2001年07月31日(火) 「私たちは、この御子のうちにあって、罪の赦しを受けているのです」(エペソ1:7)
「私たちは、この御子のうちにあって、罪の赦しを受けているのです」(エペソ1:7)
神の御心をそれてしまた時、あなたは、神はどう思 っておられると思うだろうか。多くの人は、神が怒っ ておられると思う。親が子供が悪い事をしたら叱るよ うに。そして、見捨てられるのではないかと思ってい る。しかし、これは聖書の言っている事ではない。 一旦イエスを信じ神の子供とされたら、二度と神に受 け入れられていないのではと悩む必要はない。 確かに、神に従わないで罪を犯したなら平安は無くな る。その罪は告白し、悔い改めなければならない。 しかし、大切な事は神の家族から追い出される事はな いという事だ。私達の努力でなく、神の恵みにより完 全に受け入れられているからだ。行いの結果でなく、 賜物として無償で永遠の命が与えられている。 神は永遠の愛で私達を愛されている。不従順になり神 から離れた時も、神は交わりに戻るように切に願って いる。もしあなたが御心をそれていたら、すぐ神の元 へ帰れ。豊かに赦される。
2001年07月30日(月) 「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)
「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)
モーセがエジプトを出た時、追っ手の 軍隊は迫り、目の前には紅海が横たわり もう絶体絶命だった。人々は自分達は滅 びると思ったことだろう。しかし、神は 紅海を分けられた。乾いた地が現われ人 々はそこを通って渡った。追っ手のパロ 軍勢は海に飲みこまれた。男だけで五千 人の人々にイエスは食事を与えようとさ れた。弟子達はどうしてよいかわからな かった。しかし、主は少年の五つのパン と二匹の魚を祝福され、皆が満腹できた パウロとシラスは迫害により投獄された 身を拘束された。しかし、神は地震を起 こされ、これを通し、パウロとシラスを 用いて、看守を救いに導かれた。私達は 絶対絶命と思う時、望みがないと思う時 神は思いもよらない事を成し遂げて下さ る。夢にも思わない事、思いを遥かに超 えた事をして下さる。神に不可能はない 昔も今も、奇跡の神だ。神は奇跡をして 下さる。
2001年07月29日(日) 「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)
「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)
種を蒔いて、花を咲かせたり、野菜を栽 培したりした事があるだろう。種を蒔くと 実がなる。良い実にしろ、悪い実にしろ、 種を蒔くと、必ず結実する。ある母親が 10代の息子にバイクを買い与えた。 息子はスピードのとりことなり、危険を 顧みず、バイクを乗り回していた。ある 日、彼はカーブを曲がり切れず、バイ クごと転倒した。彼は病院にかつぎ 込まれた。母親は混乱していた。病 院に駆けつけた牧師にすがりつき、 「なぜ神様はこんな事を許されるので すか」と泣いた。しかし、彼女は事故 の事で、神を責める事は出来ない。 無茶苦茶な乗り方をしていれば、事 故を起こして当然だ。私達がクリス チャンだと言う理由だけで、蒔く者 は刈り取るという法則を神が免除 される事はない。しかし、もし御霊 のために蒔くなら、永遠の命を刈り 取る。失望せずにいれば、時期が 来て刈り取る。私達は必ず蒔いた ものを刈り取る。あなたは何を刈り 取るだろうか。
2001年07月28日(土) 「主よ。お話しください。しもべは聞いております」(Tサムエル3:9)
「主よ。お話しください。しもべは聞いております」(Tサムエル3:9)
あるクリスチャンホームで育った子 供が、いつしか礼拝出席が義務とな り、その内、礼拝に行かなくなって しまった。行かない状態が続いた時 に、心にとがめが来た。なぜなら、 神を愛し、礼拝するように小さな時 から教えられていたからだった。 やがて、段々ひどく惨めな気持ちに なって来たが、それでも礼拝に行く 事が出来なかった。段々、苦しくな って来て、神を意識するようになっ た。ある日曜の朝、「今日、行きな さい」との聖霊の強い促しを感じた。 神を感じた。その御声に従い、その 日、命じられた通りに従い、礼拝に 行った。その日以来、一度も休んだ 事がない。神の御声を聞いた時に決 っして心を頑なにしない事だ。神の 御声を聞いた時に、従うなら、私達 も変えられる。一段階、一段階信仰 生活に成長出来る。御声に聞き従え。 これが成長の秘訣だ。神の御声を聞 いたなら、決して心を頑なにするな。
