2008年06月30日(月)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:19

信仰生活において二種類の人々
がいる。嫌々ながら、面倒だが、し
かし神は正しいので、律法に縛ら
れて仕方なく信仰生活をする人々
がいる。一方、心から神に従いた
いので信仰生活をする人もいる。
律法にがんじがらめの信仰は、肉
の心で信仰の歩みをしようとする
事だ。心から従う信仰は、御霊に
より、主の心を受けて、主の心で信
仰生活をして行く事だ。主イエスを
救い主として、信じ救われるが、ま
だ心がこの世の事で一杯で、この
世が好きで、この世を楽しみたい。
肉の思いが強い。聖書を読む事、
祈る事、礼拝する事、献げる事な
ど、良い事だと思い、そのようにす
るが、心から行うものではないの
で続かない。しばらくはそうするが、
やがて祈らなくなり、聖書を読まな
くなる。肉の、人間の力では出来な
い、不可能なのだ。「神を求める人
はいない」とあるように、人は神を
求めない。肉は神に敵対している。
それで聖書を読んだり祈る事が苦
痛になって来る。それより世の事が
楽しいし世の事をしていたい。自分
の肉を無理やり、神に服従させると
苦しくて嫌になる。神は違う道を備
えられた。「御霊によって」聖霊が心
に臨まれる事によって可能にして下
さった。霊の事柄が好きになるのだ。
楽しくて喜びがあり、自分からしたい
と願う。あなたは苦痛だろうか、楽し
みだろうか。必要なのは、御霊の助
けだ。
-----------------
御霊に導かれているようでも「ねば
ならない」になって行きやすい。ね
ばならない、でも出来ないと気づけ
るのも導きだ。主の導きを信じ豊か
で喜び溢れた信仰生活を送ろう。


2008年06月29日(日)

「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる」詩篇25:9

                
  
親子だからと言って、何もせずに、ひとりで
に心が通い合うものではない。血がつながっ
ているのだから、わかり合えて当然なのでは
ない。それぞれが自分勝手に、自分の道を行
き、自分の事だけをしていたなら、相手の気
持ちをわかりようがない。夫婦でも同様だ。
相手に心を向け、心を配り理解しようとする
時、相互に愛や信頼が深められ、関係が築き
上げられて行く。御父は私たちと交わりを求
めておられ、心を通い合わせる事を願ってお
られる。しかし、私たちは本来自己中心であ
り、放っておくとすぐ御父から離れ、自分の
道を行く。御父に心を向けて行く事、主との
「関係」がまず何より大切だ。ダビデは4節
で「あなたの道を私に知らせ、あなたの小道
を私に教えて下さい」と願い「ご自身の道」
を求めた。ダビデの幸いは、そこにこそある
ので、自己実現、自己達成、自己充足の自分
の道でなく「ご自身の道」を、ひたすら主の
御心を求めた。貧しい者とは、自らの無力を
知り、神に拠り頼まなくては生きて行けない
と気づいている人のことだ。反対に高ぶって
いるなら、御心をと、口では言いつつ、自分
の意志と力で自分の道を行く。頼らなくても
やって行けるからだ。自分の道を行くと、当
てのない荒野をさまよう事になる。主はへり
くだって、求める者に、必ずご自身の道を教
えて下さる。その道を確信持って歩んで行け
るとは何と幸せだろう。
・・・・・・・・・・・・
本当の幸せは、自己実現、自己啓発でなく、
自分を明け渡して、ご自身の道、みこころを
歩むことだ。そこに最高の幸せがある。明け
渡して行く時に、必ずご自身の道を教えて下
さる。


2008年06月28日(土)

「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30

バプテスマのヨハネは、悔い改めを宣べ伝え
ていた。国中の人々が彼のもとへ来て自分の
罪を告白して、バプテスマを受けた。ヨハネ
の素晴らしさは、人々から賞賛を受け、祭り
上げられていたその絶頂にいた時に、自分は、
救い主の靴の紐を解く値打ちもない者だと言
った事だ。人々から誉めそやされ、いい気に
なり、自分を見失ってしまう人は多い。しか
し、ヨハネは謙遜であった。謙遜とは単に腰
を低くする事ではなく、「いえいえ私など
は」と下座に着く事でもなく、「私は無能者
で」と言う事でもない。ヨハネから学ぶに、
謙遜とは自分の分をわきまえる事だ。高慢と
は分を越えること、「自分の領域を守らず、
自分のおるべき所を捨て」る事だ。自分の遣
われたそれぞれの場で、自分の分をわきまえ
る事は大切だ。ヨハネは自分への注目と人気
が、主イエスに移り始めた時、立派だった。
退くべき時をしっかりわきまえていた。自分
は主のしもべであり、主が崇められる事を喜
んだ。私たちはそれぞれ、天から与えられて
いる自分の分があり、役割がある。ヨハネは
花婿なる主と、花嫁である人々が出会うため
の、花婿の友人の役割に徹した。あなたはど
うだろう。あなたの遣わされた場で、あなた
の分と役割、あなたの使命を見失わないよう
に。自らの分に徹しよう。その時、最大限に
用いられ、主のみわざが成し遂げられて行く。
・・・・・・・・・・・
分をしっかりわきまえる事によって、分に応
じた自分の位置がわかり、なすべき事がはっ
きりと見えて来る。自分に与えられた位置で、
喜びと平安もって、神からの使命を精一杯果
たして行ける。


2008年06月27日(金)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7

信仰人生の中で、私たちは悩みや
問題にぶつかる。その問題は、大
きな壁のように、自分の目の前に
立ちはだかっているように感じる。
ああでもない、こうでもないと悶
々とし、その問題に取り込まれ、
捕らえられてしまう。その悩みの
中では、出口の無い真っ暗なトン
ネルのように感じる。試練は必ず
出口があるトンネルなのに、その
渦中ではこの真っ暗闇が永遠に続
くように感じてしまう。苦しくて、
必死に祈るのだが、とにかくその
苦しみから助けて欲しいばかりで、
助けを求めてあがき、もがくばか
りだ。苦しみを何とかして欲しい
一心だ。しかし、一番の問題は委
ねられないという事だ。底に、主
に委ねられない自分がいる。祈り
ながらも、自分で何とかしようと
必死で、あれこれと方策を模索し
探り回る。困難と遭遇する度に、
そのところに行き着く。その問題を
委ね、自分自身を明け渡す事が
出来た時に、光が射して来る。問
題自体の解決より前に、まず心が
平安になり、解き放たれ、解決も
同然となる。今、あなたも問題に
ぶち当たっているだろうか。心が
苦しく悶々状態だろうか。あなたも、
一番必要な祈りが「委ねる事がで
きるように」かも知れない。しかし
これが出来ない。明け渡そうと
しない頑なな自我がある。問題はここ
だ。しかし「人にはできないが、神に
はどんなことでもできる」自分では
出来ないので、主の助けを求めよう。
-----------------
自分の望む通りの結果しか受け入
れられないので神様に委ねる事が
できないのではないか、よく祈っ
てみよう。神様が一番良い方法に
導いて下さる事を信じることが出
来ますように。


