2008年01月31日(木)

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」ヘブル6:1

「まだ乳ばかり飲んでいるような者は
みな、義の教えに通じてはいません。
幼子なのです」幼子の特徴は世界が自
分中心に回っていて、自己の快適さを
求め、愛されることばかり求めること
だ。神についても心地よい愛の部分だ
けがすべてで、そこから成長して行か
ない。成長のためには義の訓練があり、
「堅い食物はおとなの物であって・・訓
練された人たちのもの」だ。もし大人
の信仰者になりたいなら、訓練を受け
る事を避けて通れない。大人は愛する
ことを求めて行く。インスタントに霊
的成長は望めない。成長とは砕かれる
ことであり、痛みを伴い、忍耐が必要
で、時には待つ事であり、手放す事で
あり、失う事でもある。もし大人にな
りたいなら、信仰はキリストの言葉に
よるので、御言葉をしっかり受け止め
て行く態度が大切だ。御言葉が、霊で
ありいのちであり、神のみ思い、御心、
ご計画があるからだ。幼子は自分の思
い通りに事が運ばないと、泣きわめき
ひっくり返り、自分を通して行く。従
う事は嫌で、権威に反抗する。大人は
自分の思いを砕いて、自分の思い通り
でなくとも、神のみ思いを優先し、受
け入れて行く。従順を学んで行く。大
人へと成長して行く事が神の御心だ。
------------------------
思い通りにならない時に成長させられ
るのだ。痛い、悔しい時、神様のみ言
葉を必死に慕い求めて行く。慰めを一
身に受けている事を知り、改めて従順
へと導かれて行く。自分の要求だけに
囚われてはいないだろうか。


2008年01月30日(水)

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる・・わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」イザヤ41:10

ある人に子供が生まれて、肢体不自由
と難病が発覚。最初はとにかくパニッ
クで、涙、涙で「なぜ?なぜ?」「こ
れが御心ですか?」「これからどうし
て行けば」の悶々の日々だった。年月
を経て祈りの中で子供と関わるにつれ、
自分が励まされ、慰められ、喜びを与
えられている事に気づいた。「不幸」
「かわいそう」が、世の価値観、肉の
価値観であり、主の目から見ればどん
なに尊く、特別な愛の対象であり、ど
んなに目を注がれているかを感じつつ、
自分の肉の目でなく、神がどう見てお
られるかに心の目が向いて行った。こ
の世界では確かに不自由であるし、実
際生きて行く上で、直面する様々な苦
しみや悲しみがあるが、しかし、神は
公平な方であり、神に不公平は無く、
永遠に目を向けながら、今のこの時を
生きるよう、心を導いて行って下さっ
た。そして、神に間違いはなく、何ら
かの特別な「ご計画」があると、信じ
られるようになった。進路の選択にも、
一つ一つの指針、導きを与えられ、し
ばらくして振り返ると、確かに良かっ
たと、確信と平安を与えられた。思い
煩う必要なく、全生涯を主が守り導い
て下さると信じる事ができる。何より
も神は自分自身を守り、成長させて下
さっている事に気づけた。神に間違い
は無い。苦しい時も神を信頼しよう。
・・・・・・・・・
苦しみは、肉の目から神の視点に立っ
て物を見るように変えてくれる。目に
見えないものに目を注ぐようにして行
ってくれる。何が本当に大切なのかを
わからせてくれる。大きな祝福が備え
られている。


2008年01月29日(火)

「神のことばは生きていて、力があり・・」ヘブル4:12

ある牧師が、若い時から懸命に働き続
け、今は老年期に差しかかった。赴任
先の教会で、人々の救いのため、信徒
の成長のためにと出来うる限りの事を
し、懸命に労していた。根が真面目で
あり一生懸命だった。そんな時、教会
内で問題が起こり、ごっそり信徒が出
てしまった。引退を目前に、今までの
自分の人生は何だったのかと、沈み落
ち込み、燃え尽き症候群に陥り、鬱に
なってしまった。無気力になり、聖書
を読み祈ることも出来なくなった。そ
んな時、子供がセミナーに参加し、恵
まれ、子供の顔が輝いていた。デボー
ションを子供が勧めてくれた。その気
にもならなかったが、恵まれ喜んでい
る子供を見ていて、祈る気力もないが、
聖書の一つでも開いてみようかと、パ
ラパラと、ぼお〜っと見ていた。その
時「父なる神は・・お願いする先に、あ
なたがたに必要なものを知っておられ
る」の言葉が心にしみ込んで来た。自
分の今の状態をすべてをご存じである
事を思った。そして「だから、こう祈
りなさい・・御名があがめられますよう
に」が神の言葉として心に響いた。こ
んな敗北の、失敗の、無力な者を通し
て、主の御名が崇められるようにして
下さると。その時、新たな力が臨んだ。
立ち上がる事ができた。御言葉により
再び起きあがる力が臨んだ。御言葉は
霊であり、真に人を生かす力がある。
----------------
み言葉によって重い心が引き上げられ
たり、高ぶった思いを低くされたり、
日々整えられて行く。み言葉はいのち、
生きて私達のうちに働かれるからだ。
今日もいのちのみ言葉をしっかり握り
歩みはじめよう。


2008年01月28日(月)

「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩篇33:10

人には様々な思いがあり、プランがあ
る。しかし、神にもプランがある。ヨ
セフの生涯に顕著に見ることができる。
兄達の妬みを買い、エジプトの隊商に
売られ、全く思いもせぬエジプトへ。
どんな思いだったろう。しかし、そこ
で買い取られた主人に忠実に仕え、主
人の好意を得、全財産を任せられた。
「主がヨセフと共におられたので」は
キイワードだ。主人の妻からの濡れ衣
で牢獄へ。しかしそこでも「主がヨセ
フと共におられ」模範囚になり管理を
任された。献酌官長を通して出獄かと
希望を抱いたが、ヨセフとの約束は忘
れ去られ、又、2年が過ぎた。神の時
は何と長いのだろう。結果的に見れば
2年だが、その渦中では、どんなに忍
耐が必要で培われた事だろう。結局、
最終的に総理大臣となり、飢饉にあっ
たヤコブや兄弟達の命を救う事になる。
ヨセフがエジプトに売られて以来10数
年だ。そのために神が先にヨセフを遣
わされたのだ。ヨセフ自身にも自分の
プランがあった事だろう。しかし、神
のプランは全く違い、遙かに素晴らし
いものであった。私達にも自分の計画
がある。しかし、神の計画は「私たち
の願うところ、思うところのすべてを
越えて豊かに」だ。ヨセフは神の計画
の道を歩み、信仰も品格も練り上げら
れた。自分の思い、計画でなく、神の
私へのプランを祈り求めよう。
-------------------------
自分の時間を、自分のために自由に使
って行く事が生きる目的なら、神様の
私へのプランを一生知る事はないだろ
う。困難の中でも今置かれた場所が素
晴らしいご計画の途上であるかもしれ
ない。神様のプランに思いを向けて祈
ってみよう


