2008年05月31日(土)

「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」マタイ15:27

「主よ。ダビデの子よ。あわれんでく
ださい」と、悪霊につかれた娘の助け
を、彼女は本気で、真剣に主に叫び求
めた。主は、心から叫び求める願いに
答えて下さるのではないか。私たちは
そう思う。しかし、主は「一言も」答えら
れなかった」。切なる、必死の求めに
全く答えられず、沈黙されたままだっ
た。弟子たちがいらいらし、不平を言
って来た。それで、それに答えられた
形で「イスラエル以外には遣わされ
ていない」と言われた。彼女はその主
の言葉で悟った。自分はダビデの子
ではない。イスラエルではないので
「ダビデの子よ」という資格はないの
だ。それで、ただ「主よ」と、更にへり
くだり、御前にひれ伏して願った。
その正しい位置とへりくだりは、主の
答えを引き出した。しかし答えは「子
供たちのパンを小犬にやれない」と
だった。彼女への試しであり、へりく
だって小犬と認め、尚、求めてくるか
を見られた。彼女は「そのとおりです」
と自らを小犬だと認めた。恵みに価し
ない者だと。しかし、彼女には信仰が
あった。小犬でも、食卓からのパンく
ずはもらえる。恵みと慈しみの主だと
信じきっていた。主はその信仰を「立
派だ、見上げたものだ」と驚かれ、喜
ばれた。「願い通りになるように」と娘
は癒された。
・・・・・・・・・・・
答えを受け取れるように主は導いて
おられる。彼女はへりくだった。決して
諦めない。主は絶対にあわれんで下
さると信じていた。得ても得なくても
どっちでもよい程度なのか、願いが本
気で本物なのか試される。


2008年05月30日(金)

「カインのようであってはいけません・・なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです」Tヨハネ4:12

アベルの献げ物は受け入れられ、カイ
ンのものは退けられた。カインは自分
が受け入れられなかった怒りで震えた。
神は正しく行なっていないと罪を指摘
された。そこで悔い改めて、献げ直せ
ばよかった。しかし、正しい献げ物を
したアベルにより、自らの罪が明らか
になり、嫉妬と怒りでカインはアベル
を殺害した。アベルの行ないは正しく、
自分の行ないは悪かったからだ。義人
は迫害を受ける。義人はそこにいるだ
けで、他人の罪を明らかにしてしまう。
悪口ざんまいの職場で、一人悪口を言
わないクリスチャンが、うとまれ憎ま
れる。悪口を言わないという、ただそ
の事で、周囲の罪をあらわにするから
だ。「世のものであったら、世は自分
のもを愛した。しかし、世のものでな
く、世から選び出されたので、世はあ
なたがたを憎む」噂話や悪口に同調し
ない人を、快く思わない。ダビデは、
主に信頼し従い、主の御心を歩んで行
った。ダビデがただ真っ直ぐに従えば
従うほど、サウルの不従順と罪があか
らさまになるのだ。サウルは、ダビデ
を見る目が疑いと嫉妬と歪み、ダビデ
を殺そうとする。人は主に従う人を見
る時、自分の罪が明るみに出される。
自分を否定される事になる。だから憎
しみが湧く。時に信仰ゆえの苦しみが
あるが、義のためである事を覚えてい
よう。
・・・・・・・・
敬虔に生きたいと思うなら迫害がある。
自らの罪ゆえでなく、義のゆえに、信
仰のゆえに、悪口雑言を言われるなら
喜べと言われる。意気消沈、落胆せず
に喜び踊れ、天で大きな報いがある
と。今日も主から目を離さないでいよう。


2008年05月29日(木)

「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れても、まっさかさまに倒れはしない。主がその手を支えておられるからだ」詩篇37:23

主は人の歩みを導いて下さる。主の導
きに従って歩むなら、主は喜んで下さ
る。そして、主の喜ばれる道を歩むな
ら、主がその手を支えていて下さる。
つまり、御心を歩むなら、主が責任を
取って下さるという、保証付きだ。し
かし、御心の中ではなく、自分勝手に、
自分の思い通りの道に、自分の好きな
道に、自己中心な欲望の道に歩んで行
くなら、その結果を刈り取る事になる。
神は私たちをロボットに造られなかっ
たので、決して強制も強要もされない。
首に縄をつけて引っ張られない。私た
ちの自由だ。しかし、自由には責任が
伴う。神の道からそれると、歩みに確
固たる確信が失せるので、人の目が気
になり、人を恐れるようになる。平安
が心に無いので、思い煩いと不安に支
配される。波風にほんろうされる小舟
のように、常に変わる状況に振り回さ
れて、飲み込まれて、あたふたする。
心が定まらないからだ。主の御声を聞
いて、御心を歩む時、確固たる歩みが
できる。主によって歩みが確かにされ
る。そして揺らぐ事のない平安が心に
ある。だから、状況がどうであれ、信
仰によって前進して行くことができる。
主の御声に耳をよく傾け、聞いた言葉
に従って行こう。それが確かな歩みだ。
御心を歩む中で、様々な想定外の事が
起きるが、主がその手を支えて下さっ
ているから心配無い。何と安心だろう。
・・・・・・・・・・
御声を聞いて歩む時、状況が、人が、
どうあろうと確信持って進んで行ける。
主が歩みを堅くし確かにして下さるからだ。
御心に従って試練にも会うが、主の支え
の保証付きだ。


2008年05月28日(水)

「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというのであなたはここまで私を導いてくださったのですか」Uサムエル7:18

ダビデは、自分が杉材の家に住んでい
るのに、神の箱は天幕の中にある事を
思い、神の家を建てようと志す。しか
し、神はナタンにその事は御心ではな
いと告げられた。だが、それにまさる
壮大なる約束が与えられた。あなたの
家とあなたの王国はとこしえまでも堅
く立つと。そして、あなたの身から出
る世継ぎの子が王国を確立させると。
そして、彼が神の家を建てると。ダビ
デの思いを遙かに越えた神の大いなる
祝福に、その約束に、心からの感謝の
祈りを献げた。私たちもこの思いは同
様ではないだろうか。いったい何者で
あり、何であるからというので、ここ
まで私を導いて下さったのだろう。あ
の危機、あの罪、あの過失、この失
敗・・今あるのは、神のあわれみ以外の
何ものでもない。ダビデの生涯には汚
点があり、重大な罪を犯した。しかし、
サウルは退けられたのに、ダビデの家
は大いなるとこしえの祝福が与えられ
た。どこが違うのか。ダビデはへりく
だった。罪は犯したが、神の御前に罪
を認め、悔い改めた。そこが一番の鍵
だ。罪を認め悔い改めることが、へり
くだることであり、責任を取ることだ。
そんなダビデは大いに祝福された。罪
を隠さず、言い逃れせず、自分を正当
化せず、真正面から認めよう。罪しか
提供できないような者に悔い改めが与
えられているのは何と恵みだろう。
「罪の増し加わるところには、恵みも
満ち溢れ」そして罪の内を歩み続ける
事ができないようにされているとは。
・・・・・・・・
様々な挫折、失敗、回り道を一つ一つ
益とし、今まで導いて下さった主のあ
われみは測り知れず、言葉に尽くせな
い。その一つ一つに恵みは満ち溢れ、
感謝を見る事ができるとは何と驚くべ
き事で、へりくだらされる事だろう。


