2008年03月31日(月)

「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12

パリサイ人と取税人の祈りがある。取
税人は、神と自分だけしかなかった。
神の前の自分を見て、罪を認識できた。
ゆえに罪が赦された。そこに人はなか
った。しかし、パリサイ人は、神と自
分でなく、人と自分であった。そこに
人がいるだけで、神はない。必然的に
罪の赦しも無い。サタンは常に、私達
にも同じように誘惑を向けている。自
分がどういう状態であるのかを、「人
との比較」で見させる。自分はどうで
あるのかを、人と比較して見た自分、
に向けさせるようにする。あなたにも、
いつも人との比較の思いが来ていない
か。人との比較が基盤になっていて、
人と比較して、自分の足らない部分、
欠けた部分を見つける。そして、その
足らなさを改善しようとする。改善で
きなければ、落ち込み、自分を責め、
劣等感に陥る。そして改善できれば、
優越感に浸るし、又、人より優ってい
れば優越感に浸る。劣等感と優越感を
グルグルするのは、その根底が人との
比較にあるからだ。あなたは何をもっ
て自分を量っているだろう。無意識に、
人と比較して自分を量っている事は多
い。悪魔の罠だ。そして、そこにある
のは高慢だ。私達の基準は人ではなく、
向き合うべきは神であり、御言葉だ。
御言葉は鏡だ。御言葉に自分を照らさ
れる時、罪をする。人との比較でなく、
御言葉に示され御言葉によって生きて
行く。その時、自分が変えられ、ます
ます自由にされ、成長して行ける。
----------------
自分には何もない、頼るのは神様のあ
われみだけと言いながら、人の持って
いるものも羨ましかったり、人との比
較で自分を量っている。だた主と自分
との関係によって生きてゆきたい。


2008年03月30日(日)

「自分のいのちを守る者は自分の道を監視する」箴言16:17

私達は四六時中、サタンの誘惑と攻撃
にさらされている。しかし、覚えるべ
き大切な事は、誘惑自体は罪ではない
という事だ。サタンから次々と「思
い」の火矢が投げ込まれて来る。実は
サタンの火矢だが、自分の思いだと思
ってしまう。サタンは主に、石をパン
に変えるよう誘惑して来た。主が心で、
石をパンにしようかと、思われたわけ
だ。それがサタンの吹き込む火矢であ
り、主はそれを退けられた。つまり、
パンに変えようかと思われたが、罪は
犯されなかった。思う事は罪ではない。
それを選択し、取り込んで行く時罪に
なる。主のように拒否する事だ。そし
て、自分自身の弱い所をよくわきまえ
る事は大切だ。人それぞれ違う。自分
の弱点がある。ある人は思い煩いが強
く、ある人は嫉妬心、ある人はプライ
ド、虚栄心、ある人は富・・。いつも同
じ所に誘惑が来ているから、気づくは
ずだ。サタンはあなたの弱さを、あな
た以上に的確に知っている。だから、
そのような状況へあなたを誘おうとや
っきだ。その誘惑しやすい状況に、あ
なたを置こうと懸命に画策している。
よく振り返り、自分の弱点を把握して
見張っていよう。そうすれば、サタン
が来た時にすぐに気づける。そしてそ
の時には、即、主に助けを呼び求めよ
う。これが一番だ。
・・・・・・・・・
サタンの一番の攻撃は、サタンを忘れ
させる事だ。サタンが全く飛んで目の
前の見える事にほんろうさせられる。
サタンに気づいた時、光の中だ。今も
弱い所に来ていないか。誘惑から守ら
れるようよく祈っていよう。


2008年03月29日(土)

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう」詩篇32:8

主の導きを求める時、「環境」をよく
見て行くことは重要だ。パウロが二度
も環境を通して、行く手を阻まれたこ
とは有名だ。アジアでみことばを語る
事を禁じられたので、フルギヤ・ガラ
テヤ地方を通った。ビテニヤに行こう
としたが、止められ、トロアスに下っ
た。神のご計画は、ヨーロッパへ福音
が伝えられる事であった。もし、神の
阻止がなければ、違う方向へ進んでい
たであろう。私達一人一人にも神のご
計画があり、行く手にストップをかけ
て導かれる。ある志があって、しかし
門が開かれず、状況が整わないなら、
それは神の御心ではない。入試や就職
試験、不合格なら神の御心でない。結
婚を考え、相手がノーであれば御心で
ないという、神からの答えだ。私達は
ストップがかけられると、導きを失っ
たと思い、親にはぐれて迷子になった
ような不安感に陥るが、そうではなく、
「ノー」という明白な「導き」だ。次
の導きを「待て」ばよい。しばしば、
閉ざされる事によって、はっきりと導
きを知れる。又、門が開かれたなら、
それは御心であり、その方向に進んで
行けばよい。御心の門は、ひとりでに
開く。神が開かれるからだ。自分で開
くのではない。必ず目の前の門が、開
かれて行く。御言葉、祈りによる平安
共に、状況をよく観察しよう。
・・・・・・・・
「ノー」は導きであり、それよりも更
に良い、遙かに高いご計画が備えられ
ているという事だ。主は導きの主であ
り、必ず行くべき道を教えて下さる。
環境の開き閉じを見ながら、耳を澄ま
して御言葉を聞きつつ祈ろう。


2008年03月28日(金)

「主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは」T列王21:3

アハブ王がナボテに、代わりを与える
から、彼のぶどう畑を譲るよう、言い
渡した。しかし、ナボテは断った。こ
れは正しい事であった。律法に、先祖
から受け継いだ土地を、売ってはなら
ないと定められていたからだ。もし貧
しさゆえに、その土地を売った場合に
ついても細かい定めがあった。買い戻
しの権利のある親族が買い戻さなけれ
ばならない。神がそう定められ、ナボ
テは神に従った。すると、アハブ王は
不機嫌になり、すねて、激怒した。
「寝台に横になり、顔をそむけて、食
事もしようとしなかった」。自分の要
求が通らず、思い通りにならないので、
ふてくされて、何もしたくなくなる。
アハブは自分が正しくないことはわか
っていた。間違いだとわかっていても、
自分の要求が通らないことに腹を立て
る。どこまでも欲望を通そうとする。
間違いを間違いと認めない時、更に罪
に進み、罪を重ねて行く。結局、妻の
イゼベルによるそそのかしと策略を通
じて、ナボテを殺害する事になる。私
達も学ぼう。自分の間違いは主の御前
ではっきり認めよう。罪が罪を生んで
行く。又、自分の思い通りにならない
時、門を閉じておられる主を認め、主
の御心を受け入れよう。別の門が開か
れる。自分の願望でなく、主を第一に
する時、真の満足と喜びを得る。
----------------
神様に頼らず、すぐに解決できる方法
に走るならいつまでたっても、御心に
は従う事はないだろう。罪が心に生じ
たなら、すぐに神様に告白しみこころ
の内を歩めますように。


