2008年08月21日(木)

「門からはいる者は、その羊の牧者です・・羊はその声を聞き分けます」ヨハネ10:3


神は私たちを御心の道に導くた
めに、絶えず御声をかけて下さ
っている。しかし、様々な声が
混ざり合う。神の御声と共に、
サタンの声、自分の肉から発す
る声、人の声・・色々な声が混
線していて、実際どれが神の御
声なのか、わからなくなる事が
ある。サタンは光の天使に偽装
するので、神の声を真似る事が
できる。しかし、神の御声には、
ある種の特徴がある。その声に
聴く時、心に平安があり、静け
さと落ち着きがあり、穏やかで
且つ力強い。愛から出ているも
のであり、赦しがあり、考えも
無しに人を傷つけない。断じて
神の御声でないものは、がなり
立て、責め立てるもの。急かせ、
焦らすもの。疑いや不信感を起
こさせるもの。人を非難、中傷
するもの、自分を惨めにし、落
ち込ませるもの。恐れや湧き上
がる怒り。御霊は罪を示される
が、はっきりと一点を指摘され、
その罪を悔い改めるよう導かれ
る。サタンは漠然と非難し責め
立てる。明確な一点がなく、何
もかもが悪く、漠然としていて
平安が無い。御霊の指摘とサタ
ンの攻撃を識別する事は大切だ。
悪魔は「兄弟たちの告発者、日
夜彼らを神の御前で訴えている
者」であり、周囲への不満、裁
き、怒りはサタンの常套手段で
ある事をわきまえよう。乗って
はならない。御霊に助けられ、
神の声に聴き、肉とサタンを拒
否しよう。
----------------
思いの中にやって来る二つの声
を聞き分ける事ができる。心立
ち騒ぐ時、しずまって考えてみ
よう。主の御声はどれだろうか
と。必ず教えてくださる。


2008年08月20日(水)

「すべての人が時と機会に出会うからだ」伝道9:11

信仰人生で「時」は大切だ。「天の下
では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある」、すべて
に「神の時」があるからだ。マリヤが、
結婚のために少しづつ貯えた、何百万
とも言われる高価なナルドの香油のす
べてを主イエスに注いだ。主が十字架
にかかる前であった。マリヤがこの行
為をする事ができたのは、後にも先に
も、この時だけであった。この時を逸
しては、この愛は表わせなかった。葬
りのためにと、マリヤ一人が主イエス
の十字架の死を理解していて、自分に
とって最も大切な自分のすべてを献げ
きった。これはどんなに主をお慰めし
た事だろう。この事は世界中に福音を
宣べ伝えられる所で語られると言われ
た通りだ。マリヤは、後にも先にも無
いこの「時」を捕らえた。そして、主
への愛を献げ、表わすことができた。
ザアカイは主を求めて木にまで登った。
「丁度その時」主イエスと目と目が合
った。この時を捕らえなかったなら、
ザアカイはどうなっていただろう。私
たち一人一人にも、主は「時と機会」
を与えておられる。その時と機会を逃
さないでいたい。今、あなたの前に、
主のために思いきった決断をする事柄
があるだろうか。時を逃さず、捕らえ
よう。主の栄光を拝する。
・・・・・・・
機会は、逃す事も、つかむ事もできる。
目が主に向いている時に、その時と機
会を悟り、従う事ができる。耳を澄ま
し、御声に耳を傾け、祈っていよう。


2008年08月19日(火)

「翌朝早く、アブラハムは・・息子イサクをいっしょに連れて行った・・こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った」創世記22:3

アブラハムに試練が臨んだ。
「神は、試練に会わせられた」
とある通りだ。神からの試練だ
った。愛するひとり子イサクを、
全焼のいけにえとして献げよと。
アブラハムにとって、どんなに
苦渋と苦悩の一晩であった事だ
ろう。目に入れても痛くない最
愛の子供だ。それも神が賜った
約束の子供だ。年老いたアブラ
ハムはまだ自分が死んだ方が
良かったろう。最愛のイサクが
死んでしまう・・それにイサクか
ら子孫が増え広がるという神の
約束は一体どうなるのか・・し
かし、アブラハムは、神を信じ
た。神にはイサクをよみがえら
せる事ができると。アブラハム
は「翌朝早く」神の命令に従っ
た。「早く」というのは真理だ。
主の命令には、「早く」速やか
に従うのが良い。早く従えば従
うほど、従いやすい。一旦グズ
グズするなら、そこにサタンに
機会を与え、正当そうな言い訳
や口実や理由が幾らでも出て
来る。その内、サタンに説得さ
れてしまって、必ずや従えない。
あなたにも過去に経験あるだろ
う。大きな祝福があればあるほ
どサタンは妨害して来る。ぐず
ぐずし、従う事が遅れれば遅れ
るほど、従う事に大きなエネル
ギーが要り、結局、従えなくな
ってしまう。あなたが今この状
態なら、すぐにきっぱり従おう。
大きな祝福を逃さないために。
--------------
礼拝の時に、み言葉を読んで
いる時に交わりの時に、導きを
感じることがあるだろう。御心な
らばすぐに従おう。祝福を逃さ
ないように。


