2017年06月30日(金)

「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」ルカ11:10


祈りは学校だと言われている。最初は、「あれを下さい、これを下
さい」「主よ、あっちに行って下さい、こっちに来て下さい」式祈
りだ。受験合格、商売繁盛、家内安全、無病息災・・自分の願望、
自分に都合良いものを求める。無いものを満たしてもらい、御利益
を求める。自分が安心するためだ。

しかし、信仰の初心者の頃は、それらにも答えて下さる事を経験す
る。振り返ると、よくわかっていなかった祈りにも答えられていた。
最初は、主との関係が変わっただけで、後は何も変わらず、今まで
の根深い価値観があるので、そうしか祈れない。それを主はよくご
存じで、とにかく祈りによって「主に向く」ことを教え、体験させ
て下さった。主に向く事が大切だと。

そして、段々と主との交わりが深められて行くと、幾ら祈っても聞
かれない祈りに、気づいて行く。答えられていないのでなく、答え
られている。「ノー」が答えなのだ。何でもかんでも、欲しいもの
を与えられるのでなく、必要なものを与えられる事を学ぶ。今、思
うと、必要なものは必ず与えられて来た事を知る。

そして、段々と、自分の思いはあるが、主のお心はどうか、何を主
は喜ばれるのか、主の御心に思いが至る。思考パタンが変えられて
行く。主の御心を求めて行く。御心を求め、約束を与えられた時に、
それを信じて行く「信仰」を求めるようになる。とにかく祈りによ
って、主に向いて行こう。主は、祈りを少しづつ〃教えながら、成
長させて下さる。
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主を信じた時、救われた喜びと同時に祈ることによって大きな力を
得たような勘違いの喜びも覚えた。何と傲慢なことだろう。叩き続
けたり、明け渡したりしながら主に整えられる祈りの時を喜びたい。