2007年09月30日(日) 「どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください」詩篇51:2
「どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください」詩篇51:2
ある人々は、罪を犯して落ち込んで主 を離れてしまう。それは自分できれい になって、御前に出ようとするからだ。 自分で何とかしようとする。病気の人が、 こんな見苦しい病気では病院へ行けない から、治ってから行こうとすることだ。同じ 事をしていないか。自分で正しい行いを して御前に出ようとする事は、主の十字 架は必要無いと言っている事になる。そ れなら、主は無意味に死なれた事になっ てしまう。どんな時も主の血潮に拠り頼 むことだ。御子イエス血はすべての罪から 私たちをきよめて下さる。自分の行ない に頼らず、主の血潮に頼み続けよう。律 法を行なう事によってでなく、罪を赦され 続けて、生涯歩む恵みの中にいるのだ から。又、罪は完全に赦されるが、だから と言って罪を犯してよいのではない。常に 罪から守られるよう、主に拠り頼む必要 がある。模範であったダビデも失敗した。 部下が命がけで戦地にいる時に、怠惰 な生活をしていた。心に油断があり、サタ ンにつけ込まれた。誘惑に乗ってしまい、 姦淫と殺人の二重の罪を犯した。罪は 赦された。しかし、罪の結果は悲惨だ。 罪を甘く見てはいけない。罪は赦される が、結果は残る。バテシバの産んだ子供 は死に、又、別の子供は謀反を起こした。 赦されるのだからと、安易に罪を犯しては ならない。 ・・・・・・・・・ 主のあの十字架での凄惨な苦しみを見 て、罪の意味を知る。そして、その罪が 赦されるとは、何という恵みだろう。突き 詰めると、私たちの心の奥底の一番の 願いは罪の赦しではないだろうか
2007年09月29日(土) 「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」箴言19:21
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」箴言19:21
信仰人生の中で、思いもかけず、目の前 で道が閉ざされる事がある。誰しも経験 するところだ。神からの「ノー」を突き 付けられるのだ。非常に厳しく感じる。 入試や、就職試験や、対人関係や、様々 な事柄で経験する。それで、自分の思い とは全く異なる、思ってもみない方向へ 向かう事になる。自分の思いと違うの で失望落胆してしまう。「ノー」は、進 路だけでなく、自分自身をも否定された ように感じてしまうかも知れない。しか し、神には、行き当たりばったりという 事が無い。初めから完全なプランをお持 ちだ。あなたの人生には神のご計画があ る。あなたの思った道が、神のご計画と 違っていたのだ。環境を開き閉じしなが ら、神は、正しくあなたを御心の道へと 導いておられる。人生の「ノー」を、神 のご意志として受け取ろう。必ず別の道 が用意されてあり、開かれた道から進め ばよい。その時はわからなくても、振り 返る時、パズルがつながるように、神の 道が最善であった事を知る。「ノー」に 出会った時、不信仰や自己憐憫に陥るの でなく、神からの御心と受け入れよう。 「ノー」という「答え」だ。その状況の 中で、開かれた道を行けばよい。神は正 しくあなたを御心へと導かれる。 ・・・・・・・・・・ 「ノー」は神からの答えだ。別のもっと 良いふさわしいものが、備えられている という事で落胆する必要がない。主を待 ち望もう。その「ノー」が後に素晴らし い感謝となる。
2007年09月28日(金) 「私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10
「私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10
私達の人生に突然試練が来て、パニッ クになり、右往左往するが、しかし、 試練は必ず来る。私達が予定に入れて いないだけだ。1年の計画を立てる時 に、この辺とこの当たりに試練が来て などと、計画を立てない。必ず来るの に計画に入っていないので、突然襲わ れる事になる。しかし、聖書によると、 別に突然ではなく、信じた者は必ず取 り扱われる。愛する者を懲らしめ、受 け入れるすべての子にむちを加えると。 もし、試練が無ければ、私生児であっ て本当の子ではないと。突然、試練に 遭遇した時に、動揺し、混乱し、失望 落胆するだろうか。ある人は不運を嘆 き、絶望するだろうか。ある人は試練 をよけて、避けて、逃げてしまう。 決して見ようとしないで、現実逃避し てしまう。しかし、その試練を逃げな いで、受け止める時、それが無ければ 決して見る事のできない、新しい世界 を見る。その試練を通してでしか、見 る事の出来ない世界だ。そこで新たに 主に出会う。主は同じだが、自分自身 が新たにされるのだ。どう向き合うか は大切だ。すぐに肉の反応が出て来る。 「もうだめだ」「何で私ばっかり」不 信仰、自己憐憫、愚痴、不満だ。しか し「逃れの道がある」「神は愛してい て下さる」「神は導かれる」「益とな る」「計画がある」との信仰的、肯定 的態度が取れる。不信仰でなく、信仰 を選ぼう。成長の時だ。 --------------------- 試練にあうから信仰は試され、いかに 自分が不信仰であるかを知らされる。 そこで得た励ましや祈り、共にいてく ださる主の守りを感謝する時、傲慢な 者が謙遜にさせられる。試練が悲しく 辛いだけでないと知っている事は大き な力だ。
2007年09月27日(木) 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」マタイ6:12
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」マタイ6:12
人を赦せなくて、苦しんだ経験があ るだろうか。四六時中、牢獄の中に いるようだ。その人が目の前にいて もいなくても、心はその人に縛られ て、がんじがらめだ。苦しいのは相 手ではなく、まさに自分自身なのだ。 自分自身のために、人を赦すことは どうしても必要だ。でなければ、自 分自身を歪め、傷つけ、損なってし まう。人を赦すことは、人生の主導 権を自分に取り返す事だ。なぜなら、 憎む相手に、自分自身と自分の全生 活を支配されてしまっている。繰り 返し、繰り返し憎む相手を思うので、 更にその思いを固める事になる。悪 循環そのものだ。その背後にサタン がいて、サタンの思うつぼであり、 サタンにほんろうされてしまう。あ なたが赦す事によって、サタンを拒 否し、相手があなたの人生に割り込 む事を拒否する事になる。そうした くないだろうか。憎しみや赦さない 心からは何も生まれない。赦すこと ができない事を、主にありのまま告 げて、主の助けを求めよう。赦しま すとの意志を主に向けて行く事は大 切だ。赦せない自分を赦して下さっ ている、主の十字架に目を向けよう。 十字架から赦しが流れ出ている。ま ずあなたが赦されている事を、深く 受け取る時、必ず人を赦す事ができ る。赦された人が、人を赦して行く。 ---------------------- 人の不満ばかりが気になるのはいつ も他人に自分の人生を支配されてい ることだ。赦す事は自分のためだ。 自分の罪深さに目を留め、十字架を 感謝し憎しみから解放されよう。
