2008年07月31日(木)

「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」ローマ8:29

「なぜなら、神はあらかじめ知って
おられる人々を、御子のかたちと同
じ姿にあらかじめ定められたからで
す」ローマ8:29

家内安全、商売繁盛、無病息災のた
めに信仰している場合がある。自分
の幸せが目的で、信仰はその手段だ。
人格を高める事、自己実現や悩みの
解決が目的、そのような事で神を求
めているなら、神は目的達成の手段
になる。もし、そのために信仰して
いるなら、いつか神から離れる事に
なる。なぜならご利益が目的なので、
祈っても自分の思い通りにならない
なら、神が期待はずれとなる。神に
失望落胆し、幾ら祈っても聞いてく
れない神に、怒りが湧く。そんな神
なら願い下げとなる。しかし、祈り
が聞かれない時も、神には意図があ
られ、私たちの最善のためにとどめ
ておられる。その時は、祈りに答え
られない方が良いのだ。深く高い神
のご配慮がある。自分の目的達成の
ためなら、神を礼拝しているのでは
なく、「彼らの神は彼らの欲望であ
り」自分の欲望を礼拝している事に
なる。神は自分の幸せのための手段
ではない。神を礼拝して生きる事、
そのことが目的であり、私たちの最
高の幸せだ。本当の幸せとは、欲望
が満たされる事ではなく、キリスト
に似せられて行く事だ。試練、苦し
み、痛みを通して砕かれ、削られ、
御子のかたちに変えられる事、ここ
に視点を置く事だ。自分の幸せ、満
足に焦点を置くと、道をはずれ、迷
い、人生が的はずれになってしまう。
喜びの時も苦しみ、悲しみの時も、
神を礼拝して生きて行く時、きよめ
られ成長して行く。
---------------------
神様の力で肉的に幸せになりたくて、
祈っているなら答えは期待はずれだ。
御心の成長へと少しでも整えられて
行くことに焦点を合わせ祈ってみよ
う。たくさんの答えが見つかる。


2008年07月30日(水)

「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいことをすることができないのです」ガラテヤ5:17 

              
        
肉は私達にとって心地良くて、快感が
あり、喜びがある。自分に敵対する人
がいるなら、肉は憎む方が心地良い、
快適だ。しかし、御霊に導かれる新し
いもう一人の自分はそうでない事を知
っている。赦し、愛し、相手のために
祈ることが神に喜ばれる事だとわかっ
ている。肉は、自分を傷つけた相手に、
何倍にしてでも報復したい、どうやっ
て仕返ししようかと怒り心頭だ。全く
相反する二つの心、二人の自分に心は
裂かれ、苦しいばかりだ。どちらもが
それぞれの方向へあなたを引っ張る。
御霊は新しい人に働きかけ、相手のた
めに祈るよう、赦すよう引っ張る。サ
タンは古い人、肉に働きかけ、仕返し
しろ、言い返せ、憎め、怒れと引っ張
る。自分の中でその二つの心が激しく
葛藤する。その時、自分で何とかしよ
うとせず、まず「わたしを呼べ」と言
われる神を呼ぶことだ。神に助けを呼
ばわるなら、御霊を選べるように助け
て下さる。そんな時、相手のために祈
る事が正しくて、そうしなければと思
うが、肉は拒否する。そんな事は絶対
にしたくない、嫌だ、と。自分の力で
は御心に従う事はできない。しかし、
自分にはできない事を認めて、神にま
ず助けを求めるなら、神が御霊の導き
の方を選択できるよう助けて下さる。
実生活で、神の助けを体験して行く。
・・・・・・・・・
自分では従うことが出来ない。不可能
だ。しかし、神に呼ばわり、自分には
出来ないと認める時、御霊が助けて下
さる。御霊が助けて下さるので、自分
が変えられて出来るようにされる。


2008年07月29日(火)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18

信仰生活、御霊に導かれて歩んで
いるなら、一つ一つの事柄が、決
して重荷とはならない。しんどく
ない。律法の下にはいないからだ。
何か重苦しくて、しんどくて、イ
ライラしているなら、肉によって
歩んでいる。御霊の中にいないで、
肉の中にいる。何かが違うと感じ
るだろう。そんな時は立ち止まっ
て、主の御前に出ることだ。気づい
たなら、そのつど主に委ねて行け
ばよい。すでに古い人は十字架で
キリストと共に死んでいる。しかし、
自分の思いと自分の力で歩む時、
律法の下に自分を置く事になる。
その度に、主を見上げるなら、再
び律法ではなく、御霊の導きの
もとに自分が置かれる。ある人は
日々非常な忙しさで、深夜帰宅の
早朝出勤が続いた。デボーション
もできずに、心身共にクタクタで
疲れ果て、許容量オーバー状態
になった。わけもなくイライラピリ
ピリし、心は不満といら立ちで一杯
だ。限界を感じ、昼休みに公園の
片隅で、聖書を開き、主に祈った。
心を打ち明け、心にある一つ一つ
を申し上げ、重荷を主のもとに下
ろした。しばしの時間であったが、
心を注ぎ出し、主と交われた。すると
午後からの時間、心が潤い、安らぎ
と喜びが戻り、すっかり変えられて
いる自分を発見した。どんな状態
の中でも、そこで主を見上げ、主
を呼ぶ時、再び御霊のもとに導き
返される。しんどくて苦しい状態なら
何よりその事をありのまま主に告げよう。
---------------------
主から離れて自分の力で動き回る
時、私たちは徐々に枯れてしまう。
律法の下に置かれてる事に気付い
たなら主から力を得て御霊による
歩みに変えよう。


2008年07月28日(月)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり・・将来と希望を与えるためのものだ」エレミヤ29:11

