2007年11月30日(金) 「主を待ち望むものは新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」イザヤ40:31
「主を待ち望むものは新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」イザヤ40:31
待つことは難しい。じいっと待つ ということが、なかなかできない。 今すぐに自分で何とかしたいと思 うし、何とかしようと動いてしま う。心は立ち騒ぎ、焦るし、動く 方が楽なのだ。しかし、主は「主 を待ち望め」と言われる。主を待 て、と。元気溌剌の若者が、つま ずき倒れるような時でも、主を待 ち望む者は新しい力を得ることが できる、と。それも、あえぎ、あ えぎでなく、翼をかって大空に舞 い上がるようにだ。そして、走っ てもたゆまず、歩いても疲れない。 もし、今、あなたが疲れていたら、 主を待つことにより、このような 力が与えられる。待ち望むとは、 主に希望を置いて、主に信頼し、 期待し、御声に従う事だ。どんな 時も、主に信頼して行くことだ。 「わたしの思いは、あなたがたの 思いと異なり」とあるように、し ばしば神の思いは私達の思いと違 う。時に私達には、理解できない 事もあるし、「あなたがたの思い よりも高い」のように私達の思い を越えている事がある。信仰生活 で、次から次へと問題、悩みが臨 む事がある。喜びや楽しみなどと は、ほど遠い、苦しい、しんどい 状況だ。そんな中で、思いも、感 情も、状況も、何もかもが反対方 向を向いているような中で、尚か つ、主を信頼して行くことだ。そ れが主を待ち望むという事であり、 その時、自分の力ではない、主の 力を経験する。 ------------------- 苦しい時、辛い時すぐに解決策が 与えられなければ神様は沈黙して おられるように感じてしまうが、 そのような時にも支え守っていて 下さっている。信仰を持って待ち 望むことを学ぼう。主が新しい力 を下さる。
2007年11月29日(木) 「・・あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」ローマ8:11
「・・あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」ローマ8:11
自分で頑張ると、うまく行けば、 必ず自分を誇る。「神から発し」 ていないので、「神によって成り 、神に至る」事も「神に栄光」を 帰する事もない。そして、失敗す ると、自分を責める。又、人のせ いにする。この繰り返しだ。ある 人が良い立派なクリスチャンにな ろうと、一生懸命だった。出来る 限りの奉仕をし、集会に出て、伝 道もして、頑張った。主に愛され ている事を信じるからこそ、もっ といいクリスチャンになりたいと 思った。しかし、出来ないという 現実の壁にぶつかった。出来ない のだ。疲れてしんどくて、悩み、 しかし、頑張るが出来ずに挫折す る。疲れ果てて来る。自分の力で、 「死のからだ」で頑張っていて、 最初から不可能なのだ。だからこ そ、主が十字架にかかられ死なれ た。そしてよみがえられた。主は 約束の通り、御霊を送って下さっ た。今、御霊が私達の内に住んで おられる。自力では重い荷が、御 霊によるなら決して重荷とはなら ない。しんどい、喜びの無い、油 の切れたクリスチャン生活だろう か。あえぎあえぎの日々なら、神 に明け渡す事が秘訣だ。その時、 自分でなく、内に住むキリストが クリスチャン人生を生きて行かれ、 御心を成し遂げて行かれる。 ---------------------- 神様に導かれていなければ、喜び も恵みも長くは続かない。神様の 導きで今生かされており、今ここ に置かれていると感謝しながら小 さなことでもやって行きたい。
2007年11月28日(水) 「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24
「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24
誰かに対する恨み、つらみ、憎しみ があるだろうか。それが長い間、解 決されていないだろうか。そういう 感情が巣くってしまったのは、それ なりの事があったのだろう。しかし、 最も苦しいのは自分自身だ。相手で はない。その相手が頭をよぎるだけ で悶々状態だ。又、家庭や職場の対 人関係において、思い通りにならな い相手を変えようとして、不毛の戦 いをする。相手は決して変わらない。 自分が力尽きてしまう事になる。神 の御心は「自分を捨て」「自分に死 に」だ。自分サイドから、自分の思 いで相手を見るなら、恨みつらみが 当然になる。どう動いてもそうしか 見えず、そこから出られない。自我 にがんじがらめだ。ある人がどうし ても愛せず、嫌いで関わりたくない 相手に、試練が臨んだ。祈りを要請 されるが、どうしても祈れない。愛 したくない。悶々状態だが、どうに もならず、自分を捨てる決心をした。 神にそのままの自分を明け渡した。 すると、不思議だが、自分の思いか ら離れ相手の対場に立てた。相手の 立場に立って見る事ができた。その 状況で、そうせざるを得なかった心 持ちに思いが至った。自然に赦す事 ができた。御霊の働きだ。自分に死 ぬ時、相手が見えるようになる。自 我で一杯の間は何も見えず、信仰も 働かない。今、もしこの状態なら、 「心を変えて下さって0Kです」と自 分自身を主に持って行こう。実は好き になりたくない自我から、自由にされる。 ・・・・・・・・・ 人にはできないことが、神にはできる。 奇跡をされる。自分にはできませんと 申し上げよう。「本音は愛したくないが、 主が私を用いて愛されるなら了承します」 が、明け渡す事だ。主がみわざをされる。
2007年11月27日(火) 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」ヤコブ1:2
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」ヤコブ1:2
私達は、個人的年間計画を作る。 1年間の月々の予定を書き込む。 しかし、そこに「試練」の予定は 入っていない。試練は必ず臨むの に、頭にはまるで無いかのようだ。 祈る時はどうだろう。試練を祈り 求める必要はないが、だいたいに おいて「守り」「祝福」「助け」 に終始する。しかし、自らの成長 の事を考えると、肯定的なもの、 順境だけなら、人間は弱いので神 から離れてしまう。順境の時は、 人は神を求めない。人間には頑な な罪の性質があり、甘いものでは ない。「おのおの、自分かってな 道に向かって行」きがちだ。逆境 は苦しく、辛いが、人はそこでこ そ成長する。一番神に近かったの はいつだろう。試練の時ではなか ったか。私達は良きものを与えて 下さいと祈る。私達は、良いもの とは必ず順境を想像しているが、 神にとっては逆境が、その時の良 いものかも知れない。いずれにせ よ、その時々に、神から来たもの は順境であれ、逆境であれ良いも のだ。しばしば試練は良いものと は決して思えない。どちらであれ、 「感謝して受け取ることができる ようにして下さい」が祈りとされ たい。結果的に、私達を更に神に 近づけるものが、良いものなのだ から。ネガティブな事は悪との私 達の価値観が問題であり、改める 必要があるかも知れない。 ---------------------------- 病にあれば一歩一歩の歩みに神様 を頼り、人間関係で悩む時には口 から出す一言一言が祈り心だ。そ して御手に導かれて過ごせた事を 心から感謝する。振り返ると一番 神様の近くにいる時だ。
