2008年02月29日(金)

「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」Tサムエル17:47

少年ダビデは巨人ゴリアテと戦った。
頭には青銅のかぶとをかぶり、身には
よろいを着けていた。足には青銅のす
ね当て、肩には青銅の投げ槍を背負っ
ていた。イスラエルのすべてはこの巨
人に恐れ、意気消沈していた。完全武
装した大男に、ダビデはまだ少年であ
った。よろいかぶとは慣れていなかっ
たので、返って不便であった。武器と
言えば、石投げと石だけだった。それ
で巨人に立ち向かった。力においては
歴然とした差があったが、しかしこれ
は「主の戦い」であった。ダビデの無
力、弱さのうちに神の力が現される。
「わたしの恵みは、あなたに十分であ
る。というのは、わたしの力は、弱さ
のうちに完全に現われるからである」
ダビデは主の戦いを戦い、勝利した。
弱いままで良いと言われ、むしろその
弱さの中にこそ神の力が働くと。私た
ちも自らの足らなさ、弱さを覚えてい
るだろうか。自分を見る時、落胆し、
とてもじゃないがだめだと諦めるだろ
う。しかし、神は私たちの力を、求め
ておられるのではない。私には出来な
いが、神には出来るという信仰であり、
言われた通りに従う従順だ。弱いまま
で良い。無力のままで良い。今、目の
前に示されている事があるなら、信仰
もって従おう。主の戦いであり、われ
われの手に敵を渡される。勝利を見、
主の栄光を見る。
・・・・・・・・・・・
小さな石は的確に急所を射て、敵を倒
した。主が戦われたからだ。目の前の
大男、難題は主の戦いだ。必ず勝利を
見る。小さく弱いままで、主に従い、
主の方法に従おう。目の前の一歩に従
おう。


2008年02月28日(木)

「あなたのしもべを傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように」詩篇19:13

謙遜とは、人に向けて腰を低くするこ
とではない。腰は低いが、心は幾らで
も高慢であり得る。謙遜とは、主の言
葉を言葉通りに受け取る事だ。高慢と
は御言葉を受け入れない事だ。見せか
けの謙遜は御言葉を否定する。神があ
なたを愛していると幾ら言われても、
いいえ、私みたいな者が愛されるはず
がないと、心の中で思っているし、そ
う信じている。あなたの罪は主のゆえ
に、全面的に赦された、無罪放免と聞
いても、いいや、そんなはずはない、
私は罪ばかり・・と思っている。まして
や義とされて、今や義人と聞くと、絶
対にそんな事は無いと、心では受け取
らない。神は必要を満たすと言われて
も、現状見ると不可能と、思い煩い続
ける。あなたの歩みを導くと言われて
も、信じないので恐れと不安の暗闇に
いる。単に人前で偉そうにする事が高
慢でなく、神とその言葉を信じないこ
とが高慢だ。それは神を認めない事だ。
又、優越感は人を見下すので、見るか
らに高慢だと思えるが、劣等感も同じ
く高慢だ。神の評価、神の見方を受け
入れないで、自分が自分を評価し、決
めつけているゆえに。神の言葉をどう
聞いているだろう。自分が納得の行く
ものは受け入れ、そうでなければ捨て
る。それなら自分を神の上に置いてい
る。「わたしが目を留める者は、へり
くだって心砕かれ、わたしのことばに
おののく者だ」今一度御言葉を、神の
言葉として受け取ろう。
----------------------
神様、神様といいながら思い煩い、御
言葉の約束を心から受け取らないのは、
高慢からか。信じて重荷を下ろさない
一見、弱腰ふうな高慢を捨てて、心か
ら神様の御手の下にへりくだろう。


2008年02月27日(水)

「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」ヘブル11:13

同じクリスチャンでも、正反対の結果
が出ている。一方は目に見える勝利、
成功例だ。信仰の勇者達が次々と出て
来る。神の介入による奇跡によって、
危機一髪救い出された人々だ。モーセ
の紅海横断、ヨシュアによるヨルダン
徒渉やエリコ陥落、ペリシテを倒す怪
力サムソン、ゴリアテを倒すダビデ、
ライオンの口から救い出されるダニエ
ル・・皆、勇士であり大々的勝利だ。し
かし、一方では、奇跡的な事は何も起
こらない。釈放される事を願わず、拷
問を受けて死んだ。他の人々は嘲られ、
むち打たれ、鎖につながれ、投獄され、
石で打たれて死に、のこぎりで引かれ、
剣で切り殺され・・大々的なみわざは起
こらず、殉教して行った。これらが同
時に起きている。信仰者だからといっ
て、常に奇跡が起きるわけではない。
これら正反対の事はすべて神の御心が
成っている。癌が奇跡的に癒された
人々もいるし、癌で天に召された人も
いる。これは、成功や幸せが、この世
の見方、価値観と全く違うという事だ。
どちらの場合も神の御心であり、最善
だ。どんな状況の中でも、神が私達一
人一人に最善をしていて下さる!それ
を信じよう。そして、永遠が私達の見
据えるべき目標だ。ある人々は約束の
ものを手に入れることなく、信仰をも
って死んだ。天で、最高の喜びと共に
その報いを受けるがために。私達はこ
の世では寄留者でありすべての報いは
天にある事を今一度覚えよう。
・・・・・・・・・・・
信仰生涯、合わすべき焦点は天であり、
その一点が狂うと何もかもが狂い、的
はずれになってしまう。この世ではな
く、見据えるべきは天であり、天に宝
を積む事、永遠に目を定めて、今日を
生きよう。


2008年02月26日(火)

