2011年07月31日(日) 「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへ の大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」 詩編84:5
「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへ の大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」 詩編84:5
私たちの人生に、悲しい事や苦しい事、理不尽な事、理解出来ない事が起きる。 それは、未信者でも、クリスチャンでも関係無く同じように起きる。しかし、違 いがある。それは、神を信じる人は、どんな悲惨な事、どんな苦しい事の中にも、 神を認めて行くことだ。そのまっただ中に神がおられ、神の愛、慈しみ、助けが ある事を信じており、そして、それを実際に身をもって体験して行く。 神を信じない人は、どんな奇跡的な素晴らしい事があっても、そこに決して神を 認める事は無い。ただの偶然にすぎない。そこの相違だ。信じる人は何を見ても、 どんな出来事が起きても、そこに神を認め、神の愛を認める。 それゆえ、どんな問題や悩みが来たとしても、神を信じているから、深い涙の谷 であったも、そこを泉の湧く所とし、その中に神を見、神に出会って行く。 苦しみがあっても、その内にいい事もある、というような事でなく、涙の谷自体 が泉の湧く所となる。何をどうして良いかもわからない、まさにどん底で、慰め や平安の泉が湧き上がる。そのどん底に神がおられるからだ。信仰とはそういう 事だ。 もし、思い煩いや、不安、恐れ、不満、怒りで心がいっぱいなら、神が飛んでし まい、神以外のものを頼り、見ていないだろうか。どんな苦しみの中でも、そこ が、泉の湧く所として下さる。神がそこにおられるので、湧き上がる平安や、御 霊の喜びを経験する。シオンへの大路にある人、心が神に向いている人は、何と 幸いなことだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・ この世界では、苦しみや痛みは、マイナスの事でしかない。不遇であり、何とか 避けて、除けて、逃れたいものだ。しかし、負の出来事がマイナスでなく、泉の 湧く所されるとは、何とそこに救いがあり、希望があることだろう。新たに主に 出会える。