2008年03月27日(木)

「・・光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7

ある人が職場で非常な試練にあった。
上司が横柄で、上にはへつらい、下に
はまるで道具のように、こき使って平
気。日々、多大な要求を突き付けられ
非常なストレスで、段々心身限界状態
になって来た。日毎の祈りと御言葉で
何とか支えられていた。上司に仕事現
場の状態を訴えると、以後無視される
ようになった。ストレスは高じて怒り
が湧き、不満、過労で、心が圧迫状態
で祈れなくなった。御言葉も入らない。
真っ暗な中で、もう何もどうにもなら
ず、思わず助けを求めて、主に叫んで
いた。心の底からの叫びであった。主
の御前に静まっていると「他人をさば
くことによって、自分自身を罪に定め
ています」、御霊が心の中の罪を示さ
れた。傲慢尊大な上司を、自分はさば
いていたのだ。「さばくあなたが、同
じことを行っている」上司を罪に定め
ている、自分の同じ傲慢が見せられた。
それゆえ平安も喜びも失せていた。主
の御前で心から悔い改めた。主の血潮
によって赦され、きよめられた平安が
来た。祈りの時が祝福され、主との幸
いな何にも代えられない交わりが回復
した。罪は主との交わりを妨げる。外
部状況でなく心の問題だ。心はひでり
で悶々状態になる。気づいていない罪
をも御霊は示される。罪を認める時す
でに光の中だ。
------------------
自分は正しいと思っていても、心がざ
わつき、落ち着いた神様との交わりが
できない時は、御霊様の示しに耳を傾
けてみよう。肉がフル活動していない
か。光が闇にかわらないように。


2008年03月26日(水)

「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」マタイ7:2

ある家庭に来客があり、ケーキをもら
った。子供はそのケーキを食べたいと、
ねだり言い張った。母親はもう夕食だ
から、食後にするように言った。しか
し、美味しそうなケーキに、子供は、
今食べたいと主張し、聞かず譲らず、
段々言い争いになった。母親は「"親に
従いなさい"とあるでしょう!」と叱っ
た。子供も負けず「"子どもを怒らせる
な""求める者に与え、借りる者は断る
な"とある!」と言った。こんな光景を
経験するかも知れない。御言葉を武器
に争ってしまう。どこが違うのか。自
分の都合のために御言葉を使い、その
御言葉を相手に押しつける態度だ。動
機が間違っている。神のため、相手の
ためでなく、「自分は正しい」に立っ
た自己主張のためだ。そこに愛は無く、
争いを引き起こすばかりだ。相手の心
に響き、相手も素直に「そうだ」と思
え、相手を建て上げ、神の潤いが現れ
る事は決して無い。往々にして、御言
葉の物差しを相手に向けて裁く。する
と裁きが返って来る。自分が量った量
りで、量り返されるからだ。相手の欠
点がよく見えて高い基準で裁くなら、
その基準がそのまま自分に返り、その
高度の基準で今度は自分がさばかれる
事になる。「あわれみはさばきに向か
って勝ち誇る」愛とあわれみがいのち
だ。まず自分の中の裁く心を「認め
る」事から始まる。憐れみの心を与え
て下さる。
・・・・・
御言葉の知識が増すと、御言葉の物差
しを人に向けて裁き出す。自分が神の
座に着く恐ろしい高慢であり、それな
ら知らない方が良い。御言葉の下に自
分を置き「へりくだって心砕かれ、わ
たしの言葉におののく者」であります
ように。


2008年03月25日(火)

「しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:21



よく聞かないだろうか。信仰は弱い者
のする事で、現実逃避だと。しかし、
神無しに自分の弱さなど、誰も見る事
はできない。自分の内の闇は濃く、現
実は厳しく、自らの内側の問題は先送
りし、ふたをして、逃げて避ける。神
の愛と赦しのもとでなければ、自分の
醜さや弱さなど決して見ることは出来
ない。信仰者こそが、主の光の中で、
ありのままの自分を見る、現実に向き
合う事ができる。人が最も苦しむのは、
罪を犯す事ではなくて、犯した罪を隠
す事による。罪悪感で苦しむ事になる。
ダビデは姦淫と殺人の罪を隠していた
間、心はうめき、砂漠のようにカラカ
ラで非常な苦悶の中にいた。告白し
た時に、赦しを受け解放された。罪を
隠ぺいする事が、更に罪の上塗りとな
る。又、自らの弱さを認めないで、う
わべを取り繕って行く時、劣等感のと
りことなる。人は劣っているから劣等
感を持つのではない。自分の本当の姿
を認めないで、隠し、ごまかすところ
から来る。暗闇の世界だ。仮にどんな
に劣っていたとしても、自らのありの
ままの姿を認めて行く時、劣等感から
解放され自由だ。光の世界にいる事に
なる。自分の醜さ、弱さを認めるのは
勇気がいる。痛い事だ。見たくない。
「そのさばきというのは、こうである。
光が世に来ているのに、人々は光より
もやみを愛した。その行ないが悪かっ
たからである」光の方に来ない事、そ
れがさばきだ。光のもとにおり続けよ
う。劣っていても平安と喜びだ。
-------------------------
私達は本当の光を知っているから闇の
苦しみ、辛さがわかる。自分がすぐに
闇の方へと引っぱられてしまう弱い者
だとも知っている。だから真実に神様
に助けを求め祈ることができるのだ。
光の中を歩めますように。


2008年03月24日(月)

「父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」マタイ6:8


偶像を見つつ育って来た日本人は、く
どくどと唱え、量を多く祈れば答えら
れると勘違いする。数珠を繰りながら
唱えたり、とにかく毎日時間をかけて
祈る姿を見聞きするので、熱心にさえ
祈るなら聞かれるというのが、潜在意
識にあったりする。そして、神よ、あ
あして、こうして、あっちへ行って、
こっちへ来て式の指図の祈りをする。
願いが聞かれないなら神を捨ててしま
う。そんな神は要らないのだ。欲しい
のは自分に都合のよい神だ。都合の良
い願いを聞いて欲しい。つまりは、自
分に都合良く人生が回って欲しい。人
生途上で神に出会ったクリスチャンも、
長年培われた価値観が潜んでいて、あ
くまでも自分のために神があり、祈り
ですら神を利用する。ところが、祈る
先に必要をご存じの神だ。祈りは何の
ためか。あたかも神が状況に無知かの
ように、くどくどと説明する必要はな
い。すでにご存じとは、何と感謝で嬉
しい事だろう。熱心に祈って、祈りを
手段として、祝福をもぎ取るのではな
い。あなたよりも、本当のあなたをご
存じの神が目の前におられ、その方は
御子を殺すほどに愛して下さったお方
だ。親は子が心配する前に、必要を心
配し整える。私達は自分にとって何が
本当に必要で、良いのかがわかってい
ない。それを教えてくれるのが祈りだ。
祈りの中で自分が変えられ、真の必要
がわかり、それを求めて行く。お願い
する先に必要をご存じ、「だから、祈
りなさい」だ。
------------------
いま自分に本当に必要なものは何だろ
うかと素直に聞く祈りをして行こう。
必要をご存じの神様の前に、まずあり
のままを認める態度で祈って行かなけ
れば、大切なものは何も受け取ってい
ないのではないだろうか。