2007年11月26日(月) 「供え物をささげようとしているとき、もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら・・まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23
「供え物をささげようとしているとき、もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら・・まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23
ある人が、対人関係において大失 敗をした。友人を傷つけてしまっ たのだ。自らの自己中心の罪のゆ えの事だった。御霊に示され、故 意である事が否めなかった。周辺 の人々にも嫌な思いをさせ、すべ て自らが引き起こした事だった。 御霊は語りかけられ、その罪の恐 ろしさを示され、自らの罪を認め て、謝罪するよう言われた。自分 の愚かさ、失態を認め、謝る事は プライドが傷つく事であり、恥ず かしい、どうしても出来ない事で あった。自我は謝りたくないが、 御霊は迫られた。促され、逃れる 事ができず、傷つけた相手、嫌な 思いをさせた一人一人に謝る決心 をした。赦してもらえなくても、 仕方の無い事だった。思いきって 謝罪した時、当の相手は気持ち良 く赦してくれた。他の人々も同様 だった。赦される事の喜びと平安 に心が満ち満ちた。天にも上るよ うな何にも代えられない喜びであ った。もし、赦しを拒否されたら、 その人々との交わりも断たれ、そ の人々の交わりから出なくてはな らなかった。傷つけた自分自身も 傷を持ったままだったろう。神は 謝罪を大いに祝福され、その当人 とは無二の親友になってしまった。 あなたも、謝るべき相手が思い浮 かぶだろうか。御霊が示しておら れたら、実行しよう。大きな祝福 を経験する。 ------------------------- 罪が示され、正直に謝るその言葉 は素直に相手に響くのではないだ ろうか。罪のないイエス様が私達 の罪のために十字架にかかって下 さった。なおさら私達も和解を求 めて行きたい。
2007年11月25日(日) 「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを・・恵んでくださらないことがありましょう」ローマ8:32
「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを・・恵んでくださらないことがありましょう」ローマ8:32
夫のいない一人の婦人が事情で仕事が 出来なくなった。小さな子供も抱えて もうパニックだった。今まで、毎月定 収入があり、無収入というのは初めて の経験だった。恐れと不安、思い煩い はほとんど恐怖となった。数々の御言 葉の約束に関わらず、もう心が立ち騒 いでいて、どうにもならなかった。 しかし、憐れみ豊かな主は、上から横 から斜めから、あちこちから与えられ、 完全に必要は満たされた。驚くばかり であった。その後も、困窮の度に、必 ず主のみわざが現わされ、栄光を拝し た。主は手取り足取り、信仰を導き、 信仰に進ませて下さる方だ。毎回毎回、 主の奇跡を見て、段々と問題や困窮が 起きた時に「この事を主はどうして下 さるかが楽しみだ」と言うように変え られた。主は「ご自分ではしようとし ていることを知って」おられる。ご計 画がある。万事益とされる。主のされ る事に一つの無駄も間違いも無い。過 去を振り返る時、どんなに良くして下 さった事だろう。目の前の問題に押し つぶされそうな時、言おう。「主は どうして下さるかが楽しみだ」。 ・・・・・・・・・・・・・ 同じ時間を過ごすのに、真っ暗闇の 不安と恐れより、主に信頼して期待 して主に望みを置いて希望の中にお ればどんなに幸せだろう。そして主 はその信頼にに必ず応えて下さる。
2007年11月24日(土) 「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4:7
「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4:7
思い煩いに悩まされる時、どうすれ ばよいのか。何よりも神に向き合い、 祈ることだ。「あらゆる場合に・・ あなたの願い事を神に知って」頂く。 ある人に突如の難題が生じ、重荷で 胸がふさがれ、苦しくて何も手につ かなかった。一人になり、主の御前に 心の何もかもをぶちまけて祈った。する と重荷が取れて心がすっかり平安に なってしまった。不思議な事に、問題は そのままそこにあるのに、心が平安で 満ちた。そして、翌朝その難題は見事 解決を見たのだった。ある男性は、会 社が倒産し、妻子を抱え非常事態にな った。貯えもなく、恐れと不安で、心 は大きく揺れ動いた。次の礼拝で御言葉 与えられるよう切に祈った。そのメッセ ージは「すべてのことについて感謝せ よ」であった。この状況がどう感謝なの か、どう喜べるのか、全く解せなかった が、1週間真剣に祈り求めた結果で あり、御言葉に従おうと思った。「職が 無いことを感謝します」から始めた。主 の十字架、罪の赦し、信仰が与えら れている事、家族がいる事、身体が守 られている事・・一つ一つ具体的に感 謝して行った。すると心に不思議な変化 が起きた。恐れと不安でプレッシャーで 固くなっていた心が溶かされて行き、温 かい主を感じた。状況何も変わらないの に心が安堵感で一杯になった。その後、 職は与えられたが、何よりその間ずっと 心平安に守られた。 ・・・・・・・・・・ 普通、悩みの状況と平安が両立するはず が無いのに、深刻な悩みのまっただ中で、 大海のような平安を経験する。御言葉の 通りだ。心の本音の洗いざらいを主に告 げよう。思い煩いと平安を交換して下さ る。何と愛して下さっている事だろう。
2007年11月23日(金) 「イエスは彼に言われた。『起きて床を取り上げて歩きなさい』」ヨハネ5:8
「イエスは彼に言われた。『起きて床を取り上げて歩きなさい』」ヨハネ5:8