2001年07月27日(金) 「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることが出来ません。またあかりをつけて、それをますの下に置く者はありません。燭台の上に置きます」(マタイ5:15)
「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることが出来ません。またあかりをつけて、それをますの下に置く者はありません。燭台の上に置きます」(マタイ5:15)
ある日、一人のクリスチャン婦人のもとへ、 年配の女性が訪ねて来た。教会学校の子供も 一緒だった。知らない人だったので、不思議 に思いつつ、挨拶をし「何か御用ですか」と 尋ねた。すると、深い悩みの中にある事を話 し出したのだ。「どうして私の所へいらした のですか」と聞くと「いつも私の家の前を通 るあなたのお顔が穏やかで明るくて、嬉しそ うに見えました。私はあなたが羨ましいでし た。すると教会学校へ行っている娘があなた のことを知っていると話してくれました。 そして、思い切ってお訪ねしたのです」クリ スチャン女性は神がこの婦人を送られたと確 信し、手を延べた。交わりが続く中で、婦人 はイエスを救い主として信じたのだ。誰かが あなたをいつも見ているかもしれない。 あなたは光だ。その光を輝かせよ。闇に迷っ ている人々の道しるべとして用いて下さる。
2001年07月26日(木) 「岩の上に落ちるとは・・・聞いたときは喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練の時になると、身を引いてしまうのです」(ルカ8:13)
「岩の上に落ちるとは・・・聞いたときは喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練の時になると、身を引いてしまうのです」(ルカ8:13)
小学生の頃、理科の授業でガラスの鉢に豆を 入れて目が出る様子を観察した事があるだろう。 豆は根を出してから、新芽が上に伸びる。 豆をどのようにおいても根が伸び、新芽は上に 伸びる。豆を地面に蒔いた時は辛抱強く芽が出 るのを待つ。なぜなら、根をしっかりおろそう としている事を知っているから。植物が育ち、 豊かな収穫を得ようとするなら、健康な根は不 可欠だ。私達の信仰生活も同様だ。 根が強くならなければ、花が咲き実が実る事は あり得ない。根が何よりも一番大切だ。 根を下ろすために祈りと御言葉、礼拝や聖書の 学び、クリスチャンの交わり、これらが必要で ある。あなたは日々地道な祈りをしているか。 根は見えない。人から見えない神との交わりの 生活が根を下ろさせる。根が下ろしていれば、 試練で倒れる事は決してない。何よりもあなた の根の生活を大切にし、充実させよ。
2001年07月25日(水) 「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら巡り歩いた」(使徒8:4)
「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら巡り歩いた」(使徒8:4)
ヒトデを見た事があるだろうか。切っ ても切っても新しいものがそこから 生えて来る。 幾ら切っても生えて来て、どんどん 増殖する。幾世紀にも渡って、クリ スチャン達は迫害されてきた。ひど い迫害に会って来た。しかし、迫害 に会ってもキリストを信じる信仰が 無くなる事は無かった。むしろ、ま すますクリスチャンが増えて行った。 それは彼らが離散し、行った先々で、 どんどん宣べ伝え続けたからだ。一 世紀の信者達はひどい迫害を受け、 ユダヤ、エルサレムの各地に離散、 各地で御言葉を宣教し続けた。沢山 の救われる人々が起こされて行った。 キリストの教会はどんな迫害があっ ても成長し続ける。黄泉の力もそれ に打ち勝つ事は出来ない。迫害に会 う時、更に増えて行くばかりだ。同 様に、私達も職場で、学校で、家庭 で、近隣で、光となり地の塩となる 事を主は望んでおられる。主がそこ にあなたを遣わされた。まず周囲の 人々のために祈る事から始めよ。
2001年07月24日(火) 「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Uコリント4:18)
「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Uコリント4:18)