2008年01月27日(日)

『イエスは「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた』ルカ8:45

この女性は12年間も出血が止まらない
状態で、どんなにか苦痛と辛さの中に
あった事だろう。律法によると不浄と
の事で、礼拝にも出れず、宗教的にも
社会的にも疎外されていた。経済的に
も治療に財産を使い果たし、良くなる
どころか、ますます悪くなり無一文と
なり、これから先どうすればよいのか、
何の望みもなく、心身もう限界で、ぼ
ろぼろであったろう。わらにもすがり
たいように、救いを求めていたに違い
ない。そんな時、主の噂を聞き、せめ
て主の着物にでも触れば必ず直ると思
った。必死であった。触った時、血の
源が枯れて、ひどい痛みが直った事を
感じた。誰にも知られずに、隠れてそ
っとその場を去りたかったが、主が
「触ったのは誰か」と問われた。後方
で群衆に紛れ潜んでいたが、隠しきれ
ないと思い、震えながら進み出た。
「イエスの前に出」たのだ。どんなに
か勇気の要った事だろう。「すべての
民の前で」イエスに触った理由と、癒
された次第を話した。自分を卑しめ、
こそこそと暗さの中に隠れていたのが、
主に導かれて、従う事により光の中へ
と入れられた。あるがままを告白でき
た。主は「あなたの信仰が」と信仰を
認め「安心して行きなさい」と、もう
恐れも不安も怯える事もない、全き平
安を下さった。身体だけでなく、心も
癒され全人格的救いを下さった。告白
は彼女自身のためであった。あなたに
も、告白を求めておられるだろうか。
光の中へと招くために。
・・・・・・・・
隠しおおしておきたい、陰に押し込め
ていたい、誰にも知られたくない、
その事を神は光の中に、明るみに出さ
れる。実は私達自身の癒しのためだ。自
らの状態を主の前に認めて行く時に、全
面的に癒される。


2008年01月26日(土)

「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」ピリピ2:16

神から何か語られている事、示されて
いる事があるだろうか。御言葉通して
語りかけられる将来のビジョン、就く
べき仕事、具体的に今、何かをする事、
信仰告白やバプテスマの決心や、又は
悔い改めかも知れない。誰かと仲直り
する事、誰かに証しをする事、誰かを
サポートする事・・だろうか。神が思
いを与え、祈り続ける中で、確かに神
が語り、導いておられるとの確信が来
たなら、行なう事が大切だ。「すべて
のことを、つぶやかず、疑わずに行な
いなさい」。行なう時に、心に来るの
が「私に出来るのだろうか?」「難し
いのでは?」「私にはとうてい無理」
否定的、消極的、尻込みする思いだ。
しかし、「神が」志を立てさせ、「神
が」行わせて下さる、主語は「神」だ。
自分ではない。ここで信仰を持って一
歩踏み出そう。そうするなら、神が、
「非難されるところのない純真な者」
「傷の無い者」として下さり、「世の
光として輝か」せて下さる。あなたが
自分で純真な者となり、自分で輝くの
でなく、あなたが御言葉に従って行く
なら、神が、あなたを、光として輝か
せて下さるのだ。だから、私達のなす
べき事は、御言葉に従うことだ。御言
葉に従うことが、御言葉をしっかり握
ることであり、従わない事は御言葉を
捨てることになる。
・・・・・・・・
自分で輝くのではない。御言葉に従う時、
神が私たちを世の光として輝かせて下さ
る。何と嬉しい事だろう。今、目の前に
示されている御言葉に従おう。主の栄光
のために用いて、世の光として輝かせて
下さる。


2008年01月25日(金)

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」ピリピ2:13

神は御心にかなった思いを心に授けて、
〜したい、〜しようとの思いを起こさ
れる。しかし、心に起きる思いがすべ
て神からのものではない。サタンも火
矢を投げ込み、心に思いを吹き込んで
くる。自分から湧き上がって来る思い
もある。では、どれが神からの思いな
のか。見分けるためには、とにかくよ
く祈ることだ。祈りがまず重要だ。そ
して、その思いが、聖書全体の原則に
かなっているかを、見ることは大切だ。
どうであれ、御言葉に反する方向へ導
かれる事は無い。目的のために手段を
選ばないものは、神からではない。神
から出たものであれば、目的も手段も
正しく導かれる。それは人の徳を立て、
霊的成長に役立つものか。御霊は人を
傷つける事はされない。又、御心の思
いは時間の経過があっても変わらない。
自分の気まぐれな思いなら、気分次第
でころころ変わるし、簡単に消えてし
まう。大切な事柄であれば、よく時間
をかけて祈ることだ。時間をかける事
ではっきりしてくる。神からの御心な
ら祈り続ける事ができるし、その思い
は消えず変わらない。環境も沿うよう
に導かれて行く。又、指導者や信頼で
きる人に共に祈ってもらうと良い。御
心なら、必ず一致があり、共に平安が
与えられる。神からの志をしっかり受
け取ろう。神が成し就げて下さり、私
達を通して栄光を現される。
---------------------
御霊に導かれた思いかどうか、まずよ
く祈り、御心をそれていないか神様に
尋ねてみよう。神様が示された大切な
導きならば必ず、道は開かれ、平安の
中で神様の栄光を見る。


2008年01月24日(木)

「・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」ヨハネ21:22

例え話を聞いた事があるだろう。空を
飛び、走り、水泳、木登りを訓練する
動物学校があった。うさぎは走りは得
意、しかし絶対に空を飛べないので、
ひどく落ち込んだ。リスは木登りは得
意だが、やはり空が飛べない。劣等感
にさいなまれ、走りも自信が持てなく
なった。鷲は空を飛ぶ事が大得意、し
かし他の事はうまく出来ず自分を責め
ていた。速く走ろうとして足を痛めた。
アヒルは水泳が得意、しかし空を飛べ
ないので鷲を羨み、落ち込んでいた。
それぞれ造られ方が全く違っていると
いう事だ。それぞれの個性と良さ、得
意分野がある。それを他と比較し羨み、
他のようになろうとするなら、自分に
与えられたものまで生かされないまま、
自分を損ない、終わってしまう。神は
一人一人を「違って」造られた。他と
違っていて良いのであり、違っていて
当然だ。比較するのでなく、自分に与
えられた賜物を見い出し、神のために
使って行く時、自由と喜び楽しみの中
で生きて行ける。与えられた個性が120
%見事に開花される。隣を、周囲を見
て落ち込んでいないか。比較すると必
ず落ち込む。比較から優越感と劣等感
が生じる。人を妬み羨むのは、自分に
最善をして下さっている神を信じない
という事だ。自分自身を御霊に渡して
行く時、最大限に開花させて下さる。
喜んで生きて行ける。
-------------------
神様に与えられた賜物は何か、他の人
の真似でも比較でもない、真実の神様
が今までどのように育んで下さったの
かを思い返してみよう。少しのもので
も喜んで献げ主の後をついて行きたい。