日常生活、気づくとブツブツ言って いる事が無いだろうか。特に人の事 が気になり、人の言葉、態度が気に なり「あの人がああ言った、この人 がこんな態度をした・・」腹を立てて いたり、傷ついていたり、猜疑心を 持ったり、許せなかったりする。そ れは、人の言動や態度に支配されて しまい、飲み込まれてしまい、人に よって生きてしまう事になる。人依 存であり、人に自分の人生が左右さ れてしまう事だ。そして、それは自 立していないのだから、何か問題が あると、必ず人のせいにする事にな る。妻が玄関掃除をして、バケツを 置いたままだった。夫が帰宅し、不 注意でひっくり返してしまった。 「誰だー!こんな所にバケツを置い たのは!」と怒鳴った。しかし、ど うであれ、ひっくり返したのは自分 だ。妻は不注意かも知れないが、ひ っくり返したのは自分である事を、 きちんと認める事が責任を取る事だ。 苦しい事が起こる時、環境のせいに せず、人のせいにせず、愛と配慮を もって、ご計画をもって、取り扱っ ておられる神を信じて行く時、変え られて行く。人依存という床を取り 上げて、自分の足で立って、人生を 歩んで行く。人のせいにせず、責任 転嫁せず、神に頼って、自分の人生 を生きて行く。真の自立とは神依存 の事だ。そこに生きる時、生き生き とした、生きる実感と喜びがある。 あなたは何依存だろう。 ----------------------- 人のせい状況のせいにし、いつまで も臥せっている者が弱いのではない。 本当に自分が弱いと知った時、私達 は神依存の生活へと変えられた。 そして真に自立した強い者と変えら れる事を知っているから感謝だ。
2007年11月22日(木) 「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2
「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2
求めるなら与えられ、捜す なら見つ出す。そして、祈 り続ける事を勧められてい る。しかし、時に祈っても 祈っても、幾ら祈っても、 目の前の苦しい状況が変わ らない事がある。この時に サタンの試みが来る。段々 気持ちが萎えて来る。祈り に倦み疲れて来る。「聞か れてないのでは?」との疑 いが来る。本当に御言葉の 言う通りなのか?信じてい て、大丈夫なのか?何も変 わらないではないか。愛さ れていないのでは?何かの 罪で赦されていないのでは ?祈りは無駄なのでは?と の声が聞こえて来る。その 声に聞いて行くと、どんど ん落ち込んで行く。なぜ、 サタンに聞いて引き込まれ て行ってしまうのか。それ は、神の言葉を信じないか らだ。目に見える状況の方 を信じてしまい、御言葉を 捨ててしまう。つまりは、 自分が決める。自分が状況 を見て、御言葉の濃度を決 める。状況が良いと、御言 葉を受け入れ、状況が悪い と、御言葉を薄めたり、捨 てたりする。御言葉の下に でなく、自分が御言葉に上 にいる。どんな中でも「愛 されている・ご計画がある ・益となる・最善をされる ・無駄は一つもない」と信 じる事が、御言葉の下に自 分を置き、神の言葉として 受け止める事だ。サタンは 退かざるを得ず、しんどい 状況の中にあっても、御霊 の平安を経験する。 -------------------- 辛い状況が続く時、約束の 御言葉にしっかりと立って いなければサタンの思うが ままにしおれてしまう。前 から来るものはすべて神様 からのものと御手の下に安 んじていよう。
2007年11月21日(水) 「ダビデは言った『私は主に対して罪を犯した』ナタンは言った『主もまたあなたの罪を見過ごしてくださった・・」Uサムエル12:13
「ダビデは言った『私は主に対して罪を犯した』ナタンは言った『主もまたあなたの罪を見過ごしてくださった・・」Uサムエル12:13
人生には問題がつきものだ。様々な 悩みやトラブルがやって来る。問題 が問題なのでなく、問題に対する態度 が問題だ。誰かのせいにしているだ ろうか。「自分に腹を立てさせた相 手が悪い」式だろうか。「相手がそ ういう言葉を発さなければ、自分は 怒らないのに」これ式なら、常に自 分は悪くなく、すべて相手が悪い。 しかし、神の御前に生きるとは、自 分の責任を取るという事だ。痛い事 だけれど、自分の責任を見据えて行 く時に、初めて自分の罪を知る。そ して自分の罪を認める時に、主の血 潮で赦される。完璧な赦しだ。その 赦しを受け取る時、大海のような平 安が来る。アダムはエバに責任転嫁 し、エバは蛇に転嫁した。そのアダ ムからの古い性質が私達の内にある。 自我は責任転嫁したい。しかし、そ うするなら、決して自分の罪が見え ない。だからいつまでたっても成長 がない。神に向き、自分に向く時、見 たくない罪が見える。痛くて辛い。だ が、自らが赦しの恵みを経験して初 めて人を赦す者とされる。ダビデは 人の見える所で身体を洗っていたバ テシバも悪いとは言わなかった。罪 に責任を取る事が悔い改める事だ。 ダビデは苦しみから解放され、どんな に心が楽になった事だろう。 ・・・・・・・・ 悔い改める時、まず心が楽になる。 罪を犯してしまうが、赦されて、赦さ れて、赦され続けて生きて行けるのは、 何という恵みだろう。何と嬉しく幸せ な事だろう。
2007年11月20日(火) 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」マタイ6:34
「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」マタイ6:34
誰しも思い煩いたくなど無いのに、 なぜ思い煩うのか。思い煩わずに 済めば、そうするが、そうできな い問題が目の前にあるから、思い 煩うわけだ。だいたい思い煩うの は、自分の能力を超えた難題があ るゆえだ。自分にどうも出来ない ので、ひたすら思い煩う事になる。 しかし、主は「思い煩うな」と明 言しておられる。わたしの所へ持 って来なさいと。あなたの思い煩 いをいっさいわたしに委ねなさい。 わたしがあなたの事を心配してい ると。あなたが自分の事を心配す るより前に、神があなたの事を心 配して下さっている。神に持って 行く事によって、神がいかにあな たを愛していて下さるかを、経験 によって知ることが出来る。私達 は、明日の事を思い煩うが、明日 の事は全くわからない。明日に備 えて準備はできるが、明日をどう にかする事は不可能だ。容量を超 えて考える事から思い煩いは起き る。だから、「あすのことは、あ すが心配する」と言っている。あ すは、あす自らの思いでやって来 る。人間がどうこう出来る事では ない。だから、明日のための心配 は無用なのだ。それを超えようと するので、思い煩いが生じる。そ れより、今日一日を精一杯しっか りと生きるようにというのが、神 の御心だ。明日の思い煩いで、今 日をつぶしていないか。明日は神 にお任せしていよう。 ------------------------ 明日の事を知ることは赦されてい ない。それは神様がすべて責任を 持っていて下さるという事だ。 まだ見ぬ事に心配を持って生きる より信仰を持って生きよう。
2007年11月19日(月) 「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」エペソ4:26
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」エペソ4:26
