2018年10月31日(水)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17



神から遣わされた指導者モーセが、イスラエルの民をエジプトから
救い出すために、パロと掛け合う。神の様々な奇跡のわざにより、
災難と苦しみが臨むと、パロは「私は罪を犯した」「悪かった」
「私のために祈ってくれ」という一見悔い改めに似た言葉を発す
る。しかし、その災いが過ぎ去ると、再び頑なで強情な元の姿に
戻る。

これは、悔い改めではなく、心の底ではそう思っていないという事
だ。真の悔い改めなら、180度方向変換し、必ず実を結んで行く。
神は「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」に、しる
しを行なわれる。しかし、パロには、様々なしるしが、主が主であ
る事を知ることにはならず、脅しみたいなものであった。だからそ
の苦しい状況が退けば、再び強情になった。何も変わらない。

私たちはどうだろう。もし高慢に歩んでいたなら、へりくだるよう
に砕きの御手を、苦しみを送られる。これは神の愛であり、懲らし
めは愛だ。放っておかれる方が悲惨だ。しかし、その苦しみをパロ
のごとく、単に脅しのように取るなら、痛いので、確かに悔い改め、
反省し、自らを正すのだが、その苦しみが去ると、元に戻ってしま
う。そうであれば成長の無い古い自分のままになってしまう。何も
変わらず、真の悔い改めに至らないので、実を結ぶ事がない。

本当は自分は悪いと思っていないが、苦痛を回避したいだけか、そ
れとも自らの罪を認め、悔い改めているのか。真の悔い改めは、御
霊が与えられるので、必ず御霊の実を結ぶ。そして主の完全な赦し
を受け取るので、更に主の愛を知って行ける。悔い改める度に主の
愛を知れる。ありのままの心を御前に祈ろう。心の内を十分に照ら
し主の道へと導いて下さる。
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何度も失敗し罪を犯してしまう者だ。何も自慢できる捧げものはな
い。それも神は全てご存知で主の十字架のゆえに受け入れてくださ
っている。そこに希望がある。