2007年06月30日(土)

「どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11


主は「求めなさい。そうすれば与えられ
ます」と言っておられる。求めるなら与
えられる。得るためには、求めなければ
ならない。与えられないのは「あなたが
たが願わないから」だと。あなたの願い
は、願いとして、神に求めてよいのだ。
しかし、心得ていなければならない事は、
あなたの願った通りの答えではないかも
知れない。神は「良いもの」を下さると
ある。願い通りではなく「良いもの」だ。
1才の子が料理がしたいと、包丁を求めて
親は与えるだろうか。幾ら泣き叫んでも
与えない。主にも、あなたへの愛の配慮
と教育がある。今、それを持てば、高慢
になって滅びてしまうかも知れない。持
つにまだ早いとの判断かも知れない。又、
それを与えると偶像になり、神から離れ
る事を見通しておられるかも知れない。
時に、神は願い通りのものを与えて下さ
る。又、時に、願い通りのものを与えら
れない。差し控えられる。私たちの知恵
と判断は有限だ。自分の願ったものが、
必ずしもふさわしいものではない。神は
最もふさわしい時にふさわしいものを与
えて下さる。まさに「良きもの」なのだ。
自分の願い通りではない「良いもの」に
ある、意味とメッセージがわかる時、感
謝が湧き上がる。
・・・・・・・・・・
自分の思いと神の思いは、しばしば違う。
人生、ほとんど思い通りでない。しかし
主のみ思いが成され、自分の願うものより、
主が選んで下さったものの方が断然良い。
これからも常に最もふさわしいものを与
えて下さるとは何と幸い。



2007年06月29日(金)

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから・・またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5:1


ある人が、目の前にどうしても
愛せない人がいた。大嫌いで、
この人さえいなかったら・・ど
んなに楽だろうと、心の中で思
い続けていた。環境が変われば
よいのにと。しかし、平安がな
く、その事を思うと、心は苦し
く、悶々とした日を送っていた。
そんな時、主の御前にも、その
問題を持って行きたくない心に
気づいた。持って行くなら、嫌
い続けることができなくなる。
愛さねばならない。愛したくな
いのだ。岩のように固い、頑な
な自我が示された。あるがまま
の心で、主の前に祈った。その
時、相手にも確かに問題がある
かも知れない。しかし、相手に
問題があったとしても、自分が
相手を憎むことは、自分の罪で
あり、それは自分の問題である
事を、はっきり示された。それ
に向き合い、自分の罪を認め、
主に告白し悔い改めた。その時、
心が溶かされて行くのを感じ、
心が変えられて行ったのだ。あ
んなに嫌だったのに、その心が
消えてしまった。主が解き放っ
て下さったのを知った。私たち
は、神と自分との関係において、
責任を負う。どんな状況であれ、
神と自分の関係が正しければ、
平安なのだ。誰もあなたを損な
うことはできない。もし平安が
なければ、神に向き合い、御霊
に心を照らして頂こう。
---------------------
まず自分と神様との良い交わり
を保ってから人との交わりが保
たれる。十分に解き放たれ、潤
されてはじめて真に自由にされ
よい人間関係が築ける。朝毎に
神様と良く交わって出てゆこう。


2007年06月28日(木)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7

思い煩いの無い人はいない。すべての人
が思い煩いに悩まされる。その思い煩い
を自分で何とかしようとして、もがいて、
ますます泥沼に落ち込む。どんなに自分
で取り除こうとしても、どうにもならな
い事が経験済みだ。自分の一番の弱点に
来るから始末が悪い。目の前の事、少し
先の事、延々将来の事にまで及び、恐れ
と不安に飲み込まれる。それはどんどん
膨らんで行く。化け物のようだ。取り込ま
れて、がんじがらめだ。経験した人はわか
るだろう。主は私たちがこの思い煩いに
悩まされる事をご存じであり、そのため、
「神に委ねよ」と解決策を示して下さっ
ている。それは「祈り」だ。祈りが思い煩
いからあなたを解放する。思い煩いに
代わり、平安が臨む。思い煩うか、祈る
か、どちらかだ。どちらを取るだろう。自
分の力や人の力、この世のノウハウに
頼るのでなく神に祈ろう。そうするなら、
問題は依然存続しているに関わらず、
状況は同じなのに、心の奥に深い平
安が来る。そして、大丈夫だと思える。
状況に全く関係ない「主の平安」を下さる。
あなたも主に、心の内をことごとく何も
かも告げてみることだ。ピリピ4:6,7
が真実である事を体験する。
・・・・・・・・・・・・・・
先の事を、又もう戻れない過去をあれ
これ思い煩い、今の時を台無しにして
いる。神がその事、あの事を心配して
いて下さる。委ねて、「今」を生きよ
う。主と共に目の前のなすべき事をし
て行こう。


2007年06月27日(水)

「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」ルカ5:10

ペテロは人をとる漁師として召された。
その状況を、逆にたどってみると、そ
れは自らの無力を味わい知った時だった。
腕に自信のあるプロの漁師が「夜通し働
いたが、何一つとれなかった」という、
挫折と失望落胆、疲労こんぱいの中だっ
た。主は、「網をおろして魚をとりなさ
い」と、もう一度全く同じことをするよ
うに告げられた。夜の間中捕ったが捕れ
ない、朝に魚などいないとの常識があっ
たが、それを置いて、主の言葉に従い、
網をおろした。その結果、奇跡の大きな
わざを見た。今までもずっと主を見てい
たが、新しく主を知ったのだ。聖い畏れ
に満たされて、その時、ペテロは「私は、
罪深い人間」と主の足もとにひれ伏した。
主は、そんなペテロを赦し、受け入れて、
主の働きのために、伝道者として召し出
された。ペテロが聖い主の働きに召し出
されたのは、最も無力な、うちひしがれ
ている時だった。血気盛んな、意気揚々
の時ではなかった。私達も、もうだめだ
と、肩を落とし落胆している時こそ、新
たに主に出会う恵みの時だ。だからこそ、
私達には、決して絶望は無い。無力の時
こそが、幸いな恵みの時なのだから。
・・・・・・・・・
ペテロが打ちひしがれて、自分はもうだ
めだ、私のような者から離れて欲しいと
言った時に、主はペテロを伝道者に召し
出された。最も無力な時だった。無力な
まま主を仰ごう。主の大きな恵みを経験
する。