私達はどんな時に怒るだろう。イ ライラするだろう。自分のパタン があるはずだ。プライドが傷つけ られた時、時間を奪われた時、自 分の信念を否定された時、したい 事を妨害された時、色々あるだろ う。なぜ怒るのか。それは自分の 大切に、宝としているものに触れ られた時だ。自分が偶像としてい るものに触れられる時に、反応す る。つまり、どんな時に怒るかで、 自分の大切なものが、偶像が何か がわかる。あなたの場合はどうだ ろう。生活を振り返ってみよう。 又、「怒っても罪を犯すな」と言 われている。これは、怒りも認め ている事だ。自分の利害のためで ない、正しい怒りもあるからだ。 主も宮きよめの箇所で怒られた。 自分の怒りはどんなものか、考え てみよう。なぜ、あの時、怒った のか。その理由は?自分の内の何 にひっかかったのか。考える中で、 自分の姿が見えて来る。自分の問 題点や弱い所が見えて来る。それ を認めよう。日が暮れるまで憤っ ていてはいけない。自分の霊的状 態によくない。サタンがそこを足 場にどんどんつけ込んで来る。怒 りから憎しみへと膨らませる。対 人関係も悪化させてしまう。すぐ に解決した方が良い。怒りを認め、 主の御前に祈ることだ。怒り続け る事もできるし、主のもとへ持っ て行く事もできる。 --------------------- なぜ怒っているのか、その後どう いう態度をとるのか。自分のパタ ーンをよく吟味してみよう。同じ ところでつまずいてサタンの餌食 になっていないだろうか。怒った 時は、まず黙して祈ろう。
2007年11月18日(日) 「すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった」ルカ24:17
「すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった」ルカ24:17
エマオ途上の二人の弟子達。そこに主イエ スが合流され、かたわらを歩まれる。主の 話りかけに彼らは「暗い顔つき」になって、 とあるが、私達もしばしば「暗い顔」にな る。様々な思い煩い、失望、不安、それは 仕事、対人関係の悩み、家族の事、将来の 事であり、今も悩みで暗い顔だろうか。そ こに主が来て御言葉を解き明かして下さっ た。その言葉に耳を傾けて行った時に、不 思議な事が起こり、心に火がともった。火 は赤々と燃えて輝き心に感動が来た。「暗 い顔」から喜びへと転じた。主の御言葉が ポイントだ。御言葉によって引き上げられ て行く。主が、あなたに御言葉を語りかけ て下さる。それは御霊によって語られると いう事だ。御言葉に霊といのちがあり、聞 く者は生きる。耳を傾ける事は大切だ。あ なたも今落胆しているか。失望は心を沈ま せる。ある人が心が重く沈んだ。自分では 気づかなかったが、その落胆が、人から言 われた言葉によるものだと、御霊により示 された。プライドゆえに認めたくなかった が、傷ついていない振りをせず、痛みを認 め、否定的な反応を悔い改めた。相手を赦 す事が出来て平安が戻った。心が暗く沈む 時は、主の御声に耳を傾けよう。今、主は かたわらにおられるのだから。 ・・・・・・・・・・ ダウンした弟子を引き上げるために、主が 来られた。重く沈んだ心に感動がよみがえ った。主が近づいて下さっている。御心を 示し、ご計画がある事に気づかせられる。 そこに主を見る時すでに祝福に入っている。
2007年11月17日(土) 「おとうさん。私は天に対して、罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」ルカ15:18
「おとうさん。私は天に対して、罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」ルカ15:18
アダムとエバが罪を犯した時、アダムは エバに、エバは蛇に責任転嫁した。神は 「あなたは・・食べたのか」と悔い改め の機会を下さった。しかし、アダムはエ バのせいにし、更にはエバを与えた神が 悪いとした。エバは蛇が惑わしたと、蛇 のせいにした。これは、自分が怒ったの は、怒らせた相手が悪いというようなも のだ。悔い改めず、罪に罪を重ねて行く。 罪の性質だ。どこかに責任転嫁していれ ば、自分を見なくて済み、自分が責任を 取らなくて済む。今、自分がこうなった のは、親が悪い、不幸な生い立ちのせい、 環境のせい、社会が悪い。弁解や言い訳 をするなら幾らでも出て来る。「それは 罪です」と指摘された時に「ですが、あ あで〜こうで〜こうこう事情があって」 と言い訳するなら、必ず同じ失敗を繰り 返す。なぜなら本心では罪だと思ってい ない。悪いとは思っていないという事だ。 私達の生き方は私達の選択の結果だ。自 分の責任だ。親でも他人でも環境でもな い。それを認め無い限り、いつまでたっ ても、自分の不幸は人や環境のせいにし、 恨んで生きる事になる。自分の選択に、 自分で責任を持つ事が悔い改める事だ。 その時、赦しがまさに自分のものとなり、 平安が臨み、解放されて生きて行ける。 ・・・・・・・・・・・ 罪を認めたくなくて、言い訳を探し、ど こまでも自分を正当化したいのが自分の 自我だ。自我に気づいて悔い改める時、 心が楽になり、何にも替えられない平安 を経験する。
2007年11月16日(金) 「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」T列王19:3
「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」T列王19:3
バアルとの壮絶な戦いの後、エリ ヤを憎むイゼベルが、明日までに エリヤを殺すと宣言した。心身消 耗し力尽きていたエリヤは、恐怖 に怯えた。あの戦いは何だったの か、無駄だったではないか、失望 と挫折感に襲われた。しかし、そ れは事実ではない。自分の屈曲し た思いで事態を見る時、見誤って しまう。「私だけが残った」しか し、神は七千人も残しておられた。 歪曲した思い込みをしてしまう。 あれほど厳然とバアルに立ち向か った信仰の人エリヤが、恐れ怯え て逃げ出すのだ。「自分の命を救 うため」自分を守ろうとする途端、 恐怖と不安、思い煩いに襲われる。 自分で自分を救わねばならず、そ れは自分の能力を超えているので パニックだ。私達も平安失せ、思 い煩いと恐れに捕らわれるのは、 自分で自分を守ろうとしている時 だ。ひたすら問題から逃げたいが、 逃げても何の解決もない。逃げる と、そんな自分にますます落ち込 む。結局、神はエリヤに休息を与 え回復させ、御前に立たせられた。 そして、新しい使命を与えられた。 今、失望落胆しているか。恐れが あるか。自分で自分を守ろうとせ ず、又、逃げずに、神の御前に立 とう。余す所なく気持ちをぶつけ て良いのだ。神は御声をかけ、同 様に私達も導いて下さる。回復は 神との交わりから来る。 ------------------- 自分で自分を守もり、平安がなく なて、さらに守りに入る。神様か ら目を離すなら、いつもこうだ。 不安の時は祈ろう。そして神様が 必ず益として導いて下さること を信じ、じっとっ立っていよう。
