2024年08月31日(土)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリ ストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4


教会で「信仰義認」と聞くが、善行によらず、信仰によって義と
認められる。しかし、根深い生れつきの、この世の価値観があ
り、頑張る事が善とすり込まれている。何かしなければ、行動
しなければ、怠けているとの罪悪感があるだろうか。又、人は、
じっとしている事が難しい。

動き回り、何かをしていると、安心する。動く事で、充足感、達
成感を得ようとするためだろうか。この世の宗教は、行ない
を要求し、難行苦行も求める。しかし、肉には、それが合致す
るようだ。「人間の教えと戒め・・は、人間の好き勝手な礼拝とか、
謙遜とか、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見える」と。

しかし「肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもない」。
そのため信仰において、主と雇用関係になってしまう。雇用主
に賃金をもらうために、時間と労力を提供し、報酬を得る。そこ
に行ないが不可欠だ。しかし主と私たちは、労使関係ではない。
つまり主は、私たちが何も提供できないのに、給料を下さって
いる。ただで無代価で。

これが恵みであり、プレゼントだ。プレゼントをもらう時に、お金
は払わない。苦行も、頑張りも必要なく、ただ主の贖いを感謝し、
信じる時に義と認められる。何と言う驚くべき恵みだろう。世の
価値観は言う。そんな甘い事だと、人は働かず、放縦に、わが
ままになると。しかし、それは無い。逆に、主の真実なご愛に触
れる時、義務でなく、主の愛に応えたく、心から従って行きたい
と思うからだ。

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この世の価値観があり、頑張ることが善、そうでなければ、怠け
ていると、とがめが来たりする。深く培われている。そこに向か
う度に御霊の気づきを与えられることが感謝だ。肉の頑張りでなく、
主への信頼の中を歩むように導かれる。