2007年06月26日(火)

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」ヤコブ1:2

信仰人生、様々な苦しみや悩みが来る
と言っている。まず、来た時に「逃げ
ないこと」と心していよう。試練は必
ず痛いので、逃げて、避けて、よけて
いると、いつまでたってもこのままだ。
成長のない、自我の強い、自己中心な
乳飲み子のクリスチャンのままだ。御
霊の実を結べない。わがままな、自己
中心の子供ではなく、人を思いやり、
愛せる大人に成長したいと思わないだ
ろうか。「堅い食物はおとなの物であ
って・・訓練された人たちの物です」つ
まり、もし大人の信仰者になりたいな
ら、必ず訓練を受ける必要があるとい
う事だ。大人とは、訓練された人々の
事だ。訓練は受けようと覚悟を決めよ
う。「受け入れるすべての子らに、む
ちを加えられるからである。訓練と思
って耐え忍べ」の通りだ。試練の時は、
神にぐっと近づく時だ。ある人は窮地
に陥って、一切何の手だても無くなり、
もう御言葉にすがるしか無かった。神
が語って下さった御言葉に拠りすがっ
た。神の真実を体験したが、しかし窮
地のゆえであった。耐えられない試練
は最初から来ない。逃れの道も必ずあ
る。あなたに受け止められる容量だけ
の試練だ。あなたが壊れてしまうほど
のものは来ない。そして後に「苦しみ
にあったことは、幸せでした」と必ず
言える。
・・・・・・・・・・・・
窮地に陥った時に、決して諦めないで
いよう。耐えられない試練は無く逃れ
の道がある。諦めず、確信を投げ捨て
ず、神は良くして下さる事を試練の中
でじっと信じていよう。その信仰を喜
んで下さる。
 


2007年06月25日(月)

「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」箴言18:21


言葉は両刃の剣だ。人を傷つける事も生
かす事も出来る。言葉の力は極めて大き
い。否定的な言葉からは否定的な生き方
が生じ、肯定的な言葉からは肯定的な生
き方が生じる。生き方を変えるためには、
口から発する言葉を変える必要がある。
外国語を学ぶ場合はどうだろう。その言
葉を身につけるには、どれほど多大な時
間が必要だろう。何千、何万時間も必要
だ。1日や2日では決して身につかない。
信仰的、肯定的、前向きな言葉もしかり
だ。繰り返し、繰り返し、自分に向かっ
て語る必要がある。自分に語り、自分に
メッセージする。「愛されている」「す
べての事は益に」「神にはご計画がある」
「すべての事は感謝」「いつも喜べ」
「試練を喜ぼう」そして常に信仰的言葉
を、耳から聞き続ける必要がある。御言
葉を聞かなければ、すぐに不信仰に、こ
の世の価値観に、否定的思考に飲み込ま
れてしまう。愚痴、不満、つぶやき、い
ら立ち、不信仰な言葉がどんなに自分も
周囲も害するかは、経験するところだ。
人からの愚痴や不平は、どんなに重苦し
くさせられ、足を引っ張られる事か。信
仰的言葉がいつも出るように、舌を、そ
して心を御霊に導いて頂こう。
・・・・・・・・・
言葉には本当に力がある。愚痴や不満は、
人を暗たんたる気持ちにさせ、主への感
謝は人を引き上げる。周囲に必ず影響を
与える。喜びと平安か、害毒か、自らの
言葉は責任重大だ。今日も恵みと喜びを
まき散らせるように祈っていよう。


2007年06月24日(日)

「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい」ルカ15:22

弟の放蕩息子とその兄が登場する。弟は
好き放題、放蕩三昧して、父のもとへ帰
る、一方兄はサボる事もなく、外見、真
面目に父のもとで働いていた。しかし、
弟も兄もどちらも、心は、父から離れて
いた。弟は実際に家を出て、財産を使い
果たし、無一文になった時、我に返った。
雇い人にまで心を配る愛深い父を見い出
した。父のもとへ帰り、溢れる愛情に浴
する。兄はこれが許せなかった。ただの
一度もサボる事なく忠実に働いて来たの
に、自分には子山羊一匹くれない父、そ
れを放蕩三昧して帰った弟に、肥えた牛
をほふっての、大ふるまい、怒り爆発だ。
父親は二人を分け隔てなく、等しく愛し
ていた。何が違うのか。二人の父親に対
する理解が違った。弟は愛深い、良い父
だと思ったから帰った。兄は、けちな厳
しいだけの父との認識だ。子山羊一匹も
くれないなどあるわけない。全部お前の
ものだと言われている。父を誤解してい
た。神の溢れる愛に出会い、祝福に出会
うためには、弟のように、神が慈しみ深
い方、良い方、豊かな方だと信じる事が
大切だ。あなたはそのように信じている
だろうか。兄のように、神は、要求ばか
りする、厳しく取り立てる方か。あなた
の神観はどうだろう。
・・・・・・・・・・・・・
自分でやりくり出来ている間は、神が
わからない。神に出会ったのは、自分
の力が尽きた時だった。満たしを経験
したのは、ギブアップ、全面降伏した
時だった。神の恵みは充分だ。無力な
時に初めてわかる。



2007年06月23日(土)

「私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」マタイ25:21


エジプトを出て、カデシュ・バルネア
に来た時に、カナンの地を探るために
12人の斥候が遣わされた。ヨシュア
とカレブは主が与えようとしておられ
る地は「良い地」だと言った。是非と
も上って占領しよう、必ずできると。
しかし、他の10人は民は大きく背が
高く、城壁は高く天にそびえていて、
攻め上れないと言った。自分達がいな
ごのように見えたと。全く同じ現実を
見て、一方は素晴らしく良い地で、彼
らはえじきだ、上って占領しようと言
い、他方は、恐れおののいて、できな
いと言い怯えた。影響受けた民はエジ
プトに帰ろうと言い出した。「主は私
たちを憎んでおられる」ので「私たち
を根絶やしにされる」つもりだと。出
エジプトで、偉大な奇跡を行われた全
く同じ神を見たのに、これほどに分か
れた。一タラントのしもべと同じだ。
神は無いところから要求される、恐い
厳しい方、ひたすら非を責められない
ために、タラントを地に隠した。責め
られないよう、とがめが来ないよう、
それだけの信仰生活か。神を大きく見
間違っている。神は良いお方であり、
良いものを与えて下さる、信頼に足る、
愛なるお方だ。あなたにとって「良い」
神か「恐い」神か。根本的に、神を見
誤っていないか。喜びを下さる主だ。
・・・・・・・・・
神は良い方で、良い事しかされない。
いつの場合も最善以下の事をされない。
どんな状況の中でも、良くして下さる、
それを信じて行く事が信仰であり、その
時に神が見え、祝福が見えて来る。状況
でなく、自分の心の目が問題だ。


