2007年10月31日(水)

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」ローマ4:24

律法とは、神の戒めだ。「偶像を作
るな、拝むな」「御名をみだりに唱
えるな」「父母を敬え」等々がある。
「神を愛し隣人を愛せよ」「敵を愛
せよ」「言葉に気をつけよ」数え切
れないほど様々ある。律法はすべて
完全に正しい。しかし、肉の私たち
には正しく良いものである事はわか
るが、それを行なう力が無い。パウ
ロが言うように「貪るな」と言われ
ると、反対に貪りたくなるのだ。罪
の性質だ。貪りが引き起こされる。
ある人は「植木鉢をとるな」と書く
と余りにも次々盗まれるので止めた
ほどだ。「勉強しろ」「手伝え」と
言われると反発する。肉には、敵対
し逆らう性質がある。救われた頃は、
喜びで溢れているが、その内、信仰
生活が辛くなる。窮屈でしんどくな
るのだ。祈れと言われても祈れない
し、聖書もそんなに読めるものでな
い。証しなど出来ない。重荷になっ
て来る。善をしたいとは思うが実行
する力が無い。自分の力で、肉の力
で神に従おうとするからだ。どれだ
け頑張っても出来ない、不可能だ。
死のからだなのだから。自分の惨め
さ、無力をとことん味わう。しかし、
それこそが素晴らしい恵みの時だ。
その時にこそ、真に神の恵みと力、
救いを経験する。神にギブアップし、
自分を明け渡す事だ。その時、御霊
によって歩むことを知る。自分でな
く、御霊が成し遂げられる事を経験
する。
・・・・・・・
神は何も求めておられない。徹底無
力を認める事だけだ。プライドが許
さないので、どこまでも自分で頑張
る。惨めで認められない。しかし、
認めた途端、どおっーと恵みの中だ。
 


2007年10月30日(火)

「それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」ルカ24:31



二人の弟子達が、墓に行った女たち
が御使いから、主のよみがえりを告
げられたと、聞いた。しかし、信じ
られず、郷里に引き揚げる。弟子達
は主がローマ帝国をくつがえし、地
上に王国を建てると信じていた。そ
れがことごとく破れ、十字架での無
残な最期が余りにもリアルで、よみ
がえりなど、荒唐無稽な事を信じる
事が出来ない。挫折感と失望、落胆
で、とぼとぼとなすすべなく郷里へ
向かっていた。突然、そんな彼らの
かたわらを歩く人が現れた。その人
は彼らに語りかけ、彼らの話を聞か
れた。その上、聖書の話をし、御言
葉を解き明かして行かれた。耳を傾
けて行く内に、彼らの心が変えられ
て行った。失望落胆に沈んだ心が、
赤々と燃えて来たのだ。不思議に暗
い心がいやされて行った。無理に宿
泊を願い、家に招いた。その人がパ
ンを裂いて、彼らに渡された時に、
彼らの目が開かれた。よみがえりの
主を認識できた。「彼らの目が開か
れた」時に、道中、心が内に燃えて
いた事に気づいた。すべては主が目
を開いて下さる事による。あれほど
信じる事のできなかった、主のよみ
がえりを信じる事ができた。彼らも
不信と失望の渕からよみがえらされ
たのだ。今、失望で沈んでいるだろ
うか。この弟子はあなただろうか。
主は、今、かたわらにおられる。意
識して、その主の語りかけに耳を傾
けよう。
---------------------
心を主に向け耳を傾けよう。語られ
るみことばも自分のものとして受け
止めなければ、何の励ましも、恵み
も受け取る事はできない。私たちの
霊の目は開かれているだろうか。


2007年10月29日(月)

「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです・・しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にいません」ガラテヤ5:17



神から視点がずれると、すぐに律
法の下に身を置いてしまう。自分
で何とかしようと、自分の力で頑
張る。あなたは今、恵みの下にい
るだろうか、律法の下か。神を愛
そうとするが出来ない。従おうと
するが、従えない。そうなると、
ますます自分はダメで、神にも認
められず、受け入れられず、信仰
失格者みたいに思ってしまう。こ
の律法主義に陥ると、十分、満足
という事が無い。どこまでやって
も、満ち足りる事が無い。いつも
自分は足らず、十分でなく、自分
の足らなさのせい、至らなさのせ
いと、自分を責めて落ち込む。常
に、あれをしなくちゃ、これをし
なければとの脅迫観念があり、追
い立てられている。あれが出来て
いない、これも出来ていない、仕
事は山積みで、休む事など出来な
い。いつも平安が無い。この状態
は要注意だ。律法の下に自分を置
いている。そこには安堵がない、
安心感がない、喜びが無い。出来
ない自分が許せない。こんなはず
ではないと思う。イライラし、焦
り、思い煩い、周囲に当たるよう
になる。ベタニヤで主をもてなし
たマルタ状態だ。しかし、主に向
く時、おおいが除けられ、こんな
自分をこのままに愛していて下さ
る主の愛に向き合う。十字架の愛、
赦しを受け取り続けること、ここ
に安堵と、憩い、喜びが来る。恵
みの下だ。
------------------------
良い事をしながら、なぜか主から
遠く離れた所に行ってしまう経験
をする。このままで愛されている
事をしっかり受け止めていないの
だ。自分のためにやっていないか
良く吟味してみよう。主が助けて
下さる。


2007年10月28日(日)

「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています」ルカ6:48

二つの家は、外観全く同じようであっ
た。どちらも立派で、見た目は何の違
いも無かった。ところが、洪水が来た時
に、大きな違いが生じた。一方はびく
ともせず、一方は倒壊してしまった。平
生は表れる事もないが、試練の時に
その差がはっきりと出て来る。深く掘っ
て岩の土台に建てた家と、掘らずに地
面に建てた家の違いだ。岩の上に建
てるとは、示された御心に従って行くこ
とだ。それは自分にとって痛い御言葉
かも知れない。しばしば心が刺し貫か
れるし、従う時に犠牲も伴う。自分を
砕かなければ従えない。当時は器機
もなく地面を深く掘るのは大変な事だっ
たろう。砂の上に建てるのは楽だ。
それは自分に痛い都合の悪い御言葉
は退け、都合の良い言葉だけを取り、
自分のプランの上に人生を建てて行く。
砕かれる事がないままだ。誰の人生に
も必ず試練は来る。その時に、ただ心
地よさを求めて来た信仰では立ち行
けない。自分がどうのでなく、神が神
であられるから従って行く信仰は、どん
な試練にも倒れない。普段は信仰生
活、別に見た目に何の違いもない。し
かし、試練が来た時に、砂の上なら倒
壊してしまう。私たちの土台はどうだろ
う。主を信じているので、溢れる感謝
の中で、痛い御言葉にも従って行ける。
・・・・・・・・・・・・・・
都合の良い言葉だけに従うこともできる。
しかし、信仰生活の中でとにかく逃げない
で、御言葉と向き合った時、更に大きな喜
びと深い平安を経験して来た。


