2009年02月28日(土)

「神はダビデをサウルの手に渡さなかった。」Tサムエル23:14


サウルはダビデを執拗に追いかける。ダビデはケイラの人々をペリシテ人の手か
ら救った。しかし、サウルがそれを聞いて、ケイラに下り、ダビデを封じ込めよ
うとした。

ダビデはケイラの人々の裏切りを知り、神の示しにより再び荒野へ逃亡する。
ダビデが逃げた事を知り、サウルは討伐を止めた。神が決して、ダビデをサウル
の手に渡されなかった。

ダビデは逃亡を続けジフの荒野に潜伏する。命をつけ狙われいつ殺されるかわか
らない、まさに死と隣り合わせの恐怖であった。

サウルは一国の王であり、ダビデは僅か600人の部下がいるだけだ。いざとな
ればサウルは国民全体を招集できる。

その時、ヨナタンが「神の御名によってダビデを力づけた」。「恐れることはな
い。父の手があなたの身に及ぶことはない。あなたこそ、イスラエルの王とな
る」と。
神がダビデをサウルの手に渡すことなく守られると。ヨナタンは状況を見るので
なく、神の約束を見ていた。

王の息子が、ダビデにはっきりと、あなたこそ王で、自分は次に立つ者だと言っ
た。ヨナタンは神に従う者であり、彼の信仰だ。「神の御名によって力づける」
とは、神の約束と神の御心に基づいて、力づけることだ。
神の御旨が成就する。どんな危機的状況でも、神の絶対的主権と支配の中だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・」
主の計り事だけが成る。どんなにサウルが狙っても、ダビデをサウルに渡さなかったのは主だ。状況でなく主の問題だ。自分で自分を守るのでなく、神の主権とご計画を信じ、神の御手に委ねる時、どんなに心安らかだろう。


2009年02月27日(金)

「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」創世記11:4


全地は最初一つ言葉であった。スムーズに意思疎通ができていた。人々はシヌア
ルという平地に定住した。

神により、石の代わりに、れんがを作る技術が与えられ、れんがと瀝青で建築物
を作ることができた。スムーズに対話ができ、肥沃な地に住めて、建築の技術も
与えられ、すべては神の大いなる恵みであった。

しかし、その神の恵みに感謝し、栄光を神に帰するのではなく、自分の名をあげ、
自分の栄光、自分の名誉、自分への賞賛、自分が神にとって代わった。
神の恵みで賜った物や能力を、自分の栄光のために使うようになった。自分、自
分・・。
これがアダムからの罪そのものだ。「そのうちに」「我々は、頂きが天に届く塔
を建て」、最初は良かったのであろうが、「その内に」方向が狂って来た。

神は言葉を混乱させられて、意思疎通が不能にされた。その結果、塔の建築は不
可能になり、「彼らは建てるのを止めた」塔建築は失敗した。神が阻止された。

そして、人々は全地に散らされた。原因は神への高慢であった。この所で学ぶ事
ができる。互いに意思疎通ができない時、そこに必ず「高慢」が潜んでいる。自
分が神になり、自己義、自己中心、自己防衛、自己主張・・。
真の一致は、愛とへりくだりにある。そこには必ず喜びがあり、神の栄光がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・
意思疎通ができない時、しばしば相手が悪いとしか見えない。しかし、自分の高
慢が潜んでいないか心を探って頂こう。愛がないなら間違っている。もし神と自
分の間が正しければ、どうであれ自分は平安だ。


2009年02月26日(木)

「私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです」詩編63:1



誰しも孤独を感じることがある。親しい人々から離れた所では、孤独を感じるが、又、大勢の人々に囲まれている中で孤独感を抱く。

しかし、孤独は悪いものではない。時に、神は私たちの注意を、神に向けたいがために、孤独を送られる。孤独は、特別な神からのプレゼントだ。

寂しさの中で、真に心が神に向く。神のみに向けられ、望みが神だけになる。
神との幸いな深い交わりを経験する。人からの裏切りに会って孤独かも知れない。

親しい人が離れ去って孤独なのかも知れない。主も十字架上で御父に捨てられ、又、ゲッセマネの園で孤独の中で祈られた。

捕らえられた時、弟子達は我先にと逃げ去った。孤独を知り、理解して下さる同伴者だ。
主を見捨てた弟子たちへの言葉が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」だ。

主は決してあなたを離れず、見捨てられない。主は時に、孤独を送られる。
世の喧噪から離れ、人の交わりからもいっとき離れ、主にだけ心を向けさせるために。

密な交わりに入れられるために。孤独が私たちを主のもとへ追いやってくれる。
そうでなければ、人で満足してしまって主のもとへ行かない。孤独が来た時、主からの特別のプレゼントと受け取ろう。そして、心を主に注ぎ出し、主で満たして頂こう。
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喧騒から取り出され、神様に真向かう事ができる時は感謝だ。孤独が本当の自分を見つめる時となり、どこまでも共におられる神様を知れる。


2009年02月25日(水)

「彼らが町へ上って行って、町の中央にさしかかったとき、ちょうどサムエルは、高き所に上ろうとして彼らに向かって出て来た」Tサムエル9:14


サウルがイスラエルの王とされるために、完璧な導きがなされることを見る。
まず父親のロバがいなくなった。そのため父親が、サウルに若い者を連れてロバを捜しに行くよう言い渡す。

