2007年12月31日(月)

「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」T列王17:16

ケリテ川が枯れた時、エリヤは、
主からシドンのツァレファテへ行
くように告げられた。そこで、や
もめ女に命じて養うと。主の言葉
に従い、その町へ行くと、やもめ
女に出会った。そこで、彼女に水
とパンを求めた。すると悲惨な状
況であった。
彼女は大金持ちなどではなく、最
後の一握りの粉でパンを作り、母
子で最後の食事をして死のうとし
ているという、極貧のやもめであ
った。エリヤは何と思っただろう。
目の前の人物は、人を養う事など
不可能な状態だ。しかし助けを求
めなければならない。何という状
況だろう。人間的に考えるなら、
その最後のパンを自分にくれとは、
とても言えたものでない。しかし、
エリヤは目に見えるところでなく、
情でもなく自分の思いでもなく御
言葉に従った。まず私に小さなパ
ンを作り、その後にあなた方のた
めに作るようにと。そうするなら、
飢饉が終わるまで粉は尽きず油は
無くならないと。人の思いや情は、
神のみわざを妨げる。エリヤは御
言葉に立ち、彼女はその言葉に従
った。すると、やもめ女と子供は
飢饉の間中、溢れるばかり豊かに
養われる事になった。神を第一に
する時みわざを見る。自分の思い
や情、見えるところが反対方向を
向いていても、神の言葉を選択し
従おう。その時、神が責任を取っ
て下さる。
・・・・・・・・・・・
目に見えるところと、自分の思い
と自分の感覚、感情が、御言葉と
相容れない事をしばしば経験する。
そんな時、御言葉を一心に見つめ、
御言葉を握り締めて、御言葉に従
おう。すると奇跡を見る。


2007年12月30日(日)

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」創世記3:12

私達はよく責任転嫁をする。人の
せいにしていれば、自分を見なく
て済むからだ。自分が怒るのは、
相手が怒らせるような言動をする
からで、そうする相手が悪い。相
手がそう言わなければ、怒らない
のにと。そう思っている。自分は
正しくて相手が悪い。相手を憎む
のは、相手がそういう態度を取る
からであってと、自分を正当化し
てしまう。状況が悪い、あの人、
この人のせい、人のせいにしたい
誘惑が来ないだろうか。ある人が
同僚とぎくしゃくした。悶々状態
の中、心は辛く重苦しい。祈りを
もって主の御前に出た。心を打ち
明ける中で、気づかされた。相手
も確かに悪いかも知れない。しか
し、自分の内にある相手への怒り
や憎しみや裁く心、これは自分の
問題であり、自分に責任があると。
主の御前に、逃げず、言い訳せず、
自分の問題である事を認め、悔い
改めた。その時、心が変えられた。
平安が来て相手との和解に導かれ
た。ある人はずっと父親を憎んで
いた。確かに父親にも相当の問題
があった。しかし、そうであるに
せよ、憎しみは自らの罪と認め、
悔い改めた。その時、心が溶かさ
れて行った。人のせいにする事は、
人に依存して生きている事だ。
「自分の足でまっすぐに立ちなさ
い」本当の自分の姿を認める事が、
責任を取り自分の足で立つことだ。
--------------------------
逃げないで自分で責任を取り、自
分の足で立つ人生を与えて下さっ
ている。ここにこそ、しんどくて
も痛くても、主と共に生き生きと
生きる実感が伴う。生きる喜びを
味わって行く。


2007年12月29日(土)

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」創世記3:12

私達はよく責任転嫁をする。人の
せいにしていれば、自分を見なく
て済むからだ。自分が怒るのは、
相手が怒らせるような言動をする
からで、そうする相手が悪い。相
手がそう言わなければ、怒らない
のにと。そう思っている。自分は
正しくて相手が悪い。相手を憎む
のは、相手がそういう態度を取る
からであってと、自分を正当化し
てしまう。状況が悪い、あの人、
この人のせい、人のせいにしたい
誘惑が来ないだろうか。ある人が
同僚とぎくしゃくした。悶々状態
の中、心は辛く重苦しい。祈りを
もって主の御前に出た。心を打ち
明ける中で、気づかされた。相手
も確かに悪いかも知れない。しか
し、自分の内にある相手への怒り
や憎しみや裁く心、これは自分の
問題であり、自分に責任があると。
主の御前に、逃げず、言い訳せず、
自分の問題である事を認め、悔い
改めた。その時、心が変えられた。
平安が来て相手との和解に導かれ
た。ある人はずっと父親を憎んで
いた。確かに父親にも相当の問題
があった。しかし、そうであるに
せよ、憎しみは自らの罪と認め、
悔い改めた。その時、心が溶かさ
れて行った。人のせいにする事は、
人に依存して生きている事だ。
「自分の足でまっすぐに立ちなさ
い」本当の自分の姿を認める事が、
責任を取り自分の足で立つことだ。
--------------------------
逃げないで自分で責任を取り、自
分の足で立つ人生を与えて下さっ
ている。ここにこそ、しんどくて
も痛くても、主と共に生き生きと
生きる実感が伴う。生きる喜びを
味わって行く。


2007年12月28日(金)

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27

ヨハネの弟子達が、ユダヤ人と
きよめについて議論した。その
時、ヨハネの弟子達は痛い所を
突かれた。皆が主イエスの方へ
行く。党派心や妬み心があった
ようだ。主イエスが人々に好か
れ、人気を博する事に、自分達
の師と比較していら立ち嫉妬し
ていた。人との比較は、必ず劣
等感と優越感を生み出し、その
間を行ったり来たりする。優越
感があるという事は、底に劣等
感がある事であり、又、劣等感
があるから、優越感に浸りたい。
それらは表裏一体だ。高慢から
来ている。議論をして、彼らは、
イラ立った気持ちをそのまま師
のヨハネに持って行った。「み
な、あの方の方へ行く」と、ま
るでヨハネを責め、師をあおる
かのようだ。ヨハネの方が更に
嫉妬心が生じるかも知れないの
に、しかし、ヨハネは心底へり
くだっていた。「人は天から与
えられるのでなければ、何も受
けることはできない」と。へり
くだっている人を、人もサタン
もどうにも出来ない。成功も、
栄誉も、人気もすべては神から
来る。その事を真に認める時、
嫉妬や、競争、劣等感から解放
される。賜物が違い、使命が違
い、用いられ方が違い、一人一
人が皆違う。違うのだから比較
のしようがない。すべての主権
者は神だ。神から来るものを受
ける時に真の満足と平安がある。
----------------------
人との比較の中にいる時は、人
の幸せを素直に喜べず恵みを分
かちあう事も出来ない。それは
本当に苦く悲しい。すべては神
様から来る。ただ神様に向かう
時にだけ私達は優劣から解放さ
れて一つになれる。