2008年03月23日(日)

「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです・・神に、栄光がとこしえにありますように」ローマ11:36


立てたプランや予定が、思い通りにな
らなくて、イライラして怒りが湧いた
り、又、失望落胆して落ち込んだりし
た経験があるだろう。目の前に障害や
妨害が出てくるのだ。綿密に計画を立
て、様々な事を想定し、段取りし、
着々と準備を進めて行く。すると目の
前に不測の事態が生じて、プランを断
念せねばならなくなる。情熱とエネル
ギーを注いだ分、もうがっくりする。
そして、やる気が失せてしまう。これ
は「自分が」「自分が」と、余りにも
自分が出て、プランと自分が一体とな
ってしまって、「自分の」計画、「自
分の」所有になってしまう。思い入れ
が強く、うまく行かなかった場合に、
ひどい落胆となる。「自分が」「自分
の」でなく、「神は」「神の」と主語
を変えよう。「自分が」神のために
何をするかでなく、「神は」私の人生
に何を求めておられるのか。視点の変
換だ。「自分が」神のために、となる
と必ず行き詰まる。祈り一つにしても、
願いの祈りしかない。神への願いばか
りだ。ところが「神は」私に何を?と
なると、神のみ思いを知らなくてはな
らない。神の御声を聞くことからしか、
始まらない。「初めに神」だ。神から
発したものだけが神に至る。人から発
したものが神に至る事はない。まず、
「神が私に何を求めておられるのか」
から始めよう。
・・・・・・・・・・・
「神のために」だが、「自分が」「自
分が」になってしまう。いつしか自分
が前に出てしまっているが、神のため
にと思っているだけに、気づかない。
自分を横に置いて、「神は私に」と祈
ってみよう。


2008年03月22日(土)

「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」ヤコブ4:6

ナアマンは奇跡により、らい病がいや
された。どんなに喜びに満ち満ちた事
だろう。なぜナアマンはその祝福を受
けられたのか。まずは、妻に仕えてい
た若い娘の「サマリヤにいる預言者が、
ご主人様のらい病を直してくれる」と
の言葉に、耳を傾けた事だ。聞く耳を
持っていた。これは大切だ。へりくだ
っていなければ、人に耳を傾ける事な
どできない。ましてや、下の位にいる
者に。彼に聞く耳があったことから、
事は始まった。そして、エリシャに癒
しを願うが、エリシャが出て来る事も
せず、使いの者にヨルダン川で身を洗
うよう言われ、プライドがひどく傷つ
き、腹を立てた。怒って帰ろうとした
時、またもや、そこでしもべの提言が
あり、ナアマンは耳を傾けた。しもべ
の言う事を聞き入れ、エリシャの言葉
に従った。すると、奇跡が起きて、そ
の言葉通り、きれいな身体に戻り、き
よめられた。ここで、へりくだって、
耳を傾ける事の祝福を学ぶ事ができる。
彼は将軍という地位にいた上、王から
も重んじられていた。地位と立場ゆえ、
なかなか人の忠告は聞けないものだ。
特に部下や、年下の人々の言う事は、
プライドゆえ素直に聞けない。しかし
「へりくだって、互いに人を自分より
もすぐれた者と思いなさい」、痛い忠
言に耳を傾ける事は、へりくだりだ。
へりくだる者は、大きな恵みを受ける。
祝福への道だ。
・・・・・・・・・
高ぶっているなら、そこでストップだ。
水は低い方へしか流れないので、恵み
が来る事がない。へりくだっているな
ら、どんな人からも教えられる。年下
からも学び、大きな恵みを溢れるばか
りに受ける。


2008年03月21日(金)

「ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた」T列王22:34

イスラエル王アハブは、ラモテ・ギル
アデをアラムから取り返そうと、ユダ
王ヨシャパテを誘った。ヨシャパテは
アハブの申し出に乗り、主の言葉を聞
くよう要請した。アハブは預言者400人
を集め、伺いを立てると、彼らは、上
って行くようにと口を揃えて言った。
しかし、預言者ミカヤは正反対の預言
をした。アハブが悪霊に惑わされてい
る事、殺される事を告げた。アハブと
ヨシャパテはアラムと戦う事になり、
アハブは巧く逃れようと、ヨシャパテ
に王の服を着せ、自分は変装した。敵
をごまかし、自分は助かろうとした。
しかし、アラム王の命令は、イスラエ
ルの王だけを狙えというものだった。
ヨシャパテをイスラエル王と間違った
が、彼が祈った時、敵は彼を追うのを
止め、引き返したのだ。神の関与だ。
そして一人の兵士が、何げなく放った
矢が、何とアハブに刺さり、彼は傷を
負い死んだ。別に彼はアハブを殺そう
としたのではない。神が関与し働かれ
た。ミカヤの預言が成就した。神の完
璧な支配をここに見る事ができる。人
がどう画策しようと、神の御心が成就
する。厳粛な事だ。それゆえ、神に、
人生も日々の生活も委ねよう。あなた
への最善のご計画を一つ違わず、人生
に成し遂げて下さる。自分でどうこう
するより、神に委ねた方が良い。
------------------
自分で判断して右往左往してみても、
全能の神様のご計画だけが成る。神
様の決定に従えるように心を定めよう。
どんな状況の中でも変わらぬ平安がや
って来る。


2008年03月20日(木)

「わたしがしていることは、今はあなたがたにはわからないが、あとでわかるようになります」ヨハネ13:7


ある人に、厳しい試練が臨んだ。突如
の事で理解もできず、辛さと悲しみの
中を通った。しかし、しばらくして、
その人の口から「あれは、あれで良か
ったと心底思えるんです」との言葉が
出た。「良かった」と言える。頭の理
屈では理解できないが、霊の中では
納得できるのだ。不思議な感覚だ。そ
の人が主から十分な慰めを受けたゆえ
だった。理屈を超越して、心に納得が
行ってしまうのだ。又、ある高齢者は
「若い時にはわからなかった事が、こ
の歳になって初めてわかります」と。
「痛みや苦しみを通り、なぜ?なぜ?
でしたが、今、パズルがつながり、恐
るべき高慢から守られるためであった
と、はっきり答えがわかります。あれ
が無ければ、高慢なまま、どんなに恐
ろしい事になっていたか、本当に感謝
しかありません」。様々な人から「苦
しみに会ったことは、私にとってしあ
わせでした」との証しを耳にする。神
に真に向き合うようにされ、拠りすが
る者とされ、叫び祈る者とされた。砕
かれ、虚飾をはぎ取られ、恵みに目が
開かれた。苦しみによってしか、得ら
れないものがある。又、ある種のもの
は、天に帰って初めてわかる。天では、
何もかもをはっきりと見て、理解でき
るので、賛美しかない。すべてが賛美
となる。それまでは「信仰」だ。
-----------------
苦しみを通して神様に出会えた。そし
て、今も痛い所を通りながら思い通
りなら、決して知り得なかった神様と
共に生きている。わからなくても、今
も神様が守り支えていて下さっている
事を知っている。