バビロン捕囚は、その事だけを
見れば絶望であった。しかし、
結果的に見れば、神の民は捕囚
によって悔い改め、神に立ち返
る事ができた。信仰の回復がな
された。70年後にエルサレム
に帰還させるとの、神の約束も
成就される事になる。奇跡がな
された。「あなたがたのために
立てている計画」・・バビロン
補囚が「神の計画」だと言われ
る。見えるところ絶望と挫折と
混乱であったが、神にとっては
平安と将来と希望のための計画
であった。神は私たちにとって
は不都合、マイナス、あっては
ならぬ事、行き詰まり、そのよ
うな事態を引き起こされ、神の
意図される方向へ導いて行かれ
る。そしてそれは、「あなたの
ため」の計画だと言われる。綿
密に計って立てられた、あなた
の益と、あなたの将来のための
出来事だと。目の前の事は痛い、
苦しい、辛い事態かも知れない。
しかし、実はあなたのための最
善がなされている。痛い所を、
苦しみを通って初めて、真に神
に出会う。人は自我の固い殻に
おおわれている。痛みや苦しみ
によって、その自我の殻が砕か
れる。高慢が砕かれる。高慢す
ら自分でわからず、何の問題も
無いと思っている。苦しみの中で、
初めて自分がいかに高慢であっ
たかを知る。苦しみは神にあって
必ず喜びへと通じている。後に、
苦しみにあった事は幸せだった
と心底言える。あの苦しみがな
ければ、自分はどうなっていたか
わからないと。
-----------------------
痛い目、辛い目、恥ずかしい目
に会わなければ自分がどんな者
かも知らずに生きていただろう。
自分の計画を捨てる事もなく、
神様を求める事も、見出す事も
なかった。


2008年07月27日(日)

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」ルカ5:4

この時、ペテロは、徹夜で漁を終え、
一匹もとれなかった。懸命に労したが
徒労に終わり、心身疲れて消耗しきっ
ていた。しかし、そんな中で、今一度
網を下ろすようにと言われた。今まで
幾らやってもだめだった。どんなに頑
張っても何の成果も無かった。長年の
家族や友人への証し、又、あの事、こ
の事が思い浮かぶだろうか。、しかし、
主はもう一度網を下ろすようにと言わ
れる。大きな祝福が待ち構えていると。
又、ある人にとっては、現状況と御言
葉が相反するだろうか。この時間帯に
魚などいるわけがない。しかし、主は
魚をとれと言われる。目に見える所と
御言葉が真反対だ。そんな時は、どう
判断すれば良いのか。「でも、おこと
ば通り」目に見える所でなく、御言葉
の方に従おう。又、あなたはいつまで
も岸にとどまっているだろうか。そん
な人には、「深みに漕ぎ出せ」と言わ
れている。ある人々は決して岸を離れ
よとしない。神を信じて、沖へ向かっ
て漕ぎ出せと。主から語られているな
ら、はっきりと御言葉を行なうことだ。
ずっと従う事にグズグズしてきたこと
があるだろうか。従うべく決心して沖
へ出よう。大漁が大きな祝福が待って
いる。
・・・・・・・
自分にとっては、「深みに漕ぎ出し
て」はどういう意味だろう。何か実行
すべき事を示されているなら、従おう。


2008年07月26日(土)

「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです」Tペテロ4:2

私たちは勘違いする。自分の欲望を満
たす事、自分の思い通りになる事が幸
せだと思ってしまう。欲望が遂げられ
るなら、心満たされるとの根深い価値
観があり、欺かれてしまう。決して満
たされる事はない。「この水を飲む者
はだれでも、また渇く」欲望を満たし
てもすぐに渇く。そのため、次から次
へと対象を替えて行く。決して心を満
たす事はない。井戸ばたのサマリヤの
女性が、5回の結婚と5回の離婚を重
ね、現在同棲していた。彼女は男性が
自分を満たし、自分を幸せにしてくれ
ると信じていた。だから、結婚がうま
く行かないと、相手の問題と相手さえ
変わればと、何度も繰り返した。しか
し、満たされる事はなかった。相手で
なく自分の問題であった。今も多くの
人々が欲望を満たす事が幸せの道、人
生の目的と思っている。欲望は人によ
って違う。富だったり、名誉、地位、
人からの賞賛を、人の注目を浴びるこ
と、自己顕示、自己実現、優越感を感
じること、人からの羨望を得る事・・、
しかしそこに満たしは無い。真の幸せ
と満足は、神の御心を歩むところにあ
る。御言葉に従って行く時、神を真に
知って行く。痛い苦しい試練こそ自分
を変え、キリストに似た者と形造って
くれる。自己中心な者が、神のご性質
にあずかる者とされている。何という
感謝と喜びだろう。
・・・・・・・・・
肉とサタンは絶えず誘惑し、欲望を満
たすようにと働いて来る。そこに満た
しはなく、ますます心は渇く。神との
生き生きとした交わり、神のご愛の中
に真の満たしがある。神を求めよう。


2008年07月25日(金)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」イザヤ30:15

信仰生活で、神に従い、御言葉
に従って歩んでいる中で、時に
「荒野」のような場所に導かれ
ることがある。経済的困窮や対
人関係で悩みが生じる。いわれ
のない中傷や非難を受けたり、
親切をもって対応しているに関
わらず、辛く当たられる。突然
の病やけがを負う。又、突然、
孤独の中に入れられる。真っ暗
なトンネルの中で、なかなか出口
が見えず、いつまでたっても光
が見えない。この苦しみは一生
続くのではないか。一生闇は抜
けないのではと思えてしまう。
そんな時に、誘惑が来る。失望
落胆の誘惑、気力が萎えてしま
う誘惑、気力が失せると何の希望
も持てなくなり、心が弱る。
神を頼っていて何になるのか。
神は何もしてくれない。このまま
では、だめになってしまう。自分
で何とかしなくては、自分で立っ
て、自分で動いて、成し遂げな
ければ。それがサタンの誘惑だ。
神を信じていて何になる、自分
で何とかせよと、主の40日40夜
の断食後に来たサタンだ。神など
頼っていてどうなる。さっさと自分
で石をパンにすればよいと。神へ
の信頼を止めさせ、自分の力に
頼らせる。あなたにもこの誘惑が
来ているなら、サタンだと見破り、
静かに落ち着いて主を信頼しよ
う。主から救いが臨む。
------------------
何が悪かったのか、どうすれば
もとに戻るのだろう、と突然の荒
野に知恵をしぼる。例えどんなに
間違っていたとしても悔い改め、
神様に頼り切っているなら必ずそ
こから導き出して下さる。


2008年07月24日(木)

