2008年04月30日(水)

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」マタイ7:10

自分にしてもらいたい事は、人によっ
て違う。ある人は悩みの時、放ってお
いて欲しい。ごちゃごちゃ言われると
煩わしい。しかし、ある人は放ってお
かれると、冷たく感じる。そのまま自
分の思いを人に適用するなら、的はず
れになってしまう。つまり自分を中心
にした肉の思いで、判断するのでは無
いという事だ。自分のフィルターで判
断して行くと「小さな親切、大きなお
世話」になってしまう。自分の思いを
相手に押しつけるばかりだ。御霊の導
きを求め、御言葉の価値観、神のお心
に照らし合わせて、その価値観の中で、
自分ならどうして欲しいかと考え、つ
まり主の御心をもって、相手に対応し
て行くことだ。御霊にある、御霊に導
かれた自分がベースだ。御霊に導かれ
て相手にした事が、必ずしも喜ばれな
い時があるかも知れない。しかし、そ
れは真に相手の益のためであり、その
結果を見守っていると、時を経て、必
ず素晴らしい実を結ぶ。神の栄光が現
れる。つまり、「自分にしてもらいた
いこと」とは、神の御心を、というこ
とだ。私たちの真の願いはそれである
はずだ。その前の御言葉の関連による
と、何が正しい事で、神の御心かを祈
り求めるなら、必ず正しい判断、識別
を与えて下さり、ほかの人にそのよう
にして行けるということだ。
・・・・・・・・
「自分がしてもらいたい事」を肉の自
分に照準を合わせていたなら、的はず
れだ。世に調子を合わせるのではなく、
御霊に導かれた自分、つまり神に喜ば
れる事をして行くことだ。


2008年04月27日(日)

『そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」』ルカ12:15  

                
この世はそうだが、私たちの、肉も満
足する事をしない。幾ら得ても足らな
い。もっと、もっと欲しい、もっと得
たい。これは「貪欲」だ。貪欲の罪だ。
普通、これだけ持てば充分だと思うの
に、幾ら持っても足る事がないばかり
か、ますます渇き、持てば、更に、更
にと、果てしなく欲が湧く。「貪欲」
とは偶像礼拝の罪だ。自分を満たして
くれる「もの」に依存し、崇めて行く。
私たちの人生を的はずれの方向へ振り
回す。心にある欲望が大きな問題だ。
富も幾ら所有しても、これで充分とい
う事がない。際限なく所有したい。贅
沢も限りがない。「貪欲」は人生を狂
わせ、破滅させる。「金持ちになりた
がる人たちは、誘惑とわなと、また人
を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、
有害な多くの欲とに陥り」。「金持ち
になりたがる」とは、単なる金銭だけ
の事でなく、名誉、地位、成功への野
心、人から褒め称えられたい欲望・・そ
れらは一見気づかないサタンの罠だ。
自分を刺し通してしまう。「しかし、
満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな
利益を受ける道」主は素晴らしいもの
を下さった。それは「満ち足りる心」
だ。この世は決して持つ事がない。感
謝できること、喜べること、主を愛し
て行けること、何と幸いだろう。貪欲
の誘惑が来ていないか。よく注意して
警戒していよう。 
・・・・・・・・・
貪欲には底がない。満足が永久に無い。
得るほど更に欲しい、持つほど貧しく
なる。神でなくこの世のものに依存す
る心だ。神が下さるものに感謝し、神
を認めて行く時、どんな状況でも、心
は満ち足りて幸せだ。


2008年04月26日(土)

「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて・・マナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」申命記8:3

 
「主は、苦しめ、飢えさせ」とある。
主が苦しめ飢えさせると。信仰人生で
悩み苦しみに会う。すると信仰者は戸
惑い、いぶかる。祝福して下さるはず
ではないのか、病気にならず、いつも
健康で、経済的には満たされ、良いも
ので満たして下さるのではないのか。
最善のものを下さるはずでは。病気か
ら奇跡的に救われる人もいれば、病気
のままの人々もいる。富んでいる人も
いれば、極度に貧しい人もいる。しか
し、身体的、物質的、霊的に、あなた
が飢え、苦しむ時は幸いだと言われる。
なぜなら、その時こそ、神を知り、天
からのマナを食する恵みにあずかるか
らだ。対人関係、経済的、環境的に
「安定」している時、人は神を求めな
い。その「安定」が崩される時、初め
て目に見えないものに目を向け、見え
ないものを求め出す。ある夫婦が、生
まれた子供に命に関わる、重度障がい
がある事が判明した時、絶望の淵に突
き落とされた。しかしその厳しい苦悩
は、目に見えないものに目を向けさせ
て行った。結果的に神に出会う事がで
き、感謝しかないと。もしこの苦しみ
が無かったら、神に目を向ける事など
生涯無かったであろうと。試練の時こ
そ神を真に知る時だ。御言葉がいのち
そのものである事を経験的に知り、実
感できる。       
・・・・・・・・・
何の問題も無い時、順風の時、人は目
に見えないものに、目を向ける事はな
い。見えるところを生きて行く。行き詰ま
りの中で真に主に出会う。試練は、キリ
ストのかたちに変えられて行くために
ある。


2008年04月25日(金)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人の上に現れるためです」ヨハネ9:3

              
   この盲目の男性の原因探し、犯
人探しをした弟子達は、私たちの姿か
も知れない。何か悪い事が起こると
「何でだろう?」と考えるものだ。盲
目=不幸と考えているので「なぜ
か?」と主に問うた。古い価値観の中
に、悪い事、不幸な事と罰が重なって
いる。因果応報、何かのバチだと考え
る。しかし、主の見方は人間の見方と
は違った。確かに困難な境遇ではある
が、そこに神の目的と計画があるとさ
れた。苦しい境遇、不幸な状況は、私
たちには到底プラスの事とは思えない。
しかし、主は彼が盲目に生まれた時に、
すでに彼を癒すことを計画されていた。
時々、余りの悩みに、状況もこんがら
がって、まるで刺繍の裏のように、糸
がぐちゃぐちゃに重なり、無秩序、混
乱にしか見えない事がある。しかし、
神の目から見るなら、計画と目的と秩
序があり、刺繍の表側は素晴らしく綺
麗な絵が描かれている。私たちの側か
らは、刺繍の裏しか見えないので、時
にぐちゃぐちゃだ。しかし、神の御心
が着々と進められている。どう見ても
神のご計画などに見えない事態が、後
にパズルがつながるようにして、神の
みわざを拝する。人生無駄な事は一つ
もなく、すべてに神の意図とご計画が
あるとは、何と感謝な事だろう。「行
く所どこにおいても、主を認めよ」主
は道をまっすぐにして導いて下さる。
今、目の前の事態に主を認めよう。 
---------------------
思い通りに行かず、自分で何も出来な
いからこそ必死に神様を信じ、必ず困
難の中で神様が益として下さるとの約
束に立っておられる。順境の中では一
生、知ることのない神様を知って行け
る。