2008年03月19日(水)

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです」ヤコブ1:17


ある人が、対人関係で、ある状況に陥
った時に、自分の本性が露呈してしま
った。そして、自己嫌悪に陥り、ひど
く落ち込んでしまった。自分には愛が
無い、優しくもない、むしろ報復しよ
うとするし、攻撃したい心がある。自
分は何という人間、だめだ、だめだと、
ネガティブな状態にいた。その時に、
「はっ!」と気づいた。なぜこんなに
落ち込むのか。それは自分には愛があ
ると思っている、優しい人間だと思っ
ている、ひとかどの人格は備えている
と思っている、だから落ち込むのだと。
自己嫌悪は、高慢の裏返しだと。別の
人は言った。自分は何かあるとひどく
落ち込んでいた。自己憐憫に陥り、人
をシャットアウトし、自分の世界に逃
げ込む。「自分は可哀想」の中に浸る。
でも、主を知って、落ち込まなくなっ
た。どんどん自分の醜さ、汚れ、弱さ
を知るが、視点が変えられた。自己憐
憫に入るのでなく、「自分の醜さ、弱
さを教えて下さった事を感謝します」
と、主に感謝できるようになった。ど
んなに罪深いかを知る時、自分に誇る
何も無い事を知る。主の恵みがいかば
かりかを知る。自分に頼らず、自分を
当てにもしない時、今、赦され生かさ
れている事が恵み以外の何ものでもな
い事を悟る。すべてが上からのもので
ある事に目が開かれ、愛も思いやりも、
上から来るのであり、上からしか来な
い。だからこそ感謝が溢れる。
・・・・・・・・・・
自分は出来ると思っているから、落ち
込むのであり、プライドが傷つく。そ
して自分で頑張り、律法の下であえぐ。
どうやっても出来ない事、どんなに惨
めな者であるかを知る事が感謝だ。


2008年03月18日(火)

「あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7

今、思い煩いに、押しつぶされそうに
なっているだろうか。自分で立ち回っ
て何とかしようとしていないか。まず
思い煩っているという事実が、自分が
問題を取り込んでいて、自分でどうに
かしようとしている事だ。それなら、
自分に全重荷がおおいかぶさって来る。
そのため思い煩いが起きる。つまりは、
自分の思いや自分の判断、自分の力に
頼っている。そして、自分では到底負
いきれないので、どうにも出来ないの
で、不安でたまらない。実のところ神
を信じられないから、自分が握ってい
る事であり、まず自分の心の内を御霊
に照らし出して頂こう。正直でいよう。
信じれられないなら、信じれられない
と正直に自分の状態を認め、神に告げ、
助けを仰ごう。主を脇に追いやり、自
分が先に立ってしまって、方策を巡ら
していないか。主を無視する事になる。
主はご自身のみ思いと方法をお持ちだ。
あなたの思いと、しばしば違う。"わた
しの思いは、あなたがたの思いと異な
り"だ。カナの婚礼で、ぶどう酒が無い
事を告げたマリヤに、主は"わたしの時
はまだ来ていません"、「心配しなくて
も大丈夫ですよ、私の時と私の方法が
あります」と答えられた。そしてマリ
ヤは、"あの方の言われることを"する
ようにと、そばの者達に告げた。私達
も、目の前の問題に対して、まず主に
「ぶどう酒がありません」と告げ、自
分の思う事でなく「主の言われる事
を」して行く事だ。
-------------
自分の思い通りの結果しか期待せず、
それ以外は受け入れられない。だから
いっさいを神様に委ねられないのだ。
いつまでこの愚を繰り返すのだろう。
全能の神様に少しずつでも明け渡して
みよう。


2008年03月17日(月)

「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」Tペテロ5:5

時々、へりくだりと自己卑下を勘違い
する。へりくだりとは自己卑下ではな
い。自分の事を、とにかく卑下すれば
よいのではない。何でもかんでも卑下
すれば、謙遜なのではない。「ことさ
らに自己卑下をしようとし・・肉の思い
によっていたずらに誇り」自己卑下と
は肉の誇りであり、実は人を意識した、
人へのアピールであり、自分のためで
あり、根は高ぶりだ。謙遜を誇ること
になってしまう。単に腰を低くする事
ではない。外側、柔和な物腰で、心で
は人を馬鹿にし、見下していたりする。
パリサイ人は、祈ることも断食するこ
とも、人に施すことも、すべてに人に
見せるためであり、自分のためであっ
た。へりくだりとは、自らの本当の姿
を認める事だ。逃げないで、ふたをし
ないで、正面から向き合い認めること。
自分の肉の性質、古い生まれつきの性
質は、まさにパリサイ人そのものだ。
しかし、主は新しい性質を与えて下さ
った。主を喜び、主に従おうとする性
質だ。へりくだりとは、御霊の導きに
従うこと、どんな場合にも「はい」と
従って行くことだ。「私を強くして下
さる方によって、どんなことでもでき
るのです」自分にはできないが、御霊
の助けによって「どんなことでも」で
きる。主を信頼して従って行こう。今、
示されている事に「はい」と言おう。
--------------------
自分はできません、と尻込みするのは、
謙遜に見せかけた肉だ。神様に従うな
ら、新しい性質へと力強く導いて下さ
る。それだけを信じて、今週も新しい
一歩を踏み出そう。


2008年03月16日(日)

「レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ」民数記16:7

コラの反乱と言われているが、コラと
その共謀者達が、250人のイスラエ
ルの人々と共に、モーセとアロンの権
威に反抗した。「なぜ集会の上に立つ
のか、分を越えている」と。しかし、
神ご自身がこの反逆に決着をつけられ
た。地面が割れ、反逆する人々は飲み
込まれた。神がさばきをされた。その
後、神は明白なしるしを与えられた。
12部族にそれぞれ、1本づつ杖を持
たせ、神が選ぶ者の杖は芽を出すとい
うものだった。すると、アロンの杖が
芽をふき、つぼみを出し、アーモンド
の実を結んだ。神が民の不平を静めら
れた。私達もそれぞれに割り与えられ
た、分をわきまえる事は大切だ。神が、
今の場で、一人一人に与えられた分が
ある。それぞれの立場や役割は、神か
らのものだ。分を越えていたのは、コ
ラや共謀した人々の方であった。今い
る場所で、立場、役割において他の
人々への羨望はないか。自己憐憫はな
いか。他の立場や役割への嫉妬は恐ろ
しい罪へと発展して行く。妬みから陰
険な邪悪な行ないが生まれる。あなた
を今の場に置かれたのは、神だ。「自
分の領域を守らず、自分のおるべき所
を捨てた」のがサタンだ。分をわきま
え、今の立場と役割を感謝しよう。感
謝して受け入れる時、神はその所で大
いに祝福して、あなたを必ず用いられ
る。
・・・・・・・・・・
今の場所、役割、立場を与えられたの
は神だ。今立っている所は聖なる地だ。
与えられた今の場を心から感謝して、
天を見て、自分のなすべき事を精一杯
献げて行こう。「よくやった。良い忠
実なしもべだ」と喜んで下さる。


2008年03月15日(土)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24

神を一生懸命求めてるが、出会ってい
る実感が無い。祈ってるが、聞かれて
いる気がしない、という人々がいる。
求めているのに、どうして?と。求め
よ、そうすれば与えられると、求める
者には答えて下さるお方ではないのか
と。求めているが、神がどうしてもわ
からないという時、自分に都合の良い
神を求めている場合がある。心地の良
い、気持ちの良い神を求めている。自
分のイメージ通りの、自分の思い通り
の神を求めていて、そんな神は存在し
ないので、どう求めてもわかりようが
ない。神がわからないという時、的が
ずれていないか。神を求めているので
はなくて、自分に都合の良い偶像を求
めていたりする。それは性善説的な、
ただ愛してだけくれる神だ。癒しを求
めるばかりで「愛されている」だけが
すべてだ。罪のさばきや、生まれなが
ら御怒りを受けるべき、自らの真の状
態、訓練や鍛錬、試練、苦しみなどは
飛んでいる。「だれでも神のみこころ
を行なおうと願うなら、その人には・・
わかる」神が真に、わかると言われて
いる。もし、神を知りたいと願うなら
ば、御心を求めて行くことだ。自分を
捨て、十字架を負って行く時に、神が
わかる。自分中心に都合の良い神を求
めるのではなく、自分を捨てる時、明
け渡して行く時、必ず神がわかる。
・・・・・・・・
自分のための神だと、なかなかわから
ない。今まで神を新しく知って行った
のは、目の前の一歩に信仰もって従っ
た時だった。それは痛かったり、プラ
イドに挑んで来たりするが、必ず大き
な喜びを刈り取る。従おう。


2008年03月14日(金)

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」Tヨハネ1:8

職場では、仕事より対人関係に悩む人
が多いが、今もギクシャクした関係が
あるだろうか。どうすればよいのだろ
う。心が重苦しくなった時、ザラつく
時、煩悶する時、とにかく主にその心
を、自らの状態をありのまま告げる事
が大切だ。どう感じているか、今どう
思っているか、祈りの中で自分の気持
ち洗いざらい告げるとよい。「あの人
のあの言葉、ひどい。腹が立つ」「あ
の態度に私は傷ついた」「あの人は何
と自分勝手で、自己中心で、嫌だ」と
にかくまずそのままの気持ちや思い、
感情を主に告げるなら、欺きから守ら
れる。自分がどう思っているかを、自
分が認識できるからだ。欺かれようが
ない。クリスチャンはあんな事、こん
な事思ってはいけないと思っているの
で、封じ込め抑え込む。それは抑えつ
けているだけで、そこにあり、必ずい
つか爆発する。又、思いを封じ込める
事により、自分は思っていないと勘違
いする。又、封じ込めたのだから、む
しろ良い事をしたと思い違いをする。
実際は心の底で思っているのに。主は
何もかも十字架で解決して下さった。
主のもとには完全な赦しがあるばかり
だ。ただ、自分の真の破れた状態を認
めて、主に頼る人にとってはだ。思い
を封じ込め、問題無しとし、主は必要
無しとしているだろうか。
----------------
クリスチャンは罪を赦された罪人だ。
まとわり付く罪を示されることを感謝
とし、主に頼って行こう。主は私達の
罪の贖い主なのだから。主に語ろう。


2008年03月13日(木)

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」ローマ7:15

職場で、学校でないだろうか。「あの
人さえ変わってくれれば!」私の人生
は天国になって、私の人生は何もかも
変わるのに。嫌な相手が、目の前に現
れる。人生途上の「あいつ」だ。対人
関係で職場を変わったとしても、次に
も、必ず「あいつ」が現れる。又、ギ
クシャクする相手が出て来る。相手が
謝りさえすれば、相手が変わりさえす
れば、こちらだって態度を変える気持
ちはあるのにと。こちらから先に出る
事はプライドが許さない。相手を変え
よう、環境を変えようと悪戦苦闘をす
るが、的はずれなのだ。今も、あなた
の「あいつ」が目の前にいるだろうか。
主の取り扱いと受け止めよう。時に、
嫌な相手に、自分自身の嫌な部分を見
て、相手を否定している。見ているの
は嫌な自分だったりする。しかし、こ
れらは自分の力では、どうにもならな
い。自分を変えようとするが、できな
い事を見い出す。そのまま主のみもと
へ行こう。人を裁く私、人を許せない
私、プライドが高く、更にそれを捨て
られない私、これが私ですと、そのま
ま主のもとへ行き、認めよう。自分は
何もどうにも出来ない事を、認めた時
に、主が事をされる。その時、自分が
変えられている事を発見する。主は心
を変え、なすべき事を示し、目の前の
事態を導いて下さる。主の奇跡のわざ
を見る。主が成して下さる。
----------------------
嫌な思いのままでいたら愛さなくてい
いので楽だろうか。その思いを神様に
明け渡してみよう。何度も来る苦い思
いは、何度も明け渡そう。肉の思いが
いつの間にか変えられて行く奇跡を見
る。


2008年03月12日(水)

「神は、ご自身の大きなあわれみのゆえに・・私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」Tペテロ1:3