2007年11月15日(木) 「見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを除くことができます」マタイ7:4
「見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを除くことができます」マタイ7:4
私達は自分の欠点はなかなか見えな いが、人の短所はすぐ目につく。よ く見える。相手を責めてさばく。し かし、裁くのは相手の欠点というよ りも、相手が自分の思い通りになら ないから、裁いていないだろうか。 自分の思いで相手を見ていないか。 自分の思いがあり、それが梁になる。 「自分の思い」というメガネをかけ て見るので歪んで見える。まっすぐ にありのままに見る事が出来ない。 自分の中の偏見が邪魔をする。偏見 が無いか。自分の目が歪んでいない か。あるいは“自分の見方が間違っ ているのでは”に立ってみよう。 “自分は正しい”に立つと、それが 梁となり全く見えなくなる。相手の 目からちりを除く作業は御霊に導か れない限り不可能だ。目はデリケイ トで敏感、ちょっと触れられてもす ぐ閉じる。心も土足で入るや、途端 に固く閉じてしまう。自己義、独善、 偏見の高慢の梁を除いて、自分も間 違う者であり、過ちに陥ってしまう 者である事を踏まえ、御霊に導かれ る時、はっきり見えて、相手のちり を除くために神が用いられる。梁が ある自分の目には、相手が決して見 えていない事をわきまえよう。自分 の梁に気づく時、見えて来る。 ・・・・・・・・・ さばくというのは、自分が上に立っ て相手を見下している事になる。 恐るべき高慢という自分の丸太に気 づく時、目から丸太を取り除かれ、 間に合う者として用いて下さる。
2007年11月14日(水) 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17
ある人が祈りの要請を受けた。しかし、 それはどうしても受け入れられない相手 の事であった。普段からよく思っていな かった。様々問題が起きているが、それ は自業自得ではないのか、自らが引き起 こしている問題ではないのか、責めて裁 く心があり、又、裁く自分が嫌で、辛く、 関わりたくなかった。祈りの要請が来た が、心がそって行かず祈れなかった。ど うしても祈れない。すると、心にとがめ も来るし、そんな自分に悶々とした。自 分は祈れない、祈りたくない。しかし祈 りの要請が来ていて、大変な状況にある。 それで、とにかく、この自分をこのまま 神に委ねる決心をした。神の御前に出て、 自分の心を正直に申し上げた「私には祈 れません。助けて下さい」すると不思議 な事が起きた。自分がその人の立場だっ たらどうだろう、との思いが臨んだ。絶 対に自分には耐えられないと思った。そ う思った時、涙が溢れ出て、知らぬ間に その人のために心注ぎ出し真剣に祈って いたのだ。自分では無かった。まさに御 霊だった。すぐ後、その難問題が見事解 決との連絡が入った。皆の祈りと共に、 彼女の祈りは用いられた。主はいけにえ を喜ばれない。主が喜ばれるのは砕かれ たたましい、できませんと自らの無力を 認める態度だ。 ・・・・・・・・ 主は何も求めておられない。主が求めて おられるのは、「自分にはできません。 助けて下さい」これだけだ。いつも奇跡 を見たのは、自らの無力を心底認めた 時だった。
2007年11月13日(火) 「それからイエスは・・聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた」ルカ24:27
「それからイエスは・・聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた」ルカ24:27
二人の弟子達は、主のあえない、 無残な十字架の最期を見て、失 望落胆し、エルサレムを後にし、 とぼとぼと郷里へ引き揚げる。 そのエマオ途上だ。主がローマ 帝国をくつがえし、王国を打ち 立てるとの思いが余りにも強く、 その分、失望も非常に大きかっ た。期待が大きければ、落胆も 大きいものだ。何もかも打ち砕 かれ、絶望し、郷里へ向かう弟 子達・・、そんな彼らを主は見捨 てられなかった。よみがえりが 信じられない弟子達。まさにそ の信仰をよみがえらせるために、 主ご自身が彼らのもとへ向かわ れた。失望落胆で、かたわらを 歩く主に気づかない弟子達に、 主はどこまでも他でもない御言 葉を語られる。御言葉を解き明 かし続けられる。「みことばの 戸が開くと、光が差し込み、わ きまえのない者に悟りを与え」 る。原則として、御言葉を通し て主と出会う。御霊が働かれ、 御言葉により目が開かれ、主が わかる。御言葉が大切だ。御言 葉を離れて、幻や、感覚や、神 秘体験を求めると、間違った方 向へ行ってしまう。今、失意の 中にいて、主を見失っているだ ろうか。主は決して見捨てず、 あなたのかたわらを歩いておら れる。御言葉を解き明かし、ご 自身を現される。今、御言葉に 「心して」耳を傾けよう。御霊 が働いて、新たに主がわかるよ うにされる。 -------------------- 失意の時、元気のない時人に向 かうのでなく、まず御言葉に向 かおう。主が親しく語りかけ慰 め、励まして下さる。今朝も御 言葉にふれて世に出て行こう。
2007年11月12日(月) 「・・聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32
「・・聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32
二人の目がさえぎられていて、か たわらを歩かれるのが主だとわか らなかった。目がさえぎられてい るのは、「信じない、心の鈍い人 たち」と、主は不信仰によると言 われた。復活の事を女達から聞い た時も、使徒達はたわごとと、取 り合わなかった。全く信じていな かったのだ。心の鈍い=物わかり の悪いと言われている。心の底に 頑なな不信仰が横たわっている。 それがさえぎってしまう。心の底 の本音では、何を求めているのだ ろう。主を求めていると思ってい るので、思っているからこそ欺か れてしまうが、深い所での「本音」 はどうなのだろう。そこが主に焦 点が合っていなければ「心の鈍い 人たち」という事だ。御霊に照ら して頂いて自分を知り、主に向か おう。主ご自身が御言葉を解き明 かして下さる。礼拝メッセージに おいて、デボーションにおいて、 主ご自身が語っておられる。御言 葉を心に受け取る時に、自分自身 の姿が照らし出される。自分の姿 がわかる。そして主がわかる。心 が満たされ喜びが来る。空虚な冷 ややかな醒めた心に、灯がともる。 その灯は赤々と燃えて輝いて来る。 人間的な熱心や活発さとは異なる、 内に御霊からの喜びと、湧き上が る気力が臨む。 ----------------------- 信じているつもりでも本音のとこ ろは自分の思いでこり固まってい ないだろうか。みことばを信頼し 生きているか、神様が自分の中に 住んで下さっている事を自分のも のとして生きているだろうか。
