2008年09月30日(火)

『そこでイエスは、さらにこう言われた「わたしに何をしてほしいのか」』マルコ10:51



神を知り、神と親しくなる
ためには、どうしたらよい
のか。そのためには、自分
自身が神に近づかなければ
始まらない。神は無理やり
に、強いられる事は決して
ない。いつも自発的、自由
意志を重んじられる。自分
から神を求めて行くことだ。
バルテマイは、主イエスの
事を噂で、聞いていただろ
う。奇跡をされ、盲人の目
を開ける事のできる方だと
知り、その方がエリコに来
られたと聞き、耳を澄まし
ていた事だろう。主がそば
を通られると聞いて、大声
で叫んだ。「私をあわれん
でください」と。弟子たち
は、懸命に黙らせようとし
た。しかし、黙る事なく、
ますます大声で叫び立てた。
主は彼を呼ばれた。そして
「何をしてほしいのか」と
問われた。盲人だから、当
然目を開けて欲しいとわか
りそうなものだが、あえて
問われた。彼は「目が見え
るようになることです」と
答えた。すると、彼は見え
るようになった。バルテマ
イは主に近づき、必死で主
を求めた。主はその求めに
応じて下さった。つまり、
主はバルテマイから求めを
引き出し、それに答えて下
さった。主は、私たちの求
めを待っておられる。それ
を聞いて答えたいと、待っ
ていて下さる。不平不満で
愚痴っているだろうか。そ
れを主に求めよう。問うて
下さっている「わたしに何
をしてほしいのか」と。
---------------------
バルテマイのように主が側
を通られたなら叫ばずには
いられないだろう。来られ
ると知っているなら、求め
は明確にしておく事だろう。
今も主は近くおられる。今
近づこう。


2008年09月29日(月)

「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」ヨハネ14:27



私達は、よく思い煩う。目の
前の事、先の事、あの事、こ
の事を心配し、不安で不安で
たまらない。あなたも心配事
があるだろうか。それが、あ
なたの心を痛め、苦しめてい
るだろうか。心がずっしり重
くなり、落ち込んでいるだろ
うか。私たちは先の事は絶対
にわからない。先がどうなる
かはわからない。先が見えな
いゆえに不安で不安でたまら
ない。日々、目の前の雑事に
没頭している間は忘れている
が、しかし、思いがその具体
的な心配事に向いた途端、心
が暗くなり沈み込む。常にそ
の事が思いに来て、心が苦し
い。その苦しみから逃れたい
のだが、逃れられない。実は
しばしば、そこにこそ自らの
固く握りしめているものがあ
る。偶像が潜んでいたりする。
それが思い煩いとなり、自ら
を苦しめている。それが苦し
みのもとであり、それを手放
せば、すぐに楽になるのに、
決して放さない。自分のいの
ちともなっているものだから。
自分のいのちともなっている、
実は隠れたプライド、名誉心、
虚栄心、所有欲、御心と相反
する自らの強烈な欲望が潜ん
でいたりする。それは無意識
だったりするので、御霊の光
の中で、照らし出される時に
気づきが与えられる。気づか
される時、自由にされる。世
のものではない、主の全き平
安が与えられる。
---------------
所有していく事のみで満足する
肉の平安とは違う、主の平安を
私達は知っている。今週も、自
分をいら立たせ落ち込ませてい
るものの正体を見極め、開放さ
れていけます様に。


2008年09月28日(日)

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」創世12:1

最初ウルの地にいたアブラハムは、カ
ナンへ立った。「ウルからあなたを連
れ出した主」との通りだ。たが、父親
テラも親族も伴って出たため、カラン
まででとどまり、父テラはそこで死ん
だ。テラの死後、再度神の示しがあっ
た。「父の家を出て示す地へ行け」と。
そこでカランからカナンへと旅立った。
しかし、尚も甥ロトを伴った。そのロ
トはその後のトラブル、火種となった。
神の御心に従おうとする時、様々な肉
がからまりついて、従う事を妨げて来
る。内心は御心がわかっていながら、
行えない事があるだろうか。「本当に
御心か?」「やって行けるのか」「自
信がない」「失敗したら?」様々な言
い訳が来る。肉が妨害して来る。テラ
を伴うような半分妥協案を示して来る。
しかし、一歩踏み出す事だ。もし、御
心だと確信があるなら行動に移そう。
神は確かに助けて下さる。アブラハム
はウルから、親族を離れず一緒に出た。
カランで止まってしまったが、しかし、
神は、カランで再度現れて御言葉を示
し導かれた。私たちの弱さもご存じで、
尚も手を取り導いて下さる。アブラハ
ムへの神のご計画を、神ご自身が成就
された。神に従おうとする時、肉がか
らみつき妨げる。古い人はキリストと
共に十字架につけられたとの信仰に立
ち、導きに踏み出そう。大いなる祝福
が備えられている。
・・・・・・・・・
御心を行おうとする時、必ず妨害が入
る。「つぶやかず、疑わないで行な
え」の通りつぶやきと疑いが来る。又、
肉には、御心が愚かに見える。疑って
いたり、愚かに思えるならサタンの攻
撃だ。示されている一歩を踏み出そう。


2008年09月27日(土)

『「子どもたちよ。食べる物がありませんね」彼らは答えた「はい、ありません」』ヨハネ21:5

「自分が変えられるためには、自分の
本当の姿を直視する必要がある」とは、
よく言われている事だ。主を裏切って
しまったペテロ、主が捕らえられた時
に逃げてしまった弟子達、彼らはガリ
ヤラに戻った。が、ペテロは、なすす
べなく漁に出ると言うと、他の弟子達
も従った。ベテラン漁師であるはずの
ペテロ達だが、何もとれなかった。夜
が明ける頃、主が岸辺に立たれ「食べ
る物がありませんね」と言われた。彼
らにとれば、岸で見知らぬ人が言って
いる言葉だ。「何もとれないのか」と。
彼らは答えた「はい、ありません」。
何一つ無い、ありのままを認めた。そ
の時、舟の右側に網をおろしなさい。
そうすれば、とれます」との言葉が臨
み、その通りに従った時に、大漁を見
た。私達も、主のみわざを見る前に、
ありのままの姿を認めさせられる。
「何もありません」、惨めであわれで、
プライドは砕かれ傷つき、ぼろぼろか
も知れない。しかし、その惨めな自分
を認める事が、大きな祝福の始まりだ。
惨めな自分は見たくない、触れたくな
い、直視したくない、ごまかしてしま
いたい。しかし、何も無い自分を認め
るからこそ、その後の神の大きな祝福
を自分の栄光にする事はない。神に栄
光を帰して行く者とされる。「はい、
ありません」と自らの真の状態を恐れ
ずに認めよう。そこから大いなる主の
みわざが始まる。
・・・・・・・・・
「はい、ありません」は一番見たくな
い、決して認めたくない、痛い言葉だ。
プライドゆえに認められない。しかし、
そこで初めて真に神に出会う。そここ
そが実は大きな恵みの場所である事を
経験する。