2008年08月18日(月)

「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」創世記4:7

カインとアベルが献げ物を持
って来た。アベルの献げ物は
受け入れられ、カインの物は
受け入れられなかった。その
時、受け入れられなかったカ
インは激怒した。しかし、神
は「あなたが正しく行なった
のであれば、受け入れられる」
と言われ、問題はカインの側
にあり、正しく行っていなか
った。「正しく行なったので
あれば、まっすぐ立っておれ
ばよい」とある。神の前に動
機と行為が正しければ心に不
安なく平安であり、まっすぐ
に立っておれる。私たちの日
常生活もしかりだ。動機が正
しければ、心にやましいとこ
ろなく立っておれる。カイン
は自らを省みる事なく、問題
が神の側にあるとばかりに怒
った。そして、矛先をアベル
に向け、激しく嫉妬し憎んだ。
「正しく行なっていないのな
ら、罪は戸口で待ち伏せし」
あなたを支配してしまう。
「あなたはそれを治めるべき
である」、罪を悔い改めるこ
とだ。でなければ、そのまま
にしておくと、罪に飲み込ま
れ、支配されてしまう。それ
が罪の恐ろしさだ。アベルを
殺害した後も「アベルはどこ
にいるのか」と神は、尚も悔
い改めの機会を下さった。神
へのいけにえは、砕かれたた
ましい、砕かれた、悔いた心
だ。神はそれを喜んで受け入
れて下さる。そして完全な赦
しを与えて下さるとは、何と
いう恵みだろう。
----------------
罪を罪として認めなければ、
私達は悔い改める事もなく
神様に、はむかってさえ行く
者だ。罪を認識するともに誘
惑から守られるよう主に祈ろ
う。


2008年08月17日(日)

「その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる」イザヤ2:11

エデンの園での罪とは、「あなたがた
が神のようになり」との誘惑のごとく、
人は奢り高ぶって、自分を神として生
きて行く事だ。それは自分の力で生き
る事であり、自力で生きて行くのは、
自分を神の地位に置くことだ。この奢
り高ぶりから守られるには、砕かれる
しかない。人は砕かれない限り、決し
て、伏して神にあわれみを求める事は
できない。生まれつきの性質は、神無
しで、神に頼らずに、自力で生きて行
く。砕きは、神の深い愛だ。砕かれな
いままで放って置かれたなら、神を離
れて、自分を神として生きて行く。根
深い罪の性質があるからだ。人は自分
に向き合う事は決してしたくない。自
分の弱さは直視しない。放蕩息子がど
ん底に落ちぶれた時に「我に返った」
ように、神が痛みと苦しみを与えられ
る時に初めて、我に返る。神を仰ぎ見、
自らの状態を省みる。こてんぱんにく
じかれて、高慢が打ち砕かれて、初め
て神の御前にひれ伏し、神のあわれみ
に拠りすがるようになる。人の生まれ
つきの性質は高慢だ。この高慢はくじ
かれて初めて、御前にひれ伏す。これ
こそが神の愛でありあわれみだ。あな
たの過去を振り返り、この砕きを見い
出す時、そこに神の愛を再確認しよう。
痛い辛い悲しいその事が無ければ、高
慢になって、今頃滅んでいたかも知れ
ない。神の愛を受け取り直し、認め、
今一度感謝を献げよう。
・・・・・・・
砕かれない限り、高慢はどうにもなら
ない。神のようになるとのエバへの誘
惑通り、自分が神であり、罪の性質だ。
一つ一つの心裂かれる痛い事が、実は
神のあわれみであり、ご愛だ。でなけ
ればどうなっていたかわからない。


2008年08月16日(土)

