2008年12月31日(水) 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」ヨハネ20:27
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」ヨハネ20:27
主は弟子たちに幾度も、「苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる」と語られた。しかし、弟子たちは全く信じていなかった。 ローマ帝国をくつがえし、主が王になり、この世界を支配されると、自らの思い込みの中にいたゆえに。十字架など言語道断、有り得ない事であった。 だから信じないし、受け入れない。何度も復活を予告され、実際、死からよみがえられた主は、弟子たちにご自身を現された。しかし、それを伝え聞いた他の弟子たちは全く信じなかった。仲間の言う事を信じない。 「お姿をよく見た、と聞いても、信じようとはしなかった」「ふたりの話も信じなかった」主ご自身がその弟子たちに現れて、不信仰と頑なな心をお責めになった」 不在であった12弟子の一人トマスは、「主を見た」との仲間の証言にも、手の釘跡を見、釘穴と脇に手を入れなければ信じないと言った。 何と猜疑心の強い、頑なな者と思うだろうか。しかし他人事ではない。見たなら誰でも信じる。それは信仰ではない。見たなら信仰は要らない。 見ずに信じる者が幸い。何でもかんでも信じ込む盲信や狂信ではない。しかし、本当のものに出会ったなら、信じようとの意志と決心が必要だ。 信じられないのでなく、信じようとしない意志に気づき、信じる方を選択し決心する事だ。 --------------------- み言葉を聞くときも、自分の事として受けとめず聞き流している事はないだろうか。目には見えないし感じないかもしれないが、確かに存在する神様の言葉だ。信仰をもって受け入れよう。
2008年12月30日(火) 「イスラエルよ。ギブアの日々よりこのかた、あなたは罪を犯してきた。彼らはそこで同じことを行っている」ホセア9:10
「イスラエルよ。ギブアの日々よりこのかた、あなたは罪を犯してきた。彼らはそこで同じことを行っている」ホセア9:10
ギブアの罪とは士師記19〜にある。レビ人のそばめが、ベニヤミン族のギブアで暴行を受け死んだ。 彼はその死体を12に切り分け、イスラエル12部族に送りつける。 そしてギブアに住むよこしまな者たちの引き渡しを、ベニヤミン族に求めたが、拒否された。その結果、部族間戦争となり、600人を残し、ベニヤミン族は皆殺しになった。 ギブアの罪は取り除かれたのか。ギブアの町は焼かれ、男色や姦淫は取り除かれたかに見えたが、しかし、その罪の根は残っていた。 道徳的腐敗、同性愛、不品行、姦淫はホセアの時代に、ギブアで行われていた「ギブアの日々より罪を犯してきて、彼らはそこで同じことを行なっている」。 罪とは、時間さえ経てば無くなるというものではない。 むしろ、ますます大きくなる。心の中の罪は見たくないので、ふたをして見ない、触れないようにする。 放っておくと、罪は勝手に無くなるのではなく、そのままそこにあり続け、ますます熟して、やっかいなものになって来る。 罪は忘れてしまいたいが決して消えない。唯一罪が消し去られる道が、悔い改めだ。罪はただ一つ、悔い改めだけが解決の方法だ。それ以外に方法は無い。 今、悶々としていたら、へりくだって、罪を認め、告白しよう。 赦され、二度と思い出さないと神が言われる。 --------------------- 私達は同じ失敗を繰り返す弱い者だけれど、主が私達の罪のために十字架にかかって下さった。私達の背後にある主の十字架を思う時、本当の悔い改めへと導かれるのではないだろうか。
2008年12月29日(月) 「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり」マタイ7:9
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり」マタイ7:9
主は「さばくな」と言われると同時に、「見分けよ」と言われる。裁くことと識別し、評価し、判断することは別のことだ。 犬や豚をきちんと見分けなければ、どうして主の命令に従えるだろう。識別力を行使しなければ、犬や豚を判断することは不可能だ。 又「霊だからといってみな信じてはならない」と言われる。 世の終わりには、多くの偽預言者たちが出て来る。 何もかも受け入れて、信じてはならない。この世にあっては 「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおで」あるべきだ。 では「さばき」はどうだろう。人を「さばいて」いる時は、自分の内に密かな優越感がある。上に立って、相手を見下している。 そして自分は義であり善なのだ。 又、相手の非や足らなさ、失敗を見た時に快感があるなら、それは肉であり、さばきだ。それは「さばいてはいけません」を犯している罪だ。 肉は、妬みの対象、敵対心のある相手の失敗を喜ぶものだ。これは肉の性質だ。又、肉は批判が大好きだ。自分の内に誰かに対するさばきがあるなら、悔い改めよう。 そして、さばきと識別を区別して、光の御使いに偽装して来る偽預言者、又、福音に敵対し、踏みにじって来る者を見分ける事ができるよう祈り求めよう。 「さばき」と「識別」を混同してはならない。 ---------------------- 人に向かって行く批判がどこから出ていようと、それはみな罪だ。見て行くものは霊の領域、よく祈り導きを求めよう。必ず識別させて下さる。
2008年12月28日(日) 「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でもその人のいのちは財産にあるのではないからです」ルカ12:1
「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でもその人のいのちは財産にあるのではないからです」ルカ12:1
「貪欲」とは、もっともっとと欲しがり、満足を知らない心だ。 この世の物をどんどん追求し、もっと持ちたがり、物に依存する。 財産に依存し、それがあるから大丈夫だと安心する。しかし、これは満ち足りるという事が無いので、幾ら持っても持っても満足できず、更に渇き、あくことなく追い求める内に、いつしか目に見えるものに心が捕らえられ、その奴隷になってしまう。 更に底なしに貪欲に転がり落ちて行く。 それは「自分の腹」を、神にする事であり「彼らの神は彼らの欲望」の通りだ。 これは金銭だけの事でなく、名誉、地位、人の賞賛、愛情、評価、成功、仕事、結婚、家庭・・といったものの事だ。 これが無ければ幸せでないと思い、どうにかして持ちたいと必死にあがく。 ますます「貪欲」の泥沼に陥る。自分の内にある貪欲に気づく事から始まる。 「貪る者―これが偶像礼拝者」神を脇において、神以外のものを追い求めるため、心の底は虚しく全く平安が無い。 神は「神の前に富む」ことが大切、そしてすぐ後に「何はともあれ・・神の国を求めなさい」と言われた。幸せと満足と平安は、神を第一にする事から来る。 貪欲の脇道にそれていたなら、引き返そう。何か偶像になっているものがあれば、明け渡そう。 貪欲の注意し、よく警戒しよう。 --------------------- 肉の欲求は、果てしない。だから満ちたりる事なく乾く。これが無ければ幸せではないと思うものをよく吟味し、神様の前に明け渡して行こう。あれも捨て、これも捨てて、と示されたなら感謝だ。
