2015年08月31日(月)

「そこでイエスは言われた。『十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか』」ルカ17:16




十人のらい病人が、主に出会い、遠く離れた所から、声を張り上げ
て「先生、どうぞあわれんでください」と願った。すると、主は
「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と答えられた。十
人は、その時はまだ病気のままだ。らい病のまま、行って祭司に見
せるようにと言われた。彼らは、主の言葉を信じて、まだ身体はそ
のままで、直っていないのだが、エルサレムに向かって歩き出した。

すると、「彼らは行く途中でいやされた」。現状は何も変わらない
まま、ただ主の言葉を信じて、歩き出した結果、行く途中でいやさ
れた。ここで学ぶことができる。主の言葉を聞く。そして見えると
ころ病気のままだが、御言葉だけを頼りに、信じて踏み出すと、主
が働かれる。逆に言えば、「行きなさい」の言葉にそのまま従わず
に、直った事実を見てから、行こうとするなら、主の働きを見るこ
とはできない。

「信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確認
させるものです」の通りだ。そして直った十人の内の一人のサマリ
ヤ人は、祭司の所へ行く前に、まず主のもとに戻り、溢れる感謝を
献げた。他の九人は直った事に大喜びで家族のもとへ帰り、主から
離れてしまう。身体は治ったが、魂は救われないままだ。感謝を献
げたサマリヤ人は「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、
あなたを直した」と、主から、身体だけでなく、魂の救いを受け取
った。
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目に見えて良くなることだけが大切なら、また試練が来ると平安を
なくす。約束のものはまだ手にしなくても、主に信頼して従う信仰
を主に求めていきたい。