最近、痩せる薬や、痩せる食物、飲料、 様々な種類の広告が氾濫している。 中には金儲け主義の中身がいい加減な成分 だと、消費者からの苦情により、調査した 結果がよくニュースで報じられている。 人々の痩せたいという欲求に合致してしま うので、簡単に騙されてしまう。目に見え るものに焦点が置かれているからだ。 しかし、すべての目に見えるものは一時的 で、それに頼れば失望落胆させられる。 パウロも御言葉の中で、外なる人は朽ちる と言っている。肉体は衰える。しかし、落 胆する事は無かった。なぜなら、内なる人 は日々、新しくされて行くからだ。 日々、新しくされているので、目に見える 一時的なものに惑わされず、目に見えない 永遠に焦点を合わせて生きる事が出切る。 永遠が第一の関心になると、様々な苦しみ や問題は一時的な試練だと気付くようにな る。その試練は私達のうちに働いて重い永 遠の栄光をもたらす。今の苦しみは軽いと 私達は永遠を持っている。
2001年07月23日(月) 「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」(Tテモテ4:7)
「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」(Tテモテ4:7)
スポーツが盛んだ。又、健康のための色々 な企画も盛んだ。朝早くジョギングする人々 は多い。プールに通い、泳いだり、ジムに通 い身体を鍛えたり、ダンスをしたり、又、ゴ ルフやゲートボールも盛んだ。人々は肉体の 鍛錬に気を使う。気を付けて、肉体を鍛える しかし、聖書は、肉体の鍛錬は「少しは有益」 だと言う。身体の健康を保つことは良い事だ しかしパウロは「敬虔はすべてに有益だ」と言 っている。。身体だけでなく、霊を鍛える必 要がある。「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」 霊的な鍛錬とは、祈る事、聖書を読む事、神と 人に仕えること、聖霊によって歩むこと、キリ ストを証しする事。これは永遠のためにまで有 益だ。ゴルフや水泳の楽しみは良いことだ。 同時に霊的に健康であるために祈り、神の御言 葉を学ぶ必要がある。それが遥かに大切だ。 あなたの霊的健康にいつも目を注ぎ、しっかり 栄養を与えよ。
2001年07月22日(日) 「人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように」 (Tテモテ6:18)
「人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように」 (Tテモテ6:18)
ある人が言った「神は人にお金の管 理を任せられない事がある。なぜな ら、神はそのお金を困っている人に 回したいのに、人は自分のためにと っておくからだ」聖書にこんな御言 葉がある。「あなたがたにも蒔く種 を与え、それをふやし」Uコリント9:10 私達一人一人に「種」としての富を 与えておられる。種は土の中に蒔か なければ絶対に増えない。そのまま 置いておけば増えない。種として与 えられている富を献げないで、自分 のものとして取り込むなら、絶対に 増し加えられる事はない。神はあな たに任せた富をあなたがどう使うか を試しておられる。あなたに与えら れた富をすべて神の御前に置き、ど う使いましょうかと、祈れるなら合 格だ。あなたは神のみこころに従っ て、任された富を用いているか、そ れとも自分の欲望のためか。みここ ろ通りに使うなら、更に、多くの富 をあなたに任せて下さる。
2001年07月21日(土) 「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された」マタイ21:16
「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された」マタイ21:16
宮の中で子供達が「ダビデの子にホサ ナ」と叫んでいた。祭司長、律法学者 達はそれを見て、腹を立てた。イエスは 子供達をころさら愛された。イエスの元 へ来る子遠達を弟子達は叱った。しか し、イエスは「わたしのもとへ来させな さい。止めてはならない」といさめら れた。子供達の賛美と素直な信頼は、 イエスをどんなにお喜ばせした事だろう。 子供達の賛美は十字架へ向かう主を支 えた。私達も信仰生活で様々な問題に 苦しみにで出会う。反対者から攻撃 され、批判され、非難され、悪口を 言われ、迫害を受ける。私達の心は 傷められる。そんな時、幼子の単純 な素朴な信仰に慰められる。幼子の ような素直な信仰、単純な主への信 頼を持った人々に慰められる。どん な状況の中でも、幼子のような主へ の信頼は周囲の人々を引き上げ励ま して行く。神は幼子のような信頼を 喜ばれる。信仰が最も輝くのは子供 のような素直な心だ。
