるような
環境に身を置かない事だ。避ける
事。アルコールに弱い人はネオン
街へわざわざ行かない事、無駄遣
いに弱い人は、不必要なショッピ
ングに出かけない事だ。又、雑誌
類、テレビ、ネット・・有意義に使
える時間をダラダラと無駄にして
いないか。誘惑が来る状況はどう
か、疲れた時か、一人の時か、又
、時間帯は、深夜か、早朝か、サ
タンをよく見張ろう。そして「き
よい心で主を呼び求める人たちと
ともに・・」主を求める人々と共に
いる事、交わりは大切だ。交わり
の中で祈り合う時、誘惑から守ら
れる。どうしても誘惑に勝てず、
罪にがんじがらめなら、必ず指導
者や信頼できる人に一緒に祈って
もらう事だ。一人では戦えない。
共に祈ってくれる人がいる時、勝
利できる。そして、御言葉に従う
事が秘訣だ。自分の思いで立ち向
かわず、御言葉に従うのだ。主が
荒野の誘惑で、御言葉を握り、御
言葉に立ち、従われたように。
-------------------
サタンが持って来る誘惑、思い煩
い、苦い思い・・すべて神様の平
安から私達を引き離すものから解
放されますように。何に弱いのか、
よく見極め、すぐに助けを主に求
めよう。自分では決して勝利でき
ない。


2007年05月15日(火)

「ヘロデとポンテオ・ピラトは・・あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました」使途4:28


時々「どうしてこんな事が?」
という意味のわからない事が起
こる。その時、どっと不安と恐
れに襲われる。しかし、神の許
しなしには何一つ起こらない。
雀の一羽さえ父の許しなしには
地に落ちない。起こる出来事は、
一つ一つすべてが神の御手の内
の事だ。不運なのではなく、わ
けのわからない運命にほんろう
されているのではなく、神の摂
理、御心の中と認める時に、信
じる時に、安堵と平安に包まれ
る。それが信仰だ。弟子達への
迫害も、御手と御心によって定
められていた事が、行われたに
過ぎない。弟子達の命を真に握
っているのは、議会ではなく、
主御自身だ。私たちも、日常に
起こる一つ一つに、主の御手を
認めよう。そしてその時の彼ら
の祈りが「みことばを大胆に語
らせて下さい。しるしと不思議
なわざを行わせて下さい」であ
った。状況を変えて下さいでな
く、相手をどうこうでなく、逃
げる事でもなく、「大胆に御心
を行って行けるように」との祈
りだった。その時、皆が聖霊に
満たされ、御言葉を大胆に語り
出した。御心にかなった祈りは
答えられる。一つ一つの出来事
に神を認めよう。「そうすれば
主はあなたの道をまっすぐにさ
れる」。
--------------------
いかに自分の思いを強く握りし
めていようとも、すべては神様
の御心がなるのだ。それを認め
て、目先のことに囚われず、大
胆に前向きに祈り始めよう。神
様が変えて行ってくださる。


2007年05月14日(月)

「あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう」ルカ16:12


かの日に、私達は主から問わ
れる事柄がある。それは、わ
たしが送った、わたしの独り
子イエス・キリストを、あな
たはどうしたのか。これは最
も重大な問いだ。これによっ
て永遠が決まってしまう。そ
して、わたしがあなたに与え
たものを、どのように使った
かを問われる。私達はすべて
のものの所有者ではなく、管
理者だ。所有なら報告の義務
はない。自分のものなら、ど
う使おうとまるで自由だ。し
かし、管理なら主人への報告
の義務がある。神の任された
金銭をどう使ったか。それは、
十分の一献金を献げた後の、
十分の九をどのように使った
かを問われる。好き放題に気
ままに、自分中心に使ったの
か、それとも神に喜ばれるよ
うに、祈りつつ支出を決めた
のか。日々が永遠のためのテ
ストだ。小事に忠実な者だけ
が大事に忠実だ。この世での
管理が忠実な者に、永遠での
管理が委ねられる。神から管
理を委ねられた、富、時間、
賜物、機会・・どのように使っ
ているだろう。神と一つ心で、
神に喜ばれるように、使って
行けるよう祈ろう。「これら
をどう使いましょうか」と祈
れたなら、すでに神の御心の
中にいる。
-----------------
すべて神様から委ねられてい
るものなのに、ただ自分中心
に有効に使いこなそうとやっ
きになっている。管理を任さ
れた者という自覚があるなら
使い方は自分が喜ぶようにで
はなく、神様にとって有効か
どうかだ。