サウルは若者と共に出かけ、山地をあちこち巡り歩いて捜す。しかし見つからない。
それで、巡り巡ってツフの地まで来た。

その時、サウルは父親が心配するからもう帰ろうと言うと、若者が、丁度この町に神の人がいると思い起こした。預言者に行くべき道を尋ねに行こうと言う。

そして町へ行くと、丁度その日、そこにサムエルが来ていた。サムエルは前日に、主からサウルをイスラエルの王として油注ぐよう告げられていた。

ロバがいなくなった事、ツフの地まできた事、連れが預言者がいる事に気づいた事、丁度その時サムエルがいたこと。一連のどれが欠けても成就しない。

一つ一つが不可欠な不思議な導きだ。私たちの人生も同様だ。よく振り返って、あの時の事、この時の事、あれとあれが、これとこれがつながって・・あれがあって、これがあり・・一連の導きを思い起こしてみよう。

一つとして偶然は無い。又、現在も、今、あなたが、今の場所にいること、今、接している人々との一つ一つの出会い、すべて主の完璧なご計画と配剤だ。感謝して、
御心を歩んでゆこう。
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先の事を思い煩い不安に襲われる事もあるが、起こる一つ一つの事に大切な意味があり、主が必ず最善をして下さると信じて、今日を誠実に歩もう。


2009年02月24日(火)

「お話しください。しもべは聞いております」Tサムエル3:10



エリのもとで、養育されていたサムエルに、突然、主からの御声が臨んだ。
エリの指示で「お話しください。しもべは聞いております」と答えた。

すると、その一番初めのメッセージは、エリの家への裁きであった。
「彼の家を永遠にさばく。自分の息子たちが呪いを招くような事をしていながら戒めなかった罪による」と。

自分の師であるエリに伝えるに忍びない、厳しい辛い言葉であった。サムエルはエリに語ることを恐れたが、主の言葉をそのまま伝えた。

預言者とは、神から受けた言葉を、忠実にそのまま民に語る人のことだ。どんなに痛い言葉であろうと、その通りに語らねばならない。

これから預言者として立てられるサムエルへの最初のテストであったかも知れない。私たちも「しもべは聞いております」、喜んで聞きますと主に向かいつつ、しかし、自らの罪を指し示され、自らの姿を刺し通される痛い言葉、自分の願いと異なる辛い言葉、矯正の厳しい言葉は聞きたくなくて、耳をふさいでしまうだろうか。

痛い言葉こそ恵みの言葉だ。自分が変えられ成長する。主から語り続けて頂くためには、痛い言葉にこそ耳を傾けよう。

「愛している」「共にいる」「願いを聞く」そいういう言葉を聞くときだけが、「恵まれた」と勘違いしていないだろうか。
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整えられた者とされたい、変えられたいとの態度で御言葉にのぞみたい。必ず導いて下さる神様の声をより分けずに受け取って行こう。


2009年02月23日(月)

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです」ヘブル12:7



アブラハムは示す地に行け、大いなる国民とするとの示しに従い、75歳の時に生まれ故郷を出た。なかなか子供は生まれず、100歳になった時に、妻のサラに子供が与えられた。

25年間待った。その間、数々の失敗もし、苦しみを通りながら神の訓練を受けた。父もエサウも騙したヤコブは、家におれなくなり、叔父ラバンのもとへ。

そこで、神の御手が臨み、訓練を受けた。叔父に騙され、ラケルをめとるのに14年の歳月をかけ、20年間暑さ寒さの中で厳しい労働をし、訓練を受けた。

ヨセフは訓練、訓練の歩みであった。兄たちに、隊商に売られてエジプトへ、エジプトでは全くの無実の罪で牢獄へ。

神が正義ならなぜこんな事に?ヨセフへの訓練であった。
苦しい日々であったが、ヨセフは訓練を通して、主の御手により砕かれ、練られ、鍛えられ、築き上げられた。

サウルに命を狙われ続け、常に死と隣り合わせであったダビデ、逃亡を続け、その恐怖はいかばかりだったろう。

訓練は決して喜ばしくなく、辛く悲しく苦しいが、逃げないで受け取って行く時、間に合う器に変えられ、造り上げられて行く。

祝福されて、主の器として用いられて行く。訓練を逃げて、避けている限り、祝福を取り逃がす事になる。逃げていないか、振り返ってみよう。
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苦しい試練は必ず益とされる。そこに共にいて下さる神様を一番近く感じる時だ。出来ない限界も知り祈り求める事が出来る。


2009年02月22日(日)

「エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ」Tサムエル20:31

サウルはダビデが気に入り、自ら召しかかえた。ダビデはサウルに仕え、戦いに
勝利を重ねて行った。
そんな時、女たちの「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」との言葉を耳に
した時に、サウルは怒りが湧き上がり、ダビデへの疑いが湧き、疑心暗鬼で見る
ようになった。

ダビデへの妬みは憎悪となり、殺意となった。ある時、殺そうと、ダビデに槍を
投げつけた。その槍は壁に突き刺さった。
主が共におられたので、ダビデはどんどん大勝利を収めて行き、サウルはますま
す恐れた。

ダビデはずっとサウルに命をつけ狙われたが、ダビデは決して王の命を狙おうと
はしなかった。神から油注がれた王であり、神を畏れていた。

どのような危険があろうとも、神が自分を守って下さるとわかっていたので、自
分で自分を守ることをしなかった。サウルは、ダビデに自分の地位を奪われるの
ではと恐れ怯えた。そして、息子ヨナタンのためだと言いつつ、ヨナタンがダビ
デをかばうや、ヨナタンまで殺そうとする。ダビデへの妬み、憎悪、敵意はとど
まるところを知らない。

王位、地位、人の命、生き死にも、境遇も人にはよらない。「高く上げることは、
東からでも、西からでもなく、神が」の通り、すべてが御父の主権と、ご計画の
中にある。サウルは王権が神からのものと捉えることが出来なかった。それゆえ
すべてが敵となってしまった。主に委ねて安んじていよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
主の主権と支配を認めるかどうかで、何もかもが変わって来る。ダビデは主を畏
れ、サウルは人を見て恐れた。サウルは人を恐れ、周囲の状況に振り回された。
ダビデは主の主権を認め、いっさいサウルに反撃せず、尚かつ大勝利した。


