2025年12月01日(月)

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯した からですか。この人ですか。その両親ですか」ヨハネ9:2


何か問題が起きる時、必ず「なぜ?」という問いが心に湧き上
がる。登校拒否や、出社拒否や、様々な問題に出会す時、答え
を見つけたい、理由を探し出したい思いに駆られる。理由捜し
に必死になる。「なぜ?」「どうして?こんな事が」又、
「ああしていたら」「こうしていたら」違った結果になってい
たのではと、自分を責めてしまう。

又、自分が余りにも辛いと、耐えられず、自分以外のところに
原因を捜し出そうとしてしまう。犯人探しになってしまう。弟
子たちも盲目の人を見て、犯人探しをした。「この人が盲目な
のは、この人が罪を犯したからか、それとも両親のせいか」と。
しかし、主は「誰のせいでもない。神の栄光が現れるため」と
言われた。

私たちが人生で出会う苦しみが、すべて理屈で解明できるのなら、
それは人間の範囲内、人間の次元内で、人が神の下でなく、上に
立つ事になり、神を動かす人生になってしまう。しかし、全主権
は主にあり、人生で、時に「どうしてこんな事が」と思うような、
突如の苦しみを経験する。苦しく辛くてたまらない、わけのわか
らない所も通る。

だが、あれが悪い、これのせい、誰が、かれがと、犯人探しをし、
非難するのでなく、主の栄光が現われ、主の素晴らしさを知るた
め、との信仰に堅く立とう。どんな苦しみ痛みも、その事で、主
ご自身を更に深く知り、主のご愛を知る事とされる。
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まず原因を探し安心しようとするが主を認めなければ、何処にも
平安がないことをよく経験する。主を認めよう。主の御手から来
ている試練だ。この中で主がご自身を表してくださる。