2007年05月13日(日)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ・・」ローマ12:2

真に喜びと平安の日々を送りたいなら、思
考パタンを変える事だ。満たされず、心寂
しく、虚しく、悶々とするのは、実は自分
の事ばかり考えている。アダムからの罪は
自分が神になり、自分が世界の中心になっ
ている事だ。誰にもこの誘惑は強烈なので
要注意だ。誰も皆、自己中心になりやすい。
ここから自己憐憫のとりことなり、惨めで、
人を羨み、落ち込み、かと思えば高慢にな
り、人を見下す。優越感と劣等感は、高慢
を根とした裏返しで同じものだ。あなたの
祈りは自分の事だけか。自分の満たし、自
分の祝福、自分の願望、自分の幸せ、自分
の必要・・祈りは良い事だが、自分にしか
目が向いていないなら間違っている。それ
なら、神を自分のために利用して行くから
だ。祈っているだけに、そうしていて気づ
かない。更には、神がああしてくれない、
こうしてくれないと、心を屈折させる。軸
の置きどころが間違っている。何もかもが
自分中心の色合いでしか見えない。軸を変
える事だ。「私は神に」でなく、「神は私
に」何を望んでおられるのか。神の目的の
ために、私をどう使われたいのか。神を軸
におき中心にすると、必ず喜びと平安、満
たしが臨む。
・・・・・・・・・・・
欲の自己中心ではないが、関心が神でなく常
に自分に向く。信仰してる「自分」成長したい
「自分」・・自分が中心にいるが、信仰ベースだ
けに気づかない。御霊が目を神に転じさせて
下さるように。そこから喜びが来る。


2007年05月12日(土)

「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き」マタイ22:5

招待された客はイスラエルであり、王のし
もべは預言者達だ。キリストの救いにより、
神の素晴らしい祝福を受けるようにと、最
初から準備が何もかも整えられていた。し
かし、彼らはその招待を気にもかけず、畑
に、商売にと出て行き、無視した。畑の仕
事や商売など披露宴の後でもできる事だ。
神は救いのために、すべてを用意して下さ
ったのに、不要と拒んだ。これはイスラエ
ルだけでなく、私達も同様だ。仕事で忙し
い、子育てで暇が無い、受験で忙しい、い
つも神のための時間がない。それなら一生
時間がないままだ。しかし、神のための時
間が無いのではなく、神より大事なものを
優先している。このまま行けば、これから
先も神のための時間はない。神はあなたを
目的をもって創造された。あなたは、特別
に愛されていて、神からの使命があり、あ
なただけへの御心があり、神が望んでおら
れる生き方がある。あなたを、今の場所に
遣わされたのは神だ。偶然でも、たまたま
そこにいるのでもない。尊い神のご計画の
一環だ。あなたの境遇、使命、あなたの将
来を「さあ、用意ができました」「何もか
も整いました。どうぞ宴会にお出かけ下さ
い」と、すべて最善のものを神は整えて下
さっている。「気にもかけず」神を無視し
て過ごしていないか。自らの生き方を今一
度よく考えてみよう。 
・・・・・・・・・・・
優先順位の問題は大きい。神を拒んでいる
わけではないが、神より「優先」するもの
が多く神のための時間が無い。1神2夫婦
3子供4その他の人々5仕事、の優先順位
を今一度振り返ってみよう。 


2007年05月11日(金)

「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます・・だまされないようにしなさい」ヤコブ1:15



誘惑は誰にも必ず来る。そして、
それは天に帰るまで続く。誰し
も誘惑を受けるパタンがある。
いつも同じ状況で誘惑が来る事
に気づくだろう。誘惑を受ける
のは、心の内に欲望があるから
であり、欲望のないところに誘
惑は感じない。誘惑にならない
からだ。釣りざおに、餌をつけ
て魚を取る図式だ。「自分の欲
に引かれ、おびき寄せられて、
誘惑される」。あなたの欲望に、
誘惑の餌が投げられ、おびき寄
せられ、食らいついて行く。欲
望と誘惑がピッタリと合致する
ので、とりことなってしまう。
必ず、あなたの弱点に来る。常
に自分が誘惑を受ける弱点をし
っかり知っておく事は有益だ。
生活をよく振り返るなら、同じ
状況になった時に来ているはず
だ。自分の弱い箇所をしっかり
見分けて、見張っていよう。必
ずそこにサタンは来る。そして、
そのような状況を作ろうとサタ
ンはやっきだ。平素から祈りに
よって見張っているなら誘惑が
来た時に気づける。気づいた時
は、光の中だ。神にすぐ助けを
求めることだ。「苦難の日には
わたしを呼び求めよ。わたしは
あなたを助け出そう。あなたは
わたしをあがめよう」。まず
「神様」と呼ぼう。それが力だ。
------------------------
欲をはらみそうになった時、敏
感になれるよう自分の弱い所を
知っておくことが大切だ。自分
はどうなりたいのだろう。どこ
に向かって行きたいのか。神様
と語らいながら歩もう。サタン
と会話して行かないように。


