2023年04月30日(日) 「わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中 から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るように なる。」出エジプト7:5
「わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中 から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るように なる。」出エジプト7:5
主はモーセを召し出し、エジプトで苦しむ民を救う事を御心とされ た。モーセを用いて様々な奇跡をされ、パロが民を出すよう仕向け られた。そのパロは様々な災害に苦しめられると、「お前たちを行 かせる」と言い、災いが失せて苦難が止むと、「行かせない」と言 う。又、苦難が臨むと「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。 お前たちを行かせる」と言う。 「私は罪を犯した。祈ってくれ」と言い、一見、悔い改めに見える が、モーセの祈りで、事がおさまると、又、心頑なに強情になる。 口ではそう言うが、心の底では思ってはいない証拠だ。王であり、 最高権力者だ。すべてが自分の意のままに回って来たパロにとって、 主の奇跡は、単に脅しに過ぎなかった。脅しが無くなれば、何の問 題も無い。だから何も変わらず、元通りだ。 主の奇跡のわざが、主ご自身を知り、主のご愛や慈しみ、真実を知 る事にならなかった。私たちはどうだろう。試練は、ただ単に災難 であり、目の前の苦しみが除かれさえすれば、良いのだろうか。そ れならパロと変わりがない。そうではなく「わたしが主であること を、あなたがたが知るため」と。 様々な問題は、神が主であることを、私たちが知るために送られて いる。それは、主ご自身を知る時であり、又、内側が照らされる時 だ。悔い改めがあり、主のご愛と慈しみを経験し、きよめられ、一 段階成長の時だ。痛いけれど、「苦しみにあったことは、私にとっ て幸せでした」と言える。 ・・・・・・・・・・・・・ 問題や出来事が色々起きるが、無駄なものは一つもなく、主の支配 のもとで、主を新たに知るためである。その視点で、起きる出来事 を受け止め、見て行けるよう祈ろう。一つ一つの事柄を通して、主 を知れるよう、メッセージを受け取れるよう祈ろう。