2008年11月30日(日)

「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい・・耐え忍んだ人たちは幸い」ヤコブ5:10

この世の宗教は、悩みや苦しみを免除されるために、苦しみに会わないために信
心する。信仰していて、苦しみに会うなら信心している意味がない。世の価値観
は、苦しみは悪であり、忌むべきものだ。

しかし、聖書はそう言っていない。信仰人生には、数々の試練があると繰り返し
聖書の中で告げている。人生で、大きな小さな様々な苦しみや悲しみ、痛みに会
う。
信仰生活には必ず苦しみや悩みがあり、御言葉もはっきり言っている事だ。それ
にどう向き合うかが大切であり、苦難にあっては忍耐が重要だ。

苦しみにも種類があり、★ヨブの理由のわからない苦しみ★善を行っていて、尚
受ける不当な苦しみTペテ2:19★訓練としての苦しみヘブル12:7★自分の罪ゆえの
苦しみ★主のための苦しみピリピ1:29 等だ。

自分の罪が原因の苦しみは、罪を悔い改めるべきだ。その苦しみは罪を教え、悔
い改めに導くために送られている。そして蒔いたものを刈り取って行く事が祝福
の道だ。

他の苦しみは忍耐する事だ。忍耐とは、ただ我慢する事ではなく、主が必ず良く
して下さると信じる事だ。そこに希望がある。その苦しみを通して、私達は練ら
れ、鍛えられ、聖められる。
そこを経て霊的に必ず一段階成長し、御霊の実を結ぶ。

あなたも今、苦しみの中だろうか。罪なら悔い改め、罪で無ければ、主を待ち望
む事だ。その試練に意味がある。しばらくして必ず平安な結実を見る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
苦しみ、痛み、悲しみ=悪との価値観がある。価値観の問題は大きい。培われた
古い価値観と御言葉を交換して、神の価値観で物事を見て行けるよう祈ろう。御
言葉によると、試練から忍耐が生じ、試練によって成長する。


2008年11月29日(土)

「あなたの主人のもとへ帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」創世記16:9

                            
    
アブラハムへの主の約束はなかなか成就をせず、幾らたっても子供のできないサ
ライは、一つの提案をした。
女奴隷ハガルによりアブラハムの子を得ようと考えた。子供を与えるとの約束が
あるのだから、手段は別に構わないではないか、肉は良い考えだと思えた。

これで子供を手に入れる事ができる。良いではないか。アブラハムも、自分から
言い出した事でなく、サライの提案ゆえ承知した。

しかし、ハガルに子供ができた時、問題が生じた。ハガルは優越感でサライを見
下すようになった。肉でする事は、外見どんなに良く見えても、必ず深刻な問題
を引き起こす。

想定外の事態にサライはハガルをいじめた。ハガルは辛くて荒野に逃げた。しか
し御使いが現れ、サライのもとへ戻って仕えるよう、ハガルの子孫を大いに増や
す事を告げた。

ハガルとイシュマエルにすれば自分で選んだ道ではない。奴隷の身であり、選択
の余地は無い。これは彼らの責任ではない。しかし、状況に責任はないが、それ
に向かう態度と行動は自らの責任だ。

神は彼らを顧みられた。サライによる教訓は、肉の判断、決定は必ず問題と悩み
を引き起こす事だ。人間的にこれは最善と思える方法が、必ずしも御心なのでは
ない。

又、近親者や近い者の、肉の助言が罠になり、そこから大きく道がそれる事があ
る。聞くべきは、まず神であり、判断と決定の際には必ず祈ろう。神が御心へと
導いて下さる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
肉で行った事は、大きなトラブルを生み出す。自分だけにとどまらず、周囲まで
巻き込んで多大な迷惑をかける。秩序を乱し、蒔いたものを刈り取る事になる。
よくよく祈って御霊の導きを仰ごう。へりくだって主に拠り頼もう。


2008年11月28日(金)

「あなたの判断が、ほめたたえられるように。また・・私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉があるように」Tサムエル25:33



ダビデはサウルに追われ、逃亡し放浪生活をしていた。
しかし、それにも関わらず、困窮する者、負債のある者、王に不満を持つ者たちがダビデの
もとにどんどん集まり、総勢600人にもなった。

パランの荒野にいた時、数千頭もの放牧をしている非常に裕福なナバルという人物がいた。
ダビデは使いを遣わし、食糧を求めた。というのも、当時それらの家畜をダビデたちが守っ
ていた形になるので、親切を求めた。

ところが愚かで考えの無いナバルは、逃亡中のダビデを非難し、使いの若者たちを追い返した。
ダビデは400人の部下と共に報復に向かった。

事態をナバルのしもべが、妻のアビガイルに告げた。
このままだと主人や一家が殺されてしまうと。しもべは、本来ならすぐに主人に告げるはずが、
頑迷で強情で偏狭なナバルにではなく、聡明な妻に告げた。

アビガイルの判断と機転で、事なきを得た。しもべは、頑迷なナバルには言えなかったが、
聡明なアビガイルには言えた。

私たちはどうだろう。助言、忠言に聞く耳があるだろうか。ナバルは良い妻としもべのゆえに、
窮地を脱したが、その後、主に裁かれ滅んだ。

自らの愚かさのゆえに。私たちはまず何よりも、主の言葉に真剣に耳を傾けよう。
そして、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを悟る者にされたい。
----------------------------
人生経験をつむうちに、人はどんどん傲慢で、頑迷になって行くが私達には、神様のルール
がある。み言葉によって耕された柔らかい心で、謙遜にみ心を尋ね、従って行こう。


2008年11月27日(木)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11



心にネガティブな、屈折した思いがよぎるなら、よく気をつけよう。サタンの攻
撃だ。自分の思いでなく、サタンが吹き込んで来た思いだ。ほんろうされないで、
つけ込まれないで、よく見分けよう。

ある人が、隣人と近づきになりたいと願った。声をかけ、お茶に誘うが、どうも
来る気配がない。こちらは親しくなりたいのに、相手はそうでもなさそうだ。
段々否定的な思いが、湧いて来る。もしかして自分が嫌われているのでは。
避けられているのでは。段々、疑心暗鬼になって来る。

