2007年07月31日(火) 「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである」ヨハネ3:19
「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである」ヨハネ3:19
闇がわかるのは、闇の中に光が照らし 出されることによってだ。光が無く、 闇だけなら、それが闇という事すら認 識できない。光によって初めて闇が認 識できる。闇の中にいるなら、そこが 闇だとわからない。ベテスダの池で、 38年間病気で、池のそばに伏せって いる人がいた。主の使いが来て水面を 動かすが、その時すぐに池に入れば、 どんな病気でも治ったが、入れてくれ る人がいないのだと。 その人に主は「よくなりたいか」と問 われた。病気の人に、よくなりたいか は不思議な質問だが、私達にも主は問 われている「本当に闇から出たいのか」 と。闇の中にずっといると、闇は心地 良い。自分は変わりたくないのだ。自 分を変えるには大変なエネルギーが要 る。しんどい事はしたくない。楽な方 へ流される。自我は強固だ。あなたに もうすうす気づいている事があるだろ うか。悔い改め、改めなければならな い事柄、そのうっすら気づいている事 を、まず光の中に出そう。闇にあるも のを、ことごとく光の中に出す事だ。 それは主の前に告白し、認める事だ。 「明るみにひき出されるものは、みな、 光によって明らかにされます」「明ら かにされたものはみな、光だからです」 御霊は働いておられる。心を閉じさえ しなければ、拒みさえしなければ、御 霊の光はくまなくあなたを照らし出す。 ------------------------ 罪を告白し光のもとに持ってくる時、 主はそれを完全に赦し、二度とその罪 を思い出さないと言われる。それなの にまだ闇に隠しておきたい罪、闇の中 で握っている罪を愛している事を認め る事ができますように。
2007年07月30日(月) 「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」Tコリント2:11
「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」Tコリント2:11
人は砕かれない限り、自分の思いは 正しいと信じている。今までそれで うまく行き、成功して来たからだ。 だから、自分の思いの中、肉の知識 の中で神を見い出そうとしてしまう。 それで、雲をつかむようで、わから ない。聖書を読む時に、一応「罪」 ということが書いてあるのはわかる が、「そんな心の内側の事まで、そ んな事を言ってたら、誰もこの世界 で生きてなんか行けない」と常識は ずれに思ってしまう。この自分の思 い=肉の思いで、聖書を読むので、 御言葉がどうしてもわからない。神 に従うようにと記されてある箇所も 「こんな事していたら、この世の中 生きて行けない」と肉の思いが入る。 あなたもこの肉の思いに気づくだろ うか。今までずっと強固な肉の思い の中で生きて来たので、その肉が虚 しいなどと決して思わない。その肉 の思い=人間的な思いで、神を知ろ うとするので、全く霊的なことがわ からない。様々な事態が起こり、行 き詰まり、砕かれる時、初めて自分 の思いは虚しく、自分は間違う者で あり、自分に頼ればとんでもない事 になると悟る。その時に自分の思い を捨てる事ができる。その時に、御 言葉が実感としてわかる。心に響い て来る。肉の思いを捨てるからだ。 自分の無力を徹底的に知る時が、実 は大きな恵みの時だ。自分の思いに 頼らないので、御霊が働く事ができ、 御言葉が心に入る。 ------------------------- 肉の思いと御霊の思いをバランスよ く保って生きて行く事などできない。 この世の常識、非常識で上手く立ち 回わろうとする事をやめよう。御 霊に支えられる恵みがはじまる。
2007年07月29日(日) 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24
富んだ青年は、主に従おうとは思っていた が、自分が愛し、慕う、肉の部分が捨てら れず、主から去って行った。信仰生活とは、 どれほど聖書を知っているか、奉仕し、善 行をしているか、又、献金しているかでは ない。肉の欲望や肉の思いが、主の御心と 全く相容れない事を知り、人間的な思いか ら離れ、主の喜ばれる事、主に受け入れら れる事、主の御心を求めて行く事だ。「わ たしの思いは、あなたがたの思いと異なり」 と言われるように、主の御心は、自分の思 いと、大幅に異なっている。主の死の事を 聞いたペテロが、そんな事が起こるはずが ないと言った時に「下がれ。サタン」と言 われた。「わたしの邪魔をするものだ」と。 ペテロの人間的思い、肉の思いはサタンか ら来ていた。それゆえ「自分を捨て」ない 限り、私達は反対方向に間違ってしまう。 なぜなら、人間的な目で見ると、目の前の 事が正しい、妥当としか見えない。正しい と思っている自分が、実は肉の中にいるか らだ。正しいとしか見えないので、どこま でも肉の思いで神を信じようとする。肉の 手で神をつかもうとする。だから、神がわ からない。正しいと思っている自分に頼ら なくなった時に、初めて神がわかる。自分 の肉に一切頼れなくなった時に、神を見い 出す。盲人や長血の女や姦淫の女のように、 何の手立ても無い時にこそ、主に出会う。 ・・・・・・・ 自分が正しいと思い込んでいる時、肉の 中だ。すべての物事がその目でしか見え ず、神が見えない。間違っている自分に 気づく時、神が見える。光の中だ
2007年07月28日(土) 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11
サタンは有ること無いこと、自由自在に 思いに吹き込める。無い事も吹き込むの で、これを受け入れて行くと、妄想がど んどん膨らむ事になる。被害妄想しかり だ。黒を白に白を黒にする。罠にはまる と、ほんろうされてしまう。「策略」と いうからには、はっきりと騙そうとの魂 胆があるわけだ。思いに浮かぶ何もかも を信じてはならない。否定的な思い、自 分が落ち込んで行く思い、建て上げるの でなく、破壊させて行くようなものだ。 又、映画の映像のように思いに映して来 る。次々頭に浮かんで来るものも、何も かもを受け入れてはならない。自分が思 っていると思わせるサタンの欺きだ。私 達の思いに、次々と映像を送り込む。そ して、自分が思っているとしか思わない。 そう思わせれば、サタンは大成功だ。サ タンが朝起きた時から、次々思いという 火矢を飛ばしている。気づけるように。 即、御言葉や祈りを奪ってしまう、サタ ンの誘惑と攻撃に気づくだろう。思いを よく見張っていよう。恐れ、非常な怒り、 激しい批判、急かすもの、自己憐憫、暗 さのある疑い、極度に自分を責めるもの、 又、誇るもの、それらの思いは敵からだ。 思いをよく見張っていよう。 ・・・・・・・・・ 今日もサタンとの戦いである事に気づこ う。天に帰るまで、日々霊の戦いだ。そ れを忘れさせるのがサタンの最大の攻撃 だ。自分を隠す。今、心に悶々があれば、 サタンが一枚かんでいる事に気づけるよ うに。