2007年06月22日(金)

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9


ある物語で、一人の女性が両眼を失明
してしまう。才能豊かで自信に溢れた
彼女は絶望のどん底に陥る。どうして
も視力を失った現実を認めることがで
きない。その時、父親が「目が見えな
い」と大声で言えと言った。どうして
も言えなかったが、とうとう泣きなが
ら「目が見えない」と言った。その時
から、自分が変えられ、前に向かって
歩み出せた。又、「私はアル中です」
とはっきり認めた人が癒されて行くと
聞く。私達は自分の現実を、弱さをは
っきりと認める事が必要だ。それを認
めた時に、「わたしの力は、弱さのう
ちに完全に現される」という主の力を
経験する。ある人が、以前はプライド
ゆえに、絶対に自分の弱さなど認める
事が出来なかった。認めたら負けで、
自分の拠って立つ所が失せ、自分が無
くなってしまう、その恐れできゅうき
ゅうとしていた。しかし、主の愛に触
れ、心溶かされ、又、主の前に砕かれ、
弱さを認める事ができるようにされた。
すると、今まで知らなかった祝福を味
わうようになった。「私にはこれが無
い」「あれも無い」と認めて行く時、
主がそこにどんなに働いて下さるのか
と、「わくわく」するようになったの
だ。喜びと期待のわくわく感で、いつ
も主を待ち望んでいる自分の姿に改め
て感謝が溢れたのだった。
・・・・・・・・・
弱さは認めたくないし、他人にも知ら
れなくないものだ。だが自らの弱さを認
めた時に初めて恵みの意味を知る。弱さ
の内に完全に現れる主の力を、楽しみに
期待し、わくわく感で生きて行きたい。


2007年06月21日(木)

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光をもつのです」ヨハネ8:13

ある婦人の証しだ。結婚し、二世帯同居
だった。毎日顔を合わせると、考え方、感
じ方の違いに、何かとギクシャクする中、ど
うしても姑が義妹と自分への扱いが違う事
を感じ、心に、こんなはずではない思いがふ
つふつと湧いて来る。義妹に対し、冷やや
かな態度になってしまう。クリスチャンなのに、
平安どころか、いら立ちと焦り、嫉妬心で
悶々状態だった。心が苦しく、切羽詰まり、
祈りに祈っていた時に、むち打たれ十字架
に釘付けにされている主が、強烈なインパ
クトで心に臨んで来た。自分の罪が、主を
十字架につけたのだと迫り来た。今まで頭
の理解でしかなかった御言葉や十字架の
実際が、初めて自分の事として受け取れた。
涙の悔い改めが与えられ、赦しを受け取っ
た。すぐに、姑と義妹に今までの悪い態度と、
嫌な思いをさせた事を謝罪した。心のすみ
ずみまで平安で満たされ、感謝で溢れた。
自分を主に近づけるために、徹底した悔い
改めを与えるために、この事態を送って下
さった事がわかった。信仰生活で、様々起
こる事柄は、私達を主に近づけるためであ
り、恵みを味わわせるためだ。痛い出来事が
必ず益とされる。
・・・・・・・・・・・・・・・
あの痛みがあったから、主のもとへ来れた。
この痛みのゆえに、主にすがり、拠り頼めた・・。
いい加減な、中途半端な者を、主に近づける
ためにこの事があった。もしあの事が無かっ
たら今頃・・。主を知る事は何にも代えられない。
感謝しかない。



2007年06月20日(水)

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります」ヤコブ3:14 

   
妬みは、人に根深く巣くう罪だ。人
を妬んで苦しみ、又、人から妬まれ
悩む。人を妬んで病気になった人も
あるくらいだ。妬みは深刻な罪だ。
カインはアベルを妬み殺人まで犯した。
ヨセフは兄弟達に妬まれ、エジプトに
売り飛ばされた。ダビデはサウルの
妬みで命まで狙われ苦しめられた。
放蕩息子の兄は、弟が好き放題して、
戻り、盛大に受け入れられているのを
見て妬んだ。主を十字架に追いやっ
たのも祭司長たちの妬みだ。人への
批判、非難、不満をよく点検して
みよう。その底に、相手への妬みが
潜んでいる事が往々にしてある。自
分は正しく相手を批判しているつも
りだが、実は隠れた密かな嫉妬が
ある。自分も無意識で、気づいてい
ないから要注意だ。プライドがあり認
めたくないし、気づきたくないので気
づかない。誰かに対して、心にざらつく
ものがないかよく探ってみよう。御霊
が照らし出して、指し示して下さる。
苦い根をそのままにしておくと、心の
底に憎しみが増幅して行く。光の
もとに出すことだ。「明らかにされた
ものはみな、光だからです」。悔い
改める時、赦され、妬みから解放
される。
・・・・・・・・・・
妬みとは、自分に無いもの、自分が
欲しいものを持っている相手に向か
う。妬みがあれば悔い改めよう。神は
更に良い別のものを与えて下さってい
ることを知る。


2007年06月19日(火)