2008年09月26日(金)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩編119:71


信仰人生の中で、様々な苦しみ
に会う。それが自らの罪の結果、
招いたものであれば、蒔いたも
のを刈り取るのは当然であり、
悔い改めて刈り取るべきだ。
刈り取りを訓練とし、尚も益と
して祝福として下さる。悔い改
める時、いつも希望がある。刈
り取りは、決して甘くは無く厳
しいが、主にあって祝福とされ
る。しかし、何の罪も無いのに、
どうしてこんな事が、との突如
の苦しみも経験する。まさに心
が張り裂けんばかりだ。時に不
当な、理不尽な苦しみにも会う。
様々な苦しみに遭遇するが、そ
れは偶然なのではない。たまた
まその環境にいたからではない。
又、不運なのではない。もしそ
うなら、わけのわからない運に
ほんろうされている事になる。
そこに何の意味も目的も無い。
不運と諦めるか、自らの運命を
呪い続ける事になる。そこにあ
るのはいつ又、どうなるかわか
らない不安と恐怖だ。しかし、
私たちは、断じてそうではない。
一羽の雀さえ父のお許しなしに
、地に落ちる事はない、神の愛
の御手の中にあり、すべての事
柄に神の主権と支配を認めるも
のだ。どんなに苦しい事態であ
っても、神の支配であれば、そ
こに神の御心があり、意味があ
り、苦しみに目的がある。
その所から、ズレないよう、ブ
レないよう、視点をそこに置い
ていよう。
------------------
信仰の目で見るなら、状況は翻
弄されるものではなく神を知っ
て行く時となる。この苦しみの
意味はなにか。教えて下さりた
い事、私のかわる所はどこか、
必ず答えを下さる。


2008年09月25日(木)

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなさい・・」マタイ6:8



神は私たちが願う先に、必
要なものを知っておられる。
では、神が知っておられる
なら、求める必要が無いで
はないかと思う。だから、
祈らなくて良いのではと。
しかし、「だから、祈りな
さい」と主の祈りが続く。
だからこそ、祈れと言われ
る。祈りは重要であり、実
践の中でこそ、祈りが身に
つく。神は私たちの必要を
ご存じだが、自分が知らな
い。自分はこうありたい、
これが欲しい、これが絶対
に最善だと思う。自分の強
い思いがある。しかし、神
の目には違っているかも知
れない。しばしば、神の思
いと人の思いは大きく違う。
祈る中で、自分の願いが修
正されて行く。なかなか祈
りが答えられない時、その
願いの動機に視点が向く。
動機が探られる。あるいは
自己中心なものかも知れな
い。間違った動機が正され
る。又、強い願いはあるが、
今、本当に自分に必要であ
るのかどうかを考えさせら
れる。祈りの中で、その願
いがきよめられて行き、本
当に自分にとって最善なも
のが何なのかを見つけて行
く。祈りの中で、願いが軌
道修正され、神のお心に適
うものへと変えられて行く。
自分自身が変えられ、祈り
が変えられる。神の心に適
った祈りは答えられるので
「神に願ったその事は、す
でにかなえられたと知る」
その祈りが答えられたとの
確信が臨む。
-------------------
欲しいものと必要なものは
違う。それをはっきり示さ
れ砕かれて行くのも祈って
いるからだ。自分の自我や
限界を謙遜に認めていける。


2008年09月24日(水)

「彼らはことば数が多ければ聞かれると思っています。だから、彼らのまねをしてはいけません」マタイ6:8

  

異教の神は偶像であり、それ
を拝む人々は「同じことばを
ただくり返す」。そこには虚
しく、考えもなく、とにかく
量があればよいとの考えが浮
かぶ。だから「ことば数が多
ければ聞かれる」ことになり、
ガンガンガンガン、何でもよ
いから祈り倒せばよいことに
なる。それなら人間中心で、
神を何とか自分の思い通りに
操作しようとの態度だ。クリ
スチャンにも、もし言葉数が
多ければ聞かれるとの思いが
あれば、それは大きな勘違い
だ。なぜならそこには、祈り
が自分の欲しいものを手に入
れるための「手段」だとの錯
覚がある。もし、手段であれ
ば、多く祈る者勝ちとなり、
異教と同じであり人間中心だ。
そうではない。だから、彼ら
のまねをするなと言っておら
れる。「あなたがたの父なる
神は」と続き、神がどなたで
あるかが問題だ。わけのわか
らない偶像ではなく、父であ
り、一番大事な独り子を殺す
ほどに愛して下さったお方で
あり、御子を死に渡された方
が、どうしてそれ以下のもの
を下さらない事があろう。神
は愛していて下さる。その神
は、最善をなし、完璧に配慮
して下さっている。祈りとは、
神を説得して欲しい物を得る
「手段」でなく、真実なる神
への「信頼」だ。根本的に異
なる。愛されているから、最
善をして下さる事を信じて求
めて行く、それがベースだ。
----------------
一方通行の祈りをしているの
ではい。私達が祈る神様は祈
りの中ですら答えを下さり、
求める先に必要なものを知っ
ておられるお方。今日も深い
信頼の中で神様と交わろう。


2008年09月23日(火)

「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです」1ヨハネ3:9



私達が「神の子」であるこ
との根拠は何だろう。良い
行ない、良い態度だから神
の子なのか。信仰的、霊的
だから神の子なのか。神の
言いつけに、ちゃんと従っ
ているから神の子なのか。
成長した、霊的クリスチャ
ンだから神の子なのではな
い。主イエスを信じ、新生
した瞬間からすでに神の子
だ。母親から生まれたから
その子供あるように、神か
ら生まれたから神の子供だ。
生まれの問題だ。雇い人な
ら主人の財産を相続する事
はない。しかし、子は親の
財産を相続する。私達は、
親である神の相続人だ。キ
リストとの共同相続人だ。
何という恵まれた地位にい
る事だろう。父が放蕩息子
の兄に「私のものは、全部
おまえのものだ」と言われ
たように。御父と私達は、
無条件で愛される親子の関
係だ。子であるなら親に似
て行く。きよくなる事を求
めて行く。キリストにとど
まる者は、罪の内を歩まな
い。これは、全く罪を犯さ
ないという事でなく、継続
的に故意に罪を犯さないと
いう事だ。罪を犯すと、心
が苦しくなり、犯し続ける
事ができなくなる。「なぜ
なら、神の種がその人のう
ちにとどまっているからで
す」神の種は神の言葉だ。
神の言葉が心の内にある時、
罪を犯す事から守られる。
神から生まれ、神の種を持
っている。サタンにも罪に
も打ち勝って行ける。
-------------
罪の中に留まっておれない
のは、罪を示されるからだ。
何が平安か私達はすでに知
っている。み言葉が臨み、主
に向かう時、罪従う愚かさが
はっきりと見えてくる。