2007年05月10日(木)

『しかし彼は答えて言った「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたのではありませんか。自分の分を取って帰りなさい」』マタイ20:13



一人暮らしの独身女性が、年末に
なりイルミネーションが輝き、街
がクリスマスでにぎやかに、キラ
キラし出すとたまらなく寂しくな
った。巷がにぎわい、特に家族団
らんが溢れる年末年始はひどく孤
独に感じた。周囲の家庭を見ては、
神は不公平だと不満が募った。そ
の時、ぶどう園の例えで気づきが
与えられた。朝早くからぶどう園
で働いた人達は、賃金に満足して
いた。一日の労を終えるなら、そ
の日の糧を得て帰宅できるのだ。
妻子の喜ぶ顔を思い、又、その日
の賃金が保障されているのだから、
暑さの中も平安に働けた事だろう。
ところが隣と比べた途端、感謝と
平安が吹っ飛び、不平不満と怒り
で一杯になった。隣を見る事がな
ければ、自分に与えられた報酬に、
満ち足りたままではないだろうか。
彼女は、自分の心の態度の問題だ
と気づいた。人との比較ではなく、
また、自分の理想との比較でもな
く、ありのままの自分を認め、そ
こで神に従って行くなら、来る日
も来る日も平安で幸せでいる事が
できるのだ。比較を止めて、神と
自分の関係の中で歩もう。神の御
心を絶えず尋ね求めて、御心を行
って行くのだ。人に関係なく、自
分は神と共に常に平安の中を歩め
る。
-------------------
人との比較や、自分自身が今の自
分を認めていないのなら、いくら
頑張っても不満と落ち込みを感じ
る。喜びをもって平安にあゆむに
は、私をただ一人の人であるかの
ように愛して下さっている神様の
御言葉の約束を握りしめ、周囲か
ら神様に目を転じよう。


2007年05月09日(水)

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ・・私達の神に帰れ。豊かに赦してくださるから」イザヤ55:6

登山をする時に、山中で道に迷った時には、
間違った場所にまで一旦戻る事が良いそう
だ。それを、せっかく進んだのに引き返す
のは惜しいと、前に進んだり、あちこち道
を探し回ると更に深く迷い込み遭難になっ
てしまう。霊的生活においても同様だ。ち
ょっとした事でつまづいてしまう。イライ
ラして、きつい言葉や、冷ややかな態度が
出たり、家族に辛く当たったり、つい嘘を
ついてしまったり・・そのままにすると、
ますます罪の方向に向かってしまう。自己
憐憫や自己嫌悪の間違った方へ向かい、又、
心が固くなり、拒否や怒りや頑なな心に支
配されて行く。「すぐに」「その場で」悔
い改める事だ。前に進んではならない。間
違った地点にすぐ引き返すのだ。悔い改め
るなら、神はいつでも赦し、憐れんで下さ
る。悔い改めによって、いつでもやり直せ
る。主の血潮のゆえに、罪を完璧にぬぐい
去って下さる。何と言う恵みだろう。道を
間違ったなら、そのまま進まずに、すぐに
方向変換しよう。あなたも今、平安を失っ
ているだろうか。心にとがめがあるなら、
今すぐその場で神に立ち返ろう。悔い改め
て元の場所に引き返そう。喜びと平安が戻る。
・・・・・・・・・・・・
いつでも、どんな時でも何があっても再び
「やり直せる」。絶望は無い。主がおられ
るから。赦しがあるから。弱さのゆえに失
敗するが、悔い改めてその度に学ぼう。
赦されて赦されて生きて行ける幸い。


2007年05月08日(火)