「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです」Uコリント11:14

サタンの特に巧妙さは、誘惑する時に、
神に変装する事だ。神に見せかける、
正しい、麗しい事に見せかける。目的
のために、手段を正当化させてしまう。
目的が正しいのだから、どんな手段で
も構わない、目的さえ達成すればよい
のだと誘惑して来る。子供のためだと
思い、親のエゴを平気で突き進める。
家族に楽をさせるためだと、金銭的に、
貪欲に誤った方向に走ってしまう。間
違ってはいけない。これはサタンの誘
惑であり、攻撃を受けている。神は目
的も手段も、きよい正しい事をされる。
神は人に自由意志を与えられた。この
自由意志は、神もサタンも関与できな
い。サタンはこの自由意志に触れる事
ができず、強制する事が不可能なので、
巧妙な手段を取る。何度も何度も、繰
り返し、繰り返し、執拗に誘惑する事
によって、いつしか罪に引き込んでし
まうのだ。絶えず、絶えず欲望をかき
立てられ続けるなら、必ず行動に至っ
てしまう。必至だ。人は見続けている
事を必ず行動に移す。私たちを神から
引き離そうとしている、サタンが絶え
ず鵜の目鷹の目で、獲物を狙っている
事を、片時も意識から離してはならな
い。悪魔が「策略」を持って、臨んで
来ている事に心していよう。今、偽装
光の御使いからの誘惑が来ているだろ
うか。御霊の光が気づかせてくれる。
・・・・・・・
悪ならすぐにわかるが、良い事をもって、
神から離す。サタンの偽装をわきまえて
いよう。神から離せばよいので、善でも
悪でも構わないわけだ。御霊が気づか
せて下さる。祈っていよう。


2008年08月15日(金)

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」詩篇1:2

主は「何も思い煩うな」と
言っておられる。「何も」だ。
まさに今、現在あなたが思い
煩っている、その事も含まれ
る。思い煩わなくて良いとは、
苦しみからの何という解放だ
ろう。しかし、尚も思い煩う
のが私たちだ。心の底の底を
見て行くと、確かに思い煩い
を選択している。苦しくてそ
れから逃れたいはずなのに、
はっきりと選択している自分
がいる。思い煩いから逃れた
いのに、心配していないと不
安なのだ。冷静になって考え
ると、思い煩いの対象をその
事を寝ても覚めても考えてい
る。ずっと思い煩いが襲い
、思い煩う度に、その不安は
更に強化され、強固なものと
なりモンスターのようになっ
て行く。いつも思っているの
だから、ますます強固になり
膨れ上がるのは、当然だ。人
はその思う通りの人になって
行く。自分で思い煩いをどん
どん育て上げている。つまり
は、サタンが、思いに吹き込
む火矢を拒否しないで、受け
入れ、同意し続けている結果
だ。サタンが思い煩いに誘惑
し、攻撃している。否定的に
繰り返し繰り返し考え、尚も
考え続け、心が崩壊するまで
考え続けるかも知れない。御
言葉をそれほど繰り返し繰り
返し思い、常に思い続けたら
どんなに良いだろう。それほ
ど御言葉に思いを潜めるなら、
御言葉が自分の思いとなって
行く。何という幸せだろう。
---------------
肉の内にある者は肉のことが
頭から離れない。そんな時、
約束のみ言葉に立ち戻ろう。
主が守り、愛し祝福していて
くださる。肉の思いが来たな
らみ言葉を繰り返し自分にメ
ッセージしよう。


2008年08月14日(木)

「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」Uコリント9:6

献金は大きな祝福だ。この祝福を奪う
ためにサタンは必ず妨害して来る。古
い性質には欲があるため、なかなか献
げられない。ある人は「前もって用
意」5´するよう御霊から示されてい
た。銀行で下ろそうと思うが後回しな
り、時間を失った。礼拝では手持ちが
なく渋った。すると帰路で車のトラブ
ルに会い数万の出費をした。ある時も
御霊からの示しに関わらず、家計の不
安をあおるサタンの声に耳を貸した。
献げられなかった帰途、交通違反で罰
金に。放っておかれない神のご愛がむ
しろ嬉しく感謝だったと。別の人は困
窮状態のため祈り求めていると、もっ
と献げよと示され、支払いも滞る状況
だが、御霊に従い信仰によって思いき
って献げた。すると、思いもかけない
所からすべての必要額が満たされた。
身をもって従う事の祝福を知った。肉
は一から十まで自分の事だけを考え、
自分の損得で動く。絶対に損はしない。
出すのは嫌で、得る事に喜びを感じる。
しかし、新しい人は損得でなく、神の
御心が判断基準だ。例え損になっても、
神に従い、御言葉に従って行く。そし
て大いなる喜びと祝福を刈り取る。金
銭を献げようとする時、必ずサタンが
欲に働き、妨害して来る事を覚えよう。
しかし、信仰によって従う時、大きな
みわざを見る。又、新たに主の愛を知
り、喜び満ちる。そして更に与えられ
る。
・・・・・・・・・
富を蓄えるために生きているのではな
い。主の御心を行ない、主に喜ばれ、
主を知るために生きている。御心の真
ん中にいる、大海のような揺るぎない
平安は、他の何にも代えられない。