2007年07月27日(金) 『イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」』ヨハネ5:8
『イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」』ヨハネ5:8
もし人が病気になっても、それが普 通の状態、正常な状態だと思ってい るなら、病気が治ることはない。 病気が治るには、自分が病気だと認 識しなければならない。私達も癒さ れるためには、自分が病んでいる、 この状態は正常ではないと認識する ことが重要だ。自分の自我や自己中 心には目を向けないで、相手の欠点 ばかり責めているなら、いつまでた っても、その状態は改善されず、延 々同じ事の繰り返しのままだ。何の 成長も無い。相手の欠点ではなく、 それに反応して相手を攻撃し、責め る「自分の問題」だと気づき、認め て行く時、変えられて行く。この人 は「池の中に私を入れてくれる人が いない」と、人のせいにしていた。 助けてくれる介助人がいない、だか ら自分は良くならない。人に依存し てしまっていた。人に依存すると無 気力になる。うまく行かないのは人 のせい、人が悪い。その、人依存が 問題なのだ。主は「起きて」と言わ れた、床を取り上げて、自分の足で 歩けと。人はいっさい関係なく、問 題は、人に、病気に、依存している 自分にあると気づき、認める時、主 のみわざはすでに始まっている。自 分の床って何だろう。自己憐憫、諦 め、不満、不信仰、偶像に頼る心・・ その床を取り上げて、神を、御言葉 を心底頼って歩く事を始めよう。自 立とは神だけに頼ることだ。 ------------------------ 前進を妨げているのは、人でも環境 でもなく、自分の問題だ。起きて自 分の足で歩んで行く気は本当にある のかどうかだ。自分の弱さ、足りな さを認めよう。主が立たせて下さる。
2007年07月26日(木) 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14
みこころにかなう祈りだけが叶 えられる。これは祈りの原則だ。 みこころでない祈りは幾ら祈ろ うと、答えられない。だから、 みこころにかなう願いをする事 が重要だ。「みこころがなりま すように」との祈りは、私たち が意志を無くする事ではない。 又、どうせ、祈っても御心しか ならないのだからと、投げやり になる事でもない。私たちの意 志と神のご意志が一致するため に、私達の側で祈りを変更し、 調整し、整えられて行く事だ。 それは苦闘かも知れない。ある 人が「祈りは神との格闘である」 と言っているが、祈りを積み重 ねる中で、受け入れ難きものを、 受け入れて行く事だ。困難な境 遇や、持って生まれたもの、病 や、現在の環境・・人それぞれ異 なる、その苦しみ、辛さを自分 に与えられたものとして、受け 入れて行く。それが、祈りを積 み重ね、祈り続ける中で、成し 遂げられて行くのだ。祈りの変 更は、祈りの中でなされる。主 も、主の思いと願いを持ってお られたが、御父のお心通りにと 委ねて行かれた。「しかし、わ たしの願うようにではなく、あ なたのみこころのように」と。 私達の願いを神の御前に置いて、 祈り続ける時、神の御心がわか り、祈りが変えられて行く。そ して、その御心に叶った祈りは、 すでに答えを得ている。 ------------------------- 祈っているうちに祈りの方向が 知らず知らず変えられていく事 がある。祈りの中で、神様と交 わり自己中心が砕かれ変えられ ている。祈り終えた時すでに心 は満たされているから感謝だ。
2007年07月25日(水) 「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」ヤコブ4:15
「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」ヤコブ4:15
地のものとは、この世の習慣や、この世の 価値観だ。一見、善いものに見える。ヒュ ーマニズムは世界平和や人類愛をうたう。 しかし、人間中心であり、神否定、神無し の価値観だ。麗しく、好ましいものだけに 要注意だ。肉のものは、生まれつきの性質、 罪の性質から出て来る欲望だ。肉の行いは、 不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵 意、争い、そねみ・・の類だ。悪霊のものは、 サタンが吹き込んで来る思いであり、サタ ン的な知恵であり、悪霊達の動機は神への 妬みだ。妬みは人間の性質に深く巣くって いる。私達の心の思いをよく見張って、神 以外から来るこれらの思いを点検する必要 がある。サタンは私達の「思考」に働く。まず 思いを吹き込み、思いから行動へ駆り立て、 秩序を乱して行く。サタンのする事は破壊だ。 教会、家庭・・秩序の混乱には、神からでは ない知恵が働いている。そこに肉の思い、 悪霊からの惑わしが入り込んでいる。神から の思いは下心がなく、見せかけなく純真だ。 地・肉・悪霊からの思いに惑わされ、ほんろ うされていないか。今、問題と混乱がある なら、自らの思いを点検しよう。どこから の思いで動いているか。 ・・・・・・・・ 神からの思いと同時に、地・肉・悪霊からの 思いも絶えず来ている。それらは必ず結ぶ実に 現れて来る。それをする動機は純真か、自己中 心でないか、見せかけでないかよく点検しよう。 主が軌道修正し、導いて下さる。
2007年07月24日(火) 「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした」ローマ4:19
「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした」ローマ4:19
信仰の父、アブラハムにも失敗が あった。神はアブラハムに「わた しの示す地へ行け。大いなる国民 とする」と約束された。彼は、神 に従い旅立った。そして、歳月経 るが、まだ子供のできないアブラ ハムを外に連れ出し、「天を見上 げ、星を数えよ。あなたの子孫は このようになる」と言われた。彼 は神を信じ、神はそれを彼の義と 認められた。しかし、サラには子 供ができず、サラは女奴隷ハガル によって、子供を持とうとした。 アブラハムもそれを承諾した。神 の約束を信じてはいるが、神の時 を待てなかった。そして肉の方法、 人間的な方法で約束を実現させよ うとした。ハガルはみごもったが、 女主人サラを見下すようになった。 信仰の中に、肉が入り込み、家庭 に問題と争い、混乱を生じさせた。 約束を信じるという事は、肉の手 段や方法を入れない事だ。時も方 法もすべて神に委ねるのだ。人間 的知恵や手段が入ると、事を壊し、 秩序を崩して行く。肉の方法でも、 外側は見た目は同じような結果が 得られる。しかし、そこには何の 祝福もない。むしろ悩みと問題を 生じさせる。神の時をじっとひた すら待とう。「主の救いを黙って 待つのは良い」。神の時を待てず に、自分の思いで動いてはならな い。肉で動かず、神の約束を待ち 望もう。神ご自身が成就される。 「胎が死んでいることを認めても 」尚、待ち望むことだ。 ------------------------- 神様の御約束に立ち続けるのは難 しい。不信仰との戦いだ。それで も、期待して待とう。人知を超え たみわざを見るから。神様にしか 頼れない時が恵みの時だ。