2008年06月26日(木)

「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」Tテモテ6:17

神は私たちが日々を楽しみ、人生
を楽しむことを願っておられる。
神が創造したものを楽しみ喜べと
言われる。私たちにすべてのもの
を豊かに与えて楽しませたいとの
お心だ。私たちに喜びを下さる。
神は気前のよい方だ。放蕩息子が
我に返った時「父のところには、
パンのあり余っている雇い人が大
ぜいいるではないか」と思い出し
た。雇い人にさえ、パンをあり余
るほどに与える良い父、気前のよ
い父、あわれみ深い父だ。溢れる
ばかりに祝福して下さる方だ。良
い父であるので、彼は帰ることが
できた。悔い改めれば、雇い人に
でもして貰えるかも知れないと思
えた。帰るや、遠くから見つられ
け、抱かれ、責められず、さばか
れず、受け入れられた。更に大祝
宴にあずかり、溢れるばかりの祝
福を受けた。御父は良い方、溢れ
るばかり豊かに与えて下さる方だ。
一方、兄息子は、好き勝手し放題、
放蕩三昧した弟のために宴会とは
怒り爆発だ。父親像が間違ってい
た。常に要求され、絞り取られる、
戒めを守らなければ叱られる、厳
しい、恐い父像だった。私たちは
どうだろう。頭では愛なる、慈し
み深い御父と理解しているが、心
で信じているだろうか。信じてい
なかったりする。実は「蒔かない
所から刈り取り、散らさない所か
ら集めるひどい方」、恐いから従
っているのだろうか。頭と心はし
ばしば違う。内側照らされ、御霊
に正しく導いて頂こう。
------------------
この兄のように「私ものは全てお
前のものだ」と言っている御父の
本当の姿を私達も知らないだろう
か。救いの幸いも、溢れる日々の
恵みにも感謝でない信仰生活は間
違っている。


2008年06月25日(水)

「ただ、私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14

主人と早朝の者は報酬をきちんと約束してい
る。1日1デナリは通常の額だ。契約を交わ
し、納得して働いた。ところが不平不満で一
杯だ。それは、自分達はもっと多く貰えると
思ったからだ。しかし、ちゃんと約束が履行
されて、主人に落ち度は何も無い。責めら
れるべき点も無い。約束はきちんと果たされ
ている。自分達よりも楽をし、しんどい目を
していない者が同額である事が不服で腹立た
しい。自分が中心に位置する損得勘定であり
「妬ましく思われる」のかと言っている。私
達はどうだろう。早朝の労務者に自分を重ね
て、そうだと、同調するだろうか。それは自
らの価値観を表わしている。「妬ましく思
う」心だ。1時間で1デナリなら、自分は1
2デナリのはず。仕える動機はどうだろう。
祝福だけを求めて、仕えているならそうかも
知れない。どれだけ見返りがあったかになる。
しかし、主に喜んで頂くために仕えるなら、
主のために働ける事、仕える事自体が喜びで
はないだろうか。働く力、体力、働きの場、
すべてが、実は神から与えられている。それ
を忘れると、自分の働き、自分の功績、自分
の力を誇るようになる。自分が最後の1時間
の労務者ならどうだろう。神の愛と憐れみ慈
しみにどれだけ感謝してもし尽くせない。こ
れは天の御国の事を言っており、御国は、こ
の世の価値観と全く異なる。「あとの者が先
に、先の者があとに」取税人や遊女が先に神
の国に入り、神の国は知恵ある者でなく幼子
たちのものと言われた。
・・・・・・・・・・・・
神の御国は、愛とあわれみが支配し満ち満ち
ている所だ。もし主に仕える事が不満で喜び
が無いなら、動機と態度を点検してみよう。
実はこんなに、考えられないほどの「気前のい
い」溢れるあわれみに、包まれているのだか
ら。


2008年06月24日(火)

「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36

アブラハムは、子供が与えられる
との約束を得ていたが、85才に
なっていた。カナンに移り住んで
10年になる。彼らは神の約束を
信じていたが、それを自分の力で
実現しようと、人間的な知恵や方
策でもって成し遂げようとした。
それで生み出したのがイシマエル
であった。これは私達の信仰生活
にも言えることだ。自分の力やプ
ランで、神の御心を行なう事だ。
神ご自身の介入全く無しに、自分
の努力、自分の知恵、方法で物事
を行なう事だ。それは自分で勝手
にする事だ。その結果、イシマエ
ルを生み出してしまう。「女奴隷
の子は肉によって生まれ」イシマ
エルは肉によって生まれたものだ。
そのイシマエルはイサクを迫害し、
問題を引き起こした。人間の力、
肉で生み出した結果は、数々のト
ラブルを起こす。しばしば、神の
約束が成就するまでかなりの忍耐
が必要だ。ただひたすら待ち続け
る状態に置かれる。「100才に
なって自分の身体が死んだも同然、
サラの胎が死んでいる」状態まで
待たせられる。人間の努力で何と
か出来る状態でなく、何の方法も
無くなるまで、神は待たれる。そ
の時初めて、人間の力でなく、人
のわざでなく、神の栄光が現わさ
れるからだ。今、あなたも忍耐し
て待つ事が御心だろうか。自分で
動いて、イシマエルを生み出して
はならない。神の約束を、「神の
時に」、神ご自身が成就される。
信仰によって、時を待とう。
-----------------
ただじっと待つ事が難しい。焦り
や落ち込みの誘惑に負けそうにな
る。神様はいたずらに待たしてお
られるのではない事を信じて、約
束を見つめ、今は忍耐を学ぼう。


2008年06月23日(月)

『そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ』創世記16:13

サラのもとから逃げ去ったハガルに、
主の使いが泉のほとりで語りかけた。
ハガイは自分に語りかけた主の名を
「エル・ロイ」と呼んだ。それは
「ご覧になる神」という意味だ。
「ご覧になる方のうしろを私が見て、
なおもここにいるとは」と言った。
ハガルは女主人のもとから逃げ出し
たが、女主人のもとへ帰るように言
われた。そして、男の子を産もうと
しており、その子をイシマエルと名
付けるようにと。「彼は野生のろば
のような人となり、その手は、すべ
ての人に逆らい、すべての人の手も、
彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵
対して住もう」と。「女奴隷の子は
肉によって生まれ」とあるように、
肉はそのように自己中心で、自分本
位で、自分の思い通りに生きようと
する。しかし、与えられた場で、身
を低くして、試練を甘んじて受ける
ことだ。エル・ロイ「ご覧になる神」
神が見て下さっている。本気で信仰
人生を歩もうとするなら、試練を覚
悟することだ。練られ、鍛えられ、
自分が変えられて行く。忍耐が培わ
れ、目に見えない神を信じる信仰が
強められて行く。忍耐は信仰が試さ
れる中でしか生じない。今の環境に
愚痴と不満が一杯で、逃げる事しか
頭にないのなら、仮に環境が変わっ
ても、又、同じ事をする。どこへ行
こうと同じだ。自分は変わっていな
いのだから。試練を逃げるのでなく、
乗り越えさせて下さる。
-----------------
試練を逃げて行った時に神は、も
と居た所に帰るよう言われた。そ
こで身を低くして忍耐せよと。それ
が御心なら必ずその場で乗り越え
る力も知恵も下さる。試練を抜け
る時、大きく成長している。


2008年06月22日(日)

「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」創世16:9 

            

アブラハムとサラに、約束の子供がなかなか
与えられないので、サラの提案により、女奴
隷ハガルにより子供を得ようとした。しかし、
ハガルがみごもると、女主人であるサラを見
下すようになった。すると、サラはハガルを
いじめたので、辛さに耐えかねてハガルは逃
亡した。その時、主の使いが荒野で彼女を見
つけ、彼女に語った言葉だ。女主人のもとへ
帰り、身を低くせよと。困難、問題があるか
らと逃げていては何にもならない。常に逃げ
回っている人々もいる。しかし、信仰者は困
難、問題を受け入れ、受け止め、その中で神
に身を委ね、神に希望を置いて、忍耐するこ
とだ。ある人は、人に好かれたい、嫌われな
くない一心で、良い子に振る舞って生きて来
た。常に人の顔色を見て、結局、自分を生き
てはおらず、人に支配されて、苦しいしんど
い日々だった。そこから解放するために、神
は取り扱われた。ある事態が起こり、多くの
人々の批判、非難、攻撃を受ける事を許され
た。厳しい苦しく辛い試練であったが、その
中でただ身を低くし、自らを神の手に委ねた。
神は砕き練り造り変えられた。自分も変えら
れたと感じ、人からも変わったと言われた。
自由にされて、あるがまま素直に生きられる
ようになり、楽にされ、人生が変わった。あ
なたも今、取り扱いの中にいるか。身を低く
して受け入れる事だ。火の中、水の中を通り、
豊かな所へ連れ出して下さる。
・・・・・・・・・
問題から逃げても何の解決もない。逃げてい
ると次に同じ問題が来るなら、自分は何も変
わっていないので、同じ失敗をずっと繰り返
して行く。問題に向き合うなら、主は解決の
糸口を与え、乗り越えさせ成長させて下さる。


2008年06月21日(土)

「あなたのしもべを傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう」詩篇19:13

神様が最も嫌われる罪は「高ぶり」だ。神が
忌み嫌われるわけは、すべての罪の根源のご
とき、悪しき思いだからだ。それはサタン的
な罪だ。明けの明星である御使いの長が天か
ら地に落とされたのが、高ぶりゆえであった。
神になろうとした高慢の罪であった。アダム
とエバがエデンの園から追われたのも高ぶり
であった。蛇から「あなたがたが神のように
なり」の誘惑があり、神のようになりたくて
自ら罪を選んだ。アダムの罪の結果、私たち
の肉は、誰にも干渉されず、自分で道を決め、
思い通りに生きて行きたいというものだ。神
を捨て、自分が神になるということだ。自分
の知恵と思いで生きて行くこと、これが高慢
だ。神に頼らなくても生きて行けるとの思い
だ。神を離れての自己主張、自己実現、自己
貫徹、これが高慢だ。ダビデは高慢の罪から
守られるように祈った。サウルは成功し、高
い地位に上ると霊的高慢に陥り、不従順にな
り、神に聞こうとせず、自分の知恵に頼った。
そして成功すると、慢心し自分の力を誇って
行った。しかし「主の手がペリシテ人を防い
でいた」実は勝利は神の力と働きであった。
サウルは高慢のゆえに、王の地位を下ろされ
た。高慢の罪から守られるように祈ろう。自
分の知恵、力、自分を誇る思いが無いか。
・・・・・・・
恐ろしい傲慢の罪から守られるように祈ろう。
自分が神になって歩んでしまう。あの神に近
く歩んだダビデですら祈っている。日々悔い
改めて、御前にひれ伏して、神を神として畏
れて歩もう。


2008年06月20日(金)

「あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私があなたのなすべき事を教えます」Tサムエル10:8  

サムエルはサウルに、自分がい
けにえを献げるので、到着する
まで、七日間待てと告げた。し
かしその七日を経ても、サムエ
ルは来ない。兵士たちは敵の圧
迫に動揺し、不安と恐怖が、ま
んえんして行った。兵達はサウ
ルのもとから逃げ出し始めた。
サウルは焦った。このままでは
軍は崩壊だ。サムエルは来そう
にない。そのため自分でいけに
えを献げた。神の軍勢であり、
神が守られる事を示して、兵士
の士気を高めるために。そこに
サムエルが来た。サムエルはサ
ウルを厳しくとがめた。「愚か
なことをした。あなたの王国は
立たない。主が命じられたこと
を守らなかったからだ」。遅れ
たサムエルが悪いのではないか。
敵はどんどん侵攻して来ている。
兵士達はおじ惑い逃げ去ろうと
している。こうしなければ軍は
壊滅だとサウルは判断した。し
かし、そういう問題ではない。
軍を支配し、敵を支配している
のはどなたであるのか。ヨナタ
ンは言った「大人数によるので
あっても、小人数によるのであ
っても、主がお救いになるのに
妨げとなるものは何もない」人
数、勢力の問題ではない。断固
神に従うべきであった。祭司し
か、いけにえを献げることはで
きない。分を越えて、してはな
らない事をした。神を信じて待
つべきであった。それが信仰だ。
今、目の前の状況で動揺してい
るだろうか。じっと神を信じて、
神を待ち望もう。神が動かれる。
---------------------
状況を支配されている方がどれ
ほど偉大なお方であるかをしっ
かり見分け信じて待ち望もう。
必ず主の栄光を見ることになる。


2008年06月19日(木)

