2007年08月31日(金)

「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで・・わきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2



自分の思い通りにならない、願
い通りにならない事態に遭遇し
たり、強い願望が叶わなかった
りの状況に陥ると、心に怒りが
生じる。次々と状況が思い通り
にならないと、腹が立って来る。
どうせ、自分は必要無い人間、
だからこんな惨めな状態なのだ
と、心を屈折させて、すねてし
まう。人生は、決して自分の思
い通りになどならない。自分の
思い通りにならない状況を壁と
すると、その壁にボールを力一
杯投げると、そのボールはその
力で跳ね返り、頭にぶち当たる。
当然、傷を負うように、このよ
うに心にストレスを受けるのだ。
痛手を受けてしまう。これに対
応するにはどうすれば良いのか。
変える事の出来ないものを受け
入れる事だ。人生、変える事の
できないものは様々ある。親や、
国籍や、性別や、生まれた環境、
成育歴・・そいういうものと戦う
事は不毛だ。意味が無い。それ
は戦うのではなく、受け入れる
べきものだ。変える事のできる
ものは、変えるべきだ。環境も
人も変えられないが、自分を変
える事はできる。神のみこころ
は、環境を変えるのでなく、自
分を変える事だ。あなたは変え
られないものを、変えようとし
て、悪戦苦闘していないか。変
えるものと変えられないものを
見分けよう。
---------------------
受け入れるべきものと変えられ
るもの、それを間違えず、不毛
なストレスを周囲にも与えない
よう祈っていこう。御心に従
って自分の方を変えて行けます
ように。


2007年08月30日(木)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」Uコリント6:17


                               
人は神のかたちに創造された。「わ
れわれに似るように、われわれのか
たちに」と。神の性質を持ち、高価
で尊くかけがえのない、聖いものと
して造られた。神の似姿ゆえに尊い。
その人間に、使命を与えられた。植
物、又、命あるものを人の手に委ね
て、管理する責任を与えられた。
「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地
を従えよ・・すべての生き物を支配せ
よ」。しかし、アダムとエバが善悪
の木の実を食べた結果、罪が入った。
神を捨てて、自分が神となり、自分
の判断と知恵で、自分の力で生きて
行く事を望んだ。そのため、神から
委ねられたものを、神の栄光のため
にではなく、自分のため、自分の栄
光のため、自己実現のために用いる
ようになった。「自分が」生み、ふ
え、地を満たし、従え、支配する、
そのために、神の力を借りようとの
スタンスだ。自己実現のために、神
を利用して行く。罪の性質だ。しか
し、その罪の問題を解決するために、
主は十字架で死なれた。リフォーム
されたのでなく、全く新しく新築、
新創造されたのだ。内住の御霊に従
う時に「もはや自分のためにではな
く、自分のために死んでよみがえっ
た方のために」生きる。本来の目的
に生きて行く。そこに、真の安堵と
平安、生きる実感と喜びがある。
------------------------
自分のためだけなら絶対しないよう
な態度で、嫌な人に接する事が出来
たり、損だとわかっていても回り道
をしたり。御霊の導きに素直に従う
時、主のために生きているのだと喜
びが来る。これが本来の自分の姿だ
からだ。


2007年08月29日(水)

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません」Tコリント10:13

人は試練に会う時、「神様、なぜ?」
「なせ?自分に?」との問いを発せず
にはおれず、どうしても「なぜ?なぜ
?」と思う。その時は、明確な答えが
無い事も多い。しかし、時を経て振り
返る時、パズルのように一つ一つがつ
ながっている事を見い出し、その意味
がわかったりする。又、天国に帰って
初めて理解する事柄もあるだろう。今
はわからない事も、天国ではっきりと
その意味がわかるので、賛美と感謝し
か無いのだろう。しかし、今、わかる
範囲でも、神には決して無駄は一つも
なく、すべての事に時があり、神のな
さることは、すべて時にかなって美し
いと言える。時に、真っ暗闇の中にい
ると感じる事がある。トンネルの中は、
何も見えない。試練の中にいる時に、
この試練が永遠に続くかのように思っ
てしまう。まず気力が失せて、希望が
持てない。しかし、それはサタンの惑
わしだ。トンネルは必ず出る。試練は
一定の期間だ。耐えられない試練は無
い。耐えられるように「脱出の道」が
ある。必ず道がある。絶対に諦めては
ならない。しかし、これは試練を受け
入れた時にのみ、脱出の道があるとい
う事だ。試練をよけて、逃げて、避け
ていては、この約束には立てないばか
りか、ただ痛いだけだ。受け止めて、
学ぼう。
・・・・・・・・・・・・・・・
試練の中でしか聞けない御言葉があり、
試練の中でしか得られない学びがある。
苦しみに会ったことは幸せでした、あ
なたを知れましたと必ず言える。痛い
が希望がある。


2007年08月28日(火)

『そしてイエスは言われた「聞く耳のある者は聞きなさい」』マルコ4:9



御言葉が蒔かれる。土地は私達一
人一人の心だ。「聞く耳」とは、
聞く意志を持って、全身全霊で御
言葉を聞こうとする耳だ。そして、
従おうとの態勢で聞く耳だ。「聞
く耳のある者は」だから、「聞か
ない耳」もあるという事だ。聞か
ない耳は聞く意志のない耳、又、
物理的に聞いてはいるが、心に入
らない。心で聞いていないから、
頭を通り抜けて行く。又、従うつ
もりが無い。よく御言葉がわから
ない、わからないと言う。しかし、
御言葉がわかるのは、従おうとの
気持ちと態度があるからだ。従お
うとの姿勢がある時、必ず御言葉
がわかり、神のみこころがわかる。
逆に、従うつもりが無いなら、御
言葉はわからない。御言葉をどぶ
に捨ててしまう事だから、決して
わからない。御言葉はわかりたい、
しかし、従うつもりは無い時、実
のところ、わかっては困るのだ。
従う気が無いのだから。だから、
わからないという事になる。どの
ようであれ、御心に従う決心があ
るなら、必ず御言葉はわかる。神
の御声がわかる。聞く耳というの
は、聞いた事に従う姿勢を持って、
聞く態度だ。私達はどうだろう。
聞く耳があるだろうか。聞かない
耳だろうか。
----------------
御言葉を慕い求めているだろうか。
従いたい、変わりたいとの心で御
言葉を聞こう。聞く耳のある者に
なって、いのちの御言葉を無駄に
しないように。


2007年08月27日(月)