2009年02月21日(土)

「もしあなたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし・・『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」ヨハネ9:41

見えない世界を見るために、重要な事は何だろう。
まず光が無ければ絶対に見えないが、自分が見えていない事実を知らなければ、
決して見えるようにはならない。自分が見えていると思っている限り、ずっとそ
のまま、見えないままだ。

では、見えるためには、どうすればよいのか。自分が見えていないと認めること
だ。その時、主が見えない目を見えるようにして下さる。

パリサイ人たちは自分は見えていると言い張った。しかし、「人間の教えを、教
えてとして教えるだけ」で、人間の教えのために、神の言葉が何も見えていなか
った。

本当は盲目であるのに、見えていると言う。見えていないと気づくなら救いがあ
るが、見えていると言い張るところに罪がある、と主は言われた。

人は、自分が正しいと思い込むと見えなくなる。物理的には見えていても、霊的
盲目状態だ。祭司長やパリサイ人たちは、自分たちは神の戒めを守り、神に従っ
ていると思い込んでいた。旧約聖書の学者であるほど、聖書に精通していた。

それが、神が遣わされた御子イエスを認めず、殺そうとした。実際十字架へと追
い込んで行った。自分を正しいとする時、何も見えなくなる。私たちもパリサイ
人と同様だ。神によらなければ、何一つできない盲目の者と知る事が、見えるよ
うになる事だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日々の生活で、言い訳し、自分を正当化し、罪を認めない時、盲目状態に陥る。
自分の正しさを根拠に、人を責めて行く時、まさに何も見えない状態だ。悔い改め
て行く時、目が開かれ見える者にされる。真に正しい場所、御心の場所に立てる。


2009年02月20日(金)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3



弟子たちの問いと、主の答えに大きな隔たりがある。人の見方と主の見方が全く異なる。人は、何か起こる時、その苦しみや不幸の理由をまず問う。

「なぜ?どうして?」「なぜ?なぜ?」と問うて行く。しかし、それは過去の事であり、現実にある事態が、起きた原因を追及しても、そこに解決は無いし、救いはない。

病で死にかけている人に対して、その病気の原因を追求したところで何にもならない。しかし、人はどうしても原因や理由を探し出さなければ、自分の納得が行かない。

自分が納得したいがために、「なぜ」「どうして」を探る。しかし、人は自分の意志で生まれたのではないし、自分の意志で死ぬこともできない。

与えられた一生は、自分の意志通りにはならないし、それぞれの人生は自らの思いを越えている。
そこに人間を越えた大きな力が働いていて、その方の意志通りに動いている。

私たちが生を受けたのも、今、ここにあるのも、神の大いなる御心による。
その神に焦点を置く時に、「なぜ?なぜ?」は意味をなさず、目が見えないことも、病気も、苦しい境遇も、思い通りにならない事態も、「神のわざがこの人に現れるため」なのだ。

あのせい、このせい、ではなく、神が働かれるためのステージであり、何と希望と平安と将来がある事だろう。
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神様の栄光が現れるための今だ。原因を問うよりも必ず神様が良くして下さるという希望を持って今日を生きよう。


2009年02月19日(木)

「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」ヨハネ4:13



サマリヤの女性は、昼の暑いカンカン照りの最中に、井戸に水を汲みに来た。
普通の人のしない事だ。それは人と会いたくないがために、人を避けての行動だった。

主は、そんな彼女のために、わざわざ迂回してサマリヤへ行かれた。
主の方から話しかけられた。ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係で、敵同士の間柄だ。

自分に声をかけた男性が不思議な事を言った。生ける水を与えることができ、その水を飲むなら渇くことなく、永遠の命への水が湧き上がると。

彼女は井戸の水だと思い、汲む必要がないなら、その水を欲しいと願った。
その時に「あなたの夫を呼べ」と言われた。一見会話がつながらない。

どう関係があるのか。不思議な言葉だ。しかし、実は彼女は5回結婚し離婚し、今は同棲していた。その彼女の決して触れられたくない核心部分をストレートに突かれた。

人は様々だが、富、名誉、地位、仕事、この世の「水」で心を満たそうとする。
しかし、そこに満たしはない。どこまでも渇く。

彼女は男性が自分を満たしてくれると考えた。しかし、そこに救いはなかった。
主はその罪を示し、悔い改めに導き、彼女を真の喜びと満足へと導かれた。

私たちが隠し持っている真の問題、空虚、悲しみを主のもとへ持って行こう。
あなたにも告げておられる「あなたの夫をここに呼んできなさい」。
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主から与えられる水で満足しているだろうか。主を知っていてもなおこの世のものを求め渇いて行く。自分はそのような者だと覚えていたい。


2009年02月18日(水)

「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません」Tヨハネ2:10



光の中にとどまる人は、決してつまずくことがない。人がつまずくのは、光の中にとどまらないからだ。

「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいる」やみの中にいるしるしは、兄弟への批判、非難、悪口、憎しみだ。

兄弟への批判、憎しみがあるなら、私たちはやみの中にいる。幾ら、自分は光の中にいると言っても、御言葉がやみの中だと言っている。

逆に、兄弟を憎むのではなく、愛して行くなら、やみの中にはおらず、光の中におり、真っ直ぐに歩んで行けると。霊的にダウンする時、人や環境のせいだと思う。

嫌な相手、嫌な環境のために憂鬱で、喜びがなく、落ち込んでいると。しかし、実のところそれは原因ではなく、自分と主との関係が原因だ。

問題はあなたと主との関係にある。人や状況が、あなたと主との関係を遮断する事など不可能だ。神以外のものを求めるところから来ている。

人の評価や人から認められること、賞賛を求め、神抜きの、ただ人の愛を求めていたりする。心が神以外のものに向いている時に、必ず不平や不満、競争心、敵対心、妬みが出て来る。