こちらも傷つきたくないので、避けるようになった時、突然、サタンだと気づか
された。無いものをあるかのように、自由自在に思いを吹き込んで来る。

それは妄想だ。話す機会があり、率直に話してみると、彼女は全く友好的であり、
何の問題もなく、彼女のあっさりした性格によるものとわかった。
疑いがきれいに消え、平安に満たされた。

又、今の今まで平安に過ごしていたのに、突然、心が暗くなり、憂鬱になり、
重苦しくなる事がある。心を探ると、サタンにより、思い煩いの火矢、あの対人
関係、この予定・・何らかの否定的な思いを吹き込まれた結果だ。

サタンは妄想を吹き込んで来る。サタンに気づき拒否すべきだ。
委ねるべきものは、きっぱり主に任せよう。委ねた後の不安は、サタンの攻撃だ。
警戒して見張っていよう。御霊が、サタンを気づかせて下さるよう祈っていよう。
------------------------
常にサタンの攻撃の中にさらされている事、そして自分の力では勝てない事を
覚えよう。思いを良く見張り、御言葉と、祈りをもって備えサタンに勝利できま
すように。


2008年11月26日(水)

「しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:18



エルサレムを離れ、郷里へとぼとぼと引き揚げる、二人の弟子達は目がさえぎられていた。
自分たちの、かたわらを歩いておられる方が、主イエスだとはわからなかった。

なぜ、わからなかったのか。御言葉によると「信じない、心の鈍い人たち」とある。
不信仰が目をさえぎっていたと。

不信仰は目のおおいとなって、今、確かに目の前におられる主が見えない。
復活を信じない彼らは、主が死んでしまって、絶望と落胆の中にあった。

深い悲しみもあった。私達も失望の中にいる時、主が見えない。
「失望」とは主に望みを置き、期待を向けずに、主を見限ってしまう事だ。

不信仰は私達の心をふさぐ。又、「自己憐憫」は自分の殻にこもり、主を排除するので、
ただ見るのは自分だけだ。

又、「不安」も目がシャットアウトされる。思い煩いにおおわれ、心配の山ばかりが見えて、
主が見えない。

「多忙」も目の前のこなすべき事柄にだけ心が奪われ、頭も心も目先の事で一杯で、主を
認める事をさせなくする。主が目の前から消える。

今、私たちはどうだろう。かたわらの主をはっきり見て喜び楽しみ、共に歩んでいるだろうか。
目がさえぎられて見えないでいるだろうか。障害物に気づき、それを取り除こう。
主には問題なく、今もあなたのかたわらにおられる。
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目の前は世の流れ、世の価値観だから、私達は、いつも目がさえぎられる。不信仰との戦いだ。
さえぎるものが自分の中にあり、障害物を持って来るサタンを覚え、目覚めていよう。


2008年11月25日(火)

「だから、施しをするときには・・自分の前でラッパを吹いてはいけません・・彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」マタイ6:2


主は「忌まわしいものだ。偽善の律法学者・・」「おまえたち蛇ども、まむしのすえども
・・ゲヘナの刑罰をどうしのがれることができよう」と強い調子で告げておられる。

主はどんな罪をも赦し、罪人の友となられ、愛された。しかし、徹底的に「偽善」を憎まれた。
施しや祈り、断食について、人に見せるために、人からの賞賛を得るために、善行をしている
のであれば、「彼らはすでに自分の報いを受け取っている」と言われた。

人からの賞賛で心が満ちたりて、地上での人からの報いを受けて、十分満足だと思っている。
天の報い、神からの報いなど求めていないと。

つまり、神を見ておらず、神を求めておらず、見ているのは天ではなく、この地上であり、
関心事は、地上の事だけであり、人の目、人からの評価だけだということだ。

人から認められ、評価を受ける事ができるなら、それで良い。それで充分、これが偽善だと
言っている。

偽善とは実際より良く見せようというのではなく、神ではなく、人の評価に生きることだ。
それを止めれば良いのだがそれができない。

まず、神でなく人の評価を求めて、生きている自分を認め、悔い改めよう。
主が私のために命を捨てて下さった、それが主の私への評価であり、何があってもそこに立ち
続ける事だ。
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主が命を捨てるほどに、私を愛し、惜しまれた事、それだけで十分で、それだけが感謝だ。
人からの賞賛をあてにしたり惑わされそうになった時、気づきが与えられますように。


2008年11月24日(月)

「あなたがたは・・奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私達は御霊によって、「アバ、父」と呼びます」ローマ8:15



ある人が小さい頃から、弟や妹の面倒をずっと見て来た。
両親が働いていた事もあり、親代わりに世話をして来た。親も疲れ果てて帰宅する毎日に、
親にも甘えるどころか、親の親になっていた。

自分の気持ちを抑え込み、良い子でなければならず、良い子でずっと生きて来た。
信仰持ってからも良い子クリスチャンだった。自分では全く気づかなかったが。

神の前でも良い子でいようとする。だから主と距離があって、神の愛が頭でしかわからなかった。
実感が無かった。本心を隠したまま、自分の本当の気持ちなど決して出せなかった。

ところが度重なる試練に、八方塞がりで追い詰められ、行き詰まり、良い子を演じる余裕が無く
なり、限界状態で、ついに本心を神にぶつけた。怒りだった。
これまで従って来たのに、散々な状況に怒りが爆発した。

しかし、その本心を神にぶつけた時、初めて神から答えを得た。生きた交わりを経験した。
主に何でも心の内を言っていい事がわかった。今まで言えなかった。

心が心底楽にされ、喜びが湧き上がり、心底の平安、安堵を経験した。本心隠したまま、
良い子で主の前にいないだろうか。その本心を受け入れて下さっている。
「アバ、父、お父ちゃん」と、子供になって素直に御前に出てみよう。
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アバ、父・・お父さん!と呼びかける神様との親しい関係は、本当に感謝だ。
本心を隠す必要はない。ありのまま正直に神様の前にいよう。赦され続け愛し続けて
くださっている。


2008年11月23日(日)

「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」マタイ6:2


当時の律法学者やパリサイ人たちは施しをしていた。主は施しを否定されたので
はなく、「人にほめられたくて」人の賞賛を得るためにする事を禁じられた。
彼らは動機が間違っていた。