2008年04月24日(木)

「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。この人の両親ですか」ヨハネ9:2

当時は迷信により、病気や障がいは、
何かの罪の結果と考えられていた。何
か原因があり、罪を犯しているから。
それが一般的であった。しかし、これ
は、今、現代でもだ。病気やけが、失
業、倒産、悪い事が続くと、何かのた
たりではと、お払いして貰い、偶像を
拝む。理由が知りたい、説明が欲しい。
つまりは「何で盲目なのか、納得行く
説明を」と言っていることだ。人生に
起こる事の解答が欲しい。先祖の罪、
本人の罪と答えを得るなら、その罪の
結果と納得が行く。答えがわかれば対
応もできる。しかし、主は「神のみわ
ざが現れるため」と答えられた。因果
応報の単純な原因と結果でなく、全く
別の領域、人間には測り知れない、人
間を越えた神の領域というものがある
と。人間には理解を超えていて、わか
らなくても、納得行かなくても、確か
に神の栄光が現されるのだと。人は何
か起こると「なぜ、なぜ」と問い、
「なぜ?」が知りたい。しかし、神は
「〜ため」と答えられた。つまり、こ
の事態は「何のため?」との問いには
答えて下さるわけだ。「なぜ?」と問
う。しかし、全く答えが来ないのは、
今までの信仰生活でも経験するところ
だ。「何を教えようとされているの
か」を問おう。そして万事が、ご計画
の内であり、益とされることを信じよ
う。
---------------
納得のいかない理不尽な問題に直面す
る時、怒り、傷つき落ち込む。しかし
それは神様のご支配の中での事と覚え
よう。どのような結果でも必ず神様の
ご栄光が現れる。「なぜ」は自分にで
はなく神様に尋ねて行こう。


2008年04月23日(水)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください」詩篇139:23

人から言葉を発せられ、自分の反応を
考える時、もし、クメール語で罵倒さ
れ、批判され、きつい言葉を言われた
らどうだろう。クメール語がわかる人
は別だが、普通、何を言っているのか
わからず、何も感じない。怒りが生じ
るだろうか?生じようがない。という
事は、母国語で発せられた場合は、自
分が反応するから、怒りが生じるとい
う事になる。相手がどうのでなく、あ
くまでも、反応している自分の問題と
いう事になる。怒りが湧く、傷つく、
なぜその言葉に自分の心が反応するの
か、心の内にあるものを見極めてみよ
う。普通、人は自分に関係の無い事に
腹を立てる事も、傷つく事もない。何
かが潜むから反応している。プライド
に触れるのか、決して認めたくない劣
等感か。隠しておきたい弱さに触れの
か、心の何かに反応している。その誰
にも見られたくない、自分の本当の姿
を、光に出す時変えられる。平安にさ
れる。自らの弱さ、醜さ、汚さ、劣等
感を認める時、本音の部分が、ありの
まま受け入れられている事がわかる。
神が受け入れて下さっているなら、何
を恐れよう。「全き愛は恐れを締め出
す」自分を隠すのは、人を恐れるから。
こんな自分が、受けれられるはずがな
いと。しかし、神に完全に愛されてい
る事を知る時、恐れから自由にされる。
反応する自分の心に目を留めてみよう。
・・・・・・・・・
全き愛で愛されている。醜さも、汚さ
も、そんな事は全部わかった上で愛し
て下さっている。何ものも神の愛から
私たちを引き離す事はできない。あり
のままの心の奥底を主に告げよう。自
由にされて行く。


2008年04月22日(火)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24

あるお話の中で、十字架に色々な種類
があり、自分が好きなものを選ぶとい
うものがあった。大きなもの、小さな
もの、綺麗なもの、ゴツゴツの木もの、
様々あって自分好みのもの、都合の良
いものを選ぶのだ。これは重いからイ
ヤ、これは美しくないからイヤ、これ
は小さすぎてもう少し大き目がよい、
あれもイヤ、これもイヤ、選り好みす
る。これは象徴的だ。神が下さるもの
を受けるのでなく、自分が選ぶのだ。
私たちも十字架を、自分好みのものを
選んでいるだろうか。神の御心ではな
く、自分の好みに従う。自分の好きな
事はするが、嫌な事はしない。御心で
あっても、都合の良いものには従うが、
不都合なもの、痛い事、しんどい事は
よける。自我に触れる事は、うまくす
り抜けて行くなら、信仰生活何十年に
なろうと成長がない。自我の強い、幼
児クリスチャンのままだ。十字架を負
うとは自分に死ぬことであり、神の御
心を行なう事だ。しかし、自我は反発
し、抵抗する。自分に死ぬとは、自我
には受け入れ難い、激痛を伴う事だ。
しかし、御心に従う時、必ず成長して
行く。そして平安と御霊の喜びを受け
る。主が下さった十字架を受け取ろう。
今、目の前に示されている御心がある
なら、勇気を持って一歩踏み出そう。
大きな祝福にあずかる。
--------------
主が下さる十字架は、一人で背負って
歩むのではない。主が同伴され、負け
ないよう、くじけないように祈ってい
てくださる。避けて通っているものは
ないだろうか。今一度考えてみよう。


2008年04月21日(月)