2008年05月27日(火)

「助け主・・聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」ヨハネ14:26

御霊は、私たちの内に住み、クリスチ
ャン生活を導いて下さるお方だ。慰め
や励ましを与え、指針を与え、平安を
与えたり、取り去ったりして、信仰生
活を導き助けて下さる。御霊が解き明
かして下さることにより、御言葉が悟
れ、神の御心がわかる。御霊によらな
ければ、何一つわからない。神の御声
がいのちをもったものとして聞け理解
できるのも御霊による。「いのちを与
えるのは御霊です。肉は何の益ももた
らしません」人間によるものは、霊の
理解においていっさい役立たない。御
霊は私たちの内に志を与え、願望を与
え、事を行わせて下さる。自分の肉の
思いか、御霊からのものか、よく祈っ
て識別する事が大切だ。特に強い願望
には自分の主観が入り込むので要注意
だ。その志は「御言葉と合致するか」
「神の栄光が現れるか」「自己中心な
肉の欲望ではないか」「動機は愛か」
「他の人の徳を高めるか、つまづきに
ならないか」「不安が無く平安がある
か」等で、試す事ができる。「動機は
愛か」が重要で、判別がつく。神の栄
光と言いつつ、実は自我からであり幾
らでも自分を正当化できるからだ。又、
御霊は主イエスを証しし、主がどのよ
うなお方であるかを教え、又、主のお
心を教えて下さる。今日も「あなたの
行く所どこにおいても、主を認め」の
通り、御霊の導きによく目を向けてい
よう。どんな良きものを備えていて下
さるか、期待をもってこの一日を始め
よう。
-----------------------
「その動機は愛か」、愛でなければ間
違っている。心に留めて歩もう。今日
一日も極みまで愛して下さっている方
のご愛と配慮、導き、示しを楽しみに、
それをよく御霊によって悟れるよう祈
ろう。


2008年05月26日(月)

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17

神の導きを求める時の原則だ。神は、
常識を超越してみわざをされる。又、
信仰は、時に常識を越えることがあ
る。しかし、神は非常識な方ではな
い。そして「混乱の神ではなく」Tコリ
14:33 秩序をもったお方だ。クリスチ
ャンにとって、常識は大事だ。「よく
考えなさい」Uテモ2:7神は理性と知性
を与えて下さった。神を愛するにも、
知性は必要だ。「・・知性を尽くして、主
なる神を愛せよ」「主は・・理解する力
を・・与え」られる。御霊により理解
する力、判断する力を与えて下さる。
些細な事柄については、与えられた常
識と理性で判断すればよい。今日はど
の色の服を着るべきか、時と場所、場
合にふさわしいものを選べば良い。
コーヒーか紅茶か、好きな方を選べば
良い。又、神は私たちの環境を支配し、
常に働いておられるので、そこに神を
認め、状況をよく見極め、しっかり考
え、判断する事が大切だ。大きな事柄、
大切な事柄に関しては、よく祈って導
きを求める必要がある。御言葉と、祈
りによる御霊の平安があり、環境が開
かれていたなら、前進して行けばよい。
御言葉、祈りによる平安、環境の3
つが揃うことだ。心に不安があるな
ら、まだ待ってよく祈った方がよい。
御心なら不安を取り去って下さる。それ
らが揃った上で前進し、もし万一違って
いたら、それも神が止めて下さる。
--------------------
自分の生涯の責任はすべて神様にお
任せしているのだから、必ず最善へ
と導いて下さる。右へ行くにも左へ
行くにも御心にある道なら深い平安
のうちに導かれる。


2008年05月25日(日)

「それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか」Uサムエル12:9

自分の犯した罪は、悔い改めるなら完
全に赦される。神は無かったこととし
て見て下さる。その罪が、十字架の主
の上に置かれたからだ。主のゆえに完
璧に赦される。しかし、罪が赦される
事と、罪の結果を刈り取る事は別のこ
とだ。罪は赦されるが、罪の結果から
逃れられるのではない。自らが刈り取
ることになる。罪が赦されたからこそ、
刈り取って行ける。だから、どうせ赦さ
れるのだからと、罪を甘く見てはならない。
断じて軽い気持ちで罪を犯してはなら
ない。刈り取りは決して甘いものでは
ない。苦しく辛い苦いものだ。しかし、
主と共に刈り取る時、それを訓練とし
て用い、成長を与えて下さる。どこま
でも益として下さる。ダビデに生まれ
た子は死んだ。ダビデの妻たちは他の
者に汚され、ダビデの息子たちも死ん
だ。苦しい辛い刈り取りであった。罪は
その結果に、家族をも巻き込むことに
なってしまう。自分だけにとどまらない。
罪はそれほど重大な深刻なものだ。し
かし、尚も神のあわれみと恵みは尽き
ない。姦淫の罪によるバテシバとの結
婚であったにも関わらず、その間に生
まれたソロモンを次の王とし、神の家
を建てる者とされた。
・・・・・・・・・
主の愛は不変であり、主のあわれみ
は尽きない。朝ごとに新しい。その慈
しみは深い。主と共に刈り取る時、痛
みをも祝福に変えて下さる。ソロモン
を与え、測り知れない恵みを与えて
下さった。


2008年05月24日(土)

『「私は主に対して罪を犯した」・・「 主もまた、あなたの罪を見過ごしにしてくださった」』Uサムエル12:13


罪の赦しの有名な箇所だ。ダビデは姦淫
と殺人の罪を犯して、最初悔い改めて
いなかった。この期間、非常な煩悶の
中にあった。彼は王であり全権力を握
っていた。自分はトップであり誰も何
も言う者はいない。罪を隠ぺいしよう
とした。しかし、神は預言者ナタンを
遣わされた。ナタンは例えを用いなが
ら、ダビデの罪を真正面から指摘した。
その時、ダビデは王ゆえどうにでもでき
たが、しらばくれず、自らの罪を認め
悔い改めた。神はダビデの罪を完全に
赦された。神はダビデを愛して、悔い
改めに導くためにナタンを遣わされた。
神はあなたを愛し、あなたにナタンを
遣わされる。プライドと強情な自我は
人から指摘されたくない。必ず痛いの
で、反抗し拒否する。しかし、人から
の警告、忠告は神からのものだ。神が
あなたを見捨てておられず、愛してお
られる証拠だ。言ってくれる人が誰も
いなくなればおしまいだ。ダビデはへ
りくだった。体面も恥も外聞も何もか
も捨て、罪を認め告白した。サウルは
体面と体裁、メンツのゆえに悔い改め
なかった。自我を押し通した。私達は
弱さのゆえに罪を犯してしまう。しか
し、それは誰しもだ。しかし、ダビデ
の違いは、素直にへりくだって罪を認
めたことだ。重大な罪を犯したが、ダ
ビデは神に愛され、ヘブル11章の
「信仰の人々」に名を連ねている。人
からの忠告に耳を傾けよう。間違った
方向へ向かっているとの神からの警告
だ。
・・・・・・・
神はナタンを遣わされる。罪を指摘さ
れる。痛いが神の愛だ。へりくだって
耳を傾けよう。放っておかれる方が恐
い。言ってくれる人がいなくなればお
しまいだ。