2007年12月27日(木)

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27

ヨハネの弟子達が、ユダヤ人と
きよめについて議論した。その
時、ヨハネの弟子達は痛い所を
突かれた。皆が主イエスの方へ
行く。党派心や妬み心があった
ようだ。主イエスが人々に好か
れ、人気を博する事に、自分達
の師と比較していら立ち嫉妬し
ていた。人との比較は、必ず劣
等感と優越感を生み出し、その
間を行ったり来たりする。優越
感があるという事は、底に劣等
感がある事であり、又、劣等感
があるから、優越感に浸りたい。
それらは表裏一体だ。高慢から
来ている。議論をして、彼らは、
イラ立った気持ちをそのまま師
のヨハネに持って行った。「み
な、あの方の方へ行く」と、ま
るでヨハネを責め、師をあおる
かのようだ。ヨハネの方が更に
嫉妬心が生じるかも知れないの
に、しかし、ヨハネは心底へり
くだっていた。「人は天から与
えられるのでなければ、何も受
けることはできない」と。へり
くだっている人を、人もサタン
もどうにも出来ない。成功も、
栄誉も、人気もすべては神から
来る。その事を真に認める時、
嫉妬や、競争、劣等感から解放
される。賜物が違い、使命が違
い、用いられ方が違い、一人一
人が皆違う。違うのだから比較
のしようがない。すべての主権
者は神だ。神から来るものを受
ける時に真の満足と平安がある。
----------------------
人との比較の中にいる時は、人
の幸せを素直に喜べず恵みを分
かちあう事も出来ない。それは
本当に苦く悲しい。すべては神
様から来る。ただ神様に向かう
時にだけ私達は優劣から解放さ
れて一つになれる。


2007年12月26日(水)

「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください」詩篇141:3

ある人が証しした。快く思えない相手
がいて、忍耐し接していた。すると、
別の人からの電話で、その人への苦
情、批判だった。自分はクリスチャンだ
から、決して悪口は言わないが、言わ
れる事がその通りで、思わず同調しそ
うになる。その時、キャッチホンが入った。
ワンクッション置くと心が冷静になり、唇
の罪を犯す事から守られた。神の介入
を感じて感謝したと。又、唇に出さずとも
心でしっかり同調し裁き溜飲を下げる
かも知れない。噂話は、対象となる人
をひどく傷つける。本人のいない陰で
話されている事であり、噂が人から人へ
伝わる時に必ず歪曲されるからだ。真実
が伝わる事はまずない。なぜなら、聞い
た人は自分の主観と色合いで聞き、
自分の色を混ぜて次へ伝える。その人
も又、同様にして次へ伝える。その時、
相手への敵対心や嫉妬心があれば、
どうだろう。そのフィルターを通して、自分
の主観を混ぜる。結果、事実でも真実
でも無くなって行く。人間には肉の性質
があり、偏見や自分の強い思いや密か
な悪意があれば、容易に誘惑に陥って
しまう。罪を犯さないために噂話はしない
事だ。何かあれば、直接本人に確認
することが一番だ。相手は間違った情報
なら反論できるし説明ができる。噂話
の唇の戸が守られるように祈ろう。
・・・・・・・・・・・・
唇は、主を賛美し、人を慰め、力づけ
る事ができる。言葉が心の琴線に触れると、
人は生きる。今日、人に愛を表すために、
この唇が用いられるよう祈っていよう。
今日、一言、周囲に感謝を伝えよう。


2007年12月25日(火)

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」ルカ1:38

マリヤにとれば、突然の出来事
であった。何の前ぶれもなく、あ
る日突如として、自分の人生に
介入して来られ、一方的に御
使いから「みごもって、男の子を
産む」と言われたのだ。マリヤは、
ヨセフと婚約していて幸せな時
であり、準備をしつつ結婚生活
を思い描いていたであろう。しか
し一方、マリヤはメシヤ到来を
知り、信じていた。だが、余りも
唐突な戸惑う出来事だ、処女
で出産するとは。当時、婚約中
の姦通は石打ちの刑だ。おこと
ば通りこの身になるなら、死な
なければならない。それこそ命
がけだ。それに、ヨセフとの関係
はどうなるのか。聖霊によってみ
ごもったなどと誰が信じるだろう。
ヨセフをどんなに傷つけ恥をかか
せる事か。信頼関係はめちゃく
ちゃだ。恐れと不安があった事だ
ろう。しかし、そんな中でマリヤは、
自分自身と自分の人生を、主
に差し出した。「おことばどおりこ
の身になりますように」と何もかも
を明け渡した。マリヤが思いつい
た事ではなく、選んだ事ではない。
「自分の思い通りになりますよう
に」ではなく、まさに命がけで御心
が成りますようにだ。このマリヤの
従順により、救い主の誕生が実
現した。今、目の前に戸惑う事
態があるだろうか。マリヤが特別
に選ばれたように、あなたを主の
素晴らしいご計画のために選ん
でおられる。明け渡せるよう、ま
ず祈ろう。
_____________________
どんなに不安に思えても、おこと
ばの通りに・・と従って行けるのは
不断の神様との交わりの中にあ
るからだ。神様だけが私を一番
輝く道へと生かして下さると覚え、
全てをおゆだねしこのクリスマスを
祝おう。


2007年12月24日(月)

「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」イザヤ53:6

十字架で死ぬために、生まれて
下さった主イエス。近づく事も
できない光の中に住まわれ、人
が誰一人見た事もない、見る事
もできない、永遠の主権者であ
られる御父。もし、光まばゆい
栄光の御父だけなら、私達はと
ても近づけない。人となって下
さり、輝きも見栄えもなく、人
々から蔑まれ、除け者にされ、
顔をそむけられ、足げにされた、
そんな主ゆえに私達でも近づく
事ができる。人間は人から傷つ
けられると、人を傷つけて行っ
てしまう。物ではだめで、人格
に受けた傷は、人格を傷つけて、
その傷を癒すと言われている。
日常でよく目にするだろう。人
に当たるのだ。自分のイライラ
やストレスを、人にぶつけて発
散させる。きつい言動や態度で
相手に害を加える。夫は妻に、
妻は夫に、親は子に、上司は部
下に当たる。実は目前の些細な
事ではなく、自分の内にある処
理できない問題のためだ。自分
で自分の責任を取る事をしない。
自分の感情の責任は自分にある
のに、その責任を相手になすり
つける事だ。主はその傷を受け
るためにご自身を献げられた。
十字架上で「わたしを打て」と
言っておられる。人にでなく、
自分にでもなく、主にぶつける
時、不思議だが心が癒される。
これが主を信じる信仰だと言っ
ておられる。
------------------------
人は心があるから様々な事で傷
つき疲れる。主を知っている私
たちは幸いだ。主が全てを受け
止め癒して下さるからだ。この
方が私達のために、打たれ十字
架に掛かられるために生まれた。