『ヤコブは眠りからさめて「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った』創世記28:16



ヤコブは父と兄をだまし、長子の権
利と祝福を二度までも奪った。兄は
怒り狂い、ヤコブを殺そうとした。
それで、家におれなくなり、叔父の
もとへと逃れた。父をだまし、兄を
激怒させ、家族を失い、今は荒野だ。
家族もバラバラ、どんなに疲れ果て、
憔悴し、ぼろぼろだったろう。孤独
感と空虚感、これから先の不安感、
恐れで一杯だった事だろう。荒野で
日が暮れ、石を枕に野宿した。心細
かった事だろう。その時に夢を見た。
使いが現れ、かたわらに主が立たれ
た。そして「共におり、守り、この
地に連れ戻す」と言われたのだ。ヤ
コブは主の臨在に触れた。主がここ
におられたのに、知らなかったと。
ヤコブは全く予期せぬ事態に驚いた。
一方的に神が現われ、一方的に守る
と言われる。ヤコブは今まで親から
聞いてはいたが、初めて個人的に神
に出会った。私達はどうだろう。親
の信仰か。友人や導き手の傘下の信
仰か、それらは自分の信仰でなく、
人の信仰だ。人に受け入れられ、愛
されているので平安と喜びもある。
しかし、教会では祈るが一人になる
と祈らない。神と個人的関係が無い。
人によらない自分の信仰を確立させ
て下さる。「まことに主がおられる
のに、私は知らなかった」とはっき
り言えるよう、神に求めよう。喜ん
で答えて下さる。
-----------------------
求めている者にも、いない者にも同
じようにいつも神様は共にいて下さ
っているが神様の恵みと支えの中に
今日も生きている事を感謝しながら
歩む者の歩みは大きく違う。今日も
与えられた場所で感謝して歩もう。


2007年08月26日(日)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3

私達はつい人と比較して生きてしまう。
どうしても目に見えるからだ。又、人か
ら比較される事もあるだろう。良い意味
でのライバルは切磋琢磨して互いの向上
となる。しかしそうでない比較の根は高
慢であり、その現われは優越感と劣等感
となる。それらはどちらも根が同じもの
だ。優越感を持つ人は、密かな劣等感が
あるから、優位に立とうとする。劣等感
が、優位に立つと優越感に変わる。それ
らは一つのものだ。その間をグルグル回
る。アイデンティティの置き所が間違っ
ていて、常に関心は自分の事で、目はひ
たすら自分だけに向いている。強烈な自
己中心だ。見下されないかと、びくびく
している。自分が優位に立ち相手を見下
げる事で、自分を保つ。虚栄であり、虚
しい生き方だ。そんな所から主が贖い出
して下さった。横との比較でなく、縦の
関係、神との関係に入れられた。その神
との結びつきにより、自らの存在理由、
存在価値、存在目的がわかると、自分を
守る事にきゅうきゅうする必要が無い。
人の目から自由にされて、神依存による
自分の生き方を確立して行ける。その時、
人をも認めて行ける。神と自分の関係が
確かになればなるほど、自由になる。
・・・・・・・・・
人と比較して負けたくない。それなら人
生が勝ち負けになる。勝った時も偽の喜
びで、高慢の中にいる。主はそういうも
のから解放するために来て下さった。自
己中心と虚栄の自分の本当の姿を認める
事から始まる。


2007年08月25日(土)

「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」マタイ18:33

私達がだいたい苦しむのは、赦さない心
だ。そこから憎しみ、憎悪、怒り、敵対
心でがんじがらめにされる。その相手を
見れば怒りと憎しみが湧き、又、見ない
時も、たとい離れていてもそれは同じな
のだ。怒りと憎悪に支配され、結局その
相手に四六時中拘束される事になる。そ
して、苦しむのは相手でなく自分なのだ。
赦さない心は、自らを苦しめ、心をどん
どん荒廃させて行く。それには原因があ
り、過去に傷ついているのだ。その傷か
ら恨み、つらみが怒りとなって、事ある
ごとに噴き出て爆発する。1万タラント
の借金を免除して貰った人が、100デナ
リの借金をした仲間を赦さない。すると
「主人は怒って借金を全部返すまで、彼
を獄吏に引き渡した」、ほんとに赦さな
い心は牢獄にいるようだ。自由がなく、
行き場がなく、憎しみに閉じこめられ、
四方八方壁でがんじがらめ、出口が無い。
その出口は唯一つ、赦すという選択だ。
赦すと自分が苦しみから完全に解放され、
自由にされ、喜びと平安が来て、心に爽
快な風が吹き抜ける。まさに牢獄からの
解放だ。自分で赦す事は出来ない。しか
し、もし、あなたが許可するなら、神は
あなたの心に赦しのわざを成し遂げて下
さる。あなたが、相手を赦す事を承諾す
るかどうかだ。
・・・・・・・・・・
赦す事は人にはできないが、神にはできる。
しかし、赦せないのではなく赦したくない
のだ。頑なで強情な自我だ。でも牢獄は悲
惨だ。赦したくないと告白して、神に助け
を求めよう。奇跡のわざを見る。

 


2007年08月24日(金)

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられること、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」ヘブル11:6



私達は皆、自分の幸せと自分の喜
びを求めている。自分の願いが実
現したり、欲しい物を手に入れた
り、自分に満足を与えてくれる人
や物により、心が満たされ喜びを
感じる。しかし、そのような事は
まれで、ほとんどが不満の中にい
る。心満たされず、空虚感があり、
うつうつ悶々状態にいる。それは、
神を差し置いて、自分の幸せ、自
分の喜びばかりを求めるからだ。
だから心満たされる事がない。私
達の幸せと喜びは、神を喜ばせる
事から来る。神を喜ばせようとし
て、自分に喜びが無かったという
人をかつて聞いた事がない。あな
たも何か心満たされず、虚しくう
つうつとしているなら、神中心、
神第一に方向変換する事だ。信仰
が、神を喜ばせる。神がいつも共
にいて下さる事を信じて行く事だ。
人間にとって最も残酷な仕打ちが
「無視」ではないだろうか。存在
を認めない。無視は存在否定だ。
それは相手を抹殺する事であり、
殺人に等しい。神に対してそのよ
うな態度を取っていないか。そし
て、神を求める事だ。求めるとは、
自分の欲望を叶えて貰う事ではな
い。それは御利益であり、恵みや
祝福の副産物を求めているだけだ。
神を求めるとは、もっと神に近づ
き、神を知ろうとし、神と親しく
なり、神を愛し、慕って行く事だ。
親しい交わりの中に信頼関係が生
まれ、それは深められて行く。そ
れが一番の喜びだ。
-----------------------
神様を認め、日々頼り、求め続け
る人生には、何にも変えがたい喜
びがある。頼って行く者にしかわ
からない神様からの応答だ。慰め、
守り愛して下さっていることは、
頼っている者だけがわかる。報い
はそれだけでも十分だ。