2008年08月13日(水)

「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて・・走り続けようではありませんか」ヘブル12:1

今、重荷があるだろうか。又、まとわ
りつく罪に手を焼いているだろうか。
足もとにまとわりついていては、決し
て走る事ができない。あなたのまとわ
りつく罪は何だろう。競争相手への嫉
妬、敵対心、傷つけた相手への恨み、
憎しみ、性的な罪、噂話や悪口、怠惰、
イライラ、批判、さばき、口やかまし
い事・・それらはいつも主に告白して
悔い改めては、繰り返してしまうだろ
うか。いつも、とがめが心にあって辛
く苦しくなるだろうか。それなら「心
が元気を失い、疲れ果てて」しまう。
信仰生活、走るどころか、疲れてヨタ
ヨタ歩きだ。こんな時には一人で戦う
のでなく、一緒に祈ってもらうと良い。
「互いに罪を言い表わし、互いのため
に祈りなさい。いやされるためです」
互いに罪を告白し合い、祈り合う時、
祈りが聞かれ、主の大きな力が働く。
そして「信仰の創始者であり、完成者
であるイエスから目を離さないでいな
さい」今も何を見ているだろう。目の
前の苦しい状況か、その大変さ、厳し
さか。それなら落ち込むだけだ。心が
暗くなり、ネガティブになり、真っ暗
な底に沈んで行く。「イエスから目を
離さないでいなさい」目の前の大変さ
でなく、主を見上げる時、どんな時も
希望があり、新しい力が湧く。主から
目が離れていたなら、今、見上げよう。
・・・・・・・・・
人は二つのものを同時に見ることは
できない。主を見ていたら、状況や
問題、自分を見ていない。逆に問題
や自分に飲み込まれているなら、主
を見ていない。どちらかだ。目を主に
向けよう。


2008年08月12日(火)

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです」Uコリント6:12

私たちは、自分で自分の心を狭めて行
く。人から狭められるのでなく、自分
でどんどん狭くして行く。自分の罪を
認めなかったり、御霊の導きを無視し
たり、なおざりにしたり、御霊の促し
を拒み続けると、心が固くなってしま
う。自分の側で心を閉ざしてしまうの
だ。すると、ますます人に耳を傾ける
事ができなくなり、自己中心の自我の
殻にとじこもり、批判、非難、攻撃的
になり、誰も自分をわかってくれない、
自分は可哀想の自己憐憫に陥る。建設
的、前向き、信仰的な心の態度が失せ、
心を屈折させて行く。ネガティブな思
いに支配されてしまう。そうすると、
分裂や不一致を引き起こして行く。救
いに至る悔い改めへと導かれるには、
必ず自分の「罪」に、向き合わなくて
はならない。しかし、人は自分の非を
認めたくない。人に悩みの相談をする
のも、解決を求めてというよりは、自
分の気持ちに同意して欲しい。解決で
なく同意を求めて気持ちを楽にしたい
だけだ。しかし御言葉は、真の解決を
与えるために、手術し膿みを出すため
に真実を明らかにする。だが、自分の
真の姿は見たくない、余りにも痛い。
だから耳をふさいでしまう。しかし平
安と喜びに至る道は、とにかく「耳を
傾ける」事だ。どんなに痛くても耳を
傾け、御霊の導きに従う事だ。
・・・・・・・・
日常で、ネガティブに物事を見ると、
全然祝福が見えなくなる。全く見えな
い。見事に見えなくなる。真っ暗闇だ。
経験するところではないだろうか。現
状を「感謝」してみよう。そこから信
仰の領域に入れられる。


2008年08月11日(月)

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです」Uコリント6:12

私たちは、自分で自分の心を狭
めて行く。人から狭められるの
でなく、自分でどんどん狭くし
て行く。自分の罪を認めなかっ
たり、御霊の導きを無視したり、
なおざりにしたり、御霊の促し
を拒み続けると、心が固くなっ
てしまう。自分の側で心を閉ざ
してしまうのだ。すると、ます
ます人に耳を傾ける事ができな
くなり、自己中心の自我の殻に
とじこもり、批判、非難、攻撃
的になり、誰も自分をわかって
くれない、自分は可哀想の自己
憐憫に陥る。建設的、前向き、
信仰的な心の態度が失せ、心を
屈折させて行く。ネガティブな
思いに支配されてしまう。そう
すると、分裂や不一致を引き起
こして行く。救いに至る悔い改
めへと導かれるには、必ず自分
の「罪」に、向き合わなくては
ならない。しかし、人は自分の
非を認めたくない。人に悩みの
相談をするのも、解決を求めて
というよりは、自分の気持ちに
同意して欲しい。解決でなく同
意を求めて気持ちを楽にしたい
だけだ。しかし御言葉は、真の
解決を与えるために、手術し膿
みを出すために真実を明らかに
する。だが、自分の真の姿は見
たくない、余りにも痛い。だか
ら耳をふさいでしまう。しかし
平安と喜びに至る道は、とにか
く「耳を傾ける」事だ。どんな
に痛くても耳を傾け、御霊の導
きに従う事だ。
-----------------
自分の思いに捕らわれているなら
いつまでたっても出口は見つから
ない。御霊の導きに従えないのは
なぜなのか、不自由になっている
心を見つめてみよう。


