2001年07月31日(火)

  「私たちは、この御子のうちにあって、罪の赦しを受けているのです」(エペソ1:7)

  
 神の御心をそれてしまた時、あなたは、神はどう思
っておられると思うだろうか。多くの人は、神が怒っ
ておられると思う。親が子供が悪い事をしたら叱るよ
うに。そして、見捨てられるのではないかと思ってい
る。しかし、これは聖書の言っている事ではない。
一旦イエスを信じ神の子供とされたら、二度と神に受
け入れられていないのではと悩む必要はない。
確かに、神に従わないで罪を犯したなら平安は無くな
る。その罪は告白し、悔い改めなければならない。
しかし、大切な事は神の家族から追い出される事はな
いという事だ。私達の努力でなく、神の恵みにより完
全に受け入れられているからだ。行いの結果でなく、
賜物として無償で永遠の命が与えられている。
神は永遠の愛で私達を愛されている。不従順になり神
から離れた時も、神は交わりに戻るように切に願って
いる。もしあなたが御心をそれていたら、すぐ神の元
へ帰れ。豊かに赦される。


2001年07月30日(月)

  「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)

  
 モーセがエジプトを出た時、追っ手の
軍隊は迫り、目の前には紅海が横たわり
もう絶体絶命だった。人々は自分達は滅
びると思ったことだろう。しかし、神は
紅海を分けられた。乾いた地が現われ人
々はそこを通って渡った。追っ手のパロ
軍勢は海に飲みこまれた。男だけで五千
人の人々にイエスは食事を与えようとさ
れた。弟子達はどうしてよいかわからな
かった。しかし、主は少年の五つのパン
と二匹の魚を祝福され、皆が満腹できた
パウロとシラスは迫害により投獄された
身を拘束された。しかし、神は地震を起
こされ、これを通し、パウロとシラスを
用いて、看守を救いに導かれた。私達は
絶対絶命と思う時、望みがないと思う時
神は思いもよらない事を成し遂げて下さ
る。夢にも思わない事、思いを遥かに超
えた事をして下さる。神に不可能はない
昔も今も、奇跡の神だ。神は奇跡をして
下さる。


2001年07月29日(日)

「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)

種を蒔いて、花を咲かせたり、野菜を栽
培したりした事があるだろう。種を蒔くと
実がなる。良い実にしろ、悪い実にしろ、
種を蒔くと、必ず結実する。ある母親が
10代の息子にバイクを買い与えた。
息子はスピードのとりことなり、危険を
顧みず、バイクを乗り回していた。ある
日、彼はカーブを曲がり切れず、バイ
クごと転倒した。彼は病院にかつぎ
込まれた。母親は混乱していた。病
院に駆けつけた牧師にすがりつき、
「なぜ神様はこんな事を許されるので
すか」と泣いた。しかし、彼女は事故
の事で、神を責める事は出来ない。
無茶苦茶な乗り方をしていれば、事
故を起こして当然だ。私達がクリス
チャンだと言う理由だけで、蒔く者
は刈り取るという法則を神が免除
される事はない。しかし、もし御霊
のために蒔くなら、永遠の命を刈り
取る。失望せずにいれば、時期が
来て刈り取る。私達は必ず蒔いた
ものを刈り取る。あなたは何を刈り
取るだろうか。


2001年07月28日(土)

「主よ。お話しください。しもべは聞いております」(Tサムエル3:9)

あるクリスチャンホームで育った子
供が、いつしか礼拝出席が義務とな
り、その内、礼拝に行かなくなって
しまった。行かない状態が続いた時
に、心にとがめが来た。なぜなら、
神を愛し、礼拝するように小さな時
から教えられていたからだった。
やがて、段々ひどく惨めな気持ちに
なって来たが、それでも礼拝に行く
事が出来なかった。段々、苦しくな
って来て、神を意識するようになっ
た。ある日曜の朝、「今日、行きな
さい」との聖霊の強い促しを感じた。
神を感じた。その御声に従い、その
日、命じられた通りに従い、礼拝に
行った。その日以来、一度も休んだ
事がない。神の御声を聞いた時に決
っして心を頑なにしない事だ。神の
御声を聞いた時に、従うなら、私達
も変えられる。一段階、一段階信仰
生活に成長出来る。御声に聞き従え。
これが成長の秘訣だ。神の御声を聞
いたなら、決して心を頑なにするな。