2007年08月23日(木)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」マタイ6:34



心配症の人はよくわかるだろうが、
不安が来ると、もう際限がなくな
る。次から次と不安が不安を呼び、
真っ暗な中に沈み込んで行く。自
分で勝手に最悪のシナリオを結末
まで作り上げて、自分で落ち込ん
で行く。それは、その通りになっ
たためしが無いが。しかし、湧き
上がって来る思い煩いがどうにも
ならない。主はまだ起こっていな
い事の心配は無用だと言われる。
明日のことは、明日に任せよと。
「今」の事だけを考えよと。
「今」は何の心配もなく、平安に
過ごせているではないか。とにか
く「今」は身体も支えられ、すべ
ての必要も満たされ、あらゆる面
で守られているではないか。今、
この瞬間、心からの感謝を献げて
生きることだ。明日は神が心配し
ていて下さる。信仰を献げて、明
日の事はきっぱり委ねるのだ。そ
の信仰を神は喜んで下さる。そし
て、その信頼に応えて、神は明日
も必ず、今日と同じように、すべ
ての必要を満たして下さる。毎日、
毎日、明日のための心配は無用だ
と言って下さっている。つまり、
それは一生心配は無用だという事
だ。いっさい、何の心配も必要の
ない人生に召されているという事
だ。「今」を感謝して、明日はき
っぱりお任せしよう。
-------------------
今に感謝しよう。今感謝できたな
ら前向きな明日につながって行く。
まだ来ない明日への心配は不信仰
だ。最善の計画を持って臨んで下
さる神様をいつも見上げていよう。


2007年08月22日(水)

「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ロマ12:2

信仰生活の知恵は、変えられるもの
は変えて、変えられたないものは受
け入れて行く事だ。よくやるのが、
変えられないものを、変えようと不
毛の戦いをする。そして、変えるべ
きものを変えようとしない。境遇は
受け入れて、自分の態度と心を変え
る事だ。その逆をするので、平安ど
ころか不満とストレスで、がんじが
らめになる。又、人を変える事はで
きない。人の心など誰が変えられよ
うか。人の心はその人のものであり、
変えられるのは自分の心だけだ。自
分を変えて行く事が御心だ。人を変
えようとして悪戦苦闘し疲れ果てる。
相手はますます反発し頑なになる。
誰しも自分は変わりたくない。それ
を、人に変えられようものなら、抵
抗する事にエネルギーを使う。しか
し、状況も、人も、受け入れるとい
う事は至難のわざだ。自分には出来
ない。受け入れるとは自分に死ぬ事
だ。祈りによって、初めて受け入れ
て行くことができる。自分には出来
ないが、祈りによって可能だ。人に
は出来ないが神には出来る。その時、
神のみこころに従って行くことが出
来る。
・・・・・・・
状況や相手を変えようと悪戦苦闘し、
絶対に思い通りにならず疲れ果てる。
変わるべきは自分で、発想、見方、
視点、自分の心を変えて自由にして
下さる。自分が変えられるよう祈ろう。



2007年08月21日(火)

「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」ルカ11:1



神のみこころにかなった祈りは答
えられる。みこころにかなわない
なら、どれだけ祈っても答えられ
ない。それは祈りの原則だ。それ
なら、みこころしか成らないのな
ら、もし願いが自分の思いなら、
聞かれない。では、どうせ聞かれ
ないなら、自分の願いを祈っても
無駄ではないのか。こう思う人も
いるかも知れない。しかし、祈り
は、○×テストではない。又、お
金を入れてジュースが出て来る、
自動販売機でもない。大事な事は、
祈りは、神との信頼関係を築いて
行くという事だ。祈りを通して心
を通い合わせて行く。交わりが培
われて行く。「ノー」も神の答え
であり、それが神のお心であれば、
平安を経験する。ノーという神の
ご意志であり、それは御心が別の
道にあるという事だ。祈って、ノ
ーの答えを得たから、別の道を模
索できる。方向転換して進んで行
ける。これは決して無駄ではなく、
神のお心を知る上で大切な事だ。
又、祈りを積む中で動機も探られ
る。最初から正しい動機で祈れる
人などいない。自己中心な動機で
ある事、自分の栄光のための祈り
である事、欲望を遂げようとして
いた事、祈る中で、御霊が教え導
いて下さる。祈りを正して、御心
にかなった祈りへと導いて下さる。
これらの祈りの実践の中で学べ、
祈りにも成長して行く。
-----------------------
ただただ、ねだるだけの祈りであ
っても、祈っているからこそ神様
の答えもわかり、聞いていて下さ
る神様を感じる。いつしか祈りの
中で砕かれ、祈りも導かれて行く。
祈り続けよう。


2007年08月20日(月)

「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです」マタイ21:31



自分が「良い人」だと思っている
人は多い。勿論完全ではないが、
そんなにひどくは無いと思ってい
る。そこそこ良い人で、隣の人よ
りましだと思っている。多くの人
は、外側を何とかうまく繕って生
きている。外面繕うので、外側だ
けを見ると良い人に見える。犯罪
ニュースに出て来る人物に、近隣
の人々は、皆おしなべて、良い人
だと言う。必ずそう言う。私達も、
外側繕って生きてしまう。そうす
ると、周囲に良い人だと言われる。
繕い続け、良い人だと言われ続け
ると、自分で錯覚して、勘違いし
て、自分は良い人だと信じ込む。
良い人である限り、神は必要無い。
神無しで生きて行ける。しかし欺
瞞であり、偽りであり、勘違いだ。
義人はいない、一人もいない。遊
女や取税人が、神の国に入った。
自他共に、罪深さが余りにもあか
らさまで、人にも自分にも、どう
にも隠すことができないからだ。
認めざるを得ない。砕かれたたま
しいは、神を必要とし、自らの罪
を告白する。そのような人々に、
全き赦しが与えられる。自分の罪
を認めるので、罪の増し加わると
ころに、恵みも満ち溢れる。自分
を「良い人」と見るなら、光に照
らされない。暗闇の中だ。罪は無
いというなら、真理もない。自分
を欺いてしまう。光に自分自身を
照らして頂こう。
----------------------------
外側を繕っている内に自分だけは
間違っていないと思い込む。完全
に盲目だ。真実の自分の姿をしっ
かり神様の前に認め、また赦され
る祝福を味わいながら、いつまで
も光の中を歩んでいこう。