2008年09月22日(月)

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる・・愛する者が傷つける方が真実である」箴言27:5



ある人が、友人から相談を
受けた。すると、その内容
がはっきり神の御心に反す
る事であり、罪であるので、
愛するゆえに御言葉を告げ
て警告した。それ以後、い
っさいその人のもとに来な
くなった。実は助言を求め
てではなく、自分に同意し
てくれる事を求めて来たの
だった。自分ですでに決め
ているし、決して翻すこと
はない。ただ同意し、認め
てくれる人が欲しい。そう
して行くなら、いつも自分
を正してくれる人、本当に
愛してくれている人から、
遠ざかる事になってしまう。
神は人を通して、忠告を与
え間違いを正して下さる。
サタンに誘惑される時、目
がおおわれて、自分には食
べるに良く、目に慕わしく、
賢くなる、麗しい道としか
見えない。盲目になってし
まう。「人の目にはまっす
ぐに見える道がある。その
道の終わりは死の道」だ。
しばしば、周囲の人には見
えている。警告に耳を傾け
るなら、自分の命を救う事
になる。「愚か者は自分の
道を正しいと思う。しかし
知恵のある者は忠告を聞き
入れる」。自分を愛してく
れている人、祈ってくれて
いる人の、愛から出ている
忠告に耳を傾けよう。嫌わ
れるのも承知で、直言して
くれる痛い言葉を、警告と
して受け取り、自らを省み
よう。神があなたを正し、
義の道へ導こうとされてい
る。
---------------
自分を肯定してくれる言葉
は耳に心地よい。また言う
のも簡単だ。それをあえて
忠告してくれる人の言葉は
謙遜に、大切に受け取ろう。


2008年09月21日(日)

「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって・・」Uテモテ4:3

ある人が聖書セミナーに出席した。数
日間、御言葉の学びが続けられた。す
ると、その中で講師は毎回、罪につい
て語った。罪がいかなるものか、悔い
改めの必要性、罪から離れなければな
らない事、又、自分を否み、自分に死
ぬこと。毎回、自分の罪が刺され、罪
深さが見せられた。気が重くて、聞く
のが嫌でたまらず聞きたくなかった。
しかし出席者たちは真摯に受け止め、
感謝し喜んでいた。グループ別の交わ
りで、自らの罪が示され、悔い改め喜
びに溢れて感謝している人々と接っし
た時、目が開かれ気づかされた。自分
は、神に愛されている事、自分が高価
で尊い事、自分の人生には価値があり
自分は有用であり・・そんな事が聞き
たいだけなのだと。自分中心の信仰に
気づかされた。自分に都合の良い、心
地良い言葉だけが聞きたい、ただ愛さ
れている事だけを聞いていたい、幼子
の信仰なのだと。自分で聞きたい言葉
を決めているわけで、それなら、それ
以外の言葉は決して入って来ない事に
なる。まさに「真理から耳をそむけ、
空想話にそれて行く」ことになると気
づかされた。大きな気づきを与えられ、
悔い改め、新たにされた。私たちも聞
きたい言葉を決めていないか、心地良
い言葉だけを求めていないか。主が、
私に語られる言葉を受けて行こう。本
当の喜びを味わう。
・・・・・・・・・・
自分で聞きたい御言葉を決めていない
か。心を探ってみよう。それなら他の
御言葉は入らない。真理から離れ、空
想話になる。自分の思いを捨て、今一
度、真摯に御声に耳を傾けよう。


2008年09月20日(土)

「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」箴言 27:17

私たちの願いは平穏無事だろうか。こ
の世の人々は平穏無事のために宗教を
求める。交通安全、家内安全、無事が
良い事という価値観からだ。クリスチ
ャンになって試練があると、世の人に
怪しまれ非難される。信じている意味
が無いと。しかし信仰者には見方が変
わる。試練は嫌だが、練られ、きよめ
られ成長のためのものだ。人は罪の性
質があり、何もないと高慢になり、神
に頼る事なく、世の楽しみにはまり、
又、世に流され、神から離れてしまう。
鉄は高熱の炉で溶かされ、不純物を除
かれ、打ち叩かれ、磨きをかけられと
いう「苦痛」のプロセスを通って、作
り上げられる。神は私たちの成長を計
画され、対人関係によって私たちを研
がれる。人によってだ。今、もし学校、
職場、近隣で、難しい対人関係にあれ
ば、それは偶然ではなくまさに神の取
り扱いだ。寛容な相手なら決して気づ
く事のない、自らの内にある憎しみ、
妬み、怒り、高慢・・様々な心に気づ
く。いかに罪深いかを知り、主の十字
架の意味を知る。砕かれ訓練され、痛
く苦しいが、愛、喜び、親切、柔和の
実を刈り取る。又、ある人は強烈ライ
バルと切磋琢磨し、結果的に双方素晴
らしい仕事が完成した。これは、相手
がいなければ決して出来ないものであ
った。対人関係によって、自らを削り、
打ち叩き、磨いて下さっている主ご自
身を覚えよう。
・・・・・・・・
良くも悪くも目の前の対人関係は偶然
でなく神からのものだ。神が置かれて
いる。何かを教えるためであり、成長
のためだ。神に焦点を合わせて行く時、
学ばせたいものが見えてくる。


2008年09月19日(金)

「キリストが死なれたのは・・もはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるのです」Uコリント5:15



最初、この世界は地球が中
心に静止し、他の天体が地
球の周りを回っていると考
えられていた。やがて航海
に出、星で位置を知るよう
になり天文学が盛んになっ
た。研究が進むと天動説で
は説明がつかず、疑問が出
て来た。コペルニクスが、
太陽を中心にして、地球や
他の惑星が回っているとの
地動説を唱えた。私たちの
人生も同様だ。人生の中心
が自分であり、自分中心に
人生が回っていて、起こる
出来事がすべて自分のため
にあると考える時、説明が
つかなくなる。行き詰まっ
てしまい、何もかもがわか
らなくなって来る。何のた
めに生きているのか、なぜ
生きなければならないのか
・・答えが無い。そうでは
なく、天動説ではなく、地
動説であり、自分が中心で
なく、中心に神を置く。自
分中心から神中心に置き換
える。この時、何もかもが
明らかになり、目的と秩序
があり、意味があり、不可
解だった様々な事柄に解答
が出て来る。これをコペル
ニクス的転換という。クリ
スチャンになっても、自分
中心に世界を見ている時、
起きて来る出来事の意味が
わからず、苛立ちと不満、
不信と疑い、思い煩いに落
ち込む。自分中心から神中
心に転換する時、平安、信
仰、賛美に変わる。今、ど
うだろう。困難や悩みは、
自分中心に見ているところ
から来ていないか。
-------------
困難の意味、将来への希望、
神様が中心におられ、関与
されていると信じるから今わ
からない事にも喜んでおれ
る。中心に誰を据えているの
だろう。