2001年07月27日(金)

「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることが出来ません。またあかりをつけて、それをますの下に置く者はありません。燭台の上に置きます」(マタイ5:15)



ある日、一人のクリスチャン婦人のもとへ、
年配の女性が訪ねて来た。教会学校の子供も
一緒だった。知らない人だったので、不思議
に思いつつ、挨拶をし「何か御用ですか」と
尋ねた。すると、深い悩みの中にある事を話
し出したのだ。「どうして私の所へいらした
のですか」と聞くと「いつも私の家の前を通
るあなたのお顔が穏やかで明るくて、嬉しそ
うに見えました。私はあなたが羨ましいでし
た。すると教会学校へ行っている娘があなた
のことを知っていると話してくれました。
そして、思い切ってお訪ねしたのです」クリ
スチャン女性は神がこの婦人を送られたと確
信し、手を延べた。交わりが続く中で、婦人
はイエスを救い主として信じたのだ。誰かが
あなたをいつも見ているかもしれない。
あなたは光だ。その光を輝かせよ。闇に迷っ
ている人々の道しるべとして用いて下さる。


2001年07月26日(木)

   「岩の上に落ちるとは・・・聞いたときは喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練の時になると、身を引いてしまうのです」(ルカ8:13)

   
 小学生の頃、理科の授業でガラスの鉢に豆を
入れて目が出る様子を観察した事があるだろう。
豆は根を出してから、新芽が上に伸びる。
豆をどのようにおいても根が伸び、新芽は上に
伸びる。豆を地面に蒔いた時は辛抱強く芽が出
るのを待つ。なぜなら、根をしっかりおろそう
としている事を知っているから。植物が育ち、
豊かな収穫を得ようとするなら、健康な根は不
可欠だ。私達の信仰生活も同様だ。
根が強くならなければ、花が咲き実が実る事は
あり得ない。根が何よりも一番大切だ。
根を下ろすために祈りと御言葉、礼拝や聖書の
学び、クリスチャンの交わり、これらが必要で
ある。あなたは日々地道な祈りをしているか。
根は見えない。人から見えない神との交わりの
生活が根を下ろさせる。根が下ろしていれば、
試練で倒れる事は決してない。何よりもあなた
の根の生活を大切にし、充実させよ。


2001年07月25日(水)

「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら巡り歩いた」(使徒8:4)

ヒトデを見た事があるだろうか。切っ
ても切っても新しいものがそこから
生えて来る。
幾ら切っても生えて来て、どんどん
増殖する。幾世紀にも渡って、クリ
スチャン達は迫害されてきた。ひど
い迫害に会って来た。しかし、迫害
に会ってもキリストを信じる信仰が
無くなる事は無かった。むしろ、ま
すますクリスチャンが増えて行った。
それは彼らが離散し、行った先々で、
どんどん宣べ伝え続けたからだ。一
世紀の信者達はひどい迫害を受け、
ユダヤ、エルサレムの各地に離散、
各地で御言葉を宣教し続けた。沢山
の救われる人々が起こされて行った。
キリストの教会はどんな迫害があっ
ても成長し続ける。黄泉の力もそれ
に打ち勝つ事は出来ない。迫害に会
う時、更に増えて行くばかりだ。同
様に、私達も職場で、学校で、家庭
で、近隣で、光となり地の塩となる
事を主は望んでおられる。主がそこ
にあなたを遣わされた。まず周囲の
人々のために祈る事から始めよ。


2001年07月24日(火)

  「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Uコリント4:18)