2001年07月20日(金) 『わたしがあなたの右の手を堅く握り「恐れるな。私があなたを助ける」と言っているのだから』(イザヤ41:13)
『わたしがあなたの右の手を堅く握り「恐れるな。私があなたを助ける」と言っているのだから』(イザヤ41:13)
赤信号で止まり、車の中から見ていると、 目の不自由な女性が盲導犬に導かれて歩道 を渡っていた。工事中で、縁石が掘り起こ されていて瓦礫の山だった。 しかし、盲導犬は見事に導いてその道を無 事に渡らせた。女性は目は見えなくても、 盲導犬に全面的信頼を置いているので、恐 れる事も無く確信を持って進んでいた。 一人の女性が離婚を経た。思いもよらない 出来事であり、打ちのめされた。自分の人 生が途上で破壊してしまったように感じた。 しかし、主に信頼し、立ち上がり新しい歩 みをはじめた。すると、神は信頼するなら 必ず導いて下さる事を改めて発見した。 そして確信した。嵐の中の小舟のように波 風にうろたえてしまう事はあっても、神を 求め、神に祈る時必ず答えて下さった。 そして平安を心に満たして下さった。神は 問題の無い人生を約束しておられない。 しかし問題のまっただ中で道に迷う事なく 針路を示し、導くと約束しておられる。 神に信頼せよ。
2001年07月19日(木) 「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:41)
「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:41)
クリスチャンは天国へ行くまで一生、どんな成長 した人々でも、誘惑を受ける。 この世では、誘惑がある。サタンは虎視たんたんと 狙っている。あなたの弱い所をサタンは熟知している。 その弱さに攻撃をかけ負傷させる。虚栄心や貪欲、嘘、 プライド、妬み、世の快楽を愛する心、金銭を愛する 心、短期、怒りっぽい心、思い煩う心、それらは常に 標的にされ狙われている。誘惑とは神のお心に反する 事を行ったり、言ったり思ったりと、そして、神から 離そうと働きかけてくるサタンからの誘いだ。 それは必ず心地良い。甘い。そうでなければ誘惑にな どならない。苦くて辛ければ誘惑にならない。 甘い事に、あなたにとって心地良い事に十分気をつけ よ。そして、目をさましておれ。自分の弱さをよく知 り、しっかり見張れ。必ずあなたの弱い所に来る。 神を呼び、神に助けを求めよ。そうすれば誘惑は来て も、それに陥る事は無い。
2001年07月18日(水) 「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使途17:11)
「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使途17:11)
疑い深い人が周囲にいるかも知れ ない。又、あなたかも知れない。そ れらの人達は、物事をまず疑ってか かる。しかし、真理を知ろうとしての 疑いなら、その疑いは真理を見い出 すかも知れない。パウロがベレヤに 来た時、そこのユダヤ人はテサロニケ のユダヤ人達よりも良い人達だと気 づいた。非常に熱心に御言葉を聞き、 その通りかどうか毎日聖書を調べた。 彼らは旧約聖書を信じていた。パウ ロの宣教に真剣に耳を傾け、それが 聖書に基づいている事がわかった時、 キリストを信じるようになった。疑 い自体が悪いとは限らない。それによ って、真理に導かれる事もあるからだ。 健全な疑いを持つ人は、狂信や盲信 から守られ、福音を正しく聞く事がで きる。聖書が真実で権威のある書か どうか、又、その根拠を考えるように なる。又、クリスチャンの主張を検証 するようになる。希望には十分な根拠 がある事を見い出すようになる。
2001年07月17日(火) 「彼は主が自分から去られたことを知らなかった」(士師記16:20)
「彼は主が自分から去られたことを知らなかった」(士師記16:20)
像の例え話がある。テントにいる人間の所へ、 象が来て「ほんの鼻先だけでいいのです。入れ て下さい」と頼む。鼻先ぐらいならと気に止めず 了解する。「もう少し鼻を入れさせて下さい」そ れを許すと、どんどん手の先を、手を、耳を少し と少しづつ、少しづつ了解させ、やがて、テント に象が丸ごと入ったという話しだ。 これは誘惑と罪を表わしている。はじめから全貌 は見えず、少しづつ、少しづつなのだ。だから、 これくらいどうもないと気を許す。そのうちに取 り返しのつかない事になる。罪の常道だ。面白が って俗っぽい事と戯れる。少しづつ深みにはまり、 気付かないうちに主から少しづつ離れる。神の懲 らしめの危機的状況が臨むまで気づかない。 自分の真の姿を悟らない。御言葉に照らされ、目 を覚ます。サタンに霊的な力や判断力を奪われて いた事に気づく。どんな娯楽を楽しむかで、神か らどれほど離れてしまったかがわかる。 以前は不快だと思っていた世のものを、今は楽し んでいないか。
