2021年06月30日(水)

「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って革袋に水を満たし、少年に飲ませた」創世記21:19



アブラハムは、奴隷ハガルによりイシマエルを得た後、サラが約
束の子イサクを出産した。するとイシマエルがイサクをからかい、
いじめるようになった。それを見たサラは、アブラハムに、イシマ
エルを追い出すよう要求した。アブラハムは、どちらも自分の実子
なので、非常に苦悩した。だが主に示され、それに従い、母子を出
した。

出された二人は、荒野をさまよい、食料も水も尽きた。ただ死を待
つばかりだった。この悲惨な絶望的な状況に、我が子を前に、どん
なに辛く、嘆きと苦しみだったろう。ハガルは、なすすべなく声を
上げて泣いた。その時、「神は少年の声を聞かれ」奴隷の子も、一
つの国民とすると語られた。主の助けの手が差し出された。

「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた」子供に
水を与える事ができた。その時に井戸が掘られたのでなく、すでに
あった。ハガルは井戸のすぐそばにいたのだ。そばに井戸があった
が、見えなかった。私たちも学ぶ事ができる。信仰人生で数々の困
難に出くわすが、問題が問題なのではない。見えない事が、目が閉
じている事が、問題なのだ。

ハガルが叫ぶと、主がハガルの目を開かれた。すると井戸を見出し
た。絶望、不信仰の中では何も見えないでいる。真っ暗闇だ。主に
向く事が解決だ。そこに光がある。目の前の状況と自分だけを見て
いた目を、主に向いた途端、閉じていた目が開かれて、解決への糸
口を見い出す。そうであれば、私たちの祈りは、肝心な事は、目が
開かれる事だろうか。すぐそばに井戸が備えられている。
----------
深刻な状況も、霊の目で見るならこの世は全く違って見えるのでは
ないか。主のあわれみが支配し、主の恵みは何物にも妨げられず確
実に備えられている。目が開かれ、よりさやかに主が見えるよう祈
ろう。