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」ガラテヤ5:24

ある人が海外留学を志し、道が
開かれ、皆から大々的に歓送会
をしてもらい、意気揚々と出発
した。ところが翌年、書類上の
ミスで帰国しなければならなく
なった。どうやっても滞在許可
が下りなかった。主の御心で来
たのに、どうしてなのか、納得
も行かず、悶々状態で、主の御
前に心の内をさらけ出し、祈り
に祈った。その時、帰国したく
ないのは、主の御心だからでな
く、どんな顔をして帰ればよい
のか、人は何と言うだろう、人
に笑われる、人を恐れている自
分に気づいた。中途半端で終わ
る自分が惨めで恥ずかしい。結
局、自分、自分と、自分の事だ
けであった。主の御心などと、
たいそうな事を言いながら、実
は自分の欲望、自分をどこまで
も貫こうとする強固な自我、自
己中心を見せられた。心から主
の御前に悔い改めた。主の赦し
を受け取り、平安が臨んだ。心
安らかになりすっきりした。状
況は何も変わらないのに、むし
ろ心に喜びが溢れた。自分の頑
なな自我が、欲が、自分を苦し
めていたのだった。心が自由に
されて、どうであれ主の御心が
成る事が、喜びであり、願いに
なった。私たちも苦しんだり、
心が真っ暗になっている時、あ
るいは自我によるかも知れない。
主の御前に洗いざらいを申し上
げ自由にして頂こう。喜びと平
安が返る。
----------------
主のお取り扱い無くしては気付
けない握っているものを、逆風
の中で知る。すぐに感謝できな
いけれど必ず捨るよう助けられ、
祝福の平安が来る。


2008年07月23日(水)

「この子のために、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました」Tサムエル1:27

ハンナの悩みであり問題は、子供がい
ない事であった。当時は、子供のでき
ない女性は神から祝福されていないと
の迷信もあり、ハンナの苦しみは大変
なものであった。夫のエルカナにはも
う一人の妻ペニンナがいて、多くの子
供がいた。しかし、エルカナはハンナ
を愛していたので、ペニンナは嫉妬し、
ハンナに辛く当たった。そのいじめに
も何年も悩み苦しんだ。夫の慰めもハ
ンナの癒しにはならなかった。悲しみ、
苦しみ、いら立ち、何年もの間、真っ
暗なトンネルの中にいるようだった。
涙ながらに子供が与えられるよう、祈
りに祈り続けたであろうが、答えはな
かった。どんなにか苦しみの中にいた
事だろう。しかし、胎を閉じておられ
たのは主であった。神には、いつもご
計画がある。「あなたのために」立て
ている計画だ。ハンナは非常な苦しみ
と悲しみ、辛さの中で、自分の悩みば
かり見つめていた目を神ご自身に向け
た。神に自分の思いのたけをぶつけて、
神を仰いだ。その時、神に焦点が合っ
た。神には、この事に目的と計画があ
る事を悟った。当時は霊的暗黒時代で
あった。神を崇めず、神殿でも不道徳
がはびこり、社会は堕落し、霊的指導
者が求められていた。神はハンナの祈
りを用いて、サムエルを生み出そうと
計画された。ハンナはサムエルを世に
送り出すという尊いみわざのために、
神に用いられた。私たちの苦しみにも
ご計画がある。平安と将来と希望のた
めのものだ。
・・・・・・・・
今、目の前の思うようにならない事態、
悶々の事柄に、神の意図と目的、計画
がある。状況でなく神に視点を置く時、
見方が変わり、神は何を教えようとし
ておられるのかを求めて行く。


2008年07月22日(火)

「・・ききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた」Uサムエル21:1

ダビデの時代に3年間の飢饉が
続いた。3年間の飢饉は厳しく
辛い。その時、ダビデは「何と
か豊作に。どうかあわれんで下
さい。助けて下さい」と祈った
のではなく、主の御心を求めた。
神はその祈りに答えられ、サウ
ルとその一族に血を流した罪が
あり、ギブオン人を殺したゆえ
と告げられた。サウルが熱心
の余り、殺してしまったのだ。
そこでダビデは、ギブオン人が
求める償いを成し遂げた。正し
くなすべき事がなされた後、「
その後、神はこの国の祈りに心
を動かされた」。私たちも、幾
ら祈っても祈りが答えられない
時、原因を考えてみる事が必
要だ。あるいは、その祈りが御
心に適っていないかも知れない。
的が違うかも知れない。御心で
ない祈りは、幾ら祈っても答え
られない。ダビデは主の御心を
伺った。私たちも、もし答えら
れない祈りがあるなら、どれだ
け祈っても何の感触も無ければ、
祈り方を変える必要がある。又
、なすべき事、矯正すべき事があ
るのかも知れない。ある人は、
延々祈り続けるが、何だか感触
が無い。そこで御心を求めた時、
なすべき正しい事がわかっている
のに、恐れと不安で実行できない、
そのためダラダラと祈り続けて
いる事を示された。「前進せよ」と
示された。必要なら、立ち止まって
御心を伺おう。正しく導かれる。
---------------------
叶えられない祈りの中に神様の
御心があるのかもしれない。御
心を尋ねていこう。今やりたい
事と今するべき事は違うのでは
ないだろうか


2008年07月21日(月)

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は・・ご自身の愛を明らかにしておられます」ロマ5:8

ある女性が結婚後、嫁姑問題に
ぶち当たった。又、夫との関係も
思っていたものとは違い、考え
方、価値観や嗜好、習慣の違い、
様々な事が思っていた以上に異
なり、悶々状態となって行った。
仕事多忙で、コミュニケーション
の時間もなく、イライラが募る日
々、不平不満でいっぱいで相手
をさばき、責める。自分の非を
認めたくない自我、強い自我に
苦しむ日々、そんな自分に自己
嫌悪にも陥る。主の御前に赦し
を求めるが、そのしりから相手
を責める思いがむくむくと湧き
上がる。苦しみの日々を数年経
て、とうとう疲れ果ててしまい、
もう限界で、これ以上やって行
けないギブアップ状態になった。
姑との確執、夫と喧嘩ばかりの
日々、もう結婚生活を続ける事
ができないところまで、追い込
まれた。「この結婚を明け渡し
ます。同じ事ばかり繰り返す自
分自身を、もうどうにもできま
せん」と全面的に自分自身を明
け渡した。その時初めて、今ま
でわかっていると思っていた
主の十字架が、真に自分のため
である事が迫り来た。罪しか
犯せない自分だからこそ、だから
主が十字架で死んで下さった事
がわかり、心底からの悔い改め
が与えられた。今まで味わった
事のない平安と喜びに満たされ
た。祈りながらも、ずっと自分で
何とかしようとしていた事がわか
った。どん底こそが、実は最大の
恵みの場所だった。
-----------------
どん底で待っていて下さる神様
に出会えた事が恵みだ。罪がわ
かった時、壁のシミも十字架に
見える。へりくだったお委ねで
きる時こそ恵みの時だ。