2007年08月19日(日)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3

ある人が、大嫌いな相手がいた。しかし、
クリスチャンなので、そう思う事は非常
にとがめを感じた。良いクリスチャンで
ありたい。だが、相手を見ると憎しみが
湧いた。でも、いけないと葛藤し、愛の
行ないをしようと頑張った。礼儀正しく
振る舞い、外側を繕った。しかし頑張る
ほど、ストレスは大きくなって行った。
自分は決して言わないが、周囲の言う相
手への悪口、噂話に、心でしっかり同調
してストレスを発散させていたのだ。懸命
に努力するが、決して御霊の実、愛の
実を結ぶ事はなかった。返って陰険、
陰湿になって悪い実を結ぶ。これは内側
の問題にきちんと向き合わずに、外側
ばかりを改善しようとする事だ。内側が問
題だ。行ないを頑張るのでなく、まず神
の御前に、自らの憎しみ、敵対心を認
め告白する事だ。自分の罪に直面し、
罪として認める事だ。それは自分と神と
の関係であって、相手は関係がない。
しばしば相手が悪いと自分を正当化し
て、自分の憎しみを認めようとしない。
しかし憎んでいるのは自分であって、
相手ではない。自らの罪だ。主の赦しを
受け取り、まず神と正しい関係になる
時、癒されて行く。内側の罪を、外
側の行ないにすり替え、ごまかしては
いけない。ますます悪化するばかりだ。
自分と神との関係が第一だ。
・・・・・・・・・・・・・
愛が無いこと、敵対心と憎しみを神の前に
認めることがへりくだる事だ。プライドが自分
を正当化させ認めさせない。自分の罪と
無力を認める時、御霊が働いて神のわざ
が現れる。心が変えられる。神の奇跡だ。 


2007年08月18日(土)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩篇119:71

ヨブはある日、何もかも失って
しまった。持ち物を盗まれ、しも
べ達は殺され、若者達が焼け死に、
家が倒壊し、子供達が全員死んで
しまった。又、ヨブ自身も、身体
全体を悪性の腫瘍におおわれ苦し
んだ。それはヨブが死を願うほど
の苦痛だった。ところが訪ねて来
た友人達は「だれが罪がないのに
滅びた者があるか」とヨブが罪を犯
していて、罪ゆえの苦しみだと、傷口
に更に塩を塗った。罪を捨て不正を
捨てるなら苦しみは去ると。神は最後
に友人達を怒り叱責された。「わた
しについて真実を語らず」と。ヨブ記
を読むとヨブの罪の結果、様々な苦
しみが来たのではない事がわかる。
しかし、自分に苦しみが襲うと、因果
応報と思っているクリスチャンは多い。
何か悪い事をした罰が臨んだと思う。
更に恐れと不安に陥る。私達の中に
培われた、苦しみの無い事が善で、
苦しみは悪との価値観ゆえだ。祝福
と痛みは相容れない。しかし、神は
信仰人生には、数多くの痛み苦しみ
が臨むと言われる。苦しみは罪では
ない。決して罰などではない。私達
の益のためだ。それらを通して、どん
なに神に近づけられた事だろう。痛み
は主が受け止め、必ず慰めを豊かに
与えて下さる。
・・・・・・・・・
主は十字架で呪いも罰もすべてかたを
つけて下さった。私達には祝福しかない。
痛みも苦しみも、後に必ず幸せでしたと
言える。因果応報の根深い価値観の所を
御言葉に替えよう。


2007年08月17日(金)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32



主が死なれ、空虚な心で郷里へ帰る
クレオパ達。御使いから 主のよみが
えりを聞いた女達は、使徒達に伝える
が「たわごとと思われたので、彼らは
女達を信用しなかった」。「御使いた
ちの幻を見た」彼らは十字架上で、確
実に死んだ主を見た。兵が、脇腹に槍
を突くと、血と水が出た。完全に主は
死んだ。それがどうよみがえるのか。
主の死が余りにもリアルで、それがよ
みがえるなど信じられなかった。不信
仰と、失望感、主がこの世の王となる
はずだったのに納得も行かない。不信
仰と失意と悶々で「暗い顔つき」だっ
た。帰ったとて何があるわけでもない。
その途上で、よみがえりの主がかたわ
らを歩かれた。しかし、彼らにはわか
らない。信じていないからだ。クレオ
パは私達だ。信じていないと主が見え
ない。すぐそばにおられるのに見えな
い。又、失望落胆は主が見えない。経
験する事だ。そんな彼らを助けるため
に主は来られた。御言葉により、彼ら
の心が赤々と燃えて来た。彼らを憐れ
み、主から近づき、引き上げて下さっ
た。今も私達に同じ事をして下さって
いる。弱っている者に、主の方から近
づき、語りかけ心暖め、今一度神を見
上げ、信じて行けるようにして下さる。
今までも、ずっとそうして下さったか
ら、今の私達がある。
-----------------------
礼拝で霊的に満たされ、赤々と燃やさ
れても、世に帰ると徐々に暗い顔つき
になってしまう。そんな自分を素直に
認め、主を見上げよう。そして朝毎に
御言葉により主が同伴して下さってい
る幸いを確認しよう。


2007年08月16日(木)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11

誰しもサタンの執拗な誘惑に会った経験があ
るだろう。経験的に、その誘惑を何とかしよ
うと、戦えば戦うほど、がんじがらめになり、
更に深みにはまって行ったのでは無いか。自
分の思いをどうにかしようと、すればするほ
ど、誘惑が更に強くなる。それは、誘惑と
戦って行くと、逆にその誘惑に思いを集中す
る事になってしまうからだ。思いが捕らわれ、取
り込まれてしまう。どんどん消耗して力尽きる。
「こんな事思ってはいけない、してはいけない」
と必死になるのでなく、思いの向きを変えて
しまえばよい。さっさと家事を始めてしまうとか、
用事をするとか、行動する事も有効だ。サタン
はもう無駄だと思うと離れる。思いを消そうと
するのでなく、別の思いに代えればよい。
又、敢えて誘惑の場に近づく事は、自分から
誘惑に乗って行くようなものだ。近づかない
よう具体的行動が必要だ。テレビや本が
誘惑になるなら、消して、閉じる。ある店が
誘惑になるなら、店に入らない、近づかない。
誘惑になるもののそばを離れる。何よりも、
積極的に御言葉と賛美と祈りで心を満たす
ことだ。空いた心には必ずサタンが来る。御
言葉の剣を握り、心を霊のものでいつも
満たしておくことだ。
・・・・・・・・・・・・・・
人それぞれ弱い部分があり、その弱い部分に
集中攻撃をかけてくる。サタンは単純には来
ない。姿を隠して巧みに策略を練って来る。
サタンに気づけるように。今、目の前の問題も
サタンがからんでいないか。 