2007年12月23日(日)

「すべての懲らしめは・・悲しく思われるものですが・・訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル12:11

愛とは、暖かさ優しさと同時に、
厳しさがある。親は子供を愛して
いるからこそ、正しくしつける。子
供が要求するからと、何でもかんで
も子供の意のままに与えはしない。
子供にとっての益を考える。神はそ
の愛する者を懲らしめ、訓練される
と、はっきり言われている。訓練と
は心地良いものではない。楽で快適
なら訓練になどならない。訓練とは
心身圧迫され、厳しく辛いものだ。
どこが神の愛と思えるほどのものだ。
好き勝手、気ままにしたい自我が、
厳しい訓練を受けて初めて、自制、
柔和、従順に変えられる。懲らしめ
は、決して喜びではなく、痛く悲し
いものだ。厳しく苦しい、辛い、悲
しい所を通ってこそ「平安な義の実」、
真実な平安を知る。そして、痛い、
苦しい試練の中で、初めて御言葉の
意味を知る。御言葉が命であり、力
であり慰めだ。御言葉そのものが食
べ物だ。御言葉によって生きる。こ
れは苦しみの中でしか経験できない。
荒野で「苦しみ、飢えさせ、マナを
食べさせられた。人は主の口から出
るすべてのもので生きる」事を体得
させるためだ。それは真の「平安」
に至る。これ以上無い苦しみ悲しみ
の中で、本当の平安、本当の喜びを
知って行く。神の愛だ。
・・・・・・・・・
訓練の中で神の愛の厳しさを知る。
愛とは厳しいものだと思う。しかし、
砕かれ、造り変えられる。本当に感謝
しかない。訓練が無ければ人間ですら
もあり得ないと感じる。


2007年12月22日(土)

「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」ヨハネ9:25

イザヤ書によると、盲人の目が開かれ
る事が、メシア到来のしるしだった。
「そのとき、盲人の目は開かれ」、そ
れゆえ、この盲人が見えるようになっ
た事は、まさに預言の成就であり、心
開かれていたなら、主イエスこそが救
い主だとわかるはずだ。しかし、主が、
安息日を破ったと非難攻撃をしたパリ
サイ人は、根が悪意であり、その目で
人を、物事を見るなら、すべてが攻撃
材料となる。自己中心な邪悪な心だ。
正当な非難だと言うが、実は根にある
敵対心のゆえだ。盲人に問いただすが、
彼の言葉にも全く聞く耳を持たない。
盲人は身に起きた事を素直に話してい
るに関わらず、はなから否定してかか
る。自分は正しいとの場所に立つ時、
私達も同じだ。このような状態に陥る。
彼はスパッと、はっきりと的確に言っ
た「盲目であったのに、今は見える」
と。物理的に見えるのでなく、霊の目
が開かれて、神がわかるのだ。パリサ
イ人は自分の思いで、自分の目で見た。
「私たちはあの人が罪人であることを
知っているのだ」と。あの人はこうだ
と最初から決めてかかり、そういう態
度である以上、どんなみわざを見ても
信じる事はできない。自らの偏見、思
いを退けて、素直に主に向き合うなら、
「主よ、私は信じます」に必ず導かれ
る。
・・・・・・・・・・・・・・・・
問題は自分の心であり、歪んでいたり、
頑なだったり、偏見のメガネをかけている。
自分が正しいに立つと、一向に神が見
えない。自分が間違っているのでは、盲
目なのでは、の視点に立った時、初めて
見えて来るから不思議だ。



2007年12月21日(金)

「この世と調子を合わせてはいけません・・何が良いことで、神に受け入れられ・・わきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2


私達は相手の言動、態度に、
即、影響を受けて、反応してし
まい、いら立ったり、落ち込んだ
り、傷ついたりしているだろうか。
それなら、自分が相手にコント
ロールされている事になる。相
手が怒れば、怒りで返し、批
判されれば、攻撃する、又は
落ち込む。又、相手に愚痴や
不満をぶちまけられると、うっと
うしく暗い憂鬱な気持ちに落
ち込む。常に相手の言動、行
動に反応し、飲み込まれてし
まう。それなら自分を生きてい
るのでなく、人に振り回される
事になる。人によってアップダウ
ンし、自分の状態を決められ
る事になる。あなたはどうだろ
う。よみがえりの主を信じ、新
しいいのちに生きている私達は、
主と一つとされ、そういう死の
中から解放されている。相手
に左右されるという事は、何
かあると、相手のせいにする
事になる。いつも周囲に責任
転嫁して生きる事になる。し
かし、御霊に支配されて生き
る時、人や環境のせいにせず、
責任転嫁せず、自分で責任
を取って生きて行くことができ
る。人に左右されず、人に依
存せず、主と共に自分の事は
自分で決める、自分で責任を
取る、主に在って自立した生
き方へと変えられる。自らはど
うだろう。言い訳して自分を正
当化しているだろうか。まず自
分の姿を見せられ、認める事
から始まる。
___________
その場の空気を必死に読んで
周囲と調子を合わせて生きる
古い習慣が染込んでいるため
主と世に仕えている半端な信
仰生活だ。揺るがない信仰に
立ちしっかりと自立していけま
すように。


2007年12月20日(木)

「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」詩篇105:19

ヨセフは監獄で、献酌官長の見た
夢を解き明かした。牢獄から出て
元の地位に戻った時、自分を思い
出して、パロに話してくれるよう
頼んだ。しかし、彼はヨセフの事
は忘れてしまった。又、ヨセフは
ずっと以前に見た夢により、将来
の自分の輝かしい姿を知らされて
いた。しかし、その夢とは裏腹に、
兄達によりエジプトに売られ、夢
とはかけ離れた方向に向かって行
く。エジプトで主人の好意を得た
と思うと、主人の妻のため濡れ衣
で投獄される。神の約束は真実だ
が、足かせで悩まされ、鉄のかせ
の中に入った。神の約束と現実が
全く相容れない状況だ。信仰が試
される時だ。しかし神は常に共に
おられ、耐えられない試練はなく、
脱出の道も備えられた。ヨセフは
苦しみの中で忍耐し、主に仕え続
けた。神の言葉は、神の時に必ず
成就する。ヨセフはエジプトの総
理大臣に抜てきされ、飢饉から一
族を救う事になる。すべてが、パ
ズルのようにそれぞれの場所に完
璧に、神によって配置されていた。
見える所はぐちゃぐちゃだが、す
べては見えざる神の支配の中だ。
苦難によりヨセフ自身も砕かれ、
整えられ、兄たちと再会を果たす
事ができた。万事益だ。今、現状
が約束と真逆であるなら、神を待
ち望み信頼していよう。神の約束
は、神ご自身が必ず成就される。
・・・・・・・・・
神の「約束」は、「神ご自身」が
「神の時」に成就される。神の時
があり、そのプロセスで自分自身
も砕かれ、訓練され、鍛えられ、
成長させて下さる。神に一つの間
違いもない。