2008年07月20日(日)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16            

誰かへの憎しみ、怒りで心が一杯にな
る事があるだろうか。そんな時は、神
に近づけない。神を避けてしまうだろ
う。憎しみは罪だと知っているので、
自分で神から距離を置いてしまう。自
分が憎むのは当然と、相手を責める心
がある。まさに自我であり、自分は悪
くないと自分を正当化する。自我は、
自分を神の位置に置き、人をさばく。
しかし、これではいけないとの、もう
一人の自分がいる。その自分は、御霊
の声を聞く。助けを求めて主を仰ぐ。
自分のありのままを主に申し上げて、
導きを祈る。御言葉に向かい、主が語
って下さるように求める。そのように、
御霊の導きを求め、御霊に従って歩ん
で行く時、その目は主に向いている。
その時、肉にではなく、御霊に従って
歩める。どんな状況でも、主に向きさ
えしたら、おおいが取り除かれる。肉
に歩んでいる時、神や御言葉が吹っ飛
んでしまう。しかし、御霊は必ず働か
れ、助け、促される。その時、肉は抵
抗し、反抗する。自我は自分を通し、
権利をどこまでも主張して来る。しか
し、その時に、御霊に従い、御霊の導
きの方を選択する事だ。肉がどんなに
抵抗しても、御霊の導きの方へ意志を
向ける。そうするなら、助けが臨む。
そこに神の愛があるからであり、その
時、神の愛を知って行く。
・・・・・・・・・
肉は強いが、必ず御霊の助けがあり、
御霊の促しや語りかけがある。御霊は
働いておられるので、必ず働きかけが
ある。その御霊の導きに従う時、自分
の力でなく、従って行ける。


2008年07月19日(土)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13

私たちは新しい性質と、生まれつきの
古い性質がある。御霊に導かれて生き
る時、平安と喜びの中で、生き生きと
生きて行ける。だが、古い性質、肉に
従って行くと、途端に信仰生活がしん
どくなる。油の切れた機械のごとく、
重く、苦しくなり喜びは失せる。そん
な時、どうすればよいのか。「もし、
御霊によって、からだの行ないを殺す
なら、生きる」。怒り、妬み、敵対心
が心に起きて来た時に、どうするだろ
う。怒りはいけない事、妬み、憎しみ
は罪と、自分の力で抑えつけ、我慢し
ているか。その我慢をずっと続けると、
近い内に必ず爆発する。そこに厳然と
あり、ただ抑え込んでいるだけだ。あ
る婦人は、主の御心であるから、夫に
仕えようと良い証しになるようにと、
相手の態度や言葉でイラつくのをひた
すら我慢して、仕える。すると、必ず
定期的に不満が爆発してしまい、元も
子もなくなってしまう。自分の力で、
肉で我慢しているからだ。そうではな
く、自らの怒りや不満を、無い振りを
せず、又、ごまかさず、自己弁護せず、
一つ一つ認めることだ。洗いざらい主
に申し上げ、自分で抑え込んだり、何
とかする事を止め「自分にはできませ
ん」と助けを求め、頼って行くことだ。
その時、御霊の助けを経験する。自分
にはできない事が、御霊によってでき
るようにされる。御霊によって生きる
ことを実地体験して行く。
・・・・・・・・・
抑え込んでふたをしたり、無い振りし
たりせず、正直にあるがままを、主に
告げよう。自らの妬み、憎しみ、怒り
を認め、悔い改めて、明け渡し、常に
主に頼る事を続けよう。必ず変えられ
て行く。


2008年07月18日(金)

「私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負っていません」ローマ8:12

御言葉は「肉」をどう言っている
のか。神は、キリストを罪深い肉
と同じような形で遣わされた。肉
体を取られ、人となられたキリス
トが、十字架で肉の処罰を受け、
肉の全責任を負って下さった。十
字架で肉に対して決着がつけられ
た。私たちの肉は、すでにキリス
トにおいて処罰されているので、
肉に歩む責任は無い。しかし、肉
に歩む責任は無いに関わらず、肉
は私たちに迫って来る。神は「何
も思い煩わないで・・願い事を神
に知っていただけ」と言われる。
「何も」だ。何と感謝な事だろう。
今、あなたのその心配事、その不
安材料もだ。しかし、肉は「そん
な事あるものか。そんな何もかも
神任せなど、無責任だ。心配しな
いでいいはずなどない。ちゃんと
心配しなければ」と言って来る。
肉は、思い煩うべきだと言い、心
配しないと不安なのだ。思い煩う
と安心する。それは肉に従って歩
む責任を、肉に対して負うことだ。
自分の肉も、人の肉に対しても、
それを負い、合わせる責任はいっ
さい無い。肉の声を聞かずに、御
霊の声を聞いて、従って行く事が
大切だ。そして、御霊の導きを受
けた時、自分にはできないと捨て
てしまったり、放っていないか。
その時に、放り投げるのでなく、
「私にはできないので、助けて下
さい」と祈って行く時、できるよ
うにして下さる。肉に従うなら死
ぬが御霊に従うなら、生きる。
-------------------
肉の思いを自分で負うなら必ず敗
北だ。肉は主が負って下さった。
恵みを無駄に受けず、十字架をみ
るか、肉を見て行くか、選択して
行こう。


2008年07月17日(木)

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」へブル12:11

ある人が、家族や親族に懸命
に証しをしていた。どうして
も救われて欲しい一心だった
が、一生懸命になればなるほ
ど、親族からは拒否反応が出
た。妹にも話せば話すほど、
心頑なにするのだった。心を
閉じていて、「その信仰は嫌
い」と言われてしまった。や
がて家族から離れ、遠隔地で
仕事を始めたが、仕事が
うまく行かなかった。紆余曲
折を経て、何もかも失い、行
き詰まり、痛手を負い家に戻
った。家族としばらく生活した
が、妹が「お姉さん変わった。
今のお姉さん好き」とが言った。
以前の自分がいかに鼻持ち
ならない高慢であったかを
知らされた。苦しみにより、
砕かれたのだ。妹は証しに
耳を傾けてくれた。試練は、
決して嬉しいものではなく、
痛くて悲しい。苦しみは耐え
難く辛い。しかし、自分で自分
を砕くことはできず、自分でどう
する事もできない。高慢は砕
かれるしかない。苦しみが、
高慢を砕いてくれる。「苦し
みに会ったことは、私にとっ
て幸せでした。それであなた
のおきてを学びました」苦し
み通して、神に出会い、その
中で神の恵みを知って行け
る。「私たちの益のため・・ご
自分の聖さにあずからせよう
として、懲らしめる」懲らしめ
により、聖められて行く。
------------------
砕きがなければ、神様からの
恵みや哀れみを肌で感じる事
はないだろう。へりくだる事が
なくて、どうして尊い主の十字架
を証しする事が出来よう。