2007年10月27日(土)

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」マタイ6:1

主は山上の垂訓で、人前で善行をす
るな、右手のしている事を左手に知
られるな、と言われた。施しが隠れ
ているように、自分の善行を人に知
らせてはならないと。しかし、同時
に、あなたの光を人々の前で輝かせ、
人々があなたの良い行ないを見て、
天におられる父を崇めるようにせよ、
とも言われた。人前で良い行ないを
見せるようにと。これはどう違うの
か。これは動機の問題で、動機がど
うかだ。自分が賞賛を受け、自分を
崇め喜ばせるためにしているのか、
それとも神のために、神を喜ばせよ
うとしているのかだ。自分の賞賛の
ためにする善は偽善だ。パリサイ人
の善行がそうだった。人の前で自
分を正しいとする事であり、人の間
で崇められる者は、神の前で憎まれ、
嫌われると主が言われた。人前でな
く、神の御前で生きる事、人の目で
なく、神の目を意識して生きる事が
言われている。誰しも皆、人前で体
裁を繕い、人の目を気にし、人に良
く思われたいと思っている。目に見
えない神よりも、目に見える人前で
生きてしまう。目に見える世界の方
が大切であり重要であり、神を無視
してしまう。サタンの誘惑だ。目に
見えない神の御前で生きて行くこと
は、まさに信仰によるのであり、御
霊の助けと導きによる。神に自分を
明け渡して行く時、まず神に喜ばれ
る生き方を「願う」ように変えられる。
・・・・・・・・・・・・・・
私達の底の価値観が探られる。目に
見える世界で良く見られたい時、神
を捨てている。神を無視し、自分の
欲を選択している。信仰とはその狭
間で神を選択して生きる事だ。
 


2007年10月26日(金)

「あなたのしもべを傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば私は全き者となり、大きな罪を免れて、きよくなるでしょう」詩篇19:13



ダビデはこのように祈った。これは
ダビデの祈りであった。高慢から守
られるようにと、日毎に祈っていた。
それゆえ、神はダビデの祈りに答え
て、守られ、神と人に仕えて行ける
ようにされた。クリスチャンともな
れば、表面だって自惚れたり、自慢
したり、威張ったりはしない。誰し
もきっと末席に座るだろう。しかし、
心の中はどうだろう。人を見下した
り、軽蔑したり、裁いたり、人と比
較して心の中で、自分はそのように
愚かではないと、自分ならそのよう
にはしないと、自分を誇ったり、こ
れらは高ぶりの罪だ。又、神の言葉
に対してはどうだろう。へりくだっ
ているだろうか。神はあなたを愛し
ていると言われる。しかし、いいや、
断じてそんな事はない、と心では受
け取っていない。頭では、そうなん
だと思うが、心では受け取らない。
愛されるはずがないと思っている。
又、赦しを御言葉のままに受け取ら
ない。赦されている事を信じない。
だから、いつまでたっても心の芯に
平安がない。頭と心は違う。心で受
け取らないなら、御言葉を否定して
いる事になる。それは高ぶりだ。
「わたしが目を留める者は、へりく
だって心砕かれ、わたしのことばに
おののく者だ」御言葉をそのままに
受け取る事が、へりくだる事だ。
-------------------
みことばの約束を信じ受け入れよう。
みことばが命となり傲慢な者の中に
働かれるのだ。自分さえ欺く自我の
強い要求に支配されず、みことばの
うながしに素直に従って行けますよ
うに。


2007年10月25日(木)

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。」Tペテロ5:6



へりくだるとは、「いえいえ、自分
などは」と自己卑下する事ではない。
又、単に腰を低くする事ではない。肉
の謙遜は、肉の欲しいままの欲望に対
しては、何のききめもない。ある人が、
神のしもべとしての訓練を受けるため
に、神学校へ入った時に、自分はこの
中で一番謙遜な者になる事を目標にし
た。謙遜のナンバーワンだ。パリサイ
人は人に見せるために断食し、通りに
立って祈り、人前で善行をし、施しを
した。肉の謙遜は、人前であり、人に
対してであり、それは自己満足であり、
その根は高ぶりだ。私達の謙遜は、神
に対してだ。「神の力強い御手の下に
へりくだる」ことだ。それは、神に従
うこと、御心に「はい」と従うことだ。
自分の強い思いがあれば、従うことが
できない。自分の思い通りの道を選ん
で行く。へりくだるとは、自分の肉の
思いを捨てて、神の御心に「イエス」
という事だ。今、自分の思いと神の御
心の間で選択を迫られているだろうか。
神の力強い御手の下にへりくだろう。
神にいっさいを委ねて、「はい」と従
おう。へりくだる者には、約束がある。
「ちょうど良い時に、高くしてくださ
る」。それは、人間的な思いの丁度良
い時でなく、神の「ちょうど良い時」
だ。水は低い方へ低い方へ流れる。へ
りくだるなら、必ず神の大いなる祝福
が臨む。
----------------------
人との優劣ではなく、自分の神様に対
しする態度が問われる。取るに足りな
い者が素直に御心に「はい」と従って
行く時、神様の栄光が現れる。そこに
は優越感もなければ、高ぶりもない。


2007年10月24日(水)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」Uコリント7:10

悲しみの受け止め方に、二種類ある。
ただその事態を、結果を嘆くばかり
で終るのが世の悲しみだ。又、まず
かった結果が体裁悪いので、後悔す
るばかりで、結果オーライならその
ままだ。そこに、自分を砕いた悔い
改めが無いので、必ず同じ失敗を繰
り返す事になる。もう一つは悲しみ
に立って、自分のあり方や、今まで
の自分の人生を振り返る。その時、
高慢で自己中心な罪を示され、心砕
かれ、悔い改めに導かれる。御霊が
働かれる悲しみだ。ある男性が、結
婚して自営の仕事を始めた。しかし、
なかなか軌道に乗らず、経済的に苦
しんだ。妻は夫を助けて働きに働い
た。仕事は行き詰まり悶々状態の時、
妻は過労で倒れ入院した。その時、
彼はこんな大変な時に倒れた妻を責
めたのだ。しかし、仕事も家庭もう
まく行かず、何もかもガタガタな現
状を見た時に、これは自分の姿では
ないかと心砕かれへりくだらされた。
神の御前にへりくだった時に「自己
中心」の罪を示された。自分の力を
誇り、自分が、自分がと、自分が神
になり、自分の思い通りに事を進め
て来た高慢を示され悔い改めた。妻
にも今までの自己中心を詫びた。仕
事も家庭も新たにされ新しい展開が
もたらされた。痛みや悲しみは、今
までの自分のあり方を顧みる、神か
らの機会だ。神はあなたを愛してお
られるので、軌道修正し新たにした
いと願っておられる。
・・・・・・・・・
神は痛みや悲しみを通して、内側を
造り変えて下さる。へりくだって自
らを振り返り、自らの有り様を考え
る事は幸いだ。悔い改めに導かれ、
新たにされ、きよめられ、豊かな祝
福とされる。