 「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい」マルコ11:25

「祈って求めるものは何でも、すで
に受けたと信じなさい。そうすれば、
そのとおりになります」この御言葉
を喜んで受け取る人は多い。しかし、
すぐ後に「だれかに対して恨み事が
あったら赦してやりなさい」と告げ
ている。誰かに対して赦せない心を、
憎しみを持ちながら、幾ら祈っても、
答えられないということだ。祈って
も祈っても、答えられない状況があ
るか。心の奥底に恨みや憎しみがな
いか、御霊に探って頂く事が大切だ。
もし恨みがあれば、きっぱり赦すこ
とだ。祈っていて誰かにひっかかり
やわだかまり、重いものを感じるな
ら、それは主が語っておられる。
「誰かに対して恨み事」をよく探っ
てみよう。あの言葉、この態度、も
しかして根深い恨みがあるかも知れ
ない。認めたくないので、触れたく
ないので、無意識に心の奥底に押し
込めて、自分でも気づかずにいるか
も知れない。気づいたなら、主の御
前で赦そう。赦しなさいと言われる
主は、そうさせて下さる。「キリス
トの御前で赦したのです。これは、
私たちがサタンに欺かれないためで
す」赦さない心は、サタンの足場を
作ってしまう。赦す事ができるよう、
まず祈る事から始めよう。
・・・・・・・・
赦せない心は、祈りをシャットアウト
する。祈りが聞かれない。自分がどん
なに主の大きな赦しを受けて今がある
か、よく考えてみよう。赦せない心が
巣くっていないか御霊に探って頂こう。
祈りのためにも重大だ。


2007年06月18日(月)

「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」エステル4:16

ユダヤの民は、奇跡をもって、ハマ
ンの邪悪な計略から救われた。しか
し、振り返ってみる時に、一つ一つ
のパズルのピースがピッタリと合わ
さって来る。エステルが王妃になっ
た事、モルデカイがハマンの計画を
知った事、モルデカイの功績が年代
記に記されていた事、王がその晩眠
れなかった事、そのためそれを読ん
だ事、王が栄誉を与えたいと思った
事、その前に、エステルが翌日もう
一度招待した事、一つ一つの事柄と
タイミングが見事に完璧に整えられ
ている。まさに神のご計画そのもの
だ。この神のご計画に、エステルの
従順があったので、奇跡が成し遂げ
られ、ユダヤ人は救われた。もし、
エステルが恐れのため、拒んだなら、
どうなっていただろう。神の御心に、
私達が従順をもって応答する時に、
素晴らしい奇跡と栄光が現されるこ
とを、ここで見る事ができる。今、
目の前に、なすべき御心が示されて
いたなら、恐れて退くのでなく、信
仰もって受け取り、行って行こう。
神の御心と私達の側の従順が一つに
なった時に、素晴らしい奇跡が現さ
れるのだから。信仰もって従う事を
神は望んでおられる。
・・・・・・・・・
ユダヤ人の救いのため、一つ一つの
ピースがすべて準備され、エステル
の従順により神の栄光が現わされた。
従う事を求められる時にはすべての
ピースがすでに備えられている。


2007年06月17日(日)

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた」使徒16:25

苦難での私達の願いとは何だろう。「状
況が変わるように」ではないだろうか。苦
難が早く過ぎ去るようにと。しかし、信仰
というもの自体が、状況が変わらない中で
の生き方だ。状況さえ変われば何とかなる
との考え方は、事が済むとそれで終りなの
で、いつも繰り返し同じ問題で葛藤する事
になる。いつまでたっても学べない。そう
でなく、その状況の中で「どう生きる事が
主の御心なのか」であり、信仰とはそうい
う事だ。そこに焦点を合わせて行く時、自
分が変えられて行く。状況でなく自分が変
えられる。それが成長だ。パウロとシラス
は神の御心に従って苦難に会った。何度も
むち打たれて、冷たい暗い牢に入れられた。
足かせをかけられ、むち打たれた背は、ど
んなに激痛だったろう。思考が否定的方向
へ向かえば、幾らでも悲観的になり、自己
憐憫に不平不満、愚痴、怒りに陥った事だ
ろう。しかし、そちらを選択しなかった。
彼らは、主を選び、賛美と感謝を選んだ。
主を選択したのだ。これらすべての事に神
を認め、神のご計画を認め、最善をしてお
られる神を信じたのだ。その結果、他の囚
人達は、彼らにただ者ではないものを感じ、
関心を向け聞き入った。これが証しとなっ
た。状況の中で、どう生きるかを求めよう。
・・・・・・・・・・・
不都合な状況の中で、感謝する事は「選択」
だ。信仰だ。肉には出来ない。感謝する事は
神を認める事であり、権威と主権を認める事
だ。今の状況で感謝を選択すると、神が見え、
祝福が見えて来る。


2007年06月16日(土)

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり・・自分のいのちを与えるため」マタイ20:28

弟子達の関心は、誰が一番偉いかであ
った。それが常に関心の的であった。
ゼベタイの子、ヤコブとヨハネが栄光
の座で右と左に座らせて欲しいと願っ
た。母親まで出て来て子達のために願
ったのだ。主がこの世界の王となられ
た暁には右大臣左大臣にと。すると主
は的はずれな求めに、何を求めている
かわかっていない、これから飲む杯を
飲めるかと問われた。「できます」と、
主は十字架の事を言われたが、彼らは
勝利の祝杯だと思っただろうか。そし
て、残りの10人も同じものだった。な
ぜなら、ヤコブとヨハネの事で腹を立
て怒ったのだから。人の上に立ちたい、
支配したい、人の下ではありたくない、
これは誰しもにある欲望だ。なぜなら、
エデンの園でアダムとエバが蛇に誘惑
され、選び取ったものが、これだった
のだから。「神のようになり」たいと。
主はそんな彼らに、又私達に仕えるた
め、命を与えるために来たと言われた。
主が仕えて下さる。人を支配したい思
いが、自分にもある事を認めることだ。
どうにもならないその罪のために、主
がへりくだり、仕え、十字架で決着を
着けて下さった。へりくだれない私の
ために、主がへりくだって下さった。
この主の御前に悔い改め、従って行く
時、仕える者と変えて下さる。
・・・・・・・・
肉はどこまでも自己中心で、へりくだ
りたくないし、誰にも干渉されず、自
分の好きなようにしていたい。まして
や仕えるなど出来ない。そんな者が主
に従って行く中で変えられて行く。主
の奇跡だ。
 


2007年06月15日(金)