2008年07月16日(水)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6

創造主なる神は、私達一人一人を目的
を持って、今それぞれがいる場所に置
かれた。一人一人の人生に計画を持っ
ておられる。しかし、時に苦しみが余
りにも大きすぎて、なぜこんなに苦し
まねばならないのか、どこにご計画が
あるのか、全くわからない時がある。
苦しみと辛さに押しつぶされそうにな
る。目の前を見ていても何も見えない。
囲碁で、布石と言われるものがある。
それは、序盤において全局的な構想に
立って置く石だ。先を見通した上で、
予め石を置いておく。その時には、そ
の石は何の意味も無いように見える。
しかし、段々と進む内に、それが大き
な意味を持って来る。私たちの信仰人
生にも、神は布石を置かれる。そして、
ずっと後になると、その意味がわかる。
なぜ、こんな苦しみに会うのか、こん
な理不尽な事が起こるのか、その時に
はわからない。しかし、後に、あの苦
しみがあったから、今の自分がある。
こんなに祝福された今がある。あの苦
しみが無ければ、今の自分は無い、と
必ず言える時が来る。ヨセフも数々の
理不尽な苦しみを通った。その苦しみ
の意味がはっきりとわかったのは、
「後になると」だった。ヤコブや兄弟
達を救い出すためであった。そして、
ヨセフ自身も訓練され、練られきよめ
られて行った。この苦しみに計画があ
り、益となるとの見方に立つ時、すで
に祝福に入れられている。
・・・・・・・・
神は無駄な事、無意味な事も一つもな
い。今はわからないが、見えないが、
パズルが埋まるように、やがて見えて
来る。しようとしている事をご存じで
あるお方に委ねていよう。


2008年07月15日(火)

『「私は主に対して罪を犯した」ナタンはダビデに言った「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」』Uサムエル12:13

ダビデは正義に立ち、信仰によっ
て敵と戦って来た。ダビデは人々
の尊敬の的であった。そのダビデ
が誘惑に陥り、罪を犯した。部下
の妻と姦淫し、その夫を殺害した
のだ。一年以上隠しおおし、口を
つぐんでいた。神が預言者ナタン
を遣わされた。素晴らしい信仰者
ダビデも罪を犯した。私たちには
古い罪の性質がまだあるので、油
断しているとサタンの罠にはまる。
全軍が生死をかけて戦いの前線に
いる時に、先頭に立っているべき
王が、夕方起き出すという怠惰な
状況で誘惑に陥った。ナタンの指
摘によって、隠していた罪を認め、
悔い改めた。誰にも知られずとも
神は見ておられる。神は自発的に
悔い改める事を待っておられる。
ダビデがバテシバとの罪をすぐに
悔い改めていたなら、ウリヤ殺害
には至らず、敵の手に渡される事
もなかった。悔い改めない罪は敵
にも知られ「主の敵に大いに侮り
の心を起こさせる」事になった。
敵は常に攻撃材料を狙っている。
私達の罪は、神に敵対する人々に、
非難の口実を与えてしまう。尊敬
を失い、人々を真理から遠ざけて
しまう。ダビデは多くの人のそし
りとなり、攻撃の的となり、四方
八方みな恐怖であった。しかし、
悔い改め、赦された者は、罪の泥
を吐き出し、心に安堵が来る。四
面楚歌であっても、罪赦された事
による、大海のような平安を得る。
神との交わりが回復する。
--------------------
試練、逆境の時は神様を呼び求め、
御翼の下に見を低くするが、傲慢
になり油断しているなら、すぐに
サタンは近づいてくる。常に罪を
意識しそのつど悔い改めて行こう。


2008年07月14日(月)

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」Uテモテ3:14

飛行機や船を操縦する時、人
間の感覚に頼らず、計器に頼
って飛行や航海をする。計器
に頼らなければ、大空で大海
で、自分の感覚に頼るならば、
事故を起こし遭難する。信仰
人生も同様だ。計器に頼らず、
自分の感覚に頼るとトラブル
をひき起こす。正しい判断が
できないからだ。では、どう
すればよいのか。計器に頼る
なら確かで安全だ。計器はみ
言葉だ。人生行路を自分の感
覚を頼らず、みことばに頼っ
て歩む時、確かな正しい歩み
ができる。夜遅く初めて行っ
た山奥で、誰一人いない中、
道に迷った時の不安は恐ろし
いものだった。私たちも信仰
人生どう歩み、どちらへ向か
えば良いのか、わからない時
がある。そんな時、み言葉は、
真っ暗な中、足もとを照らし
指針を与えてくれる。「神の
み思いは?神はどう言ってお
られるのか?」を聞いて行く
時に、正しい判断ができて、
神の御心にかなった歩みがで
きる。もし、今、問題があり、
行き詰まっているなら、立ち
止まって考えてみよう。「す
べてのことについて感謝」で
きるのに、恐れ、不安、心配、
不満でいっぱいなら、神の目
ではなく、自分の思い、自分
の感覚で見ているからだ。視
点にずれがある。落ち着いて、
静まって、神が何と言ってお
られるかに、まず耳を傾けよ
う。
---------------
力強い約束のみ言葉に緑の色
えんぴつで線を引いてみると、
日毎に聖書が緑で染まって行
く。神様が語られたひとつひ
とつの言葉はまぎれもなく自
分のものだ。


2008年07月12日(土)

「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21

神は私たちをロボットではなく、人格
を持つものとして創造された。人格を
持つとは、自由意志を持つ事だ。ロボ
ットに自由意志は無い。神は私たちに
自由意志を与えて下さった。愛とは自
由な意志に基づくからだ。強制の中に
愛は無い。愛とはどこまでも自発的で
自由なものだ。それゆえ圧迫されて、
強いられてでなく、自発的に神に仕え
る事を望まれる。神は自由意志を尊ば
れるので、私たちにいっさい無理強い
や強制をなさらない。御言葉は種であ
り、私たちの心は土地であるが、心が
御言葉を受け入れるかどうかは、自由
意志に任せられる。受け入れる事も、
拒否する事も自由だ。そして結局は、
御言葉を受け入れるか、拒否するか、
どちらかを選択している。強いられて
でなく、自由意志によって、受け取っ
た御言葉が、心の深い部分に入り、神
のわざがなされる。私たちを生かし、
新たにする。御言葉は霊であり、いの
ちであるからだ。御言葉は生きている。
そして、「私を変えて下さい」との態
度で、御言葉に向かうなら、必ず新た
にされ変えられて行く。御言葉がわか
るのは、自分が変わろうとしているか
らだ。そうでなく、御言葉を自分に合
わせようと、あくまでも自分の都合と
自分を押し通すなら、御言葉を拒否して
いる。それは道ばたの固い土地で、サ
タンが御言葉を奪って行ってしまう。
御言葉が入らない限り、変わりようが
ない。自らの態度を点検、吟味して
みよう。
・・・・・・・・
信仰に束縛と強制は無い。もし強いら
れて、しんどい信仰生活ならどこかが
間違っている。主の命令は重荷とはな
らない。愛は自由であり、喜びだ。主
は自由に、自由にして行って下さる。