2007年07月23日(月) 「なた、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに・・長子の権を売ったエサウのような俗悪な者がいないようにしなさい」ヘブル12:6
「なた、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに・・長子の権を売ったエサウのような俗悪な者がいないようにしなさい」ヘブル12:6
エサウのように俗悪な者になるな との警告だ。エサウはイサクの双 子の息子の長男だ。もう一人はヤ コブで、生まれる時、兄のかかと をつかんで出て来た。エサウは猟 師となり、ヤコブは天幕にいた。 ヤコブはレンズ豆で、エサウから 長子の権を奪い取った。その上、 イサクが視力が衰えていたのをよ い事に、リベカと共謀して、父を だまし、祝福をも奪い取った。ヤ コブの方がずる賢くて、狡猾で、 ひどいように見える。しかし、ヤ コブが断罪されているのではなく て、エサウの方だ。エサウが俗悪 だと言っている。ヤコブにレンズ 豆で長子の権を売った箇所で「こ うしてエサウは長子の権利を軽蔑 した」とある。神、信仰、霊的な 事柄に、エサウは無関心だった。 全く関心がなく盲目だった。「俗 悪」は神に関心を持たない事だ。 それがエサウの問題点だった。だ から、長子の権など豆の前では無 価値だった。見えるもの、触れる もの、この世界のものだけが、エ サウの関心事であった。私達はど うだろう。関心はどこにあるだろ う。目に見えるもの、この世の勢 力は凄まじい。人からの賞賛、名 誉、地位、富、自己実現、世の楽 しみ・・霊の目がそらされて、世に あるものに執着し、関心がそこに あるなら、「俗悪」な者となって しまう。この世にどっぷり浸かっ ていないか。霊の目が鈍っていな いか。警告に耳を傾けよう。 -------------------------- 霊の目が鈍っているとこの世の価 値観にすぐに反応し、迎合して行 く。悪い方へ傾くばかりだ。新し い週が与えられた。私達は弱くあ やうい者だという事を覚え、良い ものをしっかり見極めて歩もう。
2007年07月22日(日) 「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」ヘブル12:15
「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」ヘブル12:15
「苦い根」が自分の内にないだろうか。根だ から、普段は土の下に隠れて、外側からは決 して見えない。内側深くあるものだ。外側は にこやかで優しく良い人であり、常識ある社 会人に見える。しかし、その地中深くにある 苦い根が芽を出して来る。妬み、憎しみ、批 判、さばき、敵対心・・。何か事が起こると、 その苦みが出て来るのだ。苦い根は自分にと どまらず、周囲に苦いものを流す。周囲を傷 つけ、踏みにじり、暗たんたる気持ちにさせ、 恵みを消してしまう。恵みが吹き飛んで暗い ネガティブな嫌な気持ちにさせられる。そし て、苦い根はそれだけで終わらず、同時に相 手にある苦み、嫌なもの、否定的なものを引 き出してしまうのだ。経験あるだろうか。相 手を責めて攻撃して行くと、相手の中の悪い ものが誘発され、引き出され、双方でどんど ん泥沼に落ちて行く。憎しみは、相手の憎し みを引き出す。逆に相手を受け入れ、愛し、 尊び喜んで行くと、相手の良いものを引き出 す。苦い根は主の御前に持ち出して、断ち切 ろう。放っておくと、根ははびこる。光のも とに出すことだ。普段は隠れているが、何か あるごとに出て来る、苦い根があなたの内に ないか。 ・・・・・・・・・・・ 普段はどうもないが、ある状況になると、必ず 同じパタンで出て来る反応だ。心のざらつきだ。 そこに根がある証拠で、光のもとに出し、悔い 改めよう。新たにされる。まず根を認める事から 始めよう。
2007年07月21日(土) 『「あなたの父と母を敬え」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです』エペソ6:2
『「あなたの父と母を敬え」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです』エペソ6:2
モーセの十戒の5番目であり、対人関係の 一番最初に来ている。約束が伴い「あなた の神、主が与えようとしておられる地で、 あなたの齢が長くなるためである」。親は 子供に良かれと思い、子供のためを思い、 厳しくしつけ、叱る。しかし、子供の側で は、親の心がわからないので、取り違えて、 自分を嫌いだから叱り、自分は愛されてい ないからだと思ったりする。親も親で子供 を思う気持ちと裏腹に、子供を自分の思通 りにしたいと、底にある、実は自分中心な 自我に気づく事は大切だ。そうでないと子 供は歪んでしまう。子供の側としては、親 を敬う事は神の御心だ。神の喜ばれる事で あり「良い父と母」「立派な尊敬できる父 と母なら」敬えとは言っていない。「あな たの父と母」だ。時に暴力を振るう親や、 感情をぶつける親、口やかましい親、アル 中の親がいるかも知れない。もしその親を 軽蔑し、見下し憎むなら、神との関係にひ びが入ってしまうのだ。神を敬う事ができ なくなってしまう。「天の父なる神」と 「自分の父」が重なってしまうのだ。上に 立つ権威にも従う事が難しくなる。親を否 定すると自分を否定する事になり、自己矛 盾を起こす。親を敬う事は、取りも直さず、 あなたの幸せのためだ。難しければそうで きるよう、主に祈り求めよう。 ・・・・・・・・・・・・・ 祈りは力だ。できない事を認めて、主の助け を仰ごう。主は必ず心を変えて下さる。親を 尊敬する事が、親への最大の証しであり親の 救いにつながって行く。
2007年07月20日(金) 「ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた・・」Uサムエル21:1
「ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた・・」Uサムエル21:1