2008年05月23日(金)

「あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして・・全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」創世記22:2

時々、自らの弱さ、足らなさゆ
えに起こした問題を、信仰ゆえ
の迫害と大騒ぎする。が、それ
は信仰以前の問題だ。信仰は関
係なく、自分の未熟さゆえの失
敗だ。又、試練、試練と言うが、
試練などでなく、自分の愚かさ
ゆえに招いた痛みもある。アブ
ラハムも「非常に悩んだ」事態
が出て来る。イサクの誕生を信
仰によって待てないで、肉の思
いと行動で、女奴隷ハガルによ
ってイシマエルを得た。しかし、
後にイサクを与えられたが、サ
ラからハガルとイシマエルを追
い出すよう要請された。イシマ
エルも自分の子供なので、非常
な悩みとなった。その時に、神
が御声をかけて下さり、神の言
われる通りに解決すべく、翌朝
早くハガルとイシマエルを出し
た。次には、約束の子であるイ
サクを全焼のいけにえとして献
げるように言われた。これはハ
ガルの場合と違った。自らが起
こした肉の行ないの刈り取りで
はなかった。「神はアブラハムを
試練に会わせられた」神から来
た「試練」であった。彼は「翌朝
早く」従った。彼はこの事がはっ
きりと神から来ていること、神の
明確な示しである事がわかって
いた。彼にとっては自分の命より
大事なものだったろう。「力とする
もの、栄えに満ちた喜び、愛す
るもの、心に慕うもの」エゼ24
:25だったろう。彼は従った。
神はイサクを彼にとって正し位
置に返された。私たちにも神以
上に愛するものがないか。明け
渡す時、正しい位置に置いて
下さる。
------------------
日々神様を仰ぎ、尊く思ってい
ても神様以上に愛する物がない
と言えるだろうか。神様を恐れ
ながら、あれもこれもと優先順
位はごちゃごちゃだ。正しい位
置に返そう。


2008年05月22日(木)

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」ルカ22:42

神は私たちに、祈りの中で、自
分の気持ちや自分の思いをある
がまま、自由に打ち明けるよう
にと言って下さっている。主イ
エスもそのように祈られた。で
きるものなら、この杯=十字架
を回避したいと祈られた。きれ
い事ではなく、口先の薄っぺら
な言葉ではなく、本心をそのま
ま祈られた。苦しみもだえられ
た。その苦しみの様は汗が血の
しずくのように地に落ちたと。
苦しみもだえられる様を、弟子
たちに隠されなかった。ご自分
のあるがままの姿を見せられた。
十字架を回避したいが、しかし、
みこころの成就を祈られた。私
たちも自分の強い思い、願いが
あり、それが主のみころと違う
方向に向いている時、みこころ
に従うことは決して簡単ではな
い。痛みや苦しみや非常な困難
を伴うだろう。自分に死んで、
自我を断ち切って従う必要があ
る。自分の思いは強く、自我は
強固だ。だからこそ、祈らなく
ては従えない。きれい事ではな
く、自分の本音を告げよう。主
ご自身がそのように教えて下さ
っている。本音を告げて、御心
を選び取れるよう祈ろう。本心
からのその祈りを主は必ず聞い
て下さる。自分を捨てて、みこ
ころを選び取って行く時、素晴
らしい主のみわざが成し遂げら
れる。自分の欲望の満たしが満
足ではなく、あなたを通して、
主の計画が成し遂げられ、主の
みわざを拝する事が、あなたの
真の満足ではないだろうか。
---------------------
自分の思いのままに祈りながら
神様は祈りの中で、私達の思い
を砕いて行って下さる。祈りの
中で御心に従いたい思いへと変
えられて行くことが感謝だ。


2008年05月21日(水)

「彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった」Uサムエル11:27

罪を犯してしまった時は、どうすれば
良いのか。もし、ダビデが、バテシバ
との姦淫の罪を、神の前に、ウリヤの
前に告白していたなら、ウリヤ殺害の
罪を重ねることから守られただろう。
罪を隠す時、必ず罪の上に、重大な罪
を重ねて行ってしまう。罪を誰にも知
られたくなくて、何とか隠そうとする
が、罪は必ず明るみに出る。隠れたも
のは必ず神が明らかにされる。神は侮
られる方ではない。ダビデは神の御前
に正しい事を行なうよりも、王として
の名誉、地位、対面を保とうとした。
バテシバが妊娠したと知るや、ウリヤ
の子に見せかけようと画策するが、う
まく行かなかった。すると、ウリヤ殺
害計画を練る。それを実行し、ウリヤ
を殺してしまった。そして、バテシバ
をめとり、めとった後にできた子供に
見せかけようとした。人の目には隠し
おおせても、「しかし、ダビデの行な
ったことは主のみこころをそこなっ
た」神はすべてを見通しておられた。
誰にも知られなくても、神の目には裸
だ。罪が告白できない理由は、恐れだ
ろうか。面目を失い、人にどう思われ
るかが恐い。しかし、ずっと外側繕っ
た、偽りの自分を生きる事になる。罪
はすぐに告白しよう。逃げるのでなく、
向き合おう。その罪を赦すために主は
血を流された。罪赦される解放と平安
を味わう。
・・・・・・・
罪は人にはわからなくても、主の御心
をそこなっているゆえ、平安が無い。
赦しを受け取ろう。まばゆい光の中へ
戻され、大海のような平安と内から湧
き上がる喜びを経験する。


2008年05月20日(火)

「ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した・・しかしダビデはエルサレムにとどまっていた」Uサムエル11:1