2007年09月26日(水) 「彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうかじっと見ていた。イエスを訴えるためであった」マルコ3:2
「彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうかじっと見ていた。イエスを訴えるためであった」マルコ3:2
安息日に弟子達が麦畑を通りがけに穂 を摘んだと、パリサイ人から非難を受 けた後、主が安息日に会堂に入られた 時のことだ。そこに片手のなえた人が いた。パリサイ人の視線は、片手のな えた人にじっと注がれた。しかし、そ れは主を訴えるためであった。何と冷 ややかな心だろう。手のなえた人を、 主を弾劾し、自分達を正当化するため の手段としてしか見ない。一片の同情 もなく、その手のなえた人が癒された みわざを見ても、何の感動もなく、主 を殺す相談をするのだ。そのような態 度の原因を「イエスは怒って彼らを見 回し」「その心のかたくななのを嘆き」 と、心のかたくなさによると言われた。 彼らの心は硬化し、感覚が失せていた。 愛や憐れみや同情に無感覚になってい た。それは主を抹殺しようとの計画に まで発展して行く。なぜこうまで硬く なったのか。心に生じる苦い根を抜く 事をせず、どんどんはびこらせるまま にし、頑強なものに育ててしまった。 あなたの心にも苦い根が巣くっていな いか。憎しみや、妬みの根は育てて行 くと、殺意へと育ち、実際、彼らは妬 みのゆえに主を十字架へと追いやった。 一方主のお心は、愛と憐れみ、同情心 で一杯であった。同じじっと見る目が 何と対極にある事だろう。主のお心を、 心として従えるよういつも祈っていよう。 ・・・・・・・・・・・・ 心の苦い根をそのままにしていると、そのまま では済まず、どんどん頑なになり心が腐って 行く。その根を自分ではどうも出来ないので、 まず祈りに据えよう。祈りに置く時、光に出さ れるので、必ず解決に導かれる。
2007年09月25日(火) 「上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように」民数記14:42
「上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように」民数記14:42
カナンの地への斥候が12人遣わさ れたが、10人は、その地について 悪く言いふらし、全会衆をモーセに つぶやかせた。人々は不信仰に陥り、 エジプトへ帰ると言い出した。神は 彼らが言った通りをすると言われた。 20歳以上の者は皆、荒野で死に、 ヨシュアとカレブ、子供達だけを導 き入れると。そして、10人の斥候 達は皆疫病で死んだ。それらの言葉 をモーセから聞いた人々は、翌朝早 く、山地の峰に上って行こうとした。 「私たちは罪を犯したのだから、と にかく主が言われた所へ上って行っ てみよう」と。上って行きさえすれ ば良かったのだから、では、上って 行こうではないかと。彼らは何もわ かっていなかった。山に上る、上ら ないの問題ではなく、彼らの間違い は、神に聞き従わないことなのだ。 神の御声に聞き従って初めて、それ は信仰による行ないだ。外側は同じ 行動でも、全く意味が違う。またし ても、神に聞き従うのでなく、それ がだめなら、これでと、自分で行動 しようとする。この態度の事だ。し かし、そこに信仰が無ければ無意味 だ。信仰がなければ「主はあなたが たのうちにおられない」と言われる。 信仰とは御声に聞き従うことだ。御 声を聞くなら、すぐ従おう。ぐずぐ ずしていると、必ず従えなくなる。 ------------------------------ 神様の要求に深い関心を持っている だろうか。さわがしい自分の肉の声 のかなで静かな御霊の導きを聞き分 けるのは難しい。常にみこころを尋 ねて行こう。神様から遠く離れるこ とはない。
2007年09月24日(月) 「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」Uコリント9:8
「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」Uコリント9:8
ある人の証しだ。経済的困窮の主 に在る兄弟の事を覚えさせられた。 聖霊が臨まれ、どうしても強い促 しを感じ、その日、財布の中身を 全額献げた。すると、その帰り、 不注意で財布を落としてしまった のだ。御霊の導きに従えた事に心 から感謝した。もし献げなかった なら、紛失して終わりだった。聖 霊に導きに従順に従う事を強く教 えられた。ある人は御霊の示しに 関わらず、どうしても十一献金が できず、ぐずぐずしていた。する と、なぜか病院通いが続き、不慮 の出費がどんどんかさんだ。日頃、 健康がどんなに守られ、生活のす べての必要が満たされているかに 初めて思いが至った。恵みに感謝 がなく、当然としか思っていない 態度を心から悔い改めた。心から 感謝と喜びをもって献げる者と変 えられた。ある人は集会で恵まれ て恵まれて、喜びが満ちて、財布 を開いて、ひっくり返してパンと 全部献げた。帰りの電車賃も献げ てしまって、歩いて帰ろうと思っ ていた。集会後の交わりを通して、 ある家族と同じ方向だとわかり、 何と、帰途途上だから家まで送っ てくれると言う。神が働かれた。 まさに神を感じ、心が喜びで満ち た。御霊に従う事の祝福に浴した。 -------------------------- 献げるなら、必ず神様は返して下さ る。財でも労でも時間でも、従いた いと願う時、従えるように私達を整 えて下さる。献げた後に必ず喜びと 神様からの恵みに満たされる。
2007年09月23日(日) 「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」ヤコブ4:15
「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」ヤコブ4:15