2001年07月16日(月) 「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いてただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:22)
「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いてただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:22)
ある中学生が、感謝しようのメッセージを聞いて、 それを御言葉の通りに実行し、お父さんに「有難う」 を伝え、具体的に感謝した。父親はびっくりした。 聞いた御言葉を、示された御言葉を実行する時、神の みわざが周囲にも現されて行く。しかし、私達はうや むやにしてしまい、素直に実行しない事がいかに多い だろうか。神の御言葉を聞いても実行しないなら、自 分を欺いていると聖書は言っている。 人は自分の姿を示され、照らされても、すぐ忘れ、決 して変わろうとはせず、あいまいなままで過ぎて行く。 いつも神に祈りを聞いてもらいたいと思う。 しかし、私達の側はどうか。神の御言葉を聞いて神に 応えているだろうか。 神の語って下さる言葉を大切にし、一つ一つ心を込め て、行なおうとしているだろうか。御言葉は真理であり 真実だ。神に語られたら、即座に応答しよう。
2001年07月15日(日) 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)
信仰のゆえに殉教した多くのクリス チャンがいる。神はどう思われるの だろうか。最初のクリスチャンの殉 教者はステパノだった。キリストへの 忠実さのゆえに、石打ちによって殺 されたが、サウロという若者はこの 殺人に賛成していた。ステパノの死 後、サウロはダマスコへ出かけたが、 その途中、地面に倒れた。「サウロ、 サウロ。なぜ私を迫害するのか」と いう声を聞いた。サウロは思ったか も知れない。「私はあなたを迫害し ていない。私が迫害したのはステ パノだ」しかし、その声ははっきりと 言った。「わたしは、あなたが迫害 したイエスだ」ステパノに投げつけた 石は、キリストに対して投げたものだ った。ステパノを打った石はキリスト を打った。ステパノのすべての痛 みをキリストも感じられた。私達がク リスチャンゆえに受ける迫害や痛 みを主も同じように経験して下さっ ている。
2001年07月14日(土) 「私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くしましょう」Uコリント12:15
「私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くしましょう」Uコリント12:15
ある宣教師夫妻が海外で、懸命に働 いた。働き始めた時、喜びに満ちて おり、伝道出来る事は特権であり、 素晴らしい事だと思っていた。最初 の数年間、よく燃えていたが、それ は実は神のためではなかった。自己 満足のためであったのだ。懸命に働 いている充足感に動かされ無意味に 燃えていた。勢いよく燃えていたが それによって多くのストレスがきた。 思い通でない欲求不満にイライラし ていた。平安は無く、焦りと思い煩 いに落ち込んだある時、どん底だっ た。しかし、そこで真にキリストに出会 い、人生は再びキリストのために光り始 めた。クリスチャンの燃え尽き症候 群と神のために燃える事は違う。燃 え付きは無駄に燃やす事だ。そして、 自分の力で神の働きをする事だ。神 のために燃える事は、自分の人生を 賢く使う事であり、神から力を受け て、すべてにおいて神に頼る事だ。
2001年07月13日(金) 「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)
「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)