やみの中にいるからだ。問題が絡み合い混乱してくる時、まず自分と主との関係に焦点を置こう。そこが真っ直ぐになると、光の中だ。

どんな状況でも、心は平安であり、物事が正しい位置に置かれてくる。
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光の中を歩んでいるなら、人の罪より自分の罪が見え、何度失敗しても受け入れて下さる神様が見える。今日も守られ光の中を歩もう。


2009年02月17日(火)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」Tヨハネ4:10



初めの愛とは、神が、私たちを、愛して下さった愛のことだ。私たちが、神を愛する愛ではなく、又、人を愛する愛ではない。まず、初めに神だ。

この順序が狂うと、愛することがしんどくなり、重荷になる。
御言葉を行なうこと、戒めを守ることは、大きな重荷であり、苦痛になる。

しんどいばかりで、油の切れた機械のようだ。まず受けることだ。神を愛する前に、人を愛する前に、十分に神の愛を受け取ることが大切だ。

「私達は愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」神がまず無条件で、犠牲愛で、一方的な与える愛で愛して下さった。

ザアカイは、虚しい、喜びのない、満たされない心で、木に登る事までして、必死に主を求めた。その時、「ザアカイ」と名を呼ばれ、「あなたの家に泊まる」
と。

まず罪を責められ、戒められるのでなく、罪人のザアカイを全面的に受け入れて下さった。主の無条件の愛を受けた。その時、ザアカイに悔い改めが起こり、具体的行動となって表れた。

自分の事だけに生きて来たザアカイが、財産の半分を貧しい人に施すという貧しい人を顧みる心が生まれた。

騙し取った物も償った。愛するとは何かをする事以前に、まず関係であり、主との関係だ。愛の関係、信頼関係が生じて愛の行ないへと進んで行く。
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私達のすべてを知り不完全のままで愛して下さっている神様の愛をしっかりと受けとり味わい、感謝して一日を始めよう。価なき者なのになぜ愛して下さるのかを。


2009年02月16日(月)

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の約にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです」マタイ5:13



塩は料理に不可欠だ。料理を美味しく味つけする。塩気の無い料理はどうだろう。食べられたものでない。又、防腐剤にも使われ、腐敗を防ぐ。

主は私たちは地の塩だと言われ、塩の役割を願っておられる
。家庭や職場、学校で塩の役割を果たすよう期待されている。

塩味をきかさないとは、どんな姿だろう。御言葉に従うのではなく、自分の都合優先で、御言葉を自在に曲げて、自分の都合に合わせる。

この世と摩擦がないように、衝突しそうな時は、御言葉を引っ込める。波風立たないようにうまくやって行こうとする。そのため信仰を出さない。

摩擦が起こらないようにしているから、事態はスムーズに行く。妥協に妥協を重ね、何の塩気も無くなってしまう。証しが立たなくなってしまう。

塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのか。何の役にも立たなくなってしまう。

又、塩が強過ぎると、あわれみも愛も無い律法主義になってしまう。完全に正しいのだが、人も自分も苦しく辛くなる。相手に要求して、責めて裁いてしまうし、自分も常に基準に達する事はないので、苦しいばかりだ。

そこに愛がないので間違っている。御霊に従って歩む時、それは愛の歩みであり、自然に塩けのある歩みとされる。
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よい塩加減を効かせるためには、いつも神様とともにいる事が大切だ。私達の語る言葉が、その動機が、いつも神様のみこころに叶ったものでありますように。


2009年02月15日(日)

「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうのよいことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師を自分のために寄せ集め」Uテモテ3:3

聖書はタウンページではない。タウンページのようにして、その時の自分の状況
や、自分の思いに沿って、ピッタリ自分に合った御言葉を懸命に探そうとする。

が、それは御霊からでなく、自分で都合の良い御言葉を探している。自分の思い
を遂げようと、自分の願いを裏付ける御言葉を探し出し、自分の思いを御言葉で
正当化する。結局は、神を喜ばせるためでなく、自分を喜ばせるための信仰だ。

心地良い箇所は受け入れるが、罪をはっきりと示され、悔い改めを迫られたり、
肉を指摘され、自らの欲望を指し示されたりすると、耳が痛くて耳をふさいでし
まう。聞きたくない。とにかく痛い言葉はよけて、避ける。

しかし、重大な病気の時には、医者に診察してもらい、原因を突き止め、手術を
受け、治療をしなければ、死に至ってしまう。聞きたくないからと、耳をふさい
でも、病気はどんどん身体をむしばんで行く。

現実を認め、的確な対応が必要だ。痛い言葉こそ、聞く必要のある言葉だ。なぜ
痛いのか、うすうす気づいているからだ。だからこそ向き合いたくない。

しかし、きちんと向き合う時、傷と病を示されるが、すでに治療が備えられてい
る。自分を喜ばせているか、それとも神をお喜ばせようとしているか。御言葉の
聞き方に目を留めよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の願いばかりが中心なら、願望が強くなると、主観で御言葉を取ってしまっ
て気づかない。願望と合致しているから気づけない。肉はどこまでも自分を喜ば
せようとする。神は私に何を望まれ、神の喜ばれる事は何か、に視点をおく時、
守られ正しい方向に向かう。


2009年02月14日(土)

「これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません」Uコリント2:10

「私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、キリストの御前で赦した」とパ
ウロも言っている。人を赦せない心は、サタンに足場を与えてしまう。