2008年08月10日(日)

「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばには、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21

人は御言葉によって形造られて行く。
御言葉は霊であり、いのちそのものだ。
御言葉が私たちの心の奥深くに響き、
入る時、私たちは新たにされる。御言
葉に霊が宿っているからだ。しかし、
これには条件があり、自由な自発的な
意志のもとでだ。
自由意志が必要だ。ロボットは言う通
りの事をするが、そのものの意志は無
い。自由意志がないのがロボットだ。
神は人格を持っておられ、私たちにも
人格を与えて下さった。その人格を尊
重される。つまり、自由意志を尊重さ
れる。決して強いられる事はない。首
に縄をつけて引かれる事はない。どこ
までも自由意志に任せられる。だから、
御言葉を心に受け入れるかどうかの選
択は、私たちの自由意志に委ねられて
いる。受け入れる事も拒否する事もで
きる。自由だ。御言葉への関わりはこ
の二つしかない。あからさまに拒否は
しないが、聞き流し受け入れないだろ
うか。自分に都合の悪い、痛い御言葉
は心に入れない。密かに心を閉ざして
しまう。聞きたくない。しかし、これ
は拒否と同じだ。自由な自発的な意志
が必要だ。自由意志で、心に自ら受け
取る時、必ず私たちは新しくされる。
変えられる。御言葉にはその力がある。
御言葉には問題無いが、私たちの聞く
態度はどうだろう。あなたにとって聞
きたくない、痛い言葉こそが、あなた
を変えてくれる最も必要な御言葉だ。
・・・・・・・・・
痛い御言葉に向き合おう。うすうす気
づいているその部分だ。気づいている
から避ける。自我に触れ、頑なな部分
に触れている。その所を解き放ち、自
由にし平安にして下さるためだ。逃げ
ないで御霊に心を探って頂こう。


2008年08月09日(土)

「さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう」使徒7:34

モーセは40才の時に、虐げられてい
る同胞イスラエルを救いたいとの志を
持った。しかし、それは見事に挫折し
て、命を狙われ、遠くミデヤンの地に
逃亡するはめになった。そこで遊牧生
活を送る事になり、結婚し、子供も生
まれた。40年間、荒野で羊を飼う生
活にあった。長い歳月を見渡す限りの
荒野で過ごし、エジプトでの王子とし
ての地位も栄華もすべて過去のものと
なり、一介のただの羊飼いだ。長い年
月となると、それはそれで居心地の良
い場所となっていたかも知れない。そ
のモーセが80才になった時、神から
召し出されたのだ。40才の意気盛ん
な時でなく、年老いてからだ。モーセ
は文武にたけていた。王子の立場なら、
地位も名誉も、力も富も強大な影響力
も人脈も持っていた。しかし今や地位
も影響力も何も無い一介の羊飼いだ。
しかし、神はこのモーセこそがふさわ
しいとされた。神が用いられるのは、
雄々しい軍馬ではなくロバの子だ。何
もかも剥ぎ取られ、砕かれたモーセだ。
神は立派な器でなく、砕かれた器をご
自身のために用いられる。この40年
が必要であった。神は荒野でモーセを
砕かれ整えられた。そして、神はモー
セが何と40才の時に抱いた志を叶え
て下さった。神のための志を、神は喜
ばれ、ふさわしく整えて、神の時に成
し遂げて下さる。
・・・・・・・・・
何も無い荒野での羊飼い、40年をか
けて主はモーセは造り変えられた。思
うようにならない厳しい歳月こそ、実
は主が着々と器を整えておられる大き
な恵みの中だ。主の時にご用が臨む。


2008年08月08日(金)