2008年01月23日(水)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです・・主の御霊のあるところには自由があります」Uコリント3:17

私達は周囲に「反応」して生きている
だろうか。寒暖計のように、相手が優
しく親切であれば、こちらも優しくな
り、相手が冷ややかであれば、こちら
も冷たく対応し、相手が怒りをぶつけ
て来ると、怒りで返す。相手の状態に
正比例して反応してしまう。これなら
自分の態度は相手次第になり、自分が
まるで無い事になる。そして、自分が
怒るのは、相手が怒るからであり、怒
る相手が悪いとなる。すべて人のせい、
環境のせいにして生きて行く。信仰は
真逆だ。反応は人依存だ。反応するの
でなく、あくまでも自分で責任を持っ
て行動する。相手が冷ややかであって
も反応して温度を下げるのでなく、温
度を上げて、親切な態度を「行動」し
て行く。依存ではなく自立だ。主に向
き、御霊に従って行く時、自立した歩
みができる。人がどうであれ、御心を
行って行く。何があっても、人のせい
にせず、環境のせいにせず、どこまで
も神を信じて生きて行く。周囲のせい
にするなら、そこにあるのは不平不満、
愚痴だけだ。喜びも平安も無い。他の
せいにするのを止めると、どうだろう。
不平不満の向かう先がないので止む。
そして神に向くなら、神は常に最善を
して下さっているお方だ。それを信じ
て行く時、何と心が変えられる事だろ
う。人依存の屈折した生き方から自由
にされる。あなたが反応してるのは、
状況と人か、それとも神だろうか。
・・・・・・・・・・・
御霊の下さる「気づき」から成長は始
まる。自分の状態は寒暖計だろうか。
主は反応されずに常に行動された。そ
の主が、今日も内に生きて下さってい
る。主に依存する時、自由にされる。


2008年01月22日(火)

「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者・・」 黙示12:10

サタンは偽り者であり、誘惑する者で
あり、悪業を為す者だ。この箇所では
告発する者であると告げている。四六
時中、私たちを告発している。私たち
は気づかずに、このサタンの罠にはま
っている。サタンは私たちの良心に訴
えて来る。とがめを与えて、失望落胆
させ、希望を失わせ、絶望に追いやる。
「私は罪ばかり犯す。私はクリスチャ
ンとして失格だ。何度も何度も同じ事
ばかりしている。何年たっても成長が
ない。私みたいな者はだめだ」どんど
ん落ち込んで行く。気力が失せ、罪深
い自分は神から愛されず、神から離れ
ているように感じる。信仰が持てず、
下へ下へと降るばかりだ。神の御言葉
はどう言ってるだろう。罪を告白する
なら、真実で正しい神は、罪を赦し、
すべての悪からきよめて下さる。言い
表した罪は完全に赦されるのだ。神の
言葉より、サタンの言葉を大きなもの
としていないか。どちらを信じるのか。
サタンを信じて、サタンの言葉に従っ
て行くなら、神はどうにも出来ない。
失望落胆は、サタンに聞いて行くとこ
ろから生じる。どの声に聞き従ってい
るか、今一度、神の御前で確認しよう。
サタンの言葉をきっぱり拒否しよう。
----------------
どっちへ行ってもサタンに訴えられて
責められて弱りはてる事がある。助け
はみことばだ。何があっても祝福を約
束していて下さる神様のみことばを握
るなら、ぶれない立脚点に今日も立っ
ていられる。


2008年01月21日(月)

「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12

私達は、どうしても人目を気にしてし
まう。人の目に自分がどう映っている
かを絶えず意識している。神の御前に
生きるのでなく、人の目に映っている
自分を生きてしまう。人の目に映る自
分を意識して生きていると、演技をす
る。絶えず「人の目に映る自分」を見
ているわけで、疲れてしまう。人によ
く見られようとし、常に自分でない自
分、自分以上の自分であろうとするか
らだ。そこには優越感と劣等感が行き
来する。なぜなら、人前に生きていて、
人との比較に生きているからだ。比較
からは必ず優越感と劣等感が生まれる。
そこから競争意識による妬みが出て来
る。自分が欲しいものを、所有してい
る相手を妬むのだ。あなたにも経験あ
るだろうか。解決の道は、比較しない
事だ。すべては比較から来る。比較さ
えしなければ、優越感や劣等感、妬み
から守られる。しかし、それが難しい。
出来ない事を見い出す。神が備えて下
さった道がある。それは、比較する自
分、人前に演技する自分、背伸びをし
てよく見せようとする自分、ごまかす
自分、それらを主の御前にへりくだっ
て認めることだ。自分の本当の姿を、
主に告白することだ。そうする時、解
き放たれて、自由にされて行く。正直
に告白するなら、神は赦し、すべての
悪からきよめて下さる。それゆえ自由
にされ、心に平安を得る。
-----------------
自分をありのままに、それ以上にも以
下にも見せようとする事なく今週も歩
んで行けますように。人とは違う自分
を神様がまず愛していて下さる事を覚
え、ただ御前に素直に歩んで行けます
ように。


2008年01月20日(日)

「人にはできないことが、神にはできるのです」ルカ18:27

喜んで御言葉を聞くクリスチャンは多
い。「ふん、ふん」と聞く。聞く事は
嫌でなく幾らでも聞く。ある人が言っ
た「御言葉を聞く時に、同時に思いが
入り込む。『そんな事、到底出来っこ
ない』『絶対無理』・・その思いが来て
御言葉を捨ててしまう。その無意識の
思いにずっと妨害されていた。その事
に初めて気づいた」思いへのサタンの
火矢だ。御言葉の種を心に入れさせな
いサタンの攻撃だ。心に種を入れさえ
しなければ、結実はあり得ないのだか
ら。無意識ゆえ、普段、御言葉を読み
つつ流してしまっている。あなたはど
うだろう。その時に流さないで「私に
は出来ませんが、主には可能です。助
けて下さい」と祈る事ができる。"人に
はできない事が、神にはできる"実際に、
神は御言葉を行なう事ができるように、
助けて下さる。又、神の言葉を聞くが、
この世の色々な事に心を奪われてしま
う。仕事や趣味や、好きな事、溢れる
様々なこの世界の事柄に関心が向き、
優先順位が狂って来る。いつしか神の
言葉がどんどん後回しになり、神から
離れて行ってしまう。今、優先順位は
どうだろう。その時に、祈る事ができ
る。「神の言葉より、この事に関心が
向いています。助けて下さい」。出来
ない自分を認めて、神に頼る事は信仰
だ。その信仰に答えて、神は助けて下
さる。出来ないまま、祈りによって神
に向かおう。
・・・・・・・・・
「出来ません。助けて下さい」と神に
祈る時、不思議だが、出来るようにさ
れる。神の力を経験する。「できませ
ん」とへりくだって、主の助けを求め
よう。今日も共におられる。