「患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」ローマ5:3

何となく信仰生活を誤解していたりす
る。信仰を持つと良い事づくめであり、
又、人生、肯定的に、スムーズに行く
事が神の祝福と思っている。受験は合
格、畑は豊作、商売繁盛、無病息災、
都合良く行く事が祝福で、不合格、不
作、倒産や病気は祝福が無いと思って
しまう。強いては順境の時は神に愛さ
れていて、逆境の時は愛されていない
と思う。順境は善で、逆境は悪との価
値観があるからだ。それで、逆境が来
ると「なぜ?なぜ?」と落ち込む。世
はまさにそれなので、周囲からは、信
仰の意味がないという目で見られる。
しかし、聖書はそんな事は言っていな
い。信仰者の目的は平穏無事、幸せ、
安楽ではない。聖くされる事、御子の
かたちに変えられる事だ。そのため、
神の子となった途端に、神はどんどん
取り扱われ、鍛えられる。「ご自分の
聖さにあずからせ」るために試練が臨
む。逆境は悪ではなく、それを通して
私達の品格が練られ、弱い者が強くさ
れて行く。ここをわきまえているなら
不必要なつまずきから守られる。ある
人は、近所からの事実無根の誹謗中傷
に苦しみノイローゼ状態だった。しか
し、試練と受け止め、苦しみの中で祈
りつつ委ねて対応した。すると事態の
収束と共にある事を発見した。人が気
になる性質がどうにもならなかったの
が、人が気にならなくされていた。試
練を通して主が変えて下さった。御名
を崇め、感謝に溢れた。
------------------
順境に感謝するのはよいが、試練に打
たれて、本当の自分に向き合い、信仰
を働かせることを学ぶ。はるかに感謝
な事だ。試練を避けず神様からの品格
を身につけたい。


2008年02月25日(月)

「神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」Tペテロ5:6

招かれた人々が上座を選んでいるのを、
主が見られた。もし身分の高い人が来
たら、座を譲らねばならず、恥をかく
ので、末席に着くように言われた。自
分を高くする者は低くされ、自分を低
くする者は高くされるからと。まさか
宴会で、自ら上座に着く事は誰もしな
い。誰しも一見謙遜に、下の方でうろ
うろし、譲り合うだろう。しかし、も
し自ら進んで上座に座る人がいたらど
うか。内心批判し、何と高慢なと、さ
ばく事だろう。それをさばくという事
は、自分にも上座に座りたい、人の上
に立ちたい、人から認められ、評価さ
れたいとの思いがあるからだ。スト
レートに上座を選ぶのは、まだ自他共
にわかりやすい。自分もよく認識でき
る。しかし、外側に決して表れない隠
れた思いは、自分でも気づかない。一
見、謙遜の裏に隠れた高ぶりがあった
りする。パリサイ人と取税人の宮での
祈りの箇所で、パリサイ的祈りが露呈
されている。それゆえ、私は取税人の
ようではない事を感謝しますと、祈る
人はいない。皆、パリサイ人は何と高
慢な、と思っている。しかし、今度は、
私はこのパリサイ人のようでない事を
感謝しますと、心密かに思っている。
それなら、パリサイ人と全く同じだ。
高ぶる者である事を、認めることがへ
りくだる事だ。自分の内側に潜んだも
のを、認めて、悔い改めて、悔い改め
て歩もう。へりくだる者を、主が高く
して下さる。祝福が溢れ臨む。
-------------------------
人にはすぐわかるのに、自分で気づか
ないのが高ぶりだ。すぐに傲慢になる
者だと、いつも自分の心の状態を吟味
して、内側に潜んだへりくだれない心
を認めて行こう。


2008年02月24日(日)

「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです」マタイ13:19

救われたクリスチャンの願いは、誰し
も「信仰の成長、霊的成長」では無い
だろうか。スムーズに成長して行く事
を阻む原因は何だろう。まず御言葉を
聞く態度は大切だ。信仰は聞く事から
始まり、聞く事はキリストのことばに
よる。それゆえ信仰に成長したいのな
ら、どうしても御言葉を聞く必要があ
る。その聞き方が、ぼや〜っと聞いて
いては右から左で、種が心に落ちない
し、とどまらない。サタンがいて種を
奪ってしまう。種が心に植わらない限
り、結実はあり得ない。聞いているつ
もりが、心に何一つとどまってはいな
い。うわの空で、他人事として聞いて
いる。傍観者的態度だ。私達はどうだ
ろう。又、御言葉を聞いても、自分の
思いが強いため、心に植わらない。先
入観や偏見が強く、御言葉と自分の思
いがある時、自分の思いの方を選択し
優先させてしまう。だから、聞いては
いても、実際は御言葉を捨ててしまう
事になる。神以外の事を、優先させて
行くと、伸びたいばらが芽をふさぐよ
うに、信仰の芽をふさいでしまう。神
の事柄がどんどん後回しになって行き、
いつしか離れてしまう。又、正しく受
け止めた御言葉は、実行する事が何よ
り大切だ。従って行く時、必ず変えら
れて行く。
・・・・・・・・・
成長できるように、主は繰り返し御言
葉を語り続けて下さっている。主の愛
であり何と感謝だろう。主が「心に植
え付け」て下さる。私達は「素直に受
け入れ」るだけだ。


2008年02月23日(土)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3

生まれつきの盲人を見て、弟子達は、
主にその原因を尋ねた。本人の罪のた
めか、親の罪のためかと。しかし、主
は原因ではなく、目的をもって答えら
れた。神のわざが現れるためであると。
主は、私達一人一人の人生に、目的を
持っておられる。弟子達は盲目の男性
を見て、彼が盲目に生まれついた原因
を尋ねた。私達の発想は、何か不都合
な事、マイナス要因、不幸せな事が起
こる時に、それは「悪」ととる。だか
ら次の反応が、なぜこんな事が私に?
と、なぜ?なぜ?と動揺し戸惑い、そ
の原因を追及しようとする。マイナス
の事態、一見不幸な事柄は悪なのだ。
しかし、主の見方は全く違う。神は私
達一人一人に、計画を持っておられ、
マイナス要因に目的を持っておられる。
主は、その盲人を癒す事を計画してお
られた。私達は目が曇っていて見えな
かったりする。又、焦点も合っていな
い。一見、不都合な形で現れたり、不
幸な形で現れると、自分の思いと合わ
ないので、神のご計画が見えない。あ
なたも、今、自分の思いと違うので、
見えていないかも知れないし、見誤っ
ているかも知れない。よく祈ってみよ
う。その不都合な事態は、実は神の栄
光が現され、又、周囲の人々も神のみ
わざを見るためだ。神が見ておられる
ように、見えるように祈ろう。
・・・・・・・・・
都合の悪い事、不幸な事、マイナスな
事は「悪」との価値観が問題だ。今、
目の前にある辛い事、苦しい事は神の
わざが現れるためであり、それを通し
て神を知れるとは、何と嬉しい事だろ
う。


2008年02月22日(金)