2007年08月15日(水)

「土地は・・肥えているか、やせているか。・・木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい」民数記13:20

約束の地カナンを目前に、12人の斥候が探り
に遣わされ、その地の様子を調べた。きちん
と現実を調べて把握する事は主の御心だ。40
日後、彼らは戻り、10人の斥候達は「まこと
に乳と蜜が流れている。しかし強い民が住み、
城壁があった。民は私達より強いから上れな
い」と報告した。しかし、ヨシュアとカレブ
は「主が下さるから占領できる。上って行こ
う」と言った。全く同じ現実を見て、二つの
異なった見解が出た。そして、10人の斥候達
は自分達がいなごに見えた。自分達が食い尽
くされる。痩せ細った地だと実際に見たより
悪く人々に言いふらした。民は恐れ、怯え、
エジプトに帰ると言い出した。結局、この不
信仰に陥った人々は40年荒野をさまよい続け、
荒野で死んだ。ここから学ぶ事が出来る。ま
ず現実から目をそらさず、しっかりと見る事
は重要だ。強い民がいて城壁は高い。陥落不
可能に見えるかも知れない。私達も、まず現
実を見て認める事だ。自分の弱さは誰しも見
たくない。目をそらせていたい。しかし、自
らの現実を勇気を出し、ありのまま見る事が
大切だ。そして、そこで神の言葉と信仰に立
って、再度現実を見る時に、新しい現実が見
えて来る。「彼らは私たちのえじきとなる」。
神にあっては勝利だ。
・・・・・・・・・・・・・
現実逃避でなく、ふたをするのでもなく、
きちんと現実を見て、どんなに現状が大変か、
自分が弱いかを認めよう。そして、再度、御言
葉に立って見る時、神が見ておられるように現
実が見える。神と共に乗り越えて行ける。

 


2007年08月14日(火)

「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た」マルコ10:50


盲人バルテマイは乞食をして、人からのお恵
みで生きていた。どんなにか辛く悲しく、プ
ライドも傷ついていた事だろう。目は見えな
いが、主の噂を耳にしていた。愛深いお方で、
奇跡をされ、多くの人が癒された事を聞い
ただろう。その方が近くに来られたと聞くや、
憐れみを求めて大声で叫んだ。周囲が制止
したが、聞かずにますます叫び立てた。彼を
黙らせようと大勢がたしなめた。「大勢で」
抑えなければならないほどの勢いであり、求
めであった。主は立ち止まられ、彼を呼ぶよう
に言われた。バルテマイは主の応答に、上着
を捨てて、主のもとへ行った。この上着は彼
にとって貴重な、どうしても必要な物、無く
てはならぬ必需品であった。彼はそれをもう
不要だと捨てた。なぜなら主は癒して下さる、
必ず癒される、すでに癒されたと信じた「信
仰」のゆえだ。その信仰の通りに癒された。
彼は今いる場所から「立ち上がって」主のもと
へ行った。このお方に従って行くために、一
歩を踏み出した。私達はどうだろう。この
世の恩恵すべてを捨ててでも、主のもとへ
行きたいか。もしだめだった場合にと、上着を
着たまま行くか。それとも、この世の恩恵の
方が良くて、主のもとへ行かず座ったままだ
ろうか。
・・・・・・・・・・
彼は何も目に入らないほど全身で主を求め
た。主は求めに答えられた。私達も信仰に一
段階前進するよう主は招いておられる。示
されている一歩に、自分を捨てて立ち上が
って従おう。

 


2007年08月13日(月)

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」ヘブル6:1


「乳ばかり飲んでいる者は幼子」であり、
乳とは「神のことばの初歩」だとある。幼
子は固い食物を消化できないので、乳を飲
む。幼子なら当然であり乳を飲んで成長し
て行く。しかし、いつまでたっても乳しか
飲まないなら問題だ。赤ん坊がいつまでも
赤ん坊のままなら異常だ。離乳食、普通食
と少しづつ固い食物に進む。柔らかい乳の
ような言葉だけを求めるのが幼子だ。神の
愛だけを聞きたくて、義の教えは聞きたく
ない。神に愛されている、それだけがすべ
てだ。しかし、神には厳しい訓練や聖化が
ある。幼子は自己中心だ。自分中心に世界
が回っている。自分の思い通りにならなけ
れば泣きわめく。自己主張し、自分を通す。
乳児は固い食物が食べられない。そのように、
従いたくない御言葉は吐き出してしまう。
自分が受け入れられたい、認められたい、
愛されたいばかりで、自分を捨てる事や、
神の栄光などと思いが至らない。何が神の御
心で、神に喜ばれ、神に受け入れられるの
かがわからない。幼児性は無いだろうか。
すべての人が大人へと成長する事が神の御
心だ。自分に御言葉を合わせるのでなく、
御言葉に自分を合わせ、自分を従わせて行
くことだ。御言葉に従う時、自分が変えて
られて行く。自分を砕いて従って行こう。
大人の信仰者へと成長させられて行く。
・・・・・・・・・・・・・
最初は幼子で当然だが、大人へと成長して
行く事が神のみこころだ。犠牲を払いたくない、
責任を取りたくない、楽をして、美味しい
ところだけ欲しいのかも知れない。自らの
本音に気づく事から成長は始まる。


2007年08月12日(日)