「・・ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します」Tテモテ5:13

「恥ずべきことばを捨ててしまいなさ
い」悪口や噂話は捨てるべきだ。噂話
は必ず事実が歪曲される。人には罪の
性質があり、噂を自分の色合いで聞く。
そこには羨望や妬み悪意が入り込み、
自分の主観も入る。それらがミックス
されて次に伝えられる。そして、次に
聞いた人も又、自分の主観を加え、そ
れが次々伝わるとどうなるか。言葉の
暴力だ。肉は噂話や悪口が心地良い。
それが嫌いな人の事ならスカッとする。
まさにストレス解消だ。「陰口をたた
く者のことばは、おいしい食べ物のよ
うだ。腹の奥に下っていく」の通りだ。
肉には美味しい食べ物だ。この世は噂
話と悪口ざんまいであり、人はゴシッ
プ大好きだ。語る事も罪だが、もし真
実でない噂話を信じてしまったなら、
それも罪を犯す事になる。サタンは肉
に絶えず誘惑して来る。美味しい食べ
物を目の前にちらつかせる。サタンの
誘惑であり、「舌は少しもじっとして
いない悪であり、死の毒に満ちてい
る」。口から出た言葉は取り返しがつ
かない。舌で失敗しないために「私の
口に見張りを置き、私のくちびるの戸
を守」られるよう祈ろう。自分のもと
へ来た時、火を消してしまおう。唇が、
弱っている人を励まし、疲れた人を潤
し、倒れている人を起こし、悲しむ人
を慰めるために用いられたらどんなに、
神の栄光を現すだろう。祈ろう。
---------------
悪口や噂話、おせっかいは、相手より
自分を上に置いた高ぶりだ。罪は相手
の罪に飛び火する。人をつまずかせ、
傷つけるために舌を用いず神様に舌を
コントロールしていただこう。



2008年04月20日(日)

「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」創世記3:10

アダムとエバが罪を犯した後、神は悔
い改めの機会を与えようとされた。そ
れで「あなたは、どこにいるのか」と
問いかけられた。神の愛であり、あわ
れみだ。しかし、悔い改めるどころか、
「あなたの声を聞いたが、裸なので恐
れて隠れた」と言い訳し、言い訳をす
るために神に答えた。恐れはしても、
悔い改めはしない。罪の悲惨な結果は
嘆くが、悔い改める事はない。尚も神
は「木から食べたのか」と具体的に問
われ「ごめんなさい」と告白する機会
を下さった。何というあわれみだろう。
しかし「あなたが私のそばに置かれた
この女が」と、エバを置かれた神が悪
いと、自分を正当化した。エバもまた
蛇のせいにし、罪を無視し、どこまで
も悔い改めない。「ごめんなさい」が
言えない。頑固で強情で、非を認めな
い、自らの姿だろうか。罪の結果が、
人前に体裁が悪く、具合が悪いだけで、
自分が悪いとは思っていない。「その
方が来ると、罪について・・その誤りを
認めさせます」聖霊が罪を示される。
聖霊が示される時は、自分の罪しか見
えない。人などいっさいない。人がど
うのこうのなど無いし、人のせいにな
ど思いもよらない。ただただ自分の罪
だけが、見えるばかりで、悔いくずお
れる。心からの悔い改めが臨む。そし
て、その罪は赦される。これが「悔い
のない、救いに至る悔い改め」だ。
・・・・・・・・
「今日もし御声を聞くならば、心を頑
なにしてはならない」御霊の示しを拒
む事も、従う事もできる。御霊の導き
があるからこそ、信仰生活正しく導か
れる。従えるよう祈ろう。


2008年04月19日(土)

「道ばたにおちた種があった。すると、鳥が来て食べてしまった」マタイ13:4

道ばたとは、踏み固められた土地で、
それは固い心のことだ。固い心とは、
自分の思いや先入観、偏見で一杯の心
だ。自分の思いを通し、御言葉が入り
ようがなく、御言葉が来ても、跳ね返
してしまう。サタンが御言葉を持ち去
り、御言葉が心に植わる事がない。種
が入らない限り、成長と結実は不可能
だ。クリスチャンになった後も、まず
「霊的クリスチャンはこう〜」「信仰
者はこうすべき〜」との自分の先入観、
イメージがあって、その思いに現実を
はめてしまう。それなら自分の思いに
従って生きているのであり、御言葉に
よって生きているのではない。そうで
なくて、まず現実をしっかり見る必要
がある。そこから祈り、神の御声に従
って行く。自分の先入観と思いはそれ
を妨げる。御言葉によらず、自分のイ
メージと自分の思いで、神とは〜、御
心とは〜、クリスチャンは〜と思って
いる。その自分の思いに現実をあては
め、それは御言葉によらないため決し
て成長がないし、神を知る事もない。
御言葉の種が心に入り、御言葉を生き
て行く時、初めて実を結ぶ。私達は、
自分の思いでなく、世の価値観でなく
御言葉を生きて行く者だ。その命であ
る種が心に宿らないので、いつまでた
っても霊的成長がない。自分の思いで
生きていて、自分の思いがあるばかり
だ。自分の状態はどうなのか、振り返
ってみよう。
・・・・・・・
クリスチャンとはこう〜とのイメージ
は単に自分の思いであり、そこに霊も
命も無い。御言葉に霊と命がある。御
言葉でなくイメージで生きていないか
よく点検してみよう。


2008年04月18日(金)