 最近、痩せる薬や、痩せる食物、飲料、
様々な種類の広告が氾濫している。
中には金儲け主義の中身がいい加減な成分
だと、消費者からの苦情により、調査した
結果がよくニュースで報じられている。
人々の痩せたいという欲求に合致してしま
うので、簡単に騙されてしまう。目に見え
るものに焦点が置かれているからだ。
しかし、すべての目に見えるものは一時的
で、それに頼れば失望落胆させられる。
パウロも御言葉の中で、外なる人は朽ちる
と言っている。肉体は衰える。しかし、落
胆する事は無かった。なぜなら、内なる人
は日々、新しくされて行くからだ。
日々、新しくされているので、目に見える
一時的なものに惑わされず、目に見えない
永遠に焦点を合わせて生きる事が出切る。
永遠が第一の関心になると、様々な苦しみ
や問題は一時的な試練だと気付くようにな
る。その試練は私達のうちに働いて重い永
遠の栄光をもたらす。今の苦しみは軽いと
私達は永遠を持っている。


2001年07月23日(月)

   「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」(Tテモテ4:7)


 スポーツが盛んだ。又、健康のための色々
な企画も盛んだ。朝早くジョギングする人々
は多い。プールに通い、泳いだり、ジムに通
い身体を鍛えたり、ダンスをしたり、又、ゴ
ルフやゲートボールも盛んだ。人々は肉体の
鍛錬に気を使う。気を付けて、肉体を鍛える
しかし、聖書は、肉体の鍛錬は「少しは有益」
だと言う。身体の健康を保つことは良い事だ
しかしパウロは「敬虔はすべてに有益だ」と言
っている。。身体だけでなく、霊を鍛える必
要がある。「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」
霊的な鍛錬とは、祈る事、聖書を読む事、神と
人に仕えること、聖霊によって歩むこと、キリ
ストを証しする事。これは永遠のためにまで有
益だ。ゴルフや水泳の楽しみは良いことだ。
同時に霊的に健康であるために祈り、神の御言
葉を学ぶ必要がある。それが遥かに大切だ。
あなたの霊的健康にいつも目を注ぎ、しっかり
栄養を与えよ。


2001年07月22日(日)

「人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように」 (Tテモテ6:18)

ある人が言った「神は人にお金の管
理を任せられない事がある。なぜな
ら、神はそのお金を困っている人に
回したいのに、人は自分のためにと
っておくからだ」聖書にこんな御言
葉がある。「あなたがたにも蒔く種
を与え、それをふやし」Uコリント9:10
私達一人一人に「種」としての富を
与えておられる。種は土の中に蒔か
なければ絶対に増えない。そのまま
置いておけば増えない。種として与
えられている富を献げないで、自分
のものとして取り込むなら、絶対に
増し加えられる事はない。神はあな
たに任せた富をあなたがどう使うか
を試しておられる。あなたに与えら
れた富をすべて神の御前に置き、ど
う使いましょうかと、祈れるなら合
格だ。あなたは神のみこころに従っ
て、任された富を用いているか、そ
れとも自分の欲望のためか。みここ
ろ通りに使うなら、更に、多くの富
をあなたに任せて下さる。


2001年07月21日(土)

「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された」マタイ21:16

宮の中で子供達が「ダビデの子にホサ
ナ」と叫んでいた。祭司長、律法学者
達はそれを見て、腹を立てた。イエスは
子供達をころさら愛された。イエスの元
へ来る子遠達を弟子達は叱った。しか
し、イエスは「わたしのもとへ来させな
さい。止めてはならない」といさめら
れた。子供達の賛美と素直な信頼は、
イエスをどんなにお喜ばせした事だろう。
子供達の賛美は十字架へ向かう主を支
えた。私達も信仰生活で様々な問題に
苦しみにで出会う。反対者から攻撃
され、批判され、非難され、悪口を
言われ、迫害を受ける。私達の心は
傷められる。そんな時、幼子の単純
な素朴な信仰に慰められる。幼子の
ような素直な信仰、単純な主への信
頼を持った人々に慰められる。どん
な状況の中でも、幼子のような主へ
の信頼は周囲の人々を引き上げ励ま
して行く。神は幼子のような信頼を
喜ばれる。信仰が最も輝くのは子供
のような素直な心だ。