2008年01月19日(土)

「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ・・」ルカ8:18

単に、御言葉を聞いていればよいとい
うものでなく、聞き方に注意せよと言
われている。イスラエルの民は皆、
モーセから神の言葉を聞いていた。し
かし、聞いた言葉が信仰に結びつけら
れなかったため、最後まで神を疑い、
心を定める事無く、結局は不信仰によ
って滅ぼされてしまった。モーセは神
の言葉を語った。聞く側に問題があっ
た。種蒔きの例えで、種は御言葉で、
土地は心だ。道ばたに落ちた種は土が
固く、心に入らず、サタンが来て御言
葉を持ち去った。先入観や偏見の固い
心だと、御言葉が入らない。又、他人
事として聞く態度だ。自分の事として
受け取らないので素通りして、心に入
らない。傍観者として御言葉を聞いて
いないだろうか。態度は大切だ。御言
葉は自分に向けられた言葉として受け
取らない限り、何の益も無い。自分の
事として聞く心が良い地だ。必ず豊か
な実を結ぶ。岩の上に落ちた種とは、
喜んで御言葉を聞くが、根が無い。根
が張るのは地中においてだ。隠れた神
との関係が大切で、人目に見えない祈
りや御言葉の地道な交わりが根だ。い
ばらの中の種は、外側から伸びたいば
らにふさがれた。外部のものによって
成長が妨げられる。世の事に心が奪わ
れて神がおそろかになってしまう。自
分はどう御言葉を聞いているか、省み
てみよう。聞き方は大切だ。
・・・・・・・
御言葉は、主の愛だ。厳しい言葉も愛
だ。御言葉は蜜よりも口に甘い。御言
葉が心の思いとされたらどんなに恵み
だろう。御言葉を愛して、主よお語り
下さい、しもべ聞きますの態度で、大
切に受け取ろう。


2008年01月18日(金)

『「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい』ヘブル3:13

「だれも悪い不信仰な心になって生け
る神から離れる者がないよう」にと警
告し勧めている。そのために「きょ
う」という日が強調されている。エジ
プトを出た民のようにならないために、
明日ではなく、「きょう」今すぐに神
に立ち返るようにと。「きょう」は大
切だ。悔い改めるべき事があれば、明
日に延ばさずに、今日悔い改めるべき
だ。サタンは誘惑して来て、悔い改め
られなくなってしまう。決心すべき事
が示されているなら、「きょう」すべ
きだ。明日にしようと思っていると、
明後日となり、来週となり、ついに決
心出来なくなってしまう。御霊の示し
があるのに、ぐずぐず延ばしてしてい
ると、不思議にその気持ちが無くなっ
てしまう。経験があるだろう。「きょ
う」神様に近づけないよう、なすべき
事をさせないようにと、サタンの妨げ
が働く。必ずサタンが働いて来るのは
驚くほどだ。祈りや聖書を読む事、デ
ボーション、静思の時も同様だ。何度
も経験あるだろう。「今」と御霊の導
きを感じながら、先へ先へと延ばして
しまう。その内に、どんどん世に流さ
れてしまう。霊的な事への食欲が減退
し、失せて行ってしまう。「きょう」
は大切だ。御霊に示されている事に従
おう。心が固くなる前に。
---------------------
今日も明日も同じ思い状が続かないの
は承知のはずなのに、変わらないと思
ってしまう。御霊に従える時はすぐに
奪われてしまう。与えられた導きを大
切にしよう。感謝してすぐに従おう。




2008年01月17日(木)

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません・・ですから、あわれみを受け、また恵いただいて・・大胆に恵みの御坐に」ヘブル5:16

私達は天へ帰るまでは、古い性質と新
しい性質が、いつもあらがい戦ってい
る。霊と肉の戦いにあり、主の再臨の
時に私達のからだは変えられる。それ
まで私達に肉の弱さがある事を主はご
存じだ。この肉体は往々疲れ果てるし
病気にもなる。主は肉体をとって地上
に来られたので、この事を理解して下
さっている。あなたの弱さをご存じだ。
だからこそ、主を覚えて忍耐する事が
できる。そして、主のゆえにいつでも
恵みの御坐に行く事ができる。私達は
活力と勢いに溢れている時は、主のた
めに働き主に近いと感じ、逆に弱さを
覚え無力でいる時は、主を遠く感じる
事が無いだろうか。「お前のような役
立たずはだめだ、だめだ」サタンの声
が聞こえて来そうだ。ますます主から
離れてしまう。御言葉はどう言ってい
るだろう。恵みの御坐に近づけるおお
もと、根源は「あわれみを受け」「恵
みをいただいて」、あわれみと恵みだ。
自分の功績にいっさいよらない。一方
的な愛顧であり、プレゼントだ。主の
あわれみと恵みがあるから、どんなに
破れた状態でも、御前に行く事が出来
る。これを信じるなら、「聞いたみこ
とばが信仰によって結びつけられ」ど
んな状態でも恵みの御坐に行くはずだ。
そして新たにされる。信じない者にな
らないで、信じる者となろう。
----------------------
自分が霊的に元気であろうと、弱って
いようと主の憐みはつきない。見えな
いところで守っていて下さると信じる
事ができる。感謝だ。主を遠くに感じ
ているなら「主よ」と叫んでみよう。


2008年01月16日(水)

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:15

イスラエルの民は、多くの奇跡を見て、
神の言葉を聞いていたのに、不信仰で
心が頑なだった。出エジプトの奇跡を
見たのに、荒野に出た途端、食べ物が
無いとの不平不満。つまり神が与えて
下さる事を信じない。マナが天から降
り水が岩から湧く奇跡を見ても、カナ
ンを偵察した斥候達の言う事に怯え、
恐れ、あのエジプトに帰ろうなどと、
神を信じなかった。いつも疑い、つぶ
やき、不満だらけで、最後まで神を信
頼する事が無かった。親から同じ事で
注意された事がないか。余りにもひん
ぱんなので「耳にたこ」とばかりに、
流してしまった経験がないか。右から
左で聞いていない。全く反省も無く、
言葉も真剣に受け止めない。これが心
を頑なにするという事だ。こうなると、
物理的に耳に入っても決して心には入
らない。これが繰り返されると、恐い
事に、ますます心が固く閉ざされてし
まう。すると、神に対する不信仰が固
められて行く。心が石のように固くな
ると悔い改められなくなってしまう。
これらは自分でそうして行っている。
これが民が安息に入れなかった不信仰
だった。どんなに今まで奇跡を見て来
た事だろう。どんなに愛して下さった
事か。神の言葉は愛だ。あなたへの真
実な愛がこもっている。神の言葉に真
摯に向き、心して愛を受け取ろう。御
言葉に従う時、喜びが溢れる。平安が
臨む。今、御声を聞いているなら、勇
気を出して従おう。あなたへの愛であ
り、大きな祝福が備えられている。
・・・・・・・・・・
従わなければ、自分は何も変わらない
どころか、ますます頑なになる。従う
時は、自我が砕かれ痛いが、甘い溢れ
る祝福を経験する。従って良かったと
必ず思う。喜びと感謝で心が溢れる。


