2019年04月30日(火) 「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」Tヨハネ5:3
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」Tヨハネ5:3
私たちは誰しも、主に従って歩みたいと願う。そのため、職場で近 隣で、嫌な相手と遭遇すると「愛さなくては」「受け入れなくては」 と思う。嫌い、憎むと平安が失せて、気持ちが辛くなる。だから余 計に愛さなくてはと頑張る。だが幾ら頑張っても愛せない。愛そう とすればするほど、ますます嫌いになる。嫌な感情は無くならない。 平安も無い。 苦しくて祈る中で、肉で、自分の力で頑張っていると気づかせられ る。気づくのだが、又、自分の力で頑張っている。肉はどこまでも 強固で根深い。何度も同じ事を繰り返し、自分の力でやれば、やる ほど失敗する。やがて疲れ果れ果ててしまう。そんな私たちに、主 は「疲れた人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがた を休ませてあげます」と言われている。 幾ら頑張っても出来ませんと、主の前に認める時に、肩の力が抜け て、ふうっと心に安堵が来る。自分が頑張るのは、出来ると思うか らで、心の底では何とかなると思っている。出来ない自分を心底認 める時に、初めて不思議な平安が来る。主のもとに行く時「休ませ てあげます」の通り、肩の荷を下ろして、心に平安が広がって行く。 そして「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と。主 が共に負って下さっているので、決して重荷とはならない。主と共 に御言葉を行なって行ける。そこには御霊の喜びがある。疲れてい るなら、主のもとへ行こう。まず、ありのままを告げることから始 めよう。 ---------- 御言葉に従うことは良いことなので、疲れても頑張ってしまう。肉 の力に頼らなければ自分は終わりだと思っていないだろうか。主を 頼って重荷を預けよう。主を愛するありのままの自分でいよう。