サタンは私たちを陥れようと、足
もとをすくおうと、虎視眈々と狙
っている。ダビデが深刻な誘惑に
陥った箇所から学ぶことができる。
ダビデは、部下たちが命がけで戦
いに出ているのに、自分は安逸を
貪っていた。本来なら先頭に立っ
て、戦っているべきであった。し
かし、全軍隊と神の箱を戦場に送
り、自分は居心地の良いエルサレ
ムにいた。御心をそれて、御心の
場所にいない時、サタンの攻撃を
招き、誘惑に陥りやすくなる。
御心の中が一番安全だ。よく心し
ていよう。そして、ダビデは夕暮
れ時に、床から起きあがった。皆
が戦っているのに、夕方起き出す
ような、怠惰な、いい加減な生活
をしていた。油断して、すきだら
けだった。まさにサタンの標的だ。
御心の中にいたなら、戦場にいた
なら、受けることの無い誘惑に、
自ら身をさらしてしまった。案の
定、バテシバと罪を犯し、罪の無
いウリヤまで殺害してしまった。
私たちも目を覚ましていよう。日
々、祈っていよう。日々、主と交
わっていよう。怠惰になり、油断
している時、あなたを鵜の目鷹の
目で狙っている、サタンが放って
おかない。大きな誘惑に、危険に、
身をさらすことになる。そして、
重大なことは、あなたはそれに気
づかない。目を覚まして、自分自
身を、サタンを見張っていよう。
-----------------
目を覚まし日々、神様の近くにお
り、霊の交わりをしていなければ
徐々に、徐々に罪の誘惑にから
めとられてしまう。今、大きな罪を
犯していなくても、目覚めていよう。


2008年05月19日(月)

「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません」Tサムエル8:19

イスラエルの民が、神のみここ
ろに反して、サムエルに王を求
めた時、主は、民の声を聞き入
れよと言われた。サムエルを退
けたのではなく、神を退けたの
だと。民は王を求めて、神に逆
らい、神を退けたのだ。神はサ
ムエルに彼らに厳しく警告し、
王の権利を告げよと言われた。
しかし、民はどうしても王がな
くてはならないと言い張った。
すると神は、王を立てよと言わ
れた。しばしば、自分が肉で計
画した事がうまく行き、画策通
りになる時に、これは神が成功
させて下さったと勘違いする。
神が認めて下さったのだと思い
込もうとするが、それは大きな
誤解だ。神がどうしても行くと
いう私たちに、自分勝手な道を
行く事を許されただけだ。どれ
だけ止めても、忠告しても聞か
ない頑固な私たちに、思う道を
行かせられる。そして、自分が
した事の結果を刈り取らせられ
る。苦い辛い、苦しい刈り取り
になる。その刈り取りを訓練と
し、学ばせられる。 自我を通
すことが、いかに愚かであるか
を身をもって知る。蒔いたもの
は必ず刈り取る。例外はない。
肉のために蒔くと、必ず苦しい
刈り取りがある。神は侮られる
方ではない。神を侮ってはなら
ない。今、自分の道に行こうと
しているなら、方向変換して御
霊に従おう。御霊に蒔くなら、
大きな祝福を刈り取る。
---------------------
肉の思いに執着する時その計画
をもって神様は私達を砕き、真
に悔い改めに導かれる。痛い刈
り取りの前に、肉の思いを明け
渡し御霊の導かれる方を選ぼう。


2008年05月18日(日)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」ルカ9:23

自己中心、自己主張、自己愛を捨てて、
自分の十字架を負い、ついて来るよう
にと、主は言われた。自分を捨てる決
心をする時、その一歩を踏み出す時に、
「日々に」自分の負うべき十字架を示
して下さる。自分が探し回るのではな
い。御霊はこれが十字架だと指し示さ
れる。ある主婦が、突然、祖母を3ヶ
月あずかることを頼まれた。他にみる
人が誰もいない状況だった。祖母に来
てもらうのはよいが、自分自身が、夜
勤もある非常に多忙な仕事をしていて、
到底無理だった。しかし、祈った時に、
目の前に与えられた負うべき十字架だ
と示され、負うことを決心した。信仰
によって引き受けた。仕事との兼ね合
いをどうすべきか、祈ると、「あすの
ための心配は無用」「あすはあすが心
配」から、とにかくいっさい明日は考
えず、今日一日だけ生きようと決心し
た。そのように一日一日を過ごした。
明日の重荷は取れて、一日なら生きる
事ができた。そして、主は助けにより、
夫と子供達が全面協力してくれたのだ。
この事で家族が一つとされた。主の守
りと支えの中で、無事3ヶ月のお世話
を全うできた。親族にも良き証しとさ
れた。何より信仰によって歩む素晴ら
しさを知れた。自分に死んで、今日示
される主のみこころに従おう。
・・・・・・・・
御心に従って行く時に、その人には神
が必ずわかる。ヨハネ7:17。生き
ている目的は、自分の損得でなく、主
を更に親しく深く知って行く事だ。御
霊に助けられて御旨に歩もう。


2008年05月17日(土)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい」エペソ6:11


サタンは私たちの思いに、有ること、
無いこと、自在に吹き込めることを覚
えていよう。でなければ、敵の策略に
陥ってしまう。実際には無い妄想も吹
き込んで来る。ダビデはサウル王に対
して、何の悪意も無かった。事実何の
悪い態度も行為もしていない。しかし、
サウルはダビデが自分の王位を狙って
いると思い込んだ。女たちの「サウル
は千を打ち、ダビデは万」との言葉を
聞いた時に、サウルは非常な怒りが湧
き上がり、ダビデへの嫉妬と疑いが心
に芽生え、それはどんどんエスカレー
トして行った。事実、実際ではなく、
サウルの妄想だった。妄想がどんどん
膨らんで行った。ヨナタンが父サウル
に訴えた。イスラエルに大勝利をもた
らすダビデを、なぜ、何の理由もなく
殺そうとし、罪のない者の血を流そう
とするのかと。しかし、槍でダビデを
突き刺そうとする。サウルは妄想によ
って、ダビデに敵対していた。サタン
は私たちの中に、妄想をかき立て、争
いを引き起こし、分裂を企てようとす
る。全く有りもしないものを、明白な
嘘を、私たちの思いに吹き込み、操ろ
うとする。今、怒りや不信感、疑いが
あるなら、よく見分けよう。サタンの
介入がそこにないか。騙されはならな
い。巧妙、狡猾な敵の存在をよく識別
しよう。間を裂こうとするサタンを拒
否、拒絶しよう。まず主と常に交わり、
御霊の光に照らして頂こう。
・・・・・・・
私達の肉はサタンの餌だ。気づかず
やられて、分裂、不一致、争いを起こす。
敵の攻撃は疑心暗鬼にする事であり祝
福を壊すべく必ず来る。しかし主はすで
に打ち破られた。逆にサタンの襲う所、
敵が特別壊したい部分であり、大きな祝福と
素晴らしい主の栄光を見る場所だ。