2008年09月18日(木)

「あなたは、わたしに従いなさい」ヨハネ21:22



フィギュアスケートの試合
で、たまに選手がヘッドホ
ンをして、順番を待ってい
る光景が映る。他人の点数
を聞いて心を騒がせないた
めだ。心を乱すことなく、
自分の演技に集中できるよ
うにだ。他人の演技を見て
、他人の出来、不出来に心
が動揺し、本番で緊張の余
り、ジャンプで転倒してし
まうケースがよく見られる。
様々な思惑が入り、演技に
集中できない結果だ。せっ
かくの普段の練習で重ねた
力が十分発揮できない。自
分の歩みが、他人により影
響受けてしまっている。私
たちの信仰人生も同様だ。
人と比較するのでなく、自
分に任された賜物を見い出
し、訓練し、十分に発揮す
る事が大切だ。人と比べて
はコンプレックスで落ち込
んだり、不満を募らせたり、
勝ち負けに走ったり、どこ
までも競争相手が基準だ。
人によって、自分が左右さ
れてしまう。人との比較で
はなく、自分に与えられた
ものを、主のために十分に
発揮して行く。そこに競争
相手は存在せず、主と自分
の関係だけだ。そして、そ
こには御霊の喜びがある。
優越感から来る肉の喜びで
はなく、霊の喜びだ。御霊
の賜物を使って行く時に、
御霊の喜びが臨む。人との
比較から解放されるのは、
「わたしに従いなさい」と
言われる主だけを仰ぎ、与
えられた賜物を用いて使え
て行くことだ。
---------------
クリスチャンは、自分が人
とは違うと知っている者。
一人一人に神様の賜物がの
ぞみ、ご計画も祝福もすべ
てただ自分だけのもの。感
謝だ。


2008年09月17日(水)

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」イザヤ53:5



ある男性が、過重労働
状態の中、疲労がピー
クに達していた。そん
な中、少しまとまった
休暇が取れた。しばし
休息ができる事に、大
変喜んだ。その休暇に
入った途端、バッグを
どこかに置き忘れてし
まった。自分が行った
場所、通った道筋をす
べて探し回った。あち
こち電話もし、確認し
たが見つからなかった。
カード類はすべて差し
止め、対応に奔走、ひ
どく疲れた。財布には
かなりの金額が入って
おり、がっかり意気消
沈した。免許証はどう
しても困るので、再発
行に出かけた。バッグ
は見つからず、行った
り来たり、走り回り、
ぐったり疲れ果ててし
まった。せっかくの休
暇が、更に疲労してし
まい、これは一体どう
いう事なのか、主の御
前に心を静め、祈り、
御心を尋ね求めた。そ
の時、どんなに物理的
に時間があったとして
も、主の平安が心にな
ければ、何にもならな
い事を思い知らされ、
教えられた。主の平安
がどんなに素晴らしい
もので、感謝な事かに
改めて思いが至った。
私たちも同様だ。どれ
ほど休暇があったとし
ても、主の平安が無く、
思い煩いで一杯なら休
養にならない。主がす
べての思い煩いと心配
を受け止め、主が与え
て下さっている平安に
今一度感謝しよう。そ
して、平安のための十
字架を覚え、いっさい
主に心配をお委ねしよ
う。
----------------
状況がどうであっても
心は、いつも平安であ
るよう主は十字架にか
かられた。思い煩いを
感じたら主を思い、委
ねていこう。


2008年09月16日(火)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテア3:3



アブラハムに子供を与える
との、神の約束がなかなか
実現しない。そこでサラは
女奴隷ハガルによって、子
を得ようとした。当時は行
なわれていた事であり、こ
れは非常に良いアイデアに
思えた。「あなた自身から
生まれ出て来る者が」跡継
ぎになるとの、神の言葉に
も適っているし、「彼女に
よって、私は子供の母にな
れる」と。サラの申し出を
受け入れ、アブラハムはそ
のようにした。ところが、
ハガルがみごもると、サラ
を見下げるようになった。
どんなに良い考えだと思っ
ても、肉の思い、行ないは
必ず問題を生み出す。秩序
が混乱して行く。サラにい
じめられたハガルは逃げ出
すが、主が介入された。ハ
ガルにとっても奴隷の身で
あり、自分の意志を越えた
事であった。そこで、身を
低くするなら、子孫を大い
に増やすと主は約束された。
境遇は変えられないかも知
れないが、しかし、与えら
れた境遇の中で、どういう
態度で生きて行くかは自分
の選択だ。今、目の前の状
況が、何も動かず、何も変
わらず、神の約束が宙に浮
いたような状態だろうか。
今こそ、自分の肉の思い
で動かず、神を待とう。じ
っと待ち望もう。肉で動く
と、イシマエルを生み出し
てしまう。問題と困難を自
分で作り出してしまう。神
の時に、神ご自身が動かれ、
素晴らしい成就を見る。
------------
恵みによる約束があるにも
関わらず、肉の中の律法に
追い立てられている。ああ
しなければ・・こうするべ
きだと。平安がないなら今
一度、吟味してみよう。


2008年09月15日(月)