2001年07月20日(金)

   『わたしがあなたの右の手を堅く握り「恐れるな。私があなたを助ける」と言っているのだから』(イザヤ41:13)

  

 赤信号で止まり、車の中から見ていると、
目の不自由な女性が盲導犬に導かれて歩道
を渡っていた。工事中で、縁石が掘り起こ
されていて瓦礫の山だった。
しかし、盲導犬は見事に導いてその道を無
事に渡らせた。女性は目は見えなくても、
盲導犬に全面的信頼を置いているので、恐
れる事も無く確信を持って進んでいた。
一人の女性が離婚を経た。思いもよらない
出来事であり、打ちのめされた。自分の人
生が途上で破壊してしまったように感じた。
しかし、主に信頼し、立ち上がり新しい歩
みをはじめた。すると、神は信頼するなら
必ず導いて下さる事を改めて発見した。
そして確信した。嵐の中の小舟のように波
風にうろたえてしまう事はあっても、神を
求め、神に祈る時必ず答えて下さった。
そして平安を心に満たして下さった。神は
問題の無い人生を約束しておられない。
しかし問題のまっただ中で道に迷う事なく
針路を示し、導くと約束しておられる。
神に信頼せよ。


2001年07月19日(木)

   「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:41)

   
 クリスチャンは天国へ行くまで一生、どんな成長
した人々でも、誘惑を受ける。
この世では、誘惑がある。サタンは虎視たんたんと
狙っている。あなたの弱い所をサタンは熟知している。
その弱さに攻撃をかけ負傷させる。虚栄心や貪欲、嘘、
プライド、妬み、世の快楽を愛する心、金銭を愛する
心、短期、怒りっぽい心、思い煩う心、それらは常に
標的にされ狙われている。誘惑とは神のお心に反する
事を行ったり、言ったり思ったりと、そして、神から
離そうと働きかけてくるサタンからの誘いだ。
それは必ず心地良い。甘い。そうでなければ誘惑にな
どならない。苦くて辛ければ誘惑にならない。
甘い事に、あなたにとって心地良い事に十分気をつけ
よ。そして、目をさましておれ。自分の弱さをよく知
り、しっかり見張れ。必ずあなたの弱い所に来る。
神を呼び、神に助けを求めよ。そうすれば誘惑は来て
も、それに陥る事は無い。


2001年07月18日(水)

「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使途17:11)

疑い深い人が周囲にいるかも知れ
ない。又、あなたかも知れない。そ
れらの人達は、物事をまず疑ってか
かる。しかし、真理を知ろうとしての
疑いなら、その疑いは真理を見い出
すかも知れない。パウロがベレヤに
来た時、そこのユダヤ人はテサロニケ
のユダヤ人達よりも良い人達だと気
づいた。非常に熱心に御言葉を聞き、
その通りかどうか毎日聖書を調べた。
彼らは旧約聖書を信じていた。パウ
ロの宣教に真剣に耳を傾け、それが
聖書に基づいている事がわかった時、
キリストを信じるようになった。疑
い自体が悪いとは限らない。それによ
って、真理に導かれる事もあるからだ。
健全な疑いを持つ人は、狂信や盲信
から守られ、福音を正しく聞く事がで
きる。聖書が真実で権威のある書か
どうか、又、その根拠を考えるように
なる。又、クリスチャンの主張を検証
するようになる。希望には十分な根拠
がある事を見い出すようになる。


2001年07月17日(火)

「彼は主が自分から去られたことを知らなかった」(士師記16:20)


