2011年05月31日(火)



「その人は高慢になっており、何一つ悟らず・・敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間ない紛争が生じる」Tテモテ6:4

高慢に陥ってしまうと、何一つ真理を悟れなくなると言っている。そればかりか、あらゆる事に疑いを持ち、そこから妬み、争い、悪意、猜疑心が生じると。それらは「高慢」から来るのであり、良いことは一つもない。対人関係の中に、高慢が入って来ると、プライドにこだわり、言葉にひっかかりが生じ、疑いが生まれ、不信感、疑心暗鬼になり、サタンの思うつぼだ。

そして、敬虔を利得の手段として行ってしまう。主のために、主を信頼してする、行ないのはずが、人の賞賛を得るために、自分を良い人に見せたいがための、行ないに変わってしまう。人に認められたい、人の評価を得たいという肉の思いで歩んでしまう。そうなると、人に目を移すと、そこに必ず高慢の根から生じる劣等感、優越感、妬み、争いに悩まされる。平安は失せ、人との競争になってしまう。

しかし「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道」とあり、御霊によって満たされていると、心に平安があり、人に認められること、人の評価を求める事の必要が無くなってしまう。その目は主を見ているからだ。主に明け渡して行くこと、御霊の導きに従って行くことによって、満ち足りた心が与えられる。
環境、状況に関わらず平安が臨む。神から離れて、自分で歩むことが高慢であり、自分で何とかしようとするので、そこに平安が無く、絶えず葛藤があり、争いが生じることになる。
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今のままで十分満ち足りていると思わせてくれるのは状況ではないと知ろう。自分の貧しさを知りありのままに主が必要を満たして下さると知っているから、いつも豊かに満ち足りておれる。