計画を立てるのは御心でないのではな いか、神の計画はすでに定まっている から、自分の思いで計画を立ててはい けないと思っている人がいる。しかし、 それは誤解だ。自分勝手にではなく、 神と相談し、計画を立てるのは御心に かなった事だ。神無しの計画が無意 味なのだ。なぜなら、あす、〜しようと 言っても、あすの事はわからない。 命とはどのようなもので、誰の手の中 にあるのか。神無しの人生設計は人間 の高ぶりだ。私達の命は消えてしまう 霧のようだ。神を閉め出し、自己中心 に生きる人生、自分の楽しみだけを追 い求める人生は虚しい。神中心に生き る時、人は初めて真の満足を得る。平 安と喜びと生きがいを見い出す。神無 しの人生は結局無駄な人生に終わって しまう。神の御心を求めて歩む歩みは、 平坦な道ではなく、決して自分の思い 通りではないが、後悔の無い真の実 りある人生だ。神が共におられるので、 そこに喜びと安らぎが伴う。神は最高 の相談相手だ。どの道を進むべきか、 どの選択をすべきか、どう判断すれば よいのか、神に相談するなら、御心を 示して下さる。今、歩みに不安があれ ば立ち止まって神に相談しよう。スト ップがかかればその事は止めよう。そ のまま行っても祝福はない。今から始 める事があれば、神に相談し確認して 始めよう。 ・・・・・・・・・・・・・ 人の生き死には、神に握られている。 へりくだるべきだ。人間中心に考えると わからない。心の軸を人間中心から神 中心に移す時、神の御心が見えて来る。 「神は」どう思われ、何を喜ばれるのか、 視点を「神は」に移そう。
2007年09月22日(土) 「彼がペニエルを通り過ぎたころ・・彼はそのもものためにびっこをひいていた」創世記32:31
「彼がペニエルを通り過ぎたころ・・彼はそのもものためにびっこをひいていた」創世記32:31
神はヤコブを愛しておられたので、ず る賢さ、自己中心、強欲を砕くために 訓練された。ラバンという更に狡猾な 人のもとに置き、ヤコブを砕かれた。 私たちの目の前の対人関係は主の計ら いであり、私たちの強い部分を砕き造 り変えるためだ。ヤコブは何度もラバ ンに騙され主からの痛い訓練を受けた。 騙したヤコブは騙される事になる。蒔 いたものは刈り取る。やがて、多くの 訓練の後、神の時が来た。神が故郷へ 帰らせられる日の到来だ。神が定めら れたなら誰も止める事は出来ない。兄 エサウの怒りを思い、恐怖で身が震え た。殺されても仕方のない事をしたの だ。神はヤコブを取り扱われる。自分 の力に頼っている限り、神の祝福はな いからだ。ヤボクの渡しで、夜明けま で御使いと格闘し、ヤコブはもものつ がいをはずされた。ヤコブは生涯のび っことなった。自力で歩けない、神に 頼らなければ一歩も歩めないようにさ れた。彼の狡猾な肉の力と知恵は、一 生涯打ち砕かれた。彼は自分の強欲で 人を押しのける者でなく、神なくして 生きる事のできない、ただ神の恵みに よって生きる者に変えられた。「あな たをこの地に連れ戻す」と言われた神 は、肉のヤコブから霊のヤコブへと変 えて帰された。私達も変えられる。日 々起こる一つ一つが神からの砕きの御 手と受け取り、反抗するのでなく、落 ち込むのでなく、自分が変えられる事 を求めて行こう。 ・・・・・・・・・・・・・ 目の前の対人関係は、偶然でなく主の計 らいだ。痛いのは自分の何に触れるのだ ろう。プライドか虚栄心か競争心、劣等 感、高慢・・自分の隠れた姿を知れる。必 ず成長とさせられる。
2007年09月21日(金) 「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう」創世記28:15
「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう」創世記28:15
ヤコブの名は「押しのける者」の 意味であり、そのような人であっ た。狡猾な策略で、父と兄を欺き、 長子の権と祝福を奪い取った。兄 の激怒を招き、殺されそうになり、 逃避行に出た。家族から離れ、寂 しさと孤独、いつ追っ手が来るや も知れない恐怖と不安、日が暮れ 野宿した時に、神が語られたのだ。 もう一度生まれ故郷に帰れると。 とても信じられないような事だっ たろう。しかし、ヤコブはそれを 信じた。全く見えるところは異な り、むしろその約束が否定される ような状況で、何一つ目には見え ない、その中で約束を信じること が信仰だ。見えないものを信じる ことが信仰だ。見えたなら、信仰 は必要ない。アブラハムもその信 仰により義とされた。神がヤコブ を選ばれたのは、行ないによって ではない。品行方正で正しかった からではない。彼はずる賢く、自 分のために人を押し退けて奪う者 であった。神がそのようなヤコブ を愛されたのだ。彼が最も無力で、 不安で、孤独で、恐れとおののき にあった時に、神は御声をかけら れた。「わたしは、あなたに約束 したことを成し遂げるまで、決し てあなたを捨てない」と。最も弱 い時、無力の時こそ、神が近く臨 んでいて下さる。無力の時こそが 大いなる恵みの時だ。自分の力が 失せた時に、初めて神を見る。弱 さの中にこそ、神の力が完全に現 れる。弱さは恵みだ。 ----------------------- 自分は信仰の弱い者、無力の者と 知ることが本当に恵みだ。一人で 一時も立っておれないから神様を 呼び求め祈れる。そこからはじめ て神様に支えられる日々が始まる。
2007年09月20日(木) 「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」マタイ19:26
「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」マタイ19:26
ある人が救われて、もっと神を知 りたい、近く歩みたいと願ってい た。しかし、御言葉がよくわから ないし、神もぼんやりしたものだ った。ある時、祈りのリクエスト を受け、宣教経費のために祈って いた。すると「祈る必要ないでは ないか。あなたが献げられるでは ないか」との思いが来た。それは 多額であり、貯えて来たものであ り、非常な葛藤が生じた。「いや、 できない」と思った。「思い違い では」とも思おうとした。しかし、 祈る度に、その思いはますます強 くなった。しかし、悶々状態だっ た。だが、心に平安は無く、いて も立ってもおれなくなり、では、 自分には出来ないから、従えるよ う助けて欲しいと祈った。神は助 けて下さり、心に決心が来た。一 大決心であった。神に従い、献げ た時、すべての必要満たされ、そ の宣教プロジェクトは実行に移さ れた。手に握り締めているものを 放した時、自分が変わった。今ま でぼんやりしていた御言葉がビン ビン心に響いて来た。神がはっき りわかるようになった。その献げ たものも、神は上から与え返して 下さった。信仰の試しだったのだ。 あなたの偶像、又、握り締めて放 さないもの、それがあなたと神の 間を妨げている。それを手放す時 に初めて神がわかる。 ----------------- 自分の力、肉の思いでは御霊の導 きに従えない。従おうと思えない ままでは、いつまでも変わらない。 神様にすべて委ねて手放してみよ う。恐れや不安を神様が力強い平 安で包んで下さる。
2007年09月19日(水) 「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに・・パリサイ人は・・こんんな祈りをした・・この取税人のようではないことを、感謝します」ルカ18:11