「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」ヘブル4:7

カインはアベルに対して、妬みや
憎しみがあった事だろう。その憎
しみと妬みで盲目になり、一線を
越えて突き進んでしまった。神は
カインに悔い改めのチャンスを与
えられた。「なぜ、あなたは憤っ
ているのか」と語りかけられた。
カインの献げ物は受け入れられな
かったが、神の語りかけに応答し、
間違った献げ物であれば、悔い改
めて、もう一度献げ直せば良かっ
た。しかし、神の語りかけを無視
し、悔い改めのチャンスを自ら拒
んだ。そして、尚も心も頑なにし、
アベルを野に連れ出して殺害した。
その時も、尚も神は悔い改めのチ
ャンスを与えられた。神からの語
りかけによって。「あなたの弟ア
ベルは、どこにいるのか」と。し
かし、カインは冷ややかで強情で
頑なな対応であった。「知りませ
ん」自分が弟の番人なのかと。悔
い改めを拒んだ。人は神の語りか
けを拒めば拒むほど、ますます心
が頑なになって行く。神の御声を
聞いたなら心を頑なにしてはなら
ない。人は自分で悔い改める事は
できない。恵みの御霊が導いて下
さって、初めて悔い改める事がで
きる。御霊の語りかけがあるなら
すぐに従おう。御霊の促しがある
なら、無視せず、ないがしろにせ
ず従おう。強情な私たちをも御霊
は、語りかけ、指し示し、促し、
導いて下さる。語りかけを拒んで
はならない。御霊を悲しませ、尚
も拒むなら御霊を消してしまう。
今、促しがあれば、すぐに従おう。
------------------
みことばが臨んだなら感謝して従
順に従って行けますように。悔い
改めができるとは、赦され続けて
いるとは、何という恵みだろう。


2008年06月18日(水)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」ヤコブ4:3   

     
  
私たちもあるだろうか。幾ら懸命に祈ってい
ても願いが叶えられない、物事が全く自分の
思い通りにならない、そういう時こそ、幸い
な時、自分が試される時だ。誰でも祈っても
祈っても願い通りにならないと、がっかりし、
落胆する。又、怒りが湧くかも知れない。そ
んな時こそ、新たに神を知る恵みの時だ。御
利益の無い神など用はないと、自分の願いを
叶えてくれる神を探すだろうか。そうなら、
神はその人のしもべでしかない。「彼らの神
は彼らの欲望であり」の通り、自分が神であ
り、自分の欲望が神だ。神を神として礼拝し
ているのではなく、自分の願いを叶えてもら
うために、神を拝んでいる。それがまことの
神を拝んでいたとしても、自分の欲望のた
めに拝んでいるのだから、結局は自分の欲望
を拝んでいる事だ。それが偶像礼拝だ。自分
はどうだろう。自分の願いを叶えて貰いたい
だけだろうか。神を神として礼拝して行く人
は、自分を通すのでなく、自分を砕いて行く。
神の御思いに従って行く。願いが叶えられな
い時、自らを御霊の光に差し出す。動機が間
違っていないか。自我からの要素がないか。
何を言わんとしておられるのか、へりくだっ
て知ろうとする。その時、動機をきよめられ、
祈りが軌道修正される。自分が変えられ、神
と一つにされて行く。そして祈りは答えられ
る。
・・・・・・・・
祈りが願った通りに答えられない時こそ、神
を知る時だ。自分の願いと、神の願いがある。
そこで明け渡して、神が私に願っておられる
事に、視点を変えて求めて行こう。神のお心
に行き着く。


2008年06月17日(火)

「毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである」出エ16:4

民の苦しみの叫びに答え、神はモ
ーセを立て、民をエジプトから連
れ出された。紅海を二つに分け海
の中を通された。その驚くべき奇
跡を見て、大歓喜の1ヶ月後だ。
水と食べ物の無い荒野で、民はす
ぐ不平不満に陥り、モーセに文句
を言った。荒野に連れ出して死な
せる気かと。忍耐深い神は責めら
れないで、天からマナを降らせる
から、毎日、一日分を集めるよう、
六日目だけ翌安息日の分も集める
よう言われた。朝まで残してはな
らないにも関わらず、ある者は明
日が不安で、残しておいた。しか
しそのマナは腐っていた。ある者
は七日目に集めに出て、何も見つ
からなかった。人間は神の御言葉
に従わない。荒野での四〇年間、
一日も欠かさず神は民を養われた。
毎日、一日分、これは信仰の訓練
であった。「わたしのおしえに従
って歩むかどうかを試みるため」
と。信仰の試しだ。日毎に、一日、
一日を、神に信頼して歩む訓練だ。
これは日々信仰を使い、神への信
仰が強められて行くためだ。明日
は神に委ねよという事だ。翌日に
とっておいたマナが腐っていたよ
うに、翌日への心配は心を腐らせ
る。不信仰とは、状況だけを見て、
神を見失ってしまう事だ。神を見
て、明日は委ねて、今日、神を信
頼して、喜びと平安でいよう。一
日一日が試しであり、信仰が鍛え
られ強められるためだ。
----------------------
霊的な糧は取り貯めできない。今
日の恵みが、すぐにつぶやきへと
変わっていく。神様を見つめ霊の
糧を日ごとに与えられ一日を始め
よう。


2008年06月16日(月)

「また私たちのためです・・主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです」ローマ4:24

アブラハムは子孫を与えるとの
約束を受けていたが、見えると
ころはどうだろう。アブラハム
は年寄りになり、100歳にな
って自分の身体が死んだも同然
となった。ましてや、サラは妊
娠不可能な身体になっていた。
常識、自然界の秩序では、あり
得ない状況になっていた。状況
的には不可能だ、しかし、アブ
ラハムは神に不可能な事は一つ
もないと、「神には約束された
ことを成就する力があることを
堅く信じ」た。そして、神はそ
の信仰を義と認められた。マル
タとマリヤは弟ラザロが病気に
なり、主に使いを送った。主さ
え来て下さればすぐに治る。し
かし主は動かれなかった。ラザ
ロが死ぬのを待って、死後に、
やっと訪ねられた。「あなたの
兄弟はよみがえる」と言われた。
現状はラザロは死んだ上に、も
う腐って来ていた。死の上に更
にこれでもかとの、だめ押しだ。
これがどうなるというのか。
「もう臭くなっています。四日
にもなるので」と。しかし、主
は「信じるなら栄光を見る」と
言われた。状況を取るのか、主
の御言葉を取るのか。どちらか
だ。アブラハムは状況でなく、
約束を信じた。それが彼の義と
みなされた。アブラハムには様
々な失敗があった。しかし、義
人とされた。義人とは状況でな
く、神の約束を信じる人のこと
だ。
----------------
目の前の事だけを頼ってはいな
いが全く神様だけを信じる事もで
きない。こんな中途半端な信仰は
むなしい。不安な思いは神様に
告げながら、それでも信仰を選ん
で行こう。