「そのやぎは、彼らすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ」レビ16:22

贖罪のささげ物について書かれて
いる。アロンは自分の罪のための
いけにえとして雄牛をささげ、自
分と家族のために贖いをする。そ
して二頭のやぎを取り、一頭は主
のため、一頭はアザゼルのためと
する。主のためのやぎをささげ、
罪のためのいけにえとする。自分
と家族のために雄牛をほふり、イ
スラエルのために先ほどのやぎを
ほふる。そしてもう一頭の生きて
いるやぎの頭に、アロンが両手を
置き、民のすべてのとがとそむき
を、どんな罪であっても、全部そ
れの上に告白し、これらをそのや
ぎの頭の上に置き、係の者の手で
これを荒野に放つ。このやぎは、
イスラエルのすべての罪を背負わ
され、荒野に放たれる。水も食糧
も無い、気象条件も過酷な荒野で、
やぎはどうなるのか。生き延びる
事は到底不可能で、やぎは衰え、
死に絶えて行く。とがと罪を背負
わされたやぎは死に絶え、朽ちる。
これは十字架の象徴だ。私たちの
罪はこのような結末を迎える。主
に告白した罪は朽ちる。十字架上
で、ほふられ、いけにえとなられ
た主イエスが罪をすべて背負われ
た。その罪は朽ちて、主の死と共
に贖いが成し遂げられた。罪は死
に絶え、主イエスはよみがえられ
た。過去の罪をほじくり返すのは
無意味だ。朽ちて、死に絶えたの
だから。感謝し、主を称えよう。
--------------------
罪は赦されたというのに、もう少
し敬虔になって、もう少し徳を積
まなくてはと肉が責める。主の十
字架を無駄にしてはならない。そ
して二度と馬鹿な罪を繰り返さな
い事が恵みを無駄にしないことだ。


2008年08月07日(木)

「なぜなら、キリスト・イエスにある、御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」ローマ8:2


「罪と死の原理」、原理とは「法則」
の事だ。万有引力の法則が働いている
ので、木からリンゴが落ちるように、
物は必ず下に落ちる。法則とは例外が
ないという事だ。リンゴがジャンプし
て木にくっつく事はあり得ない。そし
て私達の内側には「罪と死の原理」が
働いている。批判されると何倍返しで
でも報復したい、思い通りにならない
とイライラする、人に勝ちたい、能力
や人気のある人を妬む、嫌な相手を憎
む、欲しいものは得たい、こんなもの
がどんどん湧き出てくる。これが「罪
と死の原理」だ。木からリンゴが下に
落ちるように全く自然に働く。リンゴ
を落とさないためには、どうすれば良
いか。手で受け止めれば地面に落ちな
い。この手で受け止めるのが「いのち
の御霊の原理」だ。引力の法則は働い
ているが、受け止めると落ちない。つ
まり別の更に強い力が同時に働くから
だ。以前の法則はそのままあるが、そ
れよりも強い法則が働く時に解放され
る。いのちの御霊が働く時、批判され
ても仕返しでなく、祈ろうとする。思
い通りにならなくとも、最善をして下
さる主に委ねようと祈る。そして平安
でおれる。困難は自分で何とかせず、
神に信頼し、委ねて行こうと思える。
私たちが御霊に頼って生きて行く時、
この「いのちの御霊の原理」の中にい
る。罪と死の法則があるに関わらず、
解放されて生きて行ける。
・・・・・・・・・
自分で頑張るほど、責めと、とがめと
辛さにがんじがらめだ。できませんと
明け渡して行く時、古い性質はあるに
関わらず、このいのちの御霊の原理を
経験する。心に喜びと安堵と平安が満
ちて来る。別の領域にいる。


2008年08月06日(水)

「また、みことばを実行する人になりなさい・・こういう人は、その行ないによって祝福されます」ヤコブ1:22


ある人が二度目の国家試験に臨
んだ。志を同じくする友人も一
緒だった。その間も生計を立て
ねばならず、アルバイトをしな
がらの受験だったが、全力を尽
くして備えた。これ以上できな
いほど勉強した。今度こそ合格
と思えた。結果発表の日、ダメ
だった事がわかった。ガックリ
と落胆した。一緒に勉強した友
人は合格した。心は沈み、羨ま
しい気持ちと、正直なところと
ても祝福できなかった。しかし、
これでいいはずはないと祈った。
すると、御霊は、喜ぶ者といっ
しょに喜びなさいと言われる。
祝福の言葉をかけるよう促され
る。自分はしたくないし、でき
ない。でも、主に従いたいと思
った。主に助けを求め、決心し
て「おめでとう、良かったね。」
と短い言葉だが、祝福のメール
を送った。すると、自分の心の
モヤモヤもすっきりして、平安
になった。この祝福に、相手は
思った以上に喜んでくれて、と
ても感動したようだった。自分
はバイトも全部辞めてしまい、
又、今から探さねばならず、こ
れからどうしようかと思ってい
たが、何とその相手が、高額の
バイトをそっくりそのまま譲っ
てくれたのだ。主に従うことの
祝福を経験した。御霊の促しに
従おう。そのために「できませ
ん。助けて下さい」と祈ろう。
従えるように助けて下さる。
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素直にみ言葉に従えない時も多
々あるが、従えば平安の鉄則も
私たちは知っているのだ。「でき
ません、助けて」と祈ろう。必ず
御霊様が助けて下さる。