「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに・・パリサイ人は・・こんんな祈りをした・・この取税人のようではないことを、感謝します」ルカ18:11
ある婦人の証しだ。夫がパチンコ依存 で、喧嘩が絶えなかった。実家を行きつ 戻りつを繰り返していた。給料全部持ち 出すようになり、悩んだあげく教会を訪れ た。神を信じ、聖書を学んで行く内に、光 で射されるように自分の姿が見せられた。 夫を裁き、上から見下している自分。夫 よりもっと恐ろしい罪深い高慢な自分の 姿が見えた。それまでは夫は悪、自分は 義としか見えなかった。涙ながらに心底 悔い改め、夫にも自分の高慢を詫びた。 夫を見下し、軽蔑するその自分の態度が、 更に夫をギャンブルへ追いやっていた事 にも気づかされた。夫への裁きが無くな った。パチンコももういいと思えた。す ると夫が変わった。驚くべき事に教会へ も来てくれた。そして、給料を全額つぎ 込んでいたのが、ほんの趣味程度になっ てしまった。夫が悪いとしか見えなかっ たが、恐るべき罪人は自分の方だとわか った時に、自分が変えられた。すると夫 も変わった。光に照らされた時に、初め て自分の真の姿が見える。真の姿が見え た時、解決に導かれる。御霊の光に照ら されるよう祈ろう。 ・・・・・・・・・・・ 暗闇の中にいると、自分が常に正しい。 光に照らされると、自分の罪がわかる。 赦されるのは罪人だけだ。赦しを受け 続けることができる。自分が正しいと しか見えない時は要注意だ。
2007年09月18日(火) 「・・なぜkのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」使徒5:4
「・・なぜkのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」使徒5:4
信仰生活、年数を重ねると、誰し も聖書知識はどんどん増えて行く。 日曜毎に教会に通っていると自然 に身について来る。祈りの言葉も、 最初は、見よう見真似だったのが、 それらしくなって来る。信仰生活 が長くなると、内側と外側にギャ ップが出て来るのだ。実質は無い のに言葉は増え、聖書知識も増え、 外側良き信仰者に装えてしまう。 又、私達には、常に人に良く見ら れたい強い欲があり、良い人に見 られたいという誘惑がある。この 誘惑は凄まじい。外側を演じ繕っ てしまう。これは偽りだ。この誘 惑に陥ってしまうと、暗闇の中に 入ってしまう。最初は自覚して演 技をしているが、その内に自分が 自分に騙されて、本当の自分がわ からなくなる。演技している方の 自分が本来の自分だと思い込んで しまう。ある人が、非行をひた隠 し、親の前では良い子を演じてい た。外では非行、家では模範生、 完璧に使い分けたため、親は全く わからなかった。しかし、最初は 演技だったが、どちらの自分が本 当の自分なのかが、自分でわから なくなった。特に霊的生活はサタ ンとの戦いである事をわきまえ、 主の御前に正直でいよう。そのま まのあなたを愛していて下さるの だから。無いものは無いでよいの だ。でなければサタンの手中に落 ち、欺かれ暗闇の中にぎまんの中 に落ち込む。 ----------------- 自分をそれ以上にもそれ以下にも 見せる事がありませんように。人 前を気にせず、神様の前だけを意 識し歩めますように。神様がみこ ころの姿で人前に立たせて下さか ら。
2007年09月17日(月) 「しかし、真理を行う者は、光のほうに来る」ヨハネ3:21
「しかし、真理を行う者は、光のほうに来る」ヨハネ3:21
アルコール依存症の人は、どこに 行っても、飲酒の誘惑があるから、 止められないのだと言い、ギャン ブル依存症の人も、ギャンブルが あるから悪いと言う。つまり、環 境が悪いのだと言う。しかし、同 じ環境にいて、アルコール依存症 にもギャンブル依存症にもならな い人々が大勢いる。これは環境の せいなどで無いという事だ。何が 問題なのか。私達も形は違えど、 同様だ。止められない習慣の底に あるものは、止めたくないのだ。 止められないのでなく、止めたく ないのだ。思い煩い症の人もいる が、思い煩っていたいのだ。思い 煩いがないと不安で、思い煩って 安心している。思い煩いが好きで、 思い煩い依存だ。おかしな話だが、 心の底を正直にみるとそうなのだ。 主はいつでも「よくなりたいか」 と問うていて下さる。出来るかと 問われない。「・・たいか」だ。 本当に良くなりたいかどうかだ。 建前でなく本音はどうなのだろう。 良くなりたいのだろうか。環境の せいにせず、人のせいにせず、自 らの罪を認め、徹底無力を認める 時、主は癒しを与えて下さる。し ばしば、私達は罪を憎んでいない。 罪を楽しんで愛している。罪には 快楽があるゆえ心地良い。罪を憎 まなくては、主を愛することはで きない。本音の部分を御霊に照ら して頂いて、そのまま神に向き合 おう。 ------------------ 罪を愛し、御霊に従えない。そこ を認めているのと認めて行かない のでは大きく違う。光の内にいる つもりで闇の中にいるなら助かり ようがない。罪を光の中に出し、 本音の信仰で神様に向かおう。
2007年09月16日(日) 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、わたしについて来なさい」ルカ9:23
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、わたしについて来なさい」ルカ9:23
日曜信者という言葉があるそうだ。日 曜に教会へ行って、良しとするかも知 れない。平日は、神も聖書も、ぶっ飛 んで好きなように歩み、再び日曜には 教会へ。しかし、主は「日々」従うよ うにと言われている。「日々」だ。信 仰生活、自分の都合の良い時だけ従っ ているだろうか。都合の悪い時には、 目を閉じ、神を無視する。すべてが自分 の都合次第となる。つまり自分が中心に 生きている。自分が中心では、主に 従えない。自我が邪魔をして、主に 従わせない。自分の思い、自分の 好み、自分の意見が、真正面から主の 御心とぶつかって従えない。それゆ え「自分を捨て」と言われる。自分を 捨てなければ、自我に死ななければ、 従えない。ある女性が同僚に、 いつも辛く当たられていた。余りにも きつい言葉と態度に、辛くて帰宅する と涙が出た。心の内を主に告げて涙 ながらに祈っていた。すると、彼女を 食事に誘いなさいと御霊の促しを受 けた。拒否反応が起きる。したくない。 しかし、「ついて来たいなら、自分を 捨て」の言葉が迫り、決心をした。 食事に誘うと意外だったが受けてくれ た。そこで心を開いて、生い立ちを話 してくれ、彼女を理解できた。以後 一番の友となった。自分を捨てて、 御霊に従う時、神のわざを見て行く。 ・・・・・・・・・・・ 「日々」自分を捨てるべき事柄を 御霊は示される。自我は逆らい、 自分を守り、自分を主張するが、 捨てる道を選ぶ時、平安と喜びを 経験する。みわざを見る。