2008年05月16日(金)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」詩篇51:17

肉、古い性質が最も嫌な言葉が「ごめ
んなさい」だ。絶対に言いたくないた
め他のことにすり替える。心のとがめ
をチャラにするために善を行なう。周
囲へのついきつい言葉や悪い態度に対
して、謝ることをせずに、親切な行な
いでごまかし、自分のとがめを清算す
る。自らの非を認め、謝罪する事だけ
は絶対にしたくない。それはプライド
であり自我であり罪の性質だ。思いつ
く限りの言い訳、弁解を寄せ集める。
こうなったのは仕方なかったのだと、
自分を正当化し、自分が責任を取るこ
とを決してしない。プライドは自らの
非を認めたくないのだ。このプライド
の罪は、なかなか気づかない。自分の
内に巣くっていても、ほとんど気づい
ていない。又、プライドは自分が一番
でないと気が済まない。神の前にへり
くだり、自分を捨てて歩む、御霊の歩
みと全く相容れない。向きが正反対だ。
プライドと神を愛する愛とは両立不可
能だ。人の上に立ちたい、人より優っ
ていたい、人を見下して自分を高めた
い、このプライドは、神を愛すること
も、人を愛することもさせない。神は
様々な事態を起こし、このプライドに
気づかせようとされる。誰しも人のプ
ライドは見えるが、自分のそれはわか
らない。今、目の前に起きている事柄
も、その事ではないか。
-------------------
なぜプライドが傷つくのか、かっこ
悪い自分になかなかなれない。御霊
に導かれ自分を捨てて行く事は、あ
る時、肉にはかっこ悪い道だ。あえ
て自分を捨て主に従う道を選ぼう。


2008年05月15日(木)

「軽率に話して、人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす」箴言12:18


身体の傷は、時間がたつと癒えるが、
言葉による傷は、ずっと残ってしまう。
心に深い傷となり、一生引きずってし
まう事もある。人を殴ったり刺したり
すると、身体に傷を負わせる。その
痛々しい負傷は目に見えるが、言葉は
身体でなく、同じように心に傷をつけ
る。心に血を流させる。それは見えな
いだけに、言葉の持つ力をよくわきま
える事が大切だ。自己中心で子供のよ
うな大人は、わがままでプライドが高
い。ちょっとした事ですぐに傷つく。
自分は傷つきやすいに関わらず、人に
は剣で刺すような言い方をする。知恵
ある人は御霊に支配された人だ。御霊
は決して人を理由もないのに、傷つけ
られない。御霊に導かれた人は、御霊
の言葉を話す。それは人を慰め、励ま
し、力づけて癒す。その人といると安
らぐ。舌に気をつけよう。「それは少
しもじっとしていない悪であり、死の
毒に満ちて」いる。愛から発している
言葉だろうか。善意のつもりの忠告さ
え、愛が無ければやかましいどら、う
るさいシンバルだ。さばきや悪口は死
の害毒を周囲に流す。舌を肉に支配さ
せてはならない。必ず舌で失敗する事
になる。日々主と交わり、御言葉を喜
びとして行く時、主の喜ばれる言葉を
語る者とされる。今日も、親切の一言
を心がけよう。
--------------------
自分の保身やプライドのために
舌を使っている時、気づけます
ように。神様から慰め励ましを
いっぱい受けているのだから口
から出る言葉はいつも人を立た
せるためのものであります様に。


2008年05月14日(水)

「わたしたちの日ごとの糧をきょうもお与えください」マタイ6:11


神は、出エジプトの民たちを、荒野で4
0年間養われた。天からマナを降らせら
れた。毎日1日分だけを集めるよう命
じられた。今日の分だけだ。6日目だ
けは2倍集めるようにと。7日目は安
息日であり、集めることができないか
らだ。しかし、ある人々は、命令を聞
かずに、欲張って翌日の分まで取り込
み、残しておいたが、それは虫がわき、
悪臭を放った。又、ある人々は、6日
目に2倍集めないで、安息日に取りに
出た。しかし、安息日には、何も見つ
からなかった。神はこの事を通して、
「わたしの教えてに従って歩むかどう
かを試みられ」たのだ。40年の間、
1日たりともマナの無い日はなく、神
は荒野で民を養われた。これは「日ご
との糧」を表わしている。神はその日
の必要を必ず与えて下さる。明日の心
配は無用だ。明日、明後日の糧を求め
よとは言っておられない。「今日の」
糧だ。明日のことは明日が心配する。
今日1日の糧があれば充分だ。明日の
心配は不要だ。能天気でよいという意
味ではなく、神が心配していて下さる
から不要なのだ。「あなたがたの思い
煩いをいっさい神にゆだねなさい。神
が・・心配してくださるからです」の通
りだ。今日、糧が与えられている事を
精一杯感謝して、明日は神にいっさい
お任せしよう。神はその人を、どんな
時も平安と喜びの中に守って下さる。
・・・・・・・・・
主は思い煩いの無い人生を与えたいと
のお心だ。主がいっさいの配慮をし、
心配をしていて下さる事を信じよう。
明日は委ねて、今日の御心を精一杯行
なう事に心を集中しよう。心を平安に
守って下さる。


2008年05月13日(火)

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました」創世記50:20



ヨセフは兄弟から妬みを買った。父
がヨセフを特別に可愛がったからだ。
嫉妬した兄たちにエジプトへの隊商
に売り飛ばされた。しかし、主がヨ
セフを顧みられ、エジプト人の主人
の家で信頼と好意を得て忠実に働い
た。が、無実の罪で投獄される事に
なり、再度、理不尽な目に会う。し
かし、牢獄でも忠実であり、模範囚
となり、信頼を得る。そこでも忍耐
の末、牢獄から出され、最終的には
総理大臣となる。その後、父と兄弟
たちをエジプトに呼び寄せ、飢饉か
ら命を救うことになる。そのための
神の深いご計画であった。あなたに
も今、苦難が臨んでいるだろうか。
理不尽な事柄、苦しい対人関係、病
気や経済的窮状かも知れない。神は
それらを、良いことの計らいとされ
る。あなたのために益とされ、祝福
とされる。又、こちらサイドでは幾
ら平和を保とうとしても、相手のあ
る事であり、悪意のある相手はどう
する事もできない。しかし、相手の
その悪意、邪悪さすら、神は、良い
ことのための計らいとすると、益と
すると言われる。それなら、恐れる
ことはない。今、辛い中にいるなら、
ヨセフの結末を見て、神があなたに
も深いご計画があられ、今の事態を
良きことの計らいとされることを信
じよう。神に間違いはない。万事益
と信じていよう。
-----------------------
万事益とされるという約束のみ言葉か
ら物事を見るなら、目の前の出来事は
大きく変わる。この後、神様はどのよ
うなご計画があるのだろうか、神様か
ら目を離さず祝福を待とう。


2008年05月12日(月)

『ペテロは「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」と言われたあのことばを思い出した』マタイ26:75