「人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごとだけが成る」箴言19:21

私達は多くの思いがあり、プランがある
が、主のはかりごとと、人の計画の違い
はどうすればわかるのか。心に湧き上が
って来た計画を主に相談することだ。肉
の思いは決して成就する事はないから
だ。ある人が時間と労力と財をかけて
次々と自分の計画を遂げようとした。し
かし、どれも途中で環境がふさがれて、
進めなくなり頓挫するのだ。何一つ達成
できず、ついに「あなたのご計画は何で
すか」と主に求めた。今までの人生を
振り返った時どうだろう。私はあの時、
この時、ああなる事を望み、こうしたか
った、私の願いはこうだった・・しかし、
主のはかりごとが成された。自分の
思いとは異なるが、主の御心なら、決
して頓挫する事なく成し遂げられて行く。
神から発したものだけが、神によって成り
神に至る。人から発したものは、神に
よって成ることも、神に至ることも無い。
神から発した計画は、不思議に投げ出
したり止めたりしないで、続ける事ができ
る。プロセスも神によって導かれるからだ。
「人は行ないが純粋だと思うが、主は人の
たましいの値打ちを量られる」動機は何か。
その計画の動機を見られる。動機も平安
ならその計画を主に委ねよう。「そうすれば
あなたの計画は揺るがない」。
・・・・・・・・・・
多くのプランを思いつくが、人間の、肉の計
画は成就しない。徒労に終わる。「私は何
を」でなく「主は何を」、主が私に望ん
でおられる事、して欲しいと思っておられ
る事を悟れるよう、よく祈ろう。

 


2007年06月14日(木)

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」Uコリント12:9

神がそのモーセを用いられたのは、
40才の時でなく、80才であった。体力
も衰え、一介の羊飼いとして40年もの
長い時を過ごし、かつての栄光、力は
すべて失せていた。何の自信も無いモ
ーセだった。40才の時であれば、意気
軒昂、気力も体力もあり、エジプトに
人脈も影響力も持ち、人間的に見れば、
何もかも好都合ではないか。しかし、
人の目と神の目は違う。かつての自信
に満ちたモーセは砕かれ、造り変えら
れ、整えられる必要があった。40年
は長い。何も無い荒野で羊を飼いなが
ら、自己放棄、へりくだり、柔和、そ
れらの訓練の期間であった。自分の力、
自信、野心、今や、何もかも無くして
しまったモーセ、失敗と挫折を経験し、
自らの無力を思い知ったこのモーセこ
そが、神のふさわしい器であった。荒
野の訓練の学校の中で、自らの無力を
知ると共に、へりくだりや忍耐力、他
者への思いやりが培われた事だろう。
何もない環境で、神と交わり、神を深
く知って行っただろう。陶器師である
神は、モーセを民を導く指導者として、
神の手の中で器に練り上げれられた。
モーセが自らの力に頼った時に失敗
したが、全くの無力になった時に、神
は召し出された。自らの無力を知る時
が、最も幸いな恵みの時だ。
・・・・・・・・・・・
自信も力も過去の栄光も何もかも失っ
たモーセが、ふさわしい器だった。し
ばしば弱いが、とことん弱くない事が
問題だ。絶対無力の中で初めて神を知る。
弱くて良いとは何と恵みで平安だろう。


2007年06月13日(水)

『主は彼にこう言われたのです「・・さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう」』使徒7:34

同胞を救おうと、エジプト人を殺して
しまったモーセは、パロを恐れて逃亡、
遠くミデヤンの地に身を寄せた。そこ
で家庭を持ち羊飼いとなった。王子で
あり王宮に住み、あらゆる学問を学び、
最高の栄華の中にいた彼は、人生のす
べてを捨てた生活だった。見渡す限り
何もない荒野で、淡々と羊を飼う日々、
かつてのエジプトの生活と雲泥の差だ。
淡々と一日が過ぎ、過去の栄光、地位、
名誉、何一つ無い荒野で、40年の歳月
をこのように過ごした。これが深い神
のご計画であった。モーセは、単調な
仕事、変化もない平凡な日々、同じ事
の繰り返しの明け暮れの中で、忍耐や、
砕かれる事やへりくだり、自分を捨て
る事を学び、培われて行った。モーセ
には、この環境が必要であった。有能
で力ある彼には、どんなにか葛藤の日
々であったろう。匙加減ピッタリの環
境に置かれ、モーセは砕かれた。間に
合う器と造り変えられて行った。時満
ちて神はモーセを呼ばれた。私達も今、
単調で何の変哲もない日々か。忍耐や
へりくだり、自分に死ぬ事、待ち望む
事、神は今その環境で柔和な品格を練
り上げようとしておられる。環境に神
を見て、今の場で忠実に仕えよう。小
事に忠実な者に神は更に大きなものを
任される。
・・・・・・・・・・・
主に一つの無駄もなく、その時、その
場が必要ゆえに与えられている。将来
のための布石でもあり、砕き、信仰を
培っていて下さる。不平不満で無駄に
せず、感謝を選択できたらどんなに良
いだろう。


2007年06月12日(火)

「これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」Uコリント12:8

パウロは真剣に、切なる願いをささげ
たが、願ったようには聞かれなかった。
肉体のとげは取り去られず、病気は癒
されなかった。それが答えであった。
神は私達が願うところを遙かに超えて、
良きものを与えて下さる。パウロには
医者ルカを同行させて下さり、テモテ
やテトスの助っ人を与えられた。キリ
ストの臨在で弱さをおおうと約束され
た。私達も同様だ。願ったものが与え
られないから、祈りが聞かれていない
のではない。違う形で豊かに答えて下
さるのだ。私達は色々な事で不安にな
り、思い煩う。健康の事、経済的な事、
親や子供の事、対人関係、仕事・・
様々な状況が次から次へと起きて来る。
そして祈るが、なかなか答えられない
と思う。つまり、心配事が無くならな
いのだ。幾ら祈っても状況が変わらな
い。しかし、神の答えは、その状況の
まっただ中で、平安を与えて下さる事
だ。ある時は状況を変えられる。しか
し、しばしば「状況」はそのままで「心」
を変えて平安にして下さる。「主の平安」
を下さる。この平安がある時、どんな
状況の中でも生きて行ける。この平
安こそどんな場合でも祈りの素晴らし
い答えだ。
・・・・・・・・・・・
苦しみや不安の中にいると、それが取り
去られるたい。とにかく状況を変えよう
と必死にもがく。が、何も変わらないの
で失望する。しかし、確かに祈ると同じ
状況の中で「心」が変えられている事に気づく。


2007年06月11日(月)

「私の思いは、あなたがたの思いと異なり、私の道は、あなたがたの道と異なるからだ・・わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」イザヤ55:8