2007年09月15日(土) 「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」(ローマ6:16)
「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」(ローマ6:16)
私達の前にいつも二つの道がある。古 い性質、自我を主張する道と、新しい 性質、自我に死ぬ道だ。内側で葛藤 する。二つの内、自分が選択した方が 自分の行為となる。害毒を流すか、神 の栄光を現すか、どちらかになって結実 する。ある人が途中で職場に入った時、 配置替えがあった。以前からの人が不 満で不快感をあらわにした。しかし、き ちんと対応していた。ある時、目に余る 言葉と態度にプライドが傷つき、一言 言い返そうと思った。瞬間、自我!と 思い、「神様!」と心で叫んだ。その瞬 間に出た言葉が「ごめんなさいね。私が 入ったために部署が替わって」すると相手 は驚き「いいえ、あなたのせいじゃないわ」 と言い、それ以後、相手の態度が一変、 和やかな良い関係になった。彼女は一 瞬、神を選んだ。神を選べないから 助けを求める事によって。サタンは狡猾 で、欲に誘惑して来る。「一言言えば すっとするぞ」しかし、それは肉だ。一瞬、 肉が快感を得るが、必ず後悔が来て平 安を失う。日常生活は、瞬間、瞬間、 自我か御霊かの選択だ。瞬間、神に 助けを求めよう。 ・・・・・・・・・・・・ 「わたしを呼べ」と言われる神に、瞬間に 助けを求めよう。自分では肉しか選べな い。神の助けにより御霊を選べる。 瞬間、瞬間の選択だ。神に介入して頂こう。
2007年09月14日(金) 「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります」マタイ19:21
「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります」マタイ19:21
金持ちの役人は何もかも持っていた。 莫大な財産、名誉、地位、人々からの 尊敬、評価、賞賛も得ていた、家庭も 持ち、道徳的にも立派な生活をしてい たであろう。この世的には、充分満た されており、何も言う事無かった。 しかし、彼の心には空洞があった。何 かが欠けていた。心の奥は決して満た されていない。この青年は、主イエス には何かがあると、心の満たしを求め て主のもとへ来た。主は、何が彼の問 題であり、妨げであるかを見て取られ、 導かれた。戒めを守るように言うと、 みな守っていると答えた。守っている と言うので、隣人を自分自身のように 愛していると言うので、貧しい人に施 すように言われた。しかし、彼はそう せずに去って行った。主は、財産を分 け与える事の出来ない、愛の無い、自 己中心な自分の本当の姿を知らせよう とされた。愛の無い自分を認め、「良 い方はひとりだけ」の、その良い方を 信じるようにと。あなたにとって、こ の「持ち物」は何だろう。握りしめて 放さないもの、それは、いつしか主か らあなたを離してしまう。握り締めて いるものを献げて、天に宝を積めるよ う、出来ない自分を認めて、祈ろう。 ----------------------- 思い通りに行かない事、痛い所を通し て、神様は折々に、自分がにぎりしめ て離せないものを示して下さる。献げ きれない、委ねきれない自分を知ろう。 献げるなら必ず豊かに祝福してまた戻 して下さる。
2007年09月13日(木) 「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせることはなさいません」Tコリント10:13
「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせることはなさいません」Tコリント10:13
御言葉によると、クリスチャン人生 に試練は必ず臨むと書いてある。救 われた目的は、御子のかたちに変え られるためだ。このように自我が強 く、自己中心で、頑固で、わがまま な者が、御子に似た者と変えられる には、どれほどの砕きが必要だろう。 しかし、御子のかたちに変えて行っ て下さるとは、何と光栄な事だろう。 信じる時に、人々は勘違いするかも 知れない。祝福とは、ラッキーな事、 ハピーな事との価値観があり、信仰 するなら、悩み苦しみの無い、幸福 で、楽しい人生が約束されるのだと。 おとぎ話のように、めでたし、めで たしで、人生終わり、天国へ入るの だと。何となくそう思っている。だ から、試練など受け入れられない。 とんでも無い事だ。それなら御利益 宗教だ。しかし、神はいっさいそう いう事は言っておられない。信じる なら、試練があるとはっきりと言っ ておられる。聖められるためだ。だ が、耐えられない試練は無い。耐え られる範囲内の試練しか送られない。 やって来る試練は必ず乗り越えられ る。神は試練と共に、脱出の道を備 えて下さる。脱出の道とは、試練を 逃れる事ではなく、試練のまっただ 中にあるものだ。だから、試練を受 け入れるなら、脱出の道を手に入れ る事になる。試練に対する最善の道 は、受け入れる事だ。それは祝福の 道だ。 ---------------------------- 試練の送り主が神様であること、必 ず益となることを信じて行く時に試 練は試練でなくなる。神様はたずら に私たちを苦しめてはおられない。 それを信じて行けるのはなんという 幸いだろう。
2007年09月12日(水) 『そこで彼は言った「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」』U列王7:2
『そこで彼は言った「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」』U列王7:2
サマリヤで子供を煮て食べるほどのひ どい飢饉の中、エリシャが、明日、小 麦や大麦が溢れるばかりにあると預言 した。すると侍従はたとい主が天に窓 を作ってもそんな事があり得ようかと 言った。すると、あなたはそれを見る が、食べられないとエリシャが言った。 そんな時、サマリヤの門に四人のらい 病人がいた。町は飢饉、どうせ死ぬの だからアラムの陣営へ入ろうと。ある いは食料があるかも知れないと。アラ ム陣営へ行くと、神はアラムに大軍勢 の騒ぎを聞かせられ、襲撃に思わせら れた。アラムはおじ惑い、陣営を置き 去りにし逃亡した。そこに入ると、山 ほどの金銀、溢れるばかりの食料があ った。彼らは王家に知らせた。王は信 じなかったが、偵察により事実を知っ た。すると、人々が殺到し、侍従は踏 みつけられ死んだ。実際、エリシャを 通した神の言葉の通りに、溢れるばか りの食料を神は用意された。しかし、 それを信じなければ、自分のものには ならない。溢れる食料があるに関わら ず、飢えて死ぬ事になる。私達も同様 だ。十字架の救い、神の愛、恵み、罪 の赦し、義とされる事・・、溢れる食料 の中にいながら、信じなければ飢えて 死んでしまうように、溢れる恵みの中 で、不信仰でいないだろうか。自分の 姿ではないか。莫大な食料が目の前に 備えられている。信じて受け取ろう。 溢れる恵みにあずかろう。 ・・・・・・・・・ 恵みの大海の中にいる。しかし不信仰 は受け取ることができない。自分の中 で「そんな事が有り得ようか」と言っ ている部分をよく探ろう。その不信仰 を悔い改め信じて行こう。神の栄光を 見る。