「幸いなことよ。そむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人」詩篇32:1

ダビデはバテシバとの姦淫、ウリヤ殺
害の罪を隠し持っていた間は、良心の
責めで一日中うめいて、骨々は疲れ果
て、骨髄は夏のひでりで乾ききったと
ある。「御手が昼も夜も重くのしかか
り」紛れもなく神が臨んで良心の呵責
を与えておられた。その罪ゆえに煩悶
し、耐えきれず、自らの罪を神の前に
告白し、悔い改めた。罪赦された喜び
を語っている。「あなたは私の隠れ場、
救いの歓声で私を取り囲まれる」天に
ものぼる喜びであったろう。心の奥が
平安にされ、その平安は流れ出て来て、
喜びが満ち溢れた。罪をひたすら隠し
て、もだえ苦しんでいた時と何たる違
い、天と地の差だ。この幸いは、素晴
らしい幸福、最高の幸福、満ち満ちた
喜びといった意味だ。ダビデは名誉も
地位も、富も才能も持った人だった。
王であり将軍であり、音楽の才能を持
ち、詩篇を書いた詩人でもあり文武両
道、何もかも所有していた人物であっ
た。しかし、ダビデの人生で最高の幸
せは、罪を赦された事だった。罪を悔
い改め、赦された人に「悟りを与え、
行くべき道を教え」て下さる。霊的な
理解や気づきを与えて人生を導いて下
さる。何と幸いだろう。今、とがめが
あるなら赦しを受け取ろう。罪は苦し
みだ。最高の幸せは、罪が赦される事
だから。
----------------
罪を犯しても赦される事を知っている
者は何と幸いだろう。罪の咎めに心は
重く苦しむだろうが主に告白すした時
罪は赦される。隠れ背を向けるのでは
なく主のもとに行こう。


2008年04月17日(木)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」詩篇46:10

祈れど、祈れど、祈りが答えられない
経験があるだろうか。罪は祈りを妨げ
るので、まず罪を吟味する必要がある
が、罪が無いのに祈りが答えられない
事がある。辛い状況を何とかしてほし
いと祈るが、事態は全く変わらない。
それどころか、もっと悪くなって行っ
たりする。神は聞いて下さっているの
かと落ち込む。詩篇記者達も苦しい中
で「なぜですか」と、神に祈りの中で
訴えている。しかし、そのような切実
な悶々状態の中で、あるがままを神に
投げかけて行く事で、神ご自身に触れ
て行く。主を親しく知って行く。「わ
たしこそ神」「たじろぐな。わたしが
あなたの神」であられる真実なお方に
出会って行く。単に自分の悩みが無く
なるのでなく、ご自身を現して下さる
のだ。ただ単に問題の解決より、遙か
に恵まれ心満たすものだ。祈りが聞か
れない中にも、神の様々なご計画があ
り、又、配慮がある。聞かれない事を
通して、事が違う方向へ向いたり、変
更が生じる。しかし、その中に更に良
きものが備えられている。あの祈りが
答えられなくて良かったと、必ず思う
日が来る。もし、あれが自分の思い通
りになっていたら、今の自分は無い、
自分はどんなに高ぶっていたであろう
と。祈りが答えられないと失望する事
はない。神ご自身を知る時とされる。
そして、その祈りは違う形で答えられ
ている。
---------------------
神様を神として崇め、信頼しているな
ら祈りが叶えらても、そうでなくても平
安があり喜びがある。まず自分、では
ない。順序が逆転しているなら、みこ
ころがわからなくなる。


2008年04月16日(水)

「私たちの格闘は血肉に対するものでなく・・もろもろの悪霊に対するものです」エペソ6:12

       
                
サタンは、とにかく私達を神から離そ
うとしている。そのためにあらゆる策
略を持って来る。ストレートには来な
い。単純明快なら策略など不要だ。そ
れゆえ私達の戦いは敵の策略に対して
だ。酔酒やギャンブル、憎しみや妬み
等、あからさまな罪ならわかりやすい
が、良いものも持って来る。仕事や学
業、趣味、この世の付き合いに時間や
労力が取られ、神のための時間が無く
なり、離れて行った人は少なくない。
これらは罪ではなく、むしろ良い事な
ので気に留めない。その内、優先順位
が狂ってしまい、余分な、いばらがど
んどん心に茂り、信仰の芽を枯らして
しまう。又、光の御使いに偽装して来
る。荒野での誘惑のように御言葉の意
味を取り違えて持って来る。神殿の頂
から身を投げたなら、御使いが支えて、
一躍ヒーローになれると。しかし、神
が支え守って下さるのは、あくまでも
「御心を行なう」中でだ。好き勝手な
事をして守られる保障はない。疲れた
時、聖書を開いて「〜せよ、〜べし」
に余計しんどくなって、出来ないと聖
書を閉じた経験があるかも知れない。
しかし御言葉のどれ一つも自分の力で
従う事はできない。主が語られた事を、
主が成し遂げて下さるという事だ。天
に帰るまでは、日々霊の戦いだ。まず
戦いであると受け入れ、目を覚まして
いよう。今日も誘惑から守られるよう
祈ろう。
・・・・・・・・
「神のみことばがとどまり悪い者に打
ち勝った」「あなたがたの内におられ
る方が、あの者よりも力がある」御言
葉と御霊によってサタンに打ち勝てる。


2008年04月15日(火)

「なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる」創世記4:6

カインとアベルは両親から、神や、献
げ物についてよく教えられていたであ
ろう。神は罪を犯したアダムとエバに
皮の衣を着せられた。罪の贖いのため
には、動物の血が必要であった。神へ
の献げ物は、動物の血が流されなけれ
ばならなかった。「信仰によって、ア
ベルはカインよりもすぐれたいけにえ
をささげ」とある通りだ。アベルは神
に従い、御心にかなったいけにえを献
げた。これは信仰による事だ。カイン
はこの事を顧みなかった。悔い改めて
もう一度献げ直せばよかった。しかし、
カインは神に対して「ひどく怒った」
そして、弟を激しく嫉妬した。彼は
「顔を伏せた」。神は「なぜ顔を伏せ
るのか。正しく行なったならまっすぐ
に立っておれる」顔を上げられるはず
だと言われた。彼は正しくない事がわ
かっていた。「なぜ兄弟を殺したのか。
自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは
正しかったから」だ。悪いとわかって
いてなお、自分を通して行った。神に
受け入れられた弟への嫉妬は憎しみと
燃え、それは殺人へと突き進んだ。神
はカインに御声をかけ、悔い改めの機
会を与えられた。しかし彼は無視した。
聖霊の促しを無視すると、罪の性質は
頑なになり、更に罪に突き進む。今、
やましい事があるなら、伏せた顔を上
げて悔い改めよう。愛の御声が聞こえ
ているなら、御心に従おう。頑なにな
る前に。豊かな赦しにあずかろう。
--------------
悪いと分かっていても認めず、自分を
正当化して行くのは愚かだ。正しく裁
かれるのは神様だ。正直に罪を告白し、
悔い改めるなら新しい展開がまってい
る。主の御前に顔を伏せる事のないよ
うに。