エデンの園で、善悪の知識の木の実を
食べた、アダムとエバには自意識が生
じた。それ以来、たえず自分が自分を
見て、量り、さばくようになった。人
がどう見ているかを、人でなく、自分
が量る。結局人が恐れているのは、人
の目ではなく、実は自分の目だ。自分
が、自分の一番厳しい審判者だ。自分
で自分を追いつめ、束縛するようにな
った。それゆえ、恐れと不安が生じ、
恐れる者となった。人ではなく、自分
が自分をさばく。自分の中に敵をかか
えていて、自分を一番傷つけているの
は、相手や周囲でなく、自分自身だ。
これがアダムの罪の結果だ。自分から
逃れられない。自我、自己愛、自己中
心、自己防衛、自己憐憫どこまで行っ
ても自分、自分だ。ここから救うため
に主キリストが来て下さった。この罪
を引き受け、荒野で蛇が上げられたよ
うに、呪われた姿で十字架にかかられ
た。アダムの違反により罪人となった
私達は、キリストにより義人とされる。
この自己にがんじがらめの呪いから解
放され、死からいのちへ移された。
「・・信じる者は、死からいのちに移っ
ているのです」完了した。移転途上で
なく、すでに移り終わった。そのいの
ちは、神を親とし、神の子供として生
まれ、神の性質を持ついのちだ。
・・・・・・・・
自分をがんじがらめにするのは、人の
目ではなく、実は人がどう見ているか
を意識する自分の目だ。どこまで行っ
ても自分だ。十字架によって、古い自
分は死んだ。今日も信仰に立って歩も
う。


2008年03月11日(火)

「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」ヨハネ8:36

戦後の民主教育で、自分を主張する事、
男女平等、やがてウーマンリブ、女性
は翔べと、自己実現が人生の目的とば
かりに教えられた。今では自分を抑制
する事が、心の病につながると。今の
時代、癒しブームだ。誰にも拘束され
ずに、自由に自己表現し、解放されて
生きる事が癒しだと。しかし、自分の
欲望に従って生きる事が自由なのでは
ない。又、自分に忠実に生きるのが解
放ではない。自分の自然の願望のまま
に生きて行くと、肉はとんでもない事
をしでかしてしまう。ある人が、人か
ら批判されて、プライドがひどく傷つ
き、怒りに燃え報復の思いが湧き上が
った。それは抑えきれず、隠れて匿名
で相手を非難攻撃した。しかしそれが
発覚し、その卑怯なやり口に皆からの
一斉非難の的となった。まさに自分の
犯した罪であり、その事を通して、い
かに自分が罪人であるかを知らされた。
自然に赴くままにしていると、罪を犯
したのであり、又、自分の内側には、
人を見下し、馬鹿にし、人を傷つけた
い、攻撃したいという心がある事を思
い知らされた。古い性質は罪に向かう。
真の自由は、肉の声を拒否し、神の御
声を聞いて従って行くところにある。
御言葉にとどまる時に「あなたがたは
真理を知り、真理はあなたがたを自由
にします」だ。自分の願望でなく、主
の御声に従おう。
---------------
思い通りが自由だとの思いが常に付き
まとう。本当にそれが罪の奴隷だと知
った時、委る事ができる。自分の弱さ
を主に委ねる時、強くされるし真に自
由にされる。


2008年03月10日(月)

『イエスは、「来なさい」と言われた、そこで、ペテロは・・水の上を歩いてイエスのほうに行った』マタイ14:29

弟子達が、湖で風と波で漕ぎあぐねて
いる時、主が湖の上を歩いて来られた。
弟子達は非常な驚きであったが、その
時、ペテロが、水の上を歩いて主のも
とに行きたいと願った。主はその願い
に答えて下さり「来なさい」との御声
をかけて下さった。その御声を聞いて、
ペテロは舟から出て湖面に足を下ろし、
水の上を歩いた。ところが、風を見た
時に、突然恐怖に襲われ、ぶくぶくと
沈み始め、溺れかけた。恐怖の余り、
主に助けを叫ぶと、主はすぐに手を差
し伸ばしペテロを助けられた。ペテロ
は風を見た途端、常識の世界を見た。
今、自分は何をしているのか、こんな
事が有り得るはずがない、人が水の上
を歩くなどと有り得ない。私達もしば
しば経験する。神の御心を歩むなら、
神がすべての必要を満たすと約束して
下さっている。しかし、天から降って
来るわけでなし、これがどうやって満
たされるのか。この世と全く違う価値
観ゆえ、人から嫌がらせを受けたり、
差別をされたり、相手にされなかった
り、この新しい生き方で本当にいいの
か。世でやって行けるのか。又、忍耐
し、赦すなど、相手を図に乗らせるだ
けだ、ピシャ!と言え!・・「常識」
の湖にぶくぶくと沈んでしまう。今、
あなたは、見える世界と見えない世界
に、足元ぐらついているか。恐れで溺
れかけた湖上のペテロだろうか。もう
一度、「来なさい」と御声をかけて下
さっている主を見て、見えるところで
なく「信仰」で進もう。
------------------------
見えるものに揺れる弱い私達だが、真
理のみ言葉という不動の後ろ盾がある。
気持ちはどうであっても、客観的なみ
言葉に従えるよう思考を変えて行きた
い。


2008年03月09日(日)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」ヤコブ1:14

ある人が自分の短気に悩んでいた。と
にかく、何かあると、すぐカッと来て
しまうのだ。そして、カッーと来ると
もう収まらない。怒りが込み上げる。
そばにいる家族に怒りをぶつけてしま
う。周囲に嫌な思いをさせ、害毒を流
してしまう。自分も暗たんたる気持ち
に落ち込み、常に反省するのだがどう
しても直らない。この事で助けを求め
て祈っていた時に、気づかされた。
「怒る事をやめられない」のでなく
「やめたくない」、「怒りをやめたく
ない」のでなく「怒りたい」のだと。
「怒り」の欲望に誘惑の餌が来た時に、
その欲望に同意している自分がいて、
すでに怒ろうとしている自分がいる。
欲望にサタンからの誘惑が来た時に、
その瞬間自分を引き渡している。ここ
が問題で、ここからいつも繰り返す同
じパタンに進んで行く。本当は怒りた
いのだ。私達のそれぞれの弱さ、誘惑
も同様だ。妬み、貪欲、裁き、思い煩
い、断ち切れない悪習慣・・誘惑が来た
時に、自分を引き渡す瞬間がある。罪
を好み、罪を愛し、罪を犯し続けたい
本当の自分の姿を認め、この瞬間に主
に助けを求めよう。自分の力で断ち切
る事は不可能だ。無力を認める時に、
主が助けの手を延べて下さる。自分で
何とかできると思い、何とかしている
限り、主は働けない。
・・・・・・・・
罪をやめたくない自分の本当の姿を見
る時、祈りが的を射る。自分をごまか
していると、祈りも的はずれになり、
同じ所の堂々巡りを繰り返すだけだ。
底の自分を認めて行こう。主が解放し
て下さる。



2008年03月08日(土)