神はすべての事を、ご計画通りに
成しておられるが、自分の思いと
異なるので理解ができない時があ
る。何でこんな事が?と思う事が
ある。主のために懸命に労してい
た若い働き人が突然召されたり、
竜巻や台風で会堂が破壊されてし
まったり、様々な、何で?の事態
が起こる。又、自分はこうしたい
のに、どうしても環境が開かれな
い。神の思いが違うのだ。しばし
ば神の思いと自分の思いが一致し
ない。しかし、神のご計画は完全
だ。ジグソーパズルの一つ一つの
ピースはよくわからないが、それ
らがつながると綺麗な絵が浮かび
上がる。そのように、後で、振り
返った時に、一つ一つがつながっ
て、神の意図がわかる。きれいに
解き明かされて、それらを通して、
何を教えようとされたかがよく理
解できる。だが、時に全くわから
ない事もある。人間の知恵では測
り知れないのだ。人間は不完全で
あり、理解力も不完全だ。完全な
お方を理解する事は不可能だ。わ
けがわからない。なぜ?の問いに、
全く答えられない事もある。あた
かも黙しておられるようだ。答え
が出ず、自分には理解できない時
も、「信仰」を最大限に使うのだ。
わからないが、神を信じるのだ。
わからないが事態を受け入れて、
自分のあるがままで神に向き合う
事だ。益として下さるのは不変の
約束だ。このような中で、何より
も神への「信頼」を学び、培われ
る。
----------------------
わからないけど必ず益となる、こ
の約束のみことばを握り、しっか
り信仰に立っていよう。わからな
くて良いのだ。すべてに自信満々
でなくて良くのだ。神様が導かれ
るから。感謝だ。


2007年06月10日(日)

「あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」ヘブル3:12

不信仰になると、恐れに支配される。
相手が巨人に見え自分はいなごに見
える。城壁は巨大で人々は強く、食い
尽くされそうだ。自分達は弱く小さく、
とうてい太刀打出来ない。自分は惨め
で消え入るばかり。素晴らしい約束の
地は何も見えず、恐れと不安、恐怖心、
すべてが否定的だ。斥候の10人は見て
来た事を「悪く」言いふらし、民を扇
動した。民は双方の意見を聞いたが、
不信仰な方を受け入れた。不信仰を選
択したのだ。民は大声で叫び泣き明か
した。あの苦しみのエジプトの方が良
いと、指導者モーセとアロンへの怒り
が噴出する。神はこの地に連れて来て
剣で倒そうとするのかと。ここまで導
かれて約束の地を前にしてまで、神を
悪意の神とする。何と歪んだ目だろう。
不平と愚痴、自己中心の心には
神の愛も、お心も何一つ見えない。
あなたは今、神の愛が見えているか。
新しいリーダーを立てて、エジプトへ
帰ろうと言い、信仰に立つカレブとヨシュア
を殺そうとまでした。彼らは皆、約束の
地へ入れず滅ぼされてしまった。不信仰
でなく「信仰」を選択しよう。「御言葉」
に立とう。カレブは見えるところでなく約
束を堅く握っていた。だから「上って行って
占領しよう、できる」と言えた。
・・・・・・・・・
御言葉は「可能」現状は「不可能」に見える。
どちらを受け入れるのか。御言葉を「一心に
見つめて離れないで」いよう。信仰を選択し
よう。それにより神への愛を表わすことがで
きる。


2007年06月09日(土)

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」民数記13:30

約束の地の前まで来た時に、12人の
斥候が遣わされた。戻った時、10人は
恐れて、民は強大で、自分達はいなご
のようで「攻め上れない」と怯えた。しかし、
ヨシュアとカレブは、上って行って占領しよ
うと人々を励ました。民は、出エジプト時
に神の超自然の偉大な力を体験してい
た。荒野においてもしかりだ。カナンの地
の約束も何度も聞いていた。しかし、斥
候達の言葉を聞いた時、神を信じる事
が出来なかった。12人は、全く同じ状
況を見たのに、信仰的に見るのと、不
信仰の目で見るのとでは、こんなにも違
う正反対の結論が出る。だいたい新し
い事を始める時に、8割方はまず出来
ない事から、計算を始めるそうだ。そし
て納得の行く説明がついてしまう。人間
は肯定的より、否定的考えの方が遙か
に強く、放っておくと必ず否定的方向へ
向かう。10人と民達は、神ではなく、
状況を肉の目でしか見なかった。しかし、
ヨシュアとカレブは、神の約束を見た。彼
らに導かれた人々は約束の地へ入って
行くが、不信仰に陥った民は皆、荒野
で死んだ。神は、「不可能」だと信じな
い人々と一緒に働く事がお出来になら
ない。私達の思考は否定的、悲観的
だ。神の言葉が思考となるよう、物事を
御言葉で判断して行く訓練が必要だ。
それには信仰の言葉を常に聞き続ける
事だ。
・・・・・・・・・・・・
あれだけの超自然の奇跡を見たに関わらず、
民のほとんどが不信仰のため荒野で滅んだ。
「信じない者にならないで、信じる者にな
りなさい」との御言葉に生きよう。


2007年06月08日(金)

「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」マルコ5:28



12年間の長血を患った生活、どん
なに辛く、苦しく、絶望的だった
事だろう。治療のために、自分の
全財産を使い果たしていた。しか
し、直るどころか、ますます悪化
して行った。経済的にも、身体的
にも、精神的にも、又、当時、長
血は「汚れたもの」とされ社会的
にも、受け入れられず、人生に何
の希望も無かったろう。この苦し
みが、彼女をして真剣に必死に、
主を求めさせた。主の着物にでも
さわる事ができれば直ると信じた
のだ。群衆の人混みをかき分け、
主の着物にさわった。すると、主
の癒しの力が流れ出て、彼女はす
ぐにその場で直った。「きっと直
る」と信じ続けていたのだ。する
と主は「だれがさわったのか」と
探し、彼女のために面と向かって、
関わろうとされた。彼女は恐れお
ののいて、主の前に出て、辛さ、
苦しみ、悲しみの真実を余すとこ
ろなく話した。彼女の病を直した
のは、紛れもなく主だが、「娘よ」
と呼びかけられ、「あなたの信仰
があなたを直した」と言われた。
彼女がこのまま人混みに紛れて、
隠れて去り、終わってしまったら
どうだろう。身体は直ったが、そ
れだけだ。しかし、主は彼女の身
体だけでなく、全人格に関わって
下さった。そして、「安心して帰
りなさい」と、心にも平安を与え、
全人格の救いを与えて下さった。
真剣に一心に主を求める心に、主
は向き合って下さる。
---------------------
主は求める者に、必ず姿を現して
下さる。お着物にさわることでも
できればという主を求めた飢え乾
きを忘れず、今日も豊かな主との
交わりの中を歩もう。


