2012年09月30日(日)

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して は、イエスはこのようなたとえを話された」ルカ18:9


パリサイ人は極めて宗教的であり、道徳的な人々だった。外側は、
人に害を加えるわけでなく、姦淫せず、断食し、よく祈り、十分の
一献金をしていた。外側、大変立派な人物だ。しかし、心では自分
を正しいとし、人を見下していた。人と比較して、自分を量ってい
た。神に対してでなく、どこまでも人に対しての自分だ。そこに神
は無い。

人と比べての自分がすべてだ。人より優ると優越感、人より劣ると
劣等感に陥る。生涯、優越感と劣等感の間を行き来する。このパリ
サイ人は、神の前にいると思っているが、見ているのは、ただ、人
だけだ。あの人より自分はまし、この人ほど悪くないと、常に、人
と比べて自分を量り、自分の正当性を保っていた。

取税人は、どう見ても明かな罪人だった。ローマ帝国の手先となり
同胞から税金を取り立て、私服を肥やしていた。そんな彼には、た
だ神と自分しかそこになく、人の事など思いも及ばなかった。真に
神に向き合う時、自分の本当の姿が見えるので、罪が見える。見え
るので、悔い改めることができる。そして完全に赦される。

視点が神でなく、人に向いているなら、自分の姿はいっさい見えず、
暗闇の中だ。だから自分を誇り、高ぶるばかりだ。この箇所により、
パリサイ人は、何とひどい。私はこのようなパリサイ人ではないこ
とを感謝しますという、自分がいる。
肉はどこまでも巧妙だ。神に向いて、光に照らされよう。そこにい
つも救いがあり、自分が変えられて行く。

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主に向いて、御霊に導かれる時は、ただただ自分の姿が見えるばか
りだ。自分の罪が見えて、悔いくずおれる。そこに人はない。その
罪は赦され、きよめられ、心に平安があふれる。自分は喜びと平安
に満ちる。