2007年10月23日(火)

「彼がペヌエルを通り過ぎたころ・・彼はそのもものためにびっこをひいていた」創世記32:31



ヤコブは神と格闘し、ギブアップし
た。神に自分を明け渡した。ヤコブ
がなかなか降伏しないので、神はヤ
コブのもものつがいを外された。も
ものつがいは股関節であり、腰の部
分の事だ。腰とは身体の要と言われ
る、一番重要な力の源だ。その一番
の要所を打たれた。ヤコブは、「押
しのける者」との意味で、人を押し
のける自我の強い人だった。常に狡
猾な知恵を練り回し、策略を巡らし
て生きて来た。ラバンのもとでも、
巧く策を練り、富み、多くの財産を
持つようになった。エサウに向かう
にも、肉の知恵を巡らし、へつらい、
贈り物でなだめようとした。エサウ
に会う事は、非常なる悩みであり、
難関であり、難問題であった。よく
聞くが、「問題だらけだ」と言うと、
「最大の問題はあなただ」と言われ
たと。この悩み、あの問題と問題が
次々に起きるが、実はトラブルメー
カーである自分が、問題を起こして
いる。神に、その自分自身を取り扱
われ、変えられない限り、いつまで
たっても同じだ。ヤコブは祈りに答
えられて、もものつがいを外された。
そこを外されると、自力で立つ事も
歩く事もできない。杖をついてびっ
こで歩く事になる。びっことは、自
我が砕かれ、自分に頼れず、自力で
歩けず、神に頼らざるを得ない者に
されたという事だ。それが祝福であ
り、自己中心な者が、神を信頼する
者に変えられたのだ。
------------------------
本当の幸いは、自分で歩く事ではな
く、神様に頼っていく事だ。神様を
心の中心に置き、神様の守りと導き
を今日も感謝して歩もう。


2007年10月22日(月)

「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した」創世記32:24



エサウを欺き、逃亡したヤコブが、
彼のもとに戻る日が来た。エサウの
様子を探らせると、400人を引き連
れて、此方への途上と聞き、恐怖と
不安でおののいた。膨大な贈り物を
用意し、二つの宿営に分けた。一つ
がやられても、一つは逃れようとの
策だ。祈りはするが、神を信頼でき
ず、自分を守るために懸命に肉の方
策を練る。私達の姿だろうか。しか
し、恐怖心はどうにもならない。エ
サウへのなだめの贈り物を先に送り、
自分は助かろうと一番後につき、そ
の夜、ヤボクの渡しを渡った。一人
あとに残ったヤコブに、ある人が来
て、彼と格闘した。兄に対する非常
な恐れ、不安、家を出て以来ずっと
胸にある兄との確執、この恐れと苦
しみを何とかして欲しい、解決が欲
しい、そのヤコブに神の方から近づ
かれた。「ある人が・・彼と格闘した」
ヤコブでなく、神が主導だ。神がヤ
コブの問題を解決しようとされた。
この格闘で、神はヤコブのもものつ
がいを打たれたので、もものつがい
がはずれた。つまり、自分ではどう
にも出来ない強固な自我を、神が砕
かれた。ヤコブは全く変えられた。
弱くされ、戦えなくなり、神に拠り
頼むのみだった。「弱い時にこそ強
い」神に拠り頼む強い者にされた。
この後、ヤコブは先頭に立って、エ
サウに会いに行った。いつも状況の
変化を望むが、神は私達自身を取り
扱い、変えられる。
--------------------
自分が変えられない限り、また同じ
失敗を繰り返す。思い煩い、自分で
自分を守りながら神様に頼ることな
く歩んでしまう。神様にのみ頼る者
にして下さる取り扱いを感謝して受
けたい。


2007年10月21日(日)

「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」創世記3:11

神は、罪を犯したアダムとエバに、神の側
から御声をかけて下さった。「恐れて、隠
れました」恐れて逃げ回るしかない彼らに、
神の方から「あなたはどこにいるのか」と
近づいて下さった。断罪し、さばくためで
はなく、罪ゆえに遮断されてしまった交わ
りの回復を願われた。しかし、悔い改めの
機会が与えられても、回復のチャンスが与
えられても、そうしたらよいとわかるが、
できなくなってしまったのだ。善悪はよく
わかり、何をしたらよいかもわかる。しか
し、その善を行うことができない。「私に
は、自分でしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているの
ではなく、自分が憎むことを行っている」
「私は、自分でしたいと思う善を行わない
で、かえって、したくない悪を行っている」
自分のせいでなく、あの人がああ言ったか
ら、この人がこうしたから、相手が悪いと、
自分を正当化してしまう。そんな罪深い私
たちを救い出すために、御子がすべてのさ
ばきを受けて下さった。「肉によって無力
になったため、律法にはできなくなってい
ることを、神はして下さいました」良い事
がわかっていても、出来ない無力、そんな
私たちのために神が御子によるあがないと
いう道を用意して下さった。神の前に、徹
底無力を認める時に、御霊の力により出来
なかった事が、出来るようにされる。
・・・・・・・・・・
自我でどうにも出来ない自分のために、悔
い改める事すらできない自分のために、十
字架のあがないがあり、御霊の助けがある。
徹底無力を知る事が最大の祝福だ。無力を
認める時、神の力、愛を知り、恵みがわかる。


2007年10月20日(土)

「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14

ぶどう園の主人は働き人を募集した。早朝
から5時まで5回も募った。最後の者など、
もう仕事になどならない。主人は、彼らに
最後までチャンスを与えたかったに違いな
い。怠けていたのではなく、今日一日の糧
を不安に思い、思い煩いながら、待ってい
た事だろう。これは主人のあわれみであり、
愛だ。夕方になり、主人は最後の者から順
に、賃金を払うように言った。最初の者か
ら払うなら何の問題も無かった。貰った順
に去って行くからだ。それなら喜んで感謝
して満ち足りて、最初の者達は帰ったであ
ろう。ところがあえて、逆にし、皆に支払
われた賃金を見届ける事になった。最初か
ら12時間暑さの中で働いた者と、1時間
の者が同額である事に、不満と怒りが爆発
した。働きたくても、雇用されないなら働
けない。主人が雇ってくれて、働けたこと、
朝一番からその日の糧が約束されていて、
何の不安も恐れもなく、平安に働けた事、
そんな恵みと感謝がすべて吹っ飛んだ。主
人は約束をきちんと果たし、何の不当な事
もしていない。「あなたの目にはねたまし
く思われるのですか」。私達もどうだろう。
「自分の分を取る」のでなく自分の分を忘
れ、自分が何様と思い上がってしまう時、
何もかもが当然の権利となり、奢り高ぶっ
てしまう。何も見えなくなり、道をそれて
しまう。すべてが恵みから始まったことに、
今一度立ち返ろう。
・・・・・・・・・・
「私がいったい何者であり、私の家が何で
あるからというので、ここまで私を導いて下
さったのですか」自分が何者でもないことに
目が向く時に、感謝が湧き溢れる。水が低い
方にしか流れないように、恵みも同じだ。