「・・イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15

エマオ途上の二人はどんな気持ちだっ
たろう。とぼとぼと、足取りも重く、
別に郷里に帰ったところで、何がある
わけでもなし、失望と落胆、うつろな
心だったろう。現に主の復活が起きて、
罪も死も飲まれ素晴らしい勝利が輝い
ている、それが現実なのに、今それを
手に出来るのに彼らは下を向き、空虚
な、暗い重苦しい中にいた。まさに
「暗い顔つき」だ。私達の姿だろうか。
思い煩いと不安と不信仰の中にいるだ
ろうか。よみがえりの主が、私達のか
たわらにおられるというのに。「目が
さえぎられていて、イエスだとわから
ない」、御言葉を信じないという事だ。
主のよみがえりを信じない。不信仰の
目には、主が見えない。しかし、主は
そんな弟子の、私達のかたわらを歩ん
で下さっている。それゆえ主は御言葉
を説き明かされた。その御言葉に真剣
に聞き入った時に、暗い落ち込んだ重
い心が「うちに燃えていた」。失望落
胆や疑いにある時、主の語って下さる
御言葉に耳を傾ける事だ。信仰は聞く
事から始まり、聞く事は御言葉による。
御言葉を受け取る時、信仰が与えられ
る。振り返る時どうだろう。何度もダ
ウンするが、主が語られる御言葉によ
って、もう一度引き上げられたのでは
ないか。ダウンしている最中も、主は
あなたのかたわらにおられる。
--------------------
思い煩いや取りこし苦労で、とぼとぼ
と歩いている時には、主が見えていな
い。どこを見ているのか。自分の中の
不安ばかり見ているより、主を仰ぎ、
側におられる主に信頼して歩もう。


2008年02月21日(木)

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」ヘブル2:1

心にひっかかる御言葉があるだろうか。
聞けない、聞きたくない、ふたをして
おきたい御言葉だ。御言葉は鏡となり
心を映し出すので、それこそがあなた
の問題点かも知れない。薄々わかって
いるから聞くのが嫌なわけで、なぜ拒
否反応が起こるのかよく考えてみよう。
プライドか虚栄、妬み、貪欲か、不信
仰か何かに触れているはずだ。そこを
はっきりさせて行く事が成長だ。神に
向き合い、自らの真実な姿、弱さや罪
を認めて行く時、御父との交わりの中
で成長して行く。御霊に自分の本当の
姿を照らされ、自分が思っている自分
ともズレがある。それらを見せられ、
変えられて行く。自分の真の姿を見て
行く時、成長して行く。それにふたを
しているなら、変えられようがない。
又、漠然と漫然とクリスチャン生活を
しているなら、ただ流されて行くだけ
だ。もし成長したいなら、御言葉に真
剣に向き合う事だ。必ず自分自身が照
らされる。自分の願いだけでなく、神
が私に何を望んでおられるのかを求め
て、従って行く時、出来ない自分、葛
藤する自分を知り、実際の神の助けや
支えを経験し、神を実感して行く。ぼ
やっ〜と流されないで、まず真剣に御
言葉に向かってみよう。流されるのは、
しっかり御言葉を心に留めていないか
らとある。
------------------------
従えないと葛藤をする事もなく御言葉
を流してしまっていないだろうか。御
言葉をひとつでも蓄え、自分の事とし
て向き合い、聞き従う者でありたい。


2008年02月20日(水)

「あなたが、はしための悩みを顧みて・・このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」Tサムエル1:11

ハンナの時代は、霊的暗黒時代だ。指
導者はおらず人々は悪に走り、めいめ
いが自分の目に正しいと見える事を行
なっていた。神はこの暗がりの中で霊
的指導者を起こそうとされた。そのた
めにハンナを選ばれた。ハンナは勇敢
な強い女性ではなく、悲しみと苦しみ
に打ちひしがれた無力な女性だった。
不妊であり、当時不妊は神の呪いとの
迷信があり、周囲からもそういう目で
見られその苦しみは尋常ではなかった。
又、それはハンナを憎むペニンナから
の格好のいじめ材料だった。神に祝福
されていないのか?神の御心がわから
ず、苦しい試練だった。ハンナは心痛
み、主の御前に行き、激しく泣いて祈
った。酔った人と間違われるほど、な
りふり構わず心を注ぎ出したのだろう。
子供が持てない悲しみ辛さ、人々の目、
ペニンナのいじめの苦しみ、夫にもわ
かってもらえない孤独、神の御心がわ
からない困惑、何もしてくれない神へ
の恨み心もあったかも知れない。それ
らをことごとく神に訴えた。「安心し
て行きなさい」と神に受け止められた
確証を得た。それで全き平安を得、彼
女は変わってしまった。祈りは自分自
身を変える。神と真に交わりが生じ、
全面的に委ねられるからだ。「主が彼
女の胎を閉じておられた」サムエルが
祈りによって生み出され、神に献げら
れた器であるよう、神は計画された。
そのためにハンナは用いられた。
・・・・・・・・・・
主にあっては、痛みや苦しみもご計画
がある。嘆きと愚痴で終わるか、主の
もとに携え行って、素晴らしい栄光を
拝するか。痛みを携えて主のもとへ行
こう。思いを越えたご計画がある。


2008年02月19日(火)

「ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった」ルツ1:18

飢饉の時に、ナオミは神に期待するの
でなく、自分の願い、肉の思いで判断
した。約束の地を離れ、偶像の地モア
ブに糧を求めて移住した。食物は豊か
で、快適で、やはり来て良かったと思
った事だろう。ところが夫と二人の息
子が死んでしまった。家庭の幸せのた
めに来たはずが、その家庭自体を失っ
てしまった。元も子もない。そんな時、
故郷が今や豊作と聞き、思いが募り、
帰郷を決心する。神の語りかけだ。人
は窮地に陥り、真剣に神に向かう。裏
返せば、窮地でないと真剣に神を求め
ない。何と大きな痛手を受けた事だろ
う。満ち足りて出たが、素手で帰る事
になる。それも辛い中を通って。富、
繁栄、名誉地位を求めて神を離れても
何の平安もなく虚しい結果を招く。神
に帰るナオミに、すべてを失ってしま
ったナオミに、神は尚も素晴らしい恵
みを備えておられた。ルツだ。ルツを
与えて下さった。神の約束を信じない
で、約束の地を離れ、目の前の美味し
い草を求めて、道をそれて行ってしま
う。しかし、神の憐れみは尚も尽きず、
すべての事を働かせて、まさに益とし
て下さるお方だ。私達も失敗に関わら
ず、尚も憐れみ、ルツを備えて下さっ
た経験があるだろう。次に、苦難が来
た時にはモアブへ逃げないで、とどま
って神を信じ続けよう。
-------------------
苦難の中を肉の思いで逃げるのではな
く、そこがみこころなら神様と共に通
り過ぎよう。必ず神様の道が備えられ
ている。幸せは、いつも神様の御そば
近くにいることだ。