ダビデは3年に及ぶ飢饉に見舞わ れた。ここでダビデから学ぶ事が できるのは、何とかして下さい、 どうにかして下さい、救って下さ い、の祈りではなくて、「みここ ろを伺」ったのだ。なぜこうなっ ているのか、主のお心を求めた。 とにかく、目の前の苦しみが取り 除かれる事ではなく、何が原因か に目を向けた。そのような祈りに 「主は仰せられた」、主は答えて 下さったのだ。サウルがギブオン 人に犯した罪の償いをするよう、 主が臨まれたのだ。ダビデは主に 従い、ギブオン人達に向き合い、 償うには何をすればよいのかと尋 ねた。そして、ダビデは彼らの言 う通りに応答した。すると「その 後、神はこの国の祈りに心を動か された」。自分の罪を知り、向き 合おうとする真実な心を、神は見 て下さる。そして心から謝罪し、 償おうとする態度を喜ばれ、解決 を与えて下さる。罪をそのままに していないだろうか。罪は祈りを 遮断する。「あなたがたのとがが、 神との仕切りとなり、聞いてくだ さらない・・」罪を放っておいては ならない。神との交わりが妨げら れる。悔い改め、必要なら償おう。 目の前に様々な事態が起こるが、 主に御心を求めて行こう。お心が あり、従う時に、神の栄光が現れ る。 ----------------------- 神様はいたずらに私たちを翻弄さ れるのではない。みな意味がある。 日々、出会う事がらに意味を問う て行けるのは、なんと幸いな人生 だろう。豊かな神様との交わりを 持とう。
2007年07月19日(木) 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラリヤ6:7
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラリヤ6:7
思考から行為が生じ、行為から 習慣が生じ、習慣から人格を生 じ、人格から人生が生じる。つ まり、思考を蒔くと、行為を刈 り取り、行為を蒔くと習慣を刈 り取り・・となって行く。人格 が形造られて行くのも、思考が 基であり、すべては思考から始 まる。思いが重要だ。何を思っ て生きているかによって、刈り 取るものが決まって来る。心の 中はどうだろう。いつも不平不 満、つぶやきだろうか。又は、 いつも思い煩いに支配されてい るか。又、批判や非難で一杯か。 妬みや憎しみで燃えているか。 それらの種を蒔いているからに は、そのような人格を刈り取る 事になる。「すべての事につい て感謝しなさい」感謝の種を、 常時、心に蒔き続けているなら、 感謝の実を刈り取る。「いつも 喜んでいなさい」喜びの種を蒔 き続けるなら、喜びの実を結ぶ。 これは法則なので、例外はいっ さいない。朝顔の種を蒔いて、 すみれが咲いたという事が絶対 にあり得ないように、蒔かない ものは刈り取らないし、蒔いた ものは必ず刈り取る。肉に蒔く なら、ますます自我が肥り、そ のような人格へ、御霊の導きに 従うなら、御霊の実を結んで行 く。思いが重要だ。神を思い、 恵みを数え、感謝を献げ続けよ う。 --------------------- どんな中でも喜べるし、逆に 何に対しても不満不足を覚え る事もできる。蒔いたもので 自分を築いて行っている。今 日も一日神様の恵みに感謝し て御霊の実を結んでいこう。
2007年07月18日(水) 「私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ」詩篇43:4
「私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ」詩篇43:4
「私の最も喜びとする○○」この ○○の中に、何が入るだろう。建 前ではなく本音では、何を求めて いるのだろう。それは極めて重要 だ。それが必然的に全生活の、生 き方の基盤となる。必ずそのよう に動いて行くからだ。目の前で物 事を決めて行く時に、そのように 選択する。例えば、人の賞賛を求 めているなら、人がどう見るかが 判断基準になる。神がどう思われ るか、自分がどう思うかでなく、 人がどう思うかで物事を決めて行 く。求めているものが富なら、絶 対に損はしない。損得が判断基準 で、すべての場合に得な方を選択 する。又、人生に楽な事を求めて いるなら、それが正しいかどうか でなく、とにかく安楽な道を選択 する。そして、危険は絶対に冒さ ない。あなたの日々の生活を振り 返るなら、建前ではなく、心の底 にあるものによって、本音によっ て選択し、決定している事に気づ くだろう。名誉、地位、人、賞賛、 理想、自己実現・・求めているもの は何だろう。まず、自分が何を大 切にして、何を求めているかに気 づいて、認める事から始まる。決 して神ではない、神以外のもので あると、気づく事は良い事だ。神 の御心は何か、何が神に喜ばれる 事なのか、神のお心を求めて歩も う。 ----------------- 何が一番大切で、何を失う事を一 番恐れるのだろう。一つ一つ気付 かされ、捨てて行けたらいい。そ して神様が与えて下さる良いもの の方を選択しよう。良いものはわ ずか、いや一つだけだと主は言わ れた。
2007年07月17日(火) 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4
「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4
「主を」おのれの喜びとせよ、 とある。「主が下さるもの」で はない。「主が下さる祝福や恵 み」ではない。主が下さるもの を喜びとしているなら、自分の 願いが叶えられなかったなら、 必ず不平不満を持つ。与えてく れない主を責めて、鬱屈する。 しかし、与え主なる主ご自身を 求めているなら、もし願いが叶 えられなくても、落胆はない。 自分の願ったものから喜びが来 るのでなく、主ご自身から喜び が来るからだ。願ったものが与 えられたから、喜ぶのでなく、 ご自身を喜ぶ事を学んで行く。 あの10人のらい病の人々のよ うに、9人はらい病が癒された 事に大喜びして、世に帰ってし まった。私達も眼中は自分の願 い事にばかりで、与え主を忘れ てしまうなら危険だ。それなら 願い事さえ叶えば、対象は誰で もよい事になる。ある婦人が子 供が欲しくて強烈な願いで、ど うあっても絶対に欲しいと思っ た時に、気づかされた。願望が 余りに強過ぎるなら、与えてさ えくれれば、誰でもよいとまで 進んで行く事に愕然とした。恵 みを何が何でも、もぎ取ろうと している自分の恐ろしさに気づ いた。悔い改めて、明け渡した。 御心でなければ、もうよいと心 から思えた。心の隅々まで平安 になり、主が喜びとなった。そ の後、子供が与えられたのだっ た。 -------------------- 主がやりなさいと言われるから 従い、主が与えて下さるものす べてを喜んで受け入れる、その ような態度でいたい。自分の思 いにのみに固執するなら他のも のにひれ伏して行ってしまう。
2007年07月16日(月) 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇1:17
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇1:17