貧しい人々に施しをするのは、その人々のためではなく、人々から立派だと思わ
れるため、自分たちのための施しだ。つまり貧しい人を利用して、自分を高めて
いた事になる。

そして「ほめられたくて」行なっていた。天の父ではなく、自分たちが崇められ
ようとした。神に栄光を帰するのでなく、自分の栄光のためであった。私たちに
もかなり根深く、人の評価を求める心がある。

人に認められたい。善行をして感謝が返って来ないと、何と常識のないと、怒り
が湧くだろか。又は落ち込むだろうか。それは相手を愛して行った善行ではなく、
自分のためのものだからだ。しっかり見返りを求めている。

実は目に見えない神よりも、目に見える人からの感謝、評価の方が心を満足させ
る。心を満たしてくれる。しかし、それは神の御前でなく、人前で生きている事
になる。神からの栄誉よりも、人からの栄誉を求めている。

神ではなく自分を愛している。人の栄誉を求めて生きる時、神が見えなくなる。
神を信じる事ができない。人からの報いを捨てる時、神からの報いを求め、神を
信じて行く。自らも弱い者である事を認めて、主の助けを仰ごう。主が心を砕き、
御前に生きる者へと変えて下さる。
・・・・・・・・・・・・・・・
施しが隠れているとは、全く人からの報いを求めない事だ。自分と主との関係で、
主のために、善行をしたのであれば、相手の反応に影響される事はない。人に認
められたい弱さがある。そのまま主のもとへ行き告げよう。気づき与え導いて下
さる。


2008年11月22日(土)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:3

この世は、悪口や悪意による噂話でいっぱいだ。職場や学校で近隣で、しょっ中
でくわすだろう。あるクリスチャンが、子供の学校の役員会で、母親たちの悪口
三昧に驚いた。

ここにいない人たちの事を、あれこれ言うのはフェアでないと言ったが最後、次
の役員会には全員からの無視に会った。

「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく」
と箴言にあるごとく、罪の性質には悪口は美味しい蜜の味だ。

悪口を言うのは、その人の評価を下げて、自分が安心するためだ。クリスチャン
になるとさすが罪意識があり、決して口に出しては言わないが、嫌いな相手の話
題が出たりすると、心の中 でしっかり同意し、肉を満足させていたりする。

悪口を心の中で言うその底に、相手への隠れた羨望や妬みがあったりする。相手
を妬んでいるので、引き下げたい。その羨望や妬みは比較から来る。

しかし、神に向き、神の自らへの深い愛や顧みを知り、どんなに大切に思われ慈
しまれているかを知る時、人を引き下げる必要がない。比較の必要が無い。まず、
自分の弱さをいっさい隠さず、あるがまま神の御前に認めて行くことだ。

その時初めて、あるがままの自分を受け入れ、尊び、極みまで愛して下さってい
る主の愛を実感として知る。その時、心に喜びが来る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
比較は人の常、肉の性質、サタンの誘惑だ。比較からあらゆる問題が派生する。
劣等感と優越感、妬み、悪意。比較したくないがしてしまう、そのままを、まず
主に告白しよう。あるがままの心を告げよう。その時、不思議に平安が臨む。


2008年11月21日(金)

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12:2



主の「来なさい」との御言葉を受けて、ペテロは湖の上を歩き出した。
水の上を歩くという奇跡がなされた。ところが風がヒューと吹いて、風と波を見た途端、
恐くなり、主から目を離すと沈み始めた。

何が違ったのか。全く同じ状況で、見つめる対象が違っただけで、沈んでしまった。
私たちも普段の信仰生活で経験する事だ。

主イエスを見て、御言葉にとどまっている時、御言葉が心にしっかりある時は、どんな
苦しい状況の中でも、信仰があり、平安があり、歩んで行ける。

しかし、主から、御言葉から目を離した途端、真っ暗な状況に、辛い状況に飲み込まれ
てしまい、信仰が機能しない。

不安と思い煩いと落胆の大波にさらわれ沈んでしまう。主イエスか、波風か、どちらを
見ているかで喜びと平安で歩けたり、心が真っ暗になりブクブク沈んだりする。

毎日の生活の中でこの明暗が起きている。真っ暗な状況を見ているだけでは、信仰は起
こらない。ますます落ち込むばかりだ。

御言葉を握り、主を見上げる時、信仰が湧き上がる。喜びが来る。
主が信仰の創始者であるので、主を見つめる時、信仰が来る。

自分で頑張って、信じよう、信じようとするのでなく、語って下さった御言葉、約束の
御言葉にとどまる時、主によって「与えられる信仰」が臨む。
-------------------------
御言葉から離れたとたん恐れや不安、妨害を目にする。御言葉と現実のとの間には、必ず
壁がある。だから主から目を離さず信仰をもって、今日も置かれた場所で喜んでいよう。


2008年11月20日(木)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3



ある人が、どうしても愛せない人がいた。嫌いで、憎しみをどうする事もできなかった。
しかし、憎しみには、とがめを感じ、罪責感があり、罪意識にさいなまれた。

その罪意識から逃れるために、逆に、相手に親切にしようと頑張った。
憎しみを隠し、ふたをし、罪責感から逃れたくて必死だった。

何とか、礼儀正しく接し、愛の行為をしようと頑張った。
しかし、相手に良い行いをしようとすればするほど、心は、いら立ちと憎悪でいっぱいで、
どうにもならなかった。

相手の悪口が言われている場所では、しっかり心で同意して溜飲を下げるのであった。
そして、溜まったストレスにより、陰では非難や悪口を言ってしまうのであった。
愛からは、ほど遠い結果となっていた。

この間違いは、行ないによって罪責感を無くそうとした事だ。
良い行ないによって自分を救おうとする。
憎悪、敵対心、憎しみを認めないで、それを暗闇に封じ込め、隠し、無い事にしてしまう。

そうではなく、憎しみの感情を光のもとに出し、自分がそういう者であると認める事だ。
その時、それはすでに光の中だ。あるがままを認め、告白する時、必ず変えられて行く。