2008年12月27日(土) 「私はあなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます」詩篇119:15
「私はあなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます」詩篇119:15
「心配」とは、問題を自分に取り込んで、来る日も、来る日も、繰り返し繰り返し、 反すうし、問題を心の中で、どんどん強固にし大きくし、モンスターにして行くことだ。 毎日毎日繰り返し心配していたら、ますますその事が心にしっかり培われ、身動きできない ものになってしまう。 自分で問題を大きくしてしまう。いつしかその問題は、自分を「食い尽くす地」「背の高い巨人」 「自分はいなご」となってしまう。 又、憎しみや妬みも同様だ。それを主のもとへ持って行かないなら、御言葉を信じ、信仰を働かせ ないなら、憎悪と嫉妬は、毎日毎日繰り返す事により、どんどん膨らみ、大きくなり、自分で成長 させ培って行ってしまう。 そのような状態だろうか。問題を心の中で繰り返し反すうするのでなく、御言葉を繰り返し、 繰り返し反すうすべきだ。 御言葉を「口から離さず、昼も夜も口ずさむ」なら「すべてのことを守り行なう」ことができる。 そして「あなたのすることで繁栄し、栄えることができる」。 問題をずっと見続けている事に気づくなら、問題でなく御言葉を見続けよう。 その問題は「私たちのえじきとなる」「主がともにおられる。恐れるな」 「上って行って占領しよう。必ずできる」主は指針を与え導いて下さる。 問題から目を離し、御言葉を信じて見つめていよう。 ------------------------ 肉の思いは死であり、御霊の思いはいのちと平安だ。思い煩い、心配事を内包せず、御言葉に思いを むけることを意志で選んでいこう。
2008年12月26日(金) 「なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」ローマ14:23
「なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」ローマ14:23
信仰から出ていないとは「わたしはある」という方、神ご自身を信じないことであり、 「わたしはある」という方を否むことだ。 信仰から出ていなことは罪だと言われる。罪と聞けば、一つ一つの悪しき行為を連想 するが、悪い行ないよりも、神を信じないこと、不信仰が最たる罪だ。 それは神ご自身を否定することになるからだ。一つ一つの悪い行為は、不信仰から出 た結果という事になる。神を「信じないこと」が罪で、神を「信じること」が神の喜 ばれることであり、義しいことだ。 行為にばかり目が行くと、道をそれる事になってしまう。神を信頼することなく、表 面的に正しい行ないは可能だ。自分の力で、どんどん進んで行ってしまう。 おおもとから離れ、迷い出てしまう。それこそがサタンの望むところであり、策略だ。 神を信頼する事から離し、自分へ、自分へと引き込ませる。 神を信じるのではなく、何とかしようと、自分で一生懸命になる。 自分の力、自分の方策、自分の知恵に拠り頼んで行く。それでサタンは成功だ。 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」「立ち返って静かにすれば救われ、落ち 着いて信頼すれば力を得る」「イエスから目を離さないで」いよう。 神を「信じること」「信頼すること」に目を向けよう。視点はどこにあるか点検しよう。 ----------------------- 神様を認め、信じることが土台であり基礎だ。自分の内を覗きこんで試行錯誤しても、そこには、何もないことを認め今日も信仰によって歩もう。
2008年12月25日(木) 「わたしは彼らを贖おうとするが、彼らはわたしにまやかしを言う」ホセア7:13
「わたしは彼らを贖おうとするが、彼らはわたしにまやかしを言う」ホセア7:13
ラジオから身の上相談が流れて来た。ある半端でない、非常に厳しい苦悩の状況にある 相談者に、解答者も答えに窮した。 すると、その解答者は率直に「申し訳ないですが、何も言って上げる事ができません。 ごめんなさい」と言って二言三言励ました。 プライドゆえにごまかしたり、その場を繕ったり、知ったかぶりをしたりせず、正直に 無力を認めた、そのカウンセラーは誠実で立派だった。 神は常に私たちを助けよう、助けようと待ち構えておられる。 しかし、私たちの態度が問題だ。どうであれ、正直である事が重要だ。 正直で、真実で、ありのままでありさえすれば、神はどんな状態でも導いて下さる。 「あなたは心のうちの真実を喜ばれます」主は自分の中にあるものを、ありのままを 認める事を喜ばれる。その反対が、まやかしだ。 良い子で神の前に出ようとする。自分を繕う。率直でない。仮面をつけて神の前に出る。 本音と建前があり、裏表がある。弱さを神の前でも、人の前でも決して認めない。 隠していたい。弱味を見せたくない。しかし、ありのままを認めて行く時、御霊の光に 照らされる。光は心の隅々まで照らし出し、二面性のない、裏表の無い人格を形造る。 私たちはどうだろう。主が贖おうとされるのに、まやかしを言っているだろうか。 ----------------------- 神様の前に誰もが隠したい事はあるだろう。御霊に照らされる時、醜い自分があらわになる。 醜いまま、弱いまま神様に助けを求めていこう。自分の弱さに正直に。
2008年12月24日(水) 「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」ルカ1:38
「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」ルカ1:38
ユダヤの新しい王の到来は、人々の心をあらわにし、様々な反応を起こさせた。 ヘロデ王にとっては、自分の王座が脅かされる、非常なる脅威であった。 恐れ怯えたヘロデは、幼子を探し出す画策に失敗すると、権力を使い、2才以下の男児 を皆殺しにさせた。 祭司長たち、律法学者たちは、預言からその誕生の場所がベツレヘムだと確認し、東方の 博士たちや星の出現によってメシヤ誕生を知った。 しかし、彼らはそれを受け入れず、無視した。エルサレム中の人々も又、ヘロデ王と同様に、 メシヤ誕生に、新しい王の出現に恐れ惑った。 平穏に暮らしている、自分たちの生活が、新しい王により波風が立つこと、争いが起こり、 社会が混乱することを恐れ、迷惑がった。自己中心、自己保身であった。 かし、星に導かれて、遠方から命がけの旅をして、やって来た東方の博士たちは、ついに 幼子に辿り着き「この上もなく喜んだ」。 そして、ひれ伏して、幼子を礼拝し、宝物をお献げした。 又、マリヤは御使いからの受胎告知を、恐れと戸惑いをもって聞いたが、信仰によって受け 止めた。 御言葉を無視し、拒否し、退けるのではなく、御言葉に自分を合わせ、自分を献げ、明け渡 して行った。クリスマス、主の犠牲の愛に自分自身を献げて、応えて行こう。 ----------------------- 主を受け入れ従う者にも、拒む者のためにも等しく主は十字架にかかられた。私達への神様 の最大の愛の証を、拒む者にならず、従い応える者になりた。