2007年11月11日(日) 「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」Tヨハネ4:11
「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」Tヨハネ4:11
聖書に出て来る「愛」というのは、意 志的愛のことだ。感情ではなく、意志 による愛だ。「好き」と「愛する」は 違う。「好き」は感情で「愛する」は 意志だ。人は様々で、性格やタイプが それぞれある。お喋り、無口、外向的、 内向的、にぎやか、静か・・皆違う。自 分と相性が合わない人がいても不思議 はない。嫌いなタイプも出て来るだろ う。その時に、嫌いな相手がいる事で、 悩んで、落ち込んでしまっているだろ うか。御言葉は「好きになれ」とは一 言も言っていない。「愛せよ」だ。「 好き」は感情で「愛する」は意志であ り、別の事だ。感情的に嫌いな人がい たとしても、その人が助けを必要とす る時に応じるなら、その人を「愛した」 ことになる。その場合、感情は横にお いて構わない。だから感情的に好きで 無くても、意志を働かせて「愛する」 ことができる。御心に従える。その際、 感情が全然ついて来なくても構わない。 意志で行なえばよい。自分にはできな いと認めているのだから偽善ではない。 私たちは感情をどうにかする事はでき ない。しかし、意志はできる。そう造 られている。意志で愛の行ないをして 行くなら、後で感情がついて来る。つ まり段々相手を好きになる。だが、好 きになれないとしても構わない。意志 で、手を差し伸べるなら、「愛した」 ことになる。従った事になり、安んじ ておれる。 ・・・・・・・・・・ 好きになる事を、愛する事だと勘違い し悶々状態に陥る。感情はコントロー ルできないが、意志はできる。意志を 働かせて従おう。感情はついて来る。
2007年11月10日(土) 「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」Uテモテ1:6
「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」Uテモテ1:6
おくびょうになってしまう、若いテモ テをパウロが励ましている。そして、 励ましとして、与えられた賜物を、再 び燃え立たせるようにと指導している。 一人一人に与えられている賜物を発見 して、使って行く事は、信仰人生を生 き生きと喜び持って生きる事のできる 秘訣だ。賜物を使う時、喜びが与えら れ心熱くされる。自らの賜物を見つけ 出し確認する事は重大だ。自分に出来 る事と出来ない事を、はっきりさせる と良い。自分に出来る事と、出来たら 良いのにと憧れる事は別だ。出来ない 事は、出来ないと謙虚に認める事だ。 他にその賜物を与えられている人々 がいる。賜物なら、使って行く時に、 ますます技量が増し加えられて行く。 自分も苦痛無く、喜んで、楽しんで その事を成し遂げて行ける。その賜物 は自己満足のためでなく、人々の益の ためなので、あなたがそれを使うと、 周囲を恵み、祝福し、建て上げて行く。 「私はあなたに注意したいのです」と パウロがテモテに言っているように、 神の賜物を使うのは、私達のなすべき 事であり、私達の責任だ。まだ賜物が 発見できていないなら、まず祈ろう。 祈りに答えて、必ず示して下さる。 ・・・・・・・・・ いっさい自分によらず、御霊から与 えられたもので、それをもって神と 人に仕えて行けるとは嬉しい事だ。 御霊の賜物なので、賜物を使う時に 御霊の喜びが来る。
2007年11月09日(金) 「あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり・・」創世記3:5
「あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり・・」創世記3:5
サタンの誘惑の根本だ。神を捨て て、自分が神になれる。つまり、 自分の思い通りに生きる事ができ る。誰からも干渉されず、とやか く言われず、自分のしたい事をし、 思いを通せるのだ。自分が神とな り、王となり、自分の判断、自分 の力、自分の知恵で生きて行く。 誰に従うこともいらないのだ。何 と魅惑的で、心地良い楽しい事だ ろう。私達の古い性質がまさにこ れだ。アダムが選んだ結果だ。 「自分の考えこそは絶対だ」「私 の意見が一番素晴らしい」「誰に も邪魔させない。干渉させない。 自分の思い通りにやる」古い性質 へのサタンの誘惑だ。自分の思い 通りに生きるようにと。肉は誰に も従いたくない。ムクムクと自我 は頭をもたげてくる。それゆえ、 神に従う道は「自分を捨て、自分 の十字架を負い、そしてわたしに ついて来なさい」だ。自分を捨て なければ、従えない。神に従うと は、自分の思いを下ろして、神の 御心を行なうことだ。神は私達を 愛しておられるので、様々な訓練 の中で、取り扱われる。頑なさを 砕かれる。思い通りにならない事 態を、目の前に置かれる。信仰人 生、自分の思い通りにはならない。 それこそが恵みであり、砕かれ、 変えられて行く。今、思い通りに ならない状況なら、神が立ちはだ かっておられ、状況でなく自分が 変えられる時だ。 -------------------------- 自分の思いを通し、なに不自由な く暮らすの事が私たちの望む生活 だろうか。そうでなく、少しずつ でも砕かれ変えられて行きたい。 意に添わぬ時も、主と共に歩んで いると実感できるから平安だ。
2007年11月08日(木) 「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」ピリピ2:14
「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」ピリピ2:14
祈って、平安与えられて、自分の 思いでなく、一時の思いつきでも なく、神から来た志だと確信でき たら「行いなさい」、実行する事 が大切だ。つぶやかずに、疑わず に実行する事だ。その導きは、あ る時は自分にはとても出来そうも ないと思える事柄だ。新しい仕事 であったり、新しいプロジェクト であったり、犠牲を伴う働きであ ったり、又、人との和解、仲直り であったりする。詫びたり、赦し たりする必要がある。逆に言えば、 神からの御心を実行しようとする 時、つぶやきや疑いが必ず来ると いう事だ。ちゅうちょするのだ。 二の足を踏んでしまう。「けれど、 本当に導き?」「自分の思いでは ?」「これをして結果はどうなる ?」「やっぱり自分には出来ない」 疑いや不安が来て、迷いためらう。 しかし、神はそれをもご存じで 「つぶやかず、疑わずに」実行し なさいと言っておられる。なぜな ら、事を行わせてくださるのは、 神なのだから。決心して、一歩踏 み出すなら、神の力が働くことを 見る。あなたも今、実行するよう、 神から示されていることがあるだ ろうか。何かの働きか、人との和 解か、悔い改めか、その事を、「つ ぶやかず、疑わずに」実行しよう。 ---------------------- 御心に従おうとする時、必ずつぶや きがくる事、実を結ばすまいとする 力が働く事を覚えるなら、ゆるがな い神様にじっと頼って行ける。疑わ ず、つぶやかず行なおう。