私達はよく簡単に人を慰めようとしてしまう 例えば、ある人が、自分は嫉妬深くて、すぐ人 を妬んでしまう。今、友人を妬んでいて苦しい と言ってくる。その時、嫉妬心など誰にでもあ る。そんな事、誰でもだから気にするなと慰め る。あなたには良いところも沢山あるのだから と。しかしそれは、なんの慰めにもならないし 助けにもならない。大切な事は、妬みは神の御 前に深刻な罪である事を認める事だ。それを認 める時、神の豊かな赦しにあずかれるのだ。 自らの罪を認めない限り許される事はない。 「少ししか赦されない者は、少ししか愛しませ ん」この人々は自分の罪深さも知らなければ、 神の赦しの素晴らしさも知らない。 不道徳な女は自分の罪が多い事を認めた。 そして多く、豊かに赦された。精励が示されて いるあなたの罪があるか。すぐに告白しよう。 血潮により赦される。
2001年07月12日(木) 「いつでも、すべてのことについて、わたしたちの主イエス.キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」(エペソ5:20)
「いつでも、すべてのことについて、わたしたちの主イエス.キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」(エペソ5:20)
イエスは「これらのわたしの兄弟たち、しかも 最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしに したのです」と言われた。私達が周囲の人を愛す る時、そこにイエスを現す。また、人から愛を受 ける時、そこにもキリストを見る。愛による行な いがある時、そこにイエスがおられる。私達は、 大きな奇跡ばかり心に思い描いて、自分には神は 臨んで下さっていないと思いがちだ。しかし、そ うではない。神は日々、毎瞬、毎瞬共におられ、 働いておられる。それは、日常のごく普通の出来 事の中でだ。今日あなたへのちょっとした親切な 言葉、思いやりを示してくれた人がいるか。 それは、キリストのあなたへの愛であり、あなた への思いやりだ。大きな事から小さなことに目を 転じて見よ。日常の中に、神様の多くの愛と配慮 を見つけ出して驚くだろう。神の恵みを数えよ。 いかに恵みが満ち溢れている事か。
2001年07月11日(水) 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです」(マタイ7:13)
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです」(マタイ7:13)
ある時、車で高速道路を走っている と、反対車線で事故が起きていた。 横転した車に、数台の車が衝突して いた。道路は完全に塞がれていた。 その所から渋滞が始まっていた。人 々はその事態を知らないで、どんど ん進んでいた。それらの車を反対 車線から見ていて「この道を行く のは止めて、出口から出なさい!」 と叫び教えたい思いだった。先にあ る行き止まり、通行不能を知らない で、すべての車はどんどん進行方向 へ向かう。日々、私達の周囲も同様 だ。行き止まりを知らないで、人生 を突進している。前に進む事だけを 考え、キリスト無しの人生がどうなって いるのかを知ろうともしない。救わ れた私達は、周囲の人々に伝えるべ きメッセージを持っている。神は日 々それを伝えさせる機会を与えるた めに、あなたを職場や学校、家族、 近隣に遣わしておられる。あなたが 受けた福音を与えない限り、人々は それを聞く事はない。
2001年07月10日(火) 『ですから行って、お弟子たちとペテロに『イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』(マルコ16:7)
『ですから行って、お弟子たちとペテロに『イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』(マルコ16:7)
あなたは、今までに取り返しのつかない失敗を したと感じた事があるだろうか。ペテロは、皆が 裏切っても私は裏切らない、死んでもついて行く と豪語した。それなのに、その舌の乾かぬ内に、 イエスを裏切ったのだ。呪いを誓って否んだのだ そんな人知らないと。主を否定した。 鶏が鳴いた時、イエスの警告を思い出した。 男泣きに泣いた。辛い深い悔恨がった。しかし、 主のペテロへの愛は全く変わらなかった。 その弱さをご存知で、再び回復して下さった。 よみがえりの後、弱っているであろうペテロを指 名されたのも主の愛だった。ペテロが失敗したの は自分の弱さを知らなかった事、そして、同様に 重要な事は、自分の弱さを認めるには勇気がいる 事だ。弱さを認めたくないし、目を向けるのは痛 くて辛い。しかし、それから逃げ、避けないで、 認めることが力だ。