2007年06月07日(木)

「私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません」ヨハネ5:7



ベテスダの池には大勢の病人が集ま
っていた。その池は、主の使いが降
りて来て、水を動かし、その後一番
先に入った者は、どんな病気でも癒
されると言われていた。そこに38年、
病気の人がいた。主は彼を見て言わ
れた「よくなりたいか」と。「よく
なりたい」と言えばよかったが、彼
は、自分には、池の中に自分を入れ
てくれる人がいない、いつも先を越
されると答えた。他の人が我先にと、
先を越して入ってしまうので、自分
は直らないと。病気が直らない事を、
他の人のせいにしていた。その心を
見て取られた主は、では、わたしが
池に入れて上げよう、ではなく「起
きて、床を取り上げて歩きなさい」
と言われた。人に責任転嫁するので
なく、自分の足で立って、しっかり
自分の責任で歩めと。彼は主の言葉
を心に受け入れ、信じた。それゆえ、
すぐに立って床を取り上げて歩き出
した。もし、主の言葉を信じなけれ
ば、決して起きようとしなかったろ
う。意志を向けて、起き上がろうと
した時、主の力が臨み、奇跡が起き
た。私達はどうだろう。人がああし
てくれない、こうしてくれない、だ
から自分はこうなのだと、人のせい
にし、いつも言い訳し、愚痴と不平
不満、自己憐憫の中にいるか。そも
そも、その態度が問題なのだ。人依
存でなく、自分の足で立って、神依
存で歩もう。その時、生きている事
の、喜びと、実感を得る。
---------------------
自分が信仰を持って一歩踏み出すこ
とが必要だ。信じる事をしないで、
その場にとどまり続けず、信じる方
を選ぼう。必ず神様の栄光を見る。
変えられて行く。


2007年06月06日(水)

「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」ルカ12:21

金持ちの畑が、保管場所が無いほど大
豊作になり、大きな倉を建て、そこに
納めて「これから何年分も貯えた。さあ、
これで安心、楽しもう」と言った矢先に、
死んでしまった。神は「愚か者」と言わ
れた。なぜ愚かだったのか。財産で、
幸せが得られ命まで保障されると勘違
いした事だ。物に依存していた。物で
安心など買う事ができない。彼の人生
には神が無かった。お金に頼っている
人は多い。金持ちほど更に富を欲しが
る。幾ら得てももっと増やしたい。こ
れは心の問題であり心の底に横たわる
「貪欲」から来ている。どこまで行っ
ても決して満足する事がない。富が夢
を叶え喜びと平安をもたらすと勘違い
している。私達にも古い根深い価値
観がある。金銭に依存していないだろ
うか。握り締め、容易に偶像になって
しまう。又、この金持ちは、別訳では
「私の」倉、「私の」穀物、「私の」「私
の」だ。人に分け与えようとの発想も、
神への感謝も全く無い。あるのは、ただ
「自分」だけだ。私達も、自分のためだ
けだろうか。神に焦点を合わせる時、
神に喜ばれるよう富も用いる事が
出来る。その時、神の前に富む者とさ
れ、天に宝を積む。働く力も、豊作も
与えて下さったのは、神だ。
・・・・・・・・・・・
アダムの罪以来、自分を喜ばせる事で
満足と幸せが得られると思い、どこまで
も追いかけるが大きな勘違いだ。神に
従い、神をお喜ばせする時に自分に大
きな喜びと満足が来る。


2007年06月05日(火)

「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」創世16:8

                              

サライのもとから逃げたハガルに、
主の使いが問うた。ハガルは本心に
立ち返らなければならなかった。自
分は何者で、自分の立場は何なのか。
自分は何をすべきなのか。本来の自
分をしっかり見極める必要があった。
へりくだりが必要であった。どこか
ら間違ったのか、立ち返る必要があ
った。みごもって、女主人を見下げ
るようになった、自分の立場をわき
まえない高慢、横柄さ、わがまま、
それらを悔い改めなければならなか
った。自らの立場をはっきり知る必
要があった。それを受け入れ、へり
くだる事を求められた。このままで
は、自分もお腹の赤ん坊も自滅だ。
「あなたの女主人のもとへ帰りなさ
い。そして、彼女のもとで身を低く
しなさい」そうすれば大いに祝福す
ると。私達は好き勝手にしたい。誰
にも束縛されたくない。自由にした
い。しかし、それは肉だ。自分の好
き勝手にしたいという自我は必ず砕
かれる。心正され、本来の位置に、
おるべき所に戻らされる。しかし、
その所でのみ、祝福されるのだ。ハ
ガルは心砕かれ、サライのもとへ、
本来の自分の場所へ戻って行った。
あなたにも神は問われる。あなたの
今いる位置は?今、あなたは何をす
べきなのか?もし、神に近くなけれ
ば、神のもとへ立ち返ろう。
--------------------
どこから来て、どこへ行くのか。一
番良い道を知っておられる神様に委
ねよう。自分の好きな方向へ向かっ
て行くならいつの間にか道に迷って
しまう。本来の道はどっちだろう。


2007年06月04日(月)

