2008年10月31日(金)

「また、なぜあなたは、兄弟の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3



主は、対人関係について指摘された。相手の目にある小さな、微少のおがくずは見え
るのに、自分の目の中にある大きな丸太が見えないと。

相手の欠点や罪はよく見えて、あら探しばかりするのに、自分の罪は見えない。
自分の目には大きな丸太ん棒があると。

私たちは、批判して来る人、傷つけて来る人、敵対心むき出しで向かって来る人、
憎しみを持って来る人、そのような人に親切にできなのは、ごく当たり前のことだ。

好きになれない。そして、自分も何倍にも報復したい批判心、敵対心、裁く心を持つ。
嫌な人、関わりたくない人に、反発を抱いている。

相手は見るからに悪いので、実は自分も悪意を持っている事に、罪深い思いがある事
に気づかない。相手は確かに悪いので、相手が悪いとしか見えない。

自分は被害者としか見えない。自分の中の裁く心、憎しみ、敵意の大きな丸太に気づ
かない。「あなたの目のちりを取らせて下さい」と言うが、自分の目には丸太がある。

相手の罪はよくわかるが、自分にも裁き、悪意という大きな罪がある。
自分の目から丸太を取り除けよ、相手に反応している自分の内側の罪を認めて、悔い
改める時、自分が正される。
その時、相手に対して御霊と共に、御心にかなった態度で向かう事ができる。
---------------------------
悪い態度の相手に悪意を持つのは当たり前、との思いがある。避けたり、無視したり、
心で軽蔑して自分の傷の仕返しをする。この暗闇の中の罪を主に認め光の中に出して
いけますように。


2008年10月30日(木)

「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」ルカ18:7



なかなか祈りが聞かれないと思う時がある。祈っても祈っても答えがない。
どうなっているのか、まるで放って置かれているように感じる。

しかし、神は祈りを聞かれている。そして、決して失望しないで祈り続けるよう
言われている。祈り続ける事によって、訓練されるからだ。答えを、引き延ばさ
れ、祈り続ける中で、忍耐が養われる。

忍耐する者へと変えられて行く。時間をかける中で、自らの動機があぶり出される。
何のために求めているのか、心が見えて来る。自分の欲望や、自分の誉れのためで
あったりする。

又、祈り続ける中で、自分が本当は何を求めているのかが、明らかにされて、本音に
まで至り、祈りが間違っている事を教えられたりする。

祈りは、祈りの実践の中でのみ学べる。
主が祈る者の祈りを、軌道修正し、正しく祈れるように導いて下さる。

ある人は、進路を親から反対された。しかし、自分は主の御心だと確信し、真剣に必死
に祈った。
しかし、幾ら祈っても親の賛同を得られなかった。ある時、平安が無く、心を御霊に探
られた時に、親の反対に反発し、意地になり、どうしても自分を通そうとしている、頑
なな自我に気づいた。

悔い改めて、御心のままにと、主に明け渡した。その後、不思議に親の同意が得られた。
主は動機をも正して、祈りに答えて下さる。祈りの中で、祈りを学んで行く。
--------------------------
絶えず祈りなさいと言われている。祈りは神様との霊的な交わりの時であり、そこが
私たちの力の源だ。祈りを通して真の自分を認めて行き、新たな祈りの課題へと導かれ
て行く。


2008年10月29日(水)

「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるのです」マタイ20:16

               

先の者が後になり、後の者が先になるからには、何かの理由があるはずだ。
それは、その働きの単に目に見える結果でなく、「動機や態度」が見られる
という事だ。

この世で働く時、その動機まで問われる事は無い。
動機など関係なく、つべこべ言わず、結果さえ出せば良い。何よりも目に見える
結果が重要であり、すべてだ。それがこの世の価値基準だ。

その価値観に慣れていて、目に見える結果だけを問題にしがちだ。
しかし、神の国では違う。神が見られるところは異なる。

主はすべてを捨てて従った弟子達のその動機、働きの動機を見られる。
動機と態度を問題にされている。

最初の者と最後の者は、一日の終わりにその動機が明らかになった。
「一日中辛抱した」辛く苦しい労働であり、主人のために働く事はしんどい、
嫌な事であり、同じ一デナリと判明した時には、不満と怒りが爆発した。

自分達にはもっと貰う権利があるとの立場だ。
実は早朝から糧が保証されて、平安に安心して一日働けたとは何と感謝な事だろう。

夕刻まで糧の無い人々は不安と恐れ、思い煩いで一杯だった。

信仰生活、恵みを忘れると不満タラタラ、神のためにしてやっているとの、恐るべき
態度になる。今一度、御前にへりくだって、喜びと平安と感謝に、恵みの下に帰ろう。
---------------------------
救われた時の喜びが、時と共にうすれ、ただ忙しく奉仕におわれてはいないだろうか。
知識も蓄え、礼拝もしているのに主の御心から離れている気がするなら、もう一度、
恵みのもとに立ち返ろう。


2008年10月28日(火)

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」伝道7:14



生活で、ある日突如、問題が起き、悩みが生じる。
しかし、すべては主の御手の中のこと。主のご計画があり、み思いがあり、
平安と将来と希望のためだ。

だが、問題がどうなってるのか、解決しない。このトンネルは本当に抜ける
のかと不安になる。しかし、実は感謝な事で、人は艱難、悩みの中でこそ練
られ、鍛えられ、自分の姿を知る。

順境の時にはないことだ。それは自分の中の考え方や価値観、思考が現れる
からだ。問題が来て右往左往し、心重くなり沈んでしまう。

その時、問題の無い人生が良い事、問題は悪と思っている自分の価値観が見
えて来る。それに初めて気づく。

事態が自分の思い通りにならなくて、イライラしたり、焦ったり、思い煩う。
その時、自分の思い通りになる事が善と、思っていた事に気づく。

普段、自分の中に顧みる事も、考える事もなく潜んでいる思考パタンに気づく。
祈れば、良くなるはずなのに、問題が更に悪化する。

信仰すれば悩みが無くなるはずなのに、次々問題が起こる。
その時に、信仰生活はスムーズであるはず、問題が起こるのはおかしい、試練
は悪との、自分の潜在的価値観に気づく。

信仰生活で一番素晴らしい事は、御霊の気づきを与えられる事だ。
成長は気づきだ。気づかされ、気づかされて成長して行く。
-------------------------
家内安全で商売繁盛・・いつも順境にあるのが望みなら、自分は何も変えられ
ないままだ。思い通りに行かない行き詰まりが感謝だと、今一度自分の問題を
見つめてみよう。御霊の示しがそこにある。


