2010年02月28日(日) 「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27
ヨハネの弟子は、今まで師のヨハネにあった、皆の関心と人気が主イエスに向か った事をひどく妬んだ。しかし、ヨハネは違った。「人は天から与えられるので なければ、何も受けることはできない」と、すべての主権が神にあることを認め ていた。 神が与えて下さるものを受けるだけだと。他の人にもっと人気と関心が集まるな ら、それも主のなさる事であり、自分がどうこう言う事ではない。ヨハネは自分 に与えられた場所、地位、立場、能力をわきまえ、すべてにおいて満足していた。 人は、もらい泣きはするが、もらい喜びはない、と言われる。人の悲しみに同情 する事はできても、それほど、人の喜びを共にする事は難しい。同僚が自分をお いて、昇進して行く時、友人が入試に合格、自分は不合格、人が幸せそうにして いる時、そんな時、嫉妬心が渦巻く。 比較の中に生きているからだ。比較すると、必ず優越感か劣等感に陥る。高慢か ら来ていて、優越感も劣等感も同じものだ。劣等感があるから、優越感に浸りた い。優越感のその底に劣等感がある。ぐるぐる回っているだけだ。 比較から妬みが生じる。弟子たちの姿は私たちの姿だ。ヨハネは天だけを見てい た。「天」が鍵だ。だから満足と平安があった。横を見ている限り、あの人は、 この人は、とずっと比較の世界を放浪する。そこに全く平安はない。そこから解 放して下さる。 目を天に向けて、「行く所どこにおいても主を認め」よう。そうすれば道をまっ すぐにされ、どんな中でも揺るがない平安がある。 ・・・・・・・・・・・・・・ まず優越感や劣等感、妬みを主に告げよう。心を打ち明けて、自分の姿を認めよ う。その時、信仰を与えて下さる。自分にも同じように、最善をして下さると信 じれるので、自分にも時適って良いものを下さると、楽しみに安んじている事が できる。