「お話ください。しもべは聞いております」Tサムエル3:10



あなたには独りの時間がある
だろうか。信仰生活は、独り
の時間を持たなければ、必ず
危機を招く。どうしても不可
欠だ。主は常に弟子達がそば
にいて、又、群衆が絶えず押
し寄せて来た。癒しを求める
人々、教えを聞こうとする人
々、慰め、励ましを必要とす
る人々、四六時中人々に囲ま
れていた。どんなに疲労され
た事だろう。しかし、主はよ
く寂しい所に退かれた。御父
と交わられるためだ。日々目
まぐるしい人々の行き来があ
り、癒しや悪霊の追い出し、
心身の消耗はいかばかりであ
ったろう。だが、どんなに疲
れた翌朝も「朝早くまだ暗い
内に起きて、寂しい所へ出て
行き、そこで祈っておられた」
。信仰生活は、人格を持たれ
る神との、一対一の交わりが
何よりも大切だ。それなしに、
人に語り、救いをもたらす事
はできない。まず人から離れ
ること、独りきりになり神と
交わる事だ。その時初めて人
に語る言葉を持つ。癒し手と
されて人々の中に出て行く事
が出来る。あなたは絶えず主
からの供給を受けているか。
御言葉を受け取っているか。
今、あなたに一番必要な事は、
独りになり、そして主に聴く
事だろうか。思いのたけを主
に打ち明け御声に耳を傾けよ
う。霊が生き返る。
------------------
一人で静まって神様との交わ
りを持たなければ、霊的な満
たしはない。満たされないま
ま世に出て行くなら不満いっ
ぱいの寂しいクリスチャンだ。
与えて下さるお方がいる。愛
と力を得て出て行こう。


2007年05月07日(月)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩篇119:71


信仰生活で、神に一番近かった
のはいつだろうか。それは試練
の時ではなかったか。全身で神
をあがき求めたのではないか。
問題のない安楽な環境の中では、
人は神を求めない。自分の好き
な事、関心ある事に心が熱中し
てしまう。神ご自身に慰めや喜
びを感じるのは、困難のさ中で、
自分ではどうにも出来ない時だ。
それは神のみわざを体験できる
時だ。神の癒しを知るのは病気
の時であり、必要の満たしを受
けるのは窮乏の時、経済的危機
の時だ。神の真の慰めを味わう
のは、悲しみに沈む時だ。苦し
みの時、心は痛く苦しく張り裂
けるばかりだが、しかし、その
時こそ神の言葉が食べ物だ。ま
さに御言葉によって生きる事を
経験する。苦しみは私達を神に
向けてくれる。そして、神の臨
在に触れ、神に出会う。神ご自
身の深い喜びを与えるために、
神は様々な悲しみ、苦しみを通
される。子供を事故で亡くされ
た婦人、もう立ち上がれないと
思ったが、主の慰めは素晴らし
く、御言葉が食物だった。どん
底で主に支えられた。補償金が
入り、子供達に福音を伝えたい
と、子供のための集会所を作っ
た。スタッフ方が来て教会学校
をし、沢山の子供達が救われた。
大きな慰めを受けた。大人もそ
こで救われて行った。「今では
本当に心の底から感謝しかない」
と。
---------------------
自分の力が及ばないような試練
の最中で神様に出会う時、平安
の真空パックの中で守られてい
る経験をした。後でふり返ると
試練だったが幸せだった。不安
や恐れがあるのは自分に余力を
与えていると知る事ができた。
それが一番辛い。


2007年05月06日(日)

『蛇は女に言った「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか』創世記3:1

サタンは巧妙だ。「神も御言葉も認
めますよ。しかし、よく考えてみて。そ
れって、本当に?神が言われたの?」
無神論者の衣を着て来るならまず警
戒して聞くが、神や御言葉の土俵に
立ち、誘惑して来るので油断する。
心を開いてしまう。そこに巧妙に疑い
を吹き込む。御言葉はOKだが、「本
当に?」と。アダムとエバはそれまで疑
った事がなかった。サタンの巧みな策
略だ。100%の嘘はすぐわかるが、半
分真実に半分の嘘を混ぜられると、
見分けられない。真実があるだけに、
だまされてしまう。納得が行く最もな
事の中に偽りを混ぜる。ある部分、確
かに納得が行くのでサタンに説得され
てしまう。サタンが心に吹き込んで来る
疑いに要注意だ。御言葉に立たず、
サタンの声に聞き、受け入れて行くと、
「決して死にません」との大胆不適な
嘘がもう見抜けない。最初からそう言
われれば、決して受け入れないのに。
まず疑いを起こし、少しづつ巧みに反
対方向へ誘導する。それがまたピッタリ
と自分の肉の欲望に合致しているので、
サタンの言葉に聞くと、目にはそのように
しか見えなくなる。肉はそうしたいのだか
ら、行動に移るのは時間の問題だ。常
にそのような狡猾なサタンが獲物を狙っ
ている。あなたにも、今この誘惑が来て
いないか。
・・・・・・・・・・・・・・
誘惑の声を聞き入れてしまうと、欲望が
あるため、そのようにしか見えなくなる。
誘惑が来た時、「神様」とまず神様を呼
ぼう。対応を助けて下さる。