自らの心を「怒り」「プライド」「憎しみ」「敵対心」「嫉妬」「高慢」へと開
く事になり、心にそれらを招き入れる。サタンに足場を作らせてしまう。

心に足場があるから、サタンは自在にあおってくるし、増幅させて来る。人を赦
さない心は、サタンが動き回る場を提供し、サタンに機会を与える事になる。

又、赦さない心は、自分自身が牢獄に入る。自分を牢獄に閉じこめる事だ。四六
時中苦しみにがんじがらめで、解き放たれる事がない。それだけでなく、憎しみ
や敵対心はそのままでなく、必ず強固になり増大して行く。

心はどんどん頑なになる。その事で思いが一杯で、常にその事を考えているから、
更に思いは強固になり、要塞になって行く。自分が要塞を築いている。自分が自
分の心を屈折させ、歪んだ、ネガティブな性格を作り、否定的な人生にしてしま
う。

赦さない心は、あなたの人格も人生も破壊させてしまう。そうしたいだろうか。
赦す事を拒むなら、自らと神の関係も拒む事になる。神にまず、あるがままの心
を率直に打ち明けよう。そこから始まる。赦せない心を祈りに持って行こう。

「赦せませんが感謝します。神様が赦せるようにして下さるからです」と祈った
人が赦せるようになった。祈りは必ず答えられる。
・・・・・・・・・・・・
自我は決して赦そうとせず、赦したくない。が、それならずっと平安の無い人生
で、自分で牢獄に入る事になる。自分の選択であり、赦しを選び取る時、牢獄
から解き放たれ、平安を得る。「赦したくない」とまずあるがまま主に近づこ
う。


2009年02月13日(金)

「わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい」ルカ16:9



管理人が主人の財産を乱費していた事が発覚し、解雇を言い渡され、会計報告を出せと言われた。彼は債務者を次々呼んで、減額にした。

そうすれば、解雇された時、彼らが何とか自分に有利に計らってくれると踏んだのだ。主人はこの抜け目のなさをほめた。

主はこのように「不正の富」で自分のために友を作れと言われた。
ここで「不正の富」というのは、悪事で得た富の事ではなく、
「この世の富」という意味だ。

不正=この世の意味であり、この世の富を忠実に、御心通りに使って、天に宝を積めという事だ。

この世にいる間に、この世の富で、来るべき天に投資ができる。
天に帰った時に大いなる報いを受ける。神から任された、この世の富を賢く使えとの教えだ。

会計報告を出すのは、所有者でなく、管理人だ。
所有者なら自分の物であり出す必要はない。しかし、管理人は主人に報告の義務がある。

私たちもこの世の富は管理であって、所有ではない。主人に喜ばれるように、主人に御心を問いながら使う責任がある。

富は容易に偶像になる。富に執着し、固執し、振り回される。
富の主人でなく、奴隷になってしまう。神と富に仕えるなと言われたのでなく、仕える事は出来ない、不可能だと言われた。
どちらかにしか心は無い。富の使い方に心しよう。
---------------------------
管理者であるのに、所有者のように抱え込み失う事を恐れてはいないだろうか。時も財も労もすべては、神様から与えられたもの。使い方を誤らないようにしよう。


2009年02月12日(木)

「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた」創世記21:19



サラは、イサクをからかい、いじめるイシマエルを追い出すように、アブラハムに要求した。アブラハムにとればイシマエルもまた自分の子供なので、非常に悩み苦しんだ。

しかし、神に導きを受けたので、ハガルとイシマエルを出した。
二人は荒野をさまよった。食料は無くなり、水ももう一滴も無くなった。
子供に何も与えてやるものが無い。死を待つだけだ。

この悲惨な状況に、どんなに心は辛く悲しく、嘆きと苦しみだったろう。絶望状態だ。声を上げて泣いた。
その時、「神の使いは、ハガルを呼んで」見捨てられていなかった。

絶望の叫びを聞かれた。「神がハガルの目を開かれたので」彼女は水のある井戸をみつけて、子供に水を飲ませることができた。

その時、井戸が掘られたのでなく、そこにすでにあった。
ハガルは井戸のすぐそばにいた。そばに井戸があったに関わらず見えなかった。

私たちも学ぶことができる。信仰人生で数々の問題に出くわすが、問題が問題なのではない。目が閉じていることが、目が見えないことが問題なのだ。

目が開くと井戸を見出した。絶望、失望、不信仰の中では目が見えない。
真っ暗闇だ。問題の中で神に向き合おう。そこに光がある。
御言葉を与えられるよう祈ろう。神に向いた途端、解決への糸口を得る。
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聖書を開き、御言葉に向き合った時、問題の中でも、思いが全く変えられる経験を幾度もする。混乱の中にあるならすぐに、目を主に向けよう。


2009年02月11日(水)

「あなたの子孫はこのようになる。彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」創世記15:6



アブラハムはどんな状況の中で、神を信じたのだろうか。
75歳で導きに従い、カナンに移り住んだ。原住民との闘いの
日々だった。

子どもができず、しもべエリエゼルを相続人にとさえ考えていた。
そんな時に、神はアブラハムに、満天の星を見せ、子孫はこのよ
うになると約束された。

その時、彼は神の約束を信じた。現に子供はおらず、まだ全く見
ていない事であり、常識では受け入れ難い事だった。

しかし、アブラハムは神ご自身を信じた。状況でなく、神ご自身
を見て信頼した。「彼は望みえないときに望みを抱いて信じた」。

望み得ないときに望みを抱くからこそ、信仰だ。
目に見えないから信仰であって、目に見えたなら、もう信仰は必
要ない。

それは全く目に見えない。人間的な実感などない。状況を頼り、
状況を幾ら見ても信仰など湧かない。

状況からの結論は「不可能、絶対にあり得ない」だ。
どこから信仰が来るのか。望み得ない状況から、いかに望みが
湧き上がるのか。

それは約束の御言葉だ。神が語られた約束の御言葉を、そのまま
受け取り、受け入れる時、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義
と認められた」とアブラハムと同じ祝福を受ける。

