2014年01月31日(金)

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」Uコリント3:18



私たちは「主のために働きたい」「役に立つ器とされたい」という思いがある。しかし、そこでしばしば、キリストに似た者と造り変えられて行く「聖化」というより、自分の賜物がいかに用いられたか、どれだけの働きを成し遂げたかというような、目に見える「成果」を求める間違いに陥ってしまう。この世の価値基準が、目に見える「成果」だからだ。

この世では、職場ではどうだろう。良い動機があり、良いプランがあっても、結果を出さなくては意味が無い。結果を出すことがすべてだ。それを追い求めて仕事をしている。しかし、私たちが救われた目的は、主に似る者となることだ。生涯を通じて、主のかたちへと変えられて行くことだ。

又、私たちの内には、根深い肉の性質があり、それは自分が認められたい。自分が評価されたい。褒められたい。それは主の栄光でなく、自分の栄光を求める。肉は自分の力でやって行きたい。そして自分が認められ、評価される事が喜びだ。そこに神の栄光は無い。

キリストに似るという目的から的がずれる時、肉の性質がすぐにむくむくと頭をもたげ、自分の栄光にすり替わってしまう。今、自分はどうだろう。自分が求めているものは何だろう。主が十字架の死にまで従われたように、へりくだって、自分を捨てて、砕かれて、愛、喜び、平安、寛容・・御霊の実を結ぶ者にされることだろうか、それとも別のものだろうか。
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鏡のように主の栄光を繁栄させるためには、自分の栄光を積み上げようとする古い価値観に気づいて一つ一つ捨てなければならない。主の愛と恵みをしっかり受け取り、主の栄光をクリアに輝かせたい。