2008年02月18日(月)

「古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ・・新しい人を身に着るべきことでした」エペソ4:24

古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に
着るべき事を教えられている。新しく
なるとは、つまりは古い人を脱ぎ捨て
る事だ。ある古い工場が売りに出され
ていた。ガラスは割れドアは壊れ、外
装もはげ落ちていた。買い手が現れ、
喜んだ家主は、ガラスを替え、ドアを
修理し、外装を塗り直すと言った。し
かし、買い手は一切無用だと言った。
なぜなら、全部取り壊して、全く新し
い施設を作るからと。私達の新生も同
じだ。一部を修理するのではなく、全
く新しい建物が建て上げられるという
事だ。新しい建物を建てるために、古
い建物を壊さなければならないが、そ
の古い建物が捨てられない。古い思考
パタンや見方考え方が根強くて、なか
なか捨てられない。主を信じ救われて
いるが、価値観は古いままだったりす
る。古いままの価値観や思考パタンの
上に、新たな建物を建てている。そう
であるなら、主の言われる事より、自
分の思いの方を信じる。御言葉より、
目に見える所や常識を信じる。その古
い価値観が問題だ。それを脱ぎ捨てな
い限り成長がない。御言葉を、その通
りに受け入れないからだ。幾ら愛され
ていると言われても、いいや、そんな
はずはないと心の底では否定している。
御言葉を信じないで、古い価値観の方
を信じている。私たちはどうだろう。
新しくされている。古い価値観を脱ぎ
捨て、脱ぎ捨て前進しよう。
---------------------
御霊様がうちにおられるのに、なぜい
つまでも自分の知恵や習慣で生きてし
まうのだろう。主が新しく変えて下さ
る事を信じ、自分を閉じこめている古
い人を脱ぎ捨てて行こう。


2008年02月17日(日)

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに・・した。すると彼のからだは元どおりになって・・きよくなった」U列王5:14

ナアマンと言えばプライドで有名だが、
らい病を癒してもらうために、エリシ
ャを訪れた。しかし、将軍自ら訪ねて
いるのに、エリシャは会う事もせず、
使いの者に伝言した。ナアマンはプラ
イドを傷つけられた。ましてや、手を
置いて癒すのではなく、ヨルダン川で
七回身を洗えと。それを聞いて、ダマ
スコにもっと良い川があると怒った。
ひどくプライドが傷つけられたからだ。
神はこのナアマンのプライドをご存じ
で、エリシャを通して、砕こうとされ
た。自分はいっぱしと思い、人よりは
かなりましと思い、自分の思いに神を
従わせようとする態度は、ナアマンだ
けだろうか。人間のプライドは、神の
恵みと相容れるところが全く無い。神
はナアマンに、真の救いを、真の癒し
を与えるがために、そのところをあえ
て通された。彼の高いプライドが取り
扱われる必要があった。しもべ達がナ
アマンに進言した。難しい事を言われ
たなら、プライドが保てた。しかし、
余りにも簡単で、又、人々の目にさら
される状況にプライドが許さない。だ
が、とにかく言われる通りしてみたら
いかがなものかと。ナアマンはその忠
言に耳を傾け、プライドを捨てて、従
った。すると完全に癒された。あなた
も今、プライドを捨て、自分の思いを
捨てて、御言葉に従うように、御霊に
促されていないだろうか。
・・・・・・・・
プライドはやっかいだ。罪を、弱さを
認めさせない。突っ張り、へりくだれ
ない。自分が神だ。自分の思い通りに
やって行く。御霊の示しに従う時、御
霊は助けて下さる。その時、自我が砕
かれて行く。神の愛を知り喜びが満ちる。


2008年02月16日(土)

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」ヘブル11:6

信仰者に必要なものは信仰だ。神は霊
であり肉眼では決して見えない。どう
頑張っても見えない。「信仰」という
メガネを通して初めて、神が見える。
「信仰」を通さなければ決して見えな
いゆえに、信じなければならない。神
がおられる事、神を求めるなら報いて
下さる事を信じる必要がある。自分の
願い事を求めるのでなく、「神」ご自
身を求める事が大切だ。そうするなら
必ず報いて下さる。神のために生き、
神ご自身との交わりを求めて生きるな
ら、必ず報いがある、これを堅く信じ
よう。神を求めて歩むとは、御霊によ
って歩む事だ。御霊による歩みと、肉
による歩みがある。御霊の導きを選択
するか、自分の欲望を選択するかだ。
自分の欲望のままに歩むと、自己中心、
偽り、虚栄、貪欲、妬み、そねみ、争
いに向かう。しかし、自分に死んで、
御霊に歩むと、自制の実を結び、愛、
寛容、親切、善意・・の実を結んで行く。
そして、どちらも刈り取りがある。肉
欲に歩むと、周囲にも害毒を流し、自
分の行為の結果を刈り取る事になる。
又、御霊に歩むと、温もりと潤いを周
りにも溢れさせ、証しとなり、実を結
んで行く。神を信じる歩みは決して虚
しいものではない。報いがあり豊かに
刈り取って行く歩みだ。目に見えると
ころに惑わされず、神を信じて歩もう。
・・・・・・・・・
信じた時、従った時、目に見えない神
が見える。御霊の導きに従った時、神
に愛されている事がわかる。信じて従
うほど、ますます愛がわかる。この喜
びと平安と満足は何にも代えられない。


2008年02月15日(金)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24  

 