2008年06月15日(日)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3

中世は天動説であった。惑星の軌道が膨大に
複雑で理解不能だった。地動説を打ち立てた
のがコペルニクスであった。天動説は地球を
中心にして天体の動きを見ていた。だから理
解出来なかった。しかし、地動説は、地球は
太陽の周囲を回る小さな惑星だ。地球が宇宙
の中心なのではない。そうすると、すっきり
として説明がついた。私たちの信仰生活はど
うだろう。自分中心の考え方が、悩みと問題
を生み、対人関係ではトラブって、ギクシャ
クし、あちこちで頭をぶつける。自らが問題
を引き起こしている。天動説だ。自分中心に
周囲が回っていると思い、又、回そうとする。
そこにあつれきが生じる。相手が悪いと信じ
て疑わない。そうしか見えない。あの人、こ
の人さえいなければ、人生快適なのに。しかし、
地動説だ。相手はいっさい関係なく、問題は
自分だ。自分中心の思考パタンだ。相手の
せいと信じて疑わないが、実は相手は関係
ない。自分の心の状態の責任は自分にある。
まず自分の問題だと認めよう。相手がどうで
あれ、反応しているのは自分であるからだ。
キリスト中心に据える時、見方が変わる。相
手しか見えなかったのが、自らの高慢、自己愛、
利己心、愛の無さが見えて来る。そして、そん
な自分を愛して下さっている神の愛が見えて
来る
・・・・・・・・・
自分の本当の姿を見せるために、神が相手を
目の前に置かれている。神様に焦点を当てる
と恵みが見えて、愛が見えて来る。でなけれ
ば、環境に文句を言い、人を責めるばかりだ。


2008年06月14日(土)

「するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから自分の家へ帰た。そして・・食事っをとった」IIサムエル12:20

バテシバが産んだダビデの子供は、ダビデ
の罪が原因で死んだ。罪をおおい隠していた
ダビデだったが、ナタンの指摘により、姦淫
と殺人の罪を認めて悔い改めた。主は罪を赦
して下さった。しかし「あなたはこの事によ
って、主の敵に大いに侮りの心を起こさせた
ので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ」と言
われた。そして、主が打たれたので、子供は
病気になった。ダビデは断食をして、一心に
子供のために祈った。だが子供は死んだ。家
来達はダビデを余りにも心配して、子供の死
を伝えられないでいたほどだ。それほどのダ
ビデが、息子の死を知った時、起きあがり身
を整えて、神を礼拝したのだ。ダビデの驚く
べき姿勢だ。これだけ祈ったのに、神は聞か
れないと、不平不満、怒り、失望落胆に陥る
事もできた。しかし、ダビデはそうしなかっ
た。どんなにか辛く悲しく、苦しく、心痛ん
だ事だろう。しかし、力を尽くして祈った結
果、子供が死んだ時、これが神の御心である
ことを悟り、神の御手を受け入れた。そして、
神を礼拝した。神の御心を受け入れる事は、
時に裂かれるような痛みを伴う。しかし、神
は聖なる方であられ、同時に愛なる方だ。今、
目の前に受け取るべき御心があれば、受け入
れられるよう祈ろう。
・・・・・・・・・・
ダビデはなすべき事をし尽くして、その結果
に神の主権と御心を受け止め、受け入れた。
神の御前にへりくだり、礼拝を献げた。悔い
改めたダビデは、神のせいにも、自分のせい
にもせず、御手を受け入れ、御名を崇めた。


2008年06月13日(金)

「アブラハムはおよそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした」ローマ4:19

アブラハムは75歳の時に神の示し
に従い、カランを出てカナンの地に
移り住んだ。しかし、子が無く、しも
べエリエゼルを相続人にと考えてい
た。その時に、神により、あなた自身
から生まれ出る者が、跡継ぎとなると
言われ、満天の星を見せられ、子孫
はこのようになると告げられた。ア
ブラハムは信じた。神はそれを彼の
義と認められた。その後、子供は尚
も生まれず、サラの提案のもと、肉
の思いと行動により、奴隷ハガルに
よりイシマエルを得た。86歳であ
った。その後も、約束はあっても、
状況的には何一つ動かない、何も見
えない歳月が続いた。厳しい忍耐の
時であった。それから13年後、9
9歳の時に、主が彼に再び現われ、
子孫を与えると語られた。そして、
100歳になってイサクを得た。ア
ブラハムは常識的には不可能である、
厳しい状況の中で、神ご自身を信じ
た。望みえない時に望みを抱いて信
じた。目に見えたなら信仰は必要ない。
見えないものを信じるから信仰なの
だ。それは厳しい状況を見るのでな
く、約束して下さった神を見続ける
信仰だった。アブラハムには数々の
失敗があった。しかし、信仰の父と
言われ、神はその「信仰」を喜ばれ
た。あなたも今、厳しい状況だろう
か。「胎の死んでいることを認めて
も」、見えるとことでなく、神の約束の
言葉に立とう。
-------------------
聖書を開けばたくさんの祝福を約束
して下さるみことばがある。絶望的
な状況に目をふさがれていても、約
束のみことばに目を向ける時、心は
平安にかわる。何という感謝だろう。


2008年06月12日(木)

「また、祈るとき、異邦人のように同じことがを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っています」マタイ6:7

主は「父なる神は、お願いする先
に、必要なものを知っておられる」
と言われた。では、何のために祈
るのか。祈る必要が無いのでは。
これは異邦人のように、同じ言葉
を繰り返し言葉数の多さで、との
態度の間違いの指摘だ。祈り倒さ
んとの勢いで、ただ言葉の多さ勝
ちなのではない。言葉数の多い順
に聞かれるのではない。だから言
葉の繰り返しは無益で無駄だ。こ
の世の宗教と違い、御父はすでに
必要も状況をご存じであり、知ら
ない相手のごとく、くどくど説明
する必要もない。しかし、神は次
の節で「だから祈りなさい」と言
われた。だから祈る必要ないので
なく「祈りなさい」と。祈りは御
父との交わりだ。愛する子供に「
一生涯すべての必要を完璧に保障
するから、いっさい語るな、何も
言うな」と言う親はいない。親は
子供の語る言葉を聞き、対話した
い。それは親にとって大きな喜び
で楽しみであるからだ。御父はあ
なたの声を聞きたいと待っておら
れる。又、神は必要をご存じだが、
私たちが自分で自分を知らない。
真に必要な物をわかっていない。
的はずれに求め、まともだと思っ
ている。自分の誉れ、欲のために
求めて気づかない。神はそれらを
軌道修正し、正しく導き、あなた
自身を変えて下さる。それは祈り
の実践の中でのみ可能なのだ。
----------------
私達の欲しいものと、私達に真に
必要なものとは違う。祈りの中で、
気付きを与えて下さり御心になか
ったものならばとの思いに整えら
れる。神様と深い交わりの時を持
とう。


