2009年01月31日(土) 「ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。しかし・・虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた」ヨナ4:7
「ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。しかし・・虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた」ヨナ4:7
ヨナの言葉に、ニネベの人々は悔い改め、神はわざわいを思い直された。 ヨナにはそれが納得行かず、怒りが湧く。「死んだほうがまし」と町から出て、 自分で仮小屋を作り、その陰の下に座った。どうなるか、見てやろうじゃないか との態度だ。 神はとうごまを生えさせ、陰を作られたので、ヨナは非常に喜んだ。しかし翌日 は、虫によりとうごまは枯れた。そして太陽は頭上に照りつけ、衰え果て「死ん だ方がまし」と死を願った。 苦々しい思いから、機嫌が良くなったかと思うと、又、意気消沈し、死にたいと 思う。私たちもヨナと同様だ。些細な事で一喜一憂し、信仰がグラグラふらふら する。 物事がうまく行けば大喜びし、少し行き詰まればガックリし、失望し、くよくよ と思い煩う。これは何が問題なのか。外的状況に振り回される事が問題だ。状況 のアップダウンに関係無く、内側に、芯に、確かな主への信頼、喜び、確信を持 つ事が大切だ。 ヨナはとうごまを喜んだが、それが神から来ている事、主に感謝する事が欠落し ていた。日陰が出来た現状を、喜んだだけだった。私たちはどうだろう。 ヨナは何と主に愛されている事だろう。御心をそれようと、決して見捨てず、だ だっ子を大きな愛で包み、付き合い、忍耐もって導かれる。この愛であなたも愛 されている。状況でなく、神のこの動く事のない愛に今一度、基を置こう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 状況はコロコロと変わる。自分に都合良かったり、不都合であったり・・神でな く、自分中心に状況を見ているので、自分もグラグラコロコロ変わる。今、状況 の背後におられる神に、焦点を向けてみよう。そのお心に思いを向けよう。
2009年01月30日(金) 「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった」T歴代10:13
「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった」T歴代10:13
サウルは、ペリシテとの戦いの事で不信の罪と言われたが、その前にやはり主に従う事をしていなかった。 アマレクとの戦いで「すべてのものを聖絶せよ」との主の命令に、最も良いものを惜しみ、どうでもよいものだけを聖絶した。 主の言葉に従わず退けたので、主もサウルを王位から退けられた。 サウルは罪により主との関係が絶たれてしまった。 サウルは「罪を犯しました、しかし、私の面目を立てて下さい」と言った。これは罪の悔い改めではない。 自分の体裁、体面を守るためのものでしかなかった。私たちも、罪とは人前で面目を失う事と考えていないか。それなら人前で面目を保てば良しとなる。 そうではなく、人は関係なく、罪とは神と自分との間のことだ。 サウルはペリシテとの戦いで、主に伺ったが、主はいっさい答えられなかった。 それで霊媒へと向かった。まず主との関係が大切で、その関係が修復されていないのに、悔い改めが無いのに、伺いを立てても、答えが無いのは当然だ。 主との関係が、損なわれてしまっているのに、自分本位に祈っても願ってもどうにもならない。「主に尋ねなかった」と言われ、つまり尋ねた事にならない。 神との関係が何よりも大切だ。ダビデは姦淫、殺人の罪を犯したが、真に悔い改めた。サウルに悔い改めは無かった。悔い改めにより、神との関係は回復される。あなたと神との関係はどうだろう。 ---------------------- 人前の体裁ではなく、真に神様に罪を犯したと悔いる思いを神様は待っておられる。罪しか犯せない者であるからこそ、神から離れず尋ね求めて行かなければならない。
2009年01月29日(木) 「『あなたは、どこにいるのか』彼は、答えた。『 私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました』」創世記3:8
「『あなたは、どこにいるのか』彼は、答えた。『 私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました』」創世記3:8
「あなたは、どこにいるのか」と主はいつも私たちに語りかけられる。私たちは罪を犯した時、間違った時、動機が悪い時、主の御顔を避けて隠れる。 信仰者も主の御顔を避けて生活してしまう。人間は善悪の知識が入ったゆえに、罪を犯したままでは、主に顔向けできないことを知った。 その上、主が聖い方であるので、ますます神を避け、神から遠ざかる。御顔を避けて、神の御前から逃げると、正しい判断、思考が出来なくなって来る。 「どこにいるか」は極めて大切だ。私たちは良いものに見られたいので、外側を懸命に取り繕う。良さそうなものに見せる。しかし、それは全く意味をなさない。 外側を作り、何か立派なものに良いものに見せようとするが、 居場所が最も大切だ。私たちは罪を犯すと、失敗すると、本能的に神を避ける。 善悪を知る知識により、まずいと判断するからだ。しかし、御子の十字架の贖いがあるからには、恐れなく大胆に恵みの御坐に近づける。 罪のための十字架だ。「どこにいるのか」は神が知らないから問うているのではなく、裁くため、責めるための問いではなく、赦すため、神に立ち返らせるためだ。 主のもとにいる事が、私たちの最大の幸せであり、喜びだ。何をしているかでなく、どこにいるかが大切だ。「あなたはどこにいるのか」もし今、主と距離があるなら、すぐに主のもとに帰ろう。 --------------------- 罪を犯したままでは落ち着かない。私達の居場所は「どこにいるのか」と呼びかけて下さる神様のもとだ。そこで、悔いた心に赦しと回復を再び与えて下さる。
2009年01月27日(火) 「ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた」マルコ4:38
「ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた」マルコ4:38