2008年07月11日(金)

「わたしがあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかった」エレミヤ7:12

ドライブをしていて道に迷った
事があるだろうか。どうしても
わからなければ、地元の人に道
を尋ねるだろう。そうすれば目
的地に着く事ができる。ある男
性はプライドゆえ、道を人に尋
ねる事を嫌う。自分の判断と自
分の力で進みたい。しかしプラ
イドを引っ込め、片意地張らず、
聞けば助けを得る。信仰生活も
同様だ。聞くなら、内に住まわ
れる御霊が、私たちの進むべき
道を教え導かれる。今、あちこ
ち頭をぶつけ、行き詰まってい
るだろうか。道に迷っているか。
主に頼らないで、自分で歩んで
いる事に気づいて、へりくだろ
う。御霊の導きを求めよう。肉
の性質が根強くあるので、しば
しば主に頼らずに自分で歩んで
しまう。なぜ聞かないのか。自
分の思いが強くて、思い通りに
歩みたい。又、余りにもなすべ
き事が山積で、目の前の事に精
一杯で心に余裕がない。又、自
分の欲望や願望が強すぎて、心
をふさいでしまう。自我は心を
頑なにする。御霊は様々な事を
通して気づかせて下さる。手痛
い失敗によって。自分の判断と
思いで歩むと失敗する。又、大
きな問題にぶち当たる事によっ
て。行き詰まる事は幸いだ。立
ち止まって御声を聞こう。主の
御声に耳を傾けるなら、行き詰
まっていた問題も、大きな問題
も、道が開かれて導かれて行く
。必ず乗り越えて行ける。まず
主の御前に静まろう。
----------------------------
苦境の時、主を忘れて自分の判断
と自分の力で突き進んでいないか。
主はいつも側におられる。自分の
思いをいったん置いて主の御声を
聞く時、必ず答えはそこにある。


2008年07月10日(木)

「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」マタイ26:39

ある人が糖分制限を医師から言い
渡されていた。ケーキ店に近づいた
時、こんな祈りをした。「主よ、ケ
ーキを買う事が御心でしたら、駐車
場が空いていますように。御心でな
ければ空いていませんように」ケー
キ店に来ると駐車場が空いていた。
笑い話のようだが、これに近い事を
私達もしていないだろうか。自分の
プランをしっかり決めていて、主よ
、御心示したまえと祈る。しかし心
ではすでに定まっている。定まって
いるなら、無意識にそれに反する御
言葉は排除してしまう。わかってす
るなら、とがめも来るが、無意識に
するので自分でも気づかない。自分
に都合の良い御言葉を選んでしまう。
間違いに進まないためには、自分の
願望を一旦、主に渡す事だ。明け渡
すのだ。主のもとに置く時、それが
真に主からのものであれば、返って
来るし、そうで無ければ戻らない。
それならその方が良い。もし、主か
らのものであれば、揺るがない平安
と共に返って来る。そして、確信を
与えられて前進して行ける。私たち
の祈りは、「私は」「私は」だろう
か。発想を転換して「主は」私に何
を願っておられるのか、「主は」私
に何を求めておられるのか、じっく
りと祈りの中で聞いてみよう。それ
こそ御心にかなった主の喜ばれる祈
りだ。その祈りは必ず聞かれる。
----------------
神様の御心を求めようとする時、あ
まりにも強い自分の思いがあると見
極めがつかなくなる。御心のように、
右でも左でも、の態度になれるよう
まず、その思いを神様に委ねよう。


2008年07月09日(水)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7

信仰生活で、がっかりする事を経験す
るだろう。時に続いてしまう事もある。
目の前の出来事に、状況に、失望落胆
してしまう。気落ちし、気力が失せ、
何をする力も湧かない。そのどん底に
いる時は、神が見えなくなってしまう。
働かれている神が見えない。失望落胆
が神をさえぎってしまうのだ。自分の
目の前に10円玉を置けば、太陽が見
えなくなってしまうように。しかし実
際は10円玉より太陽の方が遙かに大
きい。目の前にそそり立ち膨大に見え
る問題より、神の方が遙かに大きい。
自分が10円玉を見てしまっていると
認識しよう。問題から目を離して、神
を見上げよう。「耐えることのできな
いような試練に会わせ」られない。
「試練とともに、脱出の道」がある。
「わたしがあなたがたのために立てて
いる計画」がある。
運命にほんろうされているのではない。
神の御手の内だ。神のご意志が織りな
されている。「災いではなくて、平安
を与える計画であり」将来と希望のた
めのものだ。今、落胆しか感じる事が
できないが、これが必ず素晴らしい益
と結実して行く。通って良かったと言
えるようにされる。問題だけに目が囚
われていないか。神を見て、御言葉を
心の底に受け取ろう。「何も思い煩わ
ないで・・」「何も」だ。あなたが今、
心ふさがれている、その事もだ。
・・・・・・・
思い煩う必要の無い根拠がある。神が
心配して下さるからだ。不安でたまら
なその事を神が心配して下さっている。
何と嬉しい事だろう。その状況の中だ
からこそ、配慮し心配し包んで下さっ
ている主を知れる。


2008年07月08日(火)

『それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いやどうしても、私たちの上に王がいなくてはなりません」』Tサムエル8:19