2007年05月05日(土)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」イザヤ30:15

不安や恐れは、誰しも経験する。恐
れで一杯で、どうにもならない事態も
経験した事があるだろう。夜も眠れず、
何も手につかず、幾ら大丈夫だと思
ってもだめなのだ。心は地に足つかず
の状態で、恐れにがんじがらめにされ
てしまう。目の前にある悩み自体より、
「恐れ」に支配されてしまい、どうにも
ならない。小舟が波をかぶって今にも
沈みそうだろうか。様々な悩みがやっ
て来るが、問題が問題なのではなく、
それに向かう私達の態度が問題なのだ。
主は湖の嵐を静め「信仰がないのは
どうしたことです」と語られた。恐れの
原因は、不信仰から来る。主は「向こ
う岸へ渡ろう」と明言された。主が
そう言われたのだから、途中に何が
あろうと、渡れるのだ。弟子達は、目
の前の状況に飲まれてしまい、主も
その言葉も嵐と共に吹っ飛んだ。吹
き飛んでしまう時、必ず恐れに支配
される。「恐れないで、ただ信じてい
なさい」「心を騒がしてはなりません。
神を信じ、またわたしを信じなさい」。
今、恐れがあるなら、静まって心を主
に向けよう。そして、まず正直にありの
ままの心を認め、主に告げよう。「恐
れでどうにもなりません」と。不信仰
を信仰に変えて下さる。
・・・・・・・・・・・・
信仰人生、主が同船していて下さる。
御言葉も与えていて下さる。そこから
目を離した途端不安の大嵐だ。心の恐れを
正直に告げつつ、今一度御言葉に立とう。


2007年05月04日(金)

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」ルカ24:5 

女達が香料を持って墓に来た。墓の大
きな石が転がしてあり、墓の中には主
のからだは無かった。途方に暮れてい
る女達に、御使いが現われ、主のよみ
がえりを告げた。「ここにはおられま
せん」“ここ”とは、墓の中だ。死人
を葬る場所だ。私達は「生きている方
を死人の中に捜し」ていないか。あた
かも、主に何の力も無いかのように、
死人であるかのように、自分が神とな
り、自分の力で信仰生活をやりくりし
ていないか。決してうまく行くことが
ない。しんどいばかりで、悩み、問題、
焦り、いら立ち、思い煩い、不安で、
疲れ果ててしまう。まるで主は死んで
おられ、自分が何もかもすべてやり遂
げなければならないかのように。墓と
は、人が主イエスの遺体を葬った所だ。
主に、人が、して差し上げた場所だ。
しかし、死からよみがえられた。もう
「ここ」にはおられない。よみがえり
とは、主が全権を握られ、主の主導に
よって、事がなされる場所だ。今生き
ておられるので、私達が主のためにで
なく、主が、私達のためにわざをして
下さっている。よみがえりの主のいの
ちは、今日の信仰生活に溢れ流れている。
・・・・・・・・・
主を脇に置いて、自分が頑張ると、しん
どいばかりで疲れ果ててしまう。主が墓
におられる事だ。「自分の力」の中には
おられない。今、主ご自身が内に生きて
下さっている。何と嬉しい事だろう。