ペテロは主を否んでしまった。
裏切りなど最も大きな部類の罪
だ。主に対して大変な、取り返
しのつかない事をしてしまった、
どんなに後悔しただろう。かつ
て他の弟子たちがみな主を捨て
ても、自分だけは大丈夫と豪語
した。大そうな自信だ。ペテロ
は自分を知らなかった。それは
肉の自信であり、自分の力に頼
んだものだった。その自信はも
ろくも崩れ粉々に砕け散った。
主はペテロの弱さをご存じであ
った。しかし、ペテロを将来の教会
指導者として見据えておられた。
そのために、主はペテロを取り
扱われた。もはや自分に頼る事
のないように、ペテロの一番の
弱点を砕かれた。サタンのふる
いを許されたが、主ご自身が
そのまっただ中で守られた。
あなたも失敗しただろうか。ペ
テロは失敗に大泣きした。あな
たも失敗に打ちのめされ、失望
し、落胆し、もう立ち上がれな
いと思っただろうか。主はあな
たを御手の中の器として、用い
るために、そのところを通され
たのだ。あなたを砕くためであ
った。取り扱われたのはあなた
の一番の弱点のはずだ。あなた
を砕いて、間に合う、有用な器
に整えるためであった。決して
自分を誇れないように、自分に
頼らないように。砕かれる事は
恵みだ。失敗をも益として下さ
る。神に頼る者と変えられてる。
-----------
私達はみな、本当の自分という
者を知る必要がある。弱いとこ
ろ、痛いところを示され続けな
がら砕かれ小さな事でも主に尋
ね求めて行くものに変えられて
いく。


2008年05月11日(日)

『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く』イザヤ30:21

時に、御心を求める時、「御心を示し
て下さい」と祈り、聖書をパッと開い
て、偶然開いた箇所の、パッと目につ
いた御言葉を取って「示された!」と
言う人がいるが、それは危険だ。聖書
は占いではない。すべての御言葉には
前後関係があり、文脈があるので、前
後関係を全く無視して、1節だけを取
り出すのは、間違った方向に行ってし
まう。時に、神の導きと正反対の方向
へ行く。人間は主観が強いと、又、強
い願いや思いがあると、御言葉を、自
分の都合のよいように取り込んでしま
う。どうしても、人間は、肉の思いが
あり、自分の都合のよいように、読み
込みたいものなのだ。そうするとみこ
ころを誤ってしまう。御心を求める時
は、よくよく祈ることがまず大切だ。
日常生活全般に耳を澄まし、御言葉を
待つことだ。礼拝メッセージから、デ
ボーションから、信仰の人々との交わ
りの中から、様々なものを通して、主
は必ず語りかけて来られる。信仰に熟
練した人々の助言も参考にするとよい。
様々な経験を通っているので有益だ。
祈りつつ、御言葉を待ちつつ、状況、
環境をじっと見ていることだ。閉ざさ
れたなら、御心でない。御心なら必ず
環境が開かれて行く。ドアを自分で叩
き割るのではない。主の御手により開
かれる。私たちは開かれた道を行く。
・・・・・・・・
生活全般から語りかけて来る御声と内
なる平安と、状況、目の前に起こる事
をよく見張っていよう。祈りを積む中
で神のお心がわかって来る。進むべき
道が指し示される。神の心がわかる事
が何より嬉しい事だ。


2008年05月10日(土)

「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:20

今、目の前にしんどい対人関係がある
だろうか。どうしても相性が合わず、
日々が辛く苦しい状態だろうか。きつ
く当たられ、辛い状況にあるだろうか。
家庭で学校で職場で、近隣で、悶々状
態だろうか。相手が悪いと思ってしま
う。あの人が、この人が、あの言葉が、
この態度が、相手さえ変わればと願う。
又、環境が変わることが切なる願いと
なる。あの相手がいない環境に変えて
欲しいと祈る。そして、相手のあの言
葉さえなければ、私は傷つかないのだ
から、相手が悪いとしか思えない。い
つしか相手を責めて行く。相手が変わ
るように、状況が変わるようにの祈り
は、ほとんど答えられない。たといそ
の状況が変わっても、又、次に同じよ
うな状況に遭遇する。自分がその状況
を出ても、又、同じような相手に出く
わす。その状況に置かれたのは神だ。
一つ必ず聞かれる祈りがある。それは
「私を変えて下さい」だ。「相手も状
況も構いません。私を変えて下さい」
の祈りを待っておられる。その言葉に、
その態度に反応するその裏には何があ
るのか。自らの自我、隠れたプライド、
劣等感、不安、恐れ、密かな虚栄心、
高慢、様々な内にあるものを示し出し
て下さる。もし、成長したいなら祈ろ
う。「私を変えて下さい」と。
・・・・・・・・
必ず状況と相手を変えようとするものだ。
しかし不毛の戦いとなる。神が目の前に
置かれていて、自らの頑なな部分を砕こ
うとされている。そこに視点を置くと、どん
な状況でも自分は平安を得、成長が与え
られる。


2008年05月09日(金)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8

サタンが虎視眈々と、あなたを狙っ
ていることを、今日も意識している
だろうか。サタンが万々歳を叫ぶ最
大の攻撃方法は何だと思うか。それ
は、サタンの存在を忘れさせること、
自らの正体を雲隠れさせてしまうこ
とだ。サタンを意識したのはいつだ
ろう。思い煩いに悶々と落ち込んで、
1日を棒に振って、やっとサタンに
気づいただろうか。対人関係で、背
後の神を見ることなく、目に見える、
目の前の相手に、憎しみや怒りほん
ろうされ、サタンをほくそ笑ませてい
るだろうか。敵は人間ではない。「私
たちの格闘は血肉に対するものでは
なく」だ。心に、憎悪や敵対心、嫉妬、
様々な肉の思いを起こして来るサタ
ンとの戦いだ。サタンは誘惑しかで
きない。私たちの意志に触れること
はできない。ゆえにサタンに誘惑さ
れて、罪を犯すなら、それは私たち
の責任であり、私たちが罪を犯した
ということだ。ある人が言った「もし
細菌が、人間の身体をむしばんで
ボロボロにしようともくろむなら、ど
んな人を狙うか。生き生きと喜びも
って前向きに生きている人は回避
する。失望落胆し、気力を失い、ネ
ガティブになっている人を襲うだろ
う」。天に帰るまでは、この世では
サタンとの霊の戦いだ。敵はサタ
ン、常に意識し、目をさまして祈っ
ていよう。
--------------------
神様への感謝を奪い、喜びがつぶや
きとなる時、サタンを意識しよう。
サタンと気づいた時、勝利する。自
分は弱く、狙われやすい者だと覚え、
常に祈っていよう。


2008年05月08日(木)