私達は「何のために」神に従っている
だろうか。平安や充足感、自分の欲し
いものを手に入れるためか。自分の願
望を叶えて欲しいためか。それなら、
神を自分のために利用することになる。
エデンの園で、罪が入って以来、自己
が心の王座に座り、神となり、自分を
喜ばせる事が満足であり、欲望を満た
すことが喜びとなった。与えるより受
ける方が喜ばしいし、絶対に損はした
くない。物事を損得で計算し対処する。
得はするが損はしたくない。出来るだ
け犠牲は払いたくない。労力も最小限
度に抑えたい。他人の益を計るのでは
なく、自分の益を計る事に忙しい。自
分の時間は奪われたくない。これらの
源にあるのは強烈な自己だ。アダムと
エバが選択した「罪」の凄まじい結果
だ。握ったものは決して手放さない。
責任は人になすりつけ、都合の悪い事
は人と社会のせいにし、都合の良い栄
光は自分が取る。罪の性質だ。アダム
からの性質は自己が神だ。自己主張、
自己実現、自己愛・・しかし、主は自
分を捨てて従う時、いのちを得ると言
われた。このような者が、損得ではな
く、神の御心を求めて判断し、損にな
っても御心を行なって行く。自分を喜
ばせるのではなく、神をお喜ばせしよ
うとしている。そのような者に変えら
れている。これは恵みであり、奇跡だ。
---------------------------
自分を捨てることは、この世の価値観
では絶対に出来ない。私達も捨てられ
なくて嘆くのではなく、ため込めなく
て嘆いてはいないだろうか。主はこの
ような者の為にご自分を捨てられた。
この世に逆らい、主に従って行きたい。


2008年02月14日(木)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」ヤコブ1:14

妊娠してお腹に命が宿り、やがて10ヶ
月後、誕生するように、「欲望」はそ
のように胎の中で少しづつ成長して、
やがて「罪」となり目に見える形で誕
生する。神は決して罪に誘惑されない
お方であり、誘惑の首謀者はサタンだ。
人の「欲望」に乗っかかり、おびき寄
せ、巧みに誘惑する。内にある「欲
望」が足がかりだ。内に潜む「欲望」
は目に見えない。プライドや虚栄心、
貪欲、嫉妬、憎しみ・・等は目に見えな
いものだ。しかし、それらの欲望は日
増しに成長し、いずれはっきりと目に
見える形となり、外側に現れる「罪」
となって産み落とされる。サタンは内
側にある欲望を、目に見えない形で、
内側でどんどん成長させて行く。サウ
ルはダビデへの妬みを、サタンにより
どんどん増幅させられ、自らもそうす
る事を許し、それは実際的殺意にまで
膨らんで行った。お金の好きなユダは
銀貨30枚で主を売った。欲望を妊娠
させて、膨らませて行くと、欲望に飲
み込まれ、支配されてしまい、自分で
自分が何をしているのかわからなくな
る。後に冷静に考えると、何と愚かで、
なぜあんな事をと思うが、それが罪の
持つ力であり性質だ。サタンはあなた
の「欲」に働いて来る。いつも同じ所
に誘惑が来ていて、自分ではわかって
いるはずだ。そこのところを主に明け
渡し、主に頼り、サタンを見張ろう。
・・・・・・・・・・・・
口に出していないから、思っている分
には良いだろうと、罪を膨らませてい
るうちに、目つきに、態度に表れ、最
後は人を傷つけて行く。み言葉に照ら
されサタンの足場となる欲を見張ろう。


2008年02月13日(水)

「しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:18

二人の弟子達は目がさえぎられていた、
とある。そのため、かたわらを歩いて
おられる方が主イエスだとはわからな
かった。なぜ、わからなかったのか。
御言葉によると「信じない、心の鈍い
人たち」とある。「不信仰」が目をさ
えぎっていたと。復活を信じない彼ら
は、主が死んでしまったと、深い失望
と落胆の中にあった。悲しみもあった。
私達も失望、落胆の中にいる時、主が
全く見えない。真っ暗だ。「失望」と
は主に期待をしない、主を見限った不
信仰だ。主には不可能とする、不信仰
は私達の心をふさぎ、主を見えなくす
る。又、「自己憐憫」は自分の殻にこ
もり、主をシャットアウトするので、
ただ見えるのは自分だけだ。又、「思
い煩い」も目がさえぎられる。主を閉
め出し、不安に支配され、山の心配だ
けが見えて、主が見えない。「多忙」
も目の前の事に心が捕らわれてしまい、
主を認める事をさせなくする。あなた
も今、目がさえぎられているか。障害
物に気づき、悔い改めよう。それを取
り除けて頂こう。今もあなたのかたわ
らに主がおられる。
・・・・・・・・・・・
主に期待しない、信じようとしない頑
なな不信仰は全く主が見えず、真っ暗
闇の中だ。主を信じようとする時、平
安が来て、すぐかたわらにおられる主
が見えて来る。


2008年02月12日(火)

「あなたの先祖たちの知らなかったマナを、あなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたを幸せにするためであった」申命記8:16

「あなたを苦しめ」「あなたを試み」
と神は言っておられる。苦しみが臨む
と「なぜ?なぜ?」と不平不満、つぶ
やき、怒りが出て来るが、試練を通し
てしか得られないものがある。「苦し
みに会う前には、私はあやまちを犯
し」、人は頑なで強情であり、何と自
分を正当化し、周囲を責め、非を認め
ない者だろう。苦しみにより砕かれて、
自分の力に頼れず神に追いやられる。
もうなすすべなく、神にしか頼れない
ところにまで追い込まれる。その時、
初めて真に神を知る。拠り頼む事の意
味を知る。幸いな経験だ。涙の谷を過
ぎる時も、そこが泉の湧く所となる。
すべての人は試練に会う。思い通りに
行かないから試練だが、その時に、環
境や他人のせいにし、愚痴と不満で苦
しみに飲まれて行く事もできる。又、
訓練として受け止めて行く事もできる。
心を屈折させるのも、心素直にするの
も、自らの選択だ。そしてその結果を
刈り取る。「人がその子を訓練するよ
うに、主があなたを訓練される」訓練
として受け止めるなら、測り知れない
益を得る。平安な義の実を結ぶ。心を
頑なにせず、試練の中で主に従おう。
後に「苦しみにあったことは、私にと
って幸せでした」と必ず言える。苦し
みは私達を、神に近づけてくれる。
------------------
苦しい状況から逃げてしまおうとした
時、ふと思った。ここを通っているか
ら神様に頼り、ため息のように祈り続
けているのだと。主は私の右の手をお
おう影と、意識しながら生きている。
順境の日が今より幸せなのだろうか。