2008年12月23日(火) 「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす」ホセア8:12
「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす」ホセア8:12
神はイスラエルのために、多くの教えを与えられたが、彼らはその教えを他国人の もののとみなして、自分たちへ向けたものとはしなかった。 自分とは無縁なこと、無関係であり、他人事としていた。私たちはどうだろう。 礼拝でメッセージを聞く時、又、デボーションで御言葉を読む時、他人事としていないか。 自分の事として聞かないので、どこまでも傍観者であり、右から左にすり抜けて行く。 御言葉が心に刺さることも、根づくこともない。 又、自分には当てはめないが、他人に当てはめて、あの人に、この人にピッタリだと。 あの人、この人は変わるべきだと。しかし、御言葉をそのように聞くべきではない。 ただただ自分の事として聞くべきだ。物差しを人に向けず、自分にのみ向ける事が大切だ。 人に向けると、いつしか裁きとなって行く。 他人の小さなちりに目をつけるが、自分の大きな梁に気づかない。 日頃の御言葉の聞き方はどうだろう。他国人のもののように聞いていないか振り返ろう。 メッセージを、御言葉を、自分自身に、自分の生活に当てはめよう。御言葉は光として、 心の内を照らし出し、鏡となり自らの本当の姿を映し出す。 心の奥が探り出される。慰めや励まし、指針が来て、罪の指摘や矯正がある。 御声に従って行く時、必ず成長して行く。変えられて、新しくされて行く。 聞く態度が重要だ。 --------------------- 御言葉を人に向けて行くなら逃げ道のない裁きとなる。ただ自分の事として御言葉に向きあって行こう。変わるべきは自分だ。変われますように、示されますようにの態度で。
2008年12月22日(月) 「すべての事について、感謝しなさい」Tテサロニケ5:18
「すべての事について、感謝しなさい」Tテサロニケ5:18
ジョニーという有名な人がいる。水泳の飛び込みで、脊髄を痛めた。九死に一生を得たが、 一生身体は動かないと宣告された。死を願った。鏡に映る姿はとても人間ではない。 窪んで落ち込み血走りどんよりした2つの眼球。36キロの身体は、黄疸になり黄色い皮膚 に覆われた骸骨だ。 太った頭は不気味であり、話をする時見える歯も薬物治療のため黒くなっている。 とても生きて行けない。が、周囲に励まされて行く。 「神がどう見ておられるかが大切。人がどう見るかは重要でない。気にするな。 人の基準で自分を見ると、負け犬にしかならない。 神からの価値だけを考えよう」自分が、神の似姿である神の作品だという事に目が向いた。 自分の動かない身体、自分の格好、自分の能力、出来る事、出来ない事、自分で自分がどう 見えたとしても、自分の事を神に感謝する事にした。 感謝を献げ続けていると、パズルのように、すべてのものをふさわしい所に置くよう助けら れた。より良く神に仕える事ができ、より幸せになれるように、神がこの身体を与えられた と理解できた。 こうでなかったら確実に人生最後まで自己中心に生きていたであろうと。 神が特別干渉して下さった事に心から感謝した。 今、幸せそのもので、他のものに変えたいと全く思わない。感謝する事は、つまり神を認め る事だ。その時、神は自由に働く事がおできになる。 -------------------------------- 他のものに変えたくない自分であったり、環境だと感謝しているだろうか。人がどう見るかで 生きる者から、神様が下さったポジションを感謝していく者へと変えられたい。
2008年12月21日(日) 「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか」詩篇13:1
「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか」詩篇13:1
ダビデは、「いつまでですか」を4回も使って、主に赤裸々な気持ちを訴えてい る。 いつまでこの苦しみ悲しみが続くのか、いつまだ御顔を隠されるのか、心には一 日中悲しみがあり、いつまで思い計っていないといけないのか、いつまで敵は勝 ちおごるのか。 自分の気持ちを隠して、きれい事を並べるのではなく、正直な、率直な、自分の 気持ちをそのまま告げて祈っている。詩篇の色々な箇所で、ダビデは苦しみ、怒 り、嘆き、悲しみ、理不尽な思いを神にぶつけている。 「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」と。 神は我らの避け所であるのだからと。建前の祈りは、はなから聞かれない。祈っ ても無駄だ。本音を受け止めて下さるお方だ。本音の私たちそのものを愛してい て下さるとは、何というご愛だろう。 ダビデは、いつまでですか!と心の底の思いを率直に、言い表した後、変化が起 きた。「私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います」嘆きと苦し みが、賛美と喜びに変わっている。 神に心の底を率直に正直に言い表し、告げて行く時に、不思議だが心が平安にさ れる。状況が変わらなくても、自分の心が変えられて平安を与えられる。 醜い、汚い、ありのままの自分の姿を認める事により、光の中に出される。光に 隅々までくまなく照らされるので、癒され、成長して行く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 正直な祈りだけが、神のお心に触れる。誰にも言えない心の思いを、神にそのま ま率直に告げよう。人に言うと、余計ややこしくなる事がある。まず神に思いの 丈を、気持ちを言い表そう。心に平安が臨み、受け止められているとわかる。
2008年12月20日(土) 「主のことばを聞け・・この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ」ホセア4:1
「主のことばを聞け・・この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ」ホセア4:1
人にとって大切なもの、必要なもの、無くてならないものは、「真実」と「誠実 (愛)」と「神を知ること」だとホセアは言った。 これが無くなる時、のろい、欺き、人殺し、盗み、姦通、流血につぐ流血、すべ ての秩序は乱れ、崩壊すると。 出エジプト以来、イスラエルの民は、豊かさを求める余り、まことの神より、偶 像であるバアルに惹かれて行った。創造主を礼拝して生きて行くのではなく、神 を自分の欲望、自分の幸せを得る手段にしてしまっていた。 神はそんな民を「わたしの子をエジプトから呼び出した・・呼べば呼ぶほどいよ いよ遠ざかり」「エジプトにいた時から、あなたの神、主」「エジプトから連れ 上り」繰り返し、繰り返し、出エジプト・イスラエルの原点を思い起こさせ、原 点に引き戻そうとされる。 「荒野に連れて行き、やさしく語ろう」 目に見えるもの、富、名誉、地位、賞賛、それらに惑わされて、それらを追求す る生き方でなく、荒野の全く何も無かった所に、原点に戻り、本当に大切なもの を見失わないようにと。 私たちも何に目が向き、何を求めているだろう。 「アコルの谷を望みの門に」富に執着したアカンは、アコルの谷で滅ぼされた。 神以外の、目に見えるものを求め、執着する心を明け渡す時に、「真実」「誠 実」「神を知ること」に初めて目が向いて行く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ もっと主に満たされること、ご愛を知ること、主を知ることを妨げているのが、 自分が握りしめている宝、偶像だ。しかし、神は、どこまでも呼び続けて下さっ ている。御声をかけ、やさしく語りかけておられる。握っているものに気づける ように。