2007年10月19日(金)

「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない」112:7



深夜に突然電話が鳴ると、もしや
悪い知らせと、不安になった事が
あるかも知れない。ペリシテにイ
スラエルが打ち負かされた時、神
の箱は奪われ、祭司エリの二人の
息子が死んだ。エリがその知らせ
を受けた時、道ばたの席から仰向
けに落ち、倒れて首を折って死ん
だ。悪い知らせを聞く時に、パニ
ックになり、立ち上がれなくなっ
てしまうのだ。しかし、ヨブは、
全財産を無くし、子供全員が死ぬ
という、悪い知らせを聞いた時に
も、立っておれた。その心が神に
堅く信頼していたからだ。私達も
悪い知らせを受ける時に、心備え
をしておく事は大切だ。まず、独
り子を賜うほどに、愛していて下
さる事を信じよう。神は必ずこの
事態も働かせて、益として下さり、
私達にとって最善の事をして下さ
ると、心に定めていよう。そして、
耐えられない試練は無く、逃れの
道も与えられている事を覚えよう。
状況がどんなに大嵐だとしても、
主に信頼する者を、この世のもの
ではない「主の平安」で心を守っ
て下さる。決して不運なのではな
く、すべての事は、神の支配の中
にあり、神のご計画とプログラム
の中である事を覚えよう。「しっ
かりしなさい。わたしだ。恐れる
ことはない」と言われた主を見て、
今こそ信仰を働かせよう。状況で
なく、状況を支配しておられる主
を仰ぎ見よう。
----------------------
泣きわめかず、わたしに向かって
心から叫べ、と神様は言われる。
逆境の時でも、順境の中にあって
も神様から遠くはなれず、いつも
御そばに近くを歩んでいよう。


2007年10月18日(木)

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」Tペテロ5:6



ヨセフの投獄は、無実の罪だった。
10年に及ぶ監獄での生活、辛さや苦
しみがあったろう。そこでの、神を
見つめての忍耐と忠実がヨセフを練
り上げ、かたち造って行った。すべ
ての囚人がヨセフに任せられ、ヨセ
フはその世話をした。大変な仕事だ
ったに違いない。監獄という場所で、
人々は否定的に、悲観的になり、自
己憐憫に陥り、投げやりになったろ
う。しかし、ヨセフは状況最悪の中
で、忠実に仕えた。逃げないで、避
けないで、主の教育と訓練を受け入
れた。献灼官長が約束をきれいに忘
れてしまった時には、どんなに失望
落胆し、落ち込む事かと思うが、し
かし、ヨセフは状況だけを見るので
なく、信仰の目で状況を見ていた。
ギリギリの状況を通しながら、神は
そのような信仰を与えて行って下さ
った。2年後、パロが夢を見た事で、
献灼官長がヨセフを思い出し、監獄
から出された。突然にして、目の前
が開かれた事に、自分の力や自分の
知恵、人間的なものを越えた、そこ
に確かに働かれる神を見た事だろう。
神の訓練にへりくだって、服して行
く時、受け入れて従って行くなら、
神が「ちょうど良い時に」引き上げ
て下さる。今、訓練が臨んでいたな
ら、受け入れよう。それがへりくだ
ることだ。神が計らいをして下さる。
---------------------
試練だ、訓練だと人事なら言えるが、
我が身に降りかかる時、すぐにつぶ
やき落胆する。信仰の目で今を見て
いけますように。神様が与えられた
試練、神様がちょうど良い時に解放
して下さる。約束のみことば握り、
今日も主と共に歩もう。


2007年10月17日(水)

「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」創世記45:8



ヨセフは、兄達妬まれ、憎まれ、エジ
プトの隊商に売られた。ヨセフにとれ
ば、どんなに苦しい、辛い、理不尽な
事だろう。見知らぬ地で一人、恐れと
不安で一杯だったろう。しかし、主は、
主人の側近とし、主人の愛情と信頼を
得るようにされた。だが、主人の妻か
ら濡れ衣を着せられ、投獄の身に。何
と波乱の人生だろう。長期に渡る牢獄
生活、そこでも模範囚として仕えた。
夢を解き明かし、やっと釈放と思いき
や、忘れ去られて、尚も牢獄生活だ。
神は忘れておられるのか、見捨てられ
ているのか。しかし、このような厳し
い、苦しい試練の中で、ヨセフの信仰
は練られ、鍛えられ、強められて行っ
た。ヨセフはこれらが運命や偶然にほ
んろうされているのではなく、一つ違
わず神のプログラムであり、計画だと
見ていた。すべては必ず最終的に益と
される、摂理の神を信じていた。やが
て兄達と再会した時、背後に神のプロ
グラムを見ていたので、あなたではな
く、神がそうされたと赦す事ができた。
自分中心の視点なら、兄達への恨みと
憎しみ、それだけだ。しかし、自分中
心でなく、神の視点で見た。「あなた
でなく、実に、神」と言えた。あなた
の対人関係はどうだろう。人を見るな
ら恨みつらみ敵対心だけだ。しかし、
そこに神を見る時、あなたを訓練し、
砕き、聖め、成長させるために、その
人を、その状況を送られたのだ。「そ
の人でなく、実に、神」だ。
・・・・・・・・・・・・
しんどい状況の中で、背後の神を見る
時、事態が解き明かされて見えて来る。
自分への訓練だと。環境を変えても、
又、同じ事を繰り返す。なぜなら自分
は変わってないのだから。