「彼らは信仰によって、国々を制服し、正しいことを行ない・・また、ほかの人たちは・・拷問を受け、石で打たれ、牢に入れられ・・」ヘブル11:33


ある人々には、超自然の奇跡がなされた。
獅子の口がふさがれ、炎に焼かれず、剣から
守られ、戦争をすれば勝利し、死人がよみが
えった。しかし、他の人々は拷問、投獄、石
で打たれ、のこぎりで引かれ、殺され、奇跡
は起きず死んで行った。同じ信仰の勇者とさ
れている。ある人は奇跡で命が救われ、別の
人は殉教して行った。これは神が全主権を持
たれ、御心のままを行われるという事だ。ど
ちらの人々も「信仰によって」生き、どちら
の結果も神の栄光のためだ。ある人が病を患
い経済的にも困窮し、日毎の糧にも困る状況
だった。神にお委ねし、ただ神に頼り祈った。
ところが奇跡は何もなく、更に窮状に追い込
まれて行った。祈りが積まれるが、病気が治
るとか、必要が与えられるとかは何もなく、
どん底になった。しかし、不思議な事に、彼
の心に感謝が溢れ、喜びが溢れ、それは自分
ではなく、御霊からのものだった。状況はど
ん底なのに、感謝が溢れるのだ。最悪の中で、
感謝と喜びに溢れている彼の姿に、周囲の人
々は信仰に火がつき、リバイブされて行った。
信仰が揺らいでいたある人は、彼により生涯
の信仰が定められ、牧師となって行った。神
はご自身の望む通りに御心をされる。どうで
あれ従おう。神の栄光が現される。
・・・・・・・
華々しい奇跡だけが神の栄光ではない。何も
起こされない事もある。しかし、それが神の
御心であり、甘んじて受け感謝して行く時、
そこに神の栄光が現される。「信仰によって」
生きているからだ。


2007年08月11日(土)

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12:2

サタンの攻撃は、とにかく主から目を離させ
る事に来る。それに成功しさえすればよい。
それで自己を見るように仕向ける。例えば、
対人関係が極めて苦手で、恐怖症的な人がい
たとする。それは、ずっと自分を気にするか
らだ。相手と対している時も、全関心は自分
に向いている。神でもなく相手でもない。自
分に集中している。自分しか見ていない。相
手が自分をどう見るか、周囲の人はどう見るか、
心配でたまらない。自分は緊張しないか。自
分はちゃんと対応できるか。今、この時も自
分は相手にをどう思われているかと、絶えず
気にする。又、自分の恐れと不安を払拭しよ
うと、その事にやっきになってしまう。結局
相手の事など全くなく、始めから終わりまで
自分の事だけになる。自分から始まり自分に
終わる。しかし、一見支配的でないし、わが
ままでもないので、自分も人も、実は強烈な
自己中心である事には気づかない。ここが盲
点だ。外に現れる形は様々だが、あなたにも
感じるところがあるか。そこに強烈な自己中
心がある事に気づき、認め、神に持って行こ
う。神は取り扱い、自由にして下さる。関心
が常に自分にあり、自分を向き、絶えず自分
を見ている事が、神を見続けることを妨げて
いる。そこに気づく事から始まる。出来ない
まま神のみもとに行けば良い。
・・・・・・・・・・
自己主張したりしないので、一見わからない
が隠れた強烈な自己中心がある。関心が、
人にどう見られているかという自分に向く。
実は人ではなく自分だ。ありのままを主に
告げよう。
 


2007年08月10日(金)

「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない」申命記10:16



心の割礼とは、冷たい石の心でなく
肉の心、柔らかい心を持つことだ。
ステパノも頑ななユダヤ人に対して
「頑なで、割礼を受けていない人た
ち。あなたがたは、いつも聖霊に逆
らっている」と言っている。極みま
での愛して下さった主の御前に、自
らの頑なな心が示されるだろうか。
主は心を開き、愛を受け取るように、
私達を助けて下さる。頑なな部分を
示し、取り除いて下さる。あなたに
も、神に触れられたくない部分、心
の包皮があるだろうか。固い自己中
心の部分だ。それこそが主の愛をわ
からなくしている。それを認め、主
のもとへ持って行こう。主が取り扱
い切り取って、砕かれた柔らかい心
にして下さる。ある人は極度に苦し
い試練を通った。毎日毎日泣いて暮
らした。涙がよく枯れないと思うほ
ど辛くて泣いた。生きている心地も
無いほどの状況だった。しかし後に
変えられた自分を見い出し、主の御
名を崇めた。砕きに砕かれて、自分
がいかに高慢だったかに気づき、ま
さに皮をはがれたと。心柔らかくさ
れ、恵みしかなく、今生かされてい
る事が恵みだと真にわかるようにな
った。心の包皮は主と私達を隔てる。
包皮に気づくなら、そのまま主のも
とへ持って行こう。自分でどうにも
出来ない頑なな心を、主が柔らかく
して下さる。
--------------------
主がいかに良くして下さったかを振
り返ると、なお頑なままでおれるだ
ろうか。捨てるべきものを示された
なら感謝だ。素直に一つ一つ脱ぎ捨
てていこう。


2007年08月09日(木)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください」詩篇139:23



アダムとエバは、「目が開け、
神のようになり、善悪を知るよ
うに」なりたくて、サタンにそ
そのかされ、善悪の知識の木の
実を食べた。食べた結果、目が
開かれ、自分たちが裸であるこ
とを知った。今まで神だけを見
ていたが、自分で自分を見るよ
うになった。その見えるように
なった目で、自分を見ると、裸
だった。だからいちじくの葉で
腰おおいを作って隠した。あり
のままの自分の姿を隠し、アダ
ムとエバ、互いに対して隠した。
罪が入ったので、神との関係が
遮断され、自分だけが見えて、
神が見えなくなった。罪の結果、
今まで知らなかった「恐れ」が
入り、神の御顔を避けた。神か
ら隠れるようになった。神から
離れ、神を無視し、自分で善悪
を判断し、自分の力で生きる、
自分が神になろうとする性質が、
罪の結果生まれた。サタンは、
美しさの極み天使の長だったが、
神のようになろうとして、落と
されサタンになった。「自己啓
発」は、神のようになろうと、
自分を神とし、自己崇拝して行
くものだ。自分から始まり、自
分によって成り、自分に至る。
すべて自分だ。自分で自分を探
るなら、ますます暗闇に陥るだ
けだ。「神よ。私を探り」神に
探って頂く必要がある。「いの
ちの泉はあなたにあり、私たち
は、あなたの光のうちに光を見
るからです」。
-----------------------
神様の前に隠しておけるものは
ない。けれど「神様すべてを探
って下さい」という素直な神様
との関係を保っていきたい。高
慢や陰険な罪から守られる。


2007年08月08日(水)