2008年12月19日(金) 「イスラエルの高慢はその顔に現われ、彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない」ホセア7:10
「イスラエルの高慢はその顔に現われ、彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない」ホセア7:10
ヤロブアムの死後、王4人が殺されている。ゼカリヤ王が6ヶ月治め、彼を殺して シャルムが立ち、1ヶ月後、メナヘムが彼を殺害して王になる。 その後ペカフヤが王になり、ペカが彼を殺して王になった後、ホセアがペカを殺し 王になった。自己中心と野心でいっぱいだ。 神はそれを、姦通する者、「嘲る者と手を握り、陰謀をもって近づく。心は燃えるかまど」 と断罪される。 「誰一人わたしを呼び求める者はいない」罪を小さく見て侮ると、自らの人生を破壊させる。 周辺状況に、王達は、アッシリヤやエジプトの大国に貢物をささげて生き残りをかけた。 「彼らはエジプトを呼び立て、アッシリヤへ行く」「高慢はその顔に現われ、主に立ち返らず、 こうなっても主を尋ね求めない」苦悩状況に、まず神に立ち返り、神に拠り頼み、助けを求め るべきであった。 それを、神を捨て、強大国に助けを求めた。私たちはどうだろう。 日々の多忙に流され、自分の力と知恵でやり繰りしているだろうか。 主を脇に押しやり、自分で生きているか。人や物に頼っているか。まさに神に頼らない事が 高慢だと。 神は「いやし・包み・生き返らせ・立ち上がらせ」て下さる。御前に生きる事、主を知る事が、 私たちの最高の幸せだ。主は「確かに現われ」て下さる。何に拠り頼んでいるだろう。 御霊の光に心探って頂こう。 ------------------------------- 頼るべき所を自ら立ち動き、神様を脇においやる不信仰を悔い改めよう。順境の中にあっても 日常の小さな事からいつも祈り、神様と共に生きていよう。不信仰から守られますように。
2008年12月18日(木) 「主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており・・そこから、ねたみ、争いが生じ」Tテモテ6:3
「主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており・・そこから、ねたみ、争いが生じ」Tテモテ6:3
高慢とは、御言葉によると、神のことばに同意しないことだ。 御言葉を自分の思いで水増ししたり、差し引いたりする。自分に都合が良い箇所 は同意するが、都合が悪いと同意しない。 それらをすべて自分が決める。それは御言葉の上に、自分を置くことだ。 自分が御言葉を判断することになる。神第一、神中心でなく、自分第一、自分中心 の状態だ。 ある人が、神を知る以前は、自分の価値を、人に認めてもらうために、自分で高め なければならないと必死だったと証しした。 自分の価値を高める事により、何とか人に認めてもらおうと、いつも平安が無かった。 自分は価値が無いから、価値を何か出来る事でつけなければならなかった。 救われた後、神の愛を知り、このままで愛されている事を知り、自分には全く価値が 無いけれど、今、幸せだと。 しかし、クリスチャンであっても、神第一でなく、自分第一なら、自分の価値を自分 で高めなければならなくなる。 神に愛され価値を認められている、御言葉を信じないからだ。 だから、そこから妬みや争いが生じる。御言葉の通りだ。へりくだりとは、御言葉の 下に自分を置いて、御言葉に真剣に聞き、自分を御言葉に従わせる人の事だ。 御声を聞いて、自分を砕いて従うことがへりくだりだ。 ---------------------- 御言葉を聞きつつも、自分の価値観を選んでしまう時、やはり心に苦い思いが生じる。 心から御言葉に同意しない、自分のうちにある高慢を認め、悔い改めて行きたい。
2008年12月17日(水) 「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう」Tサムエル4:3
「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう」Tサムエル4:3
イスラエルの民は、主の契約の箱さえあれば、主はご自身の契約を果 たされるのだから、自分たちは敵から守られると考えた。 自分たちが契約に対して、全く真実でなかったとしても、契約の箱が ある限り、大丈夫だと思った。しかし、そうではなかった。 神は民が偶像礼拝し、神から離れて行く時、彼らが敵に打ち負かされる に任せられた。彼らは、御名のために、ご自身の栄光のために、神は自分 たちを救って下さるはずだと思った。 自分たちが負けるなら、神の御名が立たない、だから助かるはずだと高を くくっていた。しかし、神は罪をあいまいにされたり、ごまかしたりされ る事は決してない。 何よりも聖なる方だ。民は敵に打ち負かされ、天幕に逃げ帰り、疫病で歩 兵三万人が倒れ、契約の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハス は死んだ。見事な敗北だ。 都合が悪い事はふたをし、敵に知られないように、おおい隠されるのではない。 人間は勘違いをする。不祥事は証しに悪いと、とにかく隠し、ひたすら隠す。 しかし敵の前で、民が敗北する事によって、神の聖さを現される。神は聖い方だ。 キリストとベリアルはいっさい関係無く、光と闇も何の関係も無い。 おおい隠す事によってでなく、敗北によってそれを明らかにされる。聖なる方だ。 ------------------------------ 真実のない形ばかり、自分の都合ばかりでは、神様の栄光を拝することは出来ない。 示される事は感謝だ。真実な信仰を今日も献げて歩んでいこう。
2008年12月16日(火) 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」ローマ10:17
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」ローマ10:17