彼が100歳の時に約束の御言葉が成就した。
神は必ず約束を成就される。状況でなく、御言葉を見続けていよう。
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私達は状況しか見えないのではない。約束のみ言葉があり、御霊の導きを悟る事ができる。状況の中におられる神様を見つめて勝利しよう。


2009年02月10日(火)

「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」創世記16:8



ハガルはアブラハムの子供を妊娠した途端、高慢になり、女主人サライを見下げるようになった。

奴隷から侮辱されたサライは、あなたのせいと、アブラハムに訴える。好きなようにせよとの応答で、今度はサライがハガルをいじめた。

余りに辛くハガルは荒野へと逃亡した。するとそこに主の使いが現われ、「サライの女奴隷ハガル」とはっきりと、サライの奴隷である立場、現実を認識させられた。

「どこから来て」高慢になった結果、サライのいじめに会い、その苦しみから逃げているという現実を、見せられ、認めさせられる。

ハガルも女主人サライから逃げていることを認める。
「女主人のもとへ帰る」よう、「身を低くするよう」告げられた。

私たちへの言葉でもある。問題から、環境から、状況から、苦しみの余りとにかく逃げたい。その状況から出たい。それが救いだと思う。

しかし、主は逃げても何の解決も無いと言われる。そこを逃げたとしても、自分自身は何も変わらないので、また次の環境で同じ事を繰り返す。

自らの傲慢ゆえに、苦しみを招いたので、身を低くし、へりくだって仕えよと。私たちも時として、逃げ去りたいが、その所にとどまり、へりくだれと言われる。

どうしてこうなったのかよく考えと。その時、豊かな祝福と成長がある。
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どうしてこうなったのか、いつも同じなら、自分に問題があるのではないだろうか。状況は変わらない。そこから学び変えられて行こう。


2009年02月09日(月)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラテヤ6:7


決して恵みを放縦に変えてはならない。赦してもらえるのだからと、安易に罪を犯してはいけない。

ある非行に走った子供は、施設に入り、矯正のための厳しく苦しい訓練を受けた。その親は、迷惑をかけた各方面に謝罪して回り、器物の破損には多額の弁償金を支払い、すべての償いをして回った。

そのように、例えば、刺傷事件を起こしたり、強盗をしたりする時、主の御前に悔い改めるなら、完全に主は赦して下さる、しかし、この社会での刑罰を免れる事はできない。

法に従って罰を受ける。又、憎しみや妬み、わがままで、人を傷つけてしまったなら、悔い改めによって、主は赦して下さる。

しかし、一度損ない、壊れてしまった信頼関係を、再度築き上げるには、多大な労力と時間が必要だ。

罪のもたらす傷や害は、私たちが思っている以上に大きい。罪の結果は、自分だけにとどまらず周囲をも巻き込んで、傷を負わせてしまう。

決して罪を軽く見てはならないし、もてあそんではならない。
罪に飲み込まれてしまう。安易に罪を犯してはならない。害は甚大だ。

サタンは狡猾で、あなたの弱点を的確に知っている。サタンは誘惑するが、罪を犯したなら責任は自分にある。

心して、サタンの誘惑に陥らないよう、目を覚ましていつも祈っていよう。
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罪の誘惑に自力で立ち向かうのは無理だ。罪を覚えたなら神様にお任せし、大きく熟して行かないうちに捨て去ろう。恵みを放縦に変えてはいけない。


2009年02月08日(日)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6

ある人が、最近物見えにくいと感じていたが、たいして気にしていなかった中、
コンタクトを落としてしまった。
懸命に探すが見つからない。どんどん焦りが来て、尚も必死に探すが、どこにも
無い。
「神様・・」と見つけ出せるように祈りつつ探すがどうしても無い。「すべての
事について感謝しなさい」と言われるので、この事も感謝しますと祈る。

その時、起こる出来事一つ一つに、何かの神のご計画がある事に思いが至った。
失った事も御心の内、主権の中、これだけ探して無いのだから、探す事はもう御
心でないと思えた。

それで、探すのを止めて、次の選択肢に進み、眼鏡店に行った。新しいレンズを
処方してもらう中、片方のレンズを見せるように言われた。
それで見せると、レンズが老朽化しひどく傷んでいた。それが原因で、見えにく
くなっていたことがわかった。

危うく目を傷めるところで、感謝なことだった。同様に、私たちにとって、マイ
ナスの出来事「どうしてこんな事が?」のその中に、神のご計画があり、御心が
ある。だからこそ、すべての事について感謝できる。

祈っても祈っても、事態が、状況が全く変わらない時は、何か別のご計画では?
と別の方向からも考えてみよう。
又、ああして下さい、こうして下さいと願うが、何一つ動かない時には「この事
の中で、主が教えて下さりたい事は何ですか?」に祈りを変えよう。その祈りに
は必ず答えられる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分を中心に考えるので、ああして欲しい、こうして欲しいと自分の欲望、自分
の願望ばかり偏ってしまう。一つ間違うと、自分のために神を利用する事になる。
視点を変えて、神は、私に何を願っておられるのか、そこに立つと見えて来るも
のがある。
 


2009年02月07日(土)

「イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われた」マルコ4:35


ガリラヤ湖はすり鉢状で周囲は山に囲まれているため、突如の嵐が発生するそう
だ。この日、主は「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。