大切なのは、良い行ないでなく、罪を認め、告白し、悔い改める事だ。
その時、新しく新しくされ自由にされて行く。
-----------------------
肉によって完璧を装う事はできるだろう。しかし、いつまでも内側は、朽ちていく古い人の
ままで良いのだろうか。御霊によって新しくされ、自由にされ、つたない歩みであっても信
仰もって歩みたい。


2008年11月19日(水)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17



ダビデは、子供のアブシャロムの謀反によって、王座を追われる。家来達と荒野を逃げ回る。
その時、サウル家のシムイが盛んに呪いの言葉を吐きかけた。

ダビデと家来達に石を投げつけ呪った。「出て行け。血まみれの男、よこしまな者。
主がサウルの家のすべての血をおまえに報いた・・」

アビシャイが、この者を殺す事をダビデに尋ねる。しかし、ダビデは神が呪わせていると、
それを主から出た事と受け止める。

バテシバとの姦淫の末、夫のウリヤを殺害した自らの罪、血まみれの罪を思い、へりくだり、
神を仰ぎ見て耐え忍ぶ。

その後、ダビデは高ぶりの誘惑に陥り、人口調査の罪を犯す。
なぜ、そのような事をとの部下ヨアブの進言にも関わらず、再び罪を犯した。

その罪の結果、イスラエルに3日間の疫病がまんえんし、7万人が死んだ。ダビデの罪ゆえに、
罪の無い7万人もの人々が死んだ。

上に立つ者の罪は、大きな結果を招く事になる。ダビデの生涯には数々の失敗があったに関わらず、ダビデへの選びと召しは失われなかった。

「彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する」と。
それはダビデのへりくだりによった。罪の徹底した悔い改めがあった。
悔い改め、悔い改めて歩もう。それが神の喜ばれるいけにえだ。
------------------------
自分は無力で、間違いやすい者である事をいつも覚えて、罪を悔い改め、その度に赦しを
受け取り謙遜に歩んで行きたい。悔いた心をさげすまれないという事は、何という感謝か。


2008年11月18日(火)

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」ローマ8:4



信仰生活、いつも神の御言葉に立つよう教えられる。しかし、目に見えるところと
神の御言葉が相容れない時、現実とズレがある時、どうしているだろう。

ある人が二つの「しかし」があると言った。厳しい困難が生じた時、「神は益とされる」
「神は最善をされる」「神はご計画をお持ちだ」「神は愛して下さっている」でも、

「しかし」、こんな状況で、この真っ暗な現実で、どこが神が愛なのか。
神が愛ならなぜこうなのか。どこが最善なのか。最悪ではないか。何で信じられよう、の
「しかし」だ。

もう一つは、目に見えるところ真っ暗闇だが、何も見えないが、「しかし」神を信じ、神
の愛を信じ、神の言葉を信じようの「しかし」だ。

どちらに立つかで、天と地の差となる。信仰の「しかし」を選び取り、何も見えなくとも
そこに立つ時、御霊の実を結んで行く。

不信仰の「しかし」を選ぶなら、愚痴と不平不満、失望落胆、怒り、落ち込みの肉の実を
刈り取って行く。

ある人が、家族が次々と病やけがに倒れ、身動き取れない困難のまっただ中で、信仰の
「しかし」を選び取り、最善以下をされない事を信じ、神に感謝した。

すると、その信仰は本人だけでなく、周囲に大きな励ましと天の潤いをもたらした。
そして目の前の状況が一つ一つ導かれて行くのを見た。
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御霊に満たされていなければ、神様の御約束より、不信仰の「しかし」の方が確かに思える。
自分の恐れや思い煩いに、飲まれないよう御言葉の約束を握り、御霊の導きを選び、信仰に
より勝利して行こう。


2008年11月17日(月)

「あなたの心は高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか」U列王14:10

ユダ王アマツヤは1万人のエドム人を打ち殺し、心は奢り高ぶっていた。「その
栄誉に満足して」家にとどまっておればよいではないかと、ヨアシュが言った。

どうして、争いをしかけて、わざわざ災いを求めるのか。あなたもユダも倒れる
事になると。自分だけでなく、周囲の者も傷つける事になると。しかし、アマツ
ヤは聞く耳持たず、ヨアシュと戦った。アマツヤは言葉通り、打ち負かされた。

それだけでなく、エルサレムの城壁を400キュピトに渡って打ち壊された。主
の宮と宝物倉にあったすべての金銀、器具が奪われ、人質を取られた。「その栄
誉に満足」しないで、奢り高ぶる時、破壊的結果をもたらす。

わざわざ災いを求め、罪をもてあそぶ事は、悲惨な、取り返しのつかない結果を
招く。罪を決してもてあそんではならない。又、今、神から与えられている栄誉
に満足し、貪欲に陥らないよう自戒しよう。

罪をもてあそぶ時、心の城壁が崩れ、罪から罪へと進んで行ってしまう。私たち
が罪を犯す時、自分だけにとどまらない。「あなたもユダも共に倒れ」、自分も
周囲の者も深く傷つけてしまう。

宝物倉の金銀が奪われた通り、罪をもてあそんだ結果、幸せな家庭や信頼関係が
壊れ、地位を追われ、痛みを刈り取る。御言葉にとどまり、主との生き生きした
交わりに生き、誘惑から守られるよういつも祈っていよう。

・・・・・・・・・・・・・・・
だいたい自分は大丈夫と思っている。自分の弱さを知っていたなら、祈り備える
が、弱さを知らないので、何の防備もなくサタンの誘惑に陥る。罪はすぐに
悔い改めよう。今日もよく祈って、御声に耳を澄まし、祈りによって行動し
て行こう。 


2008年11月16日(日)

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」マタイ6:8

祈りにおいて、言葉数の多さで聞かれるのではない事を言っている。祈りとは、
神がご存じないから、延々と状況を一から十まで知らせるという事ではない。

又、それなら、神がもうご存じであれば、祈る必要ないではないかと言う事では
ない。すでに何もかもご存じでいて下さるからこそ、安心して安堵して祈る事が
できる。

なぜなら、私たちは、様々な非常な困難な状況に陥った時も、本当には自分に何
が必要なのか、何を求めたらよいのか、わかってはいないものだ。ましてや他人
の必要などわからない。的はずれに求めているような者だ。