「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」ローマ5:20

あなたも失敗した事があるだろうか。
ある人が大失敗をしてしまった。よく
考えもせずした罪の行為に、後悔して
も、しきれなかった。自分としたこと
が、何と愚かな、ばかな事をしてしま
ったのだろう。しかし、御霊に示され
た。紛れもなく、それが自分なのだと。
愚かな者であり、そのような者なのだ
と。高慢を砕かれた。肉で歩むと、生
まれつきのまま、欲望のままに歩んで
しまう。自分がいかに罪深い者である
かを知り、心砕かれた。主の十字架が、
まさに自分のためだと知らされた。そ
れまで、罪人と言われてもよくわから
なかった。しかし、自分が罪を好み、
自然にしていれば罪を犯し、又、罪を
犯しても尚且つ平然としている、罪深
さを知った。過失を犯してしまったが、
痛く辛い所を通ったが、初めて十字架
が自分のためである実感が臨んだ。人
前にも、隠しようのない大失態であっ
た事も益とされた。人に知られた事に
よって、プライドは砕かれ、へりくだ
らされた。もし、人目に隠しおおせた
なら、懲りずに、次はバレないように、
ぬかりなくやろうと考えたに違いない。
バレさえしなければ問題無いと、もっ
とうまくやろうとした事だろう。どん
なに罪深い者であるかを、主は教えて
下さる。罪を認めて、悔い改めよう。
罪の深さと共に、主の恵みがそれを覆
い尽くしてどんなに大きいかを知る。
・・・・・・・・
弱さのゆえに罪を犯してしまうが、砕
かれ、へりくだらされ、それをも尚も
益として下さる恵みに感謝だ。悔い改
めて主の血潮による赦しを受け取ろう。
落ち込むのでなく、大いなる恵みにあ
ずかり、感謝を献げよう。


2008年03月07日(金)

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを・・全焼のいけにえとしてわたしにささげなさい」創世記22:2

アブラハムの信仰の素晴らしさは周知
の事実だが、イサクもまた素晴らしい
従順を与えられていた。モリヤの山で
イサクを全焼のいけにえとして、献げ
るようにと言われた時に、アブラハム
は神の御声に従い、山へと向かった。
その時にイサクは「火とたきぎは?全
焼のいけにえはどこに?」と尋ねた。
アブラハムは、神が備えて下さると答
えた。イサクは状況を察した事だろう。
そのような質問が出来る年齢であり、
子供ではないので、拒否も抵抗もでき
るし、逃げようと思えば逃げる事がで
きた。しかし、イサクは自分自身を完
全に委ねた。神の御心とご計画がどの
ようなものであれ、全面的に身を献げ
た。イサクの信仰だ。私達もイサクか
ら学ぶことができる。今、握り締めて
いるものがあるだろうか。どうしても
手放す事ができないものがあるか。所
有物、人、プラン、自分の思い、自分
自身、自分の将来、プライド、目の前
の問題・・何であろうと、それを手放す
ことだ。その時、不安、恐れ、思い煩
いが失せ、平安に満たされる。アブラ
ハムは命よりも大切なイサクを献げた。
イサクは自分自身を献げて、従順に従
った。あなたの思い煩いや不安は、実
は大切なものを握り締めているところ
から来ている。心を御霊に探って頂き、
手放せるよう祈ろう。
---------------------
この心配、恐れはどこから来ているの
か。心が乱されるたびに神様の前に聞
いて行こう。手放せないもののために
必ず苦しんで行く。この愚をくりかえ
さないように。


2008年03月06日(木)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24

アダムとエバへの誘惑は「神のように
なり」だった。「善悪を知るようにな
り」知識を得て、神を捨て、自分が神
となり意志決定し、判断して生きると
いうものだ。それ以前は神に依存して
生きていた。平安で何の心配も思い煩
いも無かった。しかし、人は自分の判
断と自分の力で生きて行く事を望み、
選択した。それ以来、神を無視し、自
分が神となり、自分が世界の中心とな
り、自分の力で生きるようになった。
これが罪だ。自分を喜ばせ、自分の満
足のため、自分を主張し、自己実現の
ために生きている。しかし、ここに真
の満足が全く無い。自分のために得れ
ば得るほど、ますます渇き、ますます
求める。しかし心満たされる事はない。
貪欲は持てば持つほど渇く。真の満た
しは、逆だ。自分を満足させる事でな
く、自分を捨てる事、自分に死ぬ事、
自分を与える事にある。自己を追求す
るのでなく、自分を捨てる事、自分以
外のために、神のため、人のために生
きる時に真の満たしが来る。自分を喜
ばせようとする時、喜びが失せ、神を
喜ばせようとする時に、自分に喜びが
来る。肉は必ず自己中心だ。自分の損
得で生きる。行動の基準が損得だ。損
になる事はしない。しかし御霊に導か
れた新しい人は、損になろうと神の御
心に生きて行く。そして本当の愛と喜
びを経験する。
----------------------
善悪を自分で判断し、自分の思い通り
に行く事が成功だとサタンはエバと同
じ誘惑を持って来る。その結果を私達
は知っている。自分を捨てて、主と一緒
に行こう。


2008年03月05日(水)

「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」ヨハネ2:5

婚宴で、ぶどう酒の準備が不足し、無
くなってしまうのは大失態だが、私た
ちの人生でも、ぶどう酒が無くなる事
態が生じる。様々な失敗をしてしまう
し、又、突然、倒産したり、リストラ
になったり、離別があったり、経済的
困窮に陥ったり・・喜びのぶどう酒が
無くなってしまう。その時に、自分で
何とかしようと懸命にもがく。何とか、
まさに水からぶどう酒を作り出そうと
する。必死になり、悪戦苦闘し、しか
し、自分でぶどう酒など作れないので、
行き詰まり、どうにも身動きが取れな
くなる。疲労こんぱいする。そんな時
に、私達のする事は、自分でぶどう酒
を作り出すことではない。目の前の状
況を何とか変えようと、悪戦苦闘する
事ではない。空回りするばかりだ。自
分でするのではなく「あの方が言われ
ることを」主が言われる事を聞き、従
うことだ。目を注ぐのは主ご自身にで
あって、目の前の状況でなく、問題で
はない。その時に、主が働いて下さる。
主の言われる通りに従う事、水かめに
水をくむ事だ。そうするなら、主がぶ
どう酒を与えて下さる。あなたの目の
前の問題でなく、まず主に目を注ごう。
そして、「あの方が言われることを」
行おう。その時、主のみわざを見る。
今、言われている事があるなら、すぐ
に行おう。
・・・・・・・・・・・
事態が生じたら、自分で何とかするの
でなく、まず「あの方の言われること」
を聞こう。とにかく祈ろう。そして、
主の言われた事(水を汲む)に従おう。
そうするなら、ぶどう酒(素晴らしい
みわざ)を見る。


2008年03月04日(火)

「主に信頼し、主を頼みとする者に、祝福があるように。その人は・・日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる」エレミヤ17:8