その言葉に弟子達は舟を出した。主は舟に乗った途端、熟睡された。それほどの
疲労であった。主が眠られた後、突如の嵐が起こった。凄まじい突風に舟は揺れ、
まさに湖上で小さな舟は木の葉のごとくだ。舟は波をかぶり、水で一杯になっ
た。

今にも浸水転覆だ。プロ漁師ですら驚き慌て、身の危険を感じ、恐怖でパニック
だ。半端な嵐ではない。しかし、この大騒動の間中、主はともの方でぐっすり眠
っておられた。全き平安の中におられた。

荒れ狂う大嵐の中に、主がおられる。何と嬉しい事だろう。何と安堵で喜びだろ
う。弟子たちのパニックの原因を、主は「信仰」だと言われた。「信仰がないの
はどうしたことです」と。

主は「向こう岸へ渡る」という父の御旨が成ることに、信頼し委ねておられた。
舟に主がおられること、「向こう岸へ渡る」との御言葉があること、そこを見続
けておれたらどんなに幸いだろう。

弟子たちはこうであったが、主に従い舟に乗り、主と共に漕ぎ出した事は良かっ
た。大嵐でパニックになり、取り乱しはしたが、しかし、主の偉大なみわざを見
た。自然界をも支配される、主の権威と御力を見た。

あなたにも、目の前に一歩、御心が示されているだろうか。「さあ、向こう岸へ
渡ろう」と。岸にとどまったままでは、嵐に会う事も、沈みそうになる事もない
が、主の御力を知ることもない。主の舟に乗り、一歩を踏み出そう。
・・・・・・・・・・・・・
御心を示されているなら、漕ぎ出そう。御心を行なう中で、突風があり、嵐に会
うかも知れない。しかし、自然界をも、支配しておられる主の権威と御力を知
る時とされ、御言葉の力を味わい知る時とされる。


2009年02月06日(金)

「神を愛していると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」Tヨハネ4:20



よく仲間同士が、仲間である事を確認するために、合言葉を用いる。スパイ映画でよく出て来る。合言葉により一致を見て、仲間である事を認識する。

私たち兄弟姉妹の合言葉は何だろう。「イエスは主」。この合言葉は、どんな時にも有効で力がある。対人関係で問題が生じた時、「イエスは主」だ。

自我は強烈であり、敵対心や、憎しみや、嫉妬心、自分を守る自己防衛、自分をわかってくれないと内向する自己憐憫や疑心暗鬼、様々なネガティブな感情が湧き上がる。

しかし、合言葉は「イエスは主」だ。このねじれた対人関係で、どうすれば主の御名が崇められ、主の栄光が現われ、イエスを主として行けるのか、そこに視点を置くなら、おのずとなすべき事が見えて来る。

イエスを主とするには、この問題をどう捕らえ、どう対処し、どう判断すれば良いのか。
そこに立つ時、必ず御霊は力強く働かれ、なすべき事を示される。

双方が自分を捨て、自我に死に、キリストの愛に基を置き、問題を捕らえて行ける。
サタンの攻撃と策略に勝利できる。

サタンは常に分裂と争いをもたらそうと狙っている。兄弟姉妹間に、誤解や問題が生じた時、「イエスは主」との合言葉を用いよう。

自我から来る肉の思いに気づかされ、その思いを捨て、必ず主に在る一致を見い出せる。
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肉は多様に働いても、御霊には一致がある。自分を捨てて御霊の導きに従うなら、必ず自己主張から、相手を生かそうとの思いへと向きは、変わっていく。


2009年02月05日(木)

「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがは肉に属しているのではありませんか」Tコリント3:3



新生した私たちには、御霊の内住と共に新しい性質が生まれた。
それは神を喜び、罪を悲しみ、神に従おうとする性質だ。同時に、生まれつきの古い性質もそのままある。

これはアダムがエデンの園で神を捨て、罪を選んだ結果、自分を神とし、自己中心に、自分の力で歩もうとする性質だ。

この二つの性質がすべてのクリスチャンの内にあり、御霊は新しい性質を、サタンは古い性質を引っ張る。私たちは常にどちらかを選択して生きている。

神に従い、自分を明け渡して行く時、御霊の支配を受ける。兄弟姉妹の交わりにおいて、自分の霊と相手の霊で交わる時、双方で主を崇め、主を喜び、双方が建て上げられ、心が満ちる。

一方が霊で、一方が肉で交わる時、御霊に満たされた者が肉にある者を引き上げる事ができる。主を見上げる方向に、信仰的な向きに導く事ができる。

肉と肉の交わりは、果てしなく批判、悪口、裁きの泥沼となり、双方で足の引っ張り合いとなる。喜びと平安がない。御霊に満たされた人は、いかなる場合も神を指し示し、人を引き上げて行く。

どんな時にも霊的判断、前向きな信仰的態度を持ち、人に霊的影響を与えて行く。
内なる御霊がそうされるからだ。
私達の交わりは霊だろうか、肉だろうか。まず自らが御霊に従って行こう。
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御霊に満たされ、それがあふれ周囲に主の香りを漂わすような者になりたい。肉を明け渡し、意志を向けて御霊の導きに従って行こう。


2009年02月04日(水)

「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」Tヨハネ4:14



「カインのようであってはいけません」カインになるなと言われる。カインは、なぜアベル殺害に至ったのか。通常の生活でのけんかではなく、神への献げ物の事だった。

神への献げ物が、アベルは受け入れられ、カインは受け入れられなかった。
激しい怒りが湧いた。受け入れられないからには、何か間違っていたわけで、悔い改めて、正しく献げ直せば問題はなかった。