2008年10月27日(月)

「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです」(ガラテア6:12)



「外見を良くしたい」これは肉の特徴だ。人によく見られたい。人に認められたい。
自分が評価されたい。人からの賞賛が欲しい。自分を誇りたい、自分の力を誇りたい。

肉は自分、自分、自分・・だ。それに反して、十字架の言葉は、罪を指摘する。
すべての人が罪を犯したと言い、自らの罪がえぐり出され、自分を罪人と認めなけれ
ばならない。

自分は良い人のはずであり、良い行ないを積み重ねて来た。それを根本からくつがえ
される事であり、今まで築き上げて来た人生がすべて否定される事になる。

絶対に受け入れ難い。自分は良い人間だ。人にも良い人間だと思われたい。
「外見を良くしたい」。罪人であると認める事は、それをすべて否定する事だ。
それを認めるなどプライドが許さない。

だから、十字架を語ると迫害が来る。信じるだけで救われるなど、自分のすべての行
いが否定される事になる。肉はどこまでも自分を誇りたい。認められたい。
そのため人間は本質的に十字架を嫌い、敵対する。

ある人が恵みによって生かされている喜びを証しした。弱いままでよく、頑張るので
なく弱さを誇って歩める事の喜びを。

すると、世から反発、敵対心と憎しみを受けた。自分の頑張りを否定されるからだ。
弱いままで良いとは何という恵みで、安堵だろう。
-------------------
自らの罪を認め、弱さを認める者は、弱く見えるかもしれないが、十字架の主が弱さ
のうちに満ちて下さると信じる時、どんな中でも平安と喜びに守られている。それは
この世にあって何という強い証だろうか。


2008年10月26日(日)

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:18

ある婦人が、集会で、御霊の強い導きを受け、主婦として与えられた場で、
自分のすべてを献げて、主に仕えて行きたいと献身の決心をした。
生涯どのようになろうと、主の導きのままでOKであり、従いますと祈った。
心が平安と喜びで満たされた。

すると、その数週間後に、夫の会社が倒産した。驚いて、ショックで、
自分が献身したから、こんな事になったのかと一瞬思った。しかし、
祈りの中で、そうではなく、主は予め、夫のこの倒産をご存じ
で、信仰もって受け止められるよう、献身の恵みも下さったとわかった。

夫婦で厳しい試練であり、次の職は捜せど捜せど無かった。貯えもなく、
主の御心を求めて祈りに祈った。その時、「すべての事について感謝
しなさい」との御言葉が臨んだ。
主の御心が、感謝する事であるとわかった。現状は、到底感謝できる
ような状態ではなかったが、信仰によって、感謝を献げた。

「現在、職が無いことを感謝します」と。その時、不思議な事が起きた。
心から恐れや不安が失せて、平安が臨んだ。貯えもなく、職もなく、
何の当ても無いのに心に不思議な平安が満ちた。主の平安だった。

しばらくして職は与えられた。しかし、何よりも、この取り扱いの中で、
新たに素晴らしい主を知れた事が、何よりも祝福だった。
・・・・・・・・・・・・・
どのような状況であれ、感謝を献げる事は、神が神であられるという、
神の主権を認めること、神への信仰を献げる事になる。神の支配の
中で起きている事、万事益の信仰に立ち、感謝して行けるよう祈ろう。


2008年10月25日(土)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32



エマオに向かう二人の弟子に、復活の主が近づかれ、彼らのかたわらを歩か
れた。彼らは「暗い顔つき」であった。主のよみがえりを信じる事ができず、
エルサレムにとどまらず、なすすべなく、郷里に引き揚げる途中であった。

かたわらの主の語りかけに、彼らの答えは失望落胆であった。「力ある預言
者でした・・」「望みをかけていました・・」過去形であり、期待し望みをかけてい
た、だが、だめだったと。空虚と絶望だった。

それが、主が御言葉を話され、御言葉を解き明かされて行った時に、彼らは
どうなったのか。彼らの「心がうちに燃えた」。心に大きな変化が起きた。
力がなく、喜びがなく、暗く、沈み込んでいた心が、赤々と燃えて来た。
霊的に全く新しい状態にされた。

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕え」とあるように、霊に燃えるとは、
外側が活動的になるという意味でなく、内側が聖霊によって新たにされ、
喜びや信仰、気力、希望が与えられる事だ。

よみがえりの主が、暗く沈んでいた弟子たちに、信仰の火を点じられた。
主の語られる言葉によって、私たちの沈んだ心も再び燃やされる。
「心がうちに燃える」時、周囲にも伝染させる。何があっても、どんな問題
にも、いつも信仰によって生きている人を見る時、どんなに励まされるだろう。
・・・・・・・・・・・・・
何があっても、見えるところによらす、信仰によって生きて行きたい。
そのために、主はかたわらに来て語りかけて下さっている。自らの思い
を明け渡し、御声に聞く時、うちに心が燃やされる。


2008年10月24日(金)

「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」ルカ5:5



プロの漁師であるペテロが一晩中かけて漁をして、何の収穫も無かった。
何が、どう悪いのか。しかし、こんな日は、どうしようもなく引き揚げるしかない。
一晩中働いたのだから、身体も疲労していただろう。

何の収穫物もないのだから、その疲労は、更にどっぷりと重かったに違いない。
岸辺で網を洗い、片づけをしていた。

そこに主が「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
夜通し働いたが何もとれなかった。こんな時間帯に魚がいるわけがない。
常識で考えて不可能。徒労に終わる。無駄ではないか。早く家に帰って休みたい。

様々な思いが巡っただろう。しかし、ペテロは「でも、おことばどおり」網を下ろした。
「そして、そのとおりにすると」大漁であった。

大切な事は、お言葉通り、従うことだ。従おうとする時には、人間的な思いが立ちはだかる。
「出来ない」「難しい」「不可能だ」「意味があるのだろうか」、必ず妨害が入る。

しかし、どんなに肉の思いが妨げて来ても、「おことばどおり」従うことだ。
大漁という大きな祝福が備えられており、又、この時、ペテロは「人間をとる漁師になる」
と召しを受けた。
御言葉に従う時、祝福が待っている。従う事が信仰の原点だ。今、目の前に御心を示されて
いるなら、躊躇せず従おう。
---------------------------
今よりもっと満ち満ちた信仰生活を送ろうと思うなら、信仰をもって導きに従う事だ。進まない限り主の祝福も、ご愛も今以上にわからないだろう。従って行こう。必ず主が導き、成し遂げてくださる。