「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ」創世記1:11


種を蒔いて結実するように、神が御
心とされた。種を蒔くと実がなり、
種によりその結果を刈り取る。御霊
のために蒔くなら、永遠のいのちを
刈り取り、肉に蒔くなら、滅びを刈り
取るのは、御言葉に言われている
通りだ。又、神は「種類にしたがっ
て」実を結ぶように定められた。蒔
いた種の花が咲き、実がなるという
ことだ。スミレの種はスミレの花が咲
く。スミレを蒔いて、バラの花が咲くこ
とはない。「種類にしたがって」であり、
法則だ。では、信仰と不信仰の種は
どうだろう。信仰の種を蒔くなら、そ
の結果を刈り取る。「恐れないで、た
だ信じていなさい」との御言葉を信じ
ているなら、信仰の種を蒔き、その
結果を刈り取る。「私を強くして下さ
る方によって、どんなことでもできる
のです」との種を蒔けば、実現成就
の実を刈り取る。「私の神は、ご自
身の栄光の富をもって、必要をすべ
て満たしてくださいます」の種を蒔け
ば、必要の満たしを刈り取る。盲人
に「そんなことができると信じるのか」
との問いに「そうです。主よ」と答える
と「あなたの信仰のとおりになれ」と言
われ、目が開いた。同様に不信仰の
種を蒔けば、その結果を刈り取る。
不信仰の種を蒔いて、信仰の実を刈
り取ることはない。「種類にしたがって」
だ。日々どのような種を蒔いているだ
ろう。「神にはできる!」の種を蒔こう。
-------------------
私の努力ではなく、神様が決して見
捨てないと言って下さるから不安は
あってもそれを上回る希望と喜びで
勝利の日を見つめていける。み言葉
に立って信仰の実を刈り取ろう。


2008年05月07日(水)

「妬みや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです」ヤコブ3:15


主の様々な奇跡のわざは、聖霊による
ものであった。しかし、パリサイ人た
ちは主のみわざを悪霊によるものと、
決めつけた。悪霊どものかしらベルゼ
ブルによって悪霊を追い出していると。
パリサイ人たちがそのように言ったの
は、心に潜む妬みと敵対心ゆえであっ
た。宗教指導者たちが、主を十字架へ
と追いやって行ったのは「妬み」であ
った。サウルもダビデを妬んだ。女た
ちが笑いながら繰り返した「サウルは
千を打ち、ダビデは万を打った」との
言葉を聞いた時、サウルは怒りに燃え、
ダビデへの嫉妬に燃えた。その妬みは
殺害の思いへとエスカレートして行っ
た。献げ物を受け入れられなかったカ
インは、神に受け入れられた弟アベル
を妬んだ。悔い改めて献げ直せば良か
った。しかし、嫉妬は殺人に至った。
妬みは人間の心の奥に巣くう罪だ。妬
みは人をも殺し、自らの人生を破壊さ
せ滅ぼして行く。人への批判や非難の
底に、実は隠れた妬みや敵対心はない
か。他のもので正当化し、幾らでも理
由をつけるが、本当は底にある妬みや
敵対心ゆえの批判だったりする。それ
らは苦い根だ。苦い根をそのままにし
ておくと、心にはびこり、様々な実害
を結ばせる。神の秩序を壊して行く。
悔い改め、苦い根を根こそぎ引き抜こ
う。よく心を御霊に探って頂こう。主
はきよめて下さる。
・・・・・・・・・
心に潜む妬みや敵対心は目に見えない
が、必ず邪悪な行ないとなって目に見
える形で現われる。隠れたものは出る。
苦い根は信仰を侵蝕し腐らせて行く。
悔い改めて、離れ、根こぎにして頂こ
う。


2008年05月06日(火)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14

なかなか祈りが答えられない事を経験
するだろうか。祈りは学校だ。祈りの
実践の中で、祈りを学んで行く。祈り
には明確な原則があり、御心にかなう
祈りだけが答えられる。御心でない祈
りは幾ら祈っても答えられない。つま
り、御心にかなった祈りを知るために、
祈るわけだ。祈りの中で、自らの祈り
が軌道修正され、その御心にかなう祈
りへと導かれて行く。又、祈りの中で、
自分自身が砕かれ、ふさわしい者へと
整えられて行く。ある人がセミナー企
画のために祈りに祈ってあるアイデア
が生まれた。良い案であり御心を確信
し、進めようとするがなかなか思うよ
うに行かない。皆の一致が得られない。
祈りで得た案であり、更に祈りを積ん
だ。しかし、事はなかなか進まない。
思うようにならないイラ立ちの中で、
ある時祈っていて、自分の頑なな自我
を示された。確かに示された企画だが、
意見を異にする人々に反発し、どうし
ても自分が遂げようとする強烈な自己
主張があった。悔い改め、自分自身も
企画も主に明け渡した。それから、不
思議に事が前進しプロジェクトが組ま
れ成就して行った。祈りの答えと共に、
私たち自身を整え、成長へと導いて下
さる。祈りの学校で導かれることであ
り、とにかく祈りを実践しよう。
・・・・・・・・・・
祈りの中で、本当の自分の思いが示さ
れる。結果を神様にお委ね出来ない自
分や口先だけの祈りもやがて神様が教
えてくださる。いつでも、どこにいて
も神様に語ろう。


2008年05月05日(月)

「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます」ルカ9:57


ここに3種類の主に従おうとする人々
が出て来る。一人目は、神の言われる
ことに何でも従い、行かれる所どこへ
なりとも従いますと言った。しかし、
主は狐には穴があり、空の鳥には巣が
あるが、人の子には安心して住める家
も定まった場所も無いと言われた。つ
いて来るというが、厳しい苦労があり、
大きな犠牲が伴う。それなりの覚悟と
決心が必要であり、それがなければ、
こんなはずではなかったと、すぐに挫
折してしまう。二人目は、神からの明
確な示し、導きがあるに関わらず、ぐ
ずぐずしている。従おうとは思ってい
るがその前にあれをしてこれをしてと、
結局従うことの無期延期だ。最終的に
は従えないまま終わる。すぐに従わな
いで、常に言い訳や弁解をしている
人々だ。三人目は、主に従うことに心
を定め、決心をしていた。しかし、後
ろを振り返る。捨てたつもりのものに
未練がある。後ろの橋を焼き捨てるこ
とができない。その未練は神の国にふ
さわしくないと言われたが、捨てるべ
きものへの思いが断ち切れない。結局
従えない。主に従わせないよう、妨害
してくる様々なかせがある。いい加減
な中途半端な気持ちでは、途中で挫折
する。自分を捨てて従う道だ。主に示
されているのに、ぐずぐずと言い訳に
終始していないか。
・・・・・・・・
私には出来ない、そんなに何もかも捨
てて従えない、その理由は何だろう。
まず神様に訴えてみよう。みこころの
ままに与えて下さった志だ。必ず神様
が成し遂げて下さる。