2008年06月11日(水)

『彼らは、私の民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言う』エレミヤ6:14

誰しも、自分の弱さや醜さ、汚さは見たくな
い。決して認めたくない。そこに触れられる
や、即、逃げるし、隠れる。見たくないもの、
考えたくない事は心の引き出しにしっかりし
まい込み、触れない。それで事足れりとして
しまう。放っておきたい。しかし、主は私た
ちを真実に愛して下さっているので、自由に
し、解放するために、その一つ一つを御霊の
光のもとに引き出される。考えまいと押し込
めていたもの、無意識下にあるものが、あら
わにされる。高慢やプライド、虚栄、貪欲、
偽り欺瞞、自己愛、内にある醜いものが光に
照らし出されると、その厳しさに心は余りに
も痛くて、辛い。その時、その痛みから逃が
れたい。そのために言い訳、取り繕い、理由
付けをする。自分を正当化し心をガードする。
そうすれば痛から逃げられる。そうやって
「偽りの平安」に逃げ込む。それが世が与え
る平安、肉の平安だ。しかし、光からも逃げ
て、光をシャットアウトする事になる。そこ
は暗闇だ。真の平安を得る道がある。光の照
らし出される時に、いっさいの自己弁護も言
い訳も止めることだ。「それが私です」と、
御霊の示しに同意し、認め、そして悔い改め
るなら、十字架から何があっても揺るぐこと
のない、動じることのないまことの平安が流
れ出て来る。「キリストの平安」を経験する。
・・・・・・・・・・
偽りの平安とは、問題から逃げて、シャット
アウトし、目をつぶってしまう事だ。光があ
っても見えない。逃げないで、現実をしっか
り見て、十字架のもとへ行く時、大海のよう
な安らかな、揺るぐことのない平安を味わう。


2008年06月10日(火)

「しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した」使徒27:11

パウロがローマへ護送される途中、
船はクレテの良い港に着いた。そ
こで人々は冬を越すのに、この港
よりもっと良いピニクスまで進も
うとの意見だった。しかし、祈り
の中で示されたパウロは、この航
海は危険で積荷や船体だけでなく、
命にまで危害が及ぶと強く反対し
た。しかし船の人々はパウロの言
葉を信じず、決定権を持つ百人隊
長も、パウロより経験深い航海士
や船長の言う事を信用し、それに
従って出帆した。そして案の定、
暴風に巻き込まれた。私たちも信
仰生活で、常に二つの声が聞こえ
て来る。二つの思いがふつふつと
湧き上がる。一つは御言葉を通し
て、聞こえて来る神の御声であり、
もう一つは自分の経験や知識、自
分の思い、判断から聞こえて来る
肉の声だ。それは世の価値観に基
づいていて、見えるところから判
断する声だ。結局のところ、どち
らの声を選択するかにかかってい
る。彼らは暴風に会い、なすすべ
なく積荷を捨て、船具も捨て、助
かる最後の望みも絶たれようとし
ていた。その時、人々は初めてパ
ウロの言葉に思いが至った。パウ
ロは「すべて私に告げられたとお
りになると、私は神によって信じ
ている」と人々を励まし、紆余曲
折の末、彼らは全員その通りに助
かった。今、あなたも自分の思い
に傾いているなら、聞くべきは神
の御声だ。
----------------------
いつも神様との密なる交わりの時
や、導きを求めているだろうか。
長年培ってきた肉の声に従いやす
い弱い者だからこそ、今朝もまた
静まって御声を聞こう。


2008年06月09日(月)

「わたしがあなたがたに話したことがは、霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63


聖書には3万数千の祝福の約
束の言葉が記されている。そ
の土台の上で、私たちは、自
分自身の約束の言葉を受け取
る。厳しい試練が臨んだ時、
悩み問題に心が押しつぶされ
そうになる時、自らの進路に
確かな指針を求めている時、
まずよくよく祈ることが大切
だ。よく祈って「主よ。お話
しください。しもべは聞いて
おります」との姿勢で、神の
御言葉を求める時に、主の語
りかける御声が臨んで来る。
それは礼拝メッセージであっ
たり、デボーションの中であ
ったり、学びの時、信仰の友
との交わりの時であったりす
る。あらゆる時に、心を開い
て、御声に一心に耳を傾けて
いると、心に主が語りかけら
れる。物理的に肉の耳に聞こ
えるのではなく、心の耳に聞
こえて来る。その御言葉を心
に受け取り、信じて握る時、
その言葉から信仰が生まれる。
その御言葉は、霊となりいの
ちとなり、試練のまっただ中
で、慰めとなり励ましとなり、
避け所とされる。いろんな人
が、人生で崖っぷちに立った
時に、厳しい極度の試練の中
で、突き詰めると「御言葉」
だったと証しする。「御言葉」
が苦しみの中で支えであり頼
みであり、拠り所であったと。
状況は大嵐の中、主から受け
取った言葉は、私たちを支え
守ってくれる。嵐の中で揺ら
ぐ事なく立っておれる。
--------------------
神様の御言葉を基として立つ
とき不安定な状況の中で唯一
の道しるべを見つける。御言
葉を知っているのではなく信
じて今週も歩もう。


2008年06月08日(日)

「主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった」出エジプト15:25

出エジプトを果たした後、民はシュルの荒野
に出て、3日間荒野を歩いた。水が無く、マ
ラに来たがマラの水は苦くて飲めなかった。
民達はあれほどの奇跡を見たに関わらず、目
の前に水が無いという事で失望し、途端不平
不満で一杯になった。不満をモーセにぶつけ
た。モーセが主に叫ぶや、主は一本の木を示
され、それを投げ入れると、苦い水が甘くな
った。私たちの信仰生活どうだろう。時々
落胆し、行き詰まって戸惑い、不安と思い煩
いに襲われ、妬み憎しみでがんじがらめにな
り、様々な苦い水が溜まる。どのように甘く
なるのか。一本の木は十字架だ。主イエスの
十字架が苦い心を甘くしてくれる。心がドロ
ドロになった時は主の十字架のもとへ行こう。
ある人は苦しみ嘆きの中で十字架をひたすら
仰ぎ続けた時、主の御前に自らが砕かれ、く
ずおれた。自分は一体何者なのか。いっさい
の言い訳を止めて、主に心を向ける時、御霊
は心を照らし出す。思い煩いの中に巣くう不
信仰、自分の力に頼る高慢、相手を責めて辛
くなっていたが、実は自分の心にあるプライ
ド、虚栄心、競争心、優越・劣等感、本当の
姿を見せられる。人を責め、環境に文句を言
い、不満で心が苦しくなっているが、真の問
題が何であるかを知る。自らの罪を認め、悔
い改める時、心がすっきりし喜びが満ちる。
新たに主を知り、苦みが甘みに変えられる。
・・・・・・・・・・
十字架のもとへ行く時、心砕かれる。罪の無
い方が罪となられ、苦しまれた。自分は罪人
なのに、自己主張、自己憐憫、自己正当化、
自分、自分。十字架をじっと見る時、十字架
から癒しが流れ出る。