ある女性の証しだ。結婚したが、共働 きで双方疲れ対話も無いまま、価値観 が違い、考え方が違い、習慣の相違に 喧嘩が絶えなかった。自我が問題だと わかるが、どうにもならず、争っては 悔い改め、その繰り返しだった。そん な時、夫の親との同居となり、内心は 嫌で、受け入れられないまま生活が始 まってしまった。夫婦の土台も無いま まの同居で、ますます糸がからんで、 泥沼へと突き進んで行った。数年経て、 もうどうにもならない限界状況になっ た。疲れ果て、ギブアップ状態だった。 これ以上もう進めなかった。神の御前 に、全面降伏して、この結婚を神の手 に明け渡した。もうどうにでも、あな たの良いようにして下さいと。自分自 身をも、結婚生活をも、もうどうにも 出来ないと。その時、突然、このどう しようもない自分のために、主は十字 架で死なれた事、すでに罪が赦されて いること、これからも赦し続けて下さ ることが、目の前に迫り来た。自分は どんなに頑張っても、罪しか提供でき ない、何の良いところもない者である こと、だからこそ主の十字架があるこ と、瞬間に目が開かれた。苦しみが喜 びに変わってしまった。180度の変 化を経験した。全面無力の中で、主に 出会う。一見絶望に見えるどん底に、 そこに主はおられる。 ---------------------- クリスチャンでもストレスもあれば、 いっぱい、いっぱいで嫌々でしか従え ない相手もいる。平安を装っているよ り、正直に主に訴えて行こう。すがり つくべきお方は、ただ主のみだと心底 わかる。主が受け止めて下さる事を知 る。
2007年07月15日(日) 「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16
「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16
主によっておおいはすでに取り除かれてい る。ところが、私達サイドにおおいがあっ て遮断してしまうのだ。何がおおいとなる のか。自分の思い、考え、世の価値観がお おいとなり神の心が見えない。自分の思い があるばかりだ。「わたしの思いは、あな たがたの思いと異なり」のように、神の思 いは私達の思いと大きく違う。天と地ほど に違うので、肉の思いの方がしっくりきて、 一見まともに、常識的に見えてしまうのだ。 当時の人々には、パリサイ人の方が常識的 でまともに見えたろう。「天から下って来 たパン」「わたしを食べる者は生きる」だ の「アブラハムがわたしの日を見て喜んだ」 とは霊の世界であり、頭では理解不能だ。 心の一新によって変えられ、思いが新たに される事が必要だ。又、自己中心はおおい となる。自分中心であるため神が見えない。 天動説で、自分が中心で周囲が回っていて、 どこまでも自分が回そうとする。それがお おいとなる。又、主から目を離し、自分と 状況だけを見ると、おおいとなって落ち込 んで行く。自己憐憫の殻に真っ逆さまだ。 主とあなたの間に、おおいとなっているも のは何か。御霊に探って頂こう。主に向い て、明け渡して行く時、そのおおいが取り 除かれる。御霊の働きだ。 ・・・・・・・・・・・ 主には何の問題も無いが、こちらサイドに おおいがある。神がよく見えない、自分の おおいは何だろう。妨げを示されて明け 渡して行くなら、おおいが除かれてはっき りと主が見える。
2007年07月14日(土) 「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ガラテヤ8:15
「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ガラテヤ8:15
人を憎んで、がんじがらめになった事が、 信仰人生で誰しもあるだろう。悶々状態 で、相手が目の前にいようといまいと、 四六時中、心は拘束され煩悶する。その 間苦しむのは相手ではなく自分だ。妬み も同様だ。心が妬む相手にすべての時間 拘束されてしまう。そして更に憎み、妬む、 自分自身が嫌で、自己嫌悪に陥って行く。 どう生きたいのだろう。煩悶の中にいた いのか、憎しみや妬みから解放されて、 相手を愛して生きたいのか。これは自分 の選択だ。御霊は愛を与えて下さるが、 自分は果たしてそうしたいのか、それを 選ぶかどうかだ。解決は、妬みや憎しみ を抑え込む事ではない。抑え込んでも、 厳然とそこに存在するので、事ある度に 出て来る。まず御前に、憎しみ、妬みを 認めることだ。悔い改めて、神のもとへ 持って行くなら、神がそれを引き受けて、 対処して下さる。出て来る度に、神を呼 び、委ね続けることだ。人にはできない 事が、神にはできる。御霊によって、か らだの行ないを殺す事は、一瞬一瞬、神 にありのままの汚い、醜い自分を見せ、 認めて行くことだ。「明らかにされたも のはみな、光」だ。神を頼り、神を選択 し続けること、その時、打ち勝って行く。 ・・・・・・・・ 抑え込んで無い振りをしても無意味だ。 まず主の前に認めよう。悔い改め、拠り 頼もう。自分の力では出来ないが、主は 奇跡をされる。しかし、自分が大嫌いな 相手を愛する事を選ぶかどうかだ。
2007年07月13日(金) 「そこで彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」ヨハネ21:6
「そこで彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」ヨハネ21:6
ペテロ達は、熟練した腕、持ち前の プロの勘を働かせで、夜の間中、何 度も網を下ろした事だろう。しかし、 雑魚一匹とれなかった。これは自分 の力、自分の思い、自分の知恵での 漁であった。肉の力と思いを駆使し て、動き回っていた。自分を信じ、 自分に頼っている限り、神を信じる 信仰はない。神に頼る事はできない。 頭の中に神はあっても、決して頼ら ない。熟練しているはずの、自分達 の力の限界を思い知らされた。無力 を味わい知った。挫折と敗北感に打 ちのめされていた。その時、「舟の 右側に網をおろしなさい」との声が 聞こえた。言われた通りに右側に網 をおろした。これが信仰への分岐点 だった。自分の思い、知恵では、プ ロの腕でもってしても、一匹もとれ なかった。今更、魚がいるはずがな い。しかし、自分の思いに頼らずに 、信仰によって歩む事が、「右側に 網を下ろす」ことだ。打ちのめされ て、無力を味わい知った時に、はじ めて自分に頼らず、神に頼る。「信 仰」によって歩む。自分を信じてい る限り、神に頼ることはできない。 魚がいるはずのない所に、魚がいた。 網を引き上げる事ができないほどの 大漁で、そのまま舟を岸につけて、 網を陸に引き上げた。「信仰」によ って歩む世界は、神のみわざを見る 世界だ。 ------------------- ペテロ達のように本当に疲れきって いるから明け渡せた。神様、神様と 祈りながらも、自分に頼るなら神様 の栄光を見る事はなく、いつまでた っても力を抜く事ができない。明け 渡し、明け渡し歩んでいこう。
2007年07月12日(木) 「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった」ヨハネ21:4
「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった」ヨハネ21:4