しかし、そうはせず、悔い改める事なく、アベルへの嫉妬へと向かい、嫉妬は憎しみに高じて行った。アベル殺害は、まずカインと神との関係の問題であった。

神との関係が最重要であり、すべての基だ。私たちも神の前に正しくない時、罪の性質は人を妬んで行く。

妬みは、誰にも根深く巣くう罪だ。祭司長たちが主を十字架につけたのも、サウルが身を滅ぼして行ったのも妬みだった。

妬みから憎悪へ、そして殺人へと発展して行く。しかし、新しく生まれた私たちは、すでに「死からいのちに移った」。

新しい性質は、神の性質であり、その性質は兄弟を愛して行く。
愛せないのではなく愛して行こうとする。それがへりくだりだ。御霊を宿した人は、つまづいたり転んだりするが、必ず愛そうとして行く。

それが救われているしるしだ。いつも御前に悔い改め、主とクリアな正しい関係でいよう。その時、御霊によって兄弟を愛して行ける。
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恨みも、妬みも自分の罪だ。愛せない自分を神様の前で認め、み言葉に従って行けるようにと向きを変えて行こう。神様との正しい関係だけが、いのちへと移る道だ。


2009年02月03日(火)

「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」マタイ18:22



日常生活して行く中で、弱さ、足らなさのゆえに、どうしても人を傷つけたり、人に傷つけられたりしてしまう。

悪意でなくとも、誤解や行き違いが生じたりする。完璧な人などいない。
不愉快な思いをしたり、被害をこうむる事がある。

それゆえ、日毎に赦し合う必要がある。赦しは、神との関係に直につながっている。人を赦さなければ、自らと神との関係にひびが入る。

そのように御言葉が言っている。「私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」。

ユダヤ人をかくまった罪により、ナチス強制収容所で姉を失ったコーリー・テンブームは、戦後、各国を回り証しし、御言葉を伝えていた。

ドイツで赦しの福音を伝えた。集会の最後に、握手を求めて人々が列をなした。その時、一瞬心臓が停止し、世界が止まったのではないかと思った。

姉を虐待し死なせた人物がそこに並んでいた。時間が止まり、心身が硬直した。赦しを説きながら、自分は絶対に赦せない。

一瞬、「主よ助けて下さいと」心で叫び祈った。「手を差し出しなさい」との主の御声を聞いた。自分には出来ない、しかし意志で主に従うべく重い手を差し出した。
その時、天から愛と赦しが降り注ぎ、抱き合った。意志を向ける時、神が働かれる。赦しが臨む。
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赦せないという肉の声と同時に、私達は、赦しなさいの神様の御声も聞くことが出来る。自分には絶対できなくても神様がさせて下さる事を信じ、委ねよう。


2009年02月02日(月)

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30



バプテスマのヨハネは、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」との通り、人々に福音を信じる用意として、悔い改めを説き、バプテスマを授けていた。

主もこのヨハネからバプテスマを受けられた。ヨハネは、主を「世の罪を取り除く神の小羊」と示した。そしてヨハネの弟子たちが「みなあの方のほうへ行く」と、自分達の師から、主イエスに人気が移って行く事を、寂しく思い妬んだ。

しかし、ヨハネは皆が主イエスに従うことを心から喜んだ。
悔い改めを説いたヨハネは、真に悔い改めた、へりくだった人であった。
そのような人は、自分が評価されなくても、軽く見られても心を騒がせない、動じない。

妬んだり、攻撃的になったり、自己憐憫に陥らない。
人の評価に関心が無いからだ。人々は「ヨハネがキリストか?」と思い、パリサイ人はそれを聞きに人を遣わしたほどだ。

このような評価を受けるなら、幾らでも自分に栄光を帰せる。
しかし、ヨハネはキリストではないと言明し、あの方は盛んになられ、自分は衰えなければならないと言った。

私たちの人生の目標は一つ。自分が衰えて行くことだ。自我が砕かれて、自分に死んで行く事。私たちはどれほど主に似ているだろう。
似ていないなら、あの方ではなく、自らが盛んであり、自らが主になっている事になる。
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自分が衰えて行くために、捨てなければならないものがある。御心がなりますようにとは言えない自我が、主の盛んになる事を阻んでいる。この御ことばを自分のものと出来ますように。


2009年02月01日(日)

「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」ルカ19:5

ある人がいつも自分を受け入れられないでいた。もっと優しかったら、もっと頭
が良かくて綺麗だったら、もっと素直で性格が良かったら・・周囲に愛されるの
に、こんな自分だからダメだ、と。

優しくない、素直でない、明るくない自分、自分が嫌いで、嫌な所ばかりが目に
ついた。自分で自分を何とかしようとするが、出来ない。素直になれない、優し
くなれない、ますます自分が嫌になる。

近づいて来る人に、悪態ついて、突っ張った態度を取ってしまう。当然、相手は
戸惑い、どうしていいかわからず、離れて行ってしまう。本当は友達になりたい
のに、相手を傷つけ、自分も傷つく。

そんな堂々巡りの中にいたある時、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょう
は、あなたの家に泊まる」との御言葉を聞いた。

ザアカイの名を呼ばれ、孤独で寂しい虚しい心の内を、知っておられた事、ザア
カイを決して裁かず、責めず、「あなたの家に泊まる」とザアカイを受け入れら
れた事を知った。

あなたの家に泊まるとは、あるがまま受け入れているとの愛だ。主ご自身の赦し
の愛に触れた時、ザアカイは悔い改めた。そして、貧しい人に施したいとの愛が
流れ出た。今まで決して貧しい人の事など思いに無かったのに。

ザアカイは変えられた。その人はザアカイと自分が重なり、主の愛を知った。主
はあなたの心の渇きをご存じで、目を留めておられる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
主は、ザアカイの心の中をご存じであった。どんなに寂しく孤独で、どんなに渇
いて、主を求めていたかを。誰にも言えない心の内をご存じで、受け入れて下さ
る方がいるとは、何という慰めだろう。