2007年12月19日(水)

「自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります」ヤコブ1:25

聖書が与えられている目的は「す
べての良い働きのために、ふさわ
しい十分に整えられた者となるた
め」だ。人格が変えられ、整えら
れるためだ。単に聖書知識のため
でなく、人格が整えられるためだ。
人格が変えられるためには、行動
が変えられる必要がある。それは、
まず「心に植えつけられたみこと
ばを、素直に受け入れ」、主は御
言葉を植えて下さるので、私達は
「素直に」受け入れる事が必要だ。
御言葉と同時に様々な思いがよぎ
る。「そんな事、無理だ、できな
い」「本当に信じるだけで大丈夫
なのか」「本当に??」と、素直
に受け取らない心が問題だ。常に
疑いや恐れの方を取ってしまう。
そして、御言葉は聞くだけでなく、
「実行すること」が何より重要だ。
実行しない限り、自分が変わるこ
とは無い。どうすれば実行できる
のか。それは御言葉を「一心に見
つめて離れない」とあるように、
御言葉を常に思うことだ。一心に
思うなら忘れない。思いは行動へ
と移って行く。自分が変わらない
のは、聞いても「実行」が欠けて
いる。実行しないなら、聞いた事
もすぐに忘れてしまう。自分を欺
く事になる。今、あなたに示され
ている事を「実行」しよう。又、
一つ生活で実行しよう。「主を第
一にする事」「悔い改める事」決
めて、毎日毎日、「実行」し続け
てみよう。
___________
ひとつでいいから、御言葉に従っ
てみよう。その時に初めて肉に気
づく。聞いて、知っているのでは
なく実行だ。今日一つの御言葉が
与えられますように。


2007年12月18日(火)

「そのようなものは・・謙遜とか・・のゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」コロサイ3:23     


謙遜は、単なる自己卑下ではない。
「ことさらに自己卑下を・・肉の思
いによっていたずらに誇り」。自
己卑下は肉のものであり、それは
謙遜でなく、高ぶりだ。神の御前
で、神に対してでなく、人前で、
人に対してのものだ。自分をよく
見せようとの肉であり、又、自己
満足だ。パリサイ人も会堂や通り
で施しをし、通りの四つ角に立っ
て祈った。しかし、人に見せるた
めであり、肉の謙遜であった。肉
の謙遜は、賢いもののように見え
るが、肉のほしいままな欲望に、
何のききめもない。主は謙遜であ
られた。その謙遜は、死にまで従
い、十字架の死にまで従われた。
主の謙遜は、従順にあらわされて
いる。どこまでも御父に従順であ
られた。謙遜とは、主に「はい」
と言うことだ。主の御心に「はい」
と従うことだ。自分の思いが強い
と、なかなか従えない。自分のプ
ランや自分の思いの方がどう見て
も良いと思えるので、自分の道を
行ってしまう。しかし、それは自
分が主の上に立ち、判断している
ことだ。又、謙遜は、悩みのまっ
ただ中で、主を信じて、主に委ね
て行く。主の力強い御手の下にへ
りくだるとは、思い煩いをいっさ
い主に委ねる事だ。神が心配し、
責任を取って下さるゆえに。今、
主は、あなたに「はい」を求めて
おられるだろうか。
_____________________
人の思いと努力でいくらでも取り
繕える肉の謙遜よりも人前を気に
せず弱く震える自分でいよう。御
言葉に従えない罪をいつも意識し
ただ、神様にのみ真実に向き合お
う。
 


2007年12月17日(月)

『「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です」』マルコ6:38

「パンはどれぐらいあるか・・彼
らは確かめて」、どれぐらいある
か"確かめる"ことは大切だ。自分
の真実のありのままの状態を知る
ことは大事だ。現状を主にそのま
ま持って行く事ができる。主はあ
りのままを用いて下さるが、しっ
かりと自分の現状を認めさせられ
る。「対人関係がうまくできませ
ん」「・・の弱さがあります」「
・・の能力がありません」「・・
が苦手です」能力が僅かでも構わ
ない。そのまま主のもとへ持って
行くことだ。ヨハネは「小さい魚
を二匹」6:9と言っている。小さ
くて良いのだ。こんなもの、これ
ぐらいが何になろう、何の足しに
なろうと思うだろうか。「少しの
・・ができる」「少しの・・があ
る」それを持って主のもとへ行き、
お献げしよう。主は「小さな」も
のを用いて、どんなに大きなみわ
ざをされかに驚くばかりだ。小さ
いからこそ、返って主の素晴らし
さが、栄光が鮮明に現される。自
分が握っているなら、そのままで
終わる。しかし、主のもとに献げ
るなら、どんな小さな私達自身で
も、主は大いに祝福して下さり、
周囲の人々の満腹のために、用い
て下さる。家庭で、学校で職場で、
祝福の器とされる。あなたの手に
ある「小さな」ものを、主に献げ
よう。こんなものが何に・・と思
うそれを、主は受け取り用いて下
さる。           
---------------------
献げようとすると必ずサタンが邪
魔する。財も労も時間も多い方が
良いに決まっていると。そして神
様との密な交わりも、栄光を排す
る恵みも奪われる。神様は心を見
ていてくださる。


2007年12月16日(日)