 像の例え話がある。テントにいる人間の所へ、
象が来て「ほんの鼻先だけでいいのです。入れ
て下さい」と頼む。鼻先ぐらいならと気に止めず
了解する。「もう少し鼻を入れさせて下さい」そ
れを許すと、どんどん手の先を、手を、耳を少し
と少しづつ、少しづつ了解させ、やがて、テント
に象が丸ごと入ったという話しだ。
これは誘惑と罪を表わしている。はじめから全貌
は見えず、少しづつ、少しづつなのだ。だから、
これくらいどうもないと気を許す。そのうちに取
り返しのつかない事になる。罪の常道だ。面白が
って俗っぽい事と戯れる。少しづつ深みにはまり、
気付かないうちに主から少しづつ離れる。神の懲
らしめの危機的状況が臨むまで気づかない。
自分の真の姿を悟らない。御言葉に照らされ、目
を覚ます。サタンに霊的な力や判断力を奪われて
いた事に気づく。どんな娯楽を楽しむかで、神か
らどれほど離れてしまったかがわかる。
以前は不快だと思っていた世のものを、今は楽し
んでいないか。


2001年07月16日(月)

  「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いてただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:22)

  
 ある中学生が、感謝しようのメッセージを聞いて、
それを御言葉の通りに実行し、お父さんに「有難う」
を伝え、具体的に感謝した。父親はびっくりした。
聞いた御言葉を、示された御言葉を実行する時、神の
みわざが周囲にも現されて行く。しかし、私達はうや
むやにしてしまい、素直に実行しない事がいかに多い
だろうか。神の御言葉を聞いても実行しないなら、自
分を欺いていると聖書は言っている。
人は自分の姿を示され、照らされても、すぐ忘れ、決
して変わろうとはせず、あいまいなままで過ぎて行く。
いつも神に祈りを聞いてもらいたいと思う。
しかし、私達の側はどうか。神の御言葉を聞いて神に
応えているだろうか。
神の語って下さる言葉を大切にし、一つ一つ心を込め
て、行なおうとしているだろうか。御言葉は真理であり
真実だ。神に語られたら、即座に応答しよう。


2001年07月15日(日)

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)

信仰のゆえに殉教した多くのクリス
チャンがいる。神はどう思われるの
だろうか。最初のクリスチャンの殉
教者はステパノだった。キリストへの
忠実さのゆえに、石打ちによって殺
されたが、サウロという若者はこの
殺人に賛成していた。ステパノの死
後、サウロはダマスコへ出かけたが、
その途中、地面に倒れた。「サウロ、
サウロ。なぜ私を迫害するのか」と
いう声を聞いた。サウロは思ったか
も知れない。「私はあなたを迫害し
ていない。私が迫害したのはステ
パノだ」しかし、その声ははっきりと
言った。「わたしは、あなたが迫害
したイエスだ」ステパノに投げつけた
石は、キリストに対して投げたものだ
った。ステパノを打った石はキリスト
を打った。ステパノのすべての痛
みをキリストも感じられた。私達がク
リスチャンゆえに受ける迫害や痛
みを主も同じように経験して下さっ
ている。


2001年07月14日(土)

「私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くしましょう」Uコリント12:15

ある宣教師夫妻が海外で、懸命に働
いた。働き始めた時、喜びに満ちて
おり、伝道出来る事は特権であり、
素晴らしい事だと思っていた。最初
の数年間、よく燃えていたが、それ
は実は神のためではなかった。自己
満足のためであったのだ。懸命に働
いている充足感に動かされ無意味に
燃えていた。勢いよく燃えていたが
それによって多くのストレスがきた。
思い通でない欲求不満にイライラし
ていた。平安は無く、焦りと思い煩
いに落ち込んだある時、どん底だっ
た。しかし、そこで真にキリストに出会
い、人生は再びキリストのために光り始
めた。クリスチャンの燃え尽き症候
群と神のために燃える事は違う。燃
え付きは無駄に燃やす事だ。そして、
自分の力で神の働きをする事だ。神
のために燃える事は、自分の人生を
賢く使う事であり、神から力を受け
て、すべてにおいて神に頼る事だ。


2001年07月13日(金)