「事実(御言葉)」・「信仰」・「感覚」が山の上を歩いていた。 「信仰」は目の前の「御言葉」だけを見ているなら、どんどん前進できた。 後ろの「感覚」も順調について来た。ところが、「信仰」が前を進む「御言葉」 から目を離して、「感覚」を振り返った途端、「信仰」と「感覚」はもろとも、 谷底へ転落してしまった。 そして、「事実」だけは一向に関係なく、前に進んで行った。 信仰生活の正しい順序は、「御言葉」「信仰」「感覚」だ。感情はあくまでも、 御言葉と信仰の後について来るものだ。 しばしばこの順序を逆にする。「感覚」を一番に持って来て、「信仰」最後が 「御言葉」だ。すると、信仰の迷路に迷い込む。 感情に振り回されて、信仰生活が激しいアップダウンを繰り返す。 私達はこの世界で生きているために、感覚、五感に深く拠り頼んでいる。 それは必要な事で、五感で危険を察知しなければ、命を落としてしまう。 しかし、信仰は霊の事柄で、通常の五感では感知できない領域だ。信仰を五感で、 人間的領域でつかもうとするから、霊的事柄が全くわからない。 感じなければ信じない。信じようとしない。感じようと感じまいと関係なく、 御言葉を真実、事実として行く時、不思議だが感情がついて来る。 感覚を先に持って来て、信仰生活、混乱していないだろうか。 ----------------------------------- 感覚、感情が先にくるなら御言葉をいくら蓄えても、いつも平行線。良い教えで終わってしまう。交わる所がない。御言葉・信仰・感覚、今日も覚えて行こう。
2008年12月15日(月) 「彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。そこで、主は彼らにその願うところを与え・・やせ衰えさせた」詩篇106:14
「彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。そこで、主は彼らにその願うところを与え・・やせ衰えさせた」詩篇106:14
イスラエルの民は、自分本位の欲望にかられて、わがままに、自己中心に神に求めた。 彼らは、欲望のままを願い求めたが、神は彼らに彼らの願う物を与えられた。 どうしても欲しかった、願ったものは得たが、しかし、彼らは決して心が満たされる ことはなかった。 別の訳では「神は欲しがるものをお与えになりましたが、彼らの心を空虚になさいました」 とある。彼らは、欲しい物を得たのに、彼らの心は満たされない。 自分が最も欲しい、絶対に欲しい、どうしても欲しいと、願っていた物を手にした途端、 心が虚しく、ポッカリ穴が空き、これは自分が本当に願っていたものではない。 自分が本当に願っていたものは、別のものだと気づく。 私たちの心が本当に欲し、願い、求めているもの、それは、神ご自身だ。 心の空洞は、神を求め、神によってのみ、ピッタリと埋められる。 神との交わりなしでは、何を手に入れたとしても、心には、虚しさしかない。 「激しい欲望」「願うところ」「やせ衰えさせた」激しい欲望にかられ、どうしてもと 願うなら、神はそれを与えられる。しかし、心は逆にやせ衰える。 神が与えて下さるものに満足し、感謝し、「満ち足りた心を伴う敬虔」はどんなに喜びで あり幸せだろう。「大きな利益を受ける道」だ。神は貪欲から心を守り、満足を下さる。 ------------------------- 満ち足りた恵みをすぐに忘れ、次々に来る肉のままの祈りをしているだろうか。「御心がなりますように」の態度で神様に尋ね求めたい。
2008年12月14日(日) 『「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」そこで、彼らは網をおろした』ヨハネ21:6
『「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」そこで、彼らは網をおろした』ヨハネ21:6
信仰生活で大切な事は、主の言葉に「従う」ことだ。 御言葉をどれほど聞いても、知識が増えても、「従う」ことをしなければ、何の 成長もない。 プロのベテラン漁師ペテロたちが、舟に乗り込み、一晩中漁をして全くの、何の 収穫も無かった。その日は、潮の流れの加減によるのか、何かはわからないが、 引き揚げるしかなかった。 その時、誰かが岸辺で「舟の右に網を降ろせ」と言っている。 それに従って、右に網を降ろすと、おびただしい魚がとれた。以前に全く同じ光 景に出会った事を思い出し、それが重なり、主だと気づいた。 主の言葉に一歩従った時、素晴らしいみわざを見た。 以前も一晩中働いて全く魚がとれなかった時、「深みに漕ぎ出して、網をおろし て魚をとれ」との言葉に従った時に、大漁の奇跡を見た。 舟の右に網を下ろす事も、深みに漕ぎ出す事も同じだ。「到底、魚がいるなどと 思えない」「無駄だ」「徒労だ」「とれるはずがない」「あり得ない」様々な人 間的思い、判断、今までの経験、知識が邪魔をするだろう。 見えるところと、神の言葉が正反対だ。 自分の思い、判断と、神の言葉は相容れない。真逆だ。「でも、おことばどお り」網をおろした。無条件に御言葉に従った。すると、奇跡を見た。 今、もし同じ状況にいたなら、見えるところでなく御言葉に従おう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なる」と言われるからには、神のみ思 いと人間の思いは、相当に、大幅に違う。人間の思いでは、神の御心が愚かに見 えてしまう。だから捨ててしまう。自分の思いの方を捨てて、御言葉に従う時に 大きなみわざを見る。
2008年12月13日(土) 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:4)
「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:4)
願いをかなえるの前の節に、「主をおのれの喜びとせよ」がついている。 主をおのれの喜びとする人の、祈りを、心の願いをかなえて下さるということだ。 なぜなら、主をおのれの喜びとするような人は、自己中心なわがままな、自分さ え良ければよいような祈りをガンガンする事は無いからだ。 主を喜びとし、主の御心に心を沿わせて行く時に、自己本位な祈りをする事は考 えられない。自然、主の御心を求めるようになる。それゆえ、その願いは叶えら れる。 又、逆に信仰生活の中で、「願いが叶えられない」事を通してよく学ぶ事ができ る。一つはもうすでに得たりで、叶えられていて、時が満ちると目に見える形で やって来るので待てば良い。 もう一つは願いが御心に沿っていなかった。自分の核心をついた願いではなく、 真に求めていると思っているが、実はそうではない事を、主は教えたい。 本当に求めているものに行き当たらせたいがために、答えを差し控えておられる。 主が「わたしに何をして欲しいのか」「よくなりたいか」と、問うて下さる時に、 自分の本当の心の願いに気づく。 主の問いかけが、自分の心の奥深くの願いに焦点を当てさせる。問われた時に、 今まで意識もせず、考えもしなかった領域に光が当たる。あなたは、主に何をし て欲しいのか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主を喜びとして行く時、自分本位の、自分、自分、という祈りから守られる。自 己中心でなく、心の中心に主を据えて、御心を求めて行くからだ。主に向き合う 事により自分の本当の姿を知り、自分が本当に求めているものを知る。
2008年12月12日(金) 『「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり』マルコ10:52
『「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり』マルコ10:52