2008年08月05日(火)

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18:12


謙遜とは、物腰を低くする事では
ない。「いえいえ、私などは」と
口では言いつつ、心の中では相手
を見下げ、自らを高めていたりす
る。サウルがサムエルの命令を守
らず、良いものを惜しみ、値打ち
の無いものだけを聖絶した。その
時、その罪をサムエルから指摘さ
れ、サウルは、弁解しながらも罪
を認めた。そして、赦しを乞うた。
しかし皆の前で面目を立てて欲し
いと願った。つまり、民達には知
られたくないと。これは謙遜では
ない。真の悔い改めではない。真
に、神の御前に悔い改める時、体
裁や体面など及びもつかない。入
る余地などない。ただただ自らの
罪が見えるだけだ。その結果、全
き赦しを受け取り、新たにされる。
謙遜とは悔い砕かれた心だ。神は
それを軽しめられない。ダビデが
ナタンから罪を示された時、心が
砕かれた。罪を告白し、全き赦し
が与えられた。謙遜は自らの罪を
認める。アダムは、自分の罪と恥
を知った。その結果、自分を隠し
た。自分の罪、失敗を見て、恐れ
た。神は、そのアダムを見捨てら
れない。アダムを探し、アダムに
問いかけ、悔い改めのチャンスを
下さった。しかしアダムは自分の
責任、弱さ、罪を認めず、エバに
責任転嫁してしまった。謙遜、へ
りくだりとは、自らの罪を認める
ことだ。痛みを伴い辛い事だが、
赦しと解放の大きな恵みにあずか
る。心が楽になり、平安が臨む。
-----------------
私達は弱くて罪ばかり犯す。けれ
どその弱さに正直でいよう。高慢
になり犯した罪を認めない者にな
らずどこが弱いのかしっかりと悔
い改め神様に明け渡そう。


2008年08月04日(月)

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」ヘブル4:16

ある人が、目まぐるしく多忙な日々
を過ごしていた。次から次へとこな
さなければならない仕事が目の前に
あり、少しづつ、神が後回しになっ
て行った。その内、祈りの時間も失
せて行った。自分の思い、自分の知
恵で歩むようになった。祈りが無く
なり、御言葉も心に全く入らなくな
った。心に響いて来なかった。悪循
環になり、ますます自己中心になり、
イライラ、ピリピリして、思い通り
にならない周囲をさばいて行った。
仕事も更に忙しく、心に余裕がなく、
しんどくてたまらなかった。余りに
心が苦しくなり、聖書を開いた。し
かし、御言葉は全く心に入らない、
ただの文字にしか過ぎなかった。祈
ってもみたが、何の変化も無かった。
心重く、しかし心渇いて次の聖日に
礼拝に行った。その時、礼拝で賛美
する十字架の歌詞が、心にぐいぐい
迫り、しみた。何もかも捨てられた
主、死にまで、実に十字架の死にま
で従われた主、主のその犠牲の愛、
主の真実が、乾ききったスポンジが
水を吸い込むように、心にしみ込ん
で来て、メッセージ共に心が溶かさ
れ満たされて行った。真実なる主は、
苦しみの中から祈った、その小さな
祈りを確かに聞かれたのだ。その祈
りに答えて下さった。どんな小さな
祈りも聞かれている。主のもとに行
き告げよう。
-------------------
忙しいならその事を、イライラする
ならその思いを祈りの中で告げてみ
よう。霊的状況が悪いように思えて
も事ごとに祈るなら実は、神様にと
ても近いのではないだろうか。


2008年08月03日(日)

