2017年08月31日(木)

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き・・」ヨハネ15:1


庭の木々や作物を育てる人は、せん定の大切さを知っている。時に
刈り込みをするなら、豊かな実を結ぶ事になる。枝や葉に余分な養
分が流れるのを防ぐので、その分が実に行き、立派な、たわわな実
がなる。同様に信仰生活においても、主は刈り込みをされる。出っ
ぱっている所を切り取られる。

それはプライドや虚栄心やわがままかも知れない。はさみで刈り込
むので、必ず痛い。苦痛を伴う。プライドが強ければ、プライドが
傷つく事態が起きる。それはあなたをへりくだらせるためだ。柔和
にするためであり、主が刈り込んでおられる。目の前にある痛い事
は、もっともっと豊かな実を結ばせるための、主からの刈り込みだ。

自分がどこに反応し、どの部分が痛いのか。そこが刈り込みの必要
な場所だ。もし刈り込みが無ければ、高慢で自己中心のままだ。思
い通りにならなければ周囲に当たり、又落ち込むだけの歩みを繰り
返す。又、進もうとしていた進路が閉ざされる事がある。

自分はその道が最善と思い、そこに進みたいのに閉ざされる。それ
も刈り込みだ。開かれた道から行けば良い。そして、閉ざされた事
が、後に、最善のご計画であった事がわかる。別の道が備えられて
いて、必ず豊かな実を結ぶ事になる。刈り込みが感謝だったと、後
の日に必ず思える。
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出会っている困難はもっと多くの実を結ぶための主からの刈り込み
と受け取りたい。なぜ、どうしてと混乱するより、根はしっかり主
にとどまっているのだからと安心して主から新しい養分を受けよう。