  「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)

  
 私達はよく簡単に人を慰めようとしてしまう
例えば、ある人が、自分は嫉妬深くて、すぐ人
を妬んでしまう。今、友人を妬んでいて苦しい
と言ってくる。その時、嫉妬心など誰にでもあ
る。そんな事、誰でもだから気にするなと慰め
る。あなたには良いところも沢山あるのだから
と。しかしそれは、なんの慰めにもならないし
助けにもならない。大切な事は、妬みは神の御
前に深刻な罪である事を認める事だ。それを認
める時、神の豊かな赦しにあずかれるのだ。
自らの罪を認めない限り許される事はない。
「少ししか赦されない者は、少ししか愛しませ
ん」この人々は自分の罪深さも知らなければ、
神の赦しの素晴らしさも知らない。
不道徳な女は自分の罪が多い事を認めた。
そして多く、豊かに赦された。精励が示されて
いるあなたの罪があるか。すぐに告白しよう。
血潮により赦される。


2001年07月12日(木)

 「いつでも、すべてのことについて、わたしたちの主イエス.キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」(エペソ5:20)


 イエスは「これらのわたしの兄弟たち、しかも
最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしに
したのです」と言われた。私達が周囲の人を愛す
る時、そこにイエスを現す。また、人から愛を受
ける時、そこにもキリストを見る。愛による行な
いがある時、そこにイエスがおられる。私達は、
大きな奇跡ばかり心に思い描いて、自分には神は
臨んで下さっていないと思いがちだ。しかし、そ
うではない。神は日々、毎瞬、毎瞬共におられ、
働いておられる。それは、日常のごく普通の出来
事の中でだ。今日あなたへのちょっとした親切な
言葉、思いやりを示してくれた人がいるか。
それは、キリストのあなたへの愛であり、あなた
への思いやりだ。大きな事から小さなことに目を
転じて見よ。日常の中に、神様の多くの愛と配慮
を見つけ出して驚くだろう。神の恵みを数えよ。
いかに恵みが満ち溢れている事か。


2001年07月11日(水)

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです」(マタイ7:13)

ある時、車で高速道路を走っている
と、反対車線で事故が起きていた。
横転した車に、数台の車が衝突して
いた。道路は完全に塞がれていた。
その所から渋滞が始まっていた。人
々はその事態を知らないで、どんど
ん進んでいた。それらの車を反対
車線から見ていて「この道を行く
のは止めて、出口から出なさい!」
と叫び教えたい思いだった。先にあ
る行き止まり、通行不能を知らない
で、すべての車はどんどん進行方向
へ向かう。日々、私達の周囲も同様
だ。行き止まりを知らないで、人生
を突進している。前に進む事だけを
考え、キリスト無しの人生がどうなって
いるのかを知ろうともしない。救わ
れた私達は、周囲の人々に伝えるべ
きメッセージを持っている。神は日
々それを伝えさせる機会を与えるた
めに、あなたを職場や学校、家族、
近隣に遣わしておられる。あなたが
受けた福音を与えない限り、人々は
それを聞く事はない。


2001年07月10日(火)

  『ですから行って、お弟子たちとペテロに『イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』(マルコ16:7)

  
 あなたは、今までに取り返しのつかない失敗を
したと感じた事があるだろうか。ペテロは、皆が
裏切っても私は裏切らない、死んでもついて行く
と豪語した。それなのに、その舌の乾かぬ内に、
イエスを裏切ったのだ。呪いを誓って否んだのだ
そんな人知らないと。主を否定した。
鶏が鳴いた時、イエスの警告を思い出した。
男泣きに泣いた。辛い深い悔恨がった。しかし、
主のペテロへの愛は全く変わらなかった。
その弱さをご存知で、再び回復して下さった。
よみがえりの後、弱っているであろうペテロを指
名されたのも主の愛だった。ペテロが失敗したの
は自分の弱さを知らなかった事、そして、同様に
重要な事は、自分の弱さを認めるには勇気がいる
事だ。弱さを認めたくないし、目を向けるのは痛
くて辛い。しかし、それから逃げ、避けないで、
認めることが力だ。