「もしあなたがたの心の中に、苦い妬みと敵対心があるなら・・そのような知恵は上から来たものではなく」ヤコブ4:15            

ある人がサークルでリーダーをしてい
た。人々は、その分野に詳しい知識を
持つ彼女に一つ一つ聞いて来た。それ
だけでなく、彼女を信頼し慕って、日
常生活の悩みや問題を相談して来た。
時間と労力を取られ、実際大変であっ
たが、親切に対応を心がけた。しかし、
ある時、体調を崩し、リーダーを代わ
ってもらった。余りの多忙に、責任が
解かれた事に、最初は喜び安堵した。
段々身体も回復して来た時に、皆が新
しいリーダーを慕い、その人の所へ相
談を持って行き、その人に人気が集ま
っている事に、妬みで一杯になった。
心が辛く苦しくてたまらず、悶々状態
となり、その思いを神のもとへ持って
行き、ことごとく神に告げて祈った。
その時、なぜ妬むのかに思いが至った。
すると、自分はもう必要とされていな
いという恐れに、縛られている事がわ
かった。皆から頼られていたかったし、
必要とされていたい、だからそれを奪
ってしまったかに見える新しいリー
ダーに嫉妬したのだ。その心は自分で
どうにもできない。妬みを悔い改め、
「自分にはどうにもできません」と主
にそのまま明け渡し、主の喜ばれる心
と交換して下さるよう祈った。すると、
心がすっきりし、晴れ晴れとした。平
安が戻った。その人を応援し支えよう
との新しい心に変えられた。どんな時
にもすぐに主のもとへ行こう。
・・・・・・・・
主のもとへ行き、洗いざらい心を何も
かも告げて行く時、不思議だが心落ち
着き、そして、自分の罪を知る。悔い
改め赦される。心すっきりし、平安に
なる。


2008年08月02日(土)

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」詩篇62:1   

      

信仰生活を歩み始めると、信仰人生、
自分の思い通りにはならない、という
事がわかってくる。神の思いと自分の
思いが違うのだ。自分の思いとしては、
これが最善!と思うが、そのように事
は運ばない。神の思いは違う。そして
振り返る時、自分の思い通りにならな
くて良かった!と必ず思える。あのま
ま進んでいたならどんなに恐ろしい高
慢に陥っていただろうと。しかし、今、
目の前の事が思い通りにならないと、
やっぱり同じように焦りや不安で一杯
になる。神の方法と神の時がある事を
覚えよう。絶妙のタイミングで神は事
をされる。神の定めた「時」がある。
それ以前に幾らもがいてもどうにもな
らない。それより安んじて待とう。人
は先が全く見えない。目先の事しかわ
からない。神は何もかも見通しておら
れる。その神を信頼しよう。又、人は
自己中心というメガネをかけているの
で、物事が歪んで見える。自分中心に
しか見えないので、最悪にしか見えな
い。が、実は神の素晴らしいご計画だ。
何もかもが、ぐちゃぐちゃにしか見え
ないが、実は神のご計画は着々と進行
している。ヤコブは「私も失う時には
失うのだ」とヨセフもシメオンもベニ
ヤミンも失ったかに見えた。しかし実
際は何も失っておらず、ヨセフと再会、
飢饉から一族は命を救われ、家族皆で
暮らせるという最高の幸せが伏せられ
ていた。どうれであれ、自分自身にと
っての最善をして下さる。神を信じて
いよう。
・・・・・・・
すべてに「神の時」がある。それ以前
にどうあがいて焦っても、何一つ動か
ない。神の時には、門が開きひとりで
に事が進んで行く。全主権は神にある。
神のご愛を信じて、待っていよう。


2008年08月01日(金)

「なぜなら、人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ6:45

舌を制御する事は誰一人できない。
「少しもじっとしていない悪で、
死の毒に満ちている」。無思慮な
たった一言で、長年の関係が壊れ
てしまうとは、時々聞く話だ。
「舌は火であり不義の世界」舌と
はそれほどのものだ。舌はよくよ
く注意していないと、大きな罪を
犯す。あなたも失敗した事がある
だろう。しかし、舌の問題はノウ
ハウやテクニック、小手先で間に
合うものではない。なぜなら、心
にあるものを口が話すのであり、
口以前に心が問題だからだ。幾ら
頑張って黙していても、心にある
事は喋る。肉は喋りたくてたまら
ない。その強い欲望に勝てない。
喋ってはいけない事を喋らずには
おれない。それが罪の性質であり、
自我だ。その肉はサタンの餌食と
なり、人間関係を壊してしまう。
心に無い事を喋るという人がある
が、それも心の状態を表している
のであり、心が真実でなくいい加
減だという事になる。言葉は必ず
その人の人格を表わす。肉から出
た言葉は、周囲を傷つけ害毒を流
して行く。隠れたものは、必ず明
るみに出る。舌の罪深さをよく認
識していよう。言葉でなく、心の
問題だ。悔い改めて、自らを明け
渡して行く時、主は心を変えて下
さる。その心は、御霊に支配され
喜びと平安が溢れる。御霊から出
る言葉は、愛と思いやり、優しさ
だ。舌は主を崇め、主に感謝し、
恵みを語る。そして、御霊の喜び
と潤いを周囲に伝染させて行く。
------------------
心の内にあることが口先から溢れ
出てくる。ねたみや、高慢をその
ままにしていないで、主に対処し
て頂こう。いつも心の中が主への
感謝で溢れていますように。