イスラエルの民がサムエルに王を求
めた。サムエルは主に祈ると、主は
「民の声を聞き入れよ。それはあな
たを退けたのではなく、このわたし
を退けたのだから」と言われた。主
に示された通り、サムエルは民に厳
しく警告し、王の権利を告げた。自
分たちの王ゆえに、助けを求めても、
その日、主はあなた方に答えて下さ
らないと。しかし、民はサムエルの
言う事を聞こうとせず、どうしても
と王を求めた。その時主は、彼らの
言う事を聞き、一人の王を立てよと
サムエルに言われた。時々、自分の
肉の思いで、私たちが画策した事、
又、計画した事が成功するように見
える事がある。その時の間違いが、
これは神が認めて下さったと思って
しまう事だ。しかし、そうではない。
後になって、苦しい刈り取りをする
事になる。神が導かれたのではなく、
私たちが頑なな意志で、どうあって
も行くというので、神が許されたに
過ぎない。その結ぶ実が、苦い訓練
となって自分に返って来る。「あな
たがたは王を求めて、主のみこころ
を大いにそこなった」民は王によっ
て苦しめられ、懲らしめを受けた。
自分の都合の良い御心は、実は自己
中心なわがままだ。わがままな道を
行く時、懲らしめられる。そして、
その懲らしめこそが、神の深い愛で
あることを知る。
------------------
神様は気付きを与えるために私達の
肉の思いを用いられる。うまく行く
ように見えてもその実の結果は明ら
かだ。懲らしめはもう一度立ち止ま
り神様に尋ね求めよとの導きだ。


2008年07月07日(月)

「それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は主に叫び求めた」士師6:6

士師の時代は暗黒時代であり、イス
ラエルは自分勝手に歩んだ。「そこ
で、主は七年の間、彼らをミデヤン
人の手に渡した」。そこで、主は非
常なる苦しみを通された。民は敵に
攻められ、山の洞窟やほら穴で生活
をし、又、種を蒔くと、常に襲われ、
収穫を荒らされ、敵はいなごの大群
のように来て、家畜の餌すら残さなか
った。これらは自らの罪のなせるわざ
であり、主は気づきを与えようとされ
た。大変なせっぱ詰まった状況だった
ろう。住まいを追われ、洞穴生活で、
食糧はすべて持って行かれ、どんど
ん切迫し、追い詰められて行った。と
うとう苦しみの余り、民は主に助けを
叫び求めたのだ。これは、神に立ち
返らせるために、神が送られた苦難
だ。人は、ギリギリのせっぱ詰まった
状況にならない限り、神を求めない。
平穏無事な生活の中では、神無しで
生きてしまい、神無しで、何の支障も
なく生きて行けてしまう。今、あなたも
問題があり、悩みがあり、ストレスの
中にいるだろうか。神を新たに知る機
会だ。主に叫ぼう。民が苦しみの中で、
主に叫び求めた時、主は祈りに答え
られ、一人の預言者を遣わされた。
そして、主はギデオンを召し出し、敵
を打ち負かされた。主は必ず叫び求
める、その祈りに答えて下さる。同様
に、あなたにも御言葉示し、指針を与
え、周囲の人を通し、助言を与え、導
いて下さる。
------------------
ギリギリの状況は心から神様に叫ぶ
時を与えてくれる。今まで知らなかっ
た神様の栄光を拝し、神無しで動き回
ってしまう愚かさを学ぶ事ができる。状
況の後ろに神様がおられる。呼び求め
よう。


2008年07月06日(日)

「マケドニヤへ出かけることにした・・確信したからである」使徒16:10

確信は大切だ。パウロは「確信した」
とあるように、神は導きを与え、「確
信」を与えて下さる。この箇所では導
きは環境によって示される。パウロは
アジヤとビテニヤ方面をストップされ
たわけだ。もし環境による阻止が無け
ればそちらへ行っていた事になる。そ
ちらでなく、マケドニヤに渡り、ヨー
ロッパ伝道という大きな御心が用意さ
れていた。あっちもこっちも閉ざされ
て、戸惑いにあっただろうが、確信が
与えられたので、行動できた。神には
人の思いとは異なる、深い高いご計画
がある。目の前の道が閉ざされたから
と悲観、悲嘆する必要はない。あなた
に遙かに良い別の道があるという事だ。
結果的にそれは最高の道だ。環境の閉
じ開きは、主の御心だ。閉ざされたな
ら別の道だ。又、環境が開き、御言葉
が与えられ、不安がなく平安があれば
ゴーサインだ。導きを得るためには、
一番大切な事は、自らの意志を明け
渡す事だ。右でも左でも、御心のまま
にとの態勢でいる時、必ず示される。
そして、必ず御霊の「確信」が与えら
れる。「確信したからである」の通り、
あなたの求めている導きに、今必要な
ものが「確信」だろうか。確信が与え
られるよう祈ろう。  
・・・・・・・・・
導きに対して、御霊の「確信」が与え
られる時、行動に移れる。そして、そ
の確信は、御心を行う上で様々な困難
に会った時も、揺るがない土台となり、
進んで行ける。確信は大切だ。


2008年07月05日(土)

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」詩篇84:5 


悲しい事や苦しい事、理解に苦しむ事
が起こる。未信者にもクリスチャンに
も同じように起こる。しかし、違いは、
神を信じる人は、どんな悲惨な出来事、
どんな悲しい苦しい事の中にも、そこ
に神を認めて行く。そのまっただ中に
神がおられ、神の愛、慈しみ、助けを
実際に体験して行く。神を信じない人
は、どんなに奇跡的な素晴らしい事が
あっても、そこに神を決して認める事
は無い。そこの相違だ。信じる人は何
を見ても、どんな出来事が起きても、
そこに神を認め、神の愛を認める。ど
んな問題や悩みが来たとしても、神を
信じているから、そこを泉の湧く所と
する。そして、その中に神を見、新た
に神に出会って行く。信仰とはそうい
う事だ。どんなに耐え難いような出来
事が起きても、神を信じる人は、そこ
に神を見る。だから、痛みの中にも、
心の奥底に深い平安を経験し知ってい
る。もし、思い煩い、焦り、恐れ、不
満があるなら、神以外のものを頼り、
見ている事になる。真っ直ぐに神を見
上げよう。その時、その所こそ、泉
の湧く所である事を、神は深く味わわ
せて下さる。
・・・・・・・・
涙の谷を、泉の湧く所として下さる。
十字架から愛と癒しと慈しみが流れ
出る。十字架の下に立って、十字架
を見続けよう。そこに解決があり、深
い平安に包まれる。


2008年07月04日(金)

「互いの栄誉は受けても唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたはどうして信じることができますか」ヨハネ5:44  

