2010年10月31日(日) 「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから」Uサムエル16:11
「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから」Uサムエル16:11
人は、自らの非を認め、改めるということは、非常に難しいものである。決して 誤っていると思わないし、認めない。自分の行動を肯定して生きている。間違い を認める事は痛みを伴うので、自分の内で、言い訳し、自己正当化する。 又、あいまいにし、神に向き、自分に向き合う事を決してしない。逃げて、避け てしまう。ダビデ王が、息子アブシャロムの反逆に会い逃げる時、シムイがダビ デに石を投げつけ、嘲り呪った。 家来たちがシムイの首を跳ねましょうかと言った時、その非難と呪いは、罪を犯 した自分に対してのものであるから、呪わせよと命じた。すべてを主に委ねて 「主は私の心をご覧になり、今日の彼の呪いに代えて、私に幸せを報いてくださ る」と言っている。 ダビデは自分の罪をはっきりと認めている。そして、罪の結果である刈り取りを 受け入れている。蒔いたものは、必ず刈り取る。これに例外は無い。私たちは、 自分が蒔いたものを刈り取る。罪は完全に赦されるが、刈り取りをして行く事に なる。 非常に痛く辛い。しかし、神の刈り取りを受け入れ、従って行く事こそ、一番の 祝福の道だ。ダビデは神の御前に悔い改めたので、神との関係が、まっすぐで正 しかった。それゆえ平安であった。神との関係が正しかったからこそ、自分への 非難や攻撃も受け止める事ができた。神と自分の正しい関係が第一だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 神と正しい関係にある時、人からどう言われようと、立っておれる。自分自身は 平安を与えられているからだ。ダビデは、シムイを放っておくよう、呪わせてお くようにと言う事ができた。ダビデの平安を誰も奪う事は出来なかった。この平 安の中にいよう。