2010年07月31日(土)

「父よ、みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」ルカ22:42


主が十字架にかかられる前に、ゲッセマネの園で、苦しみもだえて祈られた祈り
だ。汗が血のしずくのように血に落ちた。主には、主の思い「わたしの願い」が
あられた。

十字架の死が本当に必要なのか、生きてこそ働きができるのではと、あるいは思
われかも知れない。主なりのみ思いがあり、十字架を回避できるよう切に祈られ
た。が、祈りの中で、御心の通りにと、ご自身を明け渡し委ねられた。

マリヤも御使いから、みごもって男の子を産むと告げられた。唐突で、どんなに
戸惑った事だろう。「どうしてそんな事が?」ヨセフは?この結婚は?どうなる
のか。自分の将来は?これが知れたら、それこそ石打ちの刑であり、死だ。

しかし、マリヤはそれらすべてを神に委ね、自分の命を委ねた。「私は主のはし
ためです。あなたのお言葉通り、この身になりますように」。

私たちにも、突然の理解できない事態が起こる。思い通りにならない状況になり、
願った進路がふさがれ、自分の思いとは違う道に導かれる。病、リストラ、経済
的危機、対人関係、様々な苦しみが臨む。

肉は、不平不満、愚痴でいっぱいだ。しかし、背後の神を見て、すべてに神のご
計画があり、御心と受け止めて行く時に、それは必ず益とされ大きな祝福とされ
て行く。

「御心の通りに・お言葉通りに」は、神のご計画を信じて、目の前の事態を受け
止めて行くことだ。その時、自分が変えられ、神のみわざを見て行く。

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主は、「わたしの願い」があり、十字架を取り除けて欲しいと、そして「悲しみ
のあまり死ぬほど」だと、ありのままに率直に祈られた。底の本当の気持ちを正
直に言い表し、祈って行くなら、その主に受け止められた心は変えられて行く。