「主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った」Uサムエル12:1

自分はへりくだっているのか、高慢
なのか、それは一つの事で試せる。
謙遜な人の特徴は人の忠告に耳を傾
け、痛い警告を聞く事ができるとい
う事だ。これはへりくだっていない
と不可能だ。高慢は、そのプライド
ゆえ、人の忠告を聞けないし、人の
意見など聞かない。自分は正しく、
それも一番正しいのだから、人の意
見など必要無い。特に自分の弱さや、
触れられたくない所など、絶対に触
れさせない。私達はどうだろう。弱
さを隠し、有能な、強い自分を見せ
ていたいだろうか。本当に強い人と
は、自らの弱さを認める事のできる
人だ。失敗しない人でなく、失敗を
決して隠さず、人の前にも素直に認
める人だ。ダビデの素晴らしさは、
姦淫と殺人という大罪は犯したが、
ナタンの忠告に耳を傾ける謙遜さを
持っていた事だ。そして、自らの罪
を明るみに出した。皆が知るところ
となり、誰の目にも明らかで、もはや
隠しようがない。ダビデは砕かれた。
しかし、その罪は赦され、ダビデは失
敗から学んだ。罪を隠すなら、取り
繕わねばならず、更に罪の上塗りを
する。悔い改め、御霊に教えられて
行く人は、同じ失敗から守られる。
これは恵みだ。この謙遜がなければ、
後のダビデは無く、あの詩篇も無か
った。失敗したならやり直せばよい。
何度でもやり直す事ができる。主が
ナタンをあなたに遣わされたなら、あ
なたのナタンに耳を傾けよう。それは
神からであり、あなたへの慈しみだ。
・・・・・・・・・
主はナタンを遣わして下さる。それは
人ではなく主からだ。主の愛だ。愛と
いえば、ほんわか暖かムードを連想す
るが、主は厳しい愛で義の道に導いて
下さる。主の愛に何度守られて来た事
だろう。
 


2007年12月15日(土)

「この命令で、王は神のみこころをそこなった。神はイスラエルを打たれた」T歴代21:7

サタンがダビデを誘い込んで人口
を数えさせた。ダビデが心密か
に持っていたものは、神よりも目に
見えるものに、兵力に頼る罪で
あった。目に見えない神よりも軍
事力に頼りたい。又、神が任せら
れた軍事力を自分のもの、自分
の力と勘違いして、高慢に陥る罪
であった。高慢の行き着く先は
滅びだ。以前はゴリアテとの戦いで、
主への信頼により勝利したダビデ
であり、信仰の人であった。ダビデ
が滅びに至るのを神がお許しにな
らず、介入された。これは神の深
い愛だ。私達も目に見えるものに
頼っているだろうか。神が下さった
成功を自分が奪い、自分の栄
光に、自分の所有にしていないか。
目に見えるものは強烈な影響力
がある。依存してしまう。富が幸せ
をもたらしてくれると頼り、又、人が
幸せにしてくれると、依存するなら
それは偶像だ。心の奥では何を
求めているだろう。人は宝のある、
その所に心がある。ダビデは自ら
の罪のために多くの人々を巻き
込んでしまった。罪には結果が
伴う。その責任を取らねばなら
ない。ダビデは主の手に陥る事
を選んだ。ダビデは厳しい苦しみ
と痛みの中で、主の手に陥る事で、
主への信頼を学んで行った。主の
憐れみは深く、どんな時も尽きる
ことがない。
・・・・・・・・
「不信仰」による失敗をも、主の手に
陥る事によって刈り取らせ、その中
で主への深い「信頼」を再度学ばせ
て下さる。主の愛と憐れみはどこま
でも尽きない。愛されている。


2007年12月14日(金)

「ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた」T歴代21:1



ダビデは姦淫の罪に、もう一つ
の失敗は人口調査だった。モー
セも人口調査をしたが、主の命
令によってであった。「全会衆
を・・調べ・・人口調査をせよ」。
ところが、ダビデは主の命令で
はなく、サタンに誘惑されてだ。
ダビデは兵の数で勢力を誇り、
自らを誇ろうとした高慢のゆえ
であった。部下ヨアブが忠言し
たほどだ。「なぜこんな事を要
求し、罪過ある者となられるの
か」と。ダビデは神の御心を損
なった。預言者ガドが遣わされ、
王国は3日間疫病で打たれる事
になった。7万人が倒れた。主
の使いが抜き身の剣を持ち立っ
ているのを見て、ダビデはひれ
伏した。間違いに気づき、悔い
た。神罰が民に及ばないよう、
オルナンの打ち場に祭壇が築か
れた。全焼のいけにえ、和解の
いけにえが献げられ、主に呼ば
わった時に、御使いは剣をさや
に納めた。これは主の十字架だ。
私達の罪のために、キリストが
全焼のいけにえとして献げられ、
罪のさばきを受けられたゆえに、
裁きは止んだ。成功し慢心した
ダビデにサタンが働いた。人は
成功の原因を自分の中に見つけ
て、自分を誇りたい。傲慢、プ
ライドだ。悔い改めて、主の血
潮に拠り頼もう。裁きは止み、
赦される。根に潜む罪を悔い改
めて、へりくだろう。サタンに
足場を与えないために。
---------------
自分は決して謙遜にはなれない
者だという事をよく覚えていた
い。そのような者のために主が
低くなって下さり十字架に掛か
られた。その恵みをいつも覚え
高慢の誘惑に気づけます様に。


2007年12月13日(木)

「彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた」U歴代16:12



アサ王は最初はよく主に従った。
偶像を除き去り、主の祭壇を新
しくした。アサ王の心は主と一
つであった。しかし、アサとイ
スラエル王バシャとの間に戦い
があり、バシャによりラマとい
う所が奪われた。包囲状態とな
り、その時に、アサ王はアラム
王ベン・ハダデに同盟を求めた。
前回、クシュ人が100万の軍勢と
100万の戦車で攻めて来た時には、
主に拠り頼み、主によりクシュ
人に勝利を経験したに関わらず、
財宝を提供してアラムに頼った。
ベン・ハダデは町々を打ち、ラ
マを打ち取り、ユダ側に要塞を
作った。戦いは勝利し、大成功
だった。しかし、預言者ハナニ
は「あなたは主に拠り頼まなか
った・・今から数々の戦いに巻き
込まれる」と告げた。神は間違
っている時に、人を遣わし警告
される。表面的に見れば、大成
功をおさめたが、主の御心から
は外れていた。私達も外側、う
まく行っているかに見えるが、
主の御心からそれていないか。
アサは重い病気にかかった。そ
の時にも彼は「主を求めないで、
医者を求めた」。そして死んで
しまった。的はずれに向かった。
罪を悔い改めないなら、どんど
んはずれて行ってしまう。私達
も、危機的状況が来た時、主を
求めないで、人に頼るだろうか。
神に信頼せず、世に、肉の手段
に頼っていないか。誰しも、目
に見えるものに頼ってしまう弱
さがある。立ち返って、主に拠
り頼もう。
--------------------
医者の技も、周囲の人の助言も
それを支配し導き、私たちを祝
福しようとして下さっているの
は神様だ。頼るべきお方を見つ
めているから平安に守られる。