2008年04月14日(月)

「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです」Uコリント4:15

私達の日々の生活に、様々な事が起
こる。そして、その結果を心に不満に思
いつぶやく。「こうならなければ良かった
のに」「何でこうなのか」「違う結果だった
ら良かったのに」「この結果は不満だ」、
もしこのように思っているなら、心に平安
はあり得ない。あなたの心はどうだろう。
違う結果だったら良かったのにと、引き
ずっている事があるだろうか。そこに平
安がないはずだ。信仰に立って、「すべ
てのことについて感謝」すること、神は良
きもの以外与えられないと、受け入れる
ことだ。極みまで愛して下さっているお方
が、最善以下の事をされるはずがない。
又、目の前に事に対して、「これは嫌だ」
「もっと別のものがいい」と言っているだ
ろうか。一つ一つは神が量り与えて下さ
ったものだ。量り与えられた状況を受け
入れる時、状況は全く同じだが、自分自
身が変えられる。つぶやきと不満、不安
や恐れに飲み込まれていた心に平安が
臨む。周囲から見るなら、ほとんど悲惨
とも言える状況の中でも本人には、肉の
この世の喜びではない、聖霊の喜びが
あり、平安がある。後の日に、あの時、
嫌だと思ったそのものが、自分を形造っ
てくれた事を、感謝をもって見い出す。
神が送られるのは一見マイナスに見え
てもみな良いもの、信仰によって受け入
れよう。
-----------------
自分の思っている結果以外は受け入れ
ないから、いつも不平と思い煩い続きな
のではないか。どんな状況の中にあって
も神様は最良、最善をなして下さると信
じることこそが信仰だ。


2008年04月13日(日)

「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。すると、すぐさま彼は見えるようになり」マルコ10:52

盲人バルテマイは人にあわれみを乞い、
物乞いをして生きていた。盲人ゆえに、
自活できず、人に依存して生きて行く
しかなかった。主がエリコに来られた
時、それまで耳で噂を聞いていたであ
ろうこの方に、大声で叫び求めた。私
をあわれんで下さいと。周囲に制せら
れると、尚も叫び立てた。すると主は
立ち止まられ、呼ぶように言われた。
その時、彼は上着を捨てて、すぐに主
のもとへ行った。上着は彼にとって行
きて行く上の、無くてはならぬ必需品
であった。その大切な上着を捨てて、
主のもとに来た彼に、主は、まず「行
きなさい」と言われた。あなたは、も
う自分の足で立てる。一人立ちできる
と。あなたの信仰があなたを救ったの
だからと、そして、彼の目は見えるよ
うになった。先に見えるようにされて、
「行きなさい」ではなく、「行きなさ
い」の後で、目が開いた。主は、私達
の人生、自分の足で立って歩むように
して下さる。私達は盲人でなくても、
人依存で生きているかも知れない。
何かあると、人を責め、人に責任転嫁
し、自分が責任を取ろうとしない。人
がああしてくれない、こうしてくれな
い、だから私は不幸せで、それは常に
人のせいだ。主への信仰は私達を立た
せてくれる。主を信じて信仰によって
歩むようにされる。バルテマイは自分
の足で立ち、生涯、主に従って行った。
・・・・・・・・
信仰は人を立たせる。主への信頼は、
屈折した心を真っ直ぐに健全にして行
く。「してくれない」の歪んだ人依存
から神様依存へと方向転換してくれる。
信仰は本当の心の目を見えるようにし
てくれる。


2008年04月12日(土)

「来て。主のみわざを見よ」詩篇46:8

主は戦いをやめさせ、弓をへし折り、
槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
そして「やめよ。わたしこそ神である
ことを知れ」と。エルサレムの人々に、
主がもたらされた勝利を、敗北した敵
の姿、その様子、主の戦勝の品々を見
よと告げられている。そして、主が戦
われ、主が勝利をおさめられたという
事を。「やめよ」とは、人間の力によ
る、人間的な知恵、方策による、肉の
様々な工作をやめよということだ。肉
の力で戦うのではなく、その肉に、自
分に死んで、御霊に支配されて、御霊
の導きに従って行くのが信仰生活だ。
「神はそのまなかにいまし、その都は
ゆるがない。神は夜明け前にこれを助
けられる」神は都の真ん中に臨在され、
その都はゆるがない。神は私達一人一
人のただ中に臨在されるので、私たち
は何があっても揺るがない。不安な事
柄や思い煩う事態、恐れに襲われる事、
信仰生活で様々な事態が生じるが、そ
の時こそ「わたしこそ神であることを
知」れる時だ。「やめよ」人間的工作
は止めて、目に見えない神を信じよう。
「神はわれらの避け所、力、そこにあ
る助け」だ。「主のみわざを見よ」今
までどんなに良くして下さっただろう。
必ず折りにかなった助けがあり、奇跡
があり、幾度もみわざを見た。今、新
たに主に信仰を献げよう。
・・・・・・・・・・
自分が肉の力で動き回っている限り、
主は傍観しておられる。肉の力は逆方
向へ進んで行く。自分で動くのを「や
めて」御霊の導きを求め、御霊によっ
て進む時、主のみわざを見る。


2008年04月11日(金)