2007年10月16日(火)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17



神が喜ばれるのは、砕かれた、悔いた
心「ごめんなさい」だ。しかし、古い
性質は、どんな犠牲を払っても、言い
たくないのが「ごめんなさい」だ。他
のことなら何でもするが、謝罪だけは
絶対にしたくない。しばしば、人をち
ょっとした言葉や悪い態度で傷つけて
しまった時に、善で返そうとする。自
分の心がとがめるので、親切な行ない
をして、自分のとがめを無くし、チャ
ラにしようとする。だが、「たとい私
がささげても、まことに、あなたはい
けにを喜ばれません。全焼のいけにを、
望まれません」のように、神は良い行
いで返す事を望んでおられない。神が
喜ばれるのは、神に対して、人に対し
て「ごめんなさい」との謝罪だ。良い
行ないは、奢り高ぶったままでも可能
だが、「ごめんなさい」は、へりくだ
りなしに出来ない。生活の中で、へり
くだれず、善で返してごまかしている
事が、多々あるかも知れない。古い人
を脱ぎ捨てないで、その上に新しい人
を着ようとする事だ。偽りとぎまんの
中に入り込んでしまう。神の前に悔い
改める事が、古い人を脱ぎ捨てる事だ。
思い当たることはないか。
-----------------------
心がとがめるのにへりくだる事ができ
ない自我がある。砕かれる事は祝福。
素直に御霊様のうながしに従いたい。
痛いところを主が共に通って下さる。
人の前にも神様の前にも謙遜でありた
い。


2007年10月15日(月)

「今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です」ローマ6:21



ある家庭で、家族会議を始めた。自
分では全くの正論だと思い、一人が
意見を言った。父親がやはり正論だ
と思い、それに反対した。すると兄
がそれに反論し、当事者の肩を持っ
た。すると、母親が全く別の意見を
言い出した。皆が自分が正しい、に
立っているので、どんどん言い合い
はエスカレートして、やがて大喧嘩
になった。その場に関係の無い過去
の事、普段の事などが飛び交い、収
拾がつかなくなり、切り上げた。怒
りや攻撃心やいら立ちで全く平安が
無かった。皆が平安失せ、暗たんた
る気持ちになった後、それぞれ冷静
になり、考えた。各々が、神の御前
に悔い改めを与えられ、互いに謝罪
し合った。その時、自分の思いでな
く、神の御思いは何かに、視点を向
ける事が出来た。御霊の導きを求め、
相手の気持ちを思いやり、再度話し
合った。すると、一つ思いにされ、
一致して平安の内に決定が導かれた。
そこに潤いと温もりが来た。御霊の
支配があった。「肉の思いは死」の
通り、自分の思いを通して行くと、
そこに何の実も無い。皆無だ。暗た
んたる気持ちと害毒だけが残る。
「自分は正しい」こそ、まさに肉の
思いであり、死だ。「御霊の思いは
いのちと平安」、神に視点を向けよ
う。
------------------
肉は、言われたら言い返せ、やられ
たらやり返せだ。この肉の欲求のま
まに歩み後悔を繰り返す。心の中心
に神様を置いて歩み始めたのだから
「肉の思いは死」を常に覚えていた
い。


2007年10月14日(日)

「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし、主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:2



ある人が、対人関係において、自分は常
にフェアである姿勢を取ろうとして来た
し、そうしていると思っていた。人を偏
見で自分は見ていないし、そう見る人は
間違っていると思っていた。しかし、あ
る時、御霊に心を照らされた。心の奥深
くでは、自分はそんな人達のようではな
いと優越感を持って見ている事に気づか
され、又、表には出さないが、心の底で
は歴然と差別をしている醜い自分に気づ
かされた。パリサイ人の姿そのままだっ
た。神に反抗しているなら、わかりやす
いが、正しくあろうとし、神に従おうと
しているゆえに気づかない。御言葉と御
霊の光が臨む時、私たちも心の奥底が見
せられ、自分の本当の姿を知る。愕然と
するが、神はそんなものはすでにご存じ
の上で愛して下さっている。神は知って
おられるが、自分が自分の本当の姿を
知らない。試練を通して行き詰まりを
通して本当の姿を見せて下さる。余裕
のある時は、幾らでも自分を繕える。う
まく作れるが、切羽詰まった試練の時に、
全く余裕の無い時に現れる姿が、自らの
本性だ。言い訳や弁解せず、自分を正当
化せず、その自分を認めて行くことが成
長だ。
・・・・・・・・・・・・・・
御霊の光が来る時に、自分の姿が照らし
出される。普段気づかない動機や、心の
底がいかに醜いかを知る。しかし、神は
動じられない。そんなもの初めからご存
じの上で愛して下さっている。 


2007年10月13日(土)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦は、その日その日に、十分あります」マタイ6:34

心配性で、思い煩いに悩まされている人
は多い。ああなったら、こうなったらと、
先に起こる「かも知れない」事を想像し、
不安に落ち込む。不安材料をかき集め、
まるで現実であるかのごとくに、最悪の
シナリオが完成する。しかし想像であり
妄想だ。現実に起こっていないのだから、
神も、そんな架空のものをどうにも出来
ない。思い煩いを選択している自分の問
題だ。明日の事、先の事は、私達にはい
っさいわからない。誰にもわからず、見
えない。しかし、神を信じる私達は、明
日に恐れと不安を見るのでなく、神の愛
を見る。明日は、神の愛に包まれ、神の
ご計画の中にあり、神の御手の中に堅く
守られている事を心から信じる。見えな
い明日に、不安や恐怖ではなく、神を見
て、神の愛を信じる。これが信仰だ。神
の愛を信じて歩む時、思い煩いの亡霊に
惑わされない。そして、「神の国とその
義を第一に」心に据える事だ。自分を第
一、神を第二、第三にする事から、秩序
が狂い、混乱し、思い煩いが生じる。自
分中心に考えるから不安と恐怖で、あら
ゆる事が思い煩いとなる。自分で自分を
守らねばならないからだ。神を第一にす
るなら、神が全責任を取って下さる。そ
こから安堵と喜びが来る。あなたの優先
順位はどうなっているだろう。心配では
なく、明日に、神の愛を信じて歩もう。
・・・・・・・・・・・
「何も思い煩わないで」ピリピ4:6思い
煩わないで良いとは、何という安堵だろう。
「何も」だ。明日という向こうから不安と
恐怖の幽霊が来るのでなく、「わたしだ」と
言われる主が来られ、愛が来ている。


2007年10月12日(金)

「私はほかの人々のように、ゆする者・・ことにこのような取税人のようではないことを感謝します」ルカ18:11




パリサイ人は宗教的であった。外側
は、人をゆするわけでなく、姦淫せ
ず、断食して祈り、十分の一献金を
していた。しかし、心では自分を正
しいとし、人を見下していた。ここ
では「人」と比較して、自分を量っ
ている。神の前ではあるが、神に対
してでなく、人に対しての自分だ。
そこに神は無い。人と比べて自分は
どうかがすべてだ。人より優ると優
越感、人より劣ると劣等感に陥る。
生涯、優越感と劣等感の間を浮き沈
みする。このパリサイ人は、一応神
の前にいると思っているが、見てい
るのは人だ。あの人より自分はまし、
この人ほど悪くないと、人を量りに
かけ自分の正当性を保つ。取税人は
明らかに罪人だった。ローマ帝国の
手先となり同胞から税金を取り立て、
私服を肥やしていた。ただ神と自分
しかそこになく、人がどうこうなど
思いも及ばなかった。神に向き合う
時、自分の本当の姿が、罪が見える。
見えるから、悔い改め赦される。人
に向くなら、自分の姿はいっさい見
えず、暗闇の中で、自分を誇り、高
ぶるばかりだ。優越感も劣等感も根
は同じで、「高慢」だ。そして次に
は、このパリサイ人を見下し、自分
を正しいとし、私は、パリサイ人の
ようではない事を感謝しますという、
自分がいる。神に向いて、光に照ら
されよう。
------------------------
変わらなければならないのは自分だ。
人は関係ないので劣等感も優越感も持
つ必要はないことが感謝。ありのまま
の自分を神様にさらして、いつも変え
られますようにと祈りたい。