2008年01月15日(火)

「その聞いたみことばも彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです」ヘブル4:2

「先祖達は、わたしを試みて証拠を
求め」とモーセに率いられたイスラエルの
例が出されている。約束の地カナンに
入るために、出エジプトを果たしたに
関わらず、40年間荒野をさまよった。
あげく、約束の地に入れずに、20歳
以上の者達は皆、荒野で滅んでしま
った。ヨシュアとカレブと新世代だけが、
約束の地に入った。民はエジプトでの
災害の奇跡と紅海が分かれる大奇跡
を見た。又、何も無い荒野で水が湧き、
マナやうずらが降るのを見、雲の柱や
様々な奇跡を見た。しかるに、尚も神
を信じないで、約束の地に入る事を
拒否したのだ。それらの民達を教訓と
するようにと警告している。彼らは神の
言葉を聞いていて、乳の蜜の流れる地
へ入れるという良き知らせを聞いていた。
しかし、その聞いた言葉が「信仰によっ
て」結びつけられず、何の益も無かった。
カナンの強敵について聞いた時も神を信
じなかった。せっかく苦難のエジプトから
脱出させて下さったのに、神への信仰
がなく不信仰のゆえに、荒野で死んで
しまった。何のためにエジプトを出たの
かわからない。御声を聞いて従う事は
厳粛な事だ。どっちでも良い、いい加減
な事ではない。私達は御声をどう聞い
ているだろう。幾ら奇跡を見ても、「信
じよう」としなければ、荒野の民と同じ
になってしまう。今日、「信仰」を献げて
行こう。
------------------
奇跡を見ながらも信仰にしっかりと立
つことが出来ないイスラエルは自分の
事だ。かたくなで、押し流されやすく、
不信仰の者と覚え、示された御声に、
しっかりと従って行こう。


2008年01月14日(月)

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう」ルカ6:38

ある宣教師が、母国からのサポートに、
月々おうとつがあり、ある時、非常に
少なかった。出来る限りの節約をし、
切りつめていたが、決まった支払いも
あり、極めて生活が困難になった。与
えられるよう祈り続けていたが、どん
どん厳しくなって来た。すると、予定
の会合が中止になり、そのために取り
分けていた費用が浮いた。「主よ、感
謝します」と喜んでいると、何でもな
いケガをして病院通いでその費用が消
えてしまった。ガッカリし「主のこれ
は一体何ですか」と御心を尋ねて祈っ
た。すると、何と、更に献げるように
言われたのだ。もう無いのに、しかし
主が確かにそう言われるので、決心し
て思いきって献げた。すると、その直
後、思わぬところから献金が献げられ、
必要額がピッタリ満たされた。心が感
謝と喜びで溢れた。イサクは飢饉の時
に種を蒔いた。すると百倍の収穫を得
た。飢饉の時など、収穫どころか蒔い
た種すら全部失うのではと不安に襲わ
れる。経済的不安のある時に、恐れて
握ってしまい、とても献げられない。
しかし、信仰によって献げる時に、百
倍の収穫を得る。恐れて蒔かなければ、
収穫も、神を知る喜びも無い。人は蒔
いたものを正しく刈り取る。これに例
外は無い。何のために生きているのだ
ろう。貯えるためか、それとも神の御
声に従い、愛であり全能であり真理で
ある神を更に親しく知って行くためか。
・・・・・・・・
手もとにあるものを見て不自由で縛ら
れるより、与えなさい、献げなさいの
御言葉に素直に従っていけたらどんな
に豊かに生きられるだろう。喜んで献
げるものなど自分の内に何もない。


2008年01月13日(日)

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し・・」ヘブル4:12

神の言葉は生きていて、両刃の剣より
も鋭い。心の内をあらわにしてしまう。
エバがサタンの誘惑を受けた時の、神
の言葉への反応で見ることができる。
「園のどんな木からも・・」に対して
「園の中央にある木」と答えたが、正
確ではなく中央には二つの木があった。
「それに触れてもいけない」とは神は
言っていない。「死ぬといけないか
ら」ではなく、「必ず死ぬ」だ。エバ
が絶対的に神の言葉を大切に思い、そ
の通りに受け入れ、従おうと思ってい
たのでは無い、心の状態があらわにさ
れた。神の言葉に対し、適当であいま
いな態度であった。私たちはどうだろ
う。心探られる。御言葉に対し、いい
加減なあいまいな態度でいる時、そこ
がサタンにつけ込まれてしまう。エバ
は神のようになりたかったし、美しく
麗しいもの、賢くなる事が、エバには
好ましい事であり、それが価値観であ
った。私たちはどうだろう。価値観の
部分にサタンは巧妙に働いて来る。本
音で大切にしているものが誘惑を受け
る。天に帰るまで、サタンという敵が
いて、日毎に「霊の戦い」である事を
覚えよう。敵と戦う際の剣が御言葉だ。
「御霊の与える剣である神のことば」
それがあいまいであり、いい加減なら、
勝敗が目に見えている。御言葉という
武器を与えて下さっている。「神のこ
とばを受け取りなさい」今一度心して
御言葉に向かおう。
・・・・・・・・
サタンとの霊の戦いゆえに、思考で、
思いで対抗すると、サタンの思う壺だ。
途端に泥沼にはまる。御言葉が臨むと
はっと我に返り、神様視点に立てる。
真に霊の次元の事であり、御言葉はい
のちそのものだ。


2008年01月12日(土)

