2010年01月31日(日)

「・・光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7

ある人が職場で辛い目にあった。上司が大変なワンマンで、上にはへつらい、部
下には横柄で、いつも怒鳴り、こき使って平気だった。日々、過度な要求を突き
付けられ、深夜帰宅の早朝出勤、余りのハードさに非常なストレスで、心身限界
に来ていた。

日毎の祈りと御言葉で何とか支えられていた。上司に過重勤務を訴えると、嫌味
を言われ、無視されるようになった。ストレスは高じて怒りが湧き、不満、過労
で、もう心が荒んで祈れなくなった。

御言葉も入らず、真っ暗な中で、もう何もどうにもならず、思わず助けを求めて、
主に叫んでいた。心の底からの叫びであった。御前に静まっていると、「他人を
さばくことによって、自分自身を罪に定めています」、御霊が心の中の罪を示さ
れた。

悪いのは上司、性格の悪い上司のせいで、自分は苦しいとしか思えなかったが、
心が辛くて苦しいのは、上司のせいでなく、実は「自分が」上司は裁いていたか
らだった。相手でなく自分の問題だ。

「さばくあなたが、同じことを行っている」だから、辛くて苦しかったのだ。上
司を罪に定めている、自分の同じ高慢が見せられた。それゆえ平安なく、心が辛
かった。裁き、怒り、憎む、自分の罪を心から悔い改めた。

その時、心が安堵と平安で満たされた。主との間が回復され、状況は同じだが、
自分の心に喜びが来た。相手でなく、自分の問題であった。

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どう見ても、相手が悪いとしか見えない時、相手のせいで、自分は苦しいと思う。
しかし、自分に平安が無いのは、裁きや敵対心や、怒りのゆえだ。相手に隠れて
気づかない。ここに気づく時、平安が臨む。