2007年12月12日(水)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3


病気は痛いし、苦しい。辛さゆえ
に、なぜ?と思う事だろう。しかし、い
つも言われる「問題が問題なのでなく、
問題に対する私達の態度が問題」
の通り、病気に対する態度が問題で
あり大事な事だ。いつも試練の時に、
二つの態度が取れる。一つは否定
的に取る。不運、諦めの態度を取る。
感情も押し殺し、ひたすらうずくまる。
あるいは、心屈折させて反抗的にな
る。すねて怒る。自分の世界に閉じ
こもり、自己憐憫に陥る。これらから
言える事は、そこには何の実もないと
いう事だ。何の良い実も結ばない。ま
すます心頑なになり落ち込む。もう一
つは試練を真正面から受け止める道
だ。神がおられるのだから、偶然は無い。
たまたま不運なのではない。そして、
神に無駄は一つも無い。何らかの目
的があり意図がある。自らのためであ
り益のためだ。神は良い方であり最
善以下のものは与えられない。苦し
みの中で、神の愛と最善を信じて行
く時、状況は同じでも、自分の目が
変えられる。視点が変わる。すると、
ますます神と神の愛が見えて来る。
それは信仰によって見えるものゆえに。
苦しい、悲しい事態が起こる。しかし、
主のものとされた、私達の生涯は、
それらはことごとく「神のわざが現れ
るため」だ。すねて反抗するか、神の
わざを見て行くか、私達の選択だ。
・・・・・・・・・・・
「神のわざが現れるため」今、目の前
に起きている苦しみや悲しみは、神の
栄光が現されるためだ。神の視点に
立つ時、信仰が与えられ、希望と
期待が生まれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★続けて調整中です。データ収集のため、
着かない方はご一報下されば感謝です。 


2007年12月11日(火)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11

私達は時々、余りにも誘惑が次か
ら次へと来るので、戦うのに疲れ
て、気落ちしてしまう事がないだろ
うか。サタンは執拗だ。これでもか
、これでもかと、サタンの力も誘惑
の力も強力なものとして迫って来
る。しかし、覚えておかなければな
らない事は、この世にいる間は、誘
惑は途絶える事がなく、終わる事は
ない。天国にはサタンも誘惑も無い。
何という解放と休み、安らぎだろう。
だが、この世にいる間は霊の戦い
だ。まず戦いであるという事を受け
入れよう。だから、誘惑が来る事に
気落ちしたり、恐れたりする必要は
ない。それはずっと来るが、サタン
は主の十字架によって、すでに滅
ぼされた敵だ。だから、信仰に立つ
時に勝利できる。誘惑が来るのは
止められないが、受け入れる事を
拒否する事はできる。あなたが最
も誘惑を受ける箇所やパタンが必
ずある。いつも同じ所だ。あなたの
弱点だ。そして、サタンはやっきに
なってその状況とパタンを作ろうと
している。よく日常と自分自身を振
り返って、その所を把握しておく事
だ。無防備の時にやられるので、
予め祈りと武具で武装している事
ができる。誘惑された時に、思考
や思いに走らず、まず「神様!」
「助けて!」との祈りが一番だ。
主が御言葉を思い起こさせて、助
けて下さる。
--------------------
誘惑が来たと認識できる事、神様
に目を向ける事が出来たらほぼ勝
利だ。「私たちはサタンの策略を知
らないわけではありません」いつも
サタンを意識していよう。


2007年12月10日(月)

「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」ルカ17:18



10人のらい病人が、主のもとに来
た。当時、らい病は汚れた病気と
の事で隔離されていた。人々に近
寄る事は許されず、「私は汚れた
者です」と自分で言わなくてはな
らなかった。病の上に、社会生活
は閉ざされ、病気の苦しみと共に、
更に精神的な辛さ苦痛があった。
主のもとへ来たのは必死な思いで
あったろう。声を張り上げて「ど
うぞ、あわれんで下さい」と叫ん
だ。主はあわれんで、彼らを癒さ
れた。10人の内、1人だけ主のも
とへ戻り、あとの9人は帰って来
なかった。病気が完全に治り、社
会に復帰できて、自由に社会生活
が送れる。生けるしかばねのよう
であった彼らから見れば、何と夢
のような事だろう。9人は、何と
ラッキー、万々歳、良かったと、
世の中へ帰ってしまった。彼らに
とっては飛び切りのラッキーであ
り、偶然の事態であった。そこに
神は無かった。感謝するために戻
った1人は、神への感謝と賛美と
喜びで一杯だった。そこに神を認
め、神を崇めたのだ。彼だけに、
新しい信仰の人生が始まった。
「あなたの信仰が、あなたを直し
たのです」彼は神の愛に出会い、
神の愛の中を生きて行く人生が始
まった。何が肝心なのだろう。病
気が治る事だろうか。「世の終わ
りまでいつもあなたと共にいる」
その人生へと招いて下さっている。
苦しい時も喜びの時も、いつも主
と共に生きて行ける事の何と幸い。
--------------------
神なき人生なら喜びも悲しみも消
えては、また起こる偶然の連鎖で
しかない。感謝も、喜びも、しみ
じみ幸せだと思えることも神様と
同伴して行く人生だからこそだ。
今週も感謝し賛美し歩もう。


2007年12月09日(日)

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7



ダビデがバテシバと姦淫し、それを
隠蔽するために、夫ウリヤを殺害し
た。神はこの事のために、預言者ナ
タンをダビデのもとに遣わされた。
ナタンは例えを用いてダビデの罪を
暴いた。「大富豪は多くの羊を持ち、
貧乏な男は、一匹の小羊だけを持って
いた。その小羊を愛情込め大切に育
てていた。だが、大富豪は訪問者が
あった時、自分の羊を惜しみ、貧乏
な男の羊を取り上げ、調理してもて
なした」ダビデはその話を聞くや、
激怒し、そんな男は、即刻死刑だと
叫んだ。それはダビデ自身の姿であり、
自分を投影したのだ。自分自身に良心の
呵責があり、責めがあったから、厳し
くその男を断罪した。自分を裁いてい
たので、人をも裁いた。ダビデはナタン
の指摘により、罪を認め悔い改めた。
主もまた、悔い改めた者の罪を見過
ごされた。ダビデは詩篇で「一日中う
めいて骨々疲れ果て」「御手が昼も
夜も重くのしかかり、骨髄は夏の日
でりでかわき」と悔い改める前の悶え
苦しみを記している。ダビデは罪を告
白できて、赦されて、どんなに心が
楽になった事だろう。何をもってして
も代えられない安堵を得た事だろう。
主は罪人の罪を負われた。自分が
罪人である限り、無罪放免だと言わ
れる。しかし、自分を正当化するなら、
罪は無いと言うなら、神を偽り者とする
ので、赦しも無いし、御言葉も私の内
に無い事になってしまう。御霊が示し
て下さる罪を悔い改めよう。完全な赦
しと交換して下さる。
・・・・・・・・・・・・・・・
いつの場合も、自らの罪を認めること
を求められる。これが自我ゆえに認
めたくなくて、自分を正当化してしまう。
しかし、認める時、心が変えられる。
心が楽になり、安堵と平安が臨んで来る。