「律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです」ローマ7:4

律法と私達の関係が、結婚関係に例えられる。
律法が夫だ。口うるさくて、朝から晩まで細
かい事を要求し、出来ないと責め立てる。し
かし、言っている事は間違っていない。正し
い。自分が夫の厳しい要求にそえない。苦し
くて辛くてたまらない。その夫が死んで新し
い夫と再婚した。その夫は前夫とまるで違い、
がなり立て、一方的に要求するのではなく、
一緒に助けてやってくれる。愛で包んでくれ
て、すべてに配慮してくれ、真実で暖かい。
ずっと一緒にいたい。前夫が律法で、再婚し
た夫がキリストだ。よく知られている例えだ。
前夫から家事のリストを渡され、うまく出来
ずにいつも叱られ、おどおどして苦しみの中
にいた妻が、夫の死後再婚した。家事をして
いたある日、前夫のリストを見つけた。それ
をチェックすると、何と今は全部出来ていた
のだ。それは脅しと強制でなく、愛深い夫の
愛に応えたくて、夫を愛するゆえに、自発的
に喜んで自然に出来ていたのだ。律法は冷酷
に要求するだけだ。私達にはそれを実行する
力がない。しかし、主は私達を助けて、一緒
に成し遂げて下さり、その力を下さる。そし
て、その動機を「ねばならない」から「した
い」に変えて下さる。これが恵みだ。
・・・・・・・・・
今や、再婚して主とひとつだ。暖かい愛と配慮
と、安らぎ喜びに包まれている。しかし、自分
で律法の下に出てしまう。イライラと拘束でが
んじがらめだ。「御霊に導かれるなら律法の下
にはいません」今日も御霊の導きに従おう。
 


2007年08月07日(火)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16



神がよくわからない、何かが足らな
い、満ちていない。神を信じている
はずなのに、心は虚しい。もう一つ
喜びがない。心に「おおい」がかか
っていると、神がよく見えない。何
か心に薄い幕がかかっていて、神と
自分の間をさえぎっているように感
じる。「主に向く」時、おおいが取
り除かれる。「おおい」とは何だろ
う。エバが蛇の誘惑を受けた時、神
を捨て、自分が神となり、自分の力
と判断と知恵で生きて行く事を選ん
だ。神中心でなく、その「自己中心」
がおおいとなって、神が見えない。
自分のために、自分の力で、思い通
りに生きて行こうとする時、途端に
神が見えなくなる。又、状況や目に
見える所だけを見ている時、見える
所がおおいとなって、神が見えない。
主を見るためにも、自らの心のおお
いを知るためにも、御霊の助けが必
要だ。自分では出来ない。まず、主
に向けるよう、御霊の助けを祈ろう。
御霊は妨げているものを明らかにし、
示して下さる。自分自身が心の王座
に座り、自己中心が神を見えなくし
ているのか、状況に飲み込まれて、
神が見えないのか。あなたも、おお
いがかかっているように感じるなら、
まず御霊にその事を祈ろう。主に従
おうと思っているその心に、必ず明
らかにして下さる。
----------------------
自分の内にある御霊の導きに敏感で
いよう。それに勝る思いが妨げとな
り、日々の信仰生活をすぐに喜びの
ない、力ないものにしてしまう。
新しい一日を感謝し、主を仰いで
今日も歩もう。


2007年08月06日(月)

「文字は殺し、御霊は生かすからです」Uコリント3:6



誰しも、良いクリスチャンになり
たいと思っている。信仰は聞く事
から始まり、聞く事はキリストの
言葉による。まず御言葉が大事だ
と聞くと、何とか御言葉に思いを
向け、又、聖句を暗記し、一生懸
命に御言葉を行なおうとする。し
かし、幾ら頑張っても、出来ない
事を経験し、落胆し落ち込んで行
く。又、仮に出来た事があると、
態度には決して出さないが、内心
優越感に浸り、必ず自らを誇る。
出来なければひどく落ち込み、出
来れば高慢に陥る。これは御霊に
よらず、肉によって歩んでいるか
らだ。肉の力、自分の力で、御言
葉を受け取り、行なっている。肉
の力で幾ら頑張っても、益無く、
無駄であり、不毛であり、実を結
ばない。「肉は何の益ももたらし
ません」の通り、信仰生活が、ど
んどんしんどく苦痛になって行く。
窮屈で、自分が縛られ、喜びと楽
しみどころか、平安なく、疲れ果
てて行く。そうではなく、「いの
ちを与えるのは御霊」とあるよう
に、御霊が働き、事を成し遂げて
行かれる。自分で頑張る事も、自
分の力も全く必要無い。そこには
安堵と安らぎ、喜びがある。御霊
のおられる所には自由がある。自
分で出来ない事を、神の前に認め
て、ギブアップ、降伏する時、御
霊があなたを支配して下さる。
----------------
御霊に満たされることが、原動力
だ。自分発の働きは、いつか力尽
き、人と自分に害を及ぼしてしま
う。神様からの御霊の声を聞き分
け示されたなら素直に従おう。
神様からの喜びに満たされる。


2007年08月05日(日)

「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」ヘブル9:26


主は罪を取り除くために来られた。十字架
で流された血潮により、私達の罪を取り除
いて下さった。その十字架の贖いにより、
私達を全面的に罪無し、無罪放免として下
さった。その血は、私達の良心に注がれ、
罪を責め続ける良心をきよめた。「私たち
は、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をき
よめられ」もう自分を責める必要がない。
罪は完全に赦され、取り除かれた。罪無し
とされた、何という恵みだろう。神は完全
に赦して下さっているのに、罪意識にさい
なまれ、自分を責めていないだろうか。自
分を責めると必ず人を責める。これは表裏
一体だ。人をさばいて責める人は、必ず自
分も責めて苦しむ事になる。そこに「赦し」
がない。人から傷つけられると、赦さなけ
ればならないと思いながら、抑え込み我慢
する。しかし、その怒りはそこにあるので、
必ず、別な所で爆発する。そして目の前の
別の人を傷つけて行く。キリストの血は、
私達の良心をきよめた。罪無しとされた。
そこに立って行く時、自らが100%の完
全な赦しを受け取る時、自分を責める罪意
識から解放される。全面的に赦された人は、
必ず人を赦して行く。
・・・・・・・・・・
赦しの無い世界は、苦しみと悲惨、裁きと
憎悪でがんじがらめだ。私達の一番の心の
願いは罪の赦しではないだろうか。赦され
て、赦されて生きて行ける、罪無しとして
下さる、こんな恵みがあるだろうか。
 


2007年08月04日(土)