2008年10月23日(木)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く」イザヤ30:21



神のみこころを知るには、まず、御言葉の中に沢山の原則が記してあるので、
それに従えばよい。新約聖書の書簡には、具体的生活の指針が明確に表されている。

はっきりと書いてあるものにはそれに従うべきだ。
具体的に書いていない事に関して、みこころを知るためには、祈りと御言葉と環境を
見て行く必要がある。何よりもよく祈る必要がある。

御言葉が与えられるように祈るが、その時によく気をつける必要がある。
私たちには新しい性質と共に、古い性質もあり、その古い肉の性質は、自分の願望が
強いと、願望にそって御言葉を取ってしまう。

果ては、自分の思いを正当化するために御言葉を使い、自分の都合の良いように御言葉
を捕らえてしまう。それを故意にする人はおらず、自分では決してそうしているつもり
は無いのでわからない。

肉はそういうものである事をよくわきまえていよう。
へりくだって、信仰の先輩の助言にもよく耳を傾けよう。そうするなら、大きな間違い
から守られる。
一番大切な事は、みこころなら、右でも左でも、黒でも白でも、自分の思いに反する事
でも従いますとの明け渡しだ。

しばしば神の思いは人の思いと異なる。どうであれ、意に沿わない事でも従おうとの姿勢
がある時、みこころは必ずわかる。
-------------------------
御心の真ん中を歩いていきたい。「これが道だ」の確信を求めながらも、見るべきものを
見ず、聞くべき声を聞かず混乱してはいないだろうか。神様に明け渡して今日も歩もう。


2008年10月22日(水)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:4


                         
こんな話がある。アヒルが自分の姿に、歩き方も泳ぎ方も、何もかもに悩んでいた。
大きなコンプレックスの中で、いつも自信がなく、惨めで、暗く沈んでいた。
ところがこのアヒルが、ある日、白鳥になっている自分の姿を発見する。

誰しもコンプレックスがある。苦しむのは、そのコンプレックスを認められない事だ。
自分が受け入れられず、無い振りをしたい、見ないでおきたい、触れたくない。

実際、劣等感で悩んでいるのだが、それを認められないという自己矛盾が起きて、心が
混乱する。そのコンプレックスのある所に、触れられた途端、冷静でおれなくなる。
劣っていないと思いたいのだ。プライドが邪魔をして許さない。

癒されるためには、そのコンプレックスを直視する事だ。逃げないで、避けないで、ごま
かさないで、それを主のもとへ持って行く事だ。なぜなら主はそれを癒して下さる。

プライドは自分の惨めな姿を見たくないし、絶対に認めたくない。余りにも惨めなのだ。
しかし、そこを認めて、主の前に行く時、そこに主が触れて下さり、癒して下さる。
がんじがらめになっている自分を解放して下さる。

自分が自分を縛りつけ、窮屈にし、そこにプライドが潜む。プライドが砕かれ、自由にさ
れる時、白鳥である自分を発見する。
--------------------
自分はアヒルだと思う事が謙遜だと思い込み、間違えた反省をしてしまう。神様がそのまま
の自分を「高価な者、愛している」と言い続けていてくださる。神様の目から見ると私は、
すでに白鳥だ。ここを自分の誇りとして行きたい。


2008年10月21日(火)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」Uコリント2:10




ユダとペテロがよく比較される。ユダは「後悔」し、ペテロは「悔い改めた」。
後悔と悔い改めは全く違う。一番異なる点は、後悔は、した事を悔いて心を変
えようと「自分で」する事だ。

悔い改めは、方向を変えて、「神に」立ち返る事だ。自分ではどうにも出来な
いので、神に向くのが悔い改めだ。
後悔は、神に向くのでなく、あくまでも自分で事態をどうにかしようとする。
だから、後悔には救いがなく、「世の悲しみは死をもたらす」だ。

ユダは、後悔して、主を売った銀貨30枚を祭司長に返して「私は罪を犯した」と言った。
だが祭司長から「知ったことか。自分で始末することだ」と言われ、自ら命を絶った。
非常に後悔したが、自分で結末をつけてしまった。

それが主へと向いたなら、主のもとへ持って行ったなら、「救いに至る悔い改め」となった
であろうに。

ペテロは裏切りという取り返しのつかない失敗をしたが、真に悔い改めて、主の赦しを受け
取った。ペテロは赦され、主の愛により回復させられ、主の昇天後の、働きのリーダーとい
う大任に立てられ用いられた。

ペテロは、主に赦され、受け入れられ、愛され、期待されている自分を見い出した。
だから失敗したが再び立ち上がれた。自分でどうにもできないから、神に向こう。
そこに救いがある。
-----------------------
主が道をまっすぐにして下さる。失敗し転びながら、また主の十字架のもとで赦しを受け
とって立ち上がれることは本当に感謝だ。失敗を責め立てるサタンの声を聞かず、主に向
いていよう。


2008年10月20日(月)

「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」出エジプト14:14



様々な信仰の勇者たちが、信仰の戦いを戦ったが、その方法は人間的に見るなら、
ほとんど意味をなさないような方法だった。
出エジプトを果たしたモーセは、エジプト軍の追跡に、断崖絶壁の紅海で、主は
モーセに、イスラエルの人々に前進するよう言えと、命じられた。

又、難攻不落のエリコの城壁を前に、主はヨシュアに町の周りを回るよう命じられた。
6日間町の周囲を1度周り、7度目に7度回り角笛を吹き、大声でときの声をあげよと。
又、ダビデは、巨人ゴリアテに剣や槍でなく、石投げで石を打ち、倒した。彼らが戦い
に勝利したのは、神の方法に従ったゆえであった。

人間の思いでは不可能であり、そんな事をして何になるとの不思議な方法だった。
しかし、主の命令通りに従った時に、神の大きな奇跡が現された。
「主があなたがたのために戦われる」まさに人間ではなく、主の戦いであった。

私たちも時々理解を超えることがある。しかし、信じて従う時、神の栄光を見る。
信仰生活において、一歩一歩御霊の導き、方法に従う事が大切だ。御霊は導かれる。
それはへりくだる事、あちこちに謝罪する事かも知れない。
又、自分には不可能に思える御心に、信仰持って一歩踏み出す事かも知れない。
とにかく神の方法に従う時、主が戦って下さる。
-----------------
大きな問題ばかりでなく、些細な日常の出来事にも神様を認め、導きを求めて行こう。
困難の時だけに気持ちを切り替えていくのではなく一歩一歩だ。新しい週が始まった。
目の前に来るものすべてを、主と共に、主のやり方で成し遂げていこう。