2007年12月08日(土)

「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません」Tコリント4:3

ある人が第一線でバリバリ仕事をし
ていた。ところが、仕事に行き詰ま
り、体調を崩し、止むなく退かねば
ならなくなった。その時に、ひどく
落ち込んだ。仕事が出来ていた時は、
自分が価値のある者と思えていたが、
何も出来なくなった時、自分の価値
を認められなくなったのだ。非常な
苦痛であり、受け入れ難い事であっ
た。様々な弁解や言い訳で、自分を
取り繕おうとするが、無駄だった。
仕事上の失敗を、人のせいにしよう
としている自分、人を赦せない自分
に苦しんだ。御前に出て、何もかも
を打ち明け心注ぎ出し祈った。十字
架が迫った。「父よ。彼らをお赦し
下さい。彼らは、何をしているのか
自分でわからないのです」主の祈り
が、自分のためである事がわかった。
主の赦しの愛を全身に受け取った。
そして、主は完全に赦して下さって
いるのに、自分が自分を赦していな
い事を示された。自分を赦せた時、
人も赦す事ができた。何かをしたか
らでなく、何が出来なくとも、この
ままの存在を受け入れて、愛して下
さっている主の愛に癒された。自分
を裁く事を止めた時、人を裁かなく
なった。
・・・・・・・・・・・・
何に拠って立っているのだろう。拠り
所は何なのだろう。自分の能力なら
行き詰まった時、拠り所が壊れてしまう。
附属物を全部取り去った自分そのもの
を愛して下さっている主の愛に感謝しよう。


2007年12月07日(金)

「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2



ある人が子供のために祈る時、い
つも「良い子になりますように。
親に従いますように。神様に従順
でありますように。態度が良くな
りますように」と祈っていて、あ
る時気づかされた。子供に常に
「ああなれ、こうなれ」と言って
いる自分、つまり「お前は、今の
ままでは不十分だ」と言っている
事だと。子供を変えよう、変えよ
うとしている自分に気づかされた。
変わるべきは子供でなく、自分で
あった。悔い改めて、いっさい家
族への要求を止めて、家族に感謝
する事を始めた。妻を、子供を与
えられている事、幸せな家庭が与
えられている事を感謝し始めた。
そして、家族を幸せにするために、
自分は何ができるかを求めて祈っ
た。すると、家の中が、何もかも
が一変した。暖かい空気が流れ、
和やかになり、皆がリラックスで
きるようになった。家庭がオアシ
スとされた。神の愛が家庭に臨ん
だ。人を変えようとする時、そこ
に裁きと批判と不満、トゲが存在
し、そこには神の愛が無い。しか
し、感謝して行く時、そこに確か
に潤いと温もりと喜びが流れる。
何か冷ややかなものがある時、自
らを振り返ろう。相手をさばき、
変えようとしていないか。変わる
べきは自分だ。
----------------------------
何がみこころであるか知っている
のと、みこころに従って行くのは
違う。知っているだけでは何の変
化もない。心の一新によって、一
歩踏み出そう。


2007年12月06日(木)

「あなたがこの国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」エステル4:14



エステルの物語は不思議だ。一つ
一つの出来事がパズルが完成して
行くピースのようだ。不思議に、
王妃ワシュティが退けられた後、
エステルが王妃とされた。ハマン
のユダヤ人への悪巧みをモルデカ
イが知った。エステルの宴会への
誘いを王は受け入れた。その夜、
王はたまたま眠れなかったので、
年代記を読んだ。そこでたまたま
モルデカイの功績を知った。王は
モルデカイに栄誉を与えようと思
い至った。王はエステルの願いに
耳を傾け、聞き入れた。どの一つ
が抜けても、結果が違ったであろ
う。ハマンの悪巧みは成就され、
ユダヤ人の虐殺が行われただろう。
ここに完璧に状況を支配しておら
れる、摂理の神を見る。ルツの物
語もしかりだ。ルツがナオミにつ
いて帰国したのが、たまたま大麦
の刈り入れの時だった。生計のた
め落ち穂拾いを始めると、はから
ずもボアズの畑であった。又、丁
度その時、たまたまボアズがやっ
て来たのだ。私達には偶然は存在
しない。一つ違わず、神の導きで
あり、神の配剤だ。神の配慮が私
達の生活に張り巡らされている。
過去を考える時、あの時も、この
時も、時ピッタリの不思議な取り
計らいを見い出す。完璧な御手の
支配の中にある事を覚える時、思
い煩いはいっさい不要だ。間違い
なく神のご計画が成っている。
----------------------
私たちは今しか見えない者だ。
渦中にあっては辛い毎日かもしれ
ないが、どうか信仰の目で前を見
て歩めますように。今日も神様の
御手の内にある。


2007年12月05日(水)

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブ1:21

サタンはヨブを攻撃した。しかし、
それは、神の許容範囲内であった。
神がサタンに命じられた。「持ち物
は許可する。しかし、身体は許さな
い」次には「身体までは良い。しかし、
命には触れるな」神の定めた限界
内でしかサタンも働けない。サタンが
どう攻撃して来ようと、最終的権限
を握っておられるのは神だ。つまり
目の前に起こる一つ一つの事が神
から来ている。偶然や不運ではない。
人があなたを批判し、敵対しているか
も知れない。目に見える状況に反応
すると相手への憎しみ、敵対心が
湧き上がる。不満と反発心で一杯
になる。しかし、それなら的はずれだ。
人しか見えていない。その背後に
おられるのは神だ。そうであれば対応
が違ってくるはずだ。サタンは私達に
攻撃して来る。しかし、主権者であ
られる神は、サタンすら私達の益の
ために、成長のために利用される。
すべての最終的主権は神にある。
だからヨブは主が与え、取られたと
告白した。それを認める事、受け入
れる事が信仰だ。ヨブは、それらに
神の主権を認め、ひれ伏し、礼拝
した。主を賛美し、御名を崇めた。
どんな状況でも主の御名を崇めて
行く事、これは感情でなく、信仰だ。
・・・・・・・・・・・・
感情はすべてを持って反対を向いて
いても、痛みの中で、神に信仰を向
けて行く時、不思議な御霊の領域が
ある。厳しい状況のまっただ中で心
に主の全き平安を経験する。
 


2007年12月04日(火)