主の復活の後、ガリラヤに戻って 来た弟子達、しかし、主を裏切っ たペテロの心はどんなものだった ろう。どの顔をして会えばよいの か。心は沈み、重苦しく、空虚感 の中で、食べる物も無く、漁をす る事に。ベテラン漁師達だったは ずが一匹もとれない。挫折感と無 力感、疲労感、虚しさが心に広が る。そんな時、誰かわからないが、 岸から声がかかる。「食べる物が ありませんね」「はい。ありませ ん」と認めた。私達も学ぶ事がで きる。自分のありのままの姿を、 はっきり直視する事が大切だ。 「ありません」どんなに見たくな くても、逃げたくても、惨めで無 力な姿を、現実直視する事から始 まる。そして「舟の右側に網をお ろせ」と言われる通りにすると、 何と大漁だった。以前に同じ大漁 の場面があった。忘れる事のでき ないものだ。同じ光景だ。直感力 と洞察力のあるヨハネがすぐに見 抜いた。「主です」。ペテロは湖 に飛び込んで、主のもとへ向かっ た。岸辺で食べ物を用意して待っ ていた下さった主は、ペテロにご 自身を現わし、ペテロの信仰を回 復させて下さった。徹底的無力を 知ることが幸いだ。そここそが主 に出会える場所だ「夜が明けそめ たとき、イエスは岸べに立たれた」 。どん底の私たちの前に立って下 さる。そして、夜明けを与えて下 さる。 -------------- 自分の無力を知り、不信仰を知る 時こそそこに主を見あげる時だ。 落ち込んで自分の内側ばかり覗き 込むのではなく、主を見よう。 主に支えられて歩む信仰生活がそ こから始まる。
2007年07月11日(水) 「そして、あなたがたは真理を知り真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32
「そして、あなたがたは真理を知り真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32
この世のいう「自由」は、自由なの でなく、放縦でありわがままであり、 自己中心だ。放蕩息子は自由を求め て父親のもとを去った。自分の好き 放題をする事が自由だと、はき違え たが、まさに放蕩であり、そこには 罪がある。人が不倫をする時に言う。 自分に正直に自由に生きるのだと。 責任の伴わない自由はあり得ない。 自由には責任が伴う。肉欲に誘惑さ れて行き着く先は死だ。肉で生き、 肉を発散させる事は決して自由なの ではなく実際は罪の奴隷だ。大事な 事は御言葉が真理であり、御言葉に 従うところから自由は来る。自由は 御言葉に基づく。嫌な相手がいて、 肉は憎んでいたい、憎む事が心地良 い。しかし新しい自分は異なる。憎 むなら平安が失せ苦しみは増すばか りだ。悶々状態に陥る。真理に従っ て、主に心を明け渡し、御霊の支配 に委ねて行く時、憎む方ではなく愛 する方を選び取る。実は愛する事が 自由なのだ。憎む時、心はがんじが らめであり、愛する時、解き放たれ、 平安が満ちる。真理に従えば従うほ ど私達は自由にされ、解き放たれて 行く。今、心が苦しく悶々状態なら、 御霊の導きに従おう。苦しみから解き 放たれる。 ・・・・・・・・・・・・ 何度も自由にされて来た。御霊に従い、 自分を明け渡す事によってだ。自我は 自分の欲に固執し放さない。しかし、 放す時解放され、主と一つである実感 が来て喜び溢れる。
2007年07月10日(火) 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」ローマ12:1
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」ローマ12:1
カインは地の作物から主へのささげ 物を、アベルは羊の最良の初子を持 って来た。神はアベルのささげ物を 受け入れ、カインの物には目を留め られなかった。なぜ、アベルのささ げ物は受け入れられ、カインのもの は拒まれたのか。「信仰によってア ベルはカインよりすぐれたいけにえ を神にささげ」とあるように、「い けにえ」としてのささげ物をささげ た。いけにえは、ほふられて血が流 されたものだ。アベルのささげ物に は血の犠牲が伴っていた。「すべて のものは血によってきよめられる」 「血を注ぎ出すことがなければ、罪 の赦しはない」「イエスの血によっ て、大胆にまことの聖所にはいるこ とができる」。これは後の、キリス トの十字架を示すものだ。エデンの 園で罪が入った時から「彼は、おま えの頭を踏み砕き、おまえは、彼の かかとにかみつく」とキリストが示 されている。神に受け入れられるさ さげ物は、アベルのささげ物によっ て表され、イエス・キリストによっ て成就された。十字架上で神の小羊 キリストが裂かれて血が流された。 神はそれを受け入れられた。キリス トにより、私たちは完全に神に受け 入れられている。そして、受け入れ られている私たちは、自分自身を献 げて行くことが、神への真の礼拝と なる。 -------------------- 信じて救われただけのクリスチャン ではなく、罪赦された喜びと主の愛 によって変えられていきたい。そし て感謝をもって喜んで自分自身を献 げて生きていきたい。
2007年07月09日(月) 「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」マタイ12:36
「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」マタイ12:36
お喋り好きな人が「自分は饒舌だから、 必ず舌で罪を犯してしまう。寡黙な人 が羨ましい。罪を犯さずに済む」と言 ったが、喋り過ぎに気をつけるのは良 い事だ。話す価値の無いような事なら、 黙っている事だ。話す前に考えよう。 「この内容は真実か」「真実であって も、ここで話す必要があるか」「周囲 の徳を高めるか、神の恵みが現れるか」 自分の語った言葉には責任が伴う。 一言一句責任を持とう。まず言葉が真 実であること、いい加減に約束はしな い事、約束した事は必ず守ること。 「神の約束は真実」に立つ者として、 約束に不真実ほど証しを傷つけてしま うものはない。特に自分より年下の人 々に対しては、いつも心がけて有益な 言葉が語れるよう、日頃から備えてお くこと。同時に、「あなたがたのこと ばが、塩味のきいたものであるように しなさい」、罪に対しては、間違った 事に対しては、柔和に、しかしきっぱ りとした態度で、自らの見解を表明す る事は大切だ。時に、ノーをはっきり 言わなければならない。塩けを保つ事 になる。舌をコントロールするのは至 難のわざだ。自分の肉の思うまま、好 き放題に喋り続ける事を、舌に許して はならない。御霊の支配に委ね、御霊 に導かれて言葉を発する事ができるよ う祈ろう。 ---------------------- 耳の痛いみことばだ。自分の話す言葉 にどこまで責任を持っているだろうか。 いい加減な、その場しのぎの言葉を垂 れ流す罪を今日から戒めよう。みこと ばを自分のものとしよう。
2007年07月08日(日) 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない」ヘブル12:5