信仰生活で、少し風が吹き波立つと、行く手を阻まれると、「何で?何で?」と、驚き怪しむ。 「みこころで従ったのに、やっぱりみこころでは無かったのか?」「みこころを間違ったのか?」「あの事、この事が悪かったのか?」「隠しているあの事の罰か」と恐れと不安に襲われる。 何の問題も無く、人生スムーズに行く事が幸せで、祝福されているとの価値観が無いだろうか。不幸な事、問題、悩み=悪、あってはいけない事、忌むべき、避けるべきものとの考えだ。 そして、御心に従ったからには、守られるはず、何もかもがスムーズに行くはずと思っている。だから、御心に従って、試練が臨むと、理屈に合わないのでパニックになる。 しかし、そうではない。御心に従って、次から次へと試練が臨む。次々とテストが来る。 乗り越えさせて信仰を強めて下さるためだ。 この時も、主と共に舟に乗り込んだら、つまり御心に従ったら、激しい突風で舟は波をかぶり水浸しだ。今にも転覆しそうだ。 弟子たちにすれば大変な恐怖だ。驚き慌て、パニックで右往左往だ。しかし、主が舟におられる。そして主は「向こう岸へ渡ろう」とはっきり言われた。 言われたからには、途中に何があろうと渡れる。状況でなく主を見て、御言葉を見て、信じよう。その時、舟は大波に大揺れしても、心は揺れずに平安に守られる。 主が平安でおられたように。 --------------------- 状況が良ければ御心のまん中を歩んでいるように見え逆なら落ち込む。どのような状況の中にもしっかりと主を見つめ、御言葉をにぎり、向こう岸に渡ろう。
2009年01月26日(月) 「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15
「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15
「二人でこの出来事について話し合っていた」主の十字架、その死、主の生涯について話していた。 何がどうなったのか、主はローマ帝国をくつがえして、王国を建てるはずではなかったか、「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずと、望みを」かけていた。 この世界を政治的に解放する指導者だと。それが無残な死、そして、自分たちも主を捨てて逃げてしまった。何をどうすればよいのか。 ここにはもうおれない。今なお気持ちの整理もつかぬまま、挫折感、悲しみ、絶望、意気消沈で郷里に向かっていた。 そして、遺体が無くなり、御使いがイエスは生きていると告げたと、復活の証言も聞いているのに、「ふたりは暗い顔つき」だった。 復活を信じることができない。主が、罪と死に勝利して復活されたにかかわらず、信じないので「暗い顔つき」のままだ。その二人が変化したのは 、かたわらを歩む人が、御言葉をどんどん解き明かしてくれた事だった。 耳を傾けていると、心がいやされて、暖かく燃えて行った。よみがえりの主が、主の復活を信じられるようにして下さった。 彼らも暗い不信仰の中から、よみがえった。よみがえった彼らは、変えられた。今来た道をすぐさまエルサレムへと引き返した。 不信仰に陥り落胆している時、主が今一度信仰を奮い立たせて下さる。 不信仰を信仰へと変えて下さる。その主が、今、あなたと共に歩まれ、いつもどんな時も、世の終わりまで共におられる。 ---------------------------- 私達の心は熱く燃えているだろうか。いつもエマオの途上にあるが、主を求め耳を傾け続けるなら、引き返すことができる。
2009年01月25日(日) 「しかしふたりの目はさえぎられて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16
「しかしふたりの目はさえぎられて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16
二人の弟子が、主の死後、なすすべなく故郷に、引き揚げる途上だ。 イエスご自身が歩み寄り、かたわらを歩かれたが、二人にはそれが主だとわから ない。 なぜ、わからなかったのか。目がさえぎられていたからだ。主は現に実際かたわ らにおられるが、こちらの目がさえぎられると見えなくなる。 目をさえぎるものが数々ある。失望落胆、悲しみ、絶望、この世の価値観、思い 煩い、不安、多忙、ネガティブな思考、悩み問題・・これらは主を見えなくして しまう。あなたも今、この状態に陥っているか。 そんな意気消沈し、絶望している弟子たちに、主は御言葉を語られる。彼らはど うしてイエスだとわかったのか。 主により目が開かれたからだ。どのように目は開かれたのか。道々話して下さっ ていた間、後で認識するのだが、御言葉を聞いていると、心が暖かくなった。 赤々と心が燃えて来た。 心に何かを感じた弟子たちは、もっと聞きたい、知りたいとの求めを持った。エ マオの分かれ道に来た時、主に一緒に泊まるよう無理やり頼んだ。主はそのまま 行かれる予定を「求め」に応じてとどまられた。 いっしょに泊まった時、主を親しく知った。さえぎられていた目が開かれて、 同行者が主だとわかった。 今も主はかたわらにおられる。御声に耳を傾けて、心を向けて行くことだ。目を 開いて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 思い煩った途端、主が見えなくなる。思い煩いと平安が決して共存しないのは、 日々の経験だ。しかし、落ち込んで、意気消沈している、かたわらに主がおられ る。この事をしっかり覚えよう。落胆の中からも御声に耳を傾けてみよう。
2009年01月24日(土) 「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」ルカ10:42
「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」ルカ10:42
マルタは良い人であり、善意であり、一生懸命に主をもてなそうとした。 まず居心地良くするため掃除から始まり、料理の献立を練りに練って用意した事 だろう。 主のために最高のものをと、完璧に考えたに違いない。大奮闘だ。思いのほか時 間がかかり、手間取り、イライラして来る。 ふとマリヤに目をやると何もしていない。マリヤの態度に腹が立った。しかし、 マリヤは何もしていないのではなく、主の言葉を一言も聞き漏らすまいと、この 上なく真剣に熱心に耳を傾けていた。 じっと御言葉を聞いていたこのマリヤ一人が、イエスが神の子であり、これから 十字架にかかる事を悟っていた。 私たちも多くの楽しみや喜びがあり、又、多くのものに煩わされる。家庭があり、 学校や職場があり、近隣があり、様々な対人関係に囲まれている。 又、勉強、仕事、家事育児、多くのなすべき事がある。又、リクレーションやレ ジャー娯楽がある。それらは良いものであり、罪ではない。 しかし、その良いものが、どうしても必要なものを、圧迫して来る。「どうして も必要なものは一つだけ」と言われた。 ベターがベストを追いやっていないか。良いものであり、罪でないだけに気づか ずに流されてしまう。無くてならぬ「一つ」に、今一度立ち返ろう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 繰り返し、繰り返し、無くてならぬものは「一つ」と言われる。多くのなすべき 事があり、責任がある。しかし、本末転倒になっては、何をしているかわからな い。むしろ良いものに圧迫されていないだろうか。