「あなたは、あなたを恐れる者のために、旗を授けられました。それは、弓にかえて、これをひらめかせるためです」詩篇60:4

イスラエルはペリシテや、モアブやエ
ドムに苦しめられていた。ダビデがツ
ォバの王と戦っていた時、アラムがツ
ォバ王を助けに来て、又、エドムも攻
めて来た。私達も、苦難の中で、どう
すれば良いかが学べる。神が「地をゆ
るがせ、引き裂かれ」、神が「御民に
苦難をなめさせ」られ、神が「拒み、
破り、怒られ、顔をそむけられた」と
言い、「あなたの右の手で救って下さ
い。答えて下さい」と神に救いを求め
て祈っている。神にあるがままを申し
上げ、祈ることがまず大切だ。そして
「弓」に頼らず「旗をひらめかせ」よ
と。弓は武力の象徴だ。自分の力、考
え、方法でなく、信仰、神への信頼の
旗をひらめかせることが大切だ。あな
たも今、窮地にあり、右往左往してい
るだろうか。自分の思い、能力、経験、
方法を駆使して、解決を図っているか。
主はそれらの「弓」を捨てて、信仰に
立てと言っておられる。「人の救いは
むなしい」「神によって力ある働き
を」する。自分の力、知恵、方法は虚
しい。又あらゆる状況の中に、必ず神
の御心があり、その御心を求めて歩む
ことが旗をひらめかせることだ。あな
たにとっての「弓」は何だろう。弓を
捨てるなら無防備になるが、代わりに
神は旗を授けられた。それをひらめか
せる時、「この戦いは主の戦い」と神
が戦って下さる。拠って立つ弓を捨て
て、信仰の旗をひらめかそう。
-----------------
窮地は、自分の知恵や力で動こうとす
る思いを捨てるチャンスだ。自力に絶
望し挫折し、神の旗をひらめかせ、神
に支えられ戦う事を学ぶ時だ。


2008年04月10日(木)

「・・神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ローマ8:28

人生は、自分の思い通りには行かない。
ほとんど思い通りでないと言っても過
言ではない。しかし、人生で大切な事
は、思い通りにうまく行く事ではなく、
何が起きても、どうなっても「大丈夫
だ」と思える安心感、信頼感ではない
か。「永遠の腕が下に」あり「すべて
のことを働かせて益」とされるお方が、
世の終わりまでいつも共におられる。
「すべて」の事であり、一つの例外も
無い。今、あなたが思い煩っているそ
の事、不安なあの事、すべてだ。私達
の身に起こる事に、御父の目的があり
意図がありご計画がある。何があって
も「極みまで愛して下さっている神が
私の生涯を確かなご計画をもって、御
手により導いて下さっている」との大
きな安心感がある。わけのわからない
運命に、ほんろうされているのでは無
く、確固たる御手の中にあるとは、何
と平安な事だろう。そして益とすると
は、自分にとって都合良く結果する事
ではなく、次の節の「御子のかたちと
同じ姿に」変えられて行くという意味
だ。一つ一つの出来事を通して、御子
に似せられて行く。ヨセフは理不尽な、
波瀾万丈の人生であった。しかし、状
況ではなく、そこに神を見て、信仰に
よって歩み続けた。だから人の悪意さ
え、神が良いことのための計らいとさ
れたと告白できた。「すべて」自分が
起こす失敗も、又、人からの悪意も、
すべてを働かせて、私たちを主の似姿
に変えて行って下さる。
・・・・・・・・・
逆境の中にある時、これが神様のご計
画と思えないかもしれない。けれど、
その中にあって、全てが御手にあり、
必ず神様は最良をなして下さると信じ
ることが信仰だ。


2008年04月09日(水)

「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます」Uテモテ2:7


主は「よく考えなさい」と言われる。
理性、知性は神からのものだ。祈りの
中でそれらを使って、信仰生活に必要
な導きを判断できるようにして下さる。
些細な事は常識で判断すればよい。例
えば、どの服を着ようか、どの店へ行
こうか、神が与えて下さっている常識
内で判断して行なえば良い。紅茶か
コーヒーかの判断で深夜祈祷する人は
いない。神はある時、信仰により、常
識を超越した事をされる事がある。し
かし、決して非常識な方ではない。信
仰は非常識ではない。秩序の神であっ
て混乱の神ではない。礼儀に反する事
もされない。目の前の状況もよく見て、
判断する事が大切だ。一羽の雀すら、
父のお許しなしに地に落ちることはな
い。身に起こる出来事の一つ一つが、
全知の御父の支配の中だ。状況を通し
て、教えようとされている事がある。
ある時、突然、門が閉じられる事もあ
る。アジアで御言葉を語る事を閉じら
れたパウロのように。ビテニヤの方へ
行こうとしたが、それも閉じられトロ
アスに下った。そこで幻を見てマケド
ニヤに渡った。門が閉じられる事は、
「別の導き」があるという事だ。パウ
ロは思いを越えてヨーロッパ宣教へと
導かれた。祈りの内に、御言葉や状況
に目を留めつつ、神の下さった理性、
知性を用いて、神の導きを判断して行
こう。御霊が助けて下さる。御心の道
は最善であり、最も安全であり喜びだ。
・・・・・・・・
私達の信仰は狂信、盲信ではない。理
性を働かせるように言われている。御
言葉、状況、祈りの応答を照らし合わ
せ、主の言わんとされている事をよく
考えよう。


2008年04月08日(火)

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう・・あなたがたに目を留めて助言を与えよう」詩篇32:8

信仰生活で様々な「導き」を求める。
その時に、敵からの声も混じるので要
注意だ。サタンは神に似せるので、神
と同じ事を真似る。それゆえ御霊が、
御声をかけ、印象を与え、平安を与え
て、御心に導こうとされる時、敵も同
じ事をする。サタンも語りかけて来る。
又、何らかの強い思いを与え、印象を
与える事もできる。偽りの平安をもた
らす事も出来る。御霊からのものか、
サタンかを、よく見分ける事が必要だ。
その導きは、聖書全体の教えに照らし
合わせて、かなっているか、教えから
それていないか。サタンは一箇所だけ
を持って来て、導きだと思い込ませる
が、全体から見る必要がある。前後関
係や文脈を無視して一つの言葉だけを
取り出すのは危険だ。異端がそれだ。
よく前後関係を見て、聖書全体から判
断する事が大切だ。御霊の導きは秩序
があって矛盾が無い。その動機は「愛」
であるか。動機が問題だ。御霊からの
ものは純真で、あわれみに満ち、見せ
かけがない。敵からのものは、動機に
妬みや敵対心が潜む。又、自分の利得、
欲望充足、自分の栄光のためだ。神の
栄光のためではない。御霊からのもの
は他の人をも、生かし励まし益を与え
る。敵の攻撃もわきまえつつ、導きを
求めよう。主は必ず御心を知らせて下
さる。導きの主であるのだから。
----------------------
心に苦い思いや罪があるなら導きを聞
き間違えてしまう。その声は純心であ
り、真に愛に満ちているか。今神様の
近くにいるだろうかと神様に尋ねよう。