2008年05月04日(日)

「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で・・話した」ルカ8:47

            
12年間も、長血を患った女性がいた。
律法によって不浄とされ、礼拝への参
加もできなかった。肉体的に、精神的
に苦しみ、又、経済的にもあらゆる医
者にかかり破綻状態だった。先に何の
希望もない。どんなに辛く苦しい絶望
の極限状況だったろう。主の着物にで
も触れば、癒されるのではと求めた。
それは必死の思いであり信仰であった。
なぜなら、不浄ゆえ、まず他人に触れ
る事はできないはずであり、にも関わ
らず主に触れようとした、諦めない、
屈しない信仰であった。信じなければ、
触りなどしない。癒された彼女は誰に
も知られずに、密かに去ろうとした。
しかし主は、「わたしにさわったのは
誰か」と捜され、どうあっても隠しお
おせないと悟った彼女は、進み出て、
皆の前で、事の次第を話した。人の後
ろに隠れ、人混み紛れ込み、おどおど
していた彼女が主の御前に、皆の前に
出て、語ったのだ。彼女の口からはっ
きりした信仰の告白を引き出そうとさ
れた。なぜなら彼女には信仰があった
からだ。彼女を光の中に出し、信仰を
告白させ、その信仰を確かなものとし
て下さった。私たちはどうだろう。と
にかく主の示しに応答することだ。今、
あなたも何かの示しを受けているか。
その示しにはっきり意志を向けて従お
う。    
・・・・・・・・・
主には明確な意図があられ、女性に対
応された。信仰をはっきりとさせて下
さり「安心して行きなさい」。身体の
癒しと共に心に全き安心が来た。どん
なに嬉しく平安だっただろう。常に主
の示しは、私たちの最大の益のためだ。
今日も示しに従おう。


2008年05月03日(土)

「あなたの神、主を心に据えなさい」申命記8:18

イスラエルの民を見る時、何と身勝手
な、自己中心なと思うだろうか。出エ
ジプト時に絶体絶命の危機に際し、神
の大奇跡を見た。神が海を分けられ、
目の前の乾いた地を進んだ。大勝利で
あり、どんなに感謝し大歓声の喜びで
あった事だろう。大いなる神の力を見
た。しかし、こんな驚くべき奇跡を見
たにも関わらず、荒野に入った途端、
やれ水がない、食べ物がないと不平不
満のかたまりになった。私たちもまさ
にこのイスラエルだ。物事がうまく行
き、思い通りに順調に行っている時だ
けの感謝で、少し状況が険しくなり、
難しくなると、途端に神を否定する。
何で?何で?と神を責め、つぶやく。
要するに求めている事は、自分に都合
の良いことなのだ。不都合になった途
端、心を屈折させ、いじけて自己憐憫
に陥り、周囲に嫌な思いをさせ、害毒
を流す。自分の都合中心、自己中心な
のだ。自分の欲望と自分の思いが心の
王座を占めていると、信仰が少しも成
長しない。良い時はいいが、状況が悪
くなった途端、神を否定し出す。肉で
生きていて、人と比較しては動揺する。
自分の感情、思い、欲望でなく、主を
あなたの心の王座に据え、御言葉を土
台として生きることだ。何かが起きる
度に自分の思いでなく、御言葉で判断
し、断固、御言葉に従って行く。そう
して行くなら、必ず信仰が成長して行
く。               
・・・・・・・・
事あるごとに、自分の強烈な自我が顔
を出す。自分が王座か、主が王座か、
御霊はそのつど気づきを与え、明け渡
すこと、主に王座に来て頂くことを示
される。平安と喜びが臨む。


2008年05月02日(金)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」ガラテヤ2:20

ある本の中に、不眠症患者を治療し
た医師の話があった。入院治療して
も、夜どうやっても眠れない、どん
なに頑張ってもだめだという患者に、
「じゃあ、どれだけ眠らないでおれ
るか、ちょっと記録をとって、新記
録を作りましょう。眠らないように
頑張って下さい」。すると、何と深
夜見に行くと、ぐっすり眠っていた
のだ。「眠らねばならない」から解
放されてしまい、「眠らなくてもよ
い」に、安堵し、安心しきってしま
ったのだ。私たちも律法の「ねばな
らない」に、はまって行く時、やれ
ばやるほどますます出来ない自分に、
がんじがらめになる。あり地獄の
ようだ。もがけばもがくほど、ます
ます罪を意識するばかりだ。自分を
責め、罪意識にさいなまれ、落ち込
むばかりだ。しかし、「律法は私た
ちをキリストへ導くための養育係と
なりました」つまり律法は私たちが、
何一つ守れない事を私たちに示すた
めにあると。聖書の御言葉はすべて、
私たちの内におられるキリストが行
って下さり、成し遂げて下さると。
自分の力でするのではない。私がし
なくてもよい。私に代わって、内に
生きておられるキリストが成し遂げ
て下さる。では、私は、何をするの
か。主が成し遂げて下さることを
「信じる」のだ。これが信仰による
歩みだ。
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私達が主のために働くのではなく、
主が私達を通して事を成し遂げて下
さる。そこを見つめていなければ、
自我は頑張り始め、すぐに出来ない
とあきらめる。主によって変えられ
て行きますように。


2008年05月01日(木)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か・・わきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2

「心の一新」の「心」は、感情で
はなく知性だ。判断力であり、あ
なたの思考パタンを、考え方を変
えなさい、変え続けなさいと言っ
ている。「何が良いことで、神に
受け入れられ、完全であるのかを」
よく見分けなさい、判断しなさい
と言っている。日常生活において、
様々起こる出来事の中で、「神に
喜ばれることは何なのか」を、判
断の基準におくことが信仰者だ。
いつもそこに目を向けていること
だ。生まれつきの人間の判断基準
は、自分にとっての利害だ。とっ
さに損得を計算する。自分にいか
に利益になるか、得になるならす
るが、損になるならしない、関わ
らない。自分中心に考え、判断す
る。ところが新しくされた者は、
自分の損得ではなく、まず神の御
心を考える。どうする事が神の御
心で、神の喜ばれる事かを考え、
全く新しい基準で判断する。物差
しが変わる。御霊に導かれ、御霊
に従って行く時、私たちは新しく、
新しくされ、思考パタン、考え方
が変わり、生活態度が変わる。喜
びと平安が臨む。それゆえ生活を
変えようとするには、まず心の一
新、思考パタン、考え方を変えて
行くことだ。そこに肉の思いでな
く、真理の御言葉を据えて行く時、
神の愛によって、御霊の力によっ
て、私たちの生活が変えられて行
く。そして人格が変えられて行く。
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自分の経験やこれまでの常識では
絶対しないだろう事を御霊さまは示
し、導いて下さる。ためらう気持ちに
「心の一新」でうち勝ち、変えられて
行きたい。