2007年09月11日(火) 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」ローマ4:25
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」ローマ4:25
ある父親の証しだ。子供に親の良か れとの思いを押しつけ、子供をコン トロールして来た。それが子供のた めだと思っていた。しかし、ずっと 親の言いなりで、良い子で来た子供 が爆発し、非行に走った。子供のた めには偽りで、実は自分のために子 供を支配していた事に気づかされた。 子供でなく自分を愛する自己愛であ り、子供が爆発したのは当然だった。 真の愛ならそうはならないはずだ。 涙と共に悔い改めて、主の血潮によ る赦しを受け取った。償いの多額の 弁償金をすべて支払い、地域の青少 年問題に取り組み、夜回りをし、学 校や地区の役を引き受け、子供に関 わった。心血を注ぎ、精一杯の労力、 時間、金銭を献げ、祈り続けた。各 方面に多大な迷惑をかけ、害を及ぼ し、罪の刈り取りは決して甘いもの ではなかった。厳しく苦しく辛いも のだった。しかし、主に赦されてい ると、心から信じる事ができたから こそ、出来た事であった。主の十字 架の血潮で赦され、義とされた確信 は、どんなに苦しい中でも支えであ った。実際大変な労苦ではあったが、 しかし、恐れはなかった。罪を赦さ れるという事は、何という喜びと平 安であろう。罪無し、義だとして下 さるとは、何という恵みだろう。同 様に私達の罪も完全に赦されている。 ---------------------- 主イエスの十字架によって神様は私 たちの罪をもう思い出さないと言っ て下さり、新しい生ける道を設けて 下さった。罪の赦しをしっかり受け 取る時、その刈り取りもまた新しい 歩みの中だ。
2007年09月10日(月) 「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」ルカ18:14
「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」ルカ18:14
取税人とパリサイ人が、宮に来て 祈った。祈りの言葉で、心の内が 見えて来る。パリサイ人の意識は、 ただただ「人」に対するものであ った。そこに神は無い。取税人は、 人などそこに介在せず、ただ「神」 だけを見上げていた。あるのは、 神と自分の関係だけであり、神意 識だけだ。パリサイ人は、神よ、 と言いつつ、実は神ではなく、人 に対する自己意識だけだ。人と自 分だけだ。取税人は、神の前の自 分を意識して、自らの罪を認めて いる。パリサイ人は人と比較して、 自分を見ている。自分の罪の基準 が、人によるのだ。だから罪認識 があり得ない。このようにサタン は常に、人と自分を比較させる。 御言葉の光に自分を照らし出すの ではなく、人との比較で、自分は どうなのかを見せる。それはサタ ンの誘惑であり、その罠にはまる と、人より優るなら優越感、人よ り劣れば劣等感となり、上がった り下がったりしている。人の間を 行ったり来たりで、真の罪認識に 至る事がない。決して無い。罪を 認める事が無いので、罪が赦され る事がない。神に向かわない限り、 人は罪を知る事はできない。罪が 赦されるのは、罪人だけだ。罪の 無い者の罪は赦されようがない。 十字架が適用されるのは、犯罪人 だけだ。罪を人との比較で見てい ないか。 ----------------- 人との比較ばかりの世にあって、 しっかり神様と自分の絆を保って いなければ、見るべきものを誤っ て行く。神様との良い交わりの中 を今週も歩もう。
2007年09月09日(日) 「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり・・」詩篇1:3
「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり・・」詩篇1:3
木は何もしないで、そこに植わってい る。木は、そこに立っているだけだ。 しかし、みずみずしく葉は茂り、決し て枯れない。そして、そこで豊かな実 を結ぶ。木は動き回るわけでなく、何 かを頑張るわけではない。しかし、み ずみずしく葉は生い茂り、実がなる。 水路のそばなので、絶えず、水分が流 れ来るからだ。それは決して滞る事が ない。実がなるのは、水路からの水分 による。私達も実がなるのは、自分で 頑張るのでなく、ただ、主にとどまり 続ける事によってだ。又、木は自分で 動く事も、環境を変える事も出来ない。 そこで実を結ぶ。私達も変えられない ものを、受け入れて行く事を学ばされ る。それは諦めという意味ではない。 偶然ではなく、運にほんろうされてい るのでなく、神が与えられたものとし て、神から来たものとして、もう一度 受け取るのだ。それは信仰だ。そこで必ず 豊かな実を結ぶ。あなたは、変える事 のできないものを、くよくよといつま でも思い煩い、受け入れられないで抵 抗し、悶々としていないか。それなら、 大切な一生を無益な思い煩いで棒に振 ってしまう事になる。与えられた場で、 遣わされた場で、豊かな実を結ぶ。変 えられないものを受け入れよう。 ・・・・・・・・・・・・ 木は自分で選ぶのでなく、人により植 えられる。その場所で、みずみずしい 葉を茂らせる。今の場は神が置かれた 場だ。神が与えられた境遇であり、神が 今の場で豊かな実を結ばせて下さる。
2007年09月08日(土) 「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27
主イエスが登場された事により、そち らへ群衆の人気が移って行き、「みな あの方のほうへ行きます」とヨハネの 弟子達は自分の師の人気が落ちて来た 事に、嫉妬やいらだちや寂しさを感じ ていた。しかし、ヨハネの態度は立派 だ。自分はキリストではないと明言し、 主が花婿であり、自分は花婿の友で、 花婿の声を聞いて喜んでいると。ヨハ ネは喜びをもって主に仕えていたのだ。 真に主に仕える者は喜びに満たされる。 そして、ヨハネの謙遜は学ぶべき姿だ。 人との比較に生きる時、必ず妬みが 生じる。職場の同僚の昇進、学生間 の成績や人気、又、ライバルの成功 など、相手が優ると嫉妬する。肉のプラ イドが傷つくのだ。人の成功は自分の 失敗のように感じ、人が誉められると 自分がけなされたように感じる。根に ある高慢から来る。ヨハネは神を認め て、へりくだった。人の栄誉も、賞賛も、 成功も、すべて神から来るものであり、 神の御手を認めたのだ。そして、自分 の欲望を満たす事、誇りを満足させる 事でなく、神の与えて下さるもので満 足した。不平も不満もなく満ち足りた 心だ。ここに平安がある。御霊に支配 された人は、自分が認められず、評価 されずとも、主の栄光が現されるなら、 それを喜ぶ。その人には、主ご自身か らの溢れる喜びと、満ち足りた平安が 臨む。 ・・・・・・・・・ 「満ち足りる心を伴う敬虔こそ大きな 利益を受ける道」神が下さるもので 満足する時に満ち足りた平安がある。 比較から何も生じない。神を見、自分 を見る時、感謝しかない。