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない」ヘブル12:5
放蕩息子ではないが、私たちも信仰生活の 中で、道からそれて、世の楽しみにかまけ て、神を忘れるだろうか。神は愛ゆえに、 頭をコツンと打って下さる。神に帰るよう 気づかせて下さるためだ。軽いコツンでわ かればよいが、それでもわからなければ、 バシンと殴って下さる。それでもわからず、 神から離れたままであれば、神は愛ゆえに、 むちを持って懲らしめられる。苦しい目に 会うと、神のもとに駆け込む。餓死寸前の 放蕩息子のように、我に返る。こうして神 に立ち返った人は多いだろう。自己中心で、 神をないがしろにし、好き勝手な道に走り、 目の前の美味しい草をあさりながら、道に 迷ってしまう。神に立ち帰り、いかに神の 愛とあわれみが深いか、赦しが大きいか、 幾度も味わい知る。自己中心な自我が砕か れ、神への感謝が増し、溢れる。その結果、 生活に平安な義の実を結んで行く。神に立 ち帰るために、神は懲らしめを送られる。 これは愛以外の何ものでもない。もし放っ て置かれたなら、今の自分は無い。あなた にも今、「コツン」が来ているか。心が神 から離れていないか。今すぐ、神のもとへ 立ち帰ろう。両手を開いて大喜びで迎えて 下さる。 ・・・・・・・・・・・ 自我は頑強で、痛い目に会わなければ、従お うとしない。痛い目にあって砕かれ素直にさ れる。自分から従えば良いが、そうしない頑 なな神に敵対するものが内にある。懲らしめ は神の助けで真に愛だ。
2007年07月07日(土) 「割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです」Tコリント7:10
「割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです」Tコリント7:10
サウルはサムエルから指示を受けた。 「先にギルガルに下り、七日間待て。私 が行って全焼のいけにえと和解のいけに えをささげるから」と。それでサウルは ギルガルに下り、七日間待ったがサムエ ルは来なかった。戦いは劣勢を極め、民 は怯え逃走しようとしていた。民をつな ぎ止めるため、サウルは祭司にしか献げ ることのできない、いけにえを献げた。 又、アマレクとの戦いでは、すべてのも のを聖絶せよとの命令にも関わらず、最 も良いものを惜しみ、つまらない、値打 ちのないものだけを聖絶した。これらサ ウルの問題は、いけにえを献げる、献げ ない、聖絶する、しないという事ではな く、「主の御声に聞き従」わないという 問題だった。「聞き従うことは、いけに えにまさり、耳を傾けることは、雄羊の 脂肪にまさる」と、御声を聞いて従う事 が求められている。私たちはどうだろう。 重要なのは、神のために、自分の良いと 思う事を行なう事ではなくて、神の言わ れる事を聞き、神の示される事を行って 行く事だ。手当たり次第に何か善行をす ればよいではなくて、神のみこころを行 うことが最重要だ。自分の思いで進むと、 サウルになってしまう。大切な事は、自 分がどう思うか、どうするかでなく、神 の御声を聞いて、従う事だ。 ・・・・・・・・・ 自分、自分、は根深い古い性質だ。祈りに おいても、願うのだが、ただ自分の願いを 突き貫こうとする。それは神の力を利用す る事だ。自分の願望は神のお心にかなって いるのか、主のみ思いを聞こうとする事が 大切だ。
2007年07月06日(金) 『パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した』使徒14:9
『パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した』使徒14:9
ルステラで、生まれながらの足なえの 男性がいて、一度も歩いた事がなかっ た。その人がちょうど座っていて、パ ウロが語る御言葉にじっと聞き入って いた。彼は、自分の足に関して、何も、 どうする事もできなかった。どれだけ 頑張っても歩く事は不可能。自らに全 く望みを置けない、完全無力の状態だ った。自分で何もする事ができない。 だからこそ、「自分の足で、まっすぐ に立ちなさい」とのパウロの言葉にす がった。すがれたのだ。彼にはこの言 葉しかなかったのだから。全望みをか けて信じた。この言葉がすべてだった。 自分に何も無いからこそ、そうできた のだ。その言葉に拠り頼んだ。信仰が 働き、神の力が働き奇跡が起きた。一 度も歩いた事のない彼が、飛び上がっ て歩き出した。私達も自らの完全無力 を知る時が、信じる時だ。何の方策も 無く、何もどうにも出来ない。信じる しか道がない。その時に初めて信仰が 働く。自分の力、自分の方法に頼って いる限り、自分を信頼している限り、 神への信仰は無い。幾ら御言葉があっ ても、必ず自分の力で、自分の方法で やって行く。そこに信仰の入る余地は ない。信仰とは、御言葉だけを頼りに し、自分を任せて行く事だ。ゆえに、 自らの無力を知る事が大きな祝福であ り、幸いだ。無力に落ち込む事など無 い。 -------------- 弱さが恵みであり神様の栄光を見る事 ができるのは、拠り頼むその時だ。無 力と知ることは感謝であり、密接な神 様との交わりの要だ。
2007年07月05日(木) 『母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」』ヨハネ2:3
『母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」』ヨハネ2:3
カナの結婚式の席で、ぶどう酒が無く なった。当時の結婚式での、ぶどう酒 は無くてはならないものであり、途中 で無くなるなど、花婿花嫁の顔は丸つ ぶれ、大切な結婚式が台無しになって しまう事態であった。「あの方が言わ れることを、何でもしてあげてくださ い」マリヤのこの言葉は鍵だ。自分が 何とかするのではない。自分の思いと 力で立ち回るのではなく、「あの方が 言われることを」する。つまり、自分 を明け渡すことだ。自分を明け渡して、 主イエスに従う時に、主のみわざがな され、栄光が現される。委ねる時に、 初めて神が働かれる。自分で何とかし ようとしている間は、神の働きを見る ことはない。目の前の窮地を何とかし ようと、まるで主がおられないかのよ うに、自分で動き回って、疲労こんぱ い状態だろうか。静まって、御声を聞 き、「あの方の言われること」をする 事が重要だ。神の示される通りに、実 際に水かめに水を満たして行く時に、 水がぶどう酒に変えられる奇跡を見る。 「ぶどう酒がありません」と現実の自 らの姿を認め、「あの方が言われる」 通りに、実際に神の言われる事を行お う。 ----------------------- 自力で何も出来ないところまで追い詰 められないとなかなか明け渡す事がで きない。ささいな事でも主に明け渡す 事ができるならその時が恵みの時とな る。恐れるものなど何もない。