2007年11月07日(水) 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志しを立てさせ、事を行わせてくださるのです」ピリピ2:13
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志しを立てさせ、事を行わせてくださるのです」ピリピ2:13
神は志を与え、神がその事を成し遂げ て下さる。私達には様々な思いが浮か ぶ。しかし、すべてが神からのもので なく、サタンからの思い、自分の肉の 思いもある。神からの志を識別する必 要がある。思いの中に確かに神からの 志があるからだ。どう判別すれば良い のか。判別の基準はある。まずその志 が、神の言葉にそっているか。神の言 葉に反して導かれる事は無い。神のご 性質や聖書全体のメッセージに合致し ているか。それに反するなら、まず神 からの志ではない。例えば、ここでは 都合が良いから少しぐらいの不正は、 などは神からではない。目的のために は手段を選ばないものは神ではない。 動機も方法も正しい事をされる。偽り が入るなら神からではない。心に平安 があるか。不安があるなら、続けて祈 った方が良い。御心の志なら神がその 不安を解決される。何かをする事、人 に謝罪する事、又、赦す事、様々な志 を与えて御心に導かれる。大きな事や 重要な事なら、導き手や信頼できる人 にも共に祈ってもらうと良い。御心な ら必ず一致がある。神からの志は決し て消える事なく堅く立つ。今、志があ るなら祈ろう。主と一つである時「ね ばならない」でなく「せずにおれない 」主のお心が自分の自発的な思いとな って湧き上がる。 ・・・・・・・・・ 神から発した事は神によって成り、神 に至る。神の栄光が現れる。肉から発 した事は神によって成る事も神に至る 事もない。神の御心を行なう時、神と 一つである事が何よりも嬉しい。
2007年11月06日(火) 「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6
「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6
男だけで五千人、女子供を入れると それ以上の大勢の人々を前にして、 主はピリポを試された。空腹の人々 に、食べる物がない、どうしようか と。ピリポはソロバンをはじいた。 答えは「不足・だめ」だった。アン デレも、あるいは、主は何かして下 さると思ったから、何か持っている 人を探した。しかし、こんなに大勢 に小さな弁当では、焼け石に水だ。 だめだと思う。大勢の群衆、食べ物 が無い、手持ちも無い、このような 状況で、主はすでに「しようとして いる事」があられた。これは何と心 強い事だろう。あなたが今、このよ うな状況なら、主はすでに方法を持 っておられる。しようとする事があ られる。私たちに信仰を求めておら れる。「信仰がなくては、神に喜ば れることはできません」主が喜ばれ るのは信仰だ。信仰を献げよう。そ して、「小さな」ものを用いて下さ る。五つのパンと「小さい」魚を二 匹だ。今、新しい歩みに招かれてい るか。新しい環境、仕事、奉仕・・自 分は小さな者だと思うなら、主はそ の「小さな」者を用いられる。「イ エスはパンを取り、小さい魚も同じ ようにして」主の手に握られる時、 大きな祝福として、主が用いられる。 人々は満腹する。一番肝心な事は、 その「小さな」ものが主の手にある かどうかだ。 ------------------------ 小さなものを持って行くには気がひ けたり、様々な思いに邪魔されいつ の間にか、あるかなしかの献げる思 いはかき消されてしまう。その思い さえも神様が与えて下さったものだ。 幼子のように素直に主に持って行こ う。主が豊かに用いて下さる。
2007年11月05日(月) 「彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み・・私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです」詩篇109:3
「彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み・・私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです」詩篇109:3
ダビデは真実を向けた相手になじ られ、愛するに関わらず憎しみで 攻撃されるという辛い苦しい経験 をした。サウル王やアブシャロム による迫害ではないかと言われて いる。非常なる苦悩であったろう。 愛や誠意、真心は必ず通じると思 いたいが、そうでない場合がある という事だ。その場合はどうすれ ば良いかを、ダビデを通して学ぶ 事ができる。誠意と愛をもって接 して来た人々が、敵対し、攻撃し て来る。邪悪な口と、欺きの口と、 偽りの舌をもって、憎しみの言葉 で取り囲み、罵り、なじって来る。 苦しい状況だ。まさに、人間の神 に対する態度そのものだ。しかし、 神は、神を捨て、神に敵対する者 を更に追いかけ、御子まで殺して 下さった。その御子を私達はどう 扱ったか。神の愛すら通じないの であれば、罪人である人間同士の 愛が通じなくとも不思議はない。 主は十字架上で、人々の罵りに対 してどうされたか。人々の赦しを 御父に祈られた。ダビデも同じだ。 「私は祈るばかりです」。相手に 復讐するのでなく、神に心の内の すべてを打ち明け、神に叫び、神 に知って頂くことができる。神に 心の内を叫び祈ったダビデは、こ の後、賛美と感謝へと変えられて 行く。今、辛い中に、苦しみの中 にいるなら、答えは「私は祈るば かりです」 ------------------------- 私達は感情に翻弄されるばかりだ。 繰り返えす愚かさから守られるた めには、ただ神様に頼るしかない。 心整られえ、御心に添って行るよ うに、常に祈り心でいよう。
2007年11月04日(日) 「ましてや神は、夜昼神を呼び求めている選民のためさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」rカ18:7
「ましてや神は、夜昼神を呼び求めている選民のためさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」rカ18:7