2009年01月23日(金) 「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは3日3晩、魚の腹の中にいた」ヨナ1:17
「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは3日3晩、魚の腹の中にいた」ヨナ1:17
ヨナはニネベに宣教に行くよう神の命令を受けた。しかし、ヨナの気に入らず、 神に従わずに、反対方向タルシシュに向かい逃亡した。 まさに「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう」だ。ヨナの自我が御 霊に逆らう。しかしそんなヨナに、神は尚も変わる事なく愛を注ぎ、見捨てられ なかった。 神は大嵐を起こし、その結果ヨナは海に投げ込まれる事になった。神は大きな魚 にヨナを飲み込ませ、ヨナの命を救い守られた。 この後もヨナはニネベの人々が悔い改めると、機嫌を損ねる。これぞ肉、自己中 心、わがままだ。あなたも自分の思い通りにならない事に、すねていないか。 ヨナは自分の姿ではないか。自分に死ぬ時、御霊に従って生きる事ができる。3 日3晩その魚の腹にいた。すべてが神のご計画の内であった。 神はヨナを魚の腹に隔離され、そこで一人きりであった。人からも外界からも、 あらゆる事柄から離され、神の御前に置かれた。私たちもまた簡単に流される。 余りに多忙で祈る時間、考える時間すら無くなると、世の凄まじい勢いに飲み込 まれ、自分を見失ってしまう。神の御声を聞けなくなる。忙しすぎるなら要注意 だ。 信仰者にとり、御声を聞くために静まる事がどうしても必要だ。強制的隔離の前 に、自ら静まって愛の御声に耳を傾けよう。これがあなたに今一番必要だろうか。 ・・・・・・・・・・・・・・・ ヨナは神の命令に逆らい、反対方向へ。御心をそれたけれども、神のヨナへの愛は決して変わらない。主の無条件の、深い大きな愛に抱かれている事を覚え、主 の御前に静まろう。ことごとく心を打ち明け、交わって行く時、御声に従って行ける。
2009年01月22日(木) 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」Uペテロ5:5
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」Uペテロ5:5
ある人が、職場でどうやってもそりの合わない相手がいた。 話すと、どうしても意見が合わず、ギクシャクしてしまう。 相手にトゲを感じ、段々、話すことも苦痛になり、その事を祈り始めていた。祈っていると、相手の短所、欠点ばかりに目が行き、そういう見方しかしていない自分に気づいた。 相手を責めて、裁いていた。相手にトゲを感じていたが、自分の側がトゲを出していた。 丁度「高慢」についての学びがあり、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」キリストに、自分の高慢、自己中心、愛の無さを示された。 悔い改め、へりくだる事を祈り、へりくだりたいと、その事に心を向けていた。 そんな時、相手と打ち合わせの必要が生じ、話をしていた時、相手との関係が全く変化している事に気づいた。 自分が変えられた。自分がへりくだろうとして祈る時、主が対人関係に働かれる事を見せられた。和やかに対話でき、トゲが全く消えてしまった。 こちらが心を開いたので、相手の態度も変わってしまった。対人関係は、どちらかが変わると変わる。 悔い改めて、主に拠り頼む時、主は奇跡をされる。常に祈るので愛が与えられ、その苦手な相手が、一番仲の良い相手に変わってしまった。 ---------------------------- 困難な状況を自分でやりくりしている事に気づけますように。出来ないと素直に叫べるなら感謝だ。神様が整えてくださる。出来ないままで神様の下にまずへりくだろう。
2009年01月21日(水) 「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます」マタイ7:5
「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます」マタイ7:5
問題が起きた時、確かに相手に間違いがあったかも知れない。しかし、「あなたが悪い。あなたの間違いでこうなった」と相手のちりを除こうとすると、問題は更に悪化し、糸がからまり、ややこしくなり、おおごとになる。 経験ないだろうか。相手のちりを見つけた時こそ、まずこちらがへりくだることだ。自分をよく省みて、自分にも間違いがなかったか、反省すべき点がないか、よくよく御前に静まって、御霊に照らされる事が大切だ。 「誰でも、立派でもない自分を何か立派でもあるかのように思うなら、自分を欺いている、おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい」へりくだって、自分を省みるなら、「まず自分の目から梁を取りのけ」るなら、その時、はっきり見えるようになる。 そして、へりくだって、愛によって、相手のちりを取り除く助けができる。 目のごときデリケイトな所は、触れようとした瞬間、相手は閉じる。不用意に、祈りもなしに、こちら側の霊的整えもなしにできる事ではない。 梁は大きな材木、ちりはほんの微少のほこりだ。まず批判的な心が大きな材木だ。 相手が悪いから裁くと思っているが、実は自分の思い通りにならないから裁いている。 愛とへりくだりが無ければ、必ず泥沼になる。まず自分を御前に置いて御霊に探って頂こう。そうする時、整えられ、相手のちりを除くために、主により用いられる。 --------------------- 自分のうちにある相手を裁く材木こそ取り除かれるべきものだ。相手のちりに、反応する思いを御前にうち広げ、よく祈ろう。問題の中で神様が働かれる。
2009年01月20日(火) 「私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します」詩篇30:12
「私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します」詩篇30:12
与えられているもの、今あるものを感謝して行くこと、これは恵みに恵みが増し加えられてゆく秘訣だ。 母親を失い、人生の虚しさに、鉄道自殺を図った田原米子さんは、何とか一命を取りとめ、両足と片腕を失い、片手の指3本だけが残った。 その身体を見て、今度こそ絶対に死のうと決心した。 しかし、病室を訪ねた宣教師によって救いに導かれた。神に出会った時、3本しかない指が、3本もある!に見方が変わった。 「ない」から「ある」へ。「3本しか」と「3本も」の違いで、人生が180度変わってしまった。 結婚し、子供も出産した。子供を育てるために、主はこの3本の指を残して下さった、何と有難いことかと。 祈りにより、天からの知恵を与えられ、日々チャレンジ精神で、何もかもを3本の指で成し遂げる。主の恵みは十分であり、主の力は、弱さの中に完全に現われる。 私たちの日常はどうだろう。「ない」「ない」と嘆いているだろうか。あれがない、これがない〜。不平と不満と愚痴で一杯だろうか。 恵みを数えてみよう。あれもある、これもある〜、何と豊かに与えられている事だろう。 「しか」無いを、「〜も」あるに、視点を変えよう。感謝する人に、主は更に感謝すべき事を増し加えられる。 感謝して行くと、ますます感謝が見えて来る。 --------------------- ああして欲しい、これが欲しいの祈りばかりではないだろうか。神様に感謝し、ほめ讃えながら歩もう。恵みの中に置かれているはずだ。感謝をしよう。