2008年04月07日(月)

「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」ルカ14:33

主に従う者なら誰しも、主のみこころ
を行ないたいと願い、主が喜ばれるこ
とを選び、望んでおられることを望み
たいと願う。しかし、自分の好みや自
分の願望、自分の思いも同時に持って
いる。それらの向きが違うと、自分が
二つのものに引っ張られ、身動きがと
れなくなる。どちらにも引っ張られる
と、自分は前に進めなくなる。つまり
は、二心なので悩むのだ。二本のレー
ルが最終的に向きが違っていたら、列
車は脱線してしまう。二心でも別に何
とかやって来れたのだが、ある時、ど
うしても前進できなくなってしまう。
向きの違う二つのものに、自分は引き
裂かれてしまう。自分の願望や思い、
計画をどうしても十字架のもとに持ち
来て、主に献げなければならない時が
ある。強い願望か、夢か、計画か、主
のみこころと相容れないので、持った
ままでは前に進めない。人生の行き詰
まりは大きな祝福だ。それを手放すこ
とだ。小さな子供がビンに手を突っ込
んで、中のキャンディを握りしめ、手
が出ないと大泣きだ。キャンディを放
したなら、手が出て自由になれる。
キャンディを絶対に放したくなくて、
身動きが取れない。あなたも握りしめ
ているものを手放す時、御霊の自由と
喜びの中へ入る。今、御霊に語られて
いたら、献げよう。
------------------------
主と共に前に進むなら、捨てるべきも
のは何か。大切なものが邪魔をしてい
るかもしれない。今ひとつの飛躍を妨
げているものを示されているなら、献
げて行こう。


2008年04月06日(日)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3

彼は生まれつきの盲人だった。実際の
世界を一度も見た事がなく、人から聞
いて、又、手で触れて、思いの中で想
像していただろう。自分で何をどうす
る事もできず、人に依存し、人のお恵
みで暮らすしかなかった。人の助け無
しに生きられないというのは、どんな
にか屈辱であり、プライドが傷つき、
無力感、敗北感の中にいた事だろう。
又、当時は生まれつき盲人であるのは、
罪の報いという、因果応報の迷信があ
った。だから、弟子達も、本人の罪か、
先祖の罪かと露骨な、配慮も何もない
侮辱的な質問をした。その時に、主は
驚くべき答えをされた。「神のわざが
この人に現れるため」と。この人々か
ら見捨てられ、蔑まれていた盲人は、
自分の姿ではないだろうか。自己を神
とし、どんなに頑張っても、自分のた
めにしか生きる事ができず、プライド
は高く、人を妬み、虚栄で突っ張り、
人と比較し、競争し、優越感と劣等感
を行き来している自分。心では互いに
妬み合い、人を馬鹿にし、優位に立と
うとし、不満と思い煩いの中で生きて
いる私達。そんな者に、あなたが存在
するのは「神のわざが現れるため」と
の御心を表して下さった。罪にまみれ
た私達が、血潮のゆえに全く赦され、
神のわざが現される生涯、尊い者とさ
れているのは、何という恵みだろう。
・・・・・・・・
どろどろの罪まみれの中から救い出し
て下さり、神の栄光を現わす生涯とし
て下さるなどと、何というあわれみで
あり、光栄だろう。「神のわざが現れ
るため」自分自身への言葉として受け
取ろう。


2008年04月05日(土)

「道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった」マタイ13:4



道ばたとは、固い土地だ。固いので、
落ちた種が跳ね返る。土の中に入らな
い。種は御言葉であり土地は心だ。心
に御言葉が入らない。固い土地の一つ
に「自分の思い」がある。御言葉を聞
いた時に「無理」「人を愛するなど、
はなから無理」「自分を捨てるなどで
きるわけない」「御言葉通りにしてい
たら、世の中生きて行けない」「周囲
から浮いてしまう」御言葉を聞く時に、
同時に様々な思いが来ている事に気づ
くだろうか。ある人が幾ら御言葉を聞
いても、神のことがわからず、自分も
全く変わらない。そんな時に、ふと気
づいた。御言葉を聞くと同時にそれを
否定する思いが臨む。「できるはずな
い」その思いの方を優先させ、取り込
むので、結局、御言葉が心に入ってい
ないのだと。はじき返して捨てている。
サタンが御言葉を奪って行くので、物
理的に聞きはするが、心に入っていな
い。それが、神がわからず、成長のな
い原因だったと。種が無い限り、実が
なる事はあり得ない。何十年と御言葉
を聞いていても、自分が変わらない。
あなたはどうだろう。どんな聞き方を
しているだろう。「聞き方に注意しな
さい」とある。自分の思いが、御言葉
をしゃ断し、捨ててしまっているなら
気づきを与えられ、まず御言葉を心に
素直に受け止められるよう祈ろう。出
来ないなら「できません、助けて下さ
い」と祈ろう。必ず神の助けが来る。
・・・・・・・・
好きな、耳ざわりの良い、都合の良い
言葉だけ聞いているだろうか。「愛さ
れている」だけにとどまらず「義の訓
練」「聖め」の痛い言葉もへりくだっ
て受け止め、成長して行けますように。


2008年04月04日(金)