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32



ある人の夫がギャンブルに
のめり込み、夫婦喧嘩が絶
えなかった。凄まじい争い
の日々だった。やがて給料
全部が持ち出されれ、当然、
生活ができず離婚問題に発
展した。実家に戻り、悶々
状態の中、支えが欲しくて
教会に足が向いた。初めて
神の愛を知り主を信じ救わ
れた。御言葉を学んで行く
内に、自分自身の姿が見え
た。夫が悪、自分は義、夫
が悪いとしか見えなかった
のが、自分の恐ろしい高慢
が示された。夫を見下し、
軽蔑し、裁き、自分が神と
なっている姿を。恐ろしく
てブルブル震えた。夫の罪
など飛んで、ただただ自分
の罪の恐ろしさだけが見え
た。神の御前に悔い改め夫
にも心から謝った。すると
不思議な事が起こり、夫の
ギャンブルが止んだ。どう
見ても、相手が悪いとしか
見えない。しかし夫はただ
ギャンブルをするだけ、自
分の罪の方がもっと悪質、
陰険で傲慢で恐ろしいと思
った。問題は自分にもあっ
た。御霊の光だけが、真理
を明らかにしてくれる。愛
の光だ。正しい道に、真理
に導き、平安を与え、喜び
を与え、自由にされる。
「すべての人を照らすまこ
との光」だ。もし今、相手
が悪いとしか見えず、苦し
んでいるなら、そのまま主
のもとに来て、心の内の何
もかもを打ち明けよう。ど
うであれ、主はあなたを真
理に導き、必ず癒やしと平
安を与えて、解き放って下
さる。
------------
いくら探しても争いや苦悩
の解決法は自分の内には
ない。ただ主に示され、導
きに素直に従って行こうと
する時、主が変えて行って
下さる。


2008年09月14日(日)

「私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません」ローマ8:12

主は「何も」思い煩うなと言われる。
心配するなと。ところが、ふつふつと
思いが湧いて来ないだろうか。「何も
心配しないなどと、無責任ではないの
か。そんな事でいいはずがない。自力
で問題に対応し、ちゃんと思い煩わな
いといけないのではないか」又、「何
でもかんでも委ねるなどと調子が良す
ぎる。自分で努力しなければ」これは
肉の思いだ。この思いに騙されて引か
れて行ってはならない。私たちは「肉
に従って歩む責任はない」。主イエス
が肉と同じかたちで十字架につけられ、
肉を処罰され、肉の責任をすべて主が
受けて下さった。肉はすでにかたが付
けられ、解決済みであり、だから、肉
に従う理由も責任もない。御霊の声だ
けに聞き従って歩めばよい。「何も」
心配しなくてよい。主は羊飼いであり、
私たちは羊だ。必要なものすべては、
羊飼いが責任もって備えられる。羊飼
いの仕事だ。飲み水のある沢に、食物
のある草地に導き羊飼いは身を挺して、
羊を狼から守る。心配は主がしていて
下さる。私たちは心配する責任はない。
私たちの責任は主について行くことで
あり、それだけだ。御霊が導かれる所
に行き、せよと言われる事をすればよ
い。その時、主と一つであり、心配は
何もない。私たちに先は全く見えない。
しかし、主はすべて先を見ておられる。
その主に委ねておれるとは、何という
平安だろう。
・・・・・・・・
肉に対して責任があるように感じて
しまう、そのような思いが湧く事を
認識していよう。御霊の声を聞き、
御霊に従う事だけに、責任がある事
をしっかり心に定めよう。


2008年09月13日(土)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」ヤコブ1:14

「試み」という言葉は「試練」と「誘
惑」のどちらにも使われている。「試
練」は神から来て、「誘惑」はサタン
から来る。神は誰をも罪に誘惑される
事はない。決して無い。神から来る
「試練」は受け入れて、耐えるべきも
のであり、そうするなら必ず一段階成
長する。試練は成長のためのものだ。
サタンからの「誘惑」は逆で、決して
受け入れずに拒否し、立ち向かうもの
だ。それを受け入れると罪を犯してし
まう。だから、主が「主の祈り」で、
こう祈りなさいと言われたように、
「私たちを試みに会わせないで、悪か
らお救いください」と祈る事は大切だ。
誘惑から守られるように、日ごとに祈
る必要がある。サタンの誘惑の巧妙さ
は、物事がうまく運んでいる時に、来
る事だ。試練の時は、むしろ神にすが
り神を呼び求め、神に頼る。何の問題
もなく、万事がうまく行っている時に、
人は油断する。順調なので神に頼らず
とも、物事が進み、祈ることを怠る。
自分でやって行けると思ってしまう。
ダビデのバテシバとの姦淫も、油断が
あった。部下が生死をかけて戦ってい
る時に、夕方に起き出すという怠惰な
生活をしていた。獲物を探し求めてい
るサタンにつけ込まれた。順調の時こ
そ、身を引き締め、神に感謝を献げ、
神を喜び、恵みを数え、更に神に近く
歩もう。今、油断がないか。心引き締
め、主に向かおう。
・・・・・・・・・・
本当に油断大敵だ。罪を犯してしまっ
た時を振り返ると、そこに確かに油断
があった。心に隙があった。ちょっと
した隙にサタンはつけ込む。罪から守
られるために、心を整え身を慎み日々
祈っていよう。


2008年09月12日(金)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩編119:71



ある人が、当時、高度成長期
で、まさに企業戦士であり、
深夜帰宅に早朝出勤、休日無
くがむしゃらに働いた。仕事
の重圧にストレスは溜まり、
過労でとうとう心身に限界を
きたした。眠れなくなり、眠
剤に頼るようになり、わけの
わからない不安、孤独感に襲
われ、しばらく休暇を取り、
通院した。そんな時、誘われ
て教会へ行った。そこでの賛
美歌、祈り、聖書の言葉、何
もかも初めてであったが、カ
ラカラのスポンジが水を吸い
込むように、心にしみ渡った
。安堵感があった。しかし、
わらにもすがりたかっただけ
で、自分の「罪」がわかって
いなかった。ある日、「自分
はだめ人間」との言葉が口を
ついて出た。その時「それは
恵みです」と、だめ人間だか
らこそ、神の力を知ると言わ
れ、カチンと来たのだ。だめ
人間と認められた事に怒りが
湧いた。口では言うが、自分
は毛頭思ってはいない。その
時、あぶり出されるように、
自分のプライドを示された。
自分の力で頑張りに頑張って
来て、人一倍高いプライドが
あり、そのプライドが神など
必要ない、認めなくさせてい
た。自分が神であり、恐るべ
き高慢であり、それこそが罪
であると示された。人より優
りたい、優位に立ちたい、勝
ちたい、評価されたい、認め
られたい、今までの人生その
ためにだけ生きて来たと気づ
かされた。神に立ち返り、人
生が180度変えられた。
----------------
気付けない事、教えられない
事が一番悲惨だ。思い通りに
行かない事は感謝で、底の底
で神様に出会い、神様の価値
観に変えられて行く。


2008年09月11日(木)