2001年07月09日(月) 「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて、主に罪を犯すことなど、とてもできない」(Tサムエル12:23)
「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて、主に罪を犯すことなど、とてもできない」(Tサムエル12:23)
一人の高齢のクリスチャン女性がいた。一人住まいで、 主の言われる通り、明日のことは明日が心配する。労苦 はその日その日に十分あるとの御言葉に従って、明日を 思い煩わないで生きていた。 その日、その日のなすべき事、掃除、洗濯、食事作り、 必要な支払…一日単位で生きていた。高齢で、もうほと んど主の働きは出来なかった。自らの日常生活がやっと だった。しかし、彼女には素晴らしい奉仕があった。 家で奉仕に励んだ。それは祈りの奉仕であった。 家族、教会、近所の人々のために祈った。 病気の人達、悩みにある人々、牧師、宣教師、上に立つ 人々、宣教活動、あらゆる事のために祈った。 彼女の一日一日は満ち足りたものだった。 祈りの奉仕により、一日を無駄にせずに過ごせたと満足 だった。私達は何が出来なくても、祈りの奉仕が出来る。 あなたの祈りを必要としている人々がいる。 あなたは誰かのために祈るべきだ。
2001年07月08日(日) 「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように」 (申命32:11)
「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように」 (申命32:11)
わしがひなに飛ぶ事を教える時、 親の鷲は、ひなを巣から落とす。 ひなは、真っさかさまに落下する。 その時、親わしはひなの下に、さ っと入って、地に打ち付けられる 前にひなを自分の羽に乗せて、 巣へ連れ帰る。これを何回か繰 り返す内に、ひなは、飛び方を覚 える。ひなは自分の力で飛ぶ事を 覚える。私達も、安全な何の危害 も加えられる事も無い心地良い 巣から押し出される。ペテロはプ ロの漁師だった。生涯の安定し た仕事から、押し出され、仕事を 捨て、イエスについて行った。新し い人生を歩み出したパウロはダ マスコ途上で、主に出会い、今ま での間違いを知り、180度方向 変換し、新しい歩みへと進んだ。 私達にも神は絶えず、みことばと 祈りによって、自己満足の心地 良い巣から出るように促される。 あなたは今、あなたの心地良い 巣を、神は壊そうとしておられる か。神に従え。まだ見た事もない 大空へ駆けのぼる事ができる。
2001年07月07日(土) 「ほむべきかな。主、まことに主は私の願いの声を聞かれた。主は私の力、私の盾、私の心は主に拠り頼み私は助けられた。それゆえ、私の心喜び、私は歌をもっはこおどりしてて、主に感謝しよう」(詩編28:6)
「ほむべきかな。主、まことに主は私の願いの声を聞かれた。主は私の力、私の盾、私の心は主に拠り頼み私は助けられた。それゆえ、私の心喜び、私は歌をもっはこおどりしてて、主に感謝しよう」(詩編28:6)
クリスチャン達は何度も窮地を助け られた経験がある。夫のいない婦人 はギリギリの生活で、全く余裕が無 かった。車が故障し、30万の必要。 貯えは底をつき、もう無かった。不 可能だった。生活のために足がどう しても必要。泣いて祈り続けた。す ると、欠陥車である事が判明。メー カーで全部無料で修理してもらえた。 お金の無い神学生。結婚間近に家が 無い。安い公営住宅の募集があった。 知ったのが申込み期限ギリギリ。最 終日、門が締まりかけに飛び込み、 もう係員は業務を終えていたが、快 く受け付けてくれた。その時、平安 が心に満ちて神様を感じた。その住 居は抽選で当たった。どうしようも ない窮地は神の奇跡を経験する機会。 窮地の時は、神を呼べ。必ず助け出 して下さる。
2001年07月05日(木) 「わたしの父の家には、すまいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」(ヨハネ14:2)
「わたしの父の家には、すまいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」(ヨハネ14:2)