2007年10月11日(木)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11



信仰生活は天に帰るまで、サタン
との戦いであり、霊の戦いだ。そ
の事をまず受け入れて、踏まえて
おく事は大切だ。朝起きた時から
夜寝るまで、四六時中サタンはや
って来ては、思いに火矢を吹き込
んでいる。朝目覚めた時からだ。
ずっと思いに語りかけて来ている。
又、特に弱い部分に誘惑が来る。
ある人は思い煩いに、ある人は妬
みに、別の人はプライドにと、そ
れぞれその人の一番弱い所だ。誘
惑自体は天に帰るまで、この世に
いる間はずっと来る。それは終わ
る事は無いので、失望したり恐れ
たりする事はない。誘惑自体は罪
ではない。主も荒野で誘惑を受け
られたが、生涯一つの罪も犯され
なかった。誘惑に会う事は罪では
ない。サタンから思いが吹き込ま
れ、私達の側からすると、思いが
湧いて来て自分が思っていると感
じてしまうが、その思い自体は全
く罪でない。その思いを受け入れ、
心で妊娠させるなら、罪を出産す
るという事だ。その思いに同意す
ると罪になって行く。拒否する事
だ。祈りを妨げようと、思いを入
れて来る。祈っていたのが、いつ
の間にか思いがさまよっている。
そんな時は声を出して祈ればよい。
あなたが特定の誘惑に陥りやすい
状況が必ずある。自分の弱点を知
る事は、霊の戦いで重要だ。サタ
ンはその所にあなたを置こうと策
を練っている。常に神を呼び、神
に助けを求める事だ。
-------------------------
サタンは、実に巧みに近づいて来
る。常にサタンの声を聞いている。
私をおがめ、みことばに従うなと。
試みに自分で立ち向かわず祈ろう。
目を天に向ける時サタンの罠から
逃れる事ができる。


2007年10月10日(水)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3  

   
あるカルト教会から脱会した人が、指導
者から 最後に言われた言葉があった。
「もし信じるだけで救われるのなら、誰
も何もしない」。それなら教会にとって
困るわけで、神に対する恐怖をマインド
コントロールで植え付け、信徒は、献金
や伝道や活動を恐怖に駆り立てられて行
ってゆく。しかし、マインドコントロー
ルゆえ、それらすべて自分の自由意志で
行っていると思っている。そこに愛はな
い。「信仰による救い」が全面否定され
ている事になる。しかし、もし私達も、
献金や、伝道活動や、奉仕する事により、
神の愛を得ようとし、神に、又、人に認
めて貰おうとしているなら同じだ。恵み
でなく律法の下にいる。何かを提供して、
見合うものを自分の手に入れるのは、そ
れは報酬だ。それなら雇用関係だ。私達
は雇い人であり、主人に労力と時間を提
供して給料をもらう。あなたの信仰生活
はこの状態だろうか。恵みは違う。一方
的に与えられるものであり、プレゼント
だ。誕生プレゼントを貰ってお金を支払
わない。恵みとは一方的な神からのプレ
ゼントだ。労働なしに給料をもらい、ボ
ーナスまで貰う事だ。驚くべき恵みだ。
そして奴隷や雇い人でなく子であり、父
親の愛を全身に受け、莫大な財産を受け
継ぐ。救いのために何もしなかったよう
に、信仰生活とは恵みによって、御霊に
導かれ、自発的自由意志で、感謝ゆえに
神の愛に応えて行くものだ。そこには愛
があり、いつも喜びと平安がある。
・・・・・・・・・・・・・・・
福音に「強いられて」というのは一切な
い。微塵もない。最初から最後まで自発
的自由意志で、動機は愛だ。信仰が重荷
で、ねばならない状態なら肉であり、福
音からそれている。恵みに立ち返ろう。


2007年10月09日(火)

「そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。」ガラテヤ5:8



主に、御言葉に、従おうとする時に、
衝突して来るものがある。この世の
価値観や、習慣、考え方だ。一見妥
当に見える。今まで叱咤激励の価値
観で生きて来たので、自分の力で頑
張るのが良い事、善、美徳だ。今ま
でも真面目に生きて来たが、救われ
てまことの神に向き合うや、もっと
真面目に、更に忠実でなければと、
信仰生活とは厳しい修業のように思
う。苦しいが、しかし苦労は美徳、
苦しいのは当然、むしろ苦しいと安
心感があったりする。修業している
気になれる。特に日本人気質に合致
する。これら世の価値観から来てい
る。しかし、実は真理と正反対の方
向に向かっている。それは神から出
ていない。ここでは割礼の事で問題
となっている。ユダヤ人の慣習であ
る割礼を受け入れて、問題を起こさ
ないようにと。何かをする事によっ
て、神に、人に認められよう、受け
入れられようとする事は、もはや恵
みではない。キリストから離れ、恵
みから落ちてしまっている。信仰生
活は、神に受け入れてもらうための
苦しい修業でなく、すでに丸ごと受
け入れられ、100%の愛を受けている
ゆえに、喜んで、感謝して自由に神
に従って行くものだ。「ねばならな
い」義務ではいっさいなく、「愛に
よって働く信仰」愛が動機であり、
自発的な自由意志で仕えて行くもの
だ。そこには喜びと平安がある。
-------------------------
どこまで行っても自分の考えを捨て
きれず肉で頑張り、肉を誉めてもら
いたい。そんなものは神様から出て
いないと言われる。やろうとしてい
る事は神様から出ているか、そうで
ないかをよく考えてみよう。


2007年10月08日(月)

「四十年たったとき、御使いが、モーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現れました」使徒7:30