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい」ヤコブ4:8



神が遠く感じられたり、喜び
や平安が失せていたり、神が
ぼんやりしている日々なら、
神から離れている。神は全く
変わられない。変わらないご
愛で愛して下さっているし、
慈しんで下さっている。自分
サイドに問題がある。忙しさ
の日々に、神との交わりが途
絶えているかも知れない。こ
の世の勢力は凄まじい。流さ
れてしまっているだろうか。
又、もっと神に近づきたいの
に、心に何かの隔てを感じて
いるだろうか。神との間を妨
げるのは、自分が握り締めて
いるものだ。よく小さな子供
が、口の狭いキャンディボッ
クスに手を入れ、中のキャン
ディを握り締めて、手が出な
いと泣いている光景だ。握っ
ているキャンディを放せばよ
いのだが、絶対に放したくな
い。私たちもこの状態だろう
か。もし、本当に神に近づき
たいなら、神とあなたの間に
ある妨げを、本気になって突
き止めること、そして、それ
を除くことだ。それだけだ。
神と私たちの間に、多くの妨
害物を入れてしまっている。
それがあるために、神がわか
らない。握り締めている偶像
を手放す時、神が鮮明になる。
神は初めから、全く変わられ
ないが、こちらの目が曇って
いる。もし、神にもっと近づ
きたいなら、自分の内の妨害
物を探す事は大切だ。
----------------
御言葉を読んでいても、心が
はじき飛ばす時がある。怒り
や悲しみ、不安、心にせかさ
れる思いで一杯な時だ。その
ままのわずかな信仰でも献げ
祈ってみよう。妨げを示して
くださる。


2008年09月10日(水)

「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます」ルツ1:16



姑ナオミについて来たルツに、
ナオミはボアズとの結婚を考
える。ルツに指示を与え、ル
ツはナオミに言われた通りに
従った。ボアズは驚いたが、
ルツに好意を示し、「あなた
の望むことはみな、してあげ
ましょう」と言った。しかし、
法律により、更に近い買い戻
しの権利のある者がいるので、
差し置いてはできない事を告
げ、正式な手順を踏んだ。そ
のボアズの心の態度は「主は
生きておられる」という事だ
った。つまり、どういう状況
になっても、主の御心の通り
に従いますということだ。ど
うであれ神の御心に自分自身
を委ねていた。ルツもナオミ
の指示に「おっしゃることは
みないたします」と全面的に
自分を明け渡している。「姑
が命じたすべてのことをした」
従順に従った。ナオミも、ル
ツにボアズへの結婚の意志表
示をさせたが、「娘よ。この
ことがどうおさまるかわかる
まで待っていなさい」と、結
果はすべて神に委ねて、神の
御心を待ち望んでいる。それ
ぞれ自分の気持ちと志がある
が、自分の思いを通すのでは
なく、結果は生きて働いてお
られる神に委ねている。神は
大いに祝福され、二人は結婚
しオベデが生まれた。それは
キリスト誕生の系図の中に入
れられる栄誉であった。異教
の地から、神を選び、神に従
ったルツへの大いなる祝福だ。
---------------
結果が右であっても左であっ
ても、神様が導かれる方へ行
きます、その道が最善である
と知っているから。そう覚え
今の思いを神様に明け渡そう。


2008年09月09日(火)

「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています」詩編119:97

言葉には大きな力がある。一言で、
長年かけて培われた信頼関係が崩
壊したという話も耳にする。身体の傷
は、時と共に癒えてしまうが、言葉で
受けたは、心深くに突き刺さり、いつ
までも癒える事がないと言われる。
又、反対に、言葉で、まさに生き返ら
された経験を持つ人々もいる。出口
の無い深い落ち込みの中で、ある人
の一言葉で、まさに死の淵からよみ
がえらされた人もいる。日常で、ほん
の一言の親切な言葉、思いやりの言
葉、愛情の言葉で、励まされたり、慰
められたり、立ち直れたりしただろう。
言葉の影響力は甚大だ。又、自らの
内で、常にどんな言葉を発している
だろう。「できない」「だめだ」「どうせ
私は」「いつもこう」悲観的、否定的
言葉を発していると、ネガティブ思
考となり否定的人生となってしまう。
「信じよう」「主にはできる」「必ずで
きる」信仰的、肯定的な言葉から力
強い信仰的人生となる。言葉は極め
て重要だ。普段どんな言葉を心で発
しているだろう。大人が外国語を習
得するには多大な時間が必要だ。そ
の外国語を意識して聞き続ける事が
不可欠だ。それなら、命の御言葉が
心に培われるために、絶えず御言葉
を反すうし、心に思い、何度も口ずさ
む事はどんなに大切だろう。自らの
心の内の言葉を点検してみよう。
---------------
困難に突き当たった時、必ず呼応し
てしまうイメージは何だろう。それ
を命の力強い御言葉に置きかえて行
こう。一日中、私の思いとなるよう
に。


2008年09月08日(月)

『イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った』マタイ14:29   

信仰生活とノンクリスチャンの生活
は、どこが違うのか。何が変わった
のか。日曜日になると教会へ行くこ
と、聖書を読んだり、祈ったりする
こと。それも確かに変わったが、何
かをする時に、その動機となるもの
が変わったはずだ。又、どの進路に
進むべきか、今日は何をするべきか、
金銭や時間、労力をどう使うべきか、
それらを選択する時に何に基づいて
選ぶか、それも変わったはずだ。ペ
テロは水の上を歩いた。普通に考え
るなら、あり得ない事だ。人間が水
の上を歩くなど不可能だ。しかし、
ペテロは歩いた。どうして歩けたの
か。それは、「来なさい」という主
の言葉があったからだ。ペテロは主
の言葉ひとつあれば、できると信じ
ていた。それで「ここまで来いと、
お命じになって下さい」と言った。
主の言葉に従ったので歩く事ができ
た。主の言葉が無ければ、ペテロが
歩いたとしても沈んだ事だろう。主
の言葉とペテロの信仰による従順が
一つになった時に、奇跡が起きた
。私たちも、信仰生活は、この世で
水の上を歩くようなことだ。私たち
が、未信者と異なるのは、主の言葉
によって生きているという事だ。価
値観、思考、行動や選択の基準、そ
れらが御言葉によっている。「来な
さい」と言われたので「行く」。今
一度、自分の内で確かなものとしよ
う。
--------------
動機は何を見ているかだ。人の顔色
だろうか、有利な条件だろうか。新
しい週が始まった。みこころの中心
をそれずに歩んでいくために、主に
尋ね、導きを確信して今週も歩もう。


2008年09月07日(日)