2008年10月19日(日)

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり・・」イザヤ55:8

例えば30階のビルの入口に立って、地上からビルを仰ぎ見る時、そのビル
と近隣が見えるだけだ。しかし、ビルの最上階から景色を見るなら、地平線
まで見える。遙か彼方の景色まですべて展望できる。

有限な私たちは地上で見ているごとく、ほんの少しの目先の情報でしか、物事
を考えられない。
様々な計画を立てるにしても、近視眼的にしか見えていない。遙か先の事は
全く見えないし、明日の事すらわからない。

しかし永遠であり、無限であり、全知であられる神はどうだろう。
明日も、私たちの将来も、行く道も何もかも完璧にご存じだ。私たちよりも遙か
先を見た上で、今の状況を導き、配慮して下さっている。

自分はこの考えは絶対だ、この計画は絶対だと思う。そして自分に関わる状況を
見つつ、最高の結果を期待し、自らが立てた計画通りに事が運ぶよう願う。

しかし、その通りでなく、思い通りにならないと焦り、イラ立ち、不安になり
思い煩う。
が、遙かに高い神の前では、自分の計画は絶対ではないかも知れない、その
へりくだりが必要だ。

しばしば神のみ思いとは大きな違いがある。
神は私たちの事も、将来も、周囲の事すらも配慮し、最善をして下さる。

そして全主権を持っておられる神は「愛」だ。
今思い通りでない事態を、その愛なる方が最善へと導いておられる事を
信じよう。
・・・・・・・・・・

自分の思い通りに事が運べば「愛されている」思い通りでなければ、「愛さ
れていない」ではなく、光を造られた父から下るものが良いもの、完全な賜
物だ。自分の思いと違う「良い贈り物」を受け取ろう。


2008年10月18日(土)

「サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた」T歴代21:1

ダビデが行ったこの人口調査は、サタンからそそのかされたものであると、
御言葉が言っている。サタンの誘惑に負けて、誘い込まれて行なった事だっ
た。
神のなされた大きなわざを、自分が成し遂げた業績であるかのように誇る、
ダビデの高慢の罪であった。ヨアブが止めようとするが、ダビデはヨア
ブを説き伏せ実行した。

「王は神のみこころをそこなった」罪を犯してしまった。罪には苦しい刈
り取りがある。
主が疫病を下されたので7万人が死んだ。ダビデの罪のために、何の関係も
無い7万人もの人々が死んだのだ。私たちは罪に進む時、自分の自由にする
だけで、別に他人に迷惑をかけていないと思うが、そんなわけには行かない。

それが罪の恐ろしさだ。罪は自分だけでとどまらない。必ず周囲を巻き込み、
多大なる影響を及ぼし、自分の罪は、関係の無い周囲の人々を深く傷つけて
行く。そして、あなたの罪は、何よりもあなたを愛する人々を悲しませる。

罪を軽く見てはならない。ダビデはサタンに誘い込まれた。サタンは私たち
を倒そうと働いている。目を覚まして祈っていよう。「私たちを試みに会わ
せないで、悪からお救いください」祈りは大きな力がある。祈りにより罪に
進む事から守られる。

・・・・・・・・・・
自分の肉の欲望にサタンの誘惑がうまく合致して来るので、自分の思いで歩
むと、罪を犯してしまう。欲望と合致しているのでわからない。この狡猾な
敵との戦いである事を認識して祈っていよう。


2008年10月17日(金)

「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし、主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:2



ある人が、ある時友人が仕事で成
果を上げ、皆から大変な賞賛を受
けているのを見た時に、心に何か
ザラッとするものを感じた。何か
心に平安が失せ、帰宅後、何もか
も置いてまず、主の御前に静まっ
た。何か心にひっかかり、心が暗
く、重い。主に心の内を打ち明け、
心を探って下さるように祈った。
静まっていると、御霊が心の底に
ある妬みを示された。しかし、相
手は親友だ。そんなはずは無い。
今まで気持ち良く、仲良く付き合
って来た仲だ。しかし、御霊は示
された。実は初めからあったもの
で、決して自分が親友を妬むなど
と信じたくないし、認めたくない
ので、心の奥に抑えつけられ、封
印されたものであった。見ようと
せず、認めなかっただけで、自分
は彼を妬んでいたとはっきりわか
った。その事を主の御前に心から
悔い改めた。すると、心がすっき
りし、晴れ晴れして、平安と喜び
で一杯になった。主の赦しと愛に
触れた。自分が認めたくないもの
は、心が無意識に抑え込む。そし
て、それは無いものとしてしまう。
自分が全く気づかなかった思いや
罪を、御霊の光に照らし出された
経験があるだろう。御霊は内にあ
るものや、又、動機を照らし出さ
れる。一つ一つ認めて悔い改める
時、自由にされて行く。喜びが増
し加わって行く。
---------------------
光のうちに罪を照らされる事はな
んと感謝なことか。悔いて、赦さ
れ、神様の励ましを受けられる。
そこから謙遜にされまた歩める。


2008年10月16日(木)

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」ローマ7:24



ある牧師が証ししている。
神学校を卒業、実際の働きに
船出した。意気揚々、自信満
々、やる気満々だった。無牧
の小さな教会の牧会を始めた
が、それからの幾年間は、見
事に自信をくつがえされ、打
ちのめされるものだった。何
一つ、自分の思うようにはな
らなかった。自らの無力、無
能を見せつけられた。群れを
養う事ができず、教会を去る
人々も出て、ついに八方ふさ
がりで、完全に行き詰まって
しまった。もう一歩も進めず、
まさにどん底だった。なすす
べ無く、詮方尽きて、もう牧
師を辞めようと思った。燃え
尽きて、落胆と無力感におお
われていた。しかし、そのど
ん底で主の愛に触れた。どん
底こそが真の恵みであった。
主は決して責めも裁きもされ
ず、愛でおおって下さった。
「わたしに任せてごらん、わ
たしがしよう」と優しく包ん
で下さった。それ以来、変え
られた。自分が拠って立つ所
が自分の力や気力や自信では
なく、神の変わらない愛であ
る事を知った。それまで自分
はやれば出来ると思っていた
し、出来ないはずは無いと思
っていた。もがきの中で、自
己憐憫、怒り、失望、不平不
満で一杯であった。砕かれた。
もう自力ではない、主の恵み
の中で生かされ、平安と安堵
で一杯だ。しんどい苦しい状
態なら、恵みの領域がある事
を知ろう。
---------------
神様!と祈りながらも、自力
で戦ってしまい、しんどく苦
しい失敗を繰り返してしまう。
最初から何もできない事をご
存知で、なお愛して下さる神
様に感謝でいっぱいだ。