2008年06月07日(土)

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」ローマ10:17

信仰ゆえに親族の迫害に会い、教会へ行けず、
隠れて連絡を取り、励まされて、一人で信仰
を守っている人がいた。目の前の状況は、悲
惨だ。周囲からの深く傷つく言動、態度、状
況を見ると、失望落胆ばかりだ。意気消沈し
がっかりし落ち込んで行く。これから先を思
うと、不安と思い煩いにどっと襲われ、深い
渕に落ち込むようだ。しかし、そんな時に、
御言葉に向かうと、「わたしは決してあなた
を離れず、あなたを捨てない」「わたしは、
世の終わりまでいつもあなたと共にいる」ま
さに生きた言葉となって心に響き、共鳴し、
感謝が湧き、力が与えられ新たにされる。神
の言葉は霊であり、いのちが宿っている。心
引き上げられ、状況は何も変わらず、同じ環
境であるに関わらず、心に平安が臨む。感謝
が湧き、先にも希望が持てる。苦しい状況の
中であっても、前進して行ける。神の奇跡だ。
御心なら苦しい状況を変えて下さる。しかし、
しばしば経験するのは、状況でなく、私たち
を変えられる事だ。揺るぐことのない深い平
安を下さるので、状況が関係無くなってしま
う。心が変えられるので、その環境の中で生
きて行ける。リストラ、仕事、経済的苦境、
病、対人関係での悩み、様々な人々が経験し
て来たところだ。あなたも今苦難の中だろう
か。状況からも、自分からも目を離し、神に
向き、御言葉で心を一杯にしよう。御言葉か
ら信仰が与えられる。信仰は、みことばから
来るのだから。「わたしがあなたがたに話し
たことば、霊であり、またいのちです」。
・・・・・・・・・・・
主が一言、語って下されば生きて行ける。主
の下さる一言で、心の悶々に解決が来たり、
一言葉により、信仰が生まれ先の不安が消滅
する。主の口から出る一言は、心の大嵐を完
全になぎにし静める。今日も御言葉を求めよ
う。


2008年06月06日(金)

「山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない」ヨシュア17:18

ヨセフ族が、ヨシュアに「なぜ
ただ一つの割り当て地しかない
のか」と不満を訴えた時、ヨシ
ュアは森に上って行き、カナン
人と戦い、自分で切り開けと告
げた。エフライムもマナセ族も
実際は広大な土地を与えられて
いる。だのに不満しかない。
そしてカナン人を追い払わない
で、きちんと占領しないので、
カナン人も彼らの地に住み通し
た。与えられた地を占領せよと
神は言われ、私たちは占領する
必要がある。余りにも降って与
えられた恵みが大き過ぎて、そ
の恵みがわからない、価値に気
づかない。それゆえ、しっかり
それを受け取り生かして行く事
をしない。なあなあに流されて
いるばかりだ。私たちはどうだ
ろう。何の求めも労苦もなく与
えられると、当たり前で、あっ
て当然で、その有り難みが全く
わからない。だから、それを心
から感謝して生かして行く事が
出来ない。私たちもいろんな面
でそのような者だろうか。与え
られた大きな恵みに感謝もなく、
不満ばかりで、満たしが無いの
でもっともっと、と欲に支配さ
れ、更に所有しようとする。恵
みがわかると、神が与えて下さ
ったものを尊び、大切にし、保
ち、生かそうとする。それが占
領するという事だ。感謝が溢れ
る。今ある恵みはすべて神が与
えて下さったものだ。感謝の無
い態度を悔い改めよう。今一度
しっかり恵みに目を向け、感謝
して受け取り直そう。
------------------
神様に出合った頃の喜び、重荷
や罪からの解放感を覚えている
だろうか。神様を知っただけで
他に何もいらないと思えた喜び
を取り戻し恵みを数えてみよう。


2008年06月05日(木)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」Uコリント12:9

パウロは目の持病があったと言わ
れている。「私の肉体には、あな
たがたにとって試練となるものが
あったのに、軽蔑したり、嫌った
りしないで」「自分の目をえぐり
出して私に与えたいと」痛みもあ
り、人に対して不快感を与えるも
のであり、パウロにとっては、こ
れさえ無ければと思うものであっ
た。これがあるがために、働きが
しにくい、これが無ければ、もっ
と有効に主のために働けるのにと。
しかし、神のみ思いは別であった。
高慢にならないためであり、弱さ
の中にこそ、神の力が働くのであ
り、逆にその弱さを嘆くのではな
く、誇れと。私たちにも与えられ
ているだろうか。これさえ無けれ
ば、もっと主のために働けるのに。
これにより足を引っ張られている
のではないか。性格的弱さか、境
遇か、病か、しかし、恵みは十分
だと言われる。満ち足りていると。
その弱さを取り去るのでなく、そ
うでなくその弱さこそが、神が現
れるところだと。あなたにも、こ
こがもっとこうだと良いのに、こ
れさえ無ければよいのに、とうい
うものがあるか。そこを誇ろう。
そこにこそ神の栄光が現される。
又、私たちもパウロのように何で
も祈り求め、そして自分の願い通
りにならない事も祝福だと知ろう。
ノーの答えの中に、そこに神の御
心があるからだ。神の御心を知る
ことが、自分の思い通りになる事
以上に素晴らしい祝福だ。
-------------------
祈っても変わらない状況の中で不
満や憂いに落ち込む時、神様は私
に何を教えようとしておられるの
か、どう変われと言っておられる
のだろうと御心を尋ねてみよう。


2008年06月04日(水)