この箇所の人は裁判官であり、神を恐 れず人を人とも思わない人物だ。裁判官 だという事は法律にそって裁くという事 だ。人格的にはこういう人だが、やも めが余りにひっきりなしにやって来て、 うるさいから裁判をする事にした。こう いう人でも、うるさいからの理由で裁 判をするのであれば、ましてや完全な 愛と完全な義をお持ちの神が、正し い裁きをつけずに、放っておかれるわ けがないという事だ。つまりこんな人格 の裁判官でもそうするのだから「まして や神は」という事を言っている。とんで もない人物を出して来て、神がどんな お方であるかを対比させている。完璧 な愛と配慮を施して下さり、常に私達 の最善を考えて下さっている神なのだ から、失望はあり得ないと。祈りの執 拗さでなく、祈る相手がどんなお方か が問題で重要だ。神はすみやかに彼 らのために正しいさばきをして下さる。 「パン三つ貸してくれ」と執拗に頼み続 けて、パンを得た人も、友達だからでな くしつこさゆえに勝ち取った。ここでも、 「ましてや父である神は」子だから良い 物を下さると言っている。御子を賜うほ どに愛し最善をして下さる神だ。あなたの 「その祈り」、いつまでも「その事を」放 っておかれるだろうかと。何と励ましだ ろう。切なる祈りに目を留めていて下さる。 ・・・・・・・・・・ この裁判官はうるさくて仕方がないから 片を付けた。神は違う。うるさいからで なく、極みまで愛して下さっているから 答えて下さる。長い間の「その祈り」も 必ず義と愛ゆえに片を付けて下さる。 失望する事なく信頼して祈り続けよう。
2007年11月03日(土) 「自分にも言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい」ルカ17:10
「自分にも言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい」ルカ17:10
ある人が、主の愛に応えて、主がどん なに素晴らしいかを、職場で証しした いと願った。心に願いはあるのに、ど うしても出来ない。語る勇気が無い。 話す事を恐れる自分がいる。又、どう 語っていいかがわからない。毎日、そ うしたいと願いつつ出来ないまま日が 過ぎた。思いはあるのに、勇気が無く、 いつしか人を避けてしまっている自分 に気づいた。主がこんなに自分を愛し て下さっているのに、申し訳ない。心 悶々が膨らみ、主の御前に出た。ある がままを主に申し上げ「ごめんなさい、 出来ません、助けて下さい」と心のま まを祈った。そして祈り続けていた数 日後、突然、職場の主任が「○○さ んはクリスチャン?」と話しかけて来 た。びっくりし、聖書、教会の事、自 分の信仰の事等色々話せて、そばにい た同僚も加わって来て、話が盛り上 がり、何と証しが出来たのだ。翌日 にはトラクトも渡せた。祈りに答えられ た事、自分でなく、神がされた事がわ かり、感謝が溢れた。弱さの中に働か れる神に触れ、喜びで一杯になり、御 名を崇めた。弱くなくて、強ければ、 自分の力で出来たなら、必ず自分を 誇ったに違いない。しかし、心から「役 に立たないしもべです」と認める事が できて、喜んで神にのみ栄光を帰し、 神の御名をたたえる事ができた。主に 頼る時に、自分ではなく主に栄光を帰 して行く。 ・・・・・・・・・・・・・ 神の力は弱さの内に、完全に現れる。 いつも「できません」を喜んで下さり、 そこに御力を現して下さる。何と肩の 力の抜ける恵みのまっただ中だろう。 あるがままを認めて行けば良いとは。
2007年11月02日(金) 「キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは・・死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです」ローマ7:4
「キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは・・死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです」ローマ7:4
親切な男性は、主キリストだ。主は ただ要求を突き付け、責めるばかり の以前の夫のようではなく、正しい 事を教え、導き、そう出来るよう自 ら率先して助けて下さる。いつも愛 情と親切、寛容、忍耐を持っての対 応なので、妻は自分から自発的に、 新しい夫の愛に応えたいと思う。強 いられてではなく、自由意志で夫に 尽くしたいと願う。失敗しても、赦 しがあり、慰めと励ましがあり、妻 はいつも喜びと安らぎに包まれる。 私達は、以前の夫との結婚関係が契 約解除になり、新しい夫、主キリス トと結ばれている。しかし、その夫 婦関係を、信仰生活を楽しんでいる だろうか。喜んで、自由意志で、自 発的に、新しい夫に仕えているだろ うか。いつも安らぎに包まれている か。新しい夫と婚姻関係を結んでい るに関わらず、自ら古い夫に縛られ ているのではないか。そちらに目が 行き、何とか古い夫を喜ばせようと、 又、頑張ってしまう。懸命に努力し、 力の限りを尽くすが、受け入れられ る事はなく、傷つき、自分を責め、 罪悪感に落ち込む。古い夫と関わる 必要はない。すでに新しい夫と一つ とされている。新しい夫と喜び楽し みつつ、豊かな実を結ぶ者とされて いる。 ------------------------ 自由のないところに愛や安らぎはな い。古い夫のもとから主のものとさ れたことに感謝し義務や罪責感から でなく、新しいいのちによって喜ん で生きる日々、これが素晴らしい証 しとなり実を結ぶ一歩となる。
2007年11月01日(木) 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」ガラテヤ2:19
「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」ガラテヤ2:19
ある女性の夫は、完璧主義者で、細 かく几帳面だった。日々、家の隅々 まで点検、ほこりやゴミの指摘、掃 除の仕方に文句を言う。料理など、 不満だらけだ。味付けから、料理方 法、その欠点を一つ一つ指摘する。 彼女のする何もかもが夫の気に入ら ない。やがて、彼女は夫の顔色を見 ながら、神経質になり、常にビクビ クし生活に喜びが全く無くなった。 そんな時、近所の男性が荷物を持っ てくれた。彼は大変親切で、気遣い をしてくれ、いつも助けてくれた。 彼といると心は喜びと安らぎで満ち た。この人が夫だったら良いのに。 今の夫と離婚したいが無理だ。どう したらいいのか。夫が死ねばよい。 死ねば契約解除になる。しかし死に そうになどない。これがローマ7章 で言っている事だ。夫が律法で、妻 が私達だ。いつも要求されて、責め られて、しかし実行できず苦しくて たまらない。律法が死ぬ事などあり 得ない。律法はずっと存続する。唯 一の方法は、律法が死ぬのではなく、 妻の方が死ぬ事だ。妻が死ぬと夫か ら解放される。死により、夫婦の契 約解除になる。これがキリストのし て下さった事だ、私達はキリストと 共に十字架につけられて死んだ。律 法に対して死んだ。これが神が備え て下さった、解放への解決の道だ。 ---------------------------- 律法から解放された立場だという事 を感情ではなく、事実としてとらえ よう。やりたくない事を無理やりや らされているのではない。歩みは遅 くても主の助けと共に喜びながら進 む生活へと変えられたのだ。