しかし、的確に、完璧に、私たちの必要をご存じである方に、祈っているならど
うだろう。自分の祈りは足らないものであり、的はずれなものかも知れないが、
つたない祈りが聞き入れられ、祈りが助けられているとの安心感、平安が臨むの
ではないか。

祈りは、祈りの実践の中でしか学べない。机上の理屈は通用しない。祈って行く
中で、御霊に、動機が探られ、気づかなかった罪が示され、悔い改めが与えられ、
的はずれな祈りが軌道修正されて行く。

祈りの中で、祈りが導かれて行く。経験した事だろう。必要をすべてご存じの御
父に子供が「お父ちゃん」と行くごとく、心を打ち明けて行こう。御父は喜んで
受け止めて下さる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つたない、的はずれの祈りをご存じだ。祈る先に、御父はすべての必要をご存じ
だからこそ、祈れる。本当には必要をわかっていない、未熟な祈りだ。御父はそ
れもご存じで、祈りを助け導いて下さる。何と嬉しい事だろう。祈って行こう。


2008年11月15日(土)

「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」マタイ15:28

主の沈黙が出て来る。カナン人の女が娘を助けて欲しいと主に叫んだ。しかし、
主は一言も答えられなかった。助けを求めているに関わらずだ。

そこで、弟子たちが出て来て、女 がうるさくて仕方が無い、何とかして欲しい
と主に願った。弟子達の冷ややかな態度が加わる。

すると、主は、イスラエルの家に遣わされていると言われ、「ダビデの子」との
言葉は不適当であった。なぜなら、女は異邦人であり自分の立場をわきまえた。

それを理解して、今度は「ダビデの子」をはずして、「主よ」と願った。必死だ
ったに関わらず、小犬には、やれないとはっきり断られた。
非常に冷淡に見える。しかし、主の拒絶に会いながらも反発したり、怒ったり、
諦めるのでなく、とことんへりくだった。自らを「その通りです。小犬です」と
認めて。

私たちは祈りに力がある事を知っている。祈れば主は聞いて下さる。それゆえ必
死で祈り、どうしても聞いて欲しいとの強烈な願望は、いつしか自我と取って代
わる事がある。

何が何でも得たいものがあると、口では恵みと言うが、強烈な自己主張へと発展
して行く。得て当然、祝福されて当然の態度だ。祈り倒して得ようと。自分が神
の上に立ち、神や信仰が、自分の願いを叶える手段となってしまう。

時に、この誤りに陥ってしまう。この女性のへりくだりは、大きく教えられる。
どこまでもへりくだり、真っ直ぐに主は必ず良くして下さるという信仰、おこぼ
れは頂けると、主にしがみついて離れなかった。主はそれを立派な信仰と、喜ば
れた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女はへりくだり続けた。「その通りです」と認め、どこまでも主にしがみつい
た。彼女の信仰は試され、引き上げられ、堅くされた。私たちの信仰も堅くしよ
うと取り扱われる。今思い通りでないなら、へりくだろう。そして求め続けよう。


2008年11月14日(金)

「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」マタイ21:27



神がよくわからない事に、この一面が無いか心探ってみよう。
主が宮で教えておられた時、祭司長・長老達が「何の権威によってしているのか」
と言った。

その前には宮で売り買いする人達を追い出し、両替人の台や鳩売りの腰掛けをひっ
くり返された。又、彼らは自分達こそ教える権威と資格があると思っていた。

それに対して主は問われた「ヨハネのバプテスマは天からか、人からか」と。
彼らは相談した。もし「天から」と言えば、そのヨハネが主イエスは神から遣わさ
れたと証ししているのに、なぜ信じないかになる。

又、もし「人から」と言えば群衆はヨハネを神から遣わされた預言者だと認めてい
るから恐いと。それで彼らは「わからない」と答えた。

「天から」と答えてもまずいし「人から」と答えてもまずい。
それで「わからない」に逃げた。主の答えは「わたしも話すまい」であった。

彼らは神に出会えなかった。真摯に主イエスにも、正直に自分に向き合う事もなか
った。責任を取りたくないので、逃げて真実に直面しない。だから主も答えられない。

本当に「人から」と思うのならそう言えばよい。正直な真実な気持ちに主は対応して下さる。
そこから次の展開がある。私たちはどうだろう。
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み言葉に向かいながら、礼拝のメッセージの中から、ちくっと心に刺さる示しがある。
真実な自分が照らし出される時だ。神様の示しに素直に耳を傾け、応答して行こう。


2008年11月13日(木)

「あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」ルカ18:14



パリサイ人と取税人が祈るために宮に来たが、二人の祈りは対照をなしていた。
取税人は罪人の私をあわれんで下さいと祈り、パリサイ人は、〜な他の人たちの
ようでない事を感謝しますと祈った。

教会学校の視覚教材で、ハート型に切った紙を使うが、取税人は真っ黒なハートが
真っ白にされて帰った。パリサイ人は真っ黒なハートが真っ黒なまま帰った。

パリサイ人が来たのは、赦しを受ける者だと認めたからではない。
自分は正しく、神の賞賛を求めてであった。自己賞賛で一杯だった。

聖霊もパリサイ人に方法が無かった。なぜなら、「己の義」という強固な頑強な
よろいをまとっていたからだ。

罪の悔い改めの促しなど、はねつけ、ものともしなかった。
取税人は顔も上げられず、恥じ入り、しかし罪の赦しを祈った。

彼の罪は赦され、神の義におおわれた。「自分は正しい」に立つ時、何も見えなく
なる。自分は正しいのだから、必然的に、間違った他の者たちのようでない事を
感謝する事になる。

「神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩む」事になる。

へりくだって、御霊の声に耳を傾けよう。御霊は間違いを教えて下さる。
自分が間違っていると気づく時、自己義が砕かれ、素直に御言葉に耳を傾ける。
そして闇が光に照らされて、はっきりと見えて来る。
-------------------------
義とされるのは神様だ。罪を認め、罪の赦しを受け取る時、私達は義とされ、頭
を上げて行ける。
私は正しい・・のではなく、私は常に赦される・・この光の中を今日も歩もう。


2008年11月12日(水)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3



弟子たちが、なぜ?と思ったように、現在の自分に様々な苦しみや重荷を抱えている時、
なぜ?どうして?との思いから、人はその苦しみの説明をつけようとする。
その時、どうしても過去にその原因と理由を探そうとする。