2008年02月11日(月)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった」ルカ15:28

兄は弟のように家出したわけではない。
父親の言いつけを守り、父親のもとで
懸命に働いた。しかし、兄息子にとっ
て、父親とはあたかも労使関係だ。労
働を提供して報酬をもらう。父親にと
ってこんなに悲しい事はない。親が子
供を愛するのは、まさに子供であるか
らであって、何かをしてくれるから、
労働を提供してくれるからではない。
クリスチャンも律法に陥ると、よく勘
違いをする。自分の努力や働きによっ
て、神の愛をもらおうとし、祝福を得
ようとする。神に願いを聞いてもらい
たいがために、懸命に奉仕する。ある
人が信仰生活を一生懸命頑張った。そ
の結果は、疲れ果て、人を責め、裁き
まくり批判する、嫌な人間になってい
た。自分が絶対になりたくないと思っ
ていたそのものになっていた。神は全
能なのに、なぜ自分はこうなるのか。
挫折して初めて、自分の力で生きてい
る事を示された。周囲を責め、非難し、
裁くのは、自分の力と思いで突き進ん
でいたからだった。恵みの中で憩う事
を教えられて行った。兄息子は父の心
がわからない。本来なら父と一つ心で、
父の側に立ち、共に労すべき者だった。
距離的には近くいたが、その心は全く
離れていた。重症なのは、弟以上に兄
なのかも知れない。兄にも御父の両手
が開かれている。「わたしのものは全
部お前のものだ」との大いなる恵みと
愛の中に飛び込もう。
・・・・・・・・・
見せかけの信仰生活ではない神様との
真の交わりを持っているだろうか。窮
屈な信仰生活を送っているだろうか。
いつも神様のそばいる事を喜び恵みの
中に置かれている事に感謝しよう。


2008年02月10日(日)

「この息子は、死んでいたのが生き返り・・」ルカ15:24

弟息子は父親に一片の感謝もなく、父
親が窮屈であった。財産をもらって、
家から出て行きたかった。生きている
父親に財産を要求するなどと「父親よ、
死んでくれ」と言っているようなもの
だ。彼は何をしたのか。「遠い国に旅
立ち」「放蕩して湯水のように財産を
使った」「遊女におぼれて身代を食い
つぶした」つまり、誰にも邪魔されず、
好きなように、自分の思い通りに、自
分の肉の欲望を遂げ、気ままに生きた
かったのだ。ごちゃごちゃ言う父親が
窮屈で、とにかく好き放題にしたかっ
た。自らの意志で父から離れた。そし
て、財産を使い果たし、食べるに困窮
し、豚の番人をするが、誰一人彼を顧
みてくれる者もいなかった。誰からの
愛も無かった。心身ボロボロになり、
何の手だても無くなった時に、我に返
り、すべてのこれらの原因が、父のも
とを離れた事にあると気づいた。それ
で父のもとへ帰ろうと思った。しかし、
父を足蹴にし、裏切り、傷つけ、自分
勝手に家を出た。好き放題の放蕩三昧
し、とても受け入れられるとは思えな
かった。それで、雇い人にしてもらお
うと考えた。しかし、父の愛は、人知
では到底測り知る事のできない愛だ。
悔い改めの告白の言葉を準備したが、
それを言う前に抱きしめられた。父の
大きな喜びは、死んでいた霊が生き返
る事だ。
・・・・・・・・
人は手だてがある限り、神ではなく自
分に頼る。何の方法も無くなった時に、
初めて神に頼る。真に神に出会う。行
き詰まりは本当に素晴らしい恵みの時
だ。


2008年02月09日(土)

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」箴言27:5

時に、真っ直ぐに語ることは大切であ
り御心だ。自分が言いたくない厳しい
事も、御霊が導かれるなら、はっきり
と相手に語る必要がある。相手には必
ず痛い、聞きたくない忠告や警告、助
言なので、相手に嫌われるかも知れな
いし、反発されるかも知れない。しか
し、御霊の促しがあれば、従うことが
必ず祝福となる。「築き上げるためで
あって、倒すためではない」、神がさ
れる事は、常に建て上げ、築き上げら
れる事だ。相手を築き上げるために、
神はあなたを用いられる。忠告するよ
うに促されたなら、まずよく祈って執
り成して、自分も同じ状況になればど
うかとよく考えてみるべきだ。単に罪
を責めるだけでなく、自分にも弱さが
あり、相手への同情と愛情が生まれる。
愛が無ければ、その忠告は無意味で虚
しい。やかましいどら、うるさいシン
バルになってしまう。相手の心に届か
ないし響かない。又、逆の場合もある。
私達が忠告を受ける場合だ。誰かが、
間違いを指摘し、忠告してくれる時、
それは、人からではなく、神からだ。
素直に、謙虚に耳を傾け、警告を受け
取ろう。自我、プライドには、痛烈な
打撃かも知れないが、へりくだる者を
神は高められる。力強い御手の下にへ
りくだろう。信仰者として成長の時だ。
・・・・・・・・・
痛い言葉こそ自分を成長させてくれる。
指摘がないと気づけない。気づきが無
いところに成長は無い。痛いがへりく
だって受け取ろう。大きな祝福の実を
刈り取る。


2008年02月08日(金)

「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」Tテモテ1:19

信仰生活には、信仰と「正しい良心」
が大切だ。信仰があっても、正しい良
心を捨てると、信仰の破船に会うと。
良心というと、普通正しい良いものと
思うので不思議だが、良心にも「正し
い良心」と「邪悪な良心」がある。神
の似姿として創造された人間は、神か
ら良心が与えられたが、アダムとエバ
が、罪を犯して以来、人間の良心は歪
んでいる。「神のようになり」たくて、
善悪を知る木の実を食べた彼らは、自
分の意志と判断で生きて行くようにな
った。それまでは、すべての判断を神
に信頼し、神に聞けば良かった。人間
の判断はその人の価値観によって異な
る。同じ事をしても、考え方や価値観
により良心の呵責を感じる人と感じな
い人が出て来る。又、間違った良心の
呵責に責め立てられる人もある。主を
信じる以前の良心を「邪悪な良心」と
言っている。人は肉の性質、罪の性質
があり、自分に都合の良い事が容易に
正しい事になってしまう。又「良心は
麻痺する」ので、良心を無視し間違っ
た事をし続けると、機能を果たさなく
なり、とがめを感じなくなる。「弱い
良心」にサタンの間違ったとがめの攻
撃も来る。御霊と神の言葉が、私達を
正しく導き、造り変えて行ってくれる。
「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心を
きよめられ、からだをきよい水で洗わ
れたのですから、全き信仰をもって、
真心から神に近づこうではありません
か」
・・・・・・・・
邪悪な良心や、偽りの謙遜など、自分
は、たやすく間違ってしまう者だと覚
えていたい。神様の口から出たひとつ
ひとつのみ言葉に聞きながら人を傷つ
けたり、自分を傷つける事から守られ
ますように。


