2012年10月31日(水)

「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」ルカ15:31


財産を使い果たし、放蕩して戻った弟息子を、父親は大喜びで迎え、宴会を開いた。ここに兄息子が帰宅するが、この事態を耳にし、怒りで震えた。自分は今まで遊びもせず、我慢して、父のもとで懸命に働いて来た。それを好き放題して、金銭に困ると戻る、身勝手な弟のために宴会などと何事か。納得が行かない。怒りがおさまらない。遊びもせず、ずっと働いて来た自分は何なのか。

弟の帰還で、外側は真面目で忠実な、兄の本音があらわにされた。「戒めを破った事は一度も無い」兄は自分を正しいとする人であった。そして、その本音は弟と同じだった。「私には、友達と楽しめと・・」実は、世を楽しみたかった。「子山羊一匹もらっていない」その心は、不平不満でいっぱいだった。父の愛が全くわかっていなかった。父のすぐそばにいたが、弟と同じく、心は父を遠く離れていた。

激しい怒りで、喜びと楽しみの、宴会の家に入ろうともしない兄は、暗やみの中だ。しかし放蕩息子を、無条件の愛で迎えた父は、兄息子をも同じ愛で愛している。兄の反発した態度や言動を「いろいろとなだめてみた」、決して責めも、とがめもせず、受け入れている。そして、更に「私のものは、全部おまえのものだ」と。「いつもいっしょにいる」と。辛くしんどい思いで主に仕えているなら、まず今のままで、無条件で受け入れられ、愛されているところに立とう。
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放蕩三昧のあげく帰って来た弟は、悪のはびこる世で真の喜びを知らなかった。私たちは神の側でいつも交われ、心は満たされている。感謝しよう。ただの習慣になってしまわないように。