成育歴や過去に起きた事に行き着き、誰かの、又何かのせいにして、自分の心を収めよ
うとする。誰かにぶつけざるを得ない。

しかし、あれが悪かった、これが悪かった、あの時ああであれば、こうであればと幾ら
思っても、過去は絶対に変える事はできない。堂々巡りするばかりだ。

何も変わらず、ますます苦しくなる。主はその視点を全く違う方向へ向けられた。
きっぱりノーと言われ「神のわざがこの人に現れるため」と。

旧約聖書によると、盲人の目を開けるのは神のみがなしうる奇跡であり、メシヤのしるしだと。
実際奇跡により目が開いたのだが、更に大きな奇跡は、この人は主がメシヤである事の証しの
ために、永遠の昔から計画されて、今ここで用いられた。

神の大いなる栄光が現された。私たちが信仰人生で最も求めるものは、私たちを通して神の栄光が
現される事ではないか。どんな過去であれ、もしそこに神の栄光が輝くのであれば、受け入れる事
が可能なのではないか。あなたの今の場所、今の時、主の栄光のために置かれている。
---------------------
過去の苦しみや失敗や挫折を、苦い思い出として持っているのではなく、そこを神様がどう取り扱
ってくださり今の自分があるのか、そこにいつも目を向けて行く時、問題の中にあっても信仰を持
って歩めるのではないだろうか。


2008年11月11日(火)

「だから、神の国とその義とを第一に求めなさい」マタイ6:33


ある人が大変なハードスケジュールの日々だった。
仕事は次から次へとこなさねばならず、仕事の後の付き合いは続き、
人を気にして断れずに様々な事柄を引き受けた結果、とうとう身動きが取れない
状況に陥ってしまった。

時間と体力には限りがあり、許容量オーバーで、心身限界状態になった。
デボーションもずっと持てない忙しい日々に、心はカラカラに渇き、ギブアップ
状態で、主の御前に静まった。

主の御前に心を静めていた時、「だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」の御言葉を
御霊が示して下さった。

自分は「それに加えてこれらものはすべて与えられる」の方のために懸命に労し、
動き回っていた事に気づかされた。

本末転倒であり、「神の国とその義とを第一に求めなさい」が抜け落ちていた。
そのため、何もかもが悪循環であり、心に平安も喜びもなく、幾ら動き回っても
達成感もなく、実もなく心は疲れ果てるばかりだった。

人生何が大切なのか。もう一度生活全般を見直し、第一のものを第一にし、狂っ
た優先順位を正した。

その時、生活が秩序あるものと変えられ、心に喜びと平安が戻った。
私たちもしばしば同じ状態に陥ってしまう。今一度、第一のものを第一に。
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神様との正しい関係の中にある時が一番の平安だ。第一のものが後回しとなって
しまう愚を何度も繰り返えさないよう、忙しく立ち動く時こそ、このみ言葉を覚えよう。


2008年11月10日(月)

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」エペソ4:29




「神の聖霊を悲しませてはいけない。無慈悲、憤り、怒り・・をいっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。互いに赦し合いなさい」と御言葉は続く。

悪口や噂話は御霊を悲しませる。私たちの内におられる御霊は悲しまれる。
その場にいない人の事を、あれこれ言うのはフェアでない。なぜなら、その人は反論ができない。

一方的に決めつけられたとしても、異議を唱える事ができない。
陰で人を中傷するならその人を深く傷つける事になる。それは、とりもなおさず、その人の創り
主である神に挑む事になり、神に罪を犯す事になる。

陰での人の中傷、悪口は言わない事が賢明だ。なぜなら、その人の名誉を傷つける事であり、御霊が示されるなら、悔い改めと共に、その言葉を撤回しに回る事になるからだ。

話した一人一人のもとへ行き、その言葉を取り消すはめになる。
一度口から出た言葉だけはどうしようもない。謝罪し回収しなければならない。

そうならないように悪口、中傷はいっさいしない事だ。それより聞く人が恵まれ、徳が養われる、賛美や感謝の言葉が溢れるなら、どんなに潤いと温もりと喜びが満ちるだろう。

悪い言葉を出してしまったなら、その事実は消し去れない。解決はただ一つ、十字架の赦しのみだ。直ぐ主のもとへ行こう。
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口から出る言葉で、人は傷つき、傷つける。無慈悲、憤り、怒りを内包しているなら、少しの刺激で誘惑におちいる。いつも内側を御霊に照らされ、解決していただこう。


2008年11月09日(日)

「この女は自分にできることをしたのです」マルコ14:8


信仰人生で、「時」と「機会」は大切だ。時と機会は神から来る。ベタニヤでマ
リヤは、食卓についておられる主に、ナルドの石膏のつぼを割り、頭に注いだ。

300万とも言われている高価なものだ。結婚のために少しづつ少しづつ貯えた
のだろう。主の足もとに座って、御言葉を真剣に聞いていたマリヤは、ただ一人
だけ、主がこれから、自分の罪のために十字架にかかられる事を理解した。

もう間もなくである事を悟り、主の葬りのためにと、感謝の余り、惜しげもなく
注ぎ尽くした。これから十字架へと向かわれる主を、どんなにお慰めした事だろ
う。何も知らない弟子たちは無駄な事をと憤慨した。貧乏な人達に施せば良いの
にと。

しかし、主はマリヤを弁護された。わたしのために自分にできる事をしたのだと。
主はその愛の行為を受け取られた。貧しい人はいつでも一緒におり、いつでも施
しができると。

主が言われた通り、その時と機会を逸したなら、マリヤはもう香油を塗ることが
できなかった。この後、主は十字架へと向かわれたのだから。いつでも「機会」
があるのではない。
御霊の示される貴重な、その時しかない「時」がある。それを逃したなら、二度
とない機会だ。

今、もし御霊に示されている事があるなら、時と機会を逃す事なく、主に愛を表
そう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
機会は、不用意に簡単に逃してしまう。時と機会を捕らえる事は大切だ。今、御
霊の導きと促しがあるなら、ぐずぐずせず従い、実行しよう。大きな祝福にあず
かる。普段から時と機会をよく見張っていよう。