2009年01月19日(月) 『「わたしは主に対して罪を犯した」ナタンはダビデに言った「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」』Uサムエル12:13
『「わたしは主に対して罪を犯した」ナタンはダビデに言った「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」』Uサムエル12:13
ダビデはバテシバと姦淫し、それを隠ぺいするために、夫であるウリヤを殺害した。自分はトップであり、すべて意のままであり誰一人自分に指図する者はない。 その地位ゆえに、この犯罪を隠しおおした。しかし、人の目に知らぬ存ぜぬで通せても、神の目には裸であり、神は見ておられた。 罪を隠していた間、激しい苦悶にうめいていた。神の御手だ。 「1日中うめき、骨々は疲れ果て、骨髄はひでりでかわききった」。 心はカラカラにかわいて苦しんだ。主は捨て置かれず、預言者ナタンを送られた。富者が貧者の大切な唯一の子羊を奪った話をすると、ダビデは「そんな男は死刑だ!」と激しい怒りに燃え叫んだ。 それこそまさに自分だと気づかなかった。ここから見る事ができる。 自分に密かな罪があり、その罪が赦されていない時、他者に対して非常に厳しくなる。 他者を厳しく糾弾する。自分が主からの赦しを受け取っていないと、他者を責めさばく。なぜさばくのか。無意識の中で、自分の罪に自分が責められているからだ。 それが他者に向かう。ダビデは即、悔い改めた。自由と喜びと平安が戻った。 主は豊かに赦して下さる。自分自身が溢れる赦しを受け取り、赦されて赦されて歩むからこそ他者を赦す事ができる。さばく者でなく赦す者へと変えられる。 --------------------- 隠しておきたい罪を認めなけれな赦されようがない。良い者にはなれない自分を認め、御前に悔いる時に必ず赦されるとは、なんという感謝か。
2009年01月18日(日) 「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」マタイ2:3
「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」マタイ2:3
星に導かれた東方の博士たちが、エルサレムに到着した。そしてユダヤ人の王は どこで生まれたかと聞いた時に、ヘロデ王は恐れ惑った。 新しい王が誕生するなら、ヘロデは自らの地位が危うくなる事であり、恐れ惑う のはわかる。が、「エルサレム中の人も王と同様であった」。なぜエルサレム中 の人々も恐れ惑うのか。 彼らは別にヘロデなど、どうという事なく、真の王として認めているわけではな い。逆らえば、身に危険が及ぶから、うわべだけ言うことを聞いている。脅威で も何でも無かった。 ところが、新しい王の誕生は脅威であった。恐れと不安を抱いた。神から遣わさ れた王なら、ヘロデごときでない真の王であり、自分たちは真実に従わなくては ならない。脅威と不安を覚えた。 私たちは、エデンの園でアダムが罪を選んで以来、古い罪の性質が宿っている。 それは本質的に自分が王であり、主人でありたい。自分の上に「主」を置くのが 嫌なのだ。従いたくない。 ヘロデになら真に従っているわけではない。形だけであり、心では自分が王であ り主人だ。王でおれる。しかし真の王は違う。 私たちはどうだろう。命を捨てられた主を前に、自分が王であり続けるか、御前 にひれ伏して、主に王座に来て頂くかだ。明け渡す時喜びが満ちて、大海のよう な平安を経験して行く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 真に主に向き合っているだろうか。ヘロデに対するのと同様に、形だけであり、 ごまかしたり、あいまいにして、避けて逃げているだろうか。あいまにして、見 たくない自分の内側を、光で照らすために来て下さった。光に向いて行こう。
2009年01月17日(土) 「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14
「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14
このぶどう園の主人は、早朝、9時、12時、3時、5時に労務者を雇った。 早朝の者たちとは「1デナリ」の契約をした。9時以降は、金額を約束しないで 「相当のものを」と言った。 そして、6時に支払いをするが、最後に来た者順にした。1時間しか働かない者 が、意外にも1デナリ、丸1日分を貰った。1時間で1デナリなら、早朝の者は かなり多く貰えると予測した。が、全員1デナリ。 そこで、早朝の者が不当だと文句を言った。しかし、1デナリの契約であり、主 人は何も不当ではない。皆に同じようにしてやりたいと。 後の者が分不相応の扱いを受け、あとの者が先になり、先の者があとになると。 神は働きに正比例してではなく、分を越えて遙かに良くして下さる「恵み」の世 界を現わされた。 実は早朝の者は大きな恵みを受けていた。早朝から賃金が約束され、夕刻には確 実に糧が手に出来る。家で待つ妻や子供の喜ぶ姿を思い浮かべ、1日心穏やかに 平安に働けたのだ。 又、主人のために働ける事は喜びではないか。これにまさる恵みはない。これを 忘れると、多く働く者ほど自分で働いたのであり、自分の力でしたのであり、当 然とばかりに要求する。恵みでなく、報酬=律法の下に入るので、感謝も喜びも 無く、不平不満だ。 私たちの奉仕の態度はどうだろう。3時や5時まで立っていた人々は、家族を思 いどんなに大きな不安、恐れ、思い煩いにさいなまれていた事だろう。そこに思 いを至らせられる私たちの主は、何と憐れみ深く気前の良い方だろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分が何者かを見失うと、すべてが当然になって、感謝も恵みも見えず、不平不 満しかない。恐ろしい高慢に陥ってしまう。取るに足らない者を選んで下さった こと、救われなければどうなっていたのか、自らは5時の者であり、常にその恵 みにいたい。
2009年01月16日(金) 「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3