エリコはエルサレムから25キロほどの所だ。主がエリコを出られると、 バルテマイが、道ばたに座って物乞いをしていた。 イエスだと聞くと大声で「私をあわれんでください」と叫び始めた。 大勢でたしなめても、止むどころかますます叫び立てた。 この方なら目を開ける事ができると信じたからこそ、叫び続けた。 人目など全く気にしなかった。主へのその真剣な熱心な求めが、主をして バルテマイの目を開かせる事になる。 「上着を脱ぎ捨て」上着はガウンみたいなもので、毛布にもなり、敷物に もなり、当時の大切な生活必需品であった。 施し物を受けるために必要で、上着を地面に広げていた事だろう。 大事な商売道具でもあった。その上着を捨てたという事は、絶対に癒され るとの確信を持っていた。 バルテマイは盲人であり、物乞いで生きる一生になるこの現状、このまま で仕方のない諦め、このままでいいではないかとの安楽安住、それを捨てた。 そして、信仰をもって、全身で主に拠りすがって、願い求めた。 この方なら絶対に目を開けて下さると。 その通りに目が開かれて、新しい一歩を踏み出した。 それは自分の思い通りの人生を歩み出すのでなく、主の行かれる所について 行き、一生涯を主に献げ、主に従って行くための一歩だった。 ------------------------- 私達の信仰生活も、惰性になったり疲れたりしていないだろうか。このまま で良いと思っていないならバルテマイのように、今までの古いものを捨て去り、 主に従う新たな一歩をはじめよう。
2008年12月11日(木) 「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」出エジプト14:13
「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」出エジプト14:13
有名な紅海横断の箇所がある。出エジプトを果たしたイスラエルに、前は紅海、 後ろは追っ手、エジプト軍えり抜きの戦車部隊とエジプトの全戦車が迫って来た。 前進も後退も出来ない。まさに身動きの取れない、断崖絶壁の窮地であり、絶体絶命であった。 しかし、主はこの事態の目的を「わたしの栄光を現わす」ため、「民は大いなる御力を見たので、 主・・を信じた」、つまり「神の栄光が現れるため」「民の信仰が強められるため」と言われた。 私たちも信仰人生の中で、絶体絶命の窮地に立つ事がある。 全くどうして良いかわからない、身動きの取れない状況に陥る。しかし、まず落ち着こう。 「恐れるな」「しっかり信仰に立て」「わたしが戦う」との御言葉を受け取り信じよう。 神は海の真ん中に道を造られた。道無き所に、道を造られる。 必ず道ができ、絶体絶命の事態を導かれる。耐えられない試練は、まず目の前に来ない。 神の栄光とは、神にしか出来ない事が起こり、それがまさに神である事がわかる事だ。 ある人は経済的窮地に陥り、生計立たず、途方に暮れた。 しかし「恐れるな、信仰に立て、わたしが戦う」に乗っ取って必死に祈った。 するとピッタリの仕事が向こうから来て、皆で神の栄光を拝した。窮地は機会、今窮地なら、 神のチャンスだ。 ----------------------------- 最悪の状況の中で、この状況を動かしておられる神様に目を転じるなら、心は不安や恐怖から 守られる。そして、その時から神様の栄光を待ち望めるよう変えられる。しっかり信仰に立っ て見ていよう。
2008年12月10日(水) 「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです」ヤコブ3:16
「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです」ヤコブ3:16
あるベテラン社員が、いつも周囲に仕事を教えていた。 多忙な中の事であり、負担であった。そこへ専門知識を持つ新人が入って来た。 周囲の人々が段々、よく知っている彼に聞くようになった。 最初は、荷が軽くなって喜んだ。ところがいつしか自分の心に妬みが生じている 事に気づかされた。 皆が彼のところへ行き、彼に注目が集まる事を妬んでいた。 自分の方がベテランなのになぜ?なぜ突然彼が自分より優位に立つのか? 嫉妬と憎しみが湧き、苦々しい思いに苦しんだ。 妬みや敵対心は、神からのものでなく、肉であり、悪霊からのものだ。 この思いを祈りにより神のもとへ持って行った。 御前で心を静めて、祈りの中で、心を探って行った。 なぜ妬むのか?敵対心を持つのか?心の奥の奥を探って行くと、人が皆、彼の方へ 行き、自分から離れて行ってしまう事を「恐れている」自分がいた。 もう自分は全く誰からも、必要とされなくなるのではないか。 彼がそれを奪ってしまった。それが憎しみになっていた。恐れに飲み込まれていた。 主の御前に自らの罪を悔い改めて、主に委ねた。 彼と良い関係が持てるように祈った。 あなたも心の奥に妬みや憎しみが潜んでいるだろうか。恐れがあるだろうか。 主に打ち明け、委ねて行こう。解き放って下さる。 ----------------------- 自己中心の肉により感情がアップダウンする。起きるたびに、気持ちにふたをせず 一つ一つ御前に持っていこう。妬みや嫉妬が自分にはあると気づける時、そこに 神様が臨まれる。
2008年12月09日(火) 「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」民数記13:30
「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」民数記13:30
カナンの地を探った12部族の斥候たちが戻って来た時、人々は、信仰的、肯定的 報告をしたヨシュアとカレブの言葉を聞かず、他の10部族の者たちの不信仰な、 否定的な情報を信じた。 民は大声を上げて叫び、夜通し泣き明かし、エジプトに帰ろうと嘆いた。 そこの民は強く、背が高く、自分たちはいなごのように見えた。 ネフィルム人、アナク人を恐れ、怯えた。 神が共におられるのに、自分をいなごだと思う事は劣等意識であり、人を非常に恐 れる事になる。人を恐れるとサタンの罠にかかる。 神を信頼する事ができないで、神の約束の地も占領する事ができない。 その不信仰ゆえに荒野で滅ぼされてしまった。 ヨシュアとカレブ、そして他の10部族の斥候達は全く同じものを見た。 全く同じものを見て、正反対の反応が生じた。 何が違ったのか。その分かれ目は、神の約束の言葉を信じたかどうかによった。 ヨシュアとカレブは神を見た。他の10部族の者たちは状況、現状を見た。 ヨシュアとカレブは目に見えない神と神の言葉を見て、信じた。 後の者たちは目に見えるところだけを見て、不信仰に陥った。 私たちはどちらを見ているだろう。 「上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」との神の言葉に立とう。 「必ずそれができる」 -------------------------- 「必ずそれができる」力強い神様の導きを信じよう。現在の状況、現在の自分の姿は、 いつまでたっても否定的な要素ばかりだ。信仰に立って勝利しよう。ゴールまで神様が 必ず導いて下さる。
2008年12月08日(月) 『サムエルは・・何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」』Tサムエル3:18