2008年11月08日(土)

「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた『あなたは、どこにいるのか』」創世記3:9


アダムとエバは、エデンの園で神の御言葉に立つのでなく、罪を選んでしまった。
罪を犯すと、まず神から隠れる。「主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠し
た」。

恐れが心に生じるからだ。神との親しい、何の妨げもない喜びと楽しみと平安の
交わりの中にいたのが、罪が神と人との間を遮断してしまい、恥と恐れで、交わ
りが失せた。

その時に、人が神を求めたのでなく、神が人に呼びかけられた「あなたはどこに
いるの か」と。自ら罪を選択し、神から離れた人間に神の方から呼びかけられ
た。これは一方的な恵みだ。

ところが、アダムの答えは、あの女のせいであり、エバの答えは蛇のせいであっ
た。罪を犯した人間は、自分を正当化し他に責任転嫁して行く。まさにこれが罪
の姿だ。罪とは原語で「的はずれ」だ。何か悪をするという事以前に、あるべき
場所にいない事だ。

アダムとエバは神と共におり、絶える事なき喜びと楽しみの中にいるはずだった。
それが神を離れてしまった。今、私たちはどうだろう。愛の御声をかけて下さっ
ている。

「あなたはどこにいるのか」と。裁くため、罪定めのためでなく、神は心配し心
にかけておられる。もし御心をそれていたなら、すぐに帰ろう。何の躊躇もせず
すぐに。今日この御声をしっかり聞こう。「あなたはどこにいるのか」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今、どこにいるだろう。神を喜び楽しんでいるだろうか。神との間に距離がある
か。御心をそれて、とがめがあり、自分できれいになって帰ろうとしているか。
神は今呼びかけておられる。御声に応答しよう。


2008年11月07日(金)

「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民と長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」Tサムエル15:30



アマレクとの戦いで、サムエルはサウルに主の命令を告げた「行って、アマレクを打ち、
そのすべてのものを聖絶せよ」。

しかし、サウルは、命令に従わないで、最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのない
ものだけを聖絶した。サムエルは「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位
から退けた」と告げた。

するとサウルは「私は罪を犯しました。しかし、私の民と長老とイスラエルの前で私の面目
を立てて下さい」と言った。悔い改めは、面目を立てるための悔い改めであった。

神に対して罪を犯したから、悔い改めるのではなく、罪を犯すという事が、人前で面目を失う
という意識だった。

これは悔い改めではないので、神との関係の修復にはならなかった。
「主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた」。

私たちはどうだろう。真に御霊により罪を示された時、悔い改めが起こる。
その時、人など全く眼中に無い。自分と神との関係だけにいる。自分の面目など入る余地も無い。

人も面目も関係なく、ただ自分の罪だけが見える。
悔い改めにより主の十字架の血潮によって赦されきよめられる。真の悔い改めだ。

神との関係が修復され、平安と喜びが戻る。世の悲しみ=形だけの悔い改めは死をもたらし、
真の悔い改めは救いをもたらす。
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信仰生活は、神様と自分だけの関係だ。御心に従い神様に変えられたいと思わないならサウル
と同じだ。罪が示されているなら、真の悔い改めができるように祈ろう。


2008年11月06日(木)

「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず・・」ルカ10:40



主のために立ち働くこと、奉仕は尊いし、奉仕自体は、主の喜ばれることだ。
奉仕する事自体が良くないのであれば、主は最初から、マルタにそう言われた事だろう。

主のために労することは、喜びであり、恵みだ。
しかし、マルタは、主が飛んでしまい、恵みも飛び、目の前の仕事そのものに、心が奪
われてしまった。何のためにしているのか、わからなくなる。

主を忘れてしまうと、自己中心になり、自分を中心に物事を見る。
すると、自分だけが忙しい目をしていると、自己憐憫に陥り、何もしていない周囲を責め、
腹を立てる。

主から目を離し、恵みから出ると、私たちも同様だ。
恵みにより、御霊によってしていないので、自力であり、重い辛い仕事となる。

自分がしんどくて辛いので、何もしていない人を見ると腹が立つ。イライラして必ず裁く。
恵みの下にいないからだ。

マリヤのように、まず主のもとに座し、御言葉を聞き、主と交わるなら、喜びと平安と潤
いをもって働く事ができたであろう。

自分は平安と喜びがあるので、何もしていない人を見ても、裁く事もない。
しかし、主の御前に座する事より、動き回る事の方が簡単で楽なのだ。

「マリヤはその良いほうを選んだのです」選び取らない限り、座する事はできない。
選んでいない自分に気づこう。
--------------------------
内側から満たされていなければ、ただ仕事をこなしているのと同じだ。不自由に立ち働い
てはいないだろうか。主のもとに座り、主と交わり御霊に満たされて、動きはじめよう。


2008年11月05日(水)

「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」詩篇39:7




イスラエルの民は、乳と蜜の流れる地を目指して前進し、神を信仰して来た。
そのカナンの地に入れば、信仰は必要無いのかというと、そうではない。

良い地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令を守って、その道に歩み、
主を恐れなさい」と。
神を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的だからだ。

ある婦人が子供が欲しくて、祈りに祈って、不妊治療にも通っていた。
どうしても欲しい、余りにも強い願望に、ある時、神から恵みをもぎ取ろうとし
ている自分の姿に、悔いくずおれた。

これなら目的さえ果たされるなら、手段は何でも良くなってしまう。
「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」とのサタンでもよくなってし
まう事になる。悔い改めて、明け渡した。

しばしば間違ってしまう。信仰を、自分が良く生きるための、又、何かを得るための、
手段にすると何もかもが的はずれになる。

自分の生きがいの手段、喜びを得るための手段、問題解決の手段、それなら、自分の
思い通り、期待通りでない時につまずいて、失望し、迷路に入り、神から離れる事になる。

又、実質も実感も無い、形だけの信仰になる。何かを与えられようと、与えられまいと、
神ご自身を信じて生きる事、神を喜ぶ事、これが目的だ。
--------------------------------------
自分の感情が安定していたり、環境が整っていたら神様は近くおられ、逆なら神様は遠く
離れているのだろうか。そうではない。昨日も今日も変わらぬ愛で共にいて下さる。神様
に尋ね、応答しながら今日も歩もう。


