2020年05月31日(日) 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、 神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」ヤコブ 1:12
「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、 神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」ヤコブ 1:12
「試み」という言葉は「試練」と「誘惑」のどちらにも使われてい る。しかし「試練」は神からであり、「誘惑」はサタンからだ。源 が違う。神は、誰をも決して罪に誘惑される事はない。断じて無い。 悪への誘惑は神からではない。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、 おびき寄せられて、誘惑されるのです」。 自らの「欲望」にサタンが誘惑を吹っかけてくる。魚が、えさにお びき出されるように、サタンは欲望に働きかけてくる。「試練」は 神より与えられるものであり、試練は決して悪いものではない。む しろ喜べと言っている。「試練に会う時は、それをこの上もない喜 びと思いなさい」と。試練は忍耐すべきものだ。そうする時、必ず 一段階、成長して行く。 試練は成長のためのものだ。それは成長を遂げた完全な者にされる ためとある。しかしながらその良いものである試練に向き合う際に、 反抗したり、屈折したり、疑ったり、不信仰に陥ったりするなら、 それは誘惑になってしまい、その結果、神から離れてしまう。向き 合い方いかんによってしまう。良いものに、サタンが働いて来て、 罪へと誘って行く。 試練に向き合う態度は大切だ。しっかりと受け止める時、成長が与 えられる。そして後の日に必ず良かったと思える。「苦しみに会っ たことは、私にとってしあわせでした」と言える。「それであなた のおきてを学びました」と。 ・・・・・・・・・・ 試練は、辛く、痛く、苦しい。そのままの思いを、気持ち、感情も 主に告げよう。洗いざらい告げて祈っていると、不思議に心が落ち 着いて来る事を何度も経験する。主が受け止めて下さっている。外 側の状況は凄まじいのだが、心の奥に不思議な平安が来る。