何か問題が起こる時、必ず「なぜ?」という問いが心に湧き上がる。 登校拒否や、出社拒否や、様々な問題に出会す時、答えを見つけたい、理由を探し出したい思いに駆られる。 理由捜しに必死になる。「なぜ?」「どうして?」誰しも無意識に自分は傷つきたくない、だから、自分以外のところに原因を捜し出そうとしてしまう。 そうすると、誰かのせいになってしまう。そして犯人探しをする。 弟子たちも盲目の人を見て、犯人探しをした。「この人が盲目なのは、この人が罪を犯したからか、それとも両親のせいか」と。 しかし、主は「誰のせいでもない。神の栄光が現れるため」と言われた。 私たちが人生で出会う苦しみが、すべて理屈で通り、理屈で解明できるのなら、それは人間の範囲内、人間の次元内で、人が神の上に立ち、神を動かす人生でしかない。 しかし、全主権は神にあり、人生で、「どうしてこんな事が」「なぜこんな事態に」と思うような、不意の突如の苦しみを経験する。 苦しく辛い、わけのわからない所も通る。しかし、あれが悪い、これが悪い、誰が、かれがと、犯人探しをし、責め、非難するのでなく、神の素晴らしさを知るためとの信仰に立とう。 どんな苦しみ痛みも、必ず万事益とされ、その事で神ご自身を更に深く知り、神のご愛を知ることになる。 ---------------------- 困難や問題の意味はわからなくても、神様に目が向いている限りそれが神様発だと悟れる。神様が関与しておられるから自分や人を責めず、神様の栄光の現われを忍耐して待とう。
2009年01月15日(木) 「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた」創世記4:5
「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた」創世記4:5
アベルの献げ物が神に受け入れられ、カインの献げ物が受け入れられなかった。その時、カインはひどく怒った。怒るとは、神に問題があるとする事だ。 神を絶対的に正しいとするなら、受け入れられなかったということは、自分側に何か問題があるはず、それが普通の考え方だ。 しかし、カインはそうでなかった。自分の側の間違いを認めず、受け入れない神に怒りを向けた。神を正しいと認めないので、アベルをも認めることができない。 それゆえ受け入れられたアベルに嫉妬し、激しい憎悪に燃えた。 「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる」とあるからには、カインは正しく行なっていなかった。 もし動機が正しければ、良心に何のやましいところなく、真っ直ぐに立っておれる。 「あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」もし間違っているなら、悔い改めなければ、罪に支配されてしまう。 罪は大きくなり、罪に罪を重ねてしまう。 悔い改めない罪は、カインをして、アベル殺害へと発展してしまった。しかし、殺害後も、神は「アベルはどこにいるのか」と、尚も悔い改めのチャンスを与えら れる。 神は慈しみあわれんでいて下さる。神の尽きないあわれみがあるのだから、又特に、対人関係での憎しみや妬み、敵対心があるなら、今すぐに悔い改めよう。 ------------------------ 自分が受け入れられれば嬉しい。受け入れないと怒る。自己中心の罪が苦い思いに変わって行く。悔い改め、悔い改め、今日も謙遜に御霊に従って行こう。
2009年01月14日(水) 「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです」Tヨハネ4:4
「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです」Tヨハネ4:4
サタンは主に許された限界内でしか働けない。ヨブ記を見てわかるように、「持ち物はいいが、身はいけない」次にサタンが挑戦して来た時には「身はいいが、いのちには触れるな」。 神は限度を定めておられる。ユダは主イエスを裏切り、銀貨30枚で売ってしまった。主は無実の罪で捕らえられた。サタンがユダに入り、主を裏切り、主は十字架にかかられた。 神はサタンを止める事も可能だが、サタンが働く事を許され、そのサタンすら、神の決定的御旨成就のために用いて行かれる。 神は全知全能であられ、神が全主権を握っておられる。サタンは主を十字架の無残な死に追いやったが、結果的に十字架は人類の贖いという金字塔を打ち建ててしまった。 もう誰もサタンすらどうする事も出来ない。ペテロもサタンにやられてしまった。 自分で自分を知らず、自信に溢れ、命を捨ててでも従って行けると豪語した。 しかし、主が捕らえられた時、ただただ保身に走り、呪いをかけて誓ってまで、知らないと主を否定し裏切ってしまった。 しかし、主はそれをも予めご存じの上で、ペテロの将来を見据えておられた。 「サタンがあなたをふるいにかけることを願って聞き届けられた」サタンのふるいだと。 ユダは悔い改める事なく、ペテロは悔い改めた。ペテロは粉々に砕かれ、自らの弱さを徹底的に認識した。サタンは働くが、尚も神がその上におられ、その事を勝利へと導かれる。信仰によって受け止めよう。 ---------------------- 主のもとにいながらもユダは何も悟れず、ペテロは失敗しても主のもとから離れなかった。私達も昨日サタンに負けても主と同伴の歩みだ。悔い改め、新しい一日をまた始められる。
2009年01月13日(火) 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」詩篇51:17
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」詩篇51:17
ある人が、様々な経緯があり、父親を憎んでいた。憎むべき数多くの理由があり、自分は被害者だと思い、父親が悪いとしか思えなかった。 どうしても赦すことができず、悶々状態が続いた。しかし、ある時、御霊に示された。 父親自身に確かに間違いがあり、問題があり、多くの傷も受 けたが、それは父親の問題なのであり、「憎んでいること、赦さないこと」は、どれだけ言い訳しても自分の問題であり、自分の罪なのだと。 自分の罪がはっきりとわかった。そして、それを認めて、告白し、神の御前に悔い改めた。その時、心の中の重苦しい大きなかたまりが溶けて消えた。 あれほどの憎しみが無くなった。よく私たちは、心が苦しくなる状況に、自分の内側を見たくないので、相手が悪いとしてしまう。 確かに相手には悪い部分があり、相手のせいにしているなら、自分を見なくて済む。しかし、そこには何の解決もなく、平安も喜びも無い。 真の解決の道は、決して言い訳せず、弁解せず、「これが私です」と認めることだ。相手にも非はあるが、それは相手と神の関係であって、自分には関係が無い。 相手を憎む自分は、神の前にその罪の責任を負う。それを告白し悔い改める時、全き赦しが臨み、平安が戻る。これが責任を取るということだ。 --------------------- 自分の罪を示される事が一番の感謝だ。繰りかえし神様に心を明け渡し自分自身を献げて行こう。自分の罪から目をそらし神様から離れてしまわないように。