2008年10月15日(水)

「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」Tテモテ1:18



信仰生活に「良心」が非常に
大切だが、良心とはどんなも
のだろう。よく、船舶や航空
機の方位や進路を測る、羅針
盤に例えられる。羅針盤は正
しい方向を示すので、自分の
言葉や行ないを羅針盤に照ら
すと、方向違いを教えてくれ
る。しかし、その羅針盤自体
が正常でなければ、良心の判
断も何もかもが狂って来る。
羅針盤に故障があるように、
良心も絶対的なものでなく、
教育や価値観で違って来る。
正しいと確信して自爆テロが
できるし、パウロも神のため
と信じてクリスチャンを迫害
していた。私たちは心に血の
注ぎを受けて邪悪な良心をき
よめられた。御霊は御言葉に
より、平安の有無、促しによ
り正しく軌道修正して下さる。
御霊の促しを無視せず聞き従
おう。無視し続けるなら良心
が麻痺してしまう。良心が麻
痺するなら、どうにも出来な
い。破船だ。どんな立派な船
でも、船に穴が開き水漏れが
あると必ず沈没するように、
良心にも穴があり漏れたまま
なら、信仰が機能しなくなる。
とがめがある時、神を信じて
行く事ができない。罪責感が
ある時、信仰に立てない事は
経験済みだ。罪は、真実に御
前に悔い改める事だ。神は豊
かに赦し良心のとがめをきれ
いに消し去って下さる。その
結果平安が臨む。御霊の導き
に敏感であり、正しい良心を
保とう。
------------------
正しい羅針盤があるのに、そ
の導きに従えない罪を覚える。
そのままにせず、立ち止まり、
悔い改めて、もう一度真実の
羅針盤を見て方向を定めよう。


2008年10月14日(火)

「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかも知れない」エステル4:14


                                   
エステルが、モルデカイのもとに
送った宦官ハタクにより、ハマン
がユダヤ人を絶滅させようとの計
略を知る。そしてモルデカイから
の「王のところに行って、自分の
民族のために王にあわれみを求め」
るようにとの伝言を聞く。しかし、
召しもなく、王に近づくなら死刑
とのペルシャの法律がある。非常
に重い任務に悩む。しかし、モル
デカイの「あなたがこの王国に来
たのは、この時のためであるかも
知れない」との言葉を受け入れ、
法令にそむいても、王のもとへ行
き、死ななければならないのなら、
死ぬ事を決心した。これはエステ
ルの神への信仰だ。何より神に従
おうとした事の現れだ。エステル
にしか、他の誰にも出来ない働き、
エステルただ一人ができた任務だ。
捕囚の民として異国の地で育ち、
ワシュティが退けられた事により
王妃に抜擢された。すべて生い立
ち、成育歴は神の摂理だ。たまた
まそのようになったのではなく、
神のご計画であり、今、あなたが
遣わされている場も、神のご計画
だ。今の環境で、境遇で、あなた
にしかできない働きがある。その
ために今に至るまで、一分違わず
すべてが備えられて来た。今、
「この時のため」との何かの御心
を示されていたなら「おことばど
おりこの身になりますように」と
自らを明け渡して従おう。大きな
みわざが成し遂げられる。
----------------------
今自分にしか出来ない事は何だろ
う。神様の示しておられる導きに
気付けるよう、常に神様の御側に
いよう。神様が共におられる喜び
を持って、恐れずに素直に従える。


2008年10月13日(月)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」詩篇46:10



この「やめよ」は、別訳では「静
まって」になっている。「静まっ
て、わたしこそ神であることを知
れ」になっている。「静まって」
という意味は、喋らないという意
味の、黙ってという事ではなく、
自分で立ち、自分の判断、知恵、
力で動き回るなという意味だ。つ
まり、肉の力、人間的なものに頼
るなという事だ。しばしば突如の
問題が発生する。その時、まず心
が騒ぎ、慌てて、パニックになっ
てしまい、走り回って、できうる
限りの、考えられる限りの対処を
する。そして、その後に、神を思
い出すだろうか。危急の最中は、
自分を救い、守ることに必死にな
り、神がきれいに吹っ飛んでしま
う。肉で、動き回った後に、神を
忘れていた事に気づく。又、主は
「わたしを信じなさい」「恐れな
いでただ信じていなさい」と常に
御声をかけ続けて下さるに関わら
ず、見えない神を信じる事ができ
ずに、不安と恐れと思い煩いに支
配されているだろうか。これまで
どんなに良くして下さった事だろ
う。振り返る時、その恵みの深さ
大きさに圧倒される。今、肉の判
断、知恵、力を止めて、「わたし
に頼れ」と言っておられる。「立
ち返って静かにすれば、あなたが
たは救われ、落ち着いて、信頼す
れば、あなたがたは力を得る」。
まず静かに、落ち着いて、信頼し
よう。
-------------------
おきる全てのことに神様の主権を
認め、静まる事を学ぼう。落ち着
けない事態の中に神様を仰ごう。
一切の知恵、経験を信仰に置き換
えて行けます様に。


2008年10月12日(日)

「あなたの主人のもとへ帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」創世16:9 

    
   
子供のできないサラは、女奴隷ハガル
によりアブラハムの子を得ようとした。
肉には良い策だと思えた。アブラハム
もサラの提案ゆえ了承した。しかし、
ハガルに子供ができた時、ハガルは優
越感で、サラを見下げるようになった。
肉で事を行なうなら、必ずトラブルを
引き起こす。肉の手で何かを持つ時、
正しく所有する事ができない。自分を
見下すハガルに、サラはいじめで報復
した。ハガルはその仕打ちが余りにも
辛くて荒野に逃げた。しかし御使いが
現われ、サラのもとへ戻り、へりくだ
って仕えるよう、そして、神により子
孫がいに増やされる事を告げた。ハガ
ルとイシュマエルにすれば、自分の意
志の及ばない、自分で選んだ道ではな
い状況に置かれたことだ。ハガルは奴
隷であり、これは彼らの責任ではない。
しかし、状況に責任はないが、それに
向かう態度と行動は自らの責任になる。
神は彼らを顧みられた。サラによる教
訓は、肉の考え、判断、決定は必ず問
題を生じ、悩みを引き起こす事だ。人
間的にこれは最善と思える方法が、御
心なのではない。又、親しい人の、御
霊によらない肉の助言が罠となる。そ
こから大きく道がそれる事がある。聞
くべきはまず神であり、判断と決定の
際には祈って、必ず神に導きを求めよ
う。
・・・・・・・・・
何をするにもまず祈ろう。導きを求め
判断を求めよう。平安持って物事に当
たれる。その結果も主からのものと受
け入れる事ができる。自分で動かず、
まず祈ろう。