二つの栄誉を言っている。人か
らの栄誉と神からの栄誉だ。人
からの栄誉は、人間同士で受け
合うものだ。人に誉められ、自
分が栄光を受ける。心には優越
感なる喜びがあり、自己満足が
ある。もう一方は神からの栄誉
であり、神から来るので、人に
は誉められない。むしろ理解さ
れない。私たちは、神からの栄
誉は欲しいが、肉は人からの栄
誉を求めている。見えない神か
らの栄誉などよりも、目に見え
るものが欲しいのだ。しかし、
どちらもという事はあり得ない。
神の栄誉を求めるなら、人から
の誉れはない、人からの評価は
得られない。人の栄誉を求める
と、神を犠牲にし、神を無視す
る事になる。人の賞賛を求める、
肉の欲求は強烈だ。自分が崇め
られ、肉の欲が満たされる。こ
の箇所のユダヤ人達は、御父が
御子を遣わしたと言っても受け
入れない。しかし、自分たち同
士の事は受け入れ合う。これは、
神の言葉ではなく、自分の思い
を土台にする見方に問題がある
と言われた。神と神の言葉の上
に立つのでなく、どこまでも自
分が中心だ。それは神を愛して
いないし、神を信じることがで
きないと。自分が主権を握って
いるから、自分で取捨選択して、
自分の思いを取り、神の言葉を
捨てる。ここが問題であり、こ
の根本的自分中心が砕かれる
時に、神を信じ愛して行けると。
自分の土台は御言葉か、それと
も自分の思いだろうか。
--------------
み言葉に従うなら、捨てて行か
なければならないものがある。
目の前の賞賛に心奪われてしま
い、従う方を簡単に捨ててはい
ないだろうか。


2008年07月03日(木)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6

信仰生活で、自分とうまく行か
ない、嫌な相手と遭遇する。近
隣であったり、職場、学校であ
ったり、親族であったり様々だ。
なるべく避けようとする。会い
たくないので、環境を変える。
どうしても嫌なら、職場を変え
たり、引っ越したりする。しか
し、その移った職場で、引っ越
した先で、又、同じような相手
に出会うのだ。又環境を変える。
だが、同じ事が起こる。経験者
がいるかも知れない。何度も繰
り返し、長年かかり、やっと相
手でなく、環境でなく、自分の
問題だと気づく。これもなかな
か気づかない。どう見ても相手
が問題だとしか見えない。これ
に気づいた時、状況は変わらな
いのに、帰るべき所に帰った深
い平安に包まれる。「羊のよう
にさまよっていたが、自分のた
ましいの牧者のもとに帰った」
感覚だ。解放感と安堵感で心が
満ちる。状況しか見えていなか
った目が、神を見る。本当の問
題は自分の高慢だ。人を赦そう
としない頑なな心であり、自分
の内にも実は妬みや虚栄やプラ
イドがある。相手が悪いに、す
り替わるので全く見えない。本
当の問題が見えた時、解決が来
る。どんな中でもやって行ける。
ある人がバイト先を、常に対人
関係で、転々としていたが、目
が開かれた時に止んだ。一つ所
で、様々な主の訓練を、学びを
受け、自分が変えられ、喜びと
成長が与えられている。
-------------
自分の歩む道にまず神様を認め、
ることが先だ。自分自身の問題
を示され、真実に変わろうとす
るなら見るべきものは、神様と
自分。人や環境はその後だ。


2008年07月02日(水)

「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた」マタイ25:16

1タラントは、ざっと計算すると6000
日分の給料、約20年分、まあ言えば3
億、1億2千、6千万円と任されたよ
うな感じだ。「能力に応じて」ゆえ、
出来ない働きは与えられていない。各
自、無理のない可能な働きが与えられ
ている。「すぐに行って」時を無駄に
せず、精一杯の事をした。「よほどた
ってから」短期間でなく、長期間忍耐
もって忠実に労した。主人に喜ばれた
いとの一心でベストを尽くした。一タ
ラントの者は主人を誤解していた。ひ
どい人、自分達を苦しめる冷酷な主人、
つまり「あなたが恐い」と言っている。
失敗したならひどい目に会うと、地に
埋めた。減らさなかったなら文句無い
だろうと。しかし例えば職場の長があ
なたに6千万任せたらどうか。能力、
力量を見込んでのはずだ。1タラント
の者も能力を見込まれ、信頼されての
事だ。しかし主人の心がわからない。
神観が間違っていると、愛も喜びも感
謝も生まれて来ない。あなたの神観は
どうだろう。恐いから従い、絶えず要
求して来る神だろうか。それならこの
しもべと同じだ。又、他のタラントと
比較していじけているか。タラントに
関係無く主人の評価・ほめ言葉は同一
だ。喜ばれるのは「忠実」だ。主人は
失敗のリスクも負って、愛ゆえ私達を
信頼して委ねられた、その信頼に、お
心に応えて行こうとする時、喜びを実
感する。
・・・・・・・・・
信頼して、タラントを任せて下さった
主のお心を思う時、「ねばならない」
でなく、信頼に応えて行き「たい」思
いが湧く。主をお喜ばせしたい心で動
く時、自分にも喜びが満ちて来る。


2008年07月01日(火)

「王よ。あなたのしもべダビデについて罪を犯さないでください。」Tサムエル19:4

サウルはダビデに嫉妬し、命を
狙っていたが、ヨナタンや家来
全員にダビデを殺す事を宣言し
た。ダビデを愛するヨナタンは、
何とかダビデを助けようとする。
愛する父親と、愛する親友との
狭間でヨナタンはどんなに、苦
しく辛かった事だろう。父親に
はっきりと進言する事は、勇気
が要ったろう。しかし、ヨナタ
ンはその事が言える位置、立場
にいた。エステルもユダヤ人殺
害の法令が発布された時に、王
に嘆願できる位置にいた。他の
誰も取って代わる事のできない、
その時、その場所にその人物を
置かれたのは神だ。ヨナタンは
ダビデの事をよく知るゆえサウ
ルに執りなした。ヨナタンは自
分にできる自分の使命を果たし
た。エステルもそうだった。私
たち一人一人も、今現在、置か
れている場がある。あなたの位
置と立場だからこそ、できる事
がある。あなたにしかできない
事だ。置かれている意味を捕ら
え、自分に与えられた使命を果
たして行こう。又、ダビデにと
れば、ヨナタンは真実な心底信
頼できる、良き助け手であった。
死と隣り合わせにあったダビデ
に、ヨナタンの存在はどんなに
救いであり、慰めであったろう。
まさしく神の備えであった。あ
なたにも、あなたをいつも支え、
励まし、目を神へと向けてくれ
る信頼できる助言者、助け手が
いるだろうか。それは神が、あ
なたに与えられたものだ。
------------------
今置かれている所は神様から遣
わされた場所、恵みと支えの中
に生かされて来た場所だと知っ
て生きるなら新しい祈りの課題
もまた見つかる。