2024年11月30日(土) 「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだ も同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、 その信仰は弱りませんでした」ローマ4:19
「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだ も同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、 その信仰は弱りませんでした」ローマ4:19
アブラハムが75歳の時に、「生まれ故郷を出て、わたしの示す 地に行け」との召しを受けた。彼は、神に従い、カナンに向け て出発した。それはカナン人との戦いの日々だった。そして歳 月を経るが、子どもが与えられなかった。それで、しもべエリエ ゼルを相続人にと考えた。「子孫を下さらないので、家の奴隷 が跡取りになる」と。 すると主が「その者ではない。あなた自身から生まれ出る者が 継がねばならない」と語られ、主は、彼を外に連れ出された。 天を見上げさせ、子孫は、この星のようになると告げられた。 その時、「彼は主を信じた」とあり、神の約束を信じた。現に、子 どもはまだおらず、全く見ていない事であり、見えるところだけ を見るなら、到底受け入れ難い事だった。 しかしアブラハムは、神を信じた。神ご自身に信頼を置いた。 「彼は望みえない時に、望みを抱いて信じた」。望み得ない時に、 望みを抱くからこそ、信仰だ。目に見えないから「信仰」なので あって、見えたなら、信仰は必要無くなる。人間の五感による、 実感など、どこにもない。状況に頼り、感覚に頼るなら、信仰 は持てない。何も感じないからだ。目の前の状況から出る結 論は「不可能」で、不可能が答えとなる。 その望み得ない状況から、どうやって希望が湧き出るのか。 それは約束の御言葉だ。神が語られた言葉を、そのまま真っ 直ぐ受け入れる時、「彼の義とみなされたと書いてあるのは、 ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです」。私たちも、 アブラハムと同じ祝福にあずかる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 信仰とは、主が語って下さった御言葉を受け取ること、その 通りに受け入れることだ。御言葉が根拠であり、土台だ。 心に植え付けられる主の言葉を、そのまま受け取れるよう 祈ろう。そこに豊かな主のみわざを見せられて行く。