「ルツは・・落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった」ルカ2:3

ルツは、夫の死後、自らの実家へ帰るように
との、姑ナオミの強い勧めにも関わらず、ナ
オミについて、ベツレヘムにやって来た。そ
れは「あなたの神は、私の神」と、ナオミの
背後の、まことの生ける神を見ていたからで
あった。戻ったが、生計を立てねばならず、
ルツは落ち穂拾いに出ることを申し出た。ナ
オミの了承のもと「たまたま」入った畑が、
ボアズの畑であった。しかし、この背後に神
の大いなる御手が働いていて、神の摂理のも
とにあった。やがてルツの真摯に働く姿がボ
アズの目に留まり、ボアズの親切と好意を受
けることになる。そして、最終的には結婚に
導かれる。これらすべての事が、背後にある
神の導きであり、ご計画であった。神に立ち
返ろうとナオミが決心し、行動を起こした時
が、「たまたま」大麦の刈り入れの始まった
時期であり、ボアズの畑にいると、普段は来
ないボアズが「たまたま」やって来て、ルツ
と出会う。すべてがパズルのようにつながっ
て行く。私たちの信仰人生も同様だ。大いな
る御手の支配の中に置かれている。今置かれ
ている場、出会う人々、目の前に与えられた
仕事、起こる出来事、一つ一つが「たまた
ま」「はからずも」の積み重ねだ。それら一
つとして偶然は無く、神が目的と意図を持っ
てそうされたのであり、ご計画だ。そこに視
点を向ける時、大いな御手を見、大いなる愛
に出会う。
・・・・・・・・・・・
一羽の雀さえ、父の許しなければ地に落ちず、
一つの偶然もなく、人生のいっさいがっさい
が、完璧な御手の内とは、何と平安だろう。主
の愛に包まれている。一歩先しか見えないが
ご計画を信じている事ができる。


2008年06月03日(火)

「サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである」Tサムエル18:12

サウルは女たちが笑いながら歌っ
た「サウルは千を打ち、ダビデは
万を打った」から疑心暗鬼となり、
ダビデに嫉妬の炎を燃やした。サ
ウル自身がダビデに好意を持ち、
そばに置いていたのに、他の者た
ちがダビデを賞賛し始めるや、嫉
妬と化す。罪の性質だ。私たちに
もある。自分だけが好意を持って
いる間は良いが、皆がその人を誉
めそやし、人気が集まって行くと
嫉妬となる。サウルの妬みは、憎
しみ、敵意、殺意と高じて行った。
実際にサウルはダビデを槍で突き
刺そうとした。妬みは殺意へと燃
え上がる。なぜサウルはそれほど
までに、嫉妬に狂って行ったのか。
ダビデとの関係の前に、神との関
係が問題であった。どんな時にも、
私たちは悔い改めることができる。
もう一度やり直す事ができる。サ
ウルは悔い改める事ができた。主
は赦しを与え、道を示して下さる。
ダビデはどうであれ、ダビデに関
係なくサウルは主が示される自分
の道を平安に歩む事ができたはず
だ。しかしサウルはそうしなかっ
た。私たちはどうだろう。妬みは、
決してプライドが認める事を許さ
ないので、気づかずに無意識の下
にある事がある。何か心がざらつ
く、何か気になる、そんな時、御
霊に心の深みまで探って頂こう。
心の底に妬みが巣くっている。何
より悔い改めが大切だ。へりくだ
って悔い改める時、赦され、妬み
から解放される。平安と喜びもっ
て日々を歩むことができる。
------------------
神様から遠く離れてしまうなら、
なだれのように肉に思いを明け渡
してしまう。神様と自分との関係
を大切に、一つ一つ罪しめされな
がら、赦されながら歩もう。


2008年06月02日(月)

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる・・従わないことは偶像礼拝の罪だ」Tサムエル15:23

サウル王はサムエルにアマレク
を打ち、すべてのものを聖絶せ
よとの主の命を受けた時、命令
に従い戦闘に行ったが、アガグ
王と肥えた良い家畜を惜しんで、
つまらない値打ちの無いものだ
けを聖絶した。サウル自身の欲
だった。どうでもいい物は神に
献げ、値打ちのある良い物は自
分のために取っておいた。戦勝
記念碑を立て、自分の名誉と満
足に酔っていた。サウルの本性
を露呈した。サムエルに指摘さ
れると、悔い改めどころか、
「私は主のことばを守りました」
しかし、「民は」と、民のせい
にし、民に責任転嫁する。民が
家畜の良いものを惜しんだから
と。そして、それは主にいけに
えを献げるためと、更に正当化
する。主に聞き従うのではなく、
自分の判断、自分の良いと思う
こと、自分の欲望に従って行く。
私たちの日常はどうだろう。神
の御心がわかっているが、自分
の欲の方へ行きたい。御言葉は
そう言うが、この方法の方がい
いのではないか、どう見てもこ
っちの方が得策にしか見えない。
又、自分の都合の良い時、気の
向いた時だけ従うが、自分の損
になる時、犠牲が大き過ぎる時
は従わない。サウルは従順が試
みられ、失敗した。私たちはど
うだろう。主は御声に従うこと
を求めておられる。今、従順を
目の前に求められているか。自
分の損得、好み、都合という、
サタンの声を閉め出し、従おう。
大きな祝福にあずかる。
-----------------
み言葉に従い通すなら、世の価
値観や自分の欲から守られる。
私達の本性はサウルと同じだ。
み言葉よりも自分の都合を選ん
で行きたい者だと、いつも覚えて
謙遜に従おう。


2008年06月01日(日)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」エペソ6:12

よく私たちは惑わされる。対人関係で問題を
生じると、相手しか見えない。相手に心が捕
らわれ、四六時中、思いが拘束され、まるで
牢獄に捕らわれの身だ。それは夫婦、親子、
嫁姑、ライバル、上司だったりする。相手が
敵だと錯覚する。しかしそうではない。相手
が、血肉が私たちの敵なのではない。敵は、
その背後で操っているサタンだ。相手を用い
て、あなたの心に憎しみ、敵対心、妬み、怒
り、高ぶり、優越感、劣等感を吹き込み、罪
を犯させる。騙されてはならない。サタンに
ほんろうされてはならない。「私たちの兄弟
の告発者、日夜私たちの神の御前で訴えてい
る者」黙12:10 裁き、憎しみ、不信感によ
りサタンが日夜、兄弟を訴えてくる。対人関
係で、否定的な思いを植えつける。以前、イ
ラクで、米空軍が、誤って地上の米軍を誤爆
したとの報道があった。私達は同士討ちをし
てはならない。背後のサタンに気づき、そこ
に目を向け、見張っていよう。サタンの最大
武器は身を隠す事だ。暗闇の中でだけサタン
は働ける。光に出されたなら、サタンは敗退
せざるを得ない。気づいていないところに幾
らでも働ける。御霊の光によりサタンに気づ
けるよう祈ろう。気づいた時、サタンは光に
出されている。今のあなたの状況で、サタン
にやられてないか。
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サタンは主にある喜び、平安、確信を奪おう
と、憎しみ、裁き、妬み、疑心暗鬼をもって
攻撃して来る。戦うべき相手は人間ではなく、
罪に引き込もうとするサタンだ。足場がある
なら、常にそこにサタンが来る。悔い改めて、
その足場を砕いて頂こう。