2007年09月07日(金) 「彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである」申命記25:18
「彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである」申命記25:18
サタンは飢えたライオンのように、 襲いかかるものを探しながら歩き回 っている。獲物を見つけるや、飛び かかろうとしている。サタンには策 略があり、必ず策略を用いる。特に 身体的、精神的疲労状態にある時に、 要注意だ。あなたが疲れている時を、 サタンは鵜の目鷹の目で狙っている。 魂が危険にさらされている事を覚え ていよう。まず、疲れている時は、 周囲にも、そして霊の敵に対しても 無防備状態になってしまうからだ。 エサウは野での猟から戻り「飢え疲 れている」時に、長子の権と豆を交 換した。飢えと疲れで、長子の権な どどうでも良いと思ったのだ。私達 は余りに疲れると、判断力を失い、 重大な事がどうでもよくなってしま う。神の言葉や約束など飛んでしま う。疲れた時に経験しないだろうか。 エリヤはバアルとの戦いで、心身消 耗し、多大のストレスに疲労状態だ った。その上に、イゼベルの預言者 殺害命令を聞いた時に、もう許容量 オーバーで耐えきれず、死を神に願 った。疲れて、弱る時、気力が失せ てしまう。その前に、バアルと激し い闘いをし、大勝利したあのエリヤ でさえだ。人は皆、弱い。疲れて弱 る時が、狙われている事をまずよく わきまえよう。振り返る時、思い当 たるだろう。武具を帯び、神に拠り 頼んでいよう。疲れている時、要注 意だ。 ---------------------- 自分は、信仰の弱い者だと常に覚え ていよう。疲れて無防備になってい る時はサタンに付け込まれている事 すらわからない。家事に、仕事に、 勉強に、事ごとに神様の助けを祈っ てはじめよう。
2007年09月06日(木) 「・・イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15
「・・イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15
エマオ途上の弟子達は、不信仰と失 望に飲み込まれてしまい、かたわら を歩き、話しかけて下さっているの が主だと、わからなかった。神を信 じられない時、また、失望落胆にあ る時、神が見えなくなる。すぐそば に、かたわらにおられる、その神が 見えない。逆に言えば、私達がどん なに神が見えない時も、わからない 時も、神はすぐそばにおられるとい う事だ。仮に、自分が神を感じられ なくても、見えなくても、共に歩ん で下さっているという事実、これは 何という慰めだろう。感じられる時 には共におられ、感じられない時に は、共におられないのではない。又、 不信仰は神を見えなくする。「愚か な人たち・・信じない、心の鈍い人た ち」「彼らの不信仰とかたくなな心 をお責めになった」主は不信仰は、 はっきりと責められる。それは間違 っていると。「信じない者にならな いで、信じる者になりなさい」と。 あなたも今、失望しているか。不信 仰に陥っているか。自分の思い通り にならないからか。しかし、一番の 問題は、信じようとしない、強情な、 頑なな、自分の心にあるのではない か。問題は自らの不信仰と認めて、 悔い改めよう。その時、今の状況を 通して、必ず神の栄光が現れる。神 の素晴らしさを見る。 --------------------- 神様を認めないなら、すべてが偶然 の連鎖だから、失望、落胆から逃れ る事はできない。かたわらを共に歩 まれる主を認めて歩むから、虚しさ から抜け出し喜びの中を歩める。
2007年09月05日(水) 「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」ルカ15:28
「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」ルカ15:28
兄息子は、放蕩の弟と違い、きちん と父親のいいつけを守って、仕事を していた。家出もせず、父のもとを 離れず、忠実に労働をしていた。正 しい関係を守っていた。恵みによら ずに律法を行っている人は、「必ず」 人をさばく。兄は自分がなすべき事 をしていたため、好き放題をして、 身をもち崩して帰って来た弟を受け 入れる事ができない。ましてや、そ れを喜んでいる父を見るや、怒りに 震えて、家に入ろうともしない。喜 びと楽しみの大宴会にいる弟と、家 の外の暗闇で、すねてひがんで、怒 って、歯ぎしりしている兄は対照的 だ。兄は、父が子山羊一匹くれない と心を屈折させているが、父は、わ たしのものは全部お前のものだと言 っている。兄にとり、父との関係は 取引き関係だった。労働を提供する から、報酬は当然、ギブアンドテイ クの関係、雇用関係、それは労使関 係だ。あなたと神の関係はどうだろ う。祝福を貰いたいがために、良い 行ないを、奉仕を提供しているか。 愛をもらうために仕えているか。そ れなら報酬のために仕える、労使関 係だ。私達と神の関係は、愛の関係 だ。それは信頼関係であり、神の溢 れるばかりの愛に応えたいから、愛 が嬉しいから自発的に仕えて行く。 神の信頼に応えたいから、自由意志 で仕えている。 ・・・・・・・・・ いいつけも守り、怠けもせず、仕事 もし、きちんとしているのに、心は 惨めで喜びなく虚しい。外側繕って 見えないが実は内側強烈自我だ。あ りのまま御前に行き、ありのままを 主に告げよう。今愛されているゆえ。
2007年09月04日(火) 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」ローマ4:25