2009年01月12日(月) 「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出てくるものが、人を汚すのです」マルコ7:15
「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出てくるものが、人を汚すのです」マルコ7:15
特に「性善説」の我が国では、外側から入るものが、人を汚すと思われている。 環境が、成育歴が、社会が悪いから、非行に走り、犯罪を犯すと。 環境が良くなれば、社会が良くなれば、人間は良くなるのであり、悪いものを取り除くのが教育だと。しかし、聖書は真反対のことを言う。 人は生まれながらの罪人であり、罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すと。「義人はいない。ひとりもいない」外側ではなく、環境でなく、人の内側から出て来るものが、人を汚す。 「悪い考え、不品行、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す」。日常生活で出会う様々な問題、悩み、争い、衝突、それらは環境の問題ではなく、それに関与する人々の心から、内側から出て来る問題だ。 すべてが心から出て来て問題を引き起こす。心に原因があり、心から出る「罪」が人を汚す。自分の内の汚れが、わかっていても、それを見つめるのは痛い事、辛い事なので、逃げて避ける。 不平、不満、愚痴で一杯の人は、まず、神を忘れ、自分を棚上げにし、いつも周囲の誰それの事ばかりを言う。 周囲ではなく、相手ではなく、問題は自分の内側にある。 まずその事に気づき認めよう。その時、解決が始まる。状況も周囲も相手も関係なく、自分と主の関係が正しければ、いつも幸せで平安だ。 ---------------------- 人の罪は、全く問題ではない。自分の中に平和になれない問題がある。不平不満の苦い思いが湧いてきたなら、自分を探ってみよう。問題の種を主に示していただこう。
2009年01月11日(日) 「何も思い煩わないで・・願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が・・心と思いを守ってくれます」ピリピ4:7
「何も思い煩わないで・・願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が・・心と思いを守ってくれます」ピリピ4:7
ある人が、仕事で深夜帰宅、早朝出勤が続き、目の回るような忙しさに、思うよ うに運ばないプロジェクトや対人関係など多大なストレスも重なった。 とうとう過労で倒れ、入院静養になった。目の前の事に押し流されて、神を忘れ た状態で過ごしていた。 数日後、めまいもおさまり、ひと息つくと、仕事が気になって気になって仕方が ない。イライラして来る。イベントまでにどうあっても出社しなくてはならない。 すぐ退院と思うが、検査中でもあり医師に止められる。気をもみ、思い煩いにも 襲われ、そんな頃、やっと神に心を向け、聖書を読み、心を静めて祈った。 本当に久し振りだった。余りにも忙しすぎた。ゆったりした静かな時間に、心の 焦り、不安、思い煩い、すべての思いをことごとく神に打ち明け祈った。自分中 心に自分の思いの中で生活していた事に気づかされた。 御言葉の通りに、神に告げ、一つ一つ委ねて行くと、あらゆる不安、恐れ、思い 煩いが不思議に、スーッとおさまって行った。現実でなく、事実でもなく、自分 が勝手に作り出した妄想の煩いであると気づかされた。 仕事もすべて御心のままにと、主に委ねきった時、心の隅々まで平安で満たされ た。心がすっきりした。その直後、身体は癒され、イベント前に退院の許可が出 た。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 不安、心配事を繰り返し繰り返し、考え続けているなら、自分で強固な要塞を作 り上げてしまう。「何をして欲しいのか?」と言われる主に具体的に願いを申し 上げよう。主にお任せして行く時、平安になる。
2009年01月10日(土) 「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・くれたので、私は食べたのです」創世記3:12
「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・くれたので、私は食べたのです」創世記3:12
エデンの園で、罪を犯したアダムに、悔い改めの機会を与えるために、神は「あ なたは・・食べたのか」と問われた。 しかし、その時、アダムはエバのせいにした。その上、「あなたが置いたあの 女」と神のせいにした。有名な責任転嫁だ。 「あなたのせい、あなたが置いたあの女のせい、あなたが置いたのが悪い」、そ して自分は被害者なのだ。 神が食べてはいけないと命令された、木の実を食べた。どう言い訳しようと、実 際に自分が罪を犯した。しかし、それを決して認めない。 私たちもどうだろう。自分を被害者にしていないか。「私も確かに罪を犯したが、 あの状況ではどうしようもなかった。その状況を作った相手が悪いのだ。私は被 害者だ」。 私を怒らすような事を言った相手が悪い事になる。皆が被害者だ。神はエバにも 悔い改めのチャンスを与えられた。しかし、エバも「蛇が悪い。私は悪くない。 私は被害者」と言った。 「あなたが蛇をこんな所に置くから悪い。あなたが蛇を置いたからこうなった。 なぜ、こんな所に置いたのか」。これは私たちの日常ではないだろうか。 ある妻が、玄関に水まき用のバケツを置いていたところ、帰宅した夫がそのバケ ツをひっくり返した。「誰だー!こんな所にバケツを置いたのは!」と怒鳴った。 置いたのは妻だが、まさしく不注意でひっくり返したのは自分だ。その事実は認 める必要があるのではないか。自らの罪を決して認めないで、自分をひたすら被 害者にしてしまっていないか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分を被害者にするなら、相手だけを責め、自分に非はない。しかし、それなら 自分が変えられる事も、成長も無い。実は惨めで哀れな状態だ。言い訳をいっさ い止める事から始めてみよう。
2009年01月09日(金) 「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16
「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16