「私はこわくなり・・あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です」マタイ25:25

タラントを地の中に隠した者に対して、主
人は「悪いなまけ者、役に立たぬしもべ」
と言った。このしもべは、失う事を恐れて、
そのまま返せば減らさなかったのだからい
いだろうとの了見だった。失敗を極度に恐
れ、神の責めを恐れた。彼にとって神は恐
い方であった。しかし、神は私たちにタラ
ントを任せられた方だ。一タラントでも6
千万ほどだ。決して少なくない。そして、
失敗するかも知れないリスクも承知の上で、
任せて下さった。これは信頼だ。神が見ら
れたのは、喜んで増やそうとする「心」で
あり「態度」だ。他のしもべは、すぐに行
って、商売をした。主人は愛の方であり、
喜びを下さる方であり、「主人に喜んでも
らいたい」が動機だった。主人は喜び、報
いた。「主人の喜びをともに喜んでくれ」
の通りだ。あなたは失敗を恐れて、タラン
トを地に埋めていないか。自分には難しい
のではないか、失敗したら・・。それなら全
く何もしない事が、最善になってしまう。
神は失敗のリスクをも引き受けて、委ねて
下さった。失敗しても学んで生かせばよい。
神は、神のために増やそうとする心を喜ば
れる。失敗してもよい。賜物を用いよう。
神は必ず祝福し、増やして下さる。
・・・・・・・・
主に喜んでもらいたい、主をお喜ばせした
い、その心を喜んで下さる。減らさなかった
のだから問題無いとの発想と神観が大き
な間違いで的はずれだ。主とは愛の関係
であり、雇用関係ではない。

 


2007年08月03日(金)

「年長者から始めて、一人一人出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」ヨハネ8:9



姦淫の女が、パリサイ人達によって、
主の前に連れて来られた。主を追い
詰めるためであった。姦淫の女を赦
すなら、律法に違反する事になる。
しかし、律法に従うなら死刑だ、な
らば主が説いている愛はどうなる。
主はその問いには答えられず、「罪
のない者が石を投げよ」と言われた。
すると、年長者から去り、結局、皆
去って主と女だけが残った。つまり、
彼らも良心に触れられ、自分の罪が
わかったわけだ。しかし、罪を認め
たくないので、主のもとから逃げ去
った。その女だけは逃げる事をせず、
そのままそこにとどまっていた。も
う皆からさんざん何もかもを暴き立
てられ、ボロボロ状態だ。隠すこと
も出来ないよりも、隠すものすらな
い状態だ。もう裸だ。そんな彼女は、
砕かれてきっていた。砕かれた心で、
主を信じ、受け入れた。すると「わ
たしもあなたを罪に定めない」との
主の赦しを受け取った。姦淫の女は
罪が完全に赦され、「わたしに従う
者は、決してやみの中を歩むことが
なく」これから光の中を歩んで行く
者とされた。正しいパリサイ人達は
罪を認めず、やみの中を歩み続け、
罪深い姦淫の女が罪赦され、光の中
を歩んで行く。まさに対照的だ。罪
が照らされる時、痛いが逃げずに認
めよう。光の中を歩み続ける者とさ
れる。
------------------
罪を認めることは歳を重ねるごとに
難しくなるが、罪の赦しを知ってい
る私達は罪を認めて、認めて歩む事
が感謝だ。高慢から守られ光の中を
歩んで行ける。


2007年08月02日(木)

「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4:7



「そうすれば・・平安が来る」とあ
るので、その前の条件を満たす事
が必要だ。感謝をもって、願い事
を神に知っていただくことだ。願
いは、願いとして、一つ一つ神の
もとへ持って行き、申し上げる。
そして、それを神にお任せしてし
まうのだ。その願いが神の御心に
かなっていたなら、成就するし、
御心でなかったなら成らない。
「ノー」が答えだ。ノーだという
神のお心が知れる。別の道だとい
う事だ。そして、神に一つ一つ願
いや気持ちを持って行けば、神に
知っていただいた事で、心と思い
が平安にされる。それゆえ、必ず
気持ちを神に告げる必要がある。
その時に、あなたの「心と思い」
が平安に守られるという事だ。そ
うすれば、「状況が変わる、問題
がすぐに解決する」とは言ってい
ない。状況は変わらなくても、心
が平安に守られる。今、悩みと問
題の中だろうか。神に目を向け、
神に焦点を当て、感謝に思いを向
け、心の願い、気持ちを神にこと
ごとく、余すところなく告げよう。
状況は同じなのに、心が変えられ
る事を発見する。環境は変わらな
いのに、心に平安が来る。
-------------------
自分の思いに縛られてしまう前に
神様に言って行くことでみこころ
に明け渡せる。結果はすべて益と
なるのと納得できるから。祈りつ
つ歩もう。


2007年08月01日(水)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがなたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6



思い煩いを、又、一つ一つの願いを、
神に告げると良い。「願い事を神に
知っていただきなさい」とあるよう
に、思い煩うのでなく、気持ちや思
いを、神にことごとく知っていただ
くのだ。いっさい思い煩うなとある。
そして、「あらゆるばあいに」この
場合、あの場合はでなく、全部の場
合にだ。一つ残らずだ。あなたのす
べてに、神は深い関心を持っておら
れる。「感謝をもって」が大切だ。
感謝する事は、あなたの心を解き放
ち、引き上げる。あなたの心は不平
不満で一杯だろうか。今、感謝を神
に献げよう。ある人が、人生で大き
な問題悩みが重なって、打ちのめさ
れた。気力も失せ、何をする気もせ
ず、打ちひしがれた。そのような状
態が続いたある日、重い心で神の御
前に出た。御言葉を読んでいると、
「感謝せよ」の言葉が心に臨ん臨ん
で来た。十字架の贖いを、御父が御
子を下さった事を、最近感謝してい
ない事を思い出し、心は沈んでいた
が、感謝を献げた。続けて感謝して
いると、不思議な事が起きた。心が
暖かくなって来て、心に喜びが出て
来た。御霊が臨まれ、喜びが大きく
なって、感謝で一杯になった。心が
変えられた。感謝する時、自分から
目を離し、目が神に向く。自分と状
況だけを見つけている事が問題なの
だ。感謝は心を解き放ってくれる。
----------------------------
あらゆる事とは、いつもいつもだ。
感謝しながら祈って行く時、一人で
状況を見つめて行く事から守られる。
神様と祈りを通して豊かに交わり、
今日も喜びに満たされた一日であり
ますように。