つまり、キリストがよみがえられ たという事は、私たちが完全に義 とされたという事だ。よみがえり がその証拠だ。神が御子の十字架 の身代わりの死、罪のあがないを 受け入れられ、認められ、それに より私達を義とし、そして、御子 イエスをよみがえらされた。神が 御子を復活させたという事は、あ がないの死、なだめの供え物を、 神が認められたという事だ。だか ら、もし、神がなだめの供え物を 認められなければ、もし、私たち を義とされなければ、主イエスの よみがえりはなかったわけだ。神 が完璧に認められたという事だ。 神の御前に、正真正銘、私達は義 とされている。何という恵みだろ う。義とは、神との関係が正され たという事であり、罪無しという 事だ。クリスチャンでありながら、 義とされている事に目をとめてい ない。「あなたがたは、なぜ生き ている方を死人の中で捜すのです か」死人の中に主を探していて、 十字架上で死なれた主しか信じな い。よみがえられた主を見ようと しないため、主の墓の前でウロウ ロしている。かつて不安と恐れの 中にいたように、今も罪を恐れて 生きている。主はよみがえられ、 私達は完全に義とされた。罪無し とされている。神との間が正され、 回復され、妨げ無い交わりができ るという事だ。 --------------------------- 主のよみがえりによって私たちは、 完全によし!とされている。繰り 返す失敗も、主の十字架によって 赦され、いつも本神様との交わり の中に留まっておれる事感謝だ。
2007年09月03日(月) 「そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです」ピリピ3:12
「そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです」ピリピ3:12
ある人の証しだ。主イエスを信じ、 救われたのだが、"ねばならない" の律法にどんどん入り込んでしま い、頑張って、頑張って律法を行 った。自分の力と努力で信仰生活 をしているので、しんどくなって 来る。疲れて来るが、しかし、こ れは正しい事とばかり、更に自分 の頑張りで進んで行く。辛くてし んどい中、自分は頑張って、しん どいので、頑張っていない人を見 ると、必ず裁いてしまう。心の内 では人を裁きまくり、喜びも平安 も無い。先輩クリスチャンに、そ れは律法主義で、神の愛ではない、 聖書の信仰ではないと言われ、し かし、愛がわからない。頭では、 行ないではない恵みによる救いが 理解できて、理屈ではわかるのだ が、どうしても神の愛がわからな い。恵みと言っても、ちゃんとし た行ないをしなければ、としか思 えない。その時は、神の愛が頭の 知識でしかなく、神の愛を「信じ ようと」しなかった。もうどうや っても愛がわからず、しんどいば っかりで、ギブアップ状態になっ た時に、「わたしの恵みはあなた に十分」の言葉が光のように臨ん で来た。恵みは十分注がれてるよ と、神が言って下さった。そして、 「弱さのうちに現れる」のだよと。 弱くて良いのだと思った瞬間、力 が抜けて、解き放たれ、平安で包 まれた。神が、神の愛を信じさせ て下さった瞬間だった。神が捕ら えて下さっていたことに感謝でな らなかった。私たち一人一人も捕 らえて下さっている。 ------------------- 不十分なままの自分、従えない自 分、本来の自分をすべて知ってい て愛して下さっているのだから、 取り繕う必要はない。誰の信仰で もなく自分が神様と向き合って行 くのだ。
2007年09月02日(日) 「人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても今はもうそのような知り方はしません」Uコリント5:16
「人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても今はもうそのような知り方はしません」Uコリント5:16
パウロは、コリントのクリスチャン に向けて語った。「人間的な標準」 とは「肉」によってであり、この世 の価値観だ。新しく生まれ、クリス チャンになっても、この世の価値観 で生きている。生まれつきのままで、 人や自分、主キリストをも見ている。 だから主がわからない。目に見える もので判断する。人や自分を能力や 才能、持っているもので量ってしま う。人と比べて劣ると劣等感に陥り、 人より優ると優越感に浸る。それは この世の見方で見ているからだ。そ の目が、価値観こそが問題だ。人の 行為は、その人の価値観に基づくの で、価値観が重大だ。人格と人生を 形造ってしまう。人が変わって行く のは、価値観が変えられて行くこと だ。御言葉をよく聞き、御言葉に従 う時に、神の価値観が培われて行く。 新しい価値観は御言葉から来る。不 意の事態が起きた時、肉の反応は おじ惑い、恐れ、不安、思い煩い、 落ち込みだ。しかし、御言葉は「イエ スはしようとしている事を知っておら れる」「わざわいではなく、平安を 与える計画」「あなたのために立て ている計画」「万事益」「御子といっし ょにすべてのものを恵んでくださる」。 日毎に御言葉の糧を食べ、御言葉 を信じて行く時、御霊により、発想、考 え方、思考パタンが変えられて行く。 御霊と御言葉で古い価値観が変えられ て行く。私たちの価値観はどうだろう。 ・・・・・・・・・・ 人は価値観が変わる事によって、変え られる。自分の中の依然、根にある古い 価値観に気づけるように。その部分に気 づけて、御霊に拠り頼み、御言葉と根こ そぎ置き替えて頂こう。
2007年09月01日(土) 「ですから、私たちは今後、人間的な標準で、人を知ろうとはしません」Uコリント5:16
「ですから、私たちは今後、人間的な標準で、人を知ろうとはしません」Uコリント5:16
心がしんどくなり、苦しくなる時は、「人 間的な標準」で、自分や状況、周囲の人々 を見ている。パウロは、以前は主キリスト を人間的な標準で見ていたと証ししている。 王の王、主の主である救い主が、生まれが 家畜小屋で、まずつまづいてしまうかも知 れない。大工の息子で、家は貧しく財産も 無く、地位も名誉も何も無い、何の見栄え もない。最期は最も惨めで、残虐で辱めの、 極悪人がかかる十字架上での死、とてもじ ゃないが受け入れられない。「人間的な標 準」のメガネをはずした時に、主を知って いることの素晴らしさのゆえに、いっさい の事を損と思うようになり、すべてのもの を捨てて、ちりあくたと思うようになった。 メガネが変わったのだ。キリストの標準で、 人を、状況を見て行く時、どんな人にも、 どんな状況にも、恵みが見える。光の内に 光を見て行く。神の内に自分を見る。自分 で、自分を見るなら受け入れられないが、 神に受け入れられ、愛されている自分を見 て、その自分を受け入れて行く。だれでも キリストの内にあるなら、新しく造られた 者だ。古いものは過ぎ去った。今、問題が あるなら「人間的な標準」で、この世の価 値観で、肉のメガネで、事態を見ていない か。神の視点メガネにかけ変えよう。同じ 事が、全く天と地ほど違って見えて来る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 肉の目での見方と、神の目での見方がある。 肉は状況と自分だけを見る。神の目は神 を通して、状況と自分を見る見方だ。同じ 状況の中で、心は正反対になる。今、どち らの目で見ているだろう。