2020年03月31日(火) 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」詩編32:1
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」詩編32:1
私たちが主を信じた時に、御霊の内住が与えられた。しかし肉が取 り除かれるのではなく、御霊の願いと肉の願い、新しい性質と古い 性質のどちらもがある。どちらもが私たちを引っ張る。激しい戦い を経験する。私たちはクリスチャンになったからと言って、自動的 に罪を犯さなくなるのではない。信仰生活は、オートマチックでは ない。 信仰が進むほど、むしろ罪がますますわかるようになる。以前は罪 だとわからなかった事が、見えるようになる。自分の罪深さをます ます知るようになるのは、御霊の働きだ。地上にいる間、二つの性 質が葛藤し、あらがいながら成長して行く。光があるから罪がわか る。暗闇の中で、黒点は見えない。光である主に近づけば近づくほ ど、罪がわかり、自分の肉がはっきりと見えて来る。 御霊により、初めて闇がわかる。ダビデは姦淫と殺人の罪を隠ぺい していた。その時は、「一日中うめいて骨々は疲れ果て、骨髄は、 夏の日照りのようにかわききった」と言っている。罪を隠して、認 めない心は苦しくあえぎ悶々状態だった。肉は強く、そこにサタン も働いてくる。牢獄に囚われの身だった。とうとう主の御前に告白 し、悔い改めた。 「あなたは私の罪のとがめを赦されました」。赦された安堵と平安 が心に広がり、踊り上がるような喜びを経験した。あれほど苦しか った心がすっきりした。闇が消えた。御霊は罪を示され、悔い改め る時、その罪は完全に赦され、自由にされて行く。そして主の似姿 へと変えられて行く。 -------------- 自分の罪に気づくのも御霊の導きなら罪を赦されたと教えてくれる のも御霊の導きだ。神の前に赦された、それ以上の安堵があるだろ うか。赦しという御恵みを受けて主を賛美して歩める。