2009年05月31日(日)

「なぜあなたは、兄弟の目のちりを目につけるが、自分の目の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3


主は正しいさばきをせよ、実によって見分けよと、識別と正しい判断は重要だ。
ここでの裁きは、自我から出る裁きのことだ。

「梁」とは屋根を支えるために、柱と柱の間に渡した横木だ。大きな頑丈な丸太
だ。「ちり」は目にすら見えないほどの極小のものだ。

他人の小さな欠点は見えるが、自分の目にある丸太は見えない。なぜあの巨大な
丸太が見えないのか不思議だが、自分中心に、自分の色メガネをかけた見方、判
断をするからだ。

自分は正しいと思い込むと、暗闇に入り、何も見えなくなる。自分の都合の良い
善悪の判断になる。アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた時から、人は神
によってでなく、自分で善悪を判断するようになった。

そのため、自分の目が曇り、偏見があれば、その目で見るものは、歪んで偏って
見える。すべて悪いのは相手で、自分は正当化して行く。そして、自分で気づか
ない。

しばしば、裁く相手と同じものが、自分の内にある。だからこそ強く反応し、反
発する。無ければ気にならない。裁いている相手の問題は、実は自分の問題だ。

「自分の目には梁があるではありませんか」人を裁くという大きな丸太がある。
「自分の梁には気づかない」自分を正しいとしているので、気づかない。

主は私たちを裁かずに、自らが私たちの罪を負い、十字架にかかり裁きを受けて
下さった。ここに救いと癒しがあり、この主の愛と赦しの中で、自分の梁に気づ
かされる。

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人には厳しく、自分には甘い、都合の良い二つの物差しを持っているので、なか
なか自分の梁が見えない。御霊の光、御言葉の光に照らされて初めて自分の梁が
わかる。梁を認め、悔い改める時、梁が除かれる。用いられる器とされて行く。