「イサクはその地に種を蒔き、その年百倍の収穫を見た。主が祝福してくださったのである」創世記26:12



「先の飢饉とは別に、この国にま
た飢饉があった」との状況にあり、
飢饉の中で、イサクは種を蒔いた
のだ。作物が育つどころか、どん
どん枯れて行く状況での種蒔きだ。
外側を見ると、作物が育つような
状況では全く無かった。何のため
に蒔くのか。蒔いても種が無駄で
はないか。飢饉のまっただ中で何
が望めよう。しかし、その地に種
を蒔いた。イサクには信仰があっ
たからだ。見た目の状況ではなく
神を信じたのだ。そうでなければ、
種を蒔くことなど出来ない。見え
るところは、種も無駄、労力も徒
労だ。しかし、百倍の収穫を得た。
「主が彼を祝福して下さった」通
りに神の一方的な祝福だ。私達も
信仰によって進む時、大きな祝福
を見る。しかし、もしイサクが蒔
かなかったらどうだろう。「パン
を水の上に投げよ。ずっと後の日
になって、それを見いだそう」
「雲を警戒している人は種を蒔か
ない」「朝のうちに種を蒔け。夕
方も手を放してはならない」神は
祝福して下さる。しかし、私達の
側ではなすべき事をする必要があ
る。忠実に種を蒔く事が大切だ。
状況を見ていたなら決して蒔けな
い。見えるところでなく信仰によ
って歩もう。豊かに蒔く者が豊か
に刈り取る。あなたにも、今なす
べき事が示されているだろうか。
蒔かない限り、刈り取りは無い。
蒔いて祝福を刈り取ろう。
-------------------------
自分の思いや気力なら、恐れや
不安で蒔く事は不可能にしかみ
えないだろう。しかし蒔かない
種に実は成らないのだ。主に助
けられ、励まされ、祝福を信じ
て蒔き続けよう。


2007年06月03日(日)

『「わたしに何をして欲しいのか」すると、盲人は言った。「先生、見えるようになることです」』マルコ10:51

バルテマイは、主に「わたしに何をして
ほしいのか」と問われ「目が見えるよう
になることです」と明確に答えた。彼は
盲目ゆえ、社会生活が出来なかった。当
時は今のような充実した福祉など無く、
物乞いで、人からの憐れみで生活してい
た。人の手がなければ何一つできない、
まるで生けるしかばねだ。それは惨めで、
辛くて、哀しくて、プライドが何と傷つ
く人生であったろう。これらの苦しみ、
すべての根、原因が、目が見えないとこ
ろから来ていると理解していた。それで、
その解決を主に求めた。私達も様々な悩
み、困難が色々な形で表面に表れて来る。
しかし、その問題の本当の原因はどこに
あるのだろう。いつも同じような状況で
トラブルを起こすなら、自分の内に何か
の誘因があり根がある。特定の状況にな
った時に心がざらつくなら、そこに何か
解決の必要なものが潜む。自分の心の奥
にあるプライド、虚栄心、体面・・何に触
れるのか。何が原因なのか。欲が潜んで
いる。同じような場面で起こるトラブル
は、相手でなく環境でなく、自分に問題
がある。そこを主は解決して下さる。
「わたしに何をして欲しいのか」と問わ
れる主に、「〜〜です」と明確に答えら
れるように、まず祈ろう。
・・・・・・・・・
主は「何をして欲しいのか」と問うて下
さる。「〜をして欲しいです」と答える
ためには、自分を直視して真実に自分の
状態を知る事が必要だ。ふたをしたり、
あいまいにしていたら答えられない。


2007年06月02日(土)

「そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった」出エジプト14:22

                        
モーセとイスラエルの民は、絶体絶命の
窮地に追い込まれた。エジプトの戦車の
大軍が後方から追跡してきて、逃げるに
も、前は紅海の断崖絶壁だ。どうすれば
良いのか。進む事は出来ないし、戻る事
もできない。あなたもこんな窮地に陥っ
た事があるだろうか。ある男性は会社が
倒産、貯えもなく、家族を抱え、次の仕
事を探し回るが無い。もう恐れと不安で
パニック状態、恐怖だった。しかし、神
に目を向けた。静まって、心をことごと
く打ち明け、自分自身も状況もすべてを
明け渡し神に頼った。その時、思いもよ
らない所から仕事が与えられたのだ。ま
さに海の真中に乾いた道が現れた。ある
人は就職活動、次々と落ち続けて先が真
っ暗で何も見えない状況に。もはや砕か
れて、全面的に委ねた時に自分の願いに
合った先が与えられた。目の前に乾いた
地が現れた。御心を歩もうとする時に、
目前に妨げが起こり、困難にぶち当たる。
モーセ達は、神の導きに従ってエジプト
を出たのだ。すると絶体絶命の窮地に陥
った。しかし、神は、道無き所に道を造
られる。あなたも今困難にぶち当たって
いるか。神を信頼しよう。その事態を必
ず良きに導いて下さる。神を信じて進む
と、あなたの目の前に乾いた道が現れる。
・・・・・・・・・・・・
私達の絶体絶命の窮地は、神が奇跡をさ
れる好機だ。海の中に道を造られる神を
信じ、決して諦めないで、絶対に諦めな
いで神を信じよう。信仰人生、道が造ら
れるのを見て行こう。

 


2007年06月01日(金)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」詩篇46:10




ある一家が、仕事の関係で遠
方へ転居する事になった。一
家にとって全く新しい計画が
バタバタと決まって行った。
祈っていた事が導かれて行っ
たので、感謝な喜ばしい事で
あった。それに伴い、持ち家
を売却する事になった。すぐ
に売れるだろうと楽天的に考
えていたが、これがなかなか
思い通りに行かなかった。半
年たっても売れない。決まり
かけるが、途中でキャンセル
になる。そんな事も幾度も。
そんな中で、信仰が試された。
すべてに「神の時」がある事
を思い知らされた。厳粛な定
められた神の時があり、それ
以前に、幾ら人間が焦っても、
急いても、どう動いても、ど
うにもならない事を思い知ら
された。主権者は神であられ、
ご計画を、神が進められてい
る事を学ばされた。雲の柱、
火の柱の導きの主を覚えた。
「雲が上らないと、上る日ま
で、旅立たなかった」雲が上
らない限り、事態は動かない
事を学ばされた。やがて「時」
が満ちて、物件は良い人に、
思いを越えた価格で売れた。
良い人に、家が渡った事が何
より嬉しかった。厳しい信仰
の試練であったが、神がまこ
とに崇められるべき神であら
れる事を、学ばされた良き訓
練であった。今、あなたも、
このような試みにあるなら、
主の主権を認めよう。御前に
ひれ伏そう。そうする時、主
が事を行われ、栄光を見る事
になる。
-----------------------
いら立つ時、落胆する時、主
権者である神様を忘れている
時ではないだろうか。わが主、
わが神は私の力、その神様が
すべてを導かれている。今日
も信仰の目でしっかり見つめ
て歩もう。