私たちは日々何かに頼って生きている。
自分は何にも頼らず自主独立だと言う
が、人間は被造物なので、何かに頼ら
ずには生きて行けない。神に依存する
事が、人間の真の自立だ。正しく神に
頼らなければ、必ず他の何ものかに頼
る。自分に頼ったり、自分の力や考え
に頼る。しかし、自分の思いは全く頼
りにならない。「心を尽くして主に拠
り頼め。自分の悟りにたよるな」だ。
自分の思いと神のみ思いはしばしば違
う。「わたしの思いは、あなたがたの
思いと異なり、私の道は、あなたがた
の道と異なるからだ」神が「異なる」
と言われる。富に頼る人は多い。富が
自分の夢を叶え、幸せを与え、人生を
保障してくれると錯覚する。しかし残
念ながら、富は愛を与えてはくれず、
罪の赦しも得られず、真の平安も満た
しも無い。大金持ちのザアカイも、名
誉地位財産何もかも持っていたニコデ
モも、資産家の役人も虚しさの中にい
た。ある人は人に依存する。サマリヤ
の女は男性に依存していた。それゆえ
5回の結婚を繰り返したが、心の満た
しは無かった。信仰者は神に頼ってい
る「つもり」だが、本音は違っていた
りする。心の底は神以外のものに依存
している。それは偶像礼拝だ。しかし、
きっちり神に、自分に向き合い、本当
は何に依存しているのか見ない限り、
信仰の成長が無い。見るからこそ、神
依存へと変え、成長させて下さる。
---------------------
一瞬一瞬が何かに導かれている。頼
りない、自分自身を含め、鼻で息をす
るものに頼らず、拠って立つべき神様
だけをしっかり見つめていよう。


2008年03月03日(月)

「・・わたしの時はまだ来ていません」ヨハネ2:4

婚宴の席で、ぶどう酒が無くなった。
当時の披露宴では、ぶどう酒は重要で、
途中で無くなるなど、主催者の取り返
しのつかない失態となる。心配し配慮
したマリヤが、主に「ぶどう酒があり
ません」と言った。主イエスに言えば、
何とかなるとの心だったに違いない。
しかし、主はマリヤの言葉によってで
はなく、御父の御心によって動かれる。
「わたしの時はまだ」との言葉に、し
かし「あの方が言われることを、何で
もするように」と手伝い達に告げたマ
リヤは、主が最善をして下さると信じ
た。結果的に主は奇跡をされ、上質の
ぶどう酒を備えて下さった。信じると
は、主にいっさいを任せることだ。
「時」も主の御手の中だ。しばしば祈
りの中でも、早く答えが欲しくて、早
く早くと焦る。時を待てない。待てな
いので、絶えず不安と思い煩いに襲わ
れる。いつも欲求不満状態だ。委ねる
事ができないところに原因がある。又、
実際に、主の時を待てないで、自分で
行動してしまう。自分が良いと思う事
を、自分の思いで、自分の思う時に行
動する。そして失敗してしまう。アブ
ラハムが約束のイサクを待てないで、
イシマエルを生み出したように。信じ
るとは委ねること。自分が委ねられな
いのは、信じられないからか、心にあ
るものをはっきりと知ろう。信じられ
ない事を認める時に、上からの信仰が
与えられる。
---------------------
委ねるためには、信仰が必要だ。主が
必ず水をぶどう酒にしてくださったよ
うに信じて祈っていこう。信仰によっ
て委ねる時、すでに得たりの確信が与
えられる。


2008年03月02日(日)

「ケリテ川のほとりに身を隠せ・・わたしは烏にそこであなたを養うように命じた」T列王17:4


カルメル山でのバアルとの壮大な闘い
の前に、主はエリヤをケリテ川に退か
せられた。「ケリテ川のほとりに身を
隠せ」、人のいない隠れた場所で、充
分な主と交わり、霊的養い、備え、整
えを与えるためであった。密室での交
わりが、まさに働きのため、又、信仰
生活のための原動力だ。植物は根が下
に強く張っていないと、上に伸びない。
人に隠れた密室での交わりはその根だ。
色々な人が証しをしている。早朝から
深夜まで多忙で仕事に追われていた中
で、倒れてしまい、又、病気になり入
院の事態に。最初はガックリ来て落ち
込んだが、常に後回しにしていた、主
との幸いな交わりの時とされ、神に立
ち返れたと。休養が必要となり、寝床
で天井を見ている間に、一番大切なも
のは何なのか、人生このままで良いの
かと、立ち止まる時とされ、狂ってい
た優先順位を正される時とされた。時
にケリテ川が与えられる。病気のケリ
テ川や、受験が不合格のケリテ川、失
望落胆のケリテ川、失敗のケリテ川、
別れのケリテ川、悲しみや寂しさ、痛
みの中で静かに主と交わろう。心を主
に向けて、御声を聞こう。主はそこで
霊の養いを下さり、前進するための新
しい力を下さる。又、忙し過ぎるなら、
しばし身を隠して主と交わろう。平安
と喜びが戻る。
・・・・・・・・・・
主に心を向ける時、主は語りかけて下
さる。あらゆるこの世の喧噪から離れ
て、主の御前に心を開き、静かに主と
交わろう。息吹き返す、幸いな時とし
て下さる。


2008年03月01日(土)

「なぜ、このようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」使徒5:4

アナニヤとサッピラの間違いは偽った
事だ。ペテロは企みだと言った。魔が
差した、でき心ではなく計画的だった。
その丁度前にバルナバが畑を売った。
皆の多大な賞賛を受けたのを見て、自
分達も賞賛を求めた。しかし、バルナ
バや献げた人々には「信仰」があった。
もし不意の事態が起きたら?病気やけ
がで働けなくなったら?その時は、愛
していて下さる主が、必ず責任持って
必要を与えて下さると信じていた。だ
から献げた。だが、アナニヤとサッピ
ラにはその信仰が無かった。恐れと不
安で全部を献げる事は到底できなかっ
た。大切な点はここだ。全部献げなく
ても全く構わない。一部なら一部を献
げればよい。「振り」をしない事だ。
信仰深い振り、霊的クリスチャンの振
り、親切、愛情深い振り、それは欺き
だ。「そこまでの信仰はありません」
「一部です」と言う事を神は責められ
ないでむしろ喜ばれる。信仰無いと認
める人こそ、神から信仰を与えられ成
長して行く。信仰がないと、自分の力
と思いで生きて行くので、そこに神が
働けない。アナニヤとサッピラは、主
を信じていたが、自力で自分の人生を
歩んでいた。だから目に見える人の評
判を求めた。「献げられません」「人
が気になります」と主の前に正直に認
めて行く時、自分が変えられて行く事
を発見する。
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主は本音の私を愛して下さっている。
心の奥底を洗いざらい告げよう。本音
を告げるからこそ、神がありのままの
私を受け止め、愛して下さっている事
がわかる。安堵と喜びが来る。