2007年05月03日(木)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:22



主が、この弟子達にされた事は、
御言葉を説き明かし、御言葉に
よってご自身を現わされる事だ
った。十字架の意味とは、よみ
がえりとは、御言葉から明らか
にして下さった事だろう。
「ふたりは暗い顔つき」とある
が、主が亡くなり、なすすべな
く、重い足どりで郷里への途上
だ。失望、落胆、絶望だったろ
う。「暗い」心に、主の語られ
る御言葉が入った時に、ポッと
火が点じられ、段々とその火は
大きくなり、赤々と燃えて行っ
たのだ。彼らも、他の弟子達も、
自分の思いの中にいた。主は、
この地上に王国を打ち建てられ、
地上を支配する王となられる。
その主に従っていた。強烈な自
らの思い込みがあった。それが
根底から粉々に打ち砕かれたの
だ。私達も同様だ。自分の肉の
思い込みがある。商売繁盛、無
病息災、繁栄が祝福であり、損
失、災いは悪であり、祝福され
ていないとの思いだ。私達にも
必要なのが、御言葉に立った信
仰だ。自分の思いでなく御言葉
だ。失望でどんより暗い弟子達
の心が、御言葉で明るくされて
行った。的はずれだったのが、
焦点が合って来た。私達も主が
語られる御言葉によって、目が
開かれる。焦点が合い心に潤い
と喜びが来る。心が生きて来る。
自分の思いの暗さの中にいない
か。御言葉に耳を傾けよう。新
たにされる。
-----------------
思い通りに行かなくても、全能
の力のある方を知っている、こ
れが力であり守りだ。御言葉を
通し信仰の目で見ていくなら、
すべては、神様の主権によって
与えられるものだとわかる。
肉の思いから目を神様に転じよ
う。


2007年05月02日(水)

「しかし二人の目はさえぎられて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16



エマオ途上の弟子達は、目がさえ
ぎられていて、主イエスを認める
事ができなかった。以前にも、主
は十字架にかかり、よみがえると
何度か言われたが、弟子達は誰も
信じる事ができなかった。なぜか。
弟子達が望み求めていたのは、イ
スラエルの王国を回復する輝かし
い雄々しい王となる救い主だった。
惨めで哀れな辱めの十字架で死ん
でしまう救い主ではなかった。そ
んな主を認める事も受け入れる事
もできなかった。私達にもそんな
幻想があるかも知れない。人間的
な見方をしてしまうのだ。だから、
自分の思い通りに物事が運ばなか
ったり、自分に都合の良い祈りが
聞かれなかったりすると、失望し
てしまう。神に失望してしまうの
だ。実は、内側に自分の強い思い
があって、勝手に都合の良い神を
心に描いている。それに合わなけ
れば、神から離れてしまう。自分
の思いのフィルター通してでなく、
真実の神を見て行く必要がある。
あなたがもし失望しているなら、
自分の思いの神ではなかったか。
弟子達は別れ道で、一緒に泊まる
よう無理に願った。これが鍵だ。
そこで求めなければ、主はそのま
ま行ってしまわれた。せがんで、
宿泊して頂いた。その親しい交
わりの中で、主はご自身を現さ
れ、彼らは、さえぎられていた
目が開かれた。
-------------------------
祈りが叶い、幸せになる事が良
いクリスチャン人生だと思うな
ら失望するだろう。神様の思い
を尋ねながら信仰の目を開かれ
て歩むなら、いつも主と同伴の
エマオの途上だ。


2007年05月01日(火)

『イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた』マタイ26:25



「ユダにサタンがはいった」とあり、
サタンはユダに入り、主イエスを裏
切ってしまった。サタンは勝手に入
る事はできない。自動的に入るわけ
でもない。ユダがサタンに心を開き、
受け入れた結果だ。ユダのメシヤ観、
価値観が主イエスとは相容れない事
が明らかになって行ったのだろう。
又、「彼は盗人であって、金入れを
預かっていたが、盗んでいた」とあ
るように、ずっとサタンに足場を与
えていた。ユダに何度も悔い改めの
機会を与えられた。主は「あなたが
たのうちひとりが、わたしを裏切り
ます」と言われ、まさか私ではと言
ったユダに、はっきりと「そうだ」
と言われた。あなたがたは全身きよ
いが、みながそうではない、とも言
われた。主の愛による悔い改めの促
しにも、ユダは決して応じなかった。
主を裏切った後も、悔い改める事は
なかった。悔い改めは大切だ。どん
な罪も悔い改めるなら、帳消しにさ
れ、完全な赦しが与えられる。何と
いう恵みだろう。罪を見くびっては
ならない。サタンに足場を与えてし
まう。日々、これぐらいとおろそか
にしている罪はないか。聖霊が悔い
改めを促しておられないか。罪を重
ねて行くと、やがて取り返しのつか
ない重大な事態に至ってしまう。日
ごとに、悔い改めよう。赦され平安
にされる。サタンに足場を与えない
ためにも。
-------------------
罪を犯すと神様から背を向けたくな
るのは悔いているからだ。その時、
素直に神様の所に行こう。「まさか、
私ではないでしょう」と言い出す前
に。罪まみれで平安でいられる前に。