2001年07月09日(月)

   「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて、主に罪を犯すことなど、とてもできない」(Tサムエル12:23)

   

 一人の高齢のクリスチャン女性がいた。一人住まいで、
主の言われる通り、明日のことは明日が心配する。労苦
はその日その日に十分あるとの御言葉に従って、明日を
思い煩わないで生きていた。
その日、その日のなすべき事、掃除、洗濯、食事作り、
必要な支払…一日単位で生きていた。高齢で、もうほと
んど主の働きは出来なかった。自らの日常生活がやっと
だった。しかし、彼女には素晴らしい奉仕があった。
家で奉仕に励んだ。それは祈りの奉仕であった。
家族、教会、近所の人々のために祈った。
病気の人達、悩みにある人々、牧師、宣教師、上に立つ
人々、宣教活動、あらゆる事のために祈った。
彼女の一日一日は満ち足りたものだった。
祈りの奉仕により、一日を無駄にせずに過ごせたと満足
だった。私達は何が出来なくても、祈りの奉仕が出来る。
あなたの祈りを必要としている人々がいる。
あなたは誰かのために祈るべきだ。


2001年07月08日(日)

「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように」 (申命32:11)

わしがひなに飛ぶ事を教える時、
親の鷲は、ひなを巣から落とす。
ひなは、真っさかさまに落下する。
その時、親わしはひなの下に、さ
っと入って、地に打ち付けられる
前にひなを自分の羽に乗せて、
巣へ連れ帰る。これを何回か繰
り返す内に、ひなは、飛び方を覚
える。ひなは自分の力で飛ぶ事を
覚える。私達も、安全な何の危害
も加えられる事も無い心地良い
巣から押し出される。ペテロはプ
ロの漁師だった。生涯の安定し
た仕事から、押し出され、仕事を
捨て、イエスについて行った。新し
い人生を歩み出したパウロはダ
マスコ途上で、主に出会い、今ま
での間違いを知り、180度方向
変換し、新しい歩みへと進んだ。
私達にも神は絶えず、みことばと
祈りによって、自己満足の心地
良い巣から出るように促される。
あなたは今、あなたの心地良い
巣を、神は壊そうとしておられる
か。神に従え。まだ見た事もない
大空へ駆けのぼる事ができる。


2001年07月07日(土)

「ほむべきかな。主、まことに主は私の願いの声を聞かれた。主は私の力、私の盾、私の心は主に拠り頼み私は助けられた。それゆえ、私の心喜び、私は歌をもっはこおどりしてて、主に感謝しよう」(詩編28:6)

クリスチャン達は何度も窮地を助け
られた経験がある。夫のいない婦人
はギリギリの生活で、全く余裕が無
かった。車が故障し、30万の必要。
貯えは底をつき、もう無かった。不
可能だった。生活のために足がどう
しても必要。泣いて祈り続けた。す
ると、欠陥車である事が判明。メー
カーで全部無料で修理してもらえた。
お金の無い神学生。結婚間近に家が
無い。安い公営住宅の募集があった。
知ったのが申込み期限ギリギリ。最
終日、門が締まりかけに飛び込み、
もう係員は業務を終えていたが、快
く受け付けてくれた。その時、平安
が心に満ちて神様を感じた。その住
居は抽選で当たった。どうしようも
ない窮地は神の奇跡を経験する機会。
窮地の時は、神を呼べ。必ず助け出
して下さる。


2001年07月05日(木)

「わたしの父の家には、すまいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」(ヨハネ14:2)