当時のユダヤ人たちは、律法に救いを求めていた。律法を懸命に守り、戒めを行ない、形式上守っている事で自らを誇り、自己満足していた。 又、御言葉によらない、人間による多くの言い伝えを作り、それを守る事にきゅうきゅうとしていた。人にも強いていた。 律法が主キリストによって成就されるという事が全く見えず、盲目であったため、主を拒み、否定し、主を追い詰めて行った。 律法は罪を明らかにし、私たちをキリストへ導くための養育係だ。律法自体は聖なるものであり、正しい良いものだ。律法ではなく、彼らの頑なな心が問題であった。 頑なな心が真理に対して「おおい」となってしまう。 私たちも様々な外的状況があり、環境に拘束されるし、身動き取れない対人関係に縛られたりする。 働かなければ食べて行けないし、仕事に拘束される。しかし、これは実は、心が問題だ。心が、その外的なものを「おおい」にし、自らの自由を奪い、縛り拘束してしまう。 外的状況ではく、自らの内の自己中心、高慢、プライド、虚栄、貪欲、思い煩い、恐れ・・自我が問題だ。 その証拠に、その状況で自らを全く主に明け渡すなら、全く同じ状況で、「人のすべての考えにまさる神の平安」を経験する。 全き平安におおわれる。 自分を捨てて、自らを明け渡し、まっすぐに主に向く時、自分の内のおおいが取り除かれる。不安と思い煩いも失せ、心が自由になる。外的なものでなく、心の問題だ。 ---------------------------- 肉が働きその報酬を手にする事も感謝だが、すでに全てに勝る価値ある恵みを、主から受けている者だということを感謝しよう。今日も主に向いて頑ななおおいを取り除こう。
2009年01月08日(木) 「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです」マタイ5:37
「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです」マタイ5:37
「ノー」が言えるだろうか。食事や遊びの誘い、残業の依頼、様々な頼まれ事・・、したくないのに、無理なのに、「ノー」が言えなくて、嫌々引き受けてしまう。 段々、辛くなり重荷になって来る。断れば良かったと後悔する。 又、そうできない自分に自己嫌悪となる。 はたまた、クリスチャンは喜んでできない自分を責める。 そうなると相手を恨みに思って来る。怒りも湧いて来る。そしてそう思う自分を又、責める。「ノー」が言えないのは、相手が嫌な思いをするのではないか、それを自分が受け入れられないからだ。 又、相手に嫌われたくない。又、義務感もある。クリスチャンは相手に仕えなければならないのではと。断れば、愛が無いのではと。 しかし、それは嫌々、又、嫌々でないにしても、義務からする事になる。愛から出ておらず、そこに愛はない。 「割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」「偽りのない信仰から出て来る愛を目標としています」「愛がないなら、何の値うちもありません」まず自分に愛の無い事を認める時、神が愛を与えて下さる。 身体的、時間的、労力的には限界があり、無理な事、できない事には、はっきりと「ノー」を言う事が御心であり、そうするなら、真に御心の事柄を充分に行ってゆける。 ----------------------------- 「ノー」が言えなくてやっているのに犠牲を払った行為とすりかえる事がよくある。やりたくないです、とまず素直に祈ってみよう。「はい」と「いいえ」を混じり気のない思いで言いたい。
2009年01月07日(水) 「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」マタイ11:29
「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」マタイ11:29
くびきとは、板に穴が二つ開いていて、二頭の家畜を同じ方向へ進ませるものだ。 そのくびきを二頭につけると、二頭があっちこっちへ向かう事を防ぎ、人が御する事ができ、農作業に用いる事ができる。 「負いやすく」は「身体にフィットして快適、心地良いこと」だ。くびきはその穴にしっかり首を入れると、快適で心地良いが、それを嫌がって、じたばたすると、首が締め付けられる。自分の思い通りに、好きに、きままに歩もうとする者には、そのくびきは締め付けて、痛くて、辛くて、苦しいものとなる。 無ければよいもの、自分を阻むものでしかない。あなたにとって、くびきはどちらだろう。自分に与えられたくびきを受け入れる時、そのくびきはむしろ平安と主にある喜びをもたらしてくれる。 しかし、受け入れない時、それはあなたの首を絞める。ただ辛くて苦しいばかりだ。 受け入れられるよう祈ろう。 よく聞く話だ。人の十字架が良く見えて、自分のはみすぼらしくて、見栄えがしない。 あちこちと目移りする。捨てては次のを負うが、どれもしっくりこない。一番ピッタリのものを見つけたら、最初に捨てた十字架だったと。 それぞれのくびきをしっかり受け入れて、負わせて頂こう。もう一方は主イエスが負って下さっている。何という光栄。 --------------------------- くびきを避けたい、逃げたい誘惑が来るが、主とともに負うくびきは平安だ。自我との戦いも主が助けて下さる。自分を捨て、主のくびきを負って真に豊かで、自由な者になろう。
2009年01月06日(火) 「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って・・」マタイ6:5
「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って・・」マタイ6:5
偽善者のようであってはいけないと言われた。 「偽善者」とは、「舞台役者、主演俳優」のことだ。偽善者=俳優だ。俳優とは何をするのか。 俳優の役目は、脚本家が書いた脚本の通りに、その人物を演じることだ。 脚本にそって、監督が指示し、監督の思いを入れて演技指導し、俳優は、そこに描かれた人物を、監督に従って忠実に演技する。 いかに巧く演技するかで評価される。その人物にいかになりきるかが勝負だ。それは全く素の自分ではない別人物だ。他人だ。 偽善者とは、演技し自分ではない人物になりきることだ。 それは「人に見られたくて」人の賞賛、評価を得るため。人に認められたいがために。どうしても人間は、目に見えない神ではなく、目に見える人の愛情を求めてしまう。 誰もがその弱さを持っている。人に受け入れられたいし、愛されたい。 人にほめられたい。人に受け入れられたくて、いつしか良い子を演じてしまう。 それは自分ではない人物だ。嫌われたくないので正直な気持ちは言えない。 気に入られる事しか言えない。これが偽善だ。 それが祈りになると、綺麗事の祈りとなる。演技の祈りであり、天に届いていない。 あるがままの本当の正直な気持ちを受け止めて下さる。 それを待っておられる。それを神に祈って行こう。 ----------------------- あるがままを知っていて下さり、そのままを愛して下さる神様に、偽らない姿で向かおう。幼子のような裸の自分で祈り求めよう。
2009年01月05日(月) 「するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝してから」Uサムエル12:20
「するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝してから」Uサムエル12:20