『サムエルは・・何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」』Tサムエル3:18
祭司エリの息子たちは、よこしまな者で、誰かが献げるいけにえを、 肉刺しで取り上げ、自分のものとしていた。 人々が脂肪を焼いて煙にして、取るようにと言うと、今渡さなければ、 力づくで取ると、献げ物を侮り、主の前に大きな罪を犯していた。 息子達は父エリの言葉も聞く耳持たずであった。やがて主はサムエルに、 息子たちの裁きを告げられた。エリはサムエルにそれを話すように告げた。 サムエルからすべての事を聞いた時、エリはその裁きを受け入れた。 何の言い訳も弁解も無かった。妻のせいにし、子供のせいにし、責任転嫁して、 自分を正当化する事もなかった。 主からのものと受け取り、へりくだって、主に従おうとしている。 子育てに失敗はしたが、信仰の人であった。それゆえ、主はエリにサムエルの 養育を委ねられた。エリのその信仰が用いられた。 主の大きな恵みであった。アブラハムもイサクもヤコブも、モーセもダビデも 失敗した。人は弱さのゆえに失敗する。 しかし、失敗を通して、謙遜にされる。人は皆、高慢だ。その高慢が砕かれる。 いっぱしと思っていた自分が、どんなに惨めで、無力な者かを思い知らされる。 主はそんな砕かれた器を用いられる。 主は愛する者を懲らしめ、従順な者へと造り変え、造り上げられる。 ------------------- 神様の前に失敗を隠さず、弱さに正直な自分でいよう。砕かれた者のうちにまた 神様の恵みも満ち溢れ、さらに頼りつつ歩む者に変えて行って下さる。
2008年12月07日(日) 「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」イザヤ2:22
「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」イザヤ2:22
私たちはどうしても人の目が気になり、他人の評価を気にする。心の底に人に認 められたい、評価されたい、受け入れて欲しい、愛されたい、との強い願望があ るからだ。 「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とある通り、私たちは生まれつき人 の愛が欲しいのだ。これは普段、認識していないだけで、自分が思っている以上 に強い欲求だ。だから人の目を気にし、愛される事を求める。 これが高じて行くと、人目を気にして、嫌われたくないので、人にへつらい、人 の顔色ばかりを気にし、ノーが言えなくなる。生き生きと御霊の自由の中で、自 分らしく生きる事ができない。 だいたい対人関係で、なぜ傷つくかと心を探ると、人に認められたい、評価され たい、人からの賞賛が欲しい、それが根深くあり、そこに触れるから傷つく事に なる。 しかし、自分の判定を他人にさせてはならない。人に自分の事を決めてもらうの は間違っている。別にすべての人が、あなたの事を考えているわけではない。 あなたを愛してくれる人を除いては。 心が傷つく時に、それはどこから来ているのか考えてみよう。人に深く依存して いる事が原因かも知れない。人に受け入れて欲しいばかりでなく、神の愛にしっ かり依存しよう。ここに失望も落胆は決して無いからだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分は、人に依存していないだろうか。人に認められる事を求めると、自分を生 きる事ができなくなる。自分の気持ちがわからなくなり、自分が誰なのかがわか らなくなる。主に向き合って行く時、真の自分に向き合う事になる。
2008年12月06日(土) 「サタンの策略を知らないわけではありません」Uコリ2:11
「サタンの策略を知らないわけではありません」Uコリ2:11
サタンは何とかして私たちを神から離そうとやっきだ。別に方法は何でもよい。 まず過去にくよくよさせる。あなたはどうだろう。後ろを振り返り、あの時ああ すれば、この時こうすれば・・あの対人関係がまずかった、あの決断が失敗だっ た、あの人とさえ出会わなければ、進路をミスした・・。 ぐずぐずウジウジ暗くなり、落ち込む。しかし、過去は絶対に戻らない。失敗や 過失、判断の間違いがあったかも知れない。しかし、もう決して戻れない。それ に囚われ、今、現在を真っ暗にしてしまう。サタンの攻撃だ。 又、先の事はどうだろう。将来の進路や、結婚や老後や、健康の事、難しい対人 関係に思い悩み、これから先をくよくよと思い煩う。先はいっさい心配するなと 言っておられる。 主があなたの代わりに死んで下さったのだから、先は完全保障して下さっている。 何の心配も無い。「だから明日のための心配は無用です」明日を思い煩って、 「今」不安と心配で、時間を無駄にする。 今、すべての必要は与えられ、今、生かされているではないか。感謝に溢れて、 主に賛美を献げればどんなに喜びだろう。思い煩いに心が奪われているなら、 サタンの策略だ。敵が絶えず狙っている。祈っていよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 過去は変えられない。先の事はいっさい見えない。どうにも出来ないそこを狙っ て来るのがサタンだ。時間と気力を奪われる。今、なすべき事ができない。堂々 巡りはサタンだ。立って切り替え他の用事を始めよう。思いが消えるのがわかる。
2008年12月05日(金) 『「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた「あなたはどこにいるのか」』創世記3:9
『「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた「あなたはどこにいるのか」』創世記3:9
アダムとエバは、エデンの園で、神が取って食べるな、必ず死ぬと言われた 「善悪の知識の木」の実を食べた。すると、目が開かれ、自分たちが裸であること を知った。そこで、互いに腰におおいをつけた。 そして、神の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 罪を犯した後、彼らは神から隠れた。私たちもどうだろう。本当の自分の姿を隠 しているだろうか。 神にも人にも決して見せないで、おおっているだろうか。 悩みが問題なのでなく、神に「隠す」ことが問題だ。 又、自分にある問題を直視したくないので、逃げて避けて、ふたをしているだろうか。 余りにも痛くて辛いので、なかった事にしてしまおうとしているか。 問題や痛みはふたをしておけば、いつか自然消滅すると思いたいが、決して消える 事はない。 ずっとそこにあり続け、むしろ膿と同じで、ますます悪化する。 解決は、その痛みを神のもとに持って来る事、光の中に出す事だ。 暗闇にあるものを光の中に持ち出す時、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明 らかにされ、明らかにされたものはみな、光だ。暗闇が光とされる。 神の御前に、自らの姿を認める時、神が癒して下さる。 あなたはどこにいるのか」神の御前に立とう。 「真理を行なう者は、光の方へ来る」神に癒しと解決がある。 --------------------------- 私には何の問題もなし、としているなら、いつの間にか闇と光の区別もつかなくなる。 闇が示される事が感謝。一つ一つ闇を御前に持って行き、光と変えてもらおう。