2008年11月04日(火)

「片手に安楽を満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる」伝道4:6



私たちの古い性質には「貪欲」がある。貪欲は倦くことなき欲望だ。
欲望なのでこれで満足という事がない。持てば持つほど更に渇く。

片手で満足しないで、両手を満たすことを追い求めていると、まるで風を追い
求めるようだと。

際限がなく、どこまで行っても満ち足りる事がなく、いつまでも安息、安堵、
平安の無い人間になってしまう。
神から目を離すと、人はだいたいが否定的、悲観的発想に傾くので、必ず足ら
ないもの、無いものに目を注いでしまう。

そうではなく、与えられているものに目を注ぎ、与えられているものを感謝し、
恵みを数えればどんなに平安で喜びだろう。

人生は「何もかも」手に入れなくても、主にある喜びと平安と満足により、幸
せになれる。

「金銭を愛する生活をしてはいけません。今持っているもので満足しなさい・・
わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」
「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」

あなたも、無いものに目を向け、あれが無い、これが無いといつも数えていないか。
あなたの発想の仕方はどうだろう。それによって思い煩いと不安と恐れ、不満に陥る。

有るもの、与えられているものを数えて、力一杯感謝してみよう。
心に平安と喜びが満ちて来る。
----------------------
世の価値観の中にあっても、神様から目を離さずに、世に影響されず歩んでいたい。
神様、今日も感謝ですと、主にある喜びと平安に満たされながら今を生きよう


2008年11月03日(月)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる・・」ローマ8:28



信仰者でも突如の不幸が起きる。病気やけが、倒産や受験の失敗や対人関係の
悩みも起きる。私たちは苦しみや悲しみ、辛さはあってはならないと思っている。

それらは忌むべき事であり、マイナスであり、決して良い事ではない。
自分の人生を傷つけ、不幸にし、暗いものにしてしまう。

神が私を愛していて下さるなら、そのような問題を起こらないようにし、問題を
取り去ってくれるはずと思う。それで神に必死に祈る。

しかし、その答えが自分の思い通りでなければ、神は愛してくれない、祈りを聞い
てくれないと、心を屈折させる。
神を恨み、腹を立てる。私たちは苦しみや悩みは悪い事、意味の無い事と思っている。

しかし、神はそうではなく、それらマイナスの事を通して、私たちに測り知れない
「益」を与えようとしておられる。
私たちは「益」という事を勘違いし、自分の都合の良いようになる事だと思う。
そうではない。益とは、29‘にあるように「御子のかたち」に変えられる事だ。

物事が自分の都合の良いようになる事でなく、自分自身が御子に似た者に少しづつ変
えられて行く事だ。

それが栄光だ。過去を振り返る時、なぜ自分にあの事が起き、なぜその人と出会ったのか。
失敗し悩み苦しんだ一つ一つを用いて、変えて行って下さっている。
-----------------------------
御子のかたちに変えられるために、様々な想定外の出来事の中を通される。今までの知恵や
経験の及ばない所、行き詰まりの中で、また新しく変わらぬ神様に触れ、へりくだって生き
る者とされる。


2008年11月02日(日)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33:3

悩みの時、問題の時、神は「わたしを呼べ」と言っておられる。
「わたしは、あなたに答える」と。心にある悶々を、自分で堂々巡り
していないで、主を呼び、主に告げよう。

ある人が、あと数年で定年という時に、仕事で大変な失敗をしてしまった。
大きな痛手に、心落ち込み、沈み、辞職しようと思った。今までの仕事は
自分にとって一体何だったのか。虚しく思え、挫折感におおわれた。

その時、それらの思いをすべて主のもとへ持って行き、心を打ち明け祈った。
すると、「心の内で『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』
と言わないように気をつけなさい。

あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えら
れるのは・・」との言葉が心に臨み、今まで仕事を築き上げられたのは、
自分でなく、神との確信が来た。信仰によって、定年まで仕事を全うできた。

ある人は、仕事がなかなか軌道に乗らず悩んだ。本当に神からのものか、
御前に祈っていると「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」
「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する」
との言葉に平安が臨んだ。そのすぐ後、突破口が開かれた。

悩みの時には、主の御前にそれを打ち明け、打ち広げ、主の御声を
聞こう。主を呼ぼう。

「そうすれば、わたしはあなたに答え・・あなたに告げよう」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
悩みの時、とっさの時、自分で動かず、自分でどうこうせず、まず何より
最初に主を呼ぼう。ことごとく、心の内を主に打ち明け、申し上げよう。
「わたしは、あなたに答え」のごとく、主の御心を示して、導いて下さる。


2008年11月01日(土)

「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:2

私たちは自分の行ないや計画が、純粋だと思う。しかし、天に
帰るまで、まだまだ古い性質、肉の性質があるため、自分の欲望や
自分の思いが、行動や計画の中に潜んでしまう。

しかし、自分は正しい、問題無いと思っているため、御言葉にある
ように、自分の行ないがことごとく純粋だと思ってしまう。
しかし、根深い古い性質がある事をわきまえておく事は大切だ。

「主は人のたましいの値うちをはかられる」。主は、純粋だと思って
いる行ない、計画の真の動機を探って下さる。
そのように祈る必要がある。自分で自分を知ることはできない。

自分が自分の事を一番よく知っていると思うが、自分ではわからない。
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ・・私のうちに
傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いて下さい」

神が心の内側を照らし、示して下さった時に初めて、神が見ておられる
ように、自分を見ることができる。「あなたのしようとしていることを
主にゆだねよ」、動機を探って頂き、尚且つ、その計画を主に
明け渡す事だ。

つまり、明け渡す事は、主の主権を認める事であって、何か間違いが
あれば退けて下さい、前進なりストップなり、主の御心のままで
0Kですという事だ。その時、御心の計画は揺るがず、主が成し遂げ
て下さる。そしてその信仰に立てる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分は何も問題無いと思う。しかし、肉の性質があり、問題
無いと思っている中に、自我や、欲望が入り込んでいる。しよう
としている事を主に委ねる事が大切だ。一旦明け渡すなら、
その時、揺るがないものとされる。