2012年05月31日(木)

「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」マタイ11:6


信仰人生で、私たちがつまずくのは、どんな時だろう。よく考えると、「自分の」期待に、思いに、合わない時ではないか。とにかく「自分の」強い願い、思いがあり、それにそぐわない事で、つまずいていないか。自分に関係の無い事で、人はつまずく事はない。

「自分の」気持ちや、願いを、相手が受け止めてくれない時、「自分の」思い通りにならない時に、つまずいたと思う。そして、そんな神なら必要ないと、去ってしまう。「自分の」願いが叶えられないなら、用はない。偶像ならそうだろう。当時の、主の周囲にいる人々は、主を現世的、政治的指導者、絶対的権力を持つ王として、主を求めた。メシヤとして華々しく王位に着く事を。

しかし、現実的にはどうか。王になるはずの主が、当時、最悪の刑であり、極悪人がかかる十字架刑で死ぬなどと、到底受け入れられない。人々は自分たちの思いに合わない、主を捨てた。思い通りでなく、期待通りでなく、期待を裏切る主が腹立たしい。腹を立てた。

私たちもどうだろう。信仰人生が自分の思い通りに行かない、願いが叶えられない、その時につまづく。その時の軸が「自分」だ。自分の気持ち、自分の思い・・。その軸を神に変えてみよう。神のみ思いは?神のお心は?神はどう思っておられるのか。神を軸におき、その神に自分の心をそわせ、明け渡して行く。その時に、今までの世界とは違い、初めて神が見え、御心が見えて来る。
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自分の願いが強すぎると、願いに神を合わせたいとの思いに傾き、主のご計画もすでに備えられている祝福も何も見えない光のない毎日だ。すなおに神のみ思いを尋ね、自分の思いの外にある恵みを受け取ろう。