一人の夫のいない姉妹が、働き ながら小さな子供達を育ててい た。ある日、突然家主に家を別 の人に売却したので、出るよう 言い渡された。1ケ月以内にと の事で、不安と恐れで泣いてい た。路頭に迷う姿が浮かび、恐 れで一杯になった。しかし、祈 りとみことばで心が落ち着き、 神を見上げ、必要を求めて祈っ て行く姿勢に変えられた。天に は一人一人に備えられた場所が あるのは、大変な慰めだ。途中 で追い出されるような一時的な 場所ではない。イエスと共にそこで 永遠に住むのだ。いつも神に焦点 を合わせ、神の導きに心の思いを 集中する時、この地上は一時的 であり、仮の宿であり、私達は 旅人だという事に気づく。すべ てが、一時的だと気づく。旅行者 は旅行先で根づかない。なぜなら そこは単に一時的であり、帰るべ き家があるからだ。私達もこの地 上は一時的であり、帰るべき家は 天の住まい。それはすでに用意さ れている。
2001年07月04日(水) 「正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは実を結ばない者にならないためです」(テトス3:14)
「正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは実を結ばない者にならないためです」(テトス3:14)
私達のほとんどは、地道な毎日を 送っている。日々同じ日課を繰り返 す。周囲や近所の人々、友人達を見 ても皆、そうだ。ある時は単調かも知 れない。職場に行き、仕事をこなし、 家族を養う。学生は毎日学校へ行き 勉強する。主婦は、毎日掃除洗濯を し、食事を作る。それらの人々にと って英雄的な行為や刺激的なものは 何も無い。ある人が言った。「一番優 れた人とは誰か。日々自分の仕事に 励む人々である。子供を起こし、朝ご 飯を食べさせ、身支度をさせ、学校 へ送り出す母親、通りをきれいにする 道路掃除人、数え切れないほどの無 名の兵士」。パウロも地道な歩みが いかに大切かを強調した。落ち着い て静かな生活をし、自分の家族を養 うようにと、強く勧めた。私達の大半 は、日々の日課をこなしながら生活 している普通の信徒だ。神は普通の 信徒が日々信仰によって歩み、多く の実を結ぶようにと望んでおられる。
2001年07月03日(火) 「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(Tサムエル16:7)
「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(Tサムエル16:7)
聖書の中に、外見で人を判断しなさいという 個所は決して無い。 私達は外側で評価すべきではない。顔かたちや 髪型、体型、衣服で人を評価すべきではない。 しかし、これは汚い神や不潔な服装で良いとい 事ではない。美しさが悪なのではない。 外見で判断する傾向があることを言及している 顔立ちやファッションや持ち物や、うわべの特 徴に反応してしまいやすい事を言っている。 私達は神が見られるように、見るべきだ。 もっと深く、「主は心を見る」と聖書は言って いる。神は「心の中の隠れた人柄」を重んじら れる。人の美しい資質とは、外見でなく、自制 心や忍耐、柔和や親切、勇気や知恵といったも のだ。これらこそ真に美しい人の資質だ。 真に美しい人とは、どこででもキリストの愛を 示す人達のことだ。 美しい生き方とは、周囲の人達の事を心にかけ る事。 キリストに似た性質ほど美しいものはない。
2001年07月02日(月) 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、わたしの証人となります」(使徒1:8)
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、わたしの証人となります」(使徒1:8)
ある教会がどっと大きな群れの教会になった。 それは、牧師が人々に見放された、アルコール 中毒患者や薬物中毒患者やホームレスや不良青 年達をどんどん主のもとに導いたからだ。 彼らにイエスを紹介し、新しい生き方に導いた。 彼が聖霊の力によって働いていたので実を結ん のだ。ペンテコステで聖霊に満たされた人達を 聖書の中から見る。 しかしこの聖霊に満たされた人達はその後、迫 害され鞭打たれ、投獄され、殺されたのだ。 このような中でも彼らは力強い証人でありつづ けた。聖霊の臨在は力強いダイナミックな働き に見ることが出来るだろう。 しかし、同じように、人に目立たず、陰で地道 な働きをしている人々の中にもあるのだ。 忠実に教会学校で仕えている教師、病気の人々 を忠実に訪問している信徒。地道にトラクト配 布を続ける青年等、御霊の力は特別な人だけで なく誰にでも与えられる。