2007年07月04日(水) 「十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった」ルカ22:3
「十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった」ルカ22:3
ユダは銀貨30枚で主を引き渡した。「サ タンがはいった」と出て来る。ユダの中 にサタンが入った。そして、実際のその行 為に及んだ。どのように入ったのか。ユダ の思索の中に思いの中に入った。そして、 サタンはユダを支配して行った。行動の 前に、まず思いがある。ユダは会計係を しながら、金銭を盗んでいた。金銭に執 着し、金銭のとりことなっていた。そこにサ タンはつけ込んだ。欲におびき寄せられ 誘惑され欲を妊娠させると罪を生む。 女性が妊娠すると赤ん坊が生まれ出る ように、欲望を妊娠させると、必ずその 罪の実がはっきりと見える形で現れて来 る。欲は見えないが、心の中でそれに執 着し育んで行った結果が、見える実とな り現れ出る。まず思いの中にあった事だ。 思いは人には見えない。しかし、思いで 罪を犯す。罪は外に現れ出る。「不品 行、汚れ、情欲、悪い欲・・を殺してし まいなさい」見えない欲望を心で妊娠 させてはならない。行為が生まれ、恐 ろしい結実を招いてしまう。思いを御霊 に支配して頂こう。「怒り、憤り、悪意、 そしり、口から出る恥ずべきことばを捨 ててしまいなさい」。きっぱり捨て去ろう。 ・・・・・・・・・・・ 突発的というより、普段から思いの中で 育み続けている事が罪となって結実する。 断ち切り、捨てない限り、いつか必ず産 み出す。サタンに足場を与えてしまう。 気づく罪をまず主に告げよう。
2007年07月03日(火) 『イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい」』マルコ5:36
『イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい」』マルコ5:36
私達は日常生活で、様々な妨げを 経験する。急ぎの仕事の最中に、 来客や電話が入る。予定があるに 関わらず、急用が入る。している 事を中断させられ、時間を取られ、 労力を取られる。ヤイロが主のも とに来て、瀕死の娘を助けて欲し いと願った。願いに答えて主は、 共に出かけられた。一刻も早くと 気がせいた事だろう。そこに長血 の女が立ちふさがった。娘が危篤 の状況で、一分一秒を争い急いで いるところに、突如のハプニング だ。行く手をはばまれてしまった。 この危急の時に、娘を思うヤイロ の気持ちはいかばかりだったろう。 主が長血の女をいやされ、ヤイロ が立ち往生しているところへ、娘 が亡くなったとの知らせが入った。 するとすぐ主は「恐れないでただ 信じていなさい」と御声をかけら れた。遅れに対して、中断に対し て、主が全責任を取って下さるの だ。この時のヤイロの気持ちはど んなものだっただろう。主はその 気持ちを思い、御言葉で答えて下 さった。御言葉で心が守られた。 私達も、自分の大切な事態の最中 に、妨げが入るかも知れない。し かし、他者を顧みることは、自分 と自分のしている事を中断する事 だ。犠牲を払う必要があるかも知 れない。しかし、主が責任をもっ てあなたを顧みて下さる。心配無 い。 --------------------- 自分の時間を中断して人のために 、他人を優先するのは難しい。も し一日を主に明け渡して生きるな らどうだろう。主が責任もって祝 福して下さる事を知って行ける。
2007年07月01日(日) 「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30
「私は盛んになり」がこの世の価値観 だ。毎日しんどい目をして働くのは、 より豊かな快適な生活を求めるためで あり、自分の才能を開花させて、より 自己充足を計りたい、自己実現のため には、時間、労力を惜しまない。「私 は、私は、私のために」「私・・私・・」 がこの世だ。しかし、信仰の世界は、 そうではなく神中心だ。それを妨げる、 自己中心、自己主張、自己防衛・・それ らの自己が衰えて行くほどに、私たち を通して、キリストの香りが現れ出る。 私たちの意志は頑強だ。強固であり、 何が何でも思い通りに事を運びたい。 自分の思いが強い。その強い肉の思い を、神の御手の中で、神の思いにそう ものとして、柔らかい心に変えられる。 そのために、しょっ中、思い通りにな らない事態を目の前に置かれる。頑な な意志は、その思い通りにならない事 態に、いらつき、怒り、焦り、悶々と する。神がその頑固な自己中心な意志 を砕き、衰えさせて下さっている。今、 道がふさがれ、すべてが自分の思い通 りに行かず、いら立っているなら、神 から来ている事を覚えよう。キリスト が大きくなられるためには、あなたは 衰えなければならない。思い通りにな らない事態を受け入れて、神に服する ことが成長だ。 ・・・・・・・・・・・ 自分の思いを通したい自我が砕かれる ために、主は思い通りにならない事態 を目の前に置かれる。怒り、いら立ち、 いかに自分が強いかを知る。思い通りに ならなくて当たり前と、主に服して行こう。
2007年07月02日(月) 「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた」マタイ25:16
「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた」マタイ25:16
1タラントは6000デナリで、1デ ナリとは労働者1日分の給料だっ た。6000日分の給料であり、約20 年分だ。1デナリといえども大変 な額だ。渡されたのは「その能力 に応じて」ゆえ、出来ない働きは 与えられていない。各自、無理の ない可能な働きが与えられている。 「すぐに行って」時を無駄にせず、 自分にできる精一杯の事をした。 「よほどたってから」短期間では なく、持久力と忍耐が必要であり、 長期間を忠実に労した。五タラン トの者も、二タラントの者も、主 人に喜ばれたいとの一心だった。 任されたものを生かして、ベスト を尽くした。一タラントの者は主 人を誤解していた。「蒔かない所 から刈り取り、散らさない所から 集めるひどい方」、厳しい、冷た い、自分達を苦しめる冷酷な主人 だと見ていた。もし失敗したらひ どい目に会うと、一タラントを地 に隠した。このまま返せば、減ら さなかったのだから、問題ないだ ろうとの了見だ。こんな神観から、 愛も喜びも感謝も生まれて来ない。 恐いから嫌々従うだけだ。与えら れた務めは恵みであり特権だ。主 人にもリスクはあった。しもべ達 は失敗してすべて無くしてしまう かも知れない。しかし、信頼して 大変な額を任せて下さったのだ。 この愛に応えて行きたい。 -------------------- 神様だからこのような者にもでき る事を与えて下さるのだ。嫌々従 う事もできるだろう。けれど頼っ て従っている者にしか神様の栄光 を見る事はできない。恐れず神様 のご愛に応えよう