「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから」ルツ3:18

ナオミは、神を信じ、自分について来
た嫁ルツの将来についてよく考え祈っ
ていた事であろう。親類であり、ルツ
に目をかけてくれているボアズ、その
信頼に足る誠実な人柄、彼がふさわし
いと考えた。ナオミはルツに指示を与
え、ルツは言われた通りに従った。買
い戻しを願い、その権利を持つボアズ
の足もとに寝たのだ。すると更に近い
親類がいるので、その人が放棄するな
ら自分が買い戻すと。ナオミは、その
更に近い親類という障害を越えて、必
ずボアズがルツを買い戻す事、それが
神の御心であり、成就する事を信じた。
それで、この事がおさまるまで待てと、
確信持って言えた。神が働かれるから、
成り行きを見守っているようにと。立
ち動く事をいっさいせず、ただじっと
しておれと。つまり人間的な動きを止
めることだ。私達はこれが大変難しく
て出来ない。必ず何かしようとするし、
その方が楽で、安心なのだ。目に見え
ない神をただじっと待ち望む事は非常
に難しい。又それは、何もせず手をこ
まねいているのではなく、なすべき事
はして待つという意味だ。ルツは自分
の分を果たし、ナオミに言われた事を
すべて果たした。だからこそ、次にす
べき事はそこで安息し、委ねてただ神
がされる事を、祈りの内に待てばよい。
あなたにも、今なすべ事を果たし、神
を待てと言っておられるだろうか。
・・・・・・・・
ルツはナオミの指示の通りに、従順に
従った。人の側で、神に示された通り
の事を、御心を行なった後、結果を、
神に期待して待つということだ。示さ
れた事を行なう事と、後は委ねて平安
に待っておればよい事を教えられる。


2008年01月11日(金)

「ダビデの時代に、3年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた」Uサムエル21:1

ダビデ王の時代に3年間続く飢饉があ
った。だいたい苦しい事があると「助
けて」「この状況を何とかして欲し
い」と祈るが、ダビデはそうでなく、
なぜ飢饉があるのか、主は何を言おう
としておられるのかと、主のみこころ
を問うた。この事の原因を求めた。す
ると、主はサウル王の時代にギブオン
人達を殺した罪があると語られた。イ
スラエルはギブオン人と盟約を結んで
いたに関わらず、サウルは彼らを殺し
てしまったのだ。神は罪については必
ずその責任を問われる。それに対して、
ダビデは、ギブオン人達に「私は何を
しなければならないのか。何を償えば
よいのか」と誠意をもって対応した。
彼らは、サウルの子供達を引き渡すよ
う要求した。ダビデは彼らの要求に応
えて償いをした。すると、その後、神
はこの国の祈りに心を動かされた。罪
が祈りを妨げてしまう。ギブオン人に
きちんと償うよう、罪の対処をするよ
うに、主は飢饉を送られた。飢饉の御
心を求めたダビデは正しかった。もし、
飢饉から救い、助けて下さい、ならま
るで的はずれになってしまう。私達も、
身に起こる様々な出来事は、主から来
ている。主にはご目的があり、無駄は
一つとしてない。一つ一つの事を通し
て、何より主が教えようとしておられ
る事を、悟れるように祈ろう。
------------------
何故これほどまでの試練が来るのだろ
うと、神様に尋ねていく時なすべき事が
示されて行く。罪の刈り取りなのか、非
のない所の試練ならば成長のための訓
練だ。状況に追い詰められるのではな
く、それを良いものに変えていける。


2008年01月10日(木)

「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」ガラテヤ6:9

「蒔いたものは刈り取る」これは変わ
る事のない原則だ。法則だから、必ず
そうなる。例外が無い。神は侮られる
方ではなく、自らの歩みと生き方には、
必ず責任が問われるという事だ。自分
の蒔いたものは、すぐにではなくても、
必ず時期が来れば刈り取る。二種類の
種蒔きがある。肉のための種蒔きと御
霊のための種蒔きだ。肉のためとは、
肉の欲望を満たすためであり、又、表
向きは善行であっても、それが自己中
心な自分を喜ばせる動機から出ている
なら、肉の種蒔きだ。苦しみや悲しみ、
痛みを刈り取る事になる。御霊のため
とは、御霊の導きに従い、神の愛に応
えるための種蒔きだ。御霊の導きによ
り労力や時間やお金を使う事だ。神を
お喜ばせしようとの動機から出ている
ので永遠の命を刈り取る。私達が日々
行っている事は、どんな「動機」でし
ているのだろう。自己満足、自分の称
賛、自分の喜びのためか。信仰により
神の喜びのためか。自分の思いでなく、
御霊に導かれて善行に、福音の種蒔き
に励もう。「時期が来て刈り取る」今
すぐではない、遠い先かも知れない。
何の反応もなく、何の結果も見えず、
何一つ動きが無い、落胆しがっかりし
てしまうが、必ず「時が来て」刈り取
る。失望せずに期待して待ち望もう。
--------------------------
なぜ失望するのだろう。わずかな善行
さえも自分のためで、すぐに実を結ば
なければ満足しないのかもしれない。
神様に喜んでいただくために、を心の
中心すえ御霊に導かれるまま、従って
行こう。


2008年01月09日(水)

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」マタイ19:26

主のもとに、富んだ青年が来た。永遠
のいのちを受けるために何をすればよ
いかと。主は十戒の戒めを教えられた。
しかし、十戒は守っていると答えた。
すると主は、持ち物を売り払い、貧し
い人に与えよと言われた。すると青年
は顔を曇らせ悲しんで、主のもとを去
った。十戒を守っていると言うが、守
れるはずがない。律法によって罪がわ
かるのであり、律法は私たちをキリス
トへ導くための養育係となるものだ。
又、もし彼が戒めを守っているなら、
「あなたの隣人をあなた自身のように
愛せよ」に従い、有り余る財産を、す
でに言われる前に貧しい人々に施して
いたはずだ。しかし、彼の財産は自分
の所有物であり、人に分け与える気は
無かった。分け与えるなら、又、神は
更に豊かに与えて下さったであろうに。
私達も手中に握り締めているものによ
って、主から離れてしまう。私達にと
っての富は、才能、仕事、愛する人、
名誉、地位、何か大切なものかも知れ
ない。青年は主から去るのではなく、
一つ出来る事があった。それは「私に
はできません」と主に助けを求める事
であった。人には出来ないが、神には
どんな事でも出来るのだから。握って
いるものがあるなら、放す事ができな
いと告白し、主に助けを求めよう。主
は必ず助けの手を延べて下さる。
・・・・・・・
「自分には出来ないと認める事」そし
て「主に助けを求める事」を、いつも
主は待っておられる。直ちに助けの手
を延べて下さる。主の前を去るのでな
くどこまでも主に向き、拠り頼もう。