「御霊によって歩みなさい」ガラテヤ5:16



クリスチャンの心の中には、生まれ
つきの肉の思いと、御霊によって与
えられる神の思いという、二つの相
反するものが働いている。二つの性
質が心の内に存在し、どちらもが強
く引っ張る。肉の思いに従うなら、
妬み、憎しみ、怒り、偽り・・罪の
実を結ばせてしまう。御霊の思いに
従うなら、愛、喜び、平安、寛容・
・御霊の実を結ぶ。どちらもが、自
分の内にあり、瞬間、瞬間の選択が
実を決定する。ある人が若い時に非
行に走った。不幸な生い立ちだった。
しかしある時気づいた。確かに生い
立ちは不幸だし、親にも恵まれなか
ったかも知れない。しかし、ひがん
でグレる事を選択するのは、紛れも
なく自分だ。他人は選択できない。
自分自身の選択だ。グレる事を拒否
する選択もできたはずだ。そうであ
れば、これから神に従う道を選択し
て行こうと。私達も同様だ。サタン
は肉に働いて、罪に引き込もうとや
っきだ。優しい言葉をかけ、寛容な
態度をと思っても、つい肉はイラ立
ち、とげとげしくなる。又、きつい
言葉を受けると、肉は言い返したく
なる。しかし御霊は祈れと言われる。
二つが相反し、引っ張る。そのつど
「できません。助けて下さい」と主
に明け渡そう。すると御霊が助けて
下さる。御霊が働かれる時、全く頑
張る事もなく、自然に優しい言葉を
かけ、攻撃して来る者のために祈る
ことができる。自分でなく御霊の働
きだ。
---------------------
自分の知恵と経験、自分の感覚にた
より、何気ない瞬間瞬間を生きてし
まいがちだ。その瞬間が今の自分を
形造っている。常に主を仰ぎ、肉を
意識し御霊を選び取れますように。


2007年12月03日(月)

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」マタイ19:19

全世界を愛するのは簡単だ。抽象
的、観念的な頭の中だけの愛だ。
結局は愛してなどいない。全人類は
愛せるが、目の前の人を愛すること
ができない。愛したくない自分に出
会う。どれだけ頑張っても愛せない。
強烈な自我に阻まれる。まずその事
を神の御前に認めることだ。ある人
が、職場に、どうしても嫌いな相手
がいた。心は悶々と苦しい。職場を
辞めようかと思うが、逃げても次の
職場に、必ず別の「あいつ」がいる。
逃げる事はすまいと思った。しかし、
「愛せるように」と幾ら祈っても聞
かれない。ある時、祈っていて自分
の本音に気づいた。「愛したくあり
ません。嫌です」と正直に自らの本
音を告白した。その時から、祈り
が聞かれた。自分が変えられて行
った。祈りつつ御霊に示されるよう
行動し接して行った。愛するとは、
感情でなく、信仰による行動だと
学んで行った。すると、不思議に
感情も変えられて行き、相手が
嫌でなくなった。愛する事は幾ら
頭の中で考えていてもわからない。
どうにもならない。御言葉に従い、
実際に行動する時、わかってくる。
愛するとは、感情を横において、
信仰により行動して行く事だ。神
はそれを、愛したとみて下さる。
・・・・・・・・・・
ペテロは感情に関わらず、主のお言
葉ゆえに網を下ろした。感情と思い
は反対向いていたかも知れない。で
も、主に従い行動した。ペテロは変
えられた。愛することは、感情で
なく信仰による行動だ。


2007年12月02日(日)

「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」Uコリント12:7

パウロは肉体に病、障がいを負ってい
た。とげが与えられていて、辛く苦し
いものであった。それが取り去られる
ように真剣に祈った。これさえ無けれ
ば、もっと主のためにスムーズに働け
るのにと。しかし、主の答えは「ノー」
だった。取り去らないと。それがある
方が、もっと神の栄光が現われると。
パウロは驚くべき奇跡を行った。病気
を癒し、悪霊を追い出し、ユテコとい
う青年を生き返らせた。人を癒したの
に、自分の病は癒されなかった。しか
し、パウロはそれを主の御心と受け入
れた。そして結果的に、取り除かれる
より遙かに大きな祝福と恵みに浴した。
その弱さの内にこそ、神の力が完全に
現わされ、キリストの力におおわれ、
神の臨在という恵みにあずかった。私
達も苦しみや悩みを受ける。理不尽な
事態もやって来る。私達にも「とげ」
は、形はそれぞれ違うが存在する。
そのとげがあるからこそ神の力を経験
する。そして、そのとげによりパウロ
は高慢にならないよう守られた。高慢
になれば主の働きが出来なくなるから
だ。パウロほどの人物だ。高慢の誘惑
は人一倍大きかったろう。第三の天ま
で見たのだ。私達も高慢は心の奥から
ムクムクと湧き上がり、自分でどうに
もできない。とげによって高慢から守
られる。与えられた「とげ」を受け入
れよう。そのとげはあなたを高慢から
守ってくれる。高慢から守られると
は、何という測り知れない恵みだろう。
・・・・・・・・・・
自分でへりくだってもそれも高慢であ
り、自分でどうにもできない。神にし
かできない。だからとげを与えて下さ
っている。高慢の恐ろしさを思う時、
とげが感謝に変わる。恵みに変わる。
 


2007年12月01日(土)

「主を待ち望め。その道を守れ」詩篇37:34

待つことほど難しい事はないが、しかし、
主を待ち、主の時を待つことは真に
大切だ。なぜなら、主を待たずに肉で
動くとイシマエルを生み出してしまうから
だ。肉はどうしても動こうとする。待つ
事は難しく動く事は簡単だからだ。自分
で目の前の問題をどうにかしようとする。
アブラハムは待てずに、大失敗をした。
神から約束を受けながら、状況は何一つ
動かない。そこでサラの申し出を聞き入
れ、ハガルによりイシマエルをもうけた。
その蒔いた種で、現在まで悲惨な争いが
続いている。自分で動くならイシマエル
を生み出し、苦しい重大な刈り取りをす
る事になる。サウルも、サムエルが来る
のを待てずに、全焼のいけにえを自分で
献げてしまった。このためにサウルは
王位を失った。主を待つのは、主ご自身
が動かれる「時」があるからだ。「神の
時」があり、主がその事態に介入され
る「時」がある。主ご自身が成就される。
私達は自分で動かず、その時を待つこと
が大切だ。今、大きな悩み、苦しみの
中にいるだろうか。自分で立って動き
回るのではなく、静まって主を待とう。
自分の思いを置いて、主が動き、介入
される時までじっと待とう。今のあなた
に必要な事は、主を信頼し、「待つ」
ことではないだろうか。主を待ち望め。
ひたすらその道を守れ。
・・・・・・・・・
主を待つことは、主を信頼することだ。
待つことで、主への信頼をお献げする
事ができる。待つ時間に信仰が練られ
鍛えられ成長させられる。主は信頼す
る者に決して恥を見させられない。