2010年04月30日(金)

「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」ヨハネ4:4



主は、わざわざ迂回して「サマリアを通らねばならなかった」。それは、心が飢え渇いて救いを求めている、一人の女性に会うためであった。主は「旅の疲れで」井戸のかたわらに座っておられた。非常に疲れて、座り込んでおられた。

通常の旅行の日程を変更し、わざわざ遠回りし、身体もクタクタに疲れながら、多大な犠牲を払い、一人の魂を追い求めて下さる。サマリヤの女性は偶然、主に出会ったのではない。主が彼女を求められたからだ。「わたしに水を飲ませてください」とへりくだって頼まれ、会話の糸口を作り、個人伝道をされた。彼女の心の渇きに生ける水を与え、応えられた。

同様に、私たちも、主が追い求めて下さったから救われた。主に出会うまでに、色々な布石があったはずだ。不思議に主に出会うように、導かれていた。つまり、主が求めて下さったゆえだ。この、主が私たちを一心に求めて下さった愛が、救霊の愛だ。この愛に突き動かされた宣教師や働き人を通して、福音が全世界に宣
べ伝えられて行った。

困難な異文化の中で、又、難しい田舎伝道など、義務で出来ることではない。主のご愛に応えて、主から与えられた魂への愛だ。私たちも、魂の救いのために、働きたいと願う者に、主は主からの愛を下さる。遣わされた場で用いて下さる。主が追い求められた魂の救いに、私たちも用いられる。何と光栄な事だろう。
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伝えてくれる人がいたから私達も救われた。嫌な質問にも喜んで答え、主のご愛をそのまま与えて下さった。主の失われた魂に対する悲しみやご愛を自分のものと出来るよう祈ろう。そして主に用いていただこう。