2008年02月07日(木)

「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」マルコ11:24

              
 信じて祈る時、素晴らしい約束を与
えて下さっている。しかし、次に言葉
が続いている。「だれかに対して恨み
事があったら赦してやりなさい。そう
すれば、天におられるあなたがたの父
も、あなたがたの罪を赦してください
ます」赦す事を強調されている。赦さ
ない心は、祈りを大きく妨げる。神が
あなたを赦して下さったのだから、恨
み事のある相手を赦しなさい、と。私
たちは、しょっ中、失敗する者だ。し
かし神は豊かに赦し続けて下さってい
る。罪を犯さないのではなく、罪は犯
すが、赦されて生きている。それゆえ、
私たちも赦すべきだと。まず恨み事や、
憎しみや赦さない心があると、祈れな
くなってしまう。神と私たちの間に、
へだたりができてしまう。すると、確
信もった祈りができなくなる。ある人
が、切実な必要があり、神の御前に出
て祈っていた。しかし、祈り続けるが
与えられない。祈りの中で、ある人の
仕打ちに対し、恨みと敵意、苦々しい
思いを根に持ち続けている事を示され
た。これが祈りの妨げになっている事
がわかり、悔い改めて、赦した。その
後、見事に祈りの答えが与えられた。
赦さない心は、祈りを遮断してしまう。
祈りの答えを受け取るために、自らに
密かな恨み、赦さない心がないかどう
か、御霊に探って頂こう。妨げが取り
除かれる時、すでに受けたと信じる事
ができ、その通りの答えを得る。
・・・・・・・・・
苦い思いが心にあるなら、その都度、
神様に告白して赦されなけることだ。
何度でも赦されることが感謝だ。自分
勝手な思いばかりを神様に押し付けて
いないだろうか。


2008年02月06日(水)

「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」ルカ7:9

百人隊長は立場上、権威というものを
身をもって知っていた。自分の指令し
た、まさにその通りに部下は動く。そ
れゆえ主イエスの権威を認め、来てい
ただくに及ばず、ただお言葉をいただ
けば十分だと言った。主の主権と権威
を心から認めていたからだ。私達はど
うだろう。主の主権と権威を、真剣に
信じているのだろうか。認めているだ
ろうか。自分の思い通りに事が運んで
いると、神を認めるのだが、自分の思
い通りでないと、何で?自分だけが不
幸で、他の人は皆幸せ、神様はひどい、
意地悪だ、なぜ?なぜ?と、ひがんだ
り、すねたり、文句タラタラだ。都合
の良い時だけ、神の主権を認め、都合
が悪くなると、手の平を返したような
態度になる。これは神中心の信仰でな
く、自分中心の信仰だ。神の栄光や神
の御思いに中心があるのでなく、自分
の思いに、自分の都合に自分自身に中
心がある。自分の思いに合っている間
は良いが、ズレて来ると神を非難する。
私達はどうだろう。百人隊長のように、
神に全主権と権威を認め、へりくだり、
どうであれ神は良くして下さる、最善
をして下さると信じて行けたらどんな
に良いだろう。その時、主は「このよ
うな立派な信仰は見たことがない」と
言って下さる。「自分の思い」という
メガネで見ている事に気づく事が祝福
の始まりだ。
・・・・・・・・・
自分を軸にすると、思い通りにならな
い事にイライラする。視点を神に置く
と神の御心がなされている事に全き平
安が来る。今日も「行く所すべてに神
を認め」よう。まず心をまっすぐにし
て平安を下さる。


2008年02月05日(火)

「人がもし不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」Tペテロ3:19

信仰者は必ず試練があり、苦しみを受
ける。しかし自分の至らなさゆえ、欠
点ゆえに問題を起こし、周囲に迷惑を
かけ苦しみを招く。これは信仰ゆえの
苦難ではない。信仰に関係の無い苦難
だ。誰でも、失礼な事や他の人が不快
に感じる事をするなら、叱られるし非
難される。社会生活をしていて当然だ。
キリスト者以前の問題だ。しかしそう
ではなく、キリスト者ゆえに苦しみを
受ける事がある。迫害があり不当な苦
しみを受ける、「そしりと苦しみを受
け、捕らえられ、財産が奪われ」・・今
の私達の時代なら、信仰ゆえに陰口を
言われ、仲間はずれにされるかも知れ
ない。嘲笑や、無視の対象になり、理
不尽な目に会うかも知れない。しかし、
キリストゆえの苦しみなら、恥じる事
はない。かえってこの事のゆえに神を
崇めるようにと。そして、忍耐が必要
不可欠だ。神の御心を行って、約束の
ものを手に入れるために必要なのは忍
耐だ。苦難の時は、忍耐を培われる時
だ。忍耐とは我慢する事でなく、どん
な状況の中でも、神が必ず良くして下
さる事を、積極的、前向きに信じて行
く事だ。この忍耐を働かせる時に、信
仰に成長して行く。ヤコブ1:4 そして
どんな時にも確信を決して投げ捨てて
はならない。その確信は必ず報われる
のだから。
---------------------
キリスト者はのゆえの苦しみは、誰が
知らずとも神様が知っていて下さる。
悲しみや悔しさの言葉をぐっと飲み込
む時、神様の喜ばれる無言の証しへと
導かれ、また一つ勝利できる


2008年02月04日(月)

