2016年05月31日(火)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18


律法主義は、外面的行ないゆえ、外側を懸命にうまく繕おうとする。
外側ばかりを気にすると、どうしても良い人を繕ってしまう。人の
目にどう映るかばかりが、気になって仕方がない。本当の自分では
なく、人の目に映る自分に注意が行く。良い人に、良い人に、見ら
れようと繕って行くと、段々、人に見せている自分が自分だと勘違
いして行く。本当の自分がわからなくなる。

実は、内側は罪でいっぱいだ。高ぶり、妬み、そねみ、憎しみ、偽
り・・、しかし外側を良く見せていると、その内側が見えなくなっ
て行く。自分は本気で良い人だと思ってしまう。御霊がそうでない
と示しても、受け入れなくなる。そうなると悔い改めもできない、
最も恐ろしい状態になる。

だが、御霊に導かれる歩みは、内側から変えられて行く。御霊は内
面を照らし出し、気づきを与える。「生まれつきの顔を鏡で見る」
とあるが、御言葉は内側を照らす「鏡」だ。鏡が無ければ、顔の汚
れはわからないように、御言葉の鏡により心の内の汚れが見せられ
る。見せられた一つ一つの罪は、悔い改めによって、赦される。

そのために主は十字架で死んで、よみがえられた。完全に赦される。
そして御霊によって歩んで行くなら、肉の欲望を満足させることが
ないと。肉の本能が無くなる事ではなく、依然として本能はあるが、
それを満たさない。絶えず御霊の導きを求め、御霊に助けられて歩
んで行ける。
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平安が無いのは人を羨み、妬んでいるからだと示されると主に悔い
改める。すると今の恵みに目が開かれ感謝がくる。羨ましさは消え、
祝福を祈れるようになる。いつでも外ではなく内からの恵みに生き
ている。