モーセは、40歳の時に、虐げら
れている同胞に、救いをもたらそ
うとしたが失敗した。パロにも命
をつけ狙われ、ミデヤンの地に逃
亡した。エジプトでの華やかな王
宮生活とは一転、荒涼たる荒野で
の遊牧民の生活となった。王子の
地位も名誉も富も何もかも無くし、
一介の羊飼いとなった。そこで結
婚し、家庭を持った。かつてのエ
ジプトでの栄華も幻のごとく、荒
野の羊飼いで人生終わるかと思え
た頃に、「四十年たったとき」
「御使いが・・現われた」。神の時
が満ちた時に、神は現れられる。
そして、御心を知らせられる。信
仰生活には、神の定めた「時」が
ある。それだからこそ、試練のト
ンネルの中でも、忍耐できる。ト
ンネルは永遠に続かない。トンネ
ルは必ず出る。神の時が満ちた時
に、試練は終わる。しかし、トン
ネルの中にいると永遠に続くよう
に思えてしまう。真っ暗闇でまる
で出口が無いように感じる。しか
しそうではない。「私の時は御手
の中にあります」、信仰人生にお
ける、私達の「時」は主の御手の
中だ。又「主がなさったことの結
末」試練には結末がある。終わり
がある。あなたは今、真っ暗な試
みの中にいるか。耐えられない試
練はなく、逃れの道があり、結末
がある事を覚えよう。時が満ちた
なら、神がご自身の御心を現され
る。「四十年たった時」だ。待ち
望もう。
--------------------------
トンネルの中での灯りは、トンネ
ルは必ず出口があるという信仰だ。
苦しみの時、虚しさの中を歩んで
いてもそこに神様は共におられる。
時満ちるまで神様の支えのもとで
待ち望もう。


2007年10月07日(日)

『蛇は女に言った「・・と神はほんとうに言われたのですか」』創世記3:1



エデンの園の誘惑に、蛇の狡猾さが
現れ出てるが、あなたにも日ごとに、
この誘惑が来ていないか。「ほんと
うに?」との言葉だ。神が言われた
のはよいが、「ほんとうに?」と。
言葉を否定して来るわけでなく、
「ほんとうに?」と言われた時に、
「ん?ほうとうだっけ?ほんとうか
な?」と、疑いが湧き上がる。サタ
ンは極めて狡猾だ。初めから否定し
て来たなら、警戒し、身構え、識別
しながら聞く。無神論者や共産主義
者の言葉は、それなりに聞く。しか
し神を認め、御言葉を認めた上で
「でも、ほんとう?」とは、サタン
の罠だ。そして、次には全面否定し
て来る。「あなたがたは決して死に
ません」。これはサタンのやり口だ。
「あなたがたは神のようになり」と。
あなたにもいつもこのサタンが来て
いるかも知れない。信仰によって、
御言葉の約束に立とうとすると、
「本当に?」「成就なんてするの?」
「信じているだけで大丈夫?本当
に?」「そんな調子の良いことある?」
途端にどっと不安になり、信仰から
すべり落ちる。「ご自身の栄光の富
をもって必要をすべて満たす」と
言われると「本当に?」あなたの
人生を導く、と言われると「本当?」
いつも信仰が揺れ動きぐらつく。自
分が思っているのでなく、サタンが
吹き込む火矢だと気づこう。拒否し
よう。エバのように自分の思いでなく、
主のように御言葉に立とう。
・・・・・・・・・・・
信じていなさいと言われると、本当に?
と今も来ていないか。常に「本当に?」と
ささやき不安と疑いで信仰を揺るがして来
るすサタンを見分けよう。約束の言葉
でサタンに立ち向かおう。


2007年10月06日(土)

「私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7

もし、私達が失敗した時には、どう
すればよいのか。あなたは言動や行
為が間違った時はどうするだろう。
それを黙殺して、無視する事ができ
る。無かった事にする事ができる。
又、周囲に、人に、責任転嫁をする
道がある。人のせいにし、人に責任
をなすりつけてしまう。お皿を割っ
た時に、こんな所に皿を置く者が悪
い。人の言動にいら立つ時、いら立
たせる事を言う相手が悪い。そうで
はなく、自分の感情や自分の行動は
自分の責任だ。そこをしっかり認め
る事から成長が始まる。責任転嫁し
ている限り成長は無い。又、人は弱
点を指摘された場合、それを攻撃で
おおい隠すとも言われている。成長
途上の私達は、よく失敗する。皆、
弱さがあり、間違った選択をしてし
まう。その時に、心の中で抹消し、
無視し、否定してしまうのか、周囲
に責任転嫁するのか、神は一つの道
を示して下さっている。「自分の罪
を言い表わすなら・・その罪を赦し」。
いっさいの言い訳と自己弁護をやめ
て、失敗に自らが責任を取るのだ。
それが悔い改めであり、光の中にい
るという事だ。神は完全に赦して下
さる。言い訳など必要ないのだ。恐
れる事も逃げる事もない。私たちは、
光の中で罪を認め、主の赦しの中で
赦され続けて生きて行く。恵みのま
っただ中だ。
・・・・・・・・・・.
プライドは罪を認めたくない。言い訳
し相手を責める。悔い改めは、へりく
だらなければできない。そこが問題だ。
とにかく一切言い訳しません、と主の
御前に出よう。それが光の中だ。


2007年10月05日(金)

「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる」詩篇37:34


よく難しい事の中の一つが、「待つ」こ
とだと言われる。あなたもそうだろうか。
ファーストフードを食し、自販機ですぐ
にジュースが飲め、コンビニは24時間
開いていて、いつでも、すぐに物が手に
入る。各自が携帯を持ち、連絡も即取れ
る。世界中リアルタイムでメールが行き
交う。便利な時代になった。すぐに欲し
いものが手に入るので、「待つ」ことは
本当に難しい。待てない。信仰生活でも、
すぐに行動に移りたい。すぐに目に見え
る結果が欲しいのだ。今すぐに欲しい物
を手に入れたい、持ちたい。しかし、神
は、神の前に座し、じっくり祈り、御声
を聞いて、導きを確信して歩めと言われ
る。導きを求め、確信するには、じっと
御声に耳を傾ける時が必要であり、祈り
が必要だ。そうでなければ、自分の思い
と力で、自分の判断で行動し、必ず失敗
してしまう。つまずいてしまう。誰しも
肉の欲望があり、自分の思い通りにやり
たい。しかし、それなら肉に従い、サタ
ンに従う事になってしまう。神の栄光ど
ころか、サタンに用いられてしまう。あ
なたにも今、待ち望みが必要だろうか。
サタンは急かす、しかし神は導かれる。
焦りはサタンの誘惑だ。肉の思いに走ら
ないために、サタンに欺かれないために、
じっくり主を待ち望もう。必ず御声をか
け、確信与え、導かれる。    
--------------------------
主は、尋ね求める者に進むべき道を教え
られる。目の前の状況や思いを脇に置き
じっと主の導きを待とう。主のご計画だ
けが完全だ。待っている間も焦りや恐れ
から守られますように。


2007年10月04日(木)