2008年10月11日(土)

「あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい」ローマ16:17

分裂やつまずきを起こす人々が、現に
起きて来ると御言葉が警告している。
現実問題だ。そんな人なのだから、見
るからに粗暴、凶悪人物を連想してし
まうが、そうではなく「なめらかなこ
とば、へつらいのことばをもって純朴
な人たちの心をだます」という。見る
からに良さそうな、むしろへりくだっ
た、温和そうな仮面をかぶって来る。
だから純朴な素直なクリスチャンが、
簡単にこのような邪悪な人々に騙され
てしまう。「彼らは自分の欲に仕えて
いるのです」パウロが涙をもって語っ
た。多くの人がキリストの十字架の敵
として歩んでいると。彼らの本当の神
は、彼らの欲望であり、つまり心の奥
底は、「自分」の思いを通したい、
「自分」が認められたい、崇められた
い「自分」の都合に生きたいとの思い
だ。その自分中心のゆえに、自分の欲
望を神として行く。「教えにそむい
て」今の時代、様々な聖書もどきの教
えが氾濫しているので、よく警戒しな
ければならない。「自分に死に、十字
架を負い」の教えが無い福音は気をつ
ける必要がある。又、「自分の欲に仕
えている」人々から「遠ざかれ」とは
っきり教えている。遠ざかる事は大切
だ。悪意のある邪悪な人々からは離れ
よと。自分自身がまず自分の欲に仕え
ていないかよく自戒し、自分の欲を捨
てて、主に仕えて行こう。
・・・・・・・・・
「教えにそむいて」とあるように、自
分の好悪や感情でなく、「教え」が大
切だ。何事も御言葉の基準、土台にし
っかり立って判別し、従って行けるよ
うに祈っていよう。


2008年10月10日(金)

「しかし今、子供は死んでしまった。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか・・あの子は私のところに戻っては来ない」Uサムエル12:23


「しかし今、子どもは死ん
でしまった。あの子をもう
一度、呼び戻せるであろう
か・・あの子は私のところ
に戻っては来ない」
Uサムエル12:23

ダビデの祈りに学ぶことがで
きる。ダビデは姦淫と殺人の
罪を犯してしまった。ウリヤ
の妻バテシバと姦淫を犯し、
忠実な夫ウリヤを殺害すると
いう恐るべき罪を犯した。自
分が蒔いたものは、必ず刈り
取る。罪には苦しい刈り取り
がある。ダビデは悔い改めて
罪は赦されたが、刈り取らね
ばならなかった。ナタンから
「あなたはこの事によって、
主の敵に大いに侮りの心を起
こさせたので、あなたに生ま
れる子は必ず死ぬ」と言われ
た。そして子供が病気になっ
た。ダビデは、その子のため
に断食し、引きこもり、地に
伏して、一晩中その事が助か
るよう、神に祈り求めた。結
局、その子は7日目に死んだ。
死んだことがわかると、ダビ
デは体を洗い、着物を着替え、
主に礼拝し、そして食事をし
た。ダビデは、これが、神が
与えて下さった「最善」だと
受け止めた。ダビデが、子供
が死ぬ事が決まっていたのに、
祈ったのは、もしかすると、
主が憐れんでこの子を生かし
て下さるかもしれないと思っ
たからだった。しかし死んだ
時、それが神の御心であり、
最善の事と受け入れた。あな
たも、心からの願いがあり、
祈ったが、それが自分の願い
とは違う方向へ向かっている
か。それを主の御心と受け入
れるように、語っておられる
のではないだろうか。
-------------------
神様の主権を認めるから、必
要はすべて与えられると信じ
ておられる。祈りの答えがノ
ーであっても、そこに決して
離れなずおられる神様を見る。


2008年10月09日(木)

「ヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとし、立った」ヨナ1:3



ヨナは神からニネベ行きを
命じられた。しかし、ヨナ
はニネベへ行くのは嫌で、
逃げようと、反対方向のタ
ルシシュ行きの船に乗った。
私たちも、御心だとわかる
が、気が進まず、嫌で、そ
うしたく無い事柄があるか
も知れない。嫌な事、しん
どい事から、逃げたいとの
誘惑が来る。又、更に魅力
的な事柄を置かれ、そちら
に誘惑されてしまう。ある
人は、高給に地位という魅
惑的な転職の誘いが来た。
だが、神の御心は今の場所
を動く事ではないとわかっ
ていた。しかし、自分の才
能が発揮できるとの誘惑に
勝てず、転職した。その結
果、仕事量も半端でなく、
時間労力、心が仕事に奪わ
れてしまい、神から離れて
しまった。幸い後に神に立
ち返れたが、多くの苦しい
刈り取りがあった。内心御
心だとわかりつつ、従う事
を迷っている時、丁度そこ
にピッタリの誘惑が来るも
のだ。反対方向の船が、ま
た、ちゃんとそこにあるの
だ。サタンの攻撃、誘惑を
わきまえよう。逃げること
は「主の御顔を避ける」こ
とになってしまう。主の御
顔の光の中を歩むことの方
がどんなに良いだろう。主
に従おうとする途端に、誘
惑と攻撃が来る。いつも経
験する。従わせまいとする
サタンだ。今、逃げたい心
があるなら、その事をまず
主にすべて告げよう。必ず
主からの助けが来る。
------------------
御心に従うことが不自由に
思われる時、すぐに誘惑が
来る。なぜ不自由に感じる
のだろう。いつも自由に御
心に従えるよう主の御側を
歩んでいたい。


2008年10月08日(水)

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあたながたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」ヨハネ15:7