「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」マタイ2:3

ユダヤの人々は、自分たちを救ってく
れるメシヤ到来を、旧約の預言から知
り、長い間待っていた。切に待ち望ん
でいたはずだ。東方の博士たちがエル
サレムに着いて「ユダヤ人の王として
お生まれになった方はどこにおいでに
なりますか。拝みにまいりました」と
言った時、ヘロデは恐れ惑った。ヘロ
デが恐れ惑うのは理解できる。王が来
たなら、即、自分の地位が危うくなる。
地位のためには身内まで殺害したヘロ
デだ。ヘロデはわかるが「エルサレム
中の人も王と同様であった」なぜユダ
ヤの一般の人々が恐れ惑うのか。背景
的に当時はローマ帝国が勢力を誇り大
帝国となり、ほとんど地中海一帯を支
配していた。ユダヤもローマ帝国に占
領されていたが、周辺一帯それなりの
平和が保たれていた。自分の生活も安
全も、まがりなりにも保たれている以
上、それが乱される、余計な侵入者は
不用であり、嫌なのだ。私たちの信仰
生活で、肉はそうだ。何が正しくて、
真理であり、畏れなければならないか
より、何が楽で、摩擦が少ないか。安
楽な方へ容易に流されてしまう。心乱
される事は好まない。今、自分の内で
楽な道を選び取ろうとしているなら、
今一度、自分の損得や安楽でなく、主
の御心が一番大切であることに立ち
返ろう。
・・・・・・・・・
事なかれ主義の自我があり、何が御心
かよりも、何が楽か、に流されてしま
う。本筋からそれないよう、御心に歩
めるよういつも祈っていよう。気づき
を与えて下さる。


2008年09月06日(土)

「あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」ローマ8:11

             
伝道や証しをしていて、こんな人々に
出会う。妬みや憎しみが、心にはしっ
かりあるが、それを決して外に出さな
い。相手にも向けないし、心の内で抑
えている。だから、自分は良い人だと
思っている人々だ。これは信仰者に
なってからもあるかも知れない。様々
な罪の思いを抑え込む。外には決して
出さない。だから、対人関係のトラブ
ルは生じない。一見穏やかな良い人だ。
そのためいつしか自分が自分に欺かれ
て、自分は良い人と錯覚し、思い込ん
でしまう。正直でないので、内側が混
沌状態だが気づかない。その状態にな
ると、御霊の促しや語りかけを感じな
くなり、わからなくなってしまう。こ
れは最も恐ろしい状態だ。別の場合は
信仰者が罪な思いを持ってはいけない
と抑え込む。抑え込むが、もぐら叩き
のようにこっちから、あっちから出て
来る。それをむりやり抑え込んでいる
と、許容量越えた時に、必ず爆発する。
信仰とはそうではない。自分の力で思
いを抑え込むのではなく、思っていな
い振りで誤魔化すのでもなく、又、弁
解や言い訳に終始するのでなく、それ
が自分の思いである事を、正直に認め、
そのつど神に明け渡して行くことだ。
それを繰り返して行く。そうする時、
常にありのままでおれて、且つ神は変
えて行って下さる。「あくまでもそれ
を続けなさい」続けて行くことだ。自
力でなく御霊によって、変えられて行
っている自分を発見する。
・・・・・・・・
正直に自分の思いを、自分のありのま
まの姿を認めよう。逃げたいしふたを
したいし、無い事にしたいが、それが
自分であると認める事から始まる。そ
の時、主が変えて行って下さる。


2008年09月05日(金)

「なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11      

神は「求めよ」と言われる。
「そうすれば与えられる」と。
求める事の大切さを教えられ
ている。何でも求めて良い。
しかし、覚えておかなければな
らない。何でも求めて良いが、
求めたものがそのまま与え
られるのではないという事だ。
なぜなら、私たちの理解には限
りがあり、本当に良いものはわ
からない。神の思いとご計画は、
私たちの思いよりも遙かに高く
深い。私たちは未来が全く見え
ないので、目先の事しかわから
ない。そのため目先の事しか求め
られない。しかし、神は将来も
見通しておられる。何もかもご
存じだ。私たちは自分の考えは
絶対だと思う。これが自分には
絶対に良くて、これが必要で、
自分の考えは絶対に的確だと思
う。しかし、未来が見えないの
に、絶対的な判断など不可能だ。
神は「良いもの」を与えると約
束して下さっている。しかし、
肝心な事は、神が思われる「良
いもの」と自分が思う「良いも
の」が時に違うのだ。信仰生活をし
ていると、段々これに気づいて
来る。神が最善と思われるもの
が、自分には最悪に見えたりす
る。しかし、時を経て振り返る
時、真にそれが自分のためであ
り「良いもの」であったとわか
る。最高のものであったと。
その時、もっと素晴らしい事は、
神のお心に思いが至り、みここ
ろの意味を理解する。
---------------
私達が先を見越して考えても何
もわからない。見るべきは神様
だ。神様に信頼し、思いをゆだ
ね、神様からのものを受け入れ
ます、の態度で臨みたい。


2008年09月04日(木)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり」エレミヤ29:11

ユダヤの民にとって、バビロ
ン捕囚は、国を追われ、捕ら
われの身となって行く事であ
り、目の前の事だけを見るな
ら、絶望と暗黒であった。ど
んなに悲惨な事であったろう。
艱難であり、苦渋であり、混
乱であった。しかし、結果的
に見れば、それは将来と平安
と希望であった。なぜなら、
ユダヤの民は、捕囚の試練に
より悔い改めて神に立ち返れ
たからだ。厳しい辛い試練で
あったが、信仰を回復する事
ができた。エレミヤの預言通
り、70年後にエルサレムに
帰還する事になる。神の大き
な奇跡が成し遂げられる。
「あなたがたのために立てて
いる計画」、バビロン捕囚は
不運で起きた事でなく、人間
のわざでもなく、神の御手に
よる計画だと言われる。それ
も見えるところは絶望と大混
乱に関わらず、将来と平安と
希望のための計画だと。縦糸
と横糸が織りなされて、綺麗
な素晴らしい織物が出来上が
るように、神は艱難の中で、
練り込み、御霊と一つにして
行って下さる。私たちにも、
突如の試練が降りかかる。あ
る日突然、厳しい苦しい辛い
事態に遭遇する。しかし、信
仰人生で起こる一つ一つの出
来事は、偶然でなく不運なの
でなく、すべて神の綿密なる
ご計画だ。それは「あなたの
ため」であり、完璧なる神の
配慮のもとで来たものだ。後
に、それこそが神の深い愛で
あることが必ずわかる。
-----------------
いつも神様は愛していて下さ
り、本当に必要なものは必ず
満たして下さる。状況に負け
そうになる度にこの御言葉を
自分にメッセージし、しっか
り立っていよう。


2008年09月03日(水)

「ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で、私に奇しい恵みを施されました」詩篇31:21

私たちの窮状は、神のチャンスだ。窮
状の中で、実は、生きて働いておられ
る神に真に出会う。神は、常に最善を
して下さるというのは、いつも学ぶ通
りだ。しかし、私たちには自分の思い
があるので、思い通りにならないと、
焦り、イライラし、思い煩い、落ち込
む。お先真っ暗、目の前も真っ暗にな
ってしまう。
しかし、神は独り子をたまうほどに愛
して下さり、最善以下のことはされな
いと、信じているなら、落ち込みから
守られる。ある人が経済的窮状や苦し
い対人関係、様々な問題が重なり、許
容量オーバーになってしまった。何も
かもを投げ出そうとした時「ご自分の
御子をさえ惜しまずに死に渡された方
が、どうしてすべてのものを恵んで下
さらないことがありましょう」の御言
葉がどこまでも追いかけ迫り来て、主
の愛に阻止され、我に返り悔い改めて、
主に立ち返れた。自分の最悪は神の最
善であり、四方八方窮して、追い込ま
れる中で、実は真に神に触れ、心は霊
の喜びに溢れた。心が主の平安で満ち
て、問題が問題で無くなってしまった。
そして目の前の必要は、神によりこと
ごとく満たされた。どんな窮状も問題
でない。主を求めよう。御心なら状況
を変えられるし、又、そうでなければ、
状況はそのままで、私たちの心の方を
変えて下さる。そして、試練を乗り越
えさせて下さる。
・・・・・・・・・・
どんな困難な時も、まず祈ろう。奇し
い恵みを施して下さる。御心なら状況
が変わるし、そうでなければ心を変え
て下さる。同じ状況のまっただ中で平
安を下さる。心を注ぎ出して祈ろう。


2008年09月02日(火)

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17

私たちは、自らの進むべき
道をどのように知れるだろ
う。神は導きの主であり、
必ず私たちを導かれる。神
の導きが無ければ、進みよ
うが無いからだ。神の導き
を真剣に求める人々に、神
は語りかけ、御心の道に導
かれる。御声をかけられる。
神は色々な方法で語られる。
通常、聖書の御言葉を通し
て語りかけられる。デボー
ションの時に、聖書を読ん
でいる中で、その箇所を通
して語られる。この経験は
多いかも知れない。また、
礼拝メッセージを通して語
られる。祈って求めて、礼
拝に臨んだ時に、メッセー
ジを通して求めていた御心
を知る、これも時々経験す
る。又、ある時は、祈りの
中で、思いが浮かんで来る。
ある事の導きを求めている
と、祈りの中で、ふっと脳
裏にこれはこのようにすれ
ばよい、あれは、あのよう
にすればよいとのアイデア
が浮かぶ。これも神の語り
かけだ。又、環境は、はっ
きりした神の御心が示され
ている。環境が開かれれば、
ゴーサインであり、閉じら
れれば、御心ではない。御
言葉や祈りによる平安やそ
れらを併せて状況を見ると、
御心がわかる。神の語りか
けだ。又、ある人々の助言
を通して、神は語られる。
又、何げない交わり、語ら
いの中で、御霊により示唆
が与えられる事もある。あ
りとあらゆる方面から神は
導かれるので、耳を澄まし
ていよう。神は御声をかけ
られる。導きの主だ。
---------------
導きの主が、私達に御声を
かけられないはずがない。
自分の思いばかりを祈って
いないか、捕われていない
だろうか。導きの最初の一
歩を主は待っていて下さっ
ている。


2008年09月01日(月)

「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしましょう」ルカ5:5

一晩中漁をして、獲物がなか
ったペテロに向かって、主は
「深みに漕ぎ出して、網をお
ろして魚をとりなさい」と言
われた。ペテロはそこで答え
た「夜通し働きましたが、何
一つとれませんでした」。プ
ロでベテラン漁師であるペテ
ロは、どこに魚がいるか、隅
々まで承知だ。そのペテロが
捕れなかったのだ。この時間
帯に魚などいるわけがない。
無駄だと思いつつ「でもおこ
とばどおり、網をおろしてみ
ましょう」と実際に網を下ろ
した。行動したのだ。すると、
いるはずの無い魚がいたのだ。
網が破れそうなほど大漁に驚
いた。ペテロは本心では、捕
れるわけないと思っていただ
ろう。しかし、網を下ろした。
従うとは、主の「おことばど
おり」行なう事だ。自分の思
いがどんなに違っていようと、
御言葉通りに行なって行くこ
とだ。又、聖書の言う、愛す
るとはすべて意志的愛の事だ。
感情ではない。感情なら従う
事が不可能だ。感情は横に置
いて、行動して行くこと、そ
れが愛するということだ。ど
んなに感情が伴わなくとも、
つまり、好きになれなくても、
お言葉通りに行動して行く時、
それは愛することになる。自
分の思いや感情ではなく、神
の御言葉に従うことが大切だ。
自分の思いがどうであれ、今、
示されていることに「おこと
ばどおり」従おう。
--------------
自分の判断に間違いはないと
の思いこみがご計画を邪魔し
ている。「おことばどおり」
従う時、神様の栄光を拝し、
神様の聖さと自分の罪を知る
つとれませんでした。でもお
ことばどおり、網をおろしま
しょう」ルカ5:5

一晩中漁をして、獲物がなか
ったペテロに向かって、主は
「深みに漕ぎ出して、網をお
ろして魚をとりなさい」と言
われた。ペテロはそこで答え
た「夜通し働きましたが、何
一つとれませんでした」。プ
ロでベテラン漁師であるペテ
ロは、どこに魚がいるか、隅
々まで承知だ。そのペテロが
捕れなかったのだ。この時間
帯に魚などいるわけがない。
無駄だと思いつつ「でもおこ
とばどおり、網をおろしてみ
ましょう」と実際に網を下ろ
した。行動したのだ。すると、
いるはずの無い魚がいたのだ。
網が破れそうなほど大漁に驚
いた。ペテロは本心では、捕
れるわけないと思っていただ
ろう。しかし、網を下ろした。
従うとは、主の「おことばど
おり」行なう事だ。自分の思
いがどんなに違っていようと、
御言葉通りに行なって行くこ
とだ。又、聖書の言う、愛す
るとはすべて意志的愛の事だ。
感情ではない。感情なら従う
事が不可能だ。感情は横に置
いて、行動して行くこと、そ
れが愛するということだ。ど
んなに感情が伴わなくとも、
つまり、好きになれなくても、
お言葉通りに行動して行く時、
それは愛することになる。自
分の思いや感情ではなく、神
の御言葉に従うことが大切だ。
自分の思いがどうであれ、今、
示されていることに「おこと
ばどおり」従おう。
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自分の判断に間違いはないと
の思いこみがご計画を邪魔し
ている。「おことばどおり」
従う時、神様の栄光を拝し、
神様の聖さと自分の罪を知る