ダビデは姦淫と殺人の二重の罪を犯した。神が遣わされたナタンからの罪の指摘により、 罪を認めて告白した。「私は主に対して罪を犯した」。その罪は赦された。 「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」。罪は赦されるが、しかし、罪には刈り取りがある。蒔いたものは刈り取る。「あなたに生まれた子は必ず死ぬ」。 バテシバが産んだ子供が病気になった。ダビデは祈り、断食し、一晩中、地に伏した。ひたすらその子の癒しを祈った。 心からの切なる祈りも叶わず、その子供は死んでしまった。 ダビデはその死を聞いた時、怒ったり、わめいたり、呪ったり、嘆いたりしなかった。 起き上がり、からだを洗って、身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮へ入り礼拝した。主の御名を崇めた。 ダビデは心からの切なる願いに対して、神の答えが「ノー」であった時、それを受け入れたのだ。 私たちも、どんなに願っても、「ノー」が神からの答えである時、それを受け入れる事を教えられる。時に、「ノー」の答えがある。 パウロが肉体のとげを取って欲しいと懇願した時、神からの答えは「ノー」だった。 とげがあった方が、より神の栄光と力が現わされ、神の臨在をもって弱さをおおうと。 私たちも「ノー」の答えが来た時、受け入れられるよう祈ろう。 -------------------- どのような答えも神様の御心だ。ノーの答えに神様を認め受け入れよう。祈りが変えられ、また砕かれ、次の道へと導かれる。
2009年01月03日(土) 「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17
「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17
父の御心にそって、人生を生きなければ、せっかくの人生が無駄になってしまう。人生における御心を求め、導きを受け取り、従って行く事が信仰生活で重要な事柄だ。 多くの問題が自分の思いが強いため、御心を受け取り損ねてしまう。 自分の強い願望が遮ってしまう。まず右でも左でも白でも黒でも、御心のままでOKですと自分の思いを明け渡す時、9割方解決だ。 必ず御心は示される。よく祈りを積んで、御言葉に向かい、状況をしっかり見張っていよう。指導者に助言を求める事は有益だ。 彼らの御言葉の知識と経験が、初心者を大きな失敗から守ってくれる。 目を開き耳を澄ましていると、神が情報を送られる。 多くの人が証ししている。導きを求めていた時に、時ピッタリに、その事に関する様々な情報が目の前に来たと。 ある人は伴侶が癌になり、何をどうすべきかを祈っていると、不思議に様々な情報があちこちから集まり、なすべき事、入院手術がはっきり示されたと。主は導いて下さる。 原則として、一つの光を与えられた時、その光を歩み、示された事に従って行くなら、その次になすべき事を示される。 そのように一つ一つ示され前進して行ける。人間の側に先はいっさい見えない。先を何もかもご存じである主に、先は委ねて目の前に示されている一歩に従おう。 ----------------------- 自分の強い思いは、何度もやって来るが右でも左でも、の態度で、すべてを委ねられるように祈ろう。神様は答えてくださる。素直に一歩踏み出そう。
2009年01月02日(金) 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩篇103:2
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩篇103:2
くよくよと、常に思い煩う自分が変わりたいだろうか。 過去をくよくよし、先を心配し、不安で不安でたまらない。 変化を求める方法は3つだ。環境を変える、目の前の人を変える、自分を変えるのどれかしかない。 環境は変わらないし、人を変える事などできない、しかし、 自分を変える事なら可能だ。 どのように自分を変えるのか。神が良くして下さった事を忘れず、思い出すことだ。思い出して、思い出して、思い出し続けること。これが信仰生活の勝利だ。 主がして下さったことを思い起こして感謝すること、それをし続ける時、自分は変えられる。私たちが、主の好意を受ける資格があるから、良くして下さるのではない。 全く何の資格も無い者に、助けや祝福が与えられているのは、 罪を無代価で赦し、その罪を永遠に忘れて下さるゆえだ。 決して当然ではなく、どんなに有難い事だろう。 「あなたのすべての咎を赦し」、過失も失敗も、赦し、益として下さり、祝福に変えて下さる、その神の愛を信じて生きる時、心に安堵と喜びがわいてくる。 私たちは、その愛によって変えられて行く。 「失ったものでなく、今あるものを数えよ」失ったものばかりを数え上げて、くよくよしていないか。 あれも無い、これも無い、過去の失敗に今もくよくよ・・。 今、与えられているものに、感謝しよう。必ず自分が変えられて行く。 --------------------- 神様なき人生から神様と共に歩む人生へと変えられた。失敗や落ち込み、困難な状況や試みも、すべて神様と共に歩む中でのことだ。なんという幸か。
2009年01月01日(金) 「主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない」申命記8:2
「主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない」申命記8:2
イスラエルの民は出エジプト後、荒野を通って、神からの訓練を受けた。その理由は「あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」 人は苦しい試練の時に、本性が出る。圧迫され、行き詰まった時に出る姿が自分の本当の姿だ。それは普段から、順境の時にも心の底にあるが、出ないだけだ。 不満、愚痴、怒り、不信仰が出るなら、それは自分の姿だ。いかに罪深いかを知る。普段は良い人間だと思っている。人よりはましであり、いっぱしだと。 自分が思っているより、幾倍も罪深い者であり、しかし、そんな事はご存じの上で、主は愛していて下さる。十字架を新たに知り、深められる。 紛れもなく自分のための十字架であり、十字架によって世界に死に、自分自身にも死んだ事を経験して行く。 「苦しみにあった事は幸せでした」の通り、苦しみを通して、主のご愛と慈しみを知る。 ヨブも「うわさで聞いていたが、苦しみを通して、この目で見た」と言った。 主は試練の中で、誰も「知らなかったマナを」を下さる。 苦しみの中でしか味わえない御言葉を食する。その言葉は甘く、慰め、癒し、力とされる。 新しい1年も主を喜び、訓練は訓練として受け止めて前進して行こう。 --------------------- 明けましておめでとうございます。日ごとに、朝ごとに、み言葉を聞き、新しく神様を知って行く一年となればと思っています。今年も宜しくお願いいたします。