ある人が神学生だった時に学
期始めに費用の前納が必要だ
ったが、ある時、お金が無か
った。何もかも捨てて、神だ
けに頼って神学校にやって来
たのだ。神は絶対に必要を与
えて下さるはずと、必死に祈
り、祈りに祈った。納入の締
め切り日が来たが、与えられ
なかった。お金は無く、心は
落胆した。しかし祈りに祈っ
た結果であり、故郷に帰ろう
と荷造りを始めた。その時、
学友も費用が不足で困ってい
た。それが何と彼が手元に残
っていたお金の範囲内だった。
それを友人に差し出し、その
友人は必要備えられ、学びが
続けられる事になった。すべ
ての荷造りが終了し、最後に
1通の封書が残った。もう出
て行くので見る必要もなく、
もう見る気力もなく、立ち去
ろうとした時、友人が封書を
開けた。すると、何とそれは
振込通知だった。必要な額が
振り込まれていた。祈りは答
えられていた。大喜びで主の
御名を崇めた。この御言葉に
よると、祈りが答えられるの
は、「あなたがわたしにとど
まっているなら」の条件があ
り、「そうすれば、かなえら
れる」。つまり、逆に、祈り
が答えられるという事は、私
たちが主にとどまっていると
いう事になる。これは祈りが
答えられる事の喜びを、更に
大きくする。
-------------------
祈りが答えられた時、神様が
確かに、この事を祝福して下
さっているのだと知り喜びが
あふれる。答えは様々に来る
だろうが、神様にとどまって
いる限りどれも尊い御心だ。


2008年10月07日(火)

「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」ルカ22:32

   

私達は皆、失敗する。どんなに
気をつけていても、機械でなく、
人間である限りミスをする。自
分がこんなミスをするなどとは、
信じられないと思うが、人間ゆ
えだ。大事な事は、その失敗か
ら「学ぶ」事だ。これが一番重
要であり、失敗したら学べば良
いのだ。もう一度やり直せば良
い。やり直す事ができる。幸せ
な結婚生活は、何と麗しい素晴
らしいものだろう。しかし、幸
せな家庭は、努力無しに有り得
ない。人は皆、わがままであり、
自己中心であり、放っておくと
自分勝手な道に行く。「私たち
はみなさまよい、おのおの自分
勝手な道へ向かって行った」の
通りだ。それぞれ自分の思い通
りに、好きな事だけをしていた
い。双方がそうであれば、和合
でなく分裂、無関心や又、争い
になって当然だ。双方で「自分
の利益を求めず」「自分にして
もらいたいことをし」互いに調
整し合う必要がある。それは自
分を捨て、自分に死んで行く歩
みだ。ペテロも大失敗をした。
主を裏切ってしまった。もう取
り返しがつかないと思った事だ
ろう。しかしそれで終わりでは
なかった。ペテロは砕かれた。
主の豊かな赦しを受け取り、再
び主によって回復させられ、建
て直された。私たちも失敗する。
その時、落胆して主を離れるの
でなく、すぐ主のもとへ行こう。
豊かに赦して下さる。そして、
その失敗をも益として、兄弟の
ために用いて下さる。何とあわ
れみの主だろう。
------------------
失敗したなら、すぐに主に祈ろ
う。謝るべき言葉、正すべき態
度に導かれ心は安心する。失敗
や自分の弱さに正直になり主か
ら受けた慰めを人にも与えよう。


2008年10月06日(月)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6



ある宣教師が宣教地で懸命に
労した。大きな期待、夢、希
望を抱いて始めた。数年間全
速力で走り続けた。エンジン
全開だ。しかし、どれだけ頑
張っても結果がなかった。や
ってもやっても成果無く思い
悩むようになった。方法が悪
いのか、何が悪いのか、様々
模索し、試行錯誤を繰り返す
が、目に見える成果は無く、
落ち込んで行った。焦り、不
安、思い煩いのネガティブ思
考になって行く。やがて気力
が全く失せ、何をする気も無
くなり燃え尽き症候群に陥っ
た。そのどん底で、完全無力
になった時、真に主に出会っ
た。全く責めも、結果が無い
と裁きもされず、それは愛と
慈しみの主だった。慈しみの
まなざしと愛に包まれ、全面
的に受け入れられる経験をし
た時、初めて自分の姿が見え
た。主のためにと思っていた
が、実は自分の満足のため、
充足感を得たいがために、全
力疾走していた事を。自分の
ために自力で突き進んでいた。
もし成果があれば大ごとにな
っていた。自分の栄光のため
に使い、高慢になり、恐ろし
い事になっていた。主は先を
見、何もかも見通しておられ
る。自分には最悪に見える事
が、実は最善だ。主には間違
いがない。私たちのする事は
「信頼」だ。今も目の前のそ
の事態に、主を認めよう。道
をまっすぐにして導いて下さ
る。
-----------------
他のものに信頼を置く時、い
つか失望落胆を味わうだろう。
神様がすべてを支配しておら
れる事を覚え、頼るべきお方
をいつも見ているなら失敗に
見えていても導きの中だ。


2008年10月05日(日)

「求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」ヨハネ16:24


御言葉によると、神は私たちが「お願
いする先に、必要なものを知っておら
れ」そして「私たちの願うところ、思
うところのすべてを越えて豊かに施す
ことのできる方」であり、私たちの
「必要をすべて満たしてくださる」方
だ。であれば、祈らなくても、備えら
れているのでは、と思ってしまう。し
かし、神は御言葉によると、すでに備
えられているものを「求めなさい。そ
うすれば与えられる」と言われる。
「求めなさい。そうすれば受ける」そ
して、「喜びが満ち満ちたものとな
る」と。すべての必要を備えていて下
さるが、受け取るために祈りを手段と
されている。それは喜びが満ち満ちる
ためだと。神がまことに生きておられ
る事を、私たちが知るためだ。もし自
分にせっぱ詰まった必要があり、誰に
もいっさい言わずに、神にだけ告げて、
それが見事に与えられたらどうだろう。
誰にも告げておらず、誰も知らないの
だから、まさに神からの答えであり、
直接、神と自分との関係の中での出来
事だ。これがどうして喜びが満ち満ち
ずにおれよう。ある人は生活の必要を、
ある人はこじれた問題を、他言できな
い悩みを、解決された様々な数え切れ
ない証しを聞く。あなたの今の問題を
神に祈ろう。神から答えを頂き、あな
たは喜びに満ち満ちる。
・・・・・・・・・
神にだけ拠り頼んでみよう。望みを神
に置き、必要を、願いを、誰にも言わ
ずに神にだけ告げ、神を待ち望もう。
神と自分との関係が深められ、喜びが
満ちる。


2008年10月04日(土)