「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」使徒23:11

パウロはローマに行く事を、神よ
り示されていた。しかし、第3次
伝道旅行の後、エルサレムに寄っ
た時、「除いてしまえ。生かして
おくべきでない」と人々に殺害さ
れそうになり、引き裂かれるので
はと思うほどの大騒動になった。
捕らえられてしまい、ローマに行
く事は全く不可能に見えた。しか
し、監禁により、返って暗殺者か
ら守られる事になり、実の無い裁
判に見えたが、それは総督のペリ
クスやフェストに証しをする機会
となった。又、丁度アグリッパ王
がフェストに会いに来たため、王
にも福音を語る機会が与えられた。
パウロは更にローマ皇帝に上訴し
たため、これがローマへの道を開
き、パウロの思いとは異なり囚人
としてであったが、ローマに向か
う事になった。その船が幾日も大
嵐に会い、最後の望みも絶たれよ
うとしていた。しかし、パウロは
必ずカイザルの前に立つとの、神
の言葉を信じていた。船は座礁し
たが、全員が岸に辿りつき助かっ
た。「こうして、私たちはローマ
に到着した」。パウロは無事ロー
マに着き、福音を伝える事になっ
た。何があっても、どんな障害が
あっても、神は必ず御言葉を成し
就げられる。神が語られた事は
100%成就する。あなたは今、途
上の苦しい中にいるだろうか。
「こうして、ローマに到着した」。
必ずあなたに約束された御言葉
は成就する。信じて待ち望もう。
------------------
遣わしておられる方は神様だ。ご
計画はことごとく成し就げられる事、
それを信じて歩んでいるだろうか。
定められた場所、示された目標は
すでに与えられている。信じて歩も
う。


2008年04月03日(木)

「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」使徒23:11

パウロはローマに行く事を、神よ
り示されていた。しかし、第3次
伝道旅行の後、エルサレムに寄っ
た時、「除いてしまえ。生かして
おくべきでない」と人々に殺害さ
れそうになり、引き裂かれるので
はと思うほどの大騒動になった。
捕らえられてしまい、ローマに行
く事は全く不可能に見えた。しか
し、監禁により、返って暗殺者か
ら守られる事になり、実の無い裁
判に見えたが、それは総督のペリ
クスやフェストに証しをする機会
となった。又、丁度アグリッパ王
がフェストに会いに来たため、王
にも福音を語る機会が与えられた。
パウロは更にローマ皇帝に上訴し
たため、これがローマへの道を開
き、パウロの思いとは異なり囚人
としてであったが、ローマに向か
う事になった。その船が幾日も大
嵐に会い、最後の望みも絶たれよ
うとしていた。しかし、パウロは
必ずカイザルの前に立つとの、神
の言葉を信じていた。船は座礁し
たが、全員が岸に辿りつき助かっ
た。「こうして、私たちはローマ
に到着した」。パウロは無事ロー
マに着き、福音を伝える事になっ
た。何があっても、どんな障害が
あっても、神は必ず御言葉を成し
就げられる。神が語られた事は
100%成就する。あなたは今、途
上の苦しい中にいるだろうか。
「こうして、ローマに到着した」。
必ずあなたに約束された御言葉
は成就する。信じて待ち望もう。
------------------
遣わしておられる方は神様だ。ご
計画はことごとく成し就げられる事、
それを信じて歩んでいるだろうか。
定められた場所、示された目標は
すでに与えられている。信じて歩も
う。


2008年04月02日(水)

「ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです」Uペテロ2:16

“不義の報酬を愛したバラム”と出て
くるが、イスラエルがどんどん勢力を
広げて行くのを見て、恐れをなしたバ
ラクが、バラムを雇ってイスラエルを
呪わせようとした。神が共に行くな、
呪うなと言われたに関わらず、報酬に
目がくらみ、バラクと共に行く。そこ
に抜き身の剣を持った主の使いが現れ、
行く手を阻んだ。ロバには見えたが、
バラムには見えなかった。ロバが止ま
らなければ、命は無かったところだ。
ある人が、高額の報酬と自らの才能も
発揮できる場を提示され、周囲の反対
もあり、薄々は御心でないと感じつつ
も、魅力に負けて転職した。やはり高
収入の分、仕事は極度に厳しく心身消
耗し、神のための時間は失せ、神から
離れて行った。後に立ち返れたが、痛
い刈り取りをした。私達にも誘惑は来
る。金持ちになりたい。これは単に金
銭ではなく、誉や人からの賞賛を求め、
注目を浴び、人の上に立ちたい野心で
あり又、自己実現したい心だ。誘惑に
目がくらみ間違った方向へ進む。しか
し、聖霊が阻止される。今も、あなた
への警告があるか。耳を傾けよう。人
からの忠告、ぎくしゃくする環境、平
安の無い心、向きが違っている。世と
世の欲は滅びる。虚しい。しかし、御
心を行なう者は永遠にながらえる。神
の御心を行なう事が最も祝福された人
生だ。ぎくしゃくする状況なら、心静
めて御心を求めてみよう。
・・・・・・・・
もし心に平安が無いなら、御心と反対
向いているかも知れない。又、障害を
置いて神は御心でない事を示される。
御心でない道に向かっている時、神は
止められる。遙かに素晴らしい道が備
えられているからだ。


2008年04月01日(火)

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:15

カナンに斥候を遣わし、その報告を
聞いた。民は強く、巨人達もいて、
城壁は大きい。それを聞いた時、イ
スラエルの民達は恐れて怯え、不信
仰に陥った。神が与えるとの約束の
地にもかかわらず、不平と不満で一
杯でエジプトに帰ろうとまで、言い出
した。主は「いつまで信じないのか、
わたしを侮るのか」と、つぶやいた
民達は荒野で滅びると告げられた。
すると、それを聞いた民達は、「罪を
犯した。とにかく言われた所へ行こ
う」とカナンへ上って行く。モーセは、
主が共におられないから、行っては
ならないと止めたにも関わらず、上
って行って敗北して帰って来る。行
けと言われれば従わず、行くなと言
われれば、行く。民の姿は、愚かで
不従順な自らの姿かも知れない。
神に従うために「時」がある。時を
逸しては、もう遅い。後から従おう
としても、もう従えない。民達は斥
候が戻って来た時に、信仰に立つ
べきであった。神の約束に立ち、神
を信じカナンへ入って行くべきであ
った。後悔して、上って行ったが、時
すでに遅しであった。神の御声は愛
だ。愛による導きだ。神の愛に応え
よう。あなたも今、何かの導きを受
けているだろうか。御声を聞いてい
るなら、従おう。一歩踏み出すなら、
ますます神の愛を経験して行く。
----------------
踏み出し、従わなければ神様の素
晴らしさをさらに深く知ることできな
い。出発の春だ。今示されたのなら
信仰を持って、導きに従おう。新た
な祝福の地が待っている。