一人の夫のいない姉妹が、働き
ながら小さな子供達を育ててい
た。ある日、突然家主に家を別
の人に売却したので、出るよう
言い渡された。1ケ月以内にと
の事で、不安と恐れで泣いてい
た。路頭に迷う姿が浮かび、恐
れで一杯になった。しかし、祈
りとみことばで心が落ち着き、
神を見上げ、必要を求めて祈っ
て行く姿勢に変えられた。天に
は一人一人に備えられた場所が
あるのは、大変な慰めだ。途中
で追い出されるような一時的な
場所ではない。イエスと共にそこで
永遠に住むのだ。いつも神に焦点
を合わせ、神の導きに心の思いを
集中する時、この地上は一時的
であり、仮の宿であり、私達は
旅人だという事に気づく。すべ
てが、一時的だと気づく。旅行者
は旅行先で根づかない。なぜなら
そこは単に一時的であり、帰るべ
き家があるからだ。私達もこの地
上は一時的であり、帰るべき家は
天の住まい。それはすでに用意さ
れている。


2001年07月04日(水)

「正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは実を結ばない者にならないためです」(テトス3:14)

私達のほとんどは、地道な毎日を
送っている。日々同じ日課を繰り返
す。周囲や近所の人々、友人達を見
ても皆、そうだ。ある時は単調かも知
れない。職場に行き、仕事をこなし、
家族を養う。学生は毎日学校へ行き
勉強する。主婦は、毎日掃除洗濯を
し、食事を作る。それらの人々にと
って英雄的な行為や刺激的なものは
何も無い。ある人が言った。「一番優
れた人とは誰か。日々自分の仕事に
励む人々である。子供を起こし、朝ご
飯を食べさせ、身支度をさせ、学校
へ送り出す母親、通りをきれいにする
道路掃除人、数え切れないほどの無
名の兵士」。パウロも地道な歩みが
いかに大切かを強調した。落ち着い
て静かな生活をし、自分の家族を養
うようにと、強く勧めた。私達の大半
は、日々の日課をこなしながら生活
している普通の信徒だ。神は普通の
信徒が日々信仰によって歩み、多く
の実を結ぶようにと望んでおられる。


2001年07月03日(火)

   「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(Tサムエル16:7)

   
 聖書の中に、外見で人を判断しなさいという
個所は決して無い。
私達は外側で評価すべきではない。顔かたちや
髪型、体型、衣服で人を評価すべきではない。
しかし、これは汚い神や不潔な服装で良いとい
事ではない。美しさが悪なのではない。
外見で判断する傾向があることを言及している
顔立ちやファッションや持ち物や、うわべの特
徴に反応してしまいやすい事を言っている。
私達は神が見られるように、見るべきだ。
もっと深く、「主は心を見る」と聖書は言って
いる。神は「心の中の隠れた人柄」を重んじら
れる。人の美しい資質とは、外見でなく、自制
心や忍耐、柔和や親切、勇気や知恵といったも
のだ。これらこそ真に美しい人の資質だ。
真に美しい人とは、どこででもキリストの愛を
示す人達のことだ。
美しい生き方とは、周囲の人達の事を心にかけ
る事。
キリストに似た性質ほど美しいものはない。


2001年07月02日(月)

  「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、わたしの証人となります」(使徒1:8)

  
 ある教会がどっと大きな群れの教会になった。
それは、牧師が人々に見放された、アルコール
中毒患者や薬物中毒患者やホームレスや不良青
年達をどんどん主のもとに導いたからだ。
彼らにイエスを紹介し、新しい生き方に導いた。
彼が聖霊の力によって働いていたので実を結ん
のだ。ペンテコステで聖霊に満たされた人達を
聖書の中から見る。
しかしこの聖霊に満たされた人達はその後、迫
害され鞭打たれ、投獄され、殺されたのだ。
このような中でも彼らは力強い証人でありつづ
けた。聖霊の臨在は力強いダイナミックな働き
に見ることが出来るだろう。
しかし、同じように、人に目立たず、陰で地道
な働きをしている人々の中にもあるのだ。
忠実に教会学校で仕えている教師、病気の人々
を忠実に訪問している信徒。地道にトラクト配
布を続ける青年等、御霊の力は特別な人だけで
なく誰にでも与えられる。