2008年12月04日(木) 「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16
「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16
失望落胆に捕らわれている時、主が見えなくなる。 経験するところだ。エマオ途上の弟子たちは、失望、絶望、落胆の 中にいた。 ローマ帝国をくつがえして、地上に王国を建て、主が支配されるは ずだったのに、一番残酷で惨めで、無残、辱めの十字架刑で死んで しまわれた。 自分たちの思いの対極だ。自分たちの希望、期待、喜びが見事に砕 け散ってしまった。失望と空虚しかなかった。 信仰の目がふさがれ、さえぎられ、不信仰に陥っていた。 私たちも思い通りにならない時、自分の思いと全く異なる現実を突 き付けられる時、受け入れる事ができない。 主と自分の間が遮断されてしまう。 目の前の問題だらけの状況が苦しくて、別の職場を求めている時に 「忍耐しなさい、今の場でなければ得られない学びがある」と言わ れるなら、嬉しくない。 非常なる経済的困窮の中で、「わたしに頼ることを学ばせるため」と 言われても辛いものがある。 目がさえぎられ失望落胆の不信仰にいた弟子たちが、心が燃やされ、 喜びに溢れ、もと来た道を大至急引き返して行った。 どう変えられたのか。主の語られる御言葉に耳を傾けて行った時に、 「信仰」がよみがえった。私たちも現実が全く思い通りでなく厳しく とも、目に見えるところでなく「信仰によって」歩める。 その信仰は、今の状況がどうであれ、最善をして下さると堅く信じ させてくれる。 --------------------------- 心をふさぎ 目をさえぎっているものから、目覚めさせてくれるもの は勝利の御言葉だ。朝ごとに御言葉から出発し、事あるごとに御言葉 に帰ろう。
2008年12月03日(水) 「あなたの一生を良いもので満たされる」詩篇103:5
「あなたの一生を良いもので満たされる」詩篇103:5
神はどんな小さな祈りも聞いて下さる。しかし、それは何もかもが、 自分の思い通りになるという事ではない。私たちはいろんな事を願う。 ああして欲しい、こうして欲しいと。それも強い願いだ。 身体の癒しや、進路や、問題、悩みの解決や、与えて欲しいものがある。 それらを願うが、しかし、その願いを聞いて、どのようにされるかは、 主の御心があり、主が決定される事だ。 信仰人生で時々経験するが、神からの答えが、自分が願ったものと違う 結果になる。 ある人が高校受験の時に、志望校は絶対大丈夫と言われていた。 なぜなら成績がトップクラスだったから。 本人も周囲も合格を信じて疑わなかった。ところが、結果は不合格だった。 次志望の学校入学になったが、その人は、はた目から見ても、本当に霊的 に変えられて行った。 砕かれて、周囲は以前には無かった穏やかな優しさを感じた。 学校で聖研を開き、教会の中でもジュニアのリーダーとして用いられて行 った。 私たちも自分の願った通りではないかも知れないが、必ず最善が与えられる。 振り返っても、そうだったのではないか。 弟子達も主の十字架を受け入れず、認めたくなかった。 しかし、その十字架こそが最善であり、私達を救う神の奇跡のわざであった。 今、もし思い通りでなければ、神が思いを遙かに超えた最善をして下さる事 を信じていよう。 ------------------------------- 願ったものと違うけれど、それは神様からの最善の答えだ。今わからなくて も振り返ると必ず大きな祝福だったと思える。心配しないで喜んでいよう。
2008年12月02日(火) 「恐れないで、ただ信じていなさい」マルコ5:36
「恐れないで、ただ信じていなさい」マルコ5:36
死にかけている娘を癒して欲しいとの、ヤイロの願いを受けて、主が出かけられたが、 途中で、長血の女の介入で、手間取ってしまった。 一刻を争う娘の状況に、ヤイロは気が気でなかったろう。主が、女にまだ対応中に、 娘が死んだとの知らせが入った。 主はその言葉を聞くや「恐れないで、ただ信じていなさい」と言葉をかけられた。 それはヤイロに、目に見えるところ、耳に聞こえるところ、状況でなく、わたしを見て、 わたしを信じなさい、と言われたのだ。 目に見える状況でなく、その状況を越えた、神の言葉を信じることであり、それに反する、 否定的な言葉に耳を貸してはならないと。 信仰生活でとても大切な事だ。何でもかんでも、心に受け入れてはならない。 不信仰の言葉、否定的な言葉、信仰を妨害する言葉を、無視し、シャットアウトしなけれ ばならない。耳を貸してはならない。 「もうダメだ」「もう手遅れだ」「もうおしまいだ」「やっても無駄だ」「できっこない」 「自分はだめだ」・・否定的な言葉は、心に入れてはならない。 主は、否定的な状況から目を離して、ご自分に目を向けるように、ヤイロに御声をかけられた。 あなたも今、否定的言葉を聞いて、心がいっぱいだろうか。 目を上げて「ただ信じていなさい」との御声を心に受け取ろう。 ---------------------------- 聞く耳と、聞かない耳を持たなければならない。否定的な言葉で思いをふさがれる前に 神様に導きを祈ろう。恐れないで、ただ信じていなさい・・この言葉を聞き取って行けますように。
2008年12月01日(月) 「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかも知れない」エステル4:14
「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかも知れない」エステル4:14
ハマンの計略で、ユダヤ民族に皆殺しの危機が訪れた。伯父のモルデカイは、王妃 となったエステルに、王にあわれみを求めるようにと伝えた。 しかし、召されないで王のもとへ行くなら誰であっても死刑になる。 エステルも命がけであったが、王のもとへ行く決心をした。危機に黙っていれば、 命は助かり地位も安泰だ。だが、同胞を救うため、命をかけて王に民の救いを求めた。 エステルを通して学べる。今までの経緯がパズルのように埋まる。 捕囚の民として異国で生まれた事、王妃に選ばれた事、それらがこの時のために用い られた。 私達も生い立ち、成育歴がどんなものでも、今に至るまでの過程は神の摂理 であり、ご計画だ。今、どのように思い通りでない場所であっても、難しい現実であ っても、今の場所で神の御心があり、計画がある。 パズルが埋められて行く。今、置かれた場で、あなたのなすべき事がある。 エステルは困難な状況で、死を覚悟して、自分自身を全く明け渡した。 その明け渡したエステルを、神はユダヤの民の救いのために用いられた。 危急の事態が起きた時、方策や解決手段を捜し回る。 しかし、解決方法ではなく、神が全く明け渡した人を通して、ご自身のみわざをされる。 今の場で神はあなたを用いられる。今の場所が、神が遣わされた場所だ。 なすべき事を示されるなら、従おう。 ---------------------------- 条件がそろったなら従おう・・ではなく、この場所が私にとってのベストポジション、 神様がここに置かれていると確信して生きるなら、思い煩いは感謝へと変わり、神様に 明け渡して歩める。