2022年01月31日(月)

「あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみ な増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そ ういうことがないように」申命記8:13



モーセに導かれイスラエルの民は、出エジプトを果たした。苦しい
荒野を経て、約束の地カナンを目指した。その約束の地に入ってし
まえば、信仰はもう必要無いのかというと、決してそうではない。
良い地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令を守って、そ
の道に歩み、主を恐れなさい」と。

神を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的
だからだ。ある婦人が子供が欲しくて、祈りに祈って、不妊治療に
も通っていた。どうしても欲しい、余りにも強い願望に、ある時、
主の恵みをもぎ取ろうとしている自分の姿に、愕然とし、悔いくず
おれた。このまま行けば、子供さえ得られるなら、手段は何でも良
い事になってしまう。

「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」とのサタンでも
よいという事になる。恐ろしくなり、心底悔い改めて、明け渡し
た。
その時に、心に平安が満ち渡った。しばしば間違ってしまう。信仰
を、自分が良く生きるための、何かを得るための、手段にしてしま
う。すると、すべてが的はずれになる。

自分の自己実現の手段、喜びを得る手段、問題解決の手段、それな
ら、自分の思い通り、期待通りでない時に、必ずつまずいて、主か
ら離れる事になる。何かを与えられようと、与えられまいと、主ご
自身を信じて生きる事、主を喜び、主を礼拝して生きる事、これが
私たちの生きる目的だ。
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主と共にある生活には喜びもあれば、主と共に苦しむこともある。
自分にとって喜こばしいものだけでなく、主ご自身を喜び、心か
ら礼拝して生きていきたい。