「事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」Tテサロニケ2:13

ある人が言った「御言葉を聞いてはい
るが、こんな事では世の中、とうてい
生きて行けないと思って、御言葉を心
に受け入れていなかった、過ぎ去らせ
てしまっていたと思う」と。御言葉を
読む時に、良いお話、ためになるお話
程度に思っていて、神の言葉として受
け取っていない。現実と相容れないか
らだ。罪と言われても、別に誰でもし
ている事だし、又、そんな事、いちい
ち罪と言われたなら生きて行けない。
良いお話だが現実離れしている。この
世で通用しない。世の価値観、今まで
生きて来た価値観と御言葉が正反対な
のだ。例えば所持金が少なくなると、
支出を控え、献金も渋る。しかし、神
は真逆だ。豊かになるためにはもっと
献げよと言われる。少し蒔くと少しし
か刈り取らず、豊かに蒔くと豊かに刈
り取る。献げるほど豊かになると。こ
れは世の常識を越えていてわからない。
この世は自己をいかに良く見せてア
ピールするかが勝負だ。しっかり自己
を主張する事だ。しかし、御言葉は自
分に死に、へりくだれと言う。へりく
だるなら高められると。世は得る事が
喜びであり、御言葉は捨てる事、失う
事、献げる事がいのちへの道だと言う。
この世と正反対なのだ。自分の思いと
違っても、聞いた御言葉を信仰に結び
つけ、信じよう。信仰によって受け入
れて従って行く時、本当に神の素晴ら
しいみわざを見る。
----------------------
真実な神様のみ言葉にたよって行く時、
真逆の奇跡を見る。み言葉を自分のも
のとして聞いて行こう。生きたみ言葉
の種を取りこぼさないように。


2008年02月03日(日)

「あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした・・廃墟となったわたしの宮のためだ」ハガイ1:9

主の宮が廃墟となっているのに、自分
達は板張りの家に住んでいてよいのか。
現状をよく考えよと、主が、ハガイを
通して民に語られた。多く蒔いても少
ししか収穫がなく、食べても飲んでも
飽き足らず、幾ら稼いでも穴の開いた
袋に入れるだけで、貧しく、生活が満
たされる事がないと。多くの収穫を期
待しても、僅かしかないと。「わたし
はそれを吹き飛ばした」と。「わた
し」による事だと。天は露を降らさず、
地は産物を産出しない。神がストップ
をかけておられる。なぜなら、神を顧
みず、自分中心に自分の事だけに奔走
してしたからだと。神は何かを告げた
いがために、時に祝福を差し控えられ
る。神を忘れ、自分を喜ばせるだけの
生活にある時、収穫が無いよう、事態
がうまく行かないようにされる。立ち
止まって、考えさせるためだ。行く道
をふさがれる。自分勝手な道に行く者
を懲らしめられる。それは神の愛だ。
放っておかれたなら、どうなっていた
かわからない。多くの人が、主を忘れ
て生活していたが、行き詰まったから
こそ、主のもとに戻れたと証ししてい
る。あなたも今、色々な事でギクシャ
クしているか。物事がうまく行かない
だろうか。何かが空回りしている。こ
れでよいのかと、立ち止まって考えて
みよう。優先順位は狂っていないか。
第一のものを第一にしているか。あら
ゆる祝福と平安喜びはそこから来る。
・・・・・・・・
日々の忙しさにすぐに流されてしまう。
目の前がふさがれる時、状況よりまず
神に目を向けよう。神が立ち止まる
よう合図を送っておられる。何らかの
軌道修正が必要かも知れない。方向を
それないよう導いておられる神の愛だ。


2008年02月02日(土)

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちにすがたを変えられて」Uコリント3:18

時々「どうせ、私なんてだめで〜」と
いう人がいる。しかし、心を屈折させ
ているのであって、素直に自分の弱さ
を認めているのではない。その証拠に
「ほんと、あなたはだめよねえ〜」と
でも言おうものなら、大変な事態にな
る。つまりは、「自分がだめなのでは
なく、自分を認めない、評価しない周
囲が悪い」と言っている。自分を正当
化し、人を、周囲を責めて、相手のせ
いにする。人のせいにしていると、自
分を見なくて済む。自分を直視しなく
て済む。そうやって現実から逃げてい
る限り、自分の成長は望めない。もし
成長したいなら、ありのままの自分か
ら逃げず、目をそむけず、直視する事
だ。真実の自分だ。それをきちんと見
て、認識する事によって、自分は変え
られて行く。成長に際して、自分が変
えられる事に際して、いつも自分の現
状の姿を、弱い醜い姿を主は認めさせ
られる。それなくして、変えられよう
がない。自分の弱さは誰しも見たくな
いし、余りにも惨めで認めたくない。
しかし、虚構の自分にいる限り、信仰
の成長はあり得ない。「これが自分で
す」と認める時、同時に、きれいな自
分でなく、汚れた醜いままの自分を極
みまで愛して下さっている神の愛がわ
かる。今まで自分自身が妨げて見えな
かった、溢れる恵みが見えて来る。
・・・・・・・・・・
自分の弱さは見たくないし、目をそら
していたい。余りにも惨めだからだ。
惨めで認められない。だが、へりくだ
って認めるからこそ、このまま愛して
下さっている神の愛が見えて来る。大
きな祝福を経験する。


2008年02月01日(金)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラテヤ6:7 

思い違いをしてはいけない。神は罪を
完璧に赦して下さるが、蒔いたものを
刈り取らないという事ではない。罪の
赦しと罪の結果を刈り取る事は別だ。
罪が赦される事は刈り取りからの放免
という事ではない。罪は完全に赦され
る。一切とがめられる事はない。キリ
ストが代わりに負って下さったのだか
ら。罪のとがめから解放されて、罪責
感も無くなるとは何と感謝な事だろう。
神は罪を忘れ、もう二度と思い出さな
いと。しかし、それとは別に、自分が
した事の結果は厳然と残る。その結果
を負って行くことが、責任を取るとい
う事だ。厳粛な事だ。だから、どうせ
赦されるのだからと、安易に罪を犯し
てはならない。自分が蒔いたものは、
必ず自分が刈り取るのだから。ダビデ
は自らの罪を認め、告白した時に「主
もまた、あなたの罪を見過ごして下さ
った」と、即、罪は完全に赦された。
しかし、刈り取りがあった。生まれた
子供は死に、実子が謀反を起こし、子
供の事で次々と苦しんだ。だが、ダビ
デは罪のさばきと受け取らなかった。
厳しい訓練を通して、信仰も品性も愛
も更に練られ、きよめられて行き、神
の愛をますます知って行った。ヘブル
書に信仰の人として名を連ね、詩篇を
通して、私達も、ダビデの神への深い
信仰と愛に触れる。主は何と憐れみ深
い。
・・・・・・・・・
何と神のあわれみだろう。刈り取りは
決して甘くはないが、罪を全く赦され
ているからこそ、刈り取って行ける。
刈り取りを通して厳しい神の愛を知る。
神のあわれみはどこまでも尽きる事が
ない。