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがの霊的な礼拝です」ローマ12:1



あなたも経験するだろうか。神の
御心がなりますようにと祈りつつ
も、自分の思いと自分の願いで一
杯で、建前は神の御心だが、本音
では全くそうではなかったりする。
しかし、反抗する気など全くなく、
一応は御心がなりますようにと思
っているので、思っているだけに
自分でも気づかない。自分では真
剣に祈っているつもりだが、後で
振り返ると、委ねる事の意味もわ
かっておらず、神を信頼もしてい
なかったとわかる。メッセージで、
学びで、神に委ねる事の大切さを、
しょっ中教えられるので、それが
良い事と思い、そうしている「つ
もり」だが、実は自分の思いと自
分の願望をしっかり握って放さな
い。しばしば、自分がそうあれば
いいと思っている事を、実際そう
だと勘違いする。反抗したり、逆
らっていれば、明らかにわかるが、
逆らっているつもりはないので、
わからない。気づかない。何かが
漠然とし、混沌としているのだ。
心に確信と満たしが無い。平安が
無い。それで自分でも、何かが違
うと薄々感じている。この問題点
は、献げていないところにある。
決して自分を献げてはいない。心
の底を御霊で照らされる時に、献
げていない自分を見い出す。この
事を認めることが前進のためのま
ず一歩だ。握っているものがない
か。
-----------------------
知識だけが増えて来るので敬虔で
はないにしてもそれなりの信仰が
あるつもりでいる。本当の自分の
姿は見えているだろうか。信仰は
自分が神様に献げるものだ。みん
なと一緒に・・はありえない。


2007年10月03日(水)

「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか」ヨナ4:11



ヨナは、ニネベへ行けとの神の命
令に背いて、反対のタルシシへ向
かった。神の御顔を避けたのだ。
すると、神は大嵐を起こされた。
自分のせいだとわかっているヨナ
は、海に投げ入れるようにと言う。
海に放り出されたヨナを、神は大
きな魚を備えて、守られた。ヨナ
は魚の腹の中で祈り、悔い改めた。
悔い改めは方向転換だ。行動が変
わる事だ。魚から吐き出されたヨ
ナは、今度は神の命令に従った。
ニネベで言われた通りに神の言葉
を伝えると、人々は悔い改めた。
それで神は災いを思い直された。
しかし、ヨナは面白くない。すね
て、怒って、神に不満をぶつける。
ヨナの神に対する思いは、神は味
方を守り、敵を滅ぼすべきなのだ。
そうされない神に不満で一杯だ。
私達も、自分の思いが強い時、神
が自分の思うように動かれないと、
いら立ち、不平不満、不信感が募
る。しかし、それはあくまでも、
自分の思いの中の神だ。実際の神
とは違う。自分の思い通りの神像
を造り上げている。しかし、神は、
そんなだだっ子のようなヨナをな
だめ、どこまでも忍耐深い。お前
のような預言者はだめだ、とは言
われずに、ヨナの気持ちを受け止
め、とうごままで備え、教え導か
れる。ヨナと同様、私達の気持ち
も受け止め、導いて下さるお方だ。
不満も怒りも何もかも、まず神に
告げよう。心の内をことごとく打
ち明けよう。
-------------------------
どこまでも未熟で、自己中心な私
たちを神様はみこころのままに整
えて行って下さる。素直にありの
ままの自分を向けて行こう。


2007年10月02日(火)

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る」ヨハネ3:20



「人々はやみを愛した」とあるよう
に、人の古い性質は、罪を憎むので
はなく、罪を愛する。したくないけ
れど、罪を犯すのではなく、そうし
たくて罪を犯している。誘惑に乗っ
て行ってしまうのは、誘惑を拒絶す
るのでなく、本当はその誘惑の中に
いたいのだ。誘惑は心地良い。そこ
から出たくない。やみを愛する罪の
性質だ。ぎまんに陥らないために、
「〜できない」のでなく「〜したく
ない」と認める事、光でなく、やみ
を愛する古い性質が、自分の内にあ
る事を認識しておくことは大切だ。
又、私達は自分は見える、わかって
いると言って、光を拒んでいる。見
えない事を認めない。しかし、光を
拒むなら、暗闇の中で見えるのは自
分だけだ。自己中心の世界の中で、
絶対に自分は正しく、間違っておら
ず、相手が悪いとしか見えない。真
理を行なうとは、自分の罪を認める
事だ。やみを愛する者であり、自分
を正当化しては、人を裁き、責める
者である事を認める。その時、その
人は光に出るので、神が見える。光
があり、神が見えるので、更に自分
の生来の姿がはっきりと見えて、悔
い改める。全き赦しを与えられ、新
しくされる。今、あなたは自分が正
しいとしか見えないか。それなら闇
の中だ。光は、正しいと思っている
あなたの真の姿を照らし出す。実は
自己中心で、自我の強い自分を。神
の前でのみ、本当の自分が見える。
----------------------
自己中心出しか生きられないで何の
クリスチャンであろう。私たちには
御霊様がおられる。聖霊様にしか善
を行うことはできな事を知っている。
人を裁き、人と比較し人に認められ
たい・・自己中の自分を認め聖霊様
に従えるように光に出て行こう。


2007年10月01日(月)

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています」ローマ7:18



何人もの人が同じ証しをする。嫌い
な相手がいて、悶々としながら「愛
せるように」「どうか愛せますよう
に」と祈り続けていたが、幾ら祈っ
てもダメで、祈りが全く聞かれない。
ある日、いつものごとく「愛せます
ように」と祈っていて、違う、本心
ではないと気づく。本音では愛した
いなどと全然思っていない。愛せま
すようになどと、大嘘だ。口先のき
れい事だ。「大嫌いです」「愛した
いと思っていません」とありのまま
の自分を認めて、「そのような私で
す」と祈って行った時に、初めて祈
りが聞かれたのだ。相手に対する愛
情が与えられ、「今じゃ相手が好き
ですよ」と。「愛せるように」は、
きれい事だ。私は良い人なので、立
派な事をしようとしていると勘違い
する。心の中の醜い汚いドロドロの
実際の姿は、おおい隠されて、私は
愛そうとしている良い人間と勘違い
る。建前だ。建前の祈りは祈っても
無駄だ。はなから聞かれていない。
実際は、自我が強く、自己中心で、
憎むは、敵対心は持つは、裁くは、
そのような自分を認める必要がある。
その時初めて、人を愛せない私を、
愛して下さっている神の愛を知る。
丸ごと受け入れられている、無条件
の愛を経験する。神が受け入れて下
さっているのは、本音のあなただ。
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本音では従えないのだ。そこを知ら
なければ変わりようがない。従えな
いところに介入して下さる神様に本
音で向かおう。祈りが変えられ本音
の自分に神様の恵みが及ぶ。