「さて、この地にはききんがあったので、エジプトのほうに、下って行った」創世12:10

アブラハムは再度召しを受け、カラン
を出発し、カナンの地に入った。そし
てネゲブへ向かって旅を続けていた時、
激しい飢饉に会った。そこで、エジプ
トに下った。飢饉が余りにも厳しく、
命の危険を感じたのだろう。エジプト
に下って、アブラハムは罪を犯してし
まった。自分を守るために、サラを妹
だと偽り、サラにも偽りを強要し、そ
れゆえサラはパロの宮廷に召し入れら
れる事となった。間一髪のところで主
の介入があり、救い出された。アブラ
ハムの失敗は、厳しい飢饉に臨んだ時、
神を仰がず、神の御心を求めず、自分
の知恵と判断で動いた事だった。それ
がエジプト行きであり間違いであった。
まず神に祈り、頼り、神に指示を求め
るべきであった。私たちも信仰をもっ
て歩み出した途端、厳しい飢饉が臨む。
その時に驚き慌ててしまい、神が吹き
飛んで、自分で何とかしなければと、
立ち騒ぎ、とにかく自分を守ろうとす
る。右往左往し、肉の策を考え、行動
する。その結果、失敗し、刈り取りを
する事になる。自分で動かずに、「わ
たしを呼べ」と言われる主を呼ぼう。
どんなに飢饉であっても、主は手だて
を持っておられ、逃れの道も備えてお
られる。「立ち返って静かにすれば救
われ、落ち着いて信頼すれば、力を得
る」ことを覚えよう。
・・・・・・・・・・
不意の事態にパニックに陥り、自分を
守ろうと自分の都合の良いように動い
て、御心をそれてしまう。振り返った
時思い当たる。同じ失敗を繰り返さな
いよう、まず、主を呼ぼう。


2008年10月03日(金)

「あなたの生まれた故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」創世12:1



「あなたの生まれ故郷、あなた
の父の家を出て」とアブラハム
は神に告げられた。「生まれ故
郷、父の家」とは、自分の心の
ふるさとでもあり、居心地の良
い場所、長い間、慣れ親しんだ
習慣、生活、自分の居場所、拠
り所だ。不足する事なく、困る
事もなく、安心で、常に周囲か
らの助けもあり、生活の基盤が
据えられていて、安定した場所
だ。一つ所にとどまれば、経済
的基盤もできる。つまり、そこ
にいれば、物心共に神に頼らな
くても生きて行ける。そこを出
るという事は、それらを捨てて、
神にのみに拠り頼むという事だ。
知らない見た事もない地へ出る
わけであり、何があり、何が起
こるかもわからない。身の危険
もあるだろう。自分の持ち物に
も頼れず、人も頼りにならず、
自分の知恵も判断も頼れない。
ただ神だけが頼りであり、神の
言葉だけが行く道を示し、照ら
す。私たちもどうだろう。「生
まれ故郷を出て」「親族を離れ
て」、神以外に依存している様
々なものから離れて、神だけを
頼って、次の領域に前進せよと
言われていないだろうか。単に
地理的な場所でなく、霊的な領
域の事だ。人や物、自分の知恵、
判断への依存から出て、信仰を
もって次の段階へ進めと。その
時、神ご自身があなたの故郷と
なり、あなたの家となって下さ
る。あなたは何に深く依存して
いるだろう。
------------------
霊的に見ようとする時、邪魔し
ているもの、自分がすがってい
る平易なものは何だろう。振り
切って前進できるよう常に祈っ
ていよう。


2008年10月02日(木)

「神は、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」Tコリント1:27



あるクリスチャンは、信仰者
は立派で強くなければならな
い、決して弱味を見せてはな
らない、いつも喜んでいて、
落ち込んだり、沈んだりして
はならないと思い込んでいた。
それが良い証しだと。それで
懸命に頑張るが、出来ない自
分を思い知らされるばかりだ
った。そんな時、ある人から
いつも強くて、立派なのがク
リスチャンなら、私は到底な
れないと言われた。強くなけ
れば証しにならないと思って
いただけに衝撃だった。弱い
まま、主を見上げ、主を喜び、
主に頼り、感謝する事こそ証
しだと主が教えて下さった。
ある人は、自らの弱さを認め、
弱いまま、喜んで主に感謝し
て生きていた。すると未信者
の反感を買った。自分たちは
しんどい中、懸命に頑張って
いる。苦しいのだ。それを弱
さをさらけ出して、あるがま
ま喜んで感謝して、生きてい
る人を見ると、妬みと腹立た
しさが、怒りとなって裁きと
なる。罪の性質だ。この世は
強くなければならない。肩肘
張っていなくてはならない。
ばかにされると、弱みなど見
せられない。しかし、主は弱
くて良いと、弱さの中にこそ
神の力が完全に現れると、弱
さを誇れと言われる。何とい
う恵みと安堵、平安だろう。
自らの弱さを認めよう。そし
て、その所にいかに神の力が
現れるかを見せて頂こう。
---------------
自分の弱さに正直でいよう。
限界を素直に認め、神様に助
けられて喜んで生きている、
ありのままの姿を世の人に隠
さず見せて行こう。


2008年10月01日(水)

「彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」詩篇105:18



私たちは時に勘違いする。神
の御心に従ったのだから、も
う大丈夫。これで何もかもう
まく行き、順風満帆、最後ま
でもう0K!と。ところが、
時に、御心に従った途端、試
練が臨む。あなたも経験ある
だろうか。御心に従ったはず
なのに、状況がうまく行かな
いのだ。御心に従ったのだか
ら、すべてスムーズに行くは
ずなのに、頭をあちこちでぶ
つける。「なぜ?」「こんな
はずでは」「何かがおかしい」
「御心ではなかったのか?」
今、あなたがこの状態なら、
心配ない。着々と前進してい
る。御心ならすべてがスムー
ズとの、なぜか思いがあるた
め、戸惑い、思い悩んでしま
う。一番の苦悩は、本当に御
心だったのか?誤ったのでは
?との思いだ。しかし、そう
ではない。信仰が試されてい
る。「主のことばは彼をため
した」の通りだ。ヨセフの足
かせは、ヨセフを悩ました。
思い通りにならない、思うよ
うに行かない。あなたにも、
次から次へと問題が起きて、
悩ませられているだろうか。
まさに足かせのように感じる。
しかし、神の計画は着々と進
められている。あなたも今、
御心に従って船出し、嵐に会
い、信仰が試されている。主
の御言葉を、約束を握ってい
よう。「ですから、元気を出
しなさい。すべて私に告げら
れたとおりになると、私は神
によって信じています」。
------------------
目的の途中で誘惑や妨害が
あるだろう。御心に従ってい
るから更に信仰を試され、い
よいよ歩みを確かにされる。
ここに立ち元気を出して歩も
う。