2008年01月08日(火)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14

「求めなさい。そうすれば与えられま
す」と神は祈る事を勧めておられる。
そして求めるなら受け「あなたがたの
喜びが満ち満ちたものとなる」と。祈
る事は御心であり、神が喜ばれる事だ。
そして、神は祈りを聞いて下さる。た
だ、願った通りに叶えられるとは限ら
ない。これをわきまえておく事は重要
だ。祈りとは、自動販売機にお金を入
れるなら、ジュースが出てくるのでは
ない。又、何がなんでも、祈り勝ちと
ばかりに、ガンガン祈れば良いのでは
ない。祈りの時間と力で、ねじ伏せる
のではない。これだと御利益宗教と同
じだ。自分の都合で、自分の欲望、願
望を満足させる手段となってしまう。
祈りはすべて神に聞かれている。しか
し、願った通りに実現するのではない。
自分の願望を神に押しつけるのではな
く、祈りを通して、正しく神のみここ
ろを知って行ける。これが喜びであり
素晴らしい祝福だ。自分では最善の願
いと思っても、神から見れば、的はず
れな求めで、ふさわしくないかも知れ
ない。又、求める動機が間違っている
かも知れない。又、まだ期が熟してお
らず、時期尚早かも知れない。又、御
心にかなった祈りだが、祈り続ける事
を学ばせられているかも知れない。祈
る中で、神の正しい御心を知って行け
る、このところに目を留めて、祈りを
続けよう。御心にかなっているので、
神のお心に必ず触れる。
-------------------------
何年も何年も祈り続けているのに叶わ
ない祈りもある。力強く祈り初めても続
かない祈りも。祈りの中で砕かれ、祈り
が変えられたり、自らの心のうちを示さ
れ整えられて行く。お父様!と、今日も
祈りはじめよう。


2008年01月07日(月)

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」ヘブル12:7

苦しみや悩みは信仰人生に必ず来る。
それらにより神は成長させて下さる。
しかし正しく受け取る事が大切だ。そ
うでないと、ただ痛くて辛くて苦しい
だけで何の益も学びも得られない。あ
る人は苦痛に、ただ頭をおおいうずく
まっていただけだったと。受け取って
いなかったと。苦難に二つの選択肢が
ある。一方は信仰の目で受け止め、口
からは信仰の言葉を語って行く。他方
は環境に不満を言い、周囲を相手を責
める。相手を責めると、その時は肉が
スカッとし解放感を得る。が、その結
果、怒りや不満、いら立ち、憎しみ又、
とがめで心は更にドロドロになる。し
かし、信仰もって事態を受け止めて行
く時、何の見ばえもないが、必ず心が
守られる。状況はどんなに悲惨でも、
心が守られる。肉は肉を生み出し、愚
痴は更なる愚痴を生み、不満は不満を
生みとどまるところを知らず、落ちて
行くばかりだ。受け止め方で、天と地
ほどの差がある事をすでに経験済みだ
ろう。あの時、この時・・。信仰人生、
これからも数々の試練がやって来る。
安楽な安穏な生活、御利益を得るため
でなく、御子のかたちに変えられ、聖
くされるために救われたのだから。神
の目的に焦点を当てて、試練をしっか
り受け止められるよう祈ろう。練り聖
められ霊性、品格共に成長して行く。
----------------------------
嫌な事、痛い事をうまく避けて行くの
が賢い生き方だと思いがちだ。試練が
来ると失敗した、どこが悪かったのか
と悔いる。神様がすっぽり抜け落ちて
いる。この失敗を繰り返さず、試練を
神様からの訓練と受け止めよう。試練
の中で光を放って行こう。


2008年01月06日(日)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Tテモテ6:6

金持ちになりたがる人たちは、誘惑と
わなと、愚かで、有害な多くの欲に陥
るとある。富を持っても、持っても、
決して満足する事がない。飽くことな
く更に富を求める。これは富ではなく、
「貪欲」という「欲望」に陥っている
からだ。必要が満たされていても満足
する事がない。果てしなく富に渇いて
求めて行く。どこまで行っても満たさ
れる事がなく哀れで悲惨だ。これは
地位、名誉、人からの賞賛にも当ては
まる。又、人々は多くのストレスを抱
えて生きている。対人関係、子育て、
昇進、成績、将来の不安・・これらの根
底には、人との比較が大きく在る。習
い事、塾、他の子供達と同じでなけれ
ば、親は不安でたまらない。周囲を見
ながら心は焦りを募らせる。職場や学
校、近隣で人と比較し、絶えず優位に
立っていたい。それによって満ち足り
ようとする。しかし、劣っている事が
わかるとストレスになる。拠って立つ
所が優越感という高慢であり、優越感
を求めるのは、劣等感があるからだ。
この間を行ったり来たり、消耗し疲れ
果てる人生だ。「衣食があれば、満足
すべきです」何一つ持たないで来たし、
何一つ持って出る事も出来ない。今、
生かされている事を「感謝する」これ
が満ち足りる心を得る秘訣だ。感謝し
て行く事が、心を満たし、大きな利益
を受ける道だ。主に在るなら、どんな
環境の中でも「満ち足りる」事が出来
る。こんな幸福な歩みは無い。
・・・・・・
欲望が叶うと満ち足りると思うが、実
は更に渇く。底無しだ。満ち足りる心
は主から来る。今、感謝を主に献げて
みよう。真に心に平安が来る。「何
も」思い煩わなくて良いとは、何とい
う安堵と幸せだろう。


2008年01月05日(土)

「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか」ミカ6:6

私達は罪が赦されるために、何か必要
なのだろうか。ミカは、どこまで行な
えば受け入れてもらえるのかと言って
いる。何をもって御前に出たらよいの
か。一歳の子牛を献げたらよいのか。
いや、一頭でなく、数千の雄羊、数万
の油を献げなければならないのか。い
や、それでも足らなくて、子供を殺し
て、献げる必要があるのか。罪意識が
強く来る時に、それを何とかしようと
するなら、子供を殺すところにまで行
くと言っている。これが「邪悪な良
心」だ。良心に邪悪なものがあるのか
と、不思議に思うが、邪悪な良心とは、
神を認めない心だ。神のして下さった
事を認めない。しかし、キリストの十
字架で、主の犠牲により、何もかもが
解決されている。すでに完了している。
罪の赦しは成就されている。それを認
めないで、それでは足らないので、何
かをしなければと思う心だ。つまり、
全面的に完全に、赦されている事を信
じない。赦されるはずが無いと信じて
いる。。だから、行ないを足して受け
取ろうとする。それなら子殺しにまで
行き着くという事だ。そうでなく、無
代価で、無償で、いっさいのかたが着
いていて、無罪放免にして下さる。こ
のプレゼントを、恵みを、感謝して、
受け取る事が神の御心であり、喜ばれ
る事だ。その時、血の注ぎを受け、邪
悪な良心がきよめられ、素直な心にさ
れ、更に神に近づけると。
・・・・・・・・
人間の生まれつきの価値観の中に、恵
みの要素は存在しないので、なかなか
わからない。見た事も聞いた事も無い
世界だ。相反して来る価値観をよくわ
きまえて、信じて行こうとする意志を
主に向けよう。御霊は働き助けて下さ
る。


2008年01月04日(金)

「それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した」T列王12:31

イスラエルはヤロブアムを全イスラエ
ルの王としたが、しかし、ヤロブアム
は、王国はダビデの家に戻るだろうと
危惧した。それで、エルサレムに戻る
必要の無いよう、金の子牛を二つ作り
ベテルとダンに安置した。そして、自
分で、一般の民の中から祭司を任命し、
ベテルに常住させた。自分で勝手に考
え出した月に祭りの日を定め、祭壇で
いけにえをささげさせた。「神が」で
なく「ヤロブアムが」「自分で」偶像
を造り、「自分で」祭司を任命し、
「自分で」考えた日にいけにえをささ
げさせた。その祭司が、執り行う内容
自体は全く同じかも知れない。外側か
ら見れば、何も変わりない。しかしそ
れは、神の御心でなくヤロブアムの心
であり、神の意志でなく、ヤロブアム
の意志が行われ、成し遂げられるとい
う事だ。根本的に違う。私達も、自分
が軸にあり、自分のための神であるな
ら、信仰も、神も自分のためであり、
無意識に、自分に都合の良い御言葉を
選んで、神の御心と思い込み気づかな
い。自分でも従っていると思っている
ので、気づけない。自分の思い込んだ
御言葉が成就しなかった時、よく探っ
て頂こう。神は起こる出来事一つ一つ
を通して、更なる成長に導いて下さる。
間違っているなら矯正して下さる。正
される機会だ。自分のための神から、
神のための自分へと変えて行って下さ
る。感謝しよう。
・・・・・・
「自分が、自分が」と自分の思いが強
くなると、神のみ思いを取り間違って
しまう。主語を神にして「神は」私に
何を望み、何を求めておられるのかの
視点に立ち、神の私へのお心を求めよ
う。その時、主と一つだ。


2008年01月03日(木)

『「主よ。この人はどうですか」・・「あなたは、わたしに従いなさい」』ヨハネ21:21

ほとんどの人が、心の内では自分に無
いものを求めていると言われている。
「自分も〜〜のようであればいいの
に」と。違う境遇や、違う成育歴や、
違う才能や性格を。しかし、それなら
自分を否定することになってしまう。
バラが百合になりたい、足の裏が目や
口になりたい・・と。一流レストランは
それなりの、下町食堂はおふくろの味
の、それぞれの良さがあり、特質があ
る。比較の問題でない。その事は、頭
ではよくわかるのだが、頭を素通りし
て、心の根にはしっかり比較があった
りする。人と比較し、人を羨んでいる
なら、まずそれを認めよう。無い振り
をせず、あいまいにせず、自分の羨望
や妬みをきちんと認めよう。そこから
新しい歩みが始まる。自分が誰それの
ようになろうとするのでなく、人を真
似るのでなく、神が、代わりが決して
ない独自なものとして創造して下さっ
た自分を生かして行く。その事を、祈
り求めよう。神が創造されたという事
は、代わりがないという事だ。人のよ
うになるという意味では、決して自分
を変える必要はない。与えられた賜物
が更に磨かれ、品格が更に主に近づけ
られて行くという意味では、変えられ
て行かなければならない。自分の視点
が違うなら、御霊に修正して頂こう。
その時、喜びをもって生きて行ける。
・・・・・・
「〜のようであれば」と思っている自
分を認める事から始めよう。主が創造
して下さった自分自身を生き生きと生
きて行ける。主に「従って行く」時、
隣の人のようでなく、自分らしく開花
し且つ主に似せられて行く。


2008年01月02日(水)

「それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」ヘブル3:9

心に安らぎ、安息はあるだろうか。い
つも仕事は山積みで追い立てられ、焦
っているだろうか。むしろ、何かをし
ていないと不安で、為す事で心の満た
しを得ようしていないか。何かをする
事で安心感を得、行いで満足感を得よ
うとするなら、忙しいのではなく、自
分で忙しくしている事になる。止む事
ない仕事や奉仕を自分で取り込み、取
り憑かれたようにのめり込む。ある異
教は、まさにそれだ。日に何時間の伝
道のノルマがあり、月100時間奉仕にば
く進し、終わりの無い奉仕へと駆り立
てる。しかも、救いは無い。私達はど
うだろう。何かをする事で満たしを得
ようとするなら同じだ。何かをする事
で満たされるのではない。主は仕事や
奉仕で充足感を与えて下さるが、それ
はあくまでも結果であって、満たされ
るために行うのではない。人は主を信
じ、主にとどまる事によって満たされ
る。皆、福音を聞いているが、聞いた
言葉が信仰により結びつけられる時、
「信じる時に」安息に入る。「信じた
私たちは安息にはいるのです」。今、
焦りや疲れ、いら立ちがあるなら、行
ないで満たされよう、認められようと
していないか立ち止まろう。「すでに
受け入れられている」信仰から安堵と
安息が来る。そこに立つ時、安息と喜
びの中で、愛をもって行ないができる。
・・・・・・
人の心が満たされるのは、何かをする
事によってでなく、主にとどまる事に
よってだ。そこがずれると、必ずイラ
立ちや焦り虚しさが出て来る。枝がぶ
どうの木になろうとしている。今一度
主にとどまろう。安息が来る。


2008年01月01日(火)

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩篇119:105

飛行機や船を操縦する時、人間の感覚
に頼らず、計器に頼って飛行や航海を
する。計器に頼らなければ、大空で大
海で事故を起こし遭難する事になる。
又、道を迷った時、どの方向に行けば
良いかわからない時、地図を見ればす
ぐにわかる。信仰人生も同様だ。計器
や地図に頼らず、自分の感覚に頼ると
トラブルをひき起こす。正しい判断が
できない。では、どうすればよいのか。
計器に頼るべきだ。計器はみことばだ。
人生行路を自分の感覚を頼らず、みこ
とばに頼って歩む時、確かな進路が示
され正しい歩みができる。みことばは、
足もとを照らし指針を与えてくれる。
どんな時にも、「神のみ思いは?神は
この事をどう言っておられるのか?」
とみことばに聞いて行く時に、正しい
判断ができて、神の御心にかなった歩
みができる。もし、今、トラブって行
き詰まっているなら、立ち止まって考
えよう。又、「すべてのことについて
感謝」できるのに、恐れ、不安、不満
の中にいるなら、神の目ではなく、自
分の思いと感覚で見ている。自分と状
況から視点を変えて、神に焦点を合わ
せよう。神はどう見ておられるのか。
その時、同じ状況で不安は去り、平安
が臨む。新しい一年も、自分の思いで
なく計器であるみことばに頼って歩も
う。
・・・・・・・・・
道に迷う時、地図が無ければ進むべき
道がわからない。今、どう進むべきか
わからないなら御言葉に聞こう。この